奈良県と愛知県の「反乱」

県民の健康について、画期的調査を断行したのは奈良県だった。
この調査は、医療機関と患者数のバランスを図るもので、毎年1回、厚生労働省へ報告されて、これを国がまとめて国策の基礎とする建前があった。

まだNHKに「まともさ」が残っていたとき、総合テレビの討論で、厚生労働大臣と日本医師会の副会長をコメンテーターとして、全国都道府県の担当課超級を集めた番組があった。

このときNHKの「仕込み」は、炸裂して、医師会はしどろもどろとなり、厚生労働大臣は身動きが取れなくなったから、視聴者には「NHKの快挙」にみえたのである。

しかし、この「快挙」をやったのは、奈良県の保険担当者であった。
彼らは、県の「基本政策」となる従来からのこの調査の根本を問題視して、数年をまたぐ「独自調査」に専念したのである。

よって、この間、奈良県は国に調査結果の提出をしなかった。
それでもって、番組前半は、省内の事務方から吹き込まれた大臣より、厳しい叱責が奈良県に向けられた。

大臣の叱責を待っていたかのように、その他の都道府県の担当者たちも、全国版が不十分なままになることに不満を漏らしたのである。
まさにこの瞬間、奈良県は、針の筵に座らされることになった。

そこで、司会者が、奈良県がこの間、何をやっていたかを取材しました、とさえぎって、VTR報告になったのである。

そしてなんと、奈良県の職員が、しらみつぶしに県内の開業医も含む医療機関全部を訪問し、患者とその疾患の状態をもとに、地図に落とす、という作業をしていた。
つまり、どの医療機関にはどんな病気の患者が、どの地区からやってきているか?の分布図を作成していたのである。

もちろん、医療機関には、県へのそのような「報告義務はない」ので、調査協力を断られる事例も多数あったという。
なぜなら、カルテの読み込みまでやったからである。

しかして、奈良県は数年をかけて、県内の各地における病気の状況と、専門医療機関の密度を確認することができた。
これぞ、この調査の本来的意味である。

新しく課長になった人物が、従来の「作文報告」に意味がない、と結論づけたことからの快挙なのだ。
その結果は、県民の病状に対応する医療機関の分布のズレが深刻だと確認できたことにある。

ただし、当時の県知事がどこまで承知していたのかは不明だ。

それで、政策的に、新規開業許可と廃業とのバランスを、分布図に沿うようにして、密度のギャップ改善を試みたのである。
もちろん、その効果は、時間とともに発揮されるのは当然だし、これが本来のこの調査の意味だ。

画面がスタジオに戻ると、司会者は畳み掛けるように奈良県の担当者に質問した。
調査の意義を説明しがらも、医療機関から協力拒否されたという実態は、医師会の協力がなかったという意味か?と。
そこで、担当者は即答して曰く、「はい、その通りです」。

さらに司会者は、前任まで「作文報告」をしていたことについて、他の都道府県についてはいかが思われますか?
担当者は、「こうした調査をやったと聞いたことがないので全国で作文報告をしているはず」と答え、スタジオが凍りついたのである。

容赦ない司会者は、前半で奈良県を非難した他県のひとに、「ご覧のような調査をされているのか?」ときいたが、誰も応えるものはいなかった。

そこで、前半に「べき論」を語っていた医師会代表に、奈良県医師会の態度についてどう思うかも聞いたし、大臣へは、「全国で作文報告をしている」のに、奈良県を叱責した大臣は、これら実態と報告書を読んだことがあるのか?と質問した。

結局、全国版の報告書を書き上げることだけの自己目的化していた実態を、大臣は認めるしかなかったのである。
おそらく、この大臣は、帰りの車で、担当官を怒鳴りつけたことだろう。

さてそれで、コロナについての対応も、奈良県は独特だったのは、こうした「過去の実績」の賜物であろう。

17日、中日新聞が、愛知県の驚愕すべき発表を伝えた。

「第7波」における、愛知県内の死亡者数は、「ゼロ」である実態があるにもかかわらず、「死亡原因を厳密にしないでよい」とした、国への報告と異なることに正式抗議した、と。
つまり、遺体にPCR検査を行なって、「陽性」であればコロナを死因として報告せよとする、「あれ」である。

この「あれ」とは、2020年6月18日に厚生労働省コロナ対策事務局が出した、全国「事務連絡」のことである。

これは、「統計法違反」の疑惑もあるから、本来ならば検察が動いて良さそうな「行政による犯罪容疑」だ。
また、法的根拠のある「通達」ではなく、「事務連絡」としたことに、高等行政官たちの悪知恵が見てとれる。

アメリカでは、FBIや司法省が、民主党の片棒を担いでいることで、かえって民主党員まで共和党へ鞍替えするような事態になったけれど、我が国では、国家行政の容疑を追求するのが「行政機関の検察=法務省」に委ねられている。

自民党が問題だけど、これに対抗する勢力が国家レベルで存在しない、つまり、「想定外」なのである。

奈良県と愛知県の反乱に、他の都道府県はどうするのか?
これが「地方の時代」の本当なのであった。

写真フィルムがない不幸

「昨日の電卓の話」でした、むかしから愛用のカメラを久しぶりに出してみたら、電池がとっくに切れていた。
幸い、液漏れはなかったので新品と交換した。

ぜんぜん問題なく作動しているから、なんだか急にこのカメラで写真を撮りたくなった。
たまたま、今週火曜から家内の夏休みに合わせた旅行を計画していたから、ちょうどよいきっかけになった。

ところが、どこにでも売っていた「写真フィルム」を購入する旅が、「まさか」の思いと共に始まったのである。

もちろん、フィルムが売れなくなって、あの世界の「コダック」が倒産したことはしっている。
エジプトに住んでいた40年近く前だって、カイロの街中にあった売店でコダックのフィルムは売っていたし、気の利いた高級ホテルの売店には「フジカラー」だってあったものだ。

「肌色」の発色が、フジカラーはやや青みがかっていたので、「サクラカラー」のフィルムをまとめて持っていった。
それでも足りなくなって、あんがいとドイツの「アグファ」のフィルムを使っていたのは、安かったからである。

カイロの写真屋のプリント技術がイマイチだったので、フィルムにこだわる意味が薄かったこともある。
だから、帰国してからだいぶ経って富士フィルムが、「100年プリント」を売りにした意味が、けっこう理解できた。

その富士フィルムも、思い切った「脱皮」を遂げて、写真フィルムメーカーだったのは、社名だけになった感がある。
「サクラカラー」の小西六も、カメラのミノルタと合併して、コニカミノルタになって、2006年にフィルム事業から撤退した。

個人的なことだけど、わたしが帝国ホテルを退社した年に、サクラカラーもなくなっていたのだと思ったら、時間の経過を感じざるを得ない。
つまり、すっかりフィルムを必要としない生活に慣れきっていた、という意味を実感したのである。

だから、急に「写真を撮ろう」と思いついた、というのは、これら企業の関係者には随分わがままで失礼なことでもある。
それに、デジカメで撮影した写真を、プリントしないでいることにも疑念を持っていなかった。

ハードディスクやらクラウドに保存した画像を、たまにモニター表示させたら、わざわざプリントの要もない。
そんなわけで、まずはいつもの「ネット検索」をしたら、大手カメラ量販店での通販がすぐさまヒットした。

しかし、それでは上に書いたように、旅行の出発日に間に合わない。
なにせ、急に思い立ったからである。
それで、実店舗に行くことにしたのであるが、そこには驚きの事実があった。

つまり、大型店といえども、店舗在庫が「ない」のである。

気を取り直して、我が家の近所にあるカメラ専門店に行ってみたら、「1本だけ」ポツンとあった。
店員さんに次回の入荷はいつかと聞いたら、「不明」との返事だったのは、最近になって急にフィルム需要が増えているからだそうだ。

もう新品のフィルム・カメラは販売されていないので、かつての「名機」が中古市場で「格安」に手に入る。
さすれば、フィルムがないと始まらないのは当然だ。

店員さんによれば、「写真の味」がちがう、というのがお客さんたちの「声」らしい。

もしかしたら、「シャッターを切る」あの機械音の手応えが、「たまらない」からかもしれない。
それが、「出来上がりの満足」にも影響しているなら、実に人間的な反応だとおもわれる。

その場でどんなふうに撮れたかが確認できないことも、もう不便ではなくて、現像の結果待ちがかえって期待にもなっているのだ。

すると、「写真とはなにか?」ということにもなって、フィルムの機能があらためて注目されるのも理解できる。
そこにまた、「選択の楽しみ」まであるのだ。
なんだか、クオーツに席巻された機械式時計の復活に似ている。

ただし、時計は時計職人が絶滅したわけではなかったけれど、カメラはほぼ絶滅して、中古市場ばかりなった。
もしや、ここに目をつけた「投資家」がいるかもしれない。

しかし、フィルムが絶えたら無用の長物になるから、ただ単に「所持するだけ」ではなくて、撮影してなんぼなのである。

わたしの父はカメラが趣味でもあった。
たまたま妹を撮ったポートレートが、「なんとか賞」を受賞して、深みにはまったとおもう。

晴海でやっていたモーターショーで、ダイハツの車を背景にわたしを撮った写真も、「なんとか賞」をもらった覚えがある。
本人は、会場の広さと混雑でくたくただったけど、それがおすまし顔になったようだった。

大枚かけたそのカメラも放置して置いてあるから、たまにはさわらないといけないと気がついた。
なにせ「ミノルタ一本槍」のファンではあったが、AF機能の「αシリーズ」には目もくれなかった。

フィルムを販売しているお店は、たいていプリントサービスもやっている。
印画紙にプリントするだけでなく、デジタル・ファイル化もしてスマホ転送サービスもあるという。

なんだか本末転倒のような、蛇足、のような気もするけれど、これぞ「100年保存」なのかもしれない。
まぁ、100年後に、スマホがあれば、の話ではある。

さてそれで、フィルムは36枚どりASA400で1600円程度だから、フィルム一コマあたり約44円だ。
これに現像代とプリント代が加算されるから、いまとなってはそれなりのコストである。

デジタルだと、コスト意識が薄れた分、写真のありがたみも減った。

一枚撮っては巻き取るごとに値段を気にしたことがなかった「むかしの当たり前」が、幸せだった時代を象徴しているのかもしれない。

新品で最高額の電卓は3万円!

人生でおもしろい「物」をみる機会が、減っているのか増えているのか?

生まれる前からあるならば、「生まれながらに」ということでのふつうだ。
たとえば、むかしいわれたのは、「テレビっ子」だった。
生まれながらにテレビがある生活が、ふつうにあることをいった。
そのテレビも、白黒テレビか、カラーテレビで「世代」がちがう。

もちろん、「テレビっ子」をいいだした当時のおとなも、おおくは「ラジオっ子」であったろうし、その前は「?」である。
明治36年(1903年)生まれの祖父は、アポロの月着陸ニュースに、「早く死にたい」と反応した想い出がある。

なんで?と聞いたら、「お月さんにはうさぎがいる、でいいんだ」とこたえたのが不思議だった。
月にうさぎなんているわけない、といったら、「だから早く死にたい」と。
いまとなっては、なんだかわかる気がする。

「お月さんにはうさぎがいる、でいいんだ」とは、なかなか深い。

そのアポロ宇宙船に搭乗した3人の飛行士が携行していた「電卓」が、HP(ヒューレットパッカード)の、RPN式電卓だったことは有名で、当時のコンピュータよりも信頼性があったのである。

もちろん、地球から宇宙に飛び出しすためには、たった3人の搭乗員でも、超大型ロケットが必要なほど、地球の引力を振り切るにはエネルギーを要するから、携行品のグラム数も厳密に考慮される。

それで、日本人が自慢にしていいのが、『ニコンFTN』という一眼レフカメラが採用された(1971年、アポロ15号)ことである。
この「名機」は、わたしも新品を1984年に購入して、いまでも健在で手もとにある。

レンズは当然、『NIKKORレンズ』だけど、写真が趣味にはいかなかったので、スナップショット用に「広角」を指定して、その他のレンズをあきらめたままで今日に至っている。
その後、『28Ti』というまた広角の高級コンパクト・カメラを買ったが、写真の出来は比較にならず、ただコンパクトなだけだった。

これから、デジタル・カメラの時代になって、スマホのカメラ化で専用機の影が薄くなる。
たまには、旧式で撮ってみたくなるけど、適当な被写体がみつからない。
それに何より、フィルムが手軽に手に入らない時代になった。

そのスマホのアプリが進化して、たいがいの機能が付加されたら、カメラ専用機よりも多機能になった。
たとえば、部屋の面積をしりたいときに、スマホなら距離計アプリがあるし、有料にすれば画像から面積あるいは容積を割り出す機能まである。

これを、不動産開発者やらの「専用」で、カメラ単体の高精度(プロ仕様)機能にして作ってくれないものか?と、とあるメーカーの担当者にいったことがあるけれど、「社内で却下された」といわれて残念だった。
CADとデータ連携したら、様々な建築設計に便利だろうに。

さて、いまの子供たちには「生まれながらにして」が、たくさんある。
テレビっ子以降での、そのはじまりは「家庭用ゲーム機」という画期があった。
いまは、まさに「スマホ」だろうから、隔世の感とはこのことだ。

それが、たかが十数年でやってきたからである。

わたしが人生でさいしょに驚いたのは、カシオの「電卓」だった。
8ケタで、四則演算しかできないし、液晶でもなく緑色の「発光表示管」だった。
1972年発売時の価格は、12,800円。

子供がとうてい安易に買ってもらえる値段ではなかった。
当時の大卒初任給は、52,700円といわれている。
たった2年後には、8,900円になって、これをいじらしてもらったのだ。
それでも、子供にはおもちゃにもならない高級品だ。

算盤と電卓の未来予測は、圧倒的に電卓の勝利が予想されて、じっさいに算盤は強烈な衰退となった。
とはいえ、実務での圧倒的「加算計算」では、やっぱり算盤の威力は半端ないので、算盤塾に行くのを拒んだ自分がうらめしい。

いまや電卓は、100均でも簡単に手に入るので、完全にコモディティ化したけれど、実務家が使う品質の機種は、発売当時の「まま」程度になっている。

スマホの無料アプリ、100均、それの100倍する電卓のちがいはなにか?

しかして一方、コンピュータになっているスマホの電卓アプリを、プロはめったに使わないけど、関数電卓という別分野では、SwissMicrosの製品がやたら高価(約3万円)なのである。

日本製では、世界ではじめて電卓を世に出したカシオのグラフ電卓『fx-CG500』が、約2万5千円する。
この「約」は、「日本未発売」のためゆえの「逆輸入」だからである。
ライバルは、アメリカの高校生必須アイテムの「TI製グラフ電卓」にちがいない。

 

前にも書いたが、「先進国」といわれている世界各国の「(小学校)算数」と「(中学・高校)数学」の授業で、教育用電卓を使うのがふつうで、日本のように「手計算」による国はない。

もっとも、日本が「先進国なのか?」といえば、とっくにそうではないから、電卓を授業に導入しない、というのは「非先進国」として当然ではある。

なお、利権優先の日本政府(文科省)は、世界標準を突き抜けて「単価の高い」パソコンを、とにかく普及させることに躍起になっていることも前に書いた。

そんなわけで、文系数学オンチが、おそらく一生購入しないだろう、3万円の電卓に、「なにが便利なのか?」をしらないままに死んでいく、を突きつけられているともいえるから、なんだか「無念」なのである。

機械にバカにされているとも、理系設計者のドヤ顔とも、とにかく敗北感があるので、意地になって購入して、その「取説の例題」に向かって、だからなんだ?と意味不明の悔しさをぶつけるのである。

世界新発売の1972年から50年。
この間の平均インフレ率を2%としたら、12,800円×1.02の50乗を関数電卓で計算すればいい。

答は一発!34,452円。
8ケタ四則演算電卓と、値段の価値はおなじか、まだ安いのだった。

やっぱり「空気」で決まる

重大なことが、「その場の空気で決まる」というのは、あんがいと日本人が自覚していない「日本人らしさ」のひとつである。

「その場の空気」だから、別の日や別の場所、あるいは別のメンバーだと、「別の空気」になって、前に決めたことと別のことが決まると「大迷走する」ことになる。

それで、「責任者でてこい!」となると、「空気」なのでだれも表にはでてこなくて、事務局が弁明してお茶を濁したりする。
これを、「日本的無責任」というけれど、責任者たちにはあんがいと自覚がないという特徴がある。

いつからこうなったのか?

誇り高い武士が治めていた時代には、良くも悪くも責任をとっていた。
その究極が、切腹だった。
「詰め腹を切らされる」理不尽もあっただろうけど、それはそれで遺族に補償があったし、なかったとしても庶民には関係なかった。

もしも、切腹ではなくて、「お役御免」なら、それは「武士を辞めること」にもなって、関係者には大騒ぎになる。
武士を辞めることとは、「扶持」を失うことなので、一族郎党が失業する。
「扶持」自体が相続対象だから、どんな下級でもお家断絶だ。

その意味で、「浪人」というのは気楽な稼業にはならない。
いまの学生が「浪人」するのとは、意味がちがう。
むしろ、政治家が「落選」してただのひとになることに似ている。

武士が「家」に縛られながら、「家」にしがみついたのは切実な現実があったからだ。
そして、武士には権力が与えられたけど、財力は与えられなかった。
こうして、「天道」としての政治は、必然的にその前提に「現状維持」があったのである。

だから、江戸時代の「改革」は、ぜんぶ失敗した。
現状維持の前提に負けたのである。
そうやって、社会の発展圧力と政治のバランスが崩れて、内部から崩壊したともいえる。

しかしながら、明治近代が完全なる成功を収めたわけでもない。
長く安定していた、「家」による縛りからひとびとが解放されたのではなかった。
これを島崎藤村が、『家』で描いたけれども、いまだに引きずっている。

つまるところ、日本人という人間は「家」という「社会」で生きている動物なのだ。
だから、「家」という概念よりも「個人」が先に立つひとたちとは、文化があわない。

けれどもだからといって、欧米人が皆「個人」を優先させているかといえばそうではない。
王侯貴族から新興ジェントル層といった、経済的に成功した「家」は、かつての日本的な「縛り」が生きている。

すると、「個人」を打ち出した、「啓蒙主義」の意味するところとは、いまさらになんだったのか?
ジャン・ジャック・ルソーがいう理想の、「アトム」とは?あるいは、個人のあるべき姿とした「アトム」のことである。

もちろん、「隠れ(共産)党員」といわれていた、手塚治虫の『鉄腕アトム』の「由来」のことだ。
鉄腕アトムは小型原子炉内蔵のロボットだから、「原子(アトム)」から名づけたのではなくて、最初から「個(アトム)」としての原子をもじったのだ。

これは、王侯貴族から新興ジェントル層といった、経済的に成功した「家」という、為政者側からしたら、被支配者の結束を解く(溶く)という意味で有用な「思想」なのである。

だから、対抗するための「団結」を説くことをはじめたが、その団結とは、「個(アトム)」の団結であって、「家」という社会の団結にはわざと触れないばかりか、「家」への再結束は「反動」だとして、かえって「アトム化」の推進をした。

つまり、「同類」だったのではないか?
あるいは、王侯貴族から新興ジェントル層といった、経済的に成功した「家」にとって都合のよい、プロパガンダが啓蒙主義ではなかったか?

そんなこんなで、「空気」がわが国を支配するようになったのは、明治の近代化が作り出した「同僚」という「仲よしクラブ化」による居心地のよさがあるとかんがえられている。

しかし、「これだけ」ではなく、さらに3つの理由が挙げられる。
・サンク・コスト(埋没費用)の処理にたいするまちがい
・「未解決の問題」への心理的重圧から逃げたい心理
・人事評価制度の欠陥

選挙になるとウィルスの感染力が弱まって、選挙が終わると猛威を振るうという現象にあてはめれば、「PCR検査の精度調整」という人為があるのでは?と疑いたくなるほどに、諸外国でとっくに「終了:収束」した病気が未だある状態でもいえないか。

それで、いつもの政府委員たちが集まって、なにやら「対策」を練っている。
この対策が、いったいなんの「対策」なのか?

上記事例にあてはめたくなるのである。

それでもって、やっぱり「空気」で決まるなら、それはそれで「空気感染」なのだとおもわれる。

だから、サングラスでも眩しい炎天下に降り注ぐ、凄まじい量の「紫外線」で、1秒すらコロナウィルスが存在できない「科学の知見」をもってしても、呼吸が苦しいマスクをしても、手が荒れようがアルコール消毒をしても、「感染者」という「PCR陽性者」が減らないのである。

こうしたことの原因は、「その場の空気」を「悪くしない」ための精神的努力であるからだけど、それは、決して強い精神ではなくて、「優しさ=弱い精神」だから、犬に首輪をせずにハーネスを装着するのが流行るという現象にもなる。

首輪が可哀想で、ハーネスなら苦痛がないだろう、と。

しかし、コマンドを入れることができないので、飼い犬をコントロールすることがたいていの飼い主はできないために、優しさが犬を不幸にしている。
そんなわけで、現代日本人の「弱い精神」が、社会にサイコパスをはびこらせ、サイコパスたちに支配されるということにも気づかないのだった。

その場の空気をコントロールできないのは、精神の弱さと、目的合理性の欠如なのである。

政治家リズ・チェイニーの爪の垢

16日(日本時間17日)、全米でもっとも人口が少ないワイオミング州で今回中間選挙の予備選で「最大の山場」となる選挙結果がでた。

それは、リズ・チェイニー候補の落選である。

彼女は、連邦下院共和党のNo.3で、ブッシュ息子時代の副大統領だった、ディック・チェイニー氏の長女という血筋からも、将来の共和党大統領候補にもなり得る人物だ。
その証拠に、前回の中間選挙では、70%の得票で「圧勝」している。

しかしながら、2020年の大統領選挙で、「トランプ離れ」を始めて、2021年1月6日の議事堂暴動事件の責任を追及する、下院委員会の副委員長にペロシ議長からの推薦を受けて就任し、「反トランプ」の急先鋒を務めることになった。

舌鋒鋭いトランプ批判は、共和党内でもっとも過激で、とうとう地元ワイオミング州共和党から「除名」されることにもなった。
なので、今回の共和党予備選出馬は、「無所属」から、ということになる。

このあたりが、予備選挙がない日本ではなじみがなく、また、どうして政党内の予備選挙に無所属で、しかも、除名処分を受けた人物が立候補できるのかも、日本的潔癖症からはかんがえられないことである。

もっとも、民主党も「無所属」のバーニー・サンダース上院議員が、2度も民主党大統領予備選挙に出馬して、2020年には党指名直前までの快進撃をしていたら、民主党本部から超高級別荘を受けとるかわりに立候補を取り消した。

彼の「凄み」も、支持者を前に、堂々と貰った別荘のことを披露してはばからず、立候補を取り消す理由として、「貰ってうれしい」とも述べたことにある。

これには、驚きを禁じ得ないが、これでバイデン氏が党指名を受けることになったから、さしものアメリカ人も懲りたかと思いきや、すでに高齢のサンダース氏が2024年大統領選挙の有力候補になっている。

要は、アメリカ人と日本人の「正直」の定義がちがうのである。
この意味で、どんな方法であろうが「勝てば官軍」を強くイメージしているのは、白人文明なのであった。

そんなこんなで、リズ・チェイニー氏は、除名されても選挙資金集めには余念がなく、候補者のなかでダントツの資金をもって臨んだ選挙だった。
さすがは、「RINO(Republican In Name Only:名ばかり共和党)で、資金提供者は民主党とおなじ大富豪が中心だ。

そして、彼女の戦略は、なんと州内民主党員に共和党へ鞍替えさせて、彼女に投票させるという「画期」があった。
日本だと住民票を移して、応援選挙区をテコ入れするのが問題になったことがあるけれど、発想がちがう。

しかしながら、ワイオミング州は、前回の大統領選挙で、70%がトランプ氏に投じた実績があって、そもそもが「共和党の州」なのである。
だから、共和党を除名された彼女に、今回ははじめから「勝ち目はない」のが、データでもしれる。

それでもなんでも、とにかくなにがなんでも、「反トランプ」なのである。

結局、トランプ氏が推薦状をだした新人の対抗馬が、40ポイント弱の差をもって圧勝するという「歴史的大敗記録」も提供した。
「敗戦の弁」においても、つぎは次回大統領選挙にトランプ氏を出馬させないために全力をつくすと宣言したのである。

これは、FBIがフロリダのトランプ氏別荘を捜査して、刑事事件の立件による「阻止支援」をいっているのだろうけど、合衆国憲法第2条第1節にある、大統領被選挙権の規定に、刑事被告人や有罪確定者の記載はなく、過去には収監中の人物も立候補している。

だから、なんだかチェイニー氏の主張はズレている。

軍産複合体を代表する「利権第一主義」が、かつては「共和党主流派」といわれてきた「名ばかり共和党」だし、いまでは民主党もおなじだ。
すなわち、共和党ブッシュ親子、クリントン夫妻、オバマ、バイデン一家のひとたちで、チェイニー父娘もバリバリの「利権保守」なのだ。

本稿では、この利権第一主義と、真っ向逆の「共和党トランプ派(国民第一主義)」が、どんな闘いをしているのかには言及しない。
ただし、徐々に「潮目」が、共和党トランプ派に傾いていて、すでに中間選挙の共和党トランプ派候補者のほとんどが、党内予備選を制している。

それゆえに、彼女の孤独な闘いが、妙に潔いのである。

もちろん、彼女は「旧態依然とした利権の権化」だから、そんな人物に投票しないのは有権者の多数として「当然」だという意見もあろう。
しかし、「前回」は、「圧倒的勝利」だったのだから、票が圧倒的に浮動しているともいえるのである。

果たして彼女は、信念のひとなのか?それとも、単なる頑固者なのか?

どちらにせよ、こんな政治家が絶滅した日本から見たら、彼女の爪の垢でも煎じて、わが国の政治家たちに飲ませたいものである。

参政党初提出の国会質問主意書

いかにわれわれが「政治に無知か」を知らしめることになったのは、この間の参院選挙期間中にも参政党がいっていた「質問主意書」の意義であった。

少数の議員しかいないミニ政党が、どんなに頑張っても無駄な抵抗ではないか?という「質問」に、彼らは「そんなことはない」と反論していた。
そもそも、街頭演説で聴衆から質問を受けるというのも、なかなかに新鮮だったので、良い意味で各党がこれを真似しだした。

その反論には、既存ミニ政党と報道への批判があった。
それは、「パフォーマンス」にだけ価値を見出して、これだけを報道することの「薄さ」をいう。

ミニ政党だから、「とにかく目立つ」ことが、次の議席拡大にいちばん重要だという認識は、優先順位としていささか不満が残る。
それに、報道は、「国会での論戦」というけれど、一般人がイメージする「本会議」では、ぜんぜん「論戦」なんてやっていない実情がある。

それは、「議場の設計」に影響されている。
いまの国会議事堂は、昭和11年(1936年)11月にできているから、当然に明治憲法下での設計だ。

新憲法が発布されて、「国柄」を変えたことになっていて、いまの憲法では「国権の最高機関」としての「国会(旧憲法では「帝国議会」といった)」だけど、旧憲法ではそうではなくて天皇に主権があった。

この「違い」は決定的なのに、内部設計をいじっていない。
つまり、国会議事堂の設計思想によって、いまも物理的制約を受けているのに、誰もおかしいとおもわないおかしさがある。

それは、論戦をするための設計ではなくて、ご意見を賜るための設計になっていることでわかるし、政府側の「ひな壇」における「序列」は、ソ連時代の赤の広場での革命記念日とおなじ方式なのだ。

議長席を中心に、向かって左側が序列1位の首相、次は議長席右側のひと、と左右を順にだんだんと議長席から遠くなる。

まん中のテーブルを挟んで左右向き合う「山形」のスタンド席になっている、英国議会の風景が妙に新鮮なのは、はなから「議論」をするための設計だからである。

その英国議会の議論の様子は、どうしたことかテレビ時代になっても、音声だけしか放送できず、テレビ局は「スケッチ」で画像にしていた。
1992年(平成4年)になって、ようやくテレビ中継が許されて、BBCは別途に「BBC Parliament(BBCパーラメント)」という、議会中継専門チャンネルを立ち上げた。

わが国の「公共放送」にはないチャンネルで、地方議会の中継もやっている。

さて5日、参政党が結党以来「初」となる、国会活動として5本の質問主意書を参議院に提出したと、党首となった松田学氏がツイート等で発表した。
その項目は以下のとおり。

1. 外国資本による国土買収
2. コロナワクチンの副反応や子供への接種について
3. ウクライナへの防衛装備品の供与及び穀物輸出等の支援
4. 咲洲メガソーラーなどエネルギー供給基盤事業への中国企業参入問題
5. 拉致問題

ふだん聞き慣れない「質問主意書」とは、議員が議員名で提出するもので、弱小政党にとっては国民代表としての大きな権利行使でもある。
議院での質問の回数や時間が、大きな与野党からしたら大幅に制限されるけど、書面による質問としての「質問主意書」に、提出本数の制限はない。

そして、政府からの「回答」(立法府からの質問に対する行政府からの回答)には、かならず「閣議決定」を経てのことになるのだ。
もちろん、国会質問におけるあらかじめ提出の「質問主意書」も同様に、閣議決定を経ている。

つまり、口頭か書面かのちがいにすぎないので、議員としては重要な業務といってよい。
なにも、ひとりだからといって、なんにもできない、ということはない。

もちろん、参政党は、政府からの回答書についても全部公表することにしている。
なので、ダラダラとやっている委員会中継をずっと観ているよりも、あんがいと効率がいい。

選挙中にもいっていた、「質問主意書をバンバン出す」という「公約」は、ずっとやるにちがいないから、なんだかワクワクするのである。

そんなわけで、「閣議決定」をするための「閣議」は、開始前に閣議室前に集まった大臣たちが懇談している風景をテレビに撮っているけれど、閣議室にはカメラは入れない。

国民として、いったいどんな議論がされているのだろうか?と期待できないのは、徹底的なる「サイン会」になっているからである。
つまり、内閣の事務局が用意した、様々な書類に、総理から順にサイン(花押:日本古来のデザインした毛筆サイン)を書きまくるのである。

だから、初入閣しそうだったり、急遽決まるかして、自分の花押を持っていない議員は、あわてて専門デザイナーに注文して、お手本をみながら練習しないといけないのである。

もしも、NHKが閣議の様子を中継したら、国民はその実態に驚き、かつ、なにをやっていたのかがバレるから、絶対に見せないのである。
また、よくいう「持回り閣議」とは、内閣事務官が各大臣のもとにおもむいて、書類にサインをもらうことをいう。

企業なら、「稟議」であるし、「持ち回り取締役会」ともいう。

なので、参政党の質問主意書が「バンバン」出ると、閣議が「忙しく」なるのであった。

6÷2(1+2)=?の大論争

答は、1なのか?9なのか?
これが、大論争になった。

計算の基本の最初は、おなじ式のなかに掛け算や割り算部分があれば、それから先に計算する。
だから、たまに、2+3×4=14を、20と答えるひとがいるのは、式の順のまま2+3=5に4を掛けてしまうからである。

次に、おなじ式のなかにカッコで括った部分があれば、その部分を先に計算する、がある。
上の例なら、(2+3)×4=?となれば、20が正解になる。

それで、「問題の」6÷2(1+2)=?はどうなるか?
算術としては、頭から素直に、6÷2=3を計算して、次にカッコのなかの1+2=3を前の3と掛け算すれば、答は9になる。

しかしながら、数学としては、カッコのなかの1+2=3を2で掛けて6を算出して、冒頭の6と割り算するので、答は1になる。
どうしてこれが、「数学として」になるかというと、「6÷2a:6/2a」としてカッコのなかをイメージするからだ。

そんなわけで、1なのか?9なのか?という、ふたつの答えに対する、自分が正しい論争になったのである。

さて、わたしは1だと答をだしたが、読者はいかがだったろうか?

ちなみに、前に書いた数式をそのまま入力する、TI(テキサスインスツルメンツ)の小学生用関数電卓『TI-30XB』とか姉妹機「XS」でやってみると、答は9になった。
ちゃんと「算術」をやっている。

日本製の数式入力式の関数電卓で、どんな答えになるのか?も、やってみると楽しいのは、設計思想がわかるからである。
スマホに入れている数式入力関数電卓では、1になったから、こちらの開発者は「数学」をやるようにプログラムを組んでいることがわかる。

ほんとうの「正解」には、どのようなルールで計算するかの「定義」を示さないといけない。
つまり、この混乱は、出題者の方に問題がある、というわけだ。
すなわち、2(1+2)の取り扱いについての「定義」だ。

しかし、電卓を購入する側は、その電卓がどのような「定義」でプログラムされているのかをあらかじめしることはできないので、計算結果のちがいに戸惑うことにもなる。

実務では、こんな単純な計算はあまりない、というよりも、四則演算が絡み合うような計算は、企業会計ではないだろう。
もしも、そんな計算をしないといけないなら、結構な注意がいるのである。

さてそれで、「定義」の問題は、実務では逆に重要だ。

なんの議論をしているのか?ということすら、白熱するとズレていることがある。
わたしの経験で、レストランのメニュー改訂会議をしていたら、サービス側と料理人側とで意見が真っ向ちがうことがあった。

どうも変なので、途中で議長役に質問したのは、いまやっている議論は、朝食メニューの話か?ランチメニューの話か?なにが対象なのか?と。
すると、参加者が皆笑い出して、なにを急にいっているのですか?といい、サービス側は「当然、ランチメニューです」といったら、調理側から笑いが消えたのである。

これは、「定義」というよりももっとゆるい「前提」のことではあるけれど、放置すると怒鳴りあいになるかもしれないほどだった。
あんがいと、「おとな」ほど、曖昧さを許すことがあるから、この場合は笑い話になって助かった。

しかし、こんな「すれ違い」は、世の中にたくさんある。

トラブルの多くは、たいがいが「よかれ」とひとり合点したことが原因だったりして、「悪意」が原因だということは少ないのが日本社会の特長だった。

「だった」というのは、もちろん、「過去形」だ。
いまは、政府すら国民には悪意によっているように見える。
おそらく、政策の前提や定義が、枕詞としての「国民のため」があったとしても、その「国民が誰か?」に狂いが生じているからだろう。

一部の業界人だったり、あるいは外国勢力の隠れ簔を着たひとたちか?

それでもって、政権が圧倒的な多数で維持できているのは、なんと全有権者からの20%から30%程度の得票での結果なのである。
つまり「棄権」が、この状況をつくっているけど、「棄権したひと」が自分のせいだとは認識していない。

あるいは、わが国の伝統主義としての「保守」を標榜しているひとたちがまつりあげている政治家について、その「素性」を語らないという不思議もまかり通っている。

ただし、最近になって一部のひとたちが「怪しい」と、指摘しているのは、その本人の「政見に関する」定義を試みた結果からの結論だというから、信用に足りるのではないかとおもわれる。

小学校で算数を習うのは、義務教育として本人が社会人になっても、生活上の計算ができることを目的にしている。
それが、中学に入ると数学になるのは、論理思考の訓練のはずなのだけれど、その説明を中1の最初の授業でいわない。

こうした「定義」の手抜きをやることが、非難されることもないのは、「目的がなにか?」という定義を曖昧にして受験に仕向けたいからだ。
そうやって、「定義」にこだわるおとなを作らないのが、「棄権」になって、小数なのに多数がとれる為政者に天国を提供している。

おなじ式の答えが1か9?には、こんな意味も含まれている。

意識と肉体を分化させると

幼児が不思議な絵を描いたうえ、その絵の説明で「輪廻転生」を語るのは、まるでチベット仏教でのダライ・ラマとかパンチェン・ラマとかの高僧を、「生まれ変わり」として選ぶときの話に似ている。

たとえば先代のダライ・ラマが亡くなると、全土に「捜索」が開始されて、生前の記憶がある幼児たちから「本人」を割り出す作業がはじまるのである。

さらに、似たような話として、前世は「火星人だった」という記憶がある幼児がみつかった。

これらの子供たちは、言葉が話せるようになってから間髪を入れない「質問」で発見されることもあれば、とにかく自ら「前世」を語り出すこともあるというし、それが特殊ではないのは、おおくの場合、幼児期までは前世の記憶があるとの研究もあるのだ。

成長と共に「忘却して」しまうから、おとなが聞くと驚愕するのである。
なぜならば、それがまた具体的で、かつ、幼児がもっている知識を超えているとしか思えない表現をするからである。

ある子の証言は、自分が死んで火葬されたとき、爪や髪の毛が透明になってしまうけど、そこから「魂」がでて空中を上昇し、星を目指す。
すると、その先にある雲には神様がいて、それは「今回」たまたま「阿修羅」だった、と。

その雲には「転生」の順番をまつひとたちがいて、望遠鏡で「母」を探して、自分で選んで母の胎内に入るのだという。
そのときの母の絵は、色彩がはっきりした着衣だけれど、聞いている本人が、妊娠時によく着ていた色の服だといって色めくのである。

まったくの他人が、このやり取りを不思議に思うのは、子供の口から出る言葉の「語彙」が、ぜんぜん子供の年齢とあわないことなのである。
これは、「火星人」だった子供の話も同様で、この子は地球人の寿命が短いのは、酸素を呼吸しているからだというのである。

一方の火星人は、二酸化炭素を呼吸しているから、体内が「酸化」されないために、地球人の10数倍も寿命がながいのだ、と。
それで、火星人は地球人よりも一世代で多くの知識を持つことができるから、科学の進歩も著しく高度だという。

実際に、20世紀まではひとりの「天才」が、大発見や大発明をして、人類史を変えることができた。
ニュートンしかり、アインシュタインしかり、ホーキングしかりエジソンもである。

しかしながら、彼らの業績の積み重ねの上に現代科学があるので、現代科学をひとりの研究者が大発見によって変えることは、困難になってきている。
それは、過去の業績を理解するのに、「天才的頭脳」でも、ざっと30年の予備的勉強期間を必要とするまでになってしまったからだ。

ところが、人間の「脳のピーク」は、20歳代だとわかってきたので、まったく追いつかないのである。
しかも、寿命が80歳だとすれば、50年間しか「研究の時間」がない。

そんなわけで、画期的発見には、寿命の延長という方法か、予備的勉強期間の圧倒的短縮という方法をかんがえないといけなくなっている。
この寿命の延長方法に、酸素呼吸をやめる、ということも含まれているというけれど、酸素があふれた地球では困難なのである。

もちろん、CO2の「脱炭素:Cを除く」をやれば、「酸素:O2」が分離されることになって、地上は酸素濃度を増して「酸化」するのに、それが「道徳」だというのは、やっぱり、マッドサイエンスだ。

太古の地球には酸素はなく、最初の生命も酸素を必要としなかったのは、そこに酸素がなかったからだった。
ところが、なぜか突然、光合成によって酸素を吐き出す「藻類」が海中に誕生して、億年をかけて海が酸素で飽和するとそれが大気に拡がった。

この時点で、酸素が猛毒にあたる生物が絶滅して、耐性をもったものだけが生き残ったのだった。
それから逆転して、酸素を必要とする生物ばかりになったけれども、元火星人がいうとおり自分の身体も酸化させてしまうから、寿命が短いのだ。

このときの超悪玉が、「活性酸素」なのである。
酸素が体内で、電子を1個失った状態が「活性酸素」で、周辺の分子から足りない電子を1個奪うのである。
これが、「細胞」からならば、そこに「傷」ができる。

その「傷」が、たくさんできたら、生体にはダメージになる。
だから、活性酸素を作らせない方法が、寿命を延ばすことになって、それが「脱酸素」になから、「脱炭素」と矛盾するのだ。

一方で、「テスラ社」やなにかと話題のイーロン・マスク氏は、脳から「意識」をとりだして機械にコピーさせる『Neuralink』社への研究投資でも有名なのだ。

すでに、彼本人が実験台になって、とりだした自分の意識と本人が対話することまで成功させている。

なんだかだんだん、映画『マトリックス』が現実化している。

あの話は、コンピュータが人間に反乱したという設定だったけど、現実は人間が求めてコンピュータとの連結を現実化させようとしている。
しかも、マスク氏が追及しているのはA.I.ではなくて、本物の人間の「脳」を利用することなのである。

脳に埋めこんだチップと通信すれば、念じただけで自動車を運転できる、と。

すると、わが国の内閣府が目標にしている「ムーンショット計画」も、この部類にあたるから、マスク氏と張り合っているのである。

人類の未来は、肉体がない「意識だけ」になるかもしれない。

しかしてこれは、マッドサイエンスではないのか?
それとも?

宗教弾圧とガーシー曝露砲

「檀家」としていえば、わが家の「お寺(菩提寺というほどの家ではない)」から、どうしたことか今年の8月15日は、「施餓鬼法要の中止案内」がやってきた。

どうしたことかというのは、昨年は2年ぶりに実施したからである。
いまさらだけど、今年の中止の理由がわからない、のだ。
もちろん、表向きも裏向きもなく、お寺さんとしては「感染予防」という世間体への大義名分があるのだろうけど。

こうしたことの「決定」は、当該寺院の住職による「職権」なのか?それとも、本山からの「指示」なのか?あるいは、本山への「報告事項」なのか?末端の檀家にすぎないわが家では、なにもわからないのである。

ちなみに、わが家の「お寺さん」は、本山の直轄末寺であって、県下における「宗務所」でもあるから、神奈川県における当該宗派の寺院は、ぜんぶ施餓鬼法要の中止をするのか?も気になるところではある。

なお、昨年には、「ウィルス退治の祈祷」をなぜやらないかと書いたのだったけど、もっと前に「宗教の復活はあるか?」とか、「宗教が死んだ日本に再生は?」とかと書いてきた。

わたしは自分を、「信心深いことはない」とおもっているけど、宗教は重要だとかんがえている。
だから、戦後の洗脳で、自分を「無宗教」というひとの「軽薄さ」は、なんだかなぁとおもうのである。

祖父母の時代より前の日本人は、総じて「熱心」な信仰があって、なかでも「日本教」という最重要を、戦後は「国家神道」として完全否定したのである。

これらが、みごとな「洗脳」であったのは、「日本教」にも、「完全否定」にも、どちらにも「共通」しているからややこしい。
ただし、「日本教」の「発明」なくして、明治以降の近代化も、戦後の経済復興もなかったとおもわれるほど、超重要なのである。

ここで注意がいるのは、戦後の経済復興(バブル前まで)を成し遂げた「人物たち」は、ぜんぶが「明治教育」を受けたことだ。
その後の「絶頂と衰退」は、国民学校世代以降のひとたちという「特徴」があるから、その「成果」のちがいに気をつけたい。

ならば、「日本教」とはなにか?
その本質は、天皇をキリストと同位置においたことによる、国民平等と自由の基盤づくりにある。
まさに、みごとな「倒置」を日本社会に埋めこんだのだ。

しかし、現実社会に「平等」はなく、しっかり「身分制」があった。
けれども、社会の「建前」として、天皇の下にある国民平等と自由のかんがえは、やがて自由経済体制の下地となったのである。

いやむしろ、下地とすべく発明したのだった。

その根本が、『五箇条の御誓文』と『教育勅語』にほかならないし、戦後とは、これらの「完全否定」なのである。
国民(臣民)は、天皇の「赤子(せきし)」としたことで、政府はサンドイッチ状態にもなった。

上のパンは天皇で、下のパンは臣民としたから、挟まれた政府は天皇の意向に従えば、自動的に臣民の声を聴かねばならないという、たとえ「架空」といえども言葉にした「言霊信仰の構造」によって、ほとんどの臣民は政府を信頼したのである。

この「惰性」が、いまでも続いているので、わたしは「慣性の法則」だといっている。
しかし、天皇の権威が戦後の「努力」によって、弱まったので、政府への信頼が揺らぐという、ブーメランが生まれてきた。

日本教の弱体化努力が、日本人の信仰心を限りなくゼロに近づけたために、たまたまのきっかけによって、特定宗教団体が「やり玉」どころか、反社的扱いとなったので、宗教弾圧がここまできた、とおもえるのである。

ちょっと前のむかしなら、他の宗教団体は、「自分たちとは関係ない」として、問題ある「新興宗教」への弾圧的攻撃をせせら笑う余裕があったろうけれど、いまのわが国にも通じるものか?と疑う。

それが、伝統的既存宗教の、施餓鬼法要の中止にもなっている。
一般的に、「お盆」というのは、「盂蘭盆会」のことで、原語の発音上の「ボン」を「盆」の字で表記しただけだ。
施餓鬼法要は、その中心にある宗教儀式である。

だから、施餓鬼法要の中止とは、まったくもってわが国伝統仏教の自殺なのである。

これを、政権与党を支持する各宗教団体に影響しないはずがない。

さて、この「タイミング」で、「ガーシー」が参議院議員になったこともつながってくるとおもうのである。
彼の「当選」を、「革命的」というひとがいるのは、外国に滞在したままで選挙戦を国内でやらなかったのに当選したことと、彼の「暴露」が票をえたということの2点をさす。

これぞ、「ポピュリズム」といわずしてなにをいうのか?

精神的、哲学的支柱を失った、現代日本社会の「顕在化」なのだ。
一方で、「参政党現象」なる社会現象もあって、両者は二分しているのである。
それが、ガーシーによる与党有力政治家の「下ネタ暴露」と、参政党がさっそく参議院に提出した「質問趣意書」の内容なのである。

参政党は選挙期間中も、「下半身は別」と訴えていた。
良き政治家の定義とその人物の下半身は別だということだ。
個人の性癖とかも含め、国民のための政治をするなら、下半身はあくまでも個人の問題だという主張である。

一方のガーシーは、この意味で「道徳的」なのである。
一国を率いる政治家たる者は、清廉潔癖でなければならない、と。
彼のいう「べき論」は、日本教があった時代には通じるが、いまでは単なる「ゴシップ」である。

だから、典型的週刊誌ネタの「文春砲」を文字って「ガーシー砲」といい、これをタダで見物できる大衆が喜ぶのである。

この「末法の世」の現実が、ガーシーの価値は、議会で1票の役割しかないタレント議員よりは「マシ」にみえる理由である。

堕ちるところまで堕ちれば、あとは上昇しかないから、いまは「墜ちるまで墜ちよ」という坂口安吾の言葉が頼りなのである。

思考させる教育と暗記させる教育

国家であれ企業であれ、はたまた個人の人生で、人材育成には、教育が必要だということに反論はないだろう。
しかし、どんな人材を育成したいからこの教育をするのだ、という「関連付け」ができていることの方が「稀」なのである。

これは一体どういうことか?

前に書いた「無能」が無能を再生産する「連鎖」が効いてくるのである。

ゆえに、このような組織は、なにも特定の企業だけではないけれど、組織のトップが自ら「教育に関与せず」、むしろ、担当者に「丸投げ」する傾向が高くて、その担当者が、組織目標の達成について強い意識を保持していればまだしも、これが抜けると「担当者の趣味」が反映されることになる。

それで、その担当者が無能なら、似たような組織やライバル企業でやっているから、とか、研修を販売している企業の「既製品」的な教育プログラムを、そのまま購入することが「業務」になって、パンフレットにある「目的・効果」もコピーして決裁書に貼り付けるのである。

そんな決裁書を決済する無能な上司は、自分の組織の目標もなにも意識しない無能があるから、部下がコピペしてつくったことすら「目的合理的」だと判断して判を押し、こんな無様をトップは気づきもしない無能がある。

こうした「連鎖」の背景にある共通点は、テストの点数だけで生きてきたことがあるので、「答がおなじ」ならばそれでいいのである。

このようにして、どんな人材を育成したい、が永久にないものを採用できる基盤が完成すると、その組織には「慢性的」に人材不足が発生する。
このことが、あたらしいビジネスを生みだして、いま流行の「転職あっせん」になっている。

「あなたのキャリが意外にも他社では高く評価される」

この「意外」なキャッチフレーズは、無能と有能の狹間で揺れ動いたひとへの「オファー」になるらしいけど、自分の評価を自分で出来ないのも、テストの点数だけでの評価の延長なのである。

それで、どんなデータをあらかじめ入力するのか?への思考が抜けていて、その程度の自分のデータだけをみてオファーをする相手先の無能を見抜くことができない。
あるのは、「年収」と「肩書」という「餌」しかないのだ。

すると、この程度の餌に釣られる人材を、採用する側はどうみているのか?となれば、そこにはもう、「ユニット」としての扱いでしかないので、むかしの「組織の歯車」よりも、もっと明快な「道具」として扱われることの無感覚がみてとれる。

そんなわけで、「教育」は、社会の根本的な部分を担っていると、あらためて確認できるのである。

さてそうであるなら尚更に不思議なのは、江戸幕府も平安朝も、国民教育を「放置」していたことにある。
律令制における「式部省(のりのつかさ)」配下にあった「大学寮」も、元から官位を持つものに入学を許された官員養成校でしかなかった。
ちなにみ、この式部省が「文部省」に名前を変えたのは、758年から764年の間だけだった。

なので、一般人の教育レベルは「高いはずがない」状態だったはずなのに、『万葉集』などの歌集に応募するひとがたくさんいたことは驚きに値する。
しかも、それは誰からの強制ではなくて、自主的だったろうから、もっと驚くのである。

結局のところ、身分制における上位だけに高等教育を施したともいえるけど、それがいかほどの「高等」だったかは、いまと単純比較できない。
それは、いまよりもしっかりしていた面があることは明らかだからだ。
しかも、寿命が圧倒的に短かったことも、考慮しないといけない。

だとしたら、やっぱりいまは、政府によって意図された教育がされている。
それが、暗記させる教育なのだから、余計なことはかんがえさせない、がその意図になる。

そうやって、周りからつくった各種制度のなかに国民活動を閉じ込めたら、政府の意のままに社会を誘導できるので、少しだけ自分でかんがえるひとは、その制度を利用するか、反発するかに二分する。

もちろん、利用する側が圧倒的な「お利口さん」であるから、これが社会の主流派となって、反発するものは「ばか」だとして脇に置かれる。
けれども、だんだんと政府の邪悪な意図が見えてきたら、ごくわずかだけれども「ばか」が増えてきている。

そしてこれが、民間のなかで広まり出すと、あんがいと強敵になってくるのは、自分でかんがえるひとたちだからである。
それがいま、「ナショナリスト」という括りになって、世界潮流になりつつある。

この理由は、政府の意図通りにしていたら、困窮化するのがみえてきたからである。
しかし、世界政府をつくりたい「グローバリスト」は、世界的飢餓をつくって、それをもって最終的な「支配の構図」をつくりたい。

なので、「貧乏」が、これからの対立軸の「接点」になる。
いうがままの貧乏に甘んじるか、反発するかだ。
そこに、民主主義という制度がどのようになるのかもあるから、世界は「政治の時代」になるのである。