アイン・ランドの正統資本主義小説

日本でほぼ「無名」という、驚きの評価をされている作家が、アイン・ランドである。

逆に、アメリカでは、聖書の次に読まれている、という驚愕の人気作家だ。

ところが、聖書の次に読んでいるのは、「一般人」というカテゴリーであって、特に、「資本市場関係者」や「起業家」で彼女の作品を読んだことがないひとを「処女」という風習まである。

ここまで「有名」なのに、日本人のなかで「無名」なのは、紹介者がいない、という「偏見」があるからだという。
その「偏見」とは、「学会」とか「学者」、すなわち「大学教授」たちの批判的思想にあるといわれている。

簡単にいえば、日米ともに「リベラル」が、正確には「進歩派=社会主義親派あるいは左派」が大学を牛耳っているからだと説明されている。

つまり、「彼女」は、「リバタリアン」としての評価が高いために、そっち方面からの批判の対象であるから、「紹介しない」という態度になっている。
これは一種の、自主的「情報統制」である。

一方で、紹介する側にも遠慮がある。
たとえば、「最も危険なベストセラー」と表現したりするのは、おそろしい「学会」に忖度している、つまり、「言い訳」をしているのである。
陰湿な妨害やイジメを避けるためであろう。

それでも、日本で恐る恐る紹介されたのは、FRBのアラン・グリーンスパン議長(当時)が、自らアイン・ランドの心酔者であることを表明してはばからなかったからである。

帝政ロシアのサンクトペテルブルクに生まれた彼女(1905~82)は、その後のロシア革命によって、家業だった薬剤店を国家に奪われてクリミアに逃れたのは、そこが「白軍」の支配地であったからだ。

日本とおなじで、「干支」もあるのがロシアだ。
それでかどうだか、「紅白」という色彩感覚もあるから、「赤軍」に対抗するのは「白軍」なのである。
ヨーロッパが「青」を基調としたがるのとは、やっぱりちがうのだ。

ちなみに、中東アラブ圏では、憧れは「緑」だから、それを国旗にしたりするけど、彼らが公文書でも愛用するのが、「緑色インク」なのである。
「墨」の文化から、「黒インク」がふつうの東アジアとのちがいだ。
ヨーロッパは、ここでも「青インク」を好む。

彼女は、無機質な「名前」を自分で考案した。

男女とも、どこの国籍かもイメージできないことに、そのペンネームの特徴がある。
なお、本人が自らを「保守主義者ではない」と否定していたのは、「無神論者」だったからだ。

ふつう「無神論者」は、共産主義だと認定されるが、「生い立ち」から共産主義を「憎む」ことになったから、その心情はなかなか複雑だ。

しかし、その独特の「資本主義礼賛思想」は、保守派から歓迎されて、とうとう「保守の女神」と評されるに至る。
「反共」ゆえのことだと単純評価できないのは、アリストテレスに影響された知的基盤がプラトンを反面教師にするからであろう。

その意味で、「保守主義」を否定した「自由主義者」のハイエクに近い。
なので、「リバタリアンの女神」が、正解なのだろう。

ところで、このブログで何度も指摘している、「新自由主義」の間違った「解釈」の「正体」とは、「わざと」なのだとかんがえる方が正しいのではないか?と疑うのは、上述した「学者たち」の策略だと思えるからである。

大衆一般を「ミスリード」する。
そしてそれが、憎しみや憎悪となって、大衆一般から「自由を無価値なもの」と思わせれば、知的優位にある学者の立場は安泰だ。

それが、国家運営の「ために」を装った、官僚たちと同様に、つまり、官僚たちはその内なる組織の安泰の「ために」する、国民からの収奪の分け前となって、とうとう金銭的なメリットさえも享受できるのである。

そんなわけで、リバタリアンがいう「反知性主義」とは、こうしたひとたちから、「自由を取り戻す」ことを意味する。
つまり、「みんなでバカになれ」というのが反知性主義ではなくて、知的権威の大学や、知的エリートに対して懐疑的な立場をとるものをいう。

そんな知的エリートたちが「宣伝」する、「資本主義の終わり」で、全体主義化を画策することの邪悪を排除するための、知的武器(ワクチン)がアイン・ランドなのである。

さて、彼女の代表作は、『肩をすくめるアトラス』(1957年)だ。

  

ジャンルとしては、いわゆる「ディストピア小説」となっている。
しかし、アメリカの「図書館」における、「分類」では、この小説は、「自己啓発書」になっているのだ。

さてそれで、彼女の発想に、マルクスは存在していない。

つまり、共産主義思想を「なかったこと」として、「資本主義」を深く考察しているのである。
ちうなみに、ハイエクはとっくに「資本主義」という「用語」を、マルクスが「創作した」と論じていた)(1963年「Capitalism and Historians」University of Chicago。

だから、物語での「労使対立」とかという設定には、マルクスの思想はなく、むしろ「マネジメントの失敗」として表現されている。

かくして、彼女は宣言する。
「資本主義はいまだ未完成なのだ」と。
だから、資本主義社会とは「未来社会のこと」だと結論づけている。

ならば、その「完成の条件」とはなにか?
「徹底した個人主義」がこれを可能にするという。
えっ?「利他主義」ではないのか?

ちがう。
「利他主義」には、持続性が保障されないばかりか、害毒である。
ハイエクも同様の論をもっている。

彼女やハイエクがいう「個人主義」とは、「個人の好き勝手」をいうのではなくて、「個人の尊厳重視」をいう。
自分の尊厳を重視するひとは、自ずと他人の尊厳も重視しないと生きていけない。

個人主義=好き勝手では「ない」からである。

利他主義には個人の尊厳重視が欠けているから、じつは個人としての「人間否定」が含まれているのだ。
これが、特に、日本企業の「ブラック化」の原因だ。

利他主義が「美しい」と思ってはいけないのは、個人の尊厳を重視することでのバランスをとることが、よほど重要だからである。
「感情」に訴えて、利他主義を宣伝するマスコミが「確信犯」である理由がここにある。

つまり、「強い」道徳・倫理が個人に要求される。
それが、「本来の」資本主義社会をつくるから、いまの人類には、まだまだ、なのである。

売国の日本政府はいつまでも

最初は無理やりでも、そのうちに「世代交代」すると、「存在意義」ではなくて「存在することに意義」があるようになる。

これも組織存続の、ひとつの「カタチ」ではある。

利益を出し続けないと存続できない民間企業ですら、自社の「創業の精神」を見失うばかりか、それを社内博物館に閉じ込めることだってある。
あるいは、「企業理念」を額にして、各職場に掲示しても、「神棚」とおなじように「拝むだけ」となれば、やっぱり形骸化するのは当然である。

高度成長期に、わが国を代表する企業が、こぞって「社歌」をつくって、これを毎朝始業前に全社員で歌っていたのは、外国人には奇異に映ったろうけれど、そうしないと「いけない理由」があったのである。

企業に就職した経験のない、早とちりの学者たちがしたり顔で「日本人の集団主義」とか、「後進性」とかといって欧米礼賛していても、創業社長はひるむことなく社歌を歌わせることをやめなかった。

なぜならば、戦争で生き残った日本人は、つまり戦争前の教育を受けていたひとたちは、欧米人よりもとっくに自立していたから、そうでもしないと「結束できない」日本的な個人主義があったからである。

だから、英国流の個人主義に辟易した夏目漱石は、現地で神経衰弱になって帰国しても、なかなか回復しなかった。

戦前は、工場労働者といっても「熟練工」ともなれば、好みの工場勤めが当たり前だったので、気にさわればどんどん転職して、「腕」さえあればそのたびに収入も増したのだった。

それが、戦後のアメリカ式管理体制が導入されて、「意地になって貧困化」したのがふつうに「映画に登場」して、こんどは「虐げられた労働者」にさせられたのだから、ものはいいようではあった。
げにおそろしきは、「熟練を否定」したオートメーションであった。

こうした職人たちを嗤うなかれ。
AIによって職を失う時代とは、人間が意地になることすら許されない、もっと冷徹なことになる可能性が高い。

しかしながら、「問題」はもっと深いのである。

それは、「業界選択」すら無意味になる、「資本支配の世界」が到来する可能性をいう。
株式会社の株式を寡占的に支配される、ということだ。
つまり、小口の個人株主(投資家)のことではない。

巨大な機関投資家、すなわち国際金融資本と呼ばれる、数百人程度のひとたちが、あらゆる企業の株主になることで、企業ごとではなくて、国家規模の経済体そのものを支配することをいう。

ついこの間まで、こんな話は「眉唾物」とか「噴飯物」といわれて、SF小説にもならなかった。
しかし、だんだんと「現実」の方が、小説よりもはやく実現しそうなのである。

むかしといっても戦後直ぐ(占領時代)の法学者は、GHQの意向に従うしかなかったとはいえ、欧米礼賛をしていた。
主権回復後も、これを改めるばかりか「開き直って」、あるいは、買収されたかして、もっと強く主張した。

わが国の最高学府のなかの「最高評価」の大学が、まっ先にGHQの支配下にさせられたのは、支配者にとってもっとも効率がいいからである。
それで、アメリカのポチ吉田茂をして、「曲学阿世の徒」といわしめたのは、「余程のこと」なのだ。

そんなわけで、いまになってもマスコミが「東大神話」を一層煽るのは、東京大学こそが「売国」の「司令塔」になっているからである。
なぜなら、この学校の卒業生が日本政府の中枢を独占するからである。

もうすでに気づきはじめたひとが増え始めてはいるけれど、コロナ禍を利用した「経済破壊工作」をやっているのは、日本政府そのものである。
その「用意周到」は、さまざまな「法律改正」によって、準備されている。

世界から、移民・難民を受け入れないことをわが国が名指しで非難されないのはなぜか?
とっくに大量の移民を受け入れているからである。

昨年の5月には、「500万人の受け入れ」を、「閣議決定」している。
その名目は、「マネジメント能力がある外国人に限定」という。
かんたんにいえば、「中華鍋が振るえて、料理屋が経営できる」なら、OKなのだ。

それから、「日本」をつけた名前の「外資信託銀行」が、上場企業の株式を大量に保有して、いまは「社名を変更」している。
よくいう「外資系」ではなくて、有名な「外資」なのである。

ロックダウンが無意味としれた欧米は、つぎつぎと規制を緩和しているなかで、なぜにわが国だけが無意味としれた「まんぼう」を継続しているのか?といえば、経営継続をあきらめた日本人から、「居抜き」でマネジメント能力がある外国人に店を売らせるためしかない。

目標軒数に達するまで「やる」のだろう。

むかしの法学者がそうだったように、いまは経済学者が「外資導入」による日本経済復活を唱えている。
わが国の経済は、「資本不足」が原因で生産性があがらないと「理論」立てている。

ならば、どうして企業は「内部留保」を溜めこんでいるのか?
内部留保とは、資本の増加にほかならない。
それでどうして、「資本不足」なのか?

問題は、すでに主要企業の株主の大半が「外国人」になっていて、日本人従業員の賃金増よりも、まず内部留保にさせて株主資本を高めているのである。
そうやって、「株高」になればなおよい。

つぎは「為替」で、ドルに換金するタイミングをどうするかの攻防になる。
ただし、円安になること必定なので、しばらくは「日本(企業)買い」の時間なのである。

これを、「法的」に支援しているのが、日本政府なのだ。
なんと日本人は、生きたまま「料理」されている。

心理的免疫のつくりかた

現代は、すさまじい「プロパガンダ合戦」が行われている時代になった。

すべてが「情報戦」の様相を呈するのは、ふだんの何気ない「コマーシャル」を応用しているからである。
けれども、おおもとは、プロパガンダの応用がコマーシャルだったのである。

むかしのひとには「教養」があったので、ラジオすらない時代の新聞にも欺されなかった。
その証拠に、新聞記者のことを「聞屋」と呼んでいて、作家を「売文稼業」ともいっていた。

わが国の新聞は、「瓦版」が発祥だというけれど、どうしてこれを「よみうり」と呼んでいたかといえば、娯楽としての「ゴシップ」を楽しんでいたからである。
だから、とうてい「新聞」とはいえなかった。

いま、わが国で一番売れている新聞は、やっぱり「読売」だ。
「スポーツ紙」におカネを出して買うことの意味が、いまだによくわからないのだけれども、それは、「読むべき記事がない」ことに尽きるからである。

そうした目線で、たまに飲食店に放置されている「読売新聞」をみて驚くのは、やっぱり「読むべき記事がない」ことに気づくからである。
けれどもこれは、「全紙」にいえることだから、特段、読売新聞が悪いということではない。

野蛮な欧米との文化的「格差」で、日本人のたいがいは「読み書き算盤」ができたから、読み書き算盤ができるはずもない欧米一般人とは、ぜんぜん「レベル」がちがったのである。

にもかかわらず、欧米人の方が優れていると、21世紀のいまだに勘違いしているままなのである。
この勘違いの原因は、二つあると思う。

一つが、いち早く他の民族を奴隷化した植民地からの収奪で得た、金ピカの経済力だ。
もう一つが、その余裕から投資できた、科学技術の進歩であった。

アヘン戦争でボロボロにされたのが、黒船を建造する科学技術の「格差」だと思いこんだことの、ボタンの掛け違いを発端とする。

これを、「洗脳」とふつうはいう。

その「裏」にある、日本人からしたら「異常な貪欲さ」に気づかずに、不平等条約を結んでしまったのは、「武士に二言はない」という常識が、あろうことか「進んでいる」はずの欧米人には「微塵もない」ことに気づかなかったからである。

それでもって、「欧米化」してみたら、現代日本人エリートにも「武士に二言はない」が微塵もなくなったのである。
けれども、「庶民」ほど、この美徳が残っているから、これを知っているひとたちは、平気の平左で利用するのである。

だから、よろこんで出した「支援金」を誰が何に使うのかには興味がないなら、かなり「やばい」ことだと反省したいものだ。
8日、15万人の日本人が、40億円を越える支援を在日ウクライナ大使館の「特設口座」に入れたことがわかった。

もしや、「武器購入費」になるかも?とは、おもわないのは「平和ボケ」か?
正義の満足感に浸るのはご自由だけど、それが「ネオナチ」への支援だと気づかないのはいかがなものか?ということも、微塵も疑問に思わないなら、プロパガンダの見事な勝利といえる。

きっと、「マスク警察」をやったのは、こうした「善男善女」にちがいない。
肝心要の、「喧嘩両成敗」を忘れた一部の日本人の「哀れ」がここにある。

さてそれで、どのようにして人心を把握するのか?が、プロパガンダを含めた「宣伝」の基礎情報を求める原動力である。
その最大の成功事例が、アメリカを湾岸戦争に駆り立てた、「ナイラの証言」であった。

時代は、父ブッシュ政権のときである。
共和党とはいえ、軍産複合体の代理人一家なので、民主党クリントン政権、オバマ政権、それにいまのバイデン政権との「お仲間」だ。

1990年10月10日、連邦議会人権基金という「非政府組織」(委員長は民主党・共和党議員の二名共同)において、15歳のクェート人(亡命)少女「ナイラ」が涙ながらに訴えた「証言」が、アメリカ人の「正義の琴線」に触れたのである。

それは、彼女が最年少でボランティア活動をしていた病院に、イラク兵が突入し、保育器にいた新生児をつぎつぎと虐殺した、という話だった。
すなわち、突然クェートに侵攻したイラクが悪い、ということの、決定的な「証拠」となったのである。

大統領もこの証言を「何度も引用」して、とうとう「湾岸戦争」になったから、その「引き金」となったことで歴史的意味をもつ。

さてその後の、「調査」で、この少女は、駐米クェート大使(王族)の息女だったことが判明して、生まれてこの方、一度もクェートの地を踏んだことがないこともわかった。
なお、「証言」では、父親の大使も同会場に他人を装って出席していた。

まさに、歴史を創った「茶番劇」の「悲劇のヒロイン」だった。
当然だが、ナイラとは「偽名」であって、大使の娘であることは、「極秘」扱いでもあったのだ。
肝心の病院での新生児「虐殺」の証拠は、やっぱりどこにもなかった。

息子大統領が言った「大量破壊兵器」がなかったことも有名だけど、親子揃ってついた「うそ」に一切の「責任」をとってはいない。

そして、「仕掛けた」のが、「広告宣伝会社」だったのである。

もちろん、会社にはクェートからたんまりの「報酬」が支払われていたこともわかったのは、「カネの流れ」からの動かぬ証拠だし、「ただ」でやれる「仕事」ではない。

さらに、この広告宣伝会社は、調査協力者となったテレビ視聴者に、ある「端末」を配布して、これを握りながら視聴するように要請していた。
こうして、人間の「反応」をモニターしたのである。

クライアントには、どんな単語やフレーズが視聴者の反応を得たかを分析するサービスをしていた。
こうして、「効果がある言葉」を収集してもいた。

いまは、腕時計型の端末とか、スマート・スピーカーを、消費者が自分で「購入してくれる」ようになって、それがコスト削減になっている。
それをまた、「ビッグデータ」と呼んで、あたかも「無害」の宣伝をしている。

まずは、こんなことをしているのだと知っていていい。

それから、ネット検索や、ネット購入する書籍にも注意がいる時代になっているのは、自分の好みに沿った情報や書籍が、「お勧め」にでることにある。

一見、便利なのだけど、ヘビーユーザーほど、推奨してくれる情報や書籍が「特定範囲」に絞り込まれる弊害がうまれるのだ。

なので、なるべく、自分の趣味ではない情報や書籍に「いいね!」をつけることで、これを、「防止」できる可能性が高まるのである。
おおくの場合、相手がアホな「AI」だからである。

最初はストレスになるかもしれないが、特定の情報しか見えなくなることの「損失」のことをかんがえれば、「耐性」をつくらないといけないことになってきている。

これが、「心理的免疫」になるのである。

ロシアから石油は買います

決断しないひと、として定評ができつつある岸田総理だけれども、「ロシアから石油を買うのが国益」と言い放ったのは、近年歴代のなかでの「快挙」である。

もしや、その主たる理由が、永久凍土の下の「掘削技術提供」していることの「見返り」として得ている、石油を半分貰えること、について、財界から「泣き」がはいったとしても、だ。

サハリンにおける油田から、エクソン・モービルなどの「国際石油資本」(じつは「国際金融資本」と同じ穴のムジナ)が撤退するのを「全部買収する」くらいのことをやってもいい。

ついでにいえば、アメリカが「アラスカ」を買収したように、北方領土だけでなく、樺太からサハリンまでを買収して領土にするくらいの提案をしてもいい。

このとき、日本領ではあるけれど、当概地を軍事的緩衝地帯(非武装)とする旨の協約をしてもいいのだ。
そのかわり、海上保安庁の巡視船は配属する。

「二酸化炭素取り引き」という「証券化(金融商品化)」された「欺瞞」で、2兆円を意味なくロシアに支払ったことからすれば、数兆円をもって領土を購入するのは、ずっと「国益」にかなうし、未来の日本人のためになる。

支払余力があるいまのうち、がチャンスなのだ。

いま居住しているロシア人は、そのまま「特別在住者」にすればよく、希望者には日本国籍を付与する措置をしてもいい。
わが国は二重国籍を認めていないけど、政府が得意な「特区」に指定すればいいのである。

なお、戦後わが国の「良い子」ぶりから、いまのところ「世界最強」という評価なのが、「日本国旅券(パスポート)」だ。
これは、「査証(ビザ)なし」で渡航できる国が、世界最高数にのぼることをいう。

だから、「あくどいひと」も欲しがる、ということからの、「闇市場」すらできている。
外国旅行で日本人が狙われるのは、金銭ではなくてパスポートなのである。

日本になる、ということの意味には、「戸籍ができる」という意味がある。
購入した「新地」にも、当然ながら「戸籍ができる」ので、戸籍の威力を知らない外国のあくどいひとたちは、戸籍ができる「まで」の期間しか、不正ができないことも知らない。

なので、できるだけ速やかに「戸籍をつくる」作業をしないと「いけない」のだ。

そこで問題になるのが、「新地」はどこの自治体管轄にするのか?ということになって、旧自治省の官僚は、「直轄」を目論むかもしれない。
それでもって、「マイナンバー・カード」も強制取得させる。

でも、実際の窓口実務を知らないから、上級職にはできない。
都道府県もできないから、結局は、市町村職員の戸籍課にいる誰かを呼んでこないといけないのである。

そうなれば、全国の市町村に「入札」させて、「新地」をどこかの市町村の「飛び地」にすることがかんがえられる。
そうなると、自動的に「上位団体」となる、都道府県のなかに組み込まれるから、この入札は、ちょっと複雑な様相を呈する。

そこで、「政府直轄」としながら、市町村職員の誰かを国家公務員(総務省)に「出向」させる、ということが予想されるのである。
すると、警察や消防もおなじパターンにできる。

もう一つ、日本になる、ということの意味には、「円流通」がある。
だから、日本銀行の支店と日本の銀行が支店をつくるか、現地金融機関を買収するくらいのことをやることにもなる。
お札を輸送するために、運送会社も必要だ。

さて、樺太やサハリンを領有するわが国のメリットは戦略的にも計り知れない効果が期待できるのは、「台湾危機」への「保険」になるからである。

中東の石油はもちろん、東南アジアや豪州などの「南方」からの物資は、ぜんぶ「台湾海峡」を通過している。
これに「北極海ルート」をつくることは、重大な「生存」に関わることだからである。

しかして、はたして台湾は大丈夫なのか?

ほんとうは、もうとっくに台湾は「あちら側」にある。
1950年(昭和25年)1月、トルーマン政権の国務長官アチソンが演説で、「アチソン・ライン」を提示したのである。

これは、「冷戦期」における、アメリカの「絶対防衛ライン」のことで、なんと、台湾と朝鮮半島は、「あちら側」になっている。
「こちら側」は、北方領土を含む日本全土とフィリピンだ。

すなわち、現実の国境がどうであれ、政治家や財界が「あちら側」と血脈を通じていれば、それはもう「あちら側」と同然なのである。

すると、台湾の政界と財界は、ほとんど最初から、つまり、「中華民国成立時」から、あちら側なのであって、現政権もそれは「おなじ」と観てよい。

蔡英文氏は、総統に就任するやいなや、「台湾独立」を一切いわなくなって、今日に至っている。

韓国は、「保守政権」になるとはいえども、「反日」という「国是」を「保守する」ことにかわりはないと思われるから、「50歩100歩」のちがいしかないだろう。
しかし、これも「建国」の最初から「あちら側」なのだから当然だ。

ならば、わが国も、「あちら側」に重心を傾けていることでの「日台」「日韓」関係ということをもっての「親交」だとすれば、なんだかわかりやすい。

それでもって、岸田総理ができた「決断」は、一方でアメリカとの切り離し、という側面もある。
「ロシアから石油を買う」ということは、アメリカと折り合いを付けての発言だろうから、バイデン氏の親中ぶりからしたら、「あり」なのだ。

つまり、「あちら側」に行くことの黙認ともとれる。

大陸の大国からしたら、老子の「戦わずにして勝つ」ということが、現実味を帯びているけれども、「売国」に見せかけてまずは「ロシアを獲る」ならば、たいしたもの、なのである。

と、妄想してみた。

ロシアルーブルは買いだけど

世界中からの「経済制裁」を喰らっている姿は、なんだか戦艦大和の最後のようにも見える。
もちろんロシアは、大陸の大国なので、魚雷で沈むはずもない。
だから、より容赦ない攻撃は、もっと悲惨なことになる可能性がある。

1983年に、いまは現代最高の大統領と評価されている、当時のレーガン大統領が、「ソ連に向かって『悪の帝国』」と言ったことが、結局冷戦終結のための宣戦布告であった。

「ソ連」の悪事とは、「共産主義の悪事」のことをいうけど、そんなレーガンのアメリカは、中共の悪事には目をつむって、むしろ経済発展すれば民主化する「はず」という論理で、育てた、のである。

この「論理」を、ソ連やロシアには決してあてはめない。

5日、バイデン政権は、足りない石油を、なんとあのベネズエラから、さらにアッと驚くイランから調達するために政府職員を派遣していた。
なんだか、「イラン・コントラ事件」みたいなこを、「表で」やっている。

『悪の帝国』発言2年後の85年に、「プラザ合意」をもって、日本を見捨てて中国シフトしたのは、どんな意図だったのか?
日本人は、ここをもっと追及しないといけないとおもうのだが、「双子の赤字」問題で煙幕を張られてよくわからないままになっている。

レーガン氏の笑顔にすっかり欺されていないか?

その「悪の帝国」が、いよいよ「滅亡」したときに、帝国内にあった特別優遇地域がウクライナであったから、大量の米・英人がウクライナに行って、帝国の「遺産」をどさくさに紛れて安く買いまくったのである。

こうして、これを「横流し」できる立場の元官僚(国営企業の経営者)が私腹を肥やしてできたのが、「オルガルヒ(新興財閥)」である。
つまるところ、国営企業を私物化したのと同時に、米・英人との取り引きをして、両者で肥え太ったのだ。

こうしできた「財力」を元手に、政治介入した成果が、2014年の「ウクライナ騒乱」でできた、「親欧米政権」であった。
EUがウクライナに触手を伸ばしたのは、「穀倉地帯」であるからだ。
それで、ウクライナの小麦はヨーロッパで大量廉価販売された。

西側につけば豊かになれると信じたウクライナの人々は、じぶんたちが食べる分まで売られてしまうことに不安になったばかりか、ぜんぜん豊かになれないことにも気がついたのである。
しかしもう、オルガルヒに支配される政権は代わらない。

それが、ゼレンスキー政権でもある。
彼が人気だというのは、彼自身がロシア語圏の出身で、ユダヤ人だからだ。

何度も書くが、「スキー」が名前にあるひとは、家系をたどればポーランド貴族にあたる。
きっと、ウクライナがポーランドであった時代に、どこかに領地を得たひとがご先祖様にちがいない。

ついでにいえば、オルガルヒを牛耳るひとたちは、ウクライナ人である前に、ユダヤ人だという「お里」がある。
日本人には理解できない、「ユダヤ問題」は思い切り複雑で、そもそもヒトラー・ナチス政権のスポンサーもユダヤ人だったし、ロシア革命だってユダヤ人が資金提供していたのである。

つまり、最低でも二種類のユダヤ人がいる。
イスラエルに住んでいるユダヤ人と、いまだにイスラエルには住まないで金融業とか投資とかをやっているユダヤ人である。
ウクライナのオルガルヒは、当然に後者にあたる。

ほんとうは「もっとたくさん」のタイプのユダヤ人がいるから、日本人には複雑でわかりにくいのである。

それで、とりあえず後者を「アシュケナジム・ディアスポラ」と呼ぶ。
「ディアスポラ」とは、バビロン捕囚以来「離散した」ユダヤ人のことで、ドイツ・東欧に住みついたひとを「アシュケナジム」という。

旧ソ連出身の大ピアニストにして指揮者のアシュケナージ氏の素性は、そのまま名前になっていて、「ファシズム発祥地」イタリアの第二国歌とされる、ヴェルディ作曲のオペラ『ナブッコ』第3幕第2場冒頭のコーラス『行け我が想いよ黄金の翼に乗って』とは、その「バビロン捕囚」のユダヤ人たちの歌である。

いまでもイスラエルに住んでいない、「ディアスポラ」のユダヤ人には、ある思想があって、それが「世界統合(統一)」なのである。
国家を持たないゆえに「国家を否定」した「世界統合」なのだけれども、これが、「国際共産主義運動」との親和性が断然高いのである。

それが、わかりやすく「世界経済フォーラム:ダボス会議」になっている。

この会議のメンバーで、「若手の有望株」とリストされていたひとが、いま、フランスの大統領だったり、カナダやニュージーランドの首相をしている。
堂々と、「お里」をあかしているところが「いけず」なのである。

そんなわけで、ロシア国内にも発生したオルガルヒを、徹底的に排除したのがプーチン大統領だった。
いま、それをウクライナでやっている。

つまり、「大掃除」をしているのだ。
「ワシントンの沼の水を抜く」といったトランプ氏と同類、といわれるゆえんがここにある。

だから全力でマスコミはプーチン氏を「悪人⇒狂人」扱いしている。
オルガルヒ=(軍産複合体の)米・英人=ダボス会議という「一蓮托生」の連関に寄生するのがマスコミなので、反ロシア報道にはちゃんと理由がある。

あわよくば、ロシアを分割統治したいという欲望は伏せて、ロシアへの前代未聞な経済制裁はやっても、ウイグルを理由には誰もやらない。
「一蓮托生」で「儲け」を優先させるからである。

これを、『一蓮「畜生」』といいたい。

すると、ワンパターンを繰り返す彼らの行動からすれば、モスクワあたりで「騒乱」を起こして、「プーチン打倒」までやるのかが注目される。
なお、ウクライナ騒乱では、訓練された「ネオナチ」を利用した。
武器供給は、いまのウクライナをみれば誰だかはっきりしている。

ルーブルは国際通貨と切り離されたので、いま欲しくても円との交換も「一般人」にはできない。
それで、ルーブルでしか入金しないからと、欧米の石油会社も映画会社もロシアから撤退するという。

でも、「人民元」だって、ベトナムの「ドン」だって、容易に外貨にはならないし、外国送金だってままならないのに、これらの共産国に日本企業はこぞって進出しているのである。

最低価格になってから「買い占めて」、高くなったら売るという「仕込み」が「機関投資家」によってされている。

日本は「特殊な国」だから

だから、「許される」と思う「甘え」が、「困った」になってきている。

「不思議の国ニッポン」と外国から評価されることの意味は、「異質さ」のことであって、それがときに「ネガティブ」にも「ポジティブ」にも変化する。

この変化は、「評価者の気分次第」なのだから、「日本」自身による評価へのコミットは、あんがいとできていなかった。
逆に、「好かれよう」とすれば、あからさまな「媚び・へつらい」になって、より「自主性のない特殊な国」を演出することにもなった。

それがときに、「黄色い猿」とか「エコノミック・アニマル」と揶揄されたのだが、「高度成長期」のことで無視できた。
それから半世紀した2008年2月末に、「Japain」(痛いニッポン:苦痛に満ちた日本)と、あの英国(Economist誌tr)にいわれて久しい。

このときの政権は、福田康夫内閣で、秋には麻生太郎内閣が発足して、翌年8月の総選挙で民主党政権になった「時代」の記事である。
いまは、その「痛み」が慢性化して、感じることもできなくなった。

さいきんは、英国海軍の最新鋭空母が、NATO加盟各国の護衛を伴って、わが国にも寄港したから、気のはやいひとは、「新日英同盟」だといってよろこんでいる。

アジアの「終点」に位置したわが国が、なぜに植民地化「されなかった」のか?という素朴な疑問に、学校の教科書はもとより、ほとんどわからないままに、明治維新が完遂されている。

英国の武器商人たち(最前線は長崎の、グラバー商会)の、詐欺まがいの「儲け」を優先させたから、という「結論」がある。
残念ながら、小説が事実を勘違いさせて、グラバー商会の丁稚だった坂本龍馬が、超特級の「英雄」になったのは、これを隠す「偽装」だった。

佐渡金山とか、全国から金が産出されて「ジパング(黄金の国)」と評価されたのは、あんがいと「大袈裟ではない」事実だった。

「金(Gold)」は、マグマのなかに含有していて、火山爆発にともなって地表付近に出てくると、その「重さ」から横に拡がって「金鉱」ができる。
火山大国ゆえに、ジパングになったのである。

それで、幕末に「不当貿易」によって、わが国の「金」と「銀」とが大量流出して、これが、「大インフレ」を巻き起こして、「倒幕運動」に商人たちが加わったのであった。

いま、世界に保有される金の3分の2が、「日本産」といわれるほどだ。

こうして、「ぼろ儲け」ができるから、武力で植民地にする必要もなかったし、「収支に見合わない」と判断されたのだった。

信長が許して、秀吉が「伴天連追放令」をだしたけど、とどめを刺したのは家康であった。

スペインの飛び地だったけど、プロテスタントの国になったオランダに絞り込んで出島に封じ込めたのは、ローマ法王からのお墨付きがあるから、スペインとポルトガルの「侵略」が、「神の使命」になったのを避けたのである。

まことに、いまの日本があるのは、徳川家康のおかげなのである。

そんなわけで、オランダの「ライデン大学」は、ヨーロッパにおける最古の「日本研究」をしていて、いまでも盛んなのである。
「鎖国時代の日本資料」が山ほどあるからだ。

さてそれで、日本が特殊な国になったのは、縄文の最初から、という議論になったのは、日本人の「血」のルーツが、DNA解析から、中国でも朝鮮でも「ない」ことが判明しながら、その「オリジナル」がわからない、という最新研究が出たからである。

それに、「米の栽培」も、縄文時代からやっていたことも、縄文土器の底にこびりついていた「米」と「花粉」によって明らかになった。
朝鮮半島伝来説が、完全に覆ったのである。

しかし、「近代」あっての「現代」ということから、わが国における近代が江戸時代であることに異論はない。
その江戸時代に、「日本資本主義」の萌芽があったことを発見したのが、在野の一般人、山本七平氏であった。

  

「(産業)資本主義」は、資本主義の「精神」がなければ、「成立しない」という大前提がある。
それが、わが国には江戸時代に生まれていた、という「発見」は、なんと経済学者から無視されている。

対談の「傑作」といわれる名著、『日本教の社会学』が復刻されて、山本節と小室直樹節の炸裂が楽しめるけど、碩学、小室直樹が書いた渾身の「解説」が90ページ弱もあるのが、「紙版」の『勤勉の哲学』なのだ。

そして、この「解説」が、日本という国の「特殊な国」であることの、「理由」の「解説」になっている。

なので、たいへんなことが書いてある「90ページ弱」なのだ。

「本文」から読んでも、「解説」から読んでもよいのだから、これも実は「対談本」といえる。

答を知りたいなら、「読むべし」なのだ。

確かに日本は特殊な国だった。
それが、欧米化とグローバル化で「ふつう」になったら、衰退が止まらない。
いまこのことが、「特殊」になっているのである。

ならば、元の特殊に戻ることが、唯一の「抜け道」なのに、いまだにもっと欧米化したいと望むから、「喪失」が止まらないのである。

過剰と欠乏のアンバランス

なにが「過剰」で、なにが「欠乏」なのか?といえば、ここでは、「グローバリズム」と「ナショナリズム」のこととして話を進める。

グローバリズムの良い点・悪い点、ナショナリズムの良い点・悪い点と、それぞれに「良い点・悪い点」があるのは、世の道理というものだ。

たとえば、「酸素と二酸化炭素」だって、酸素の良い点・悪い点と二酸化炭素の良い点・悪い点がある。
地球の歴史の中に、「途中」からでてくる「生命の歴史」でいえば、初期のころの酸素は「猛毒」だった。

これを、二酸化炭素についていえば、できたての地球大気のほとんど「9割以上」が二酸化炭素だったのである。
この地球とは、生命が存在していない時代(約5億年間)のことをいう。

最初は「火の玉状」だった地球が、だんだん冷えて、という説明があるから、どうして「水」で満たされた「海」ができたのか?というのもまことに不思議千万なことである。
それに、紫外線をカットする「オゾン層」だって、この頃の地球には存在しなかった。

「光」とは「波動」である、と確定したのは、1925年の「量子力学の成立」のことであったから、まだ100年経っていない。
この間ずっと、「粒子」か「波」か?という議論が続いていたのである。

ニュートンも、アインシュタインも認めていなかった。

太陽からやってくる「日光」には、可視光線の他に見えないものも含まれていて、「波長」順で並べたら、紫外線から赤外線へとだんだん「長く」表現するグラフがわかりやすい。

いまでは、紫外線が害悪になるとしられたけれど、人間が「眩しい」と感じるのは「黄色(波長 589nm あたり)」なので、これをカットする特殊なレンズを眼鏡に応用したのが、コダックである。

人間の「目」が、可視光線「だけ」しか見えない(だから「可視光線」という)のは、全部が見えたら情報「過剰」になって、「脳」の処理が間に合わなくなるからだ。
逆に、たとえば、昆虫の目は、人間とは別の波長を「可視光線」にしている。

目が二つあるのは、それぞれの目からの「画像情報」を脳が「合成」して、「距離感」があるひとつの「画像をつくる」ためだ。
なので、「ガチャ目」のひとは、眼鏡で矯正しないと眼精疲労(=脳の疲労)からの頭痛や肩こりを発症するのである。

さて、地球の自然からわれわれ人間も生まれた「動物」だから、自然科学の成果の恩恵は計り知れないけれども、自然の法則が全部わかっているわけではない。
むしろ、わかればわかるほど、「真理は遠くなる」のだ。

これは、「人間の営み」という世界もおなじで、その複雑性は当然ながら解明されていないのでずっと研究中である。

しかし、「わかったつもり」にならないと、日常生活が面倒になるので、かんがえない、という態度も「可視光線」に限る、こととおなじで、「脳」への「過剰」な負担をさせないための「自然」なのである。

あたかも、光より速いものはないのに、何万光年とかいう宇宙でいえば、やたら「遅い」のと、脳がスーパーコンピュータを相手にしないほど優秀なのに、「この程度の処理能力」というのとおなじなのだ。

しかも、脳はあんがいと「サボり癖」があって、それが5感で「錯覚」をつくりだし、挙げ句に「思い込み」もさせるのだ。
そんなわけで、人間は自分の脳に欺されながら生きていて、欺されていることに一生気づかないで死んでいく動物なのである。

だから、人間の営みという世界をかんがえない、という態度が嵩じると、また、ある集団がこのことを、利用すると、たいへん厄介なことになるのも、人間の営みという世界なのである。

国家がひとつの「枠」としてあったついこの前までの時代、人間の営みのなかでの最重要な、生命維持、を担保する「経済」も、「国内だけ」をかんがえればよくて、せいぜい外国との取り引きでは、決済と為替、それに関税を安定させればよかった。

リカードが発見した「比較優位」(1817年)という、「貿易」による当事者双方の利益が「常識」になって、それがグローバリズムの重要な根拠になったのである。
もちろんこれには、「合理性」がある。

誰かに意図されたかどうかは別として、「プラザ合意」(1985年9月22日)という、人類(社会)史の「転換点」がある。

特に、「日本の時代の終わりの始まり」となることだから、とりわけ日本人には重要だけど、忘れたことにするか、かんがえない、という態度を貫いている。
またそれは、子供に「教えない」ということにもなっている。

一方で、社会主義・共産主義という「グローバリズム」の思想が、ぜんぜんちがう「方向」から、リカードの示した「画像」と、「合成」されて、「あたらしいグローバリズム」が知らないうちに誕生した。

それが、現代の自由主義社会で起きている「全体主義化」の原動力なのだ。
個々人の「生存」の「自由」をまもるために、政府が「強制する」ことの「正義」が、それだ。

個体としての自分のためのワクチン接種が、他人のためになって、社会全体のためになったのを、「全体主義」と言わない、言わせない、ことが、過剰なだけでなく、かんがえない、という態度の過剰がその基礎にある。

症状があるひとの「マスク着用」は端から他人のためだったのに、いつの間にか感染「予防」という非科学によって、自分のためにもなったのは、かんがえない、という態度の過剰からなので、結局は「同類」なのである。

さてそれで、こうしたことの「アンチ」としての「ナショナリズム」運動が各国ではじまった。
だから、むかし(プラザ合意以前)のいわゆる「国粋主義」ではない。
むしろグローバリズムの過剰に対する、欠乏がこの運動の根拠なのだ。

健常者には過剰な酸素吸入は毒だから、二酸化炭素が欲しくなるようなものなのだ。

ちなみに、たいがいの植物(わずかな種に「例外」はある)にとっては、現在の4倍程度の二酸化炭素濃度がもっとも「成長に都合がいい」ことは、栽培実験で証明されている。

生きている大日本帝国政府

わが国における「憲法論議が厄介」なのは、国民に「法意識が欠如」しているからだという鋭い指摘がある。

困ったことなのか、どうでもいいことなのかを問えば、「困ったこと」ではあるけれど、その「困った」の中身が、これまた「困った」という構造になっていて、話が面倒くさくなるのである。

残念ながら、現代社会は「極悪非道」だった、ヨーロッパの常識が基本となってつくられている。
「(産業)資本主義」もそのうちのひとつだ。

一応、このブログでは「書き分けているつもり」だけれども、「資本主義」と「産業資本主義」は別ものだとかんがえている。
マルクスが批判した「資本主義」は、彼がつくった「説明用語」だという認識をとりあえずしているからである。

なので、彼に続くひとたちのいう「空想」とか「科学」とかでいう「社会」を論じる「社会主義・共産主義」から離れて、「現実」世界は、「産業資本主義」の社会なので、これを、「分けたい」のである。

もちろん、産業資本主義を輸入して導入したことが、わが国をして経済的繁栄の社会に押し上げたことは歴史のとおりである。
だから、その基盤となる「思想」も、書き換えるどころか上塗りしようがなにをしようが「欧米化」させないと成りたたない。

この基本に、「法」があることは、これも当然なのである。

しかしながら、江戸時代の日本人には、「法」といったら「仏法」のことか、「自然法則」のことだった。
あるいは、「儒教的な人倫」のことを指した。

だから、刑事事件の「お白州」でも、お奉行様は「法」とはいわず、「天下の大道を犯す」とかと、「道」を言ったのも「ご公儀の定め」が「人倫の道」に合致している前提からであった。
天から与えられた「当たり前」を、とにかく前提にしたのである。

将軍が裁可した法は、「御定書」であったけど、いよいよ外国との協定や条約をどうするかが議論となったときに、朝廷の天皇の裁可がないといけないという、わが国の「根幹のありどころ」が大問題になったのである。

根幹のありどころが議論されて、それが「朝廷=天皇」であることがハッキリしたことで、あらゆる「改変」が、「勅令」となって発布された。
あらゆる「改変」には、生活習慣までが含まれて、たとえば、「廃刀令」とか「断髪令」とかであった。

およそ西洋の近代史において、絶対王政の時代にあっても、生活習慣を一変させる法は発令されていない。
むしろ、宗教生活という生活習慣に触れたら、ピューリタン革命になるほどのことになったのである。

一応わが国でも 敦賀県(現在の福井県)で、断髪令に反対する3万人が一揆を起こして鎮圧されたという悲劇があったのは、生活習慣が変えがたいことを示すのである。
これ以外、全国でほぼ平穏に推進されたのをみて、当時のフランス外交官は、「天皇を神」だと記録した。

「勅令」で生活習慣を一変させることができることの、「驚異」を言ったのである。
フランス絶対王政でもあり得ない、と。

それでもって、わが国は、国民習慣・生活を決定する「民法典」を、なんと「フランスから直輸入」した。
フランス民法典を、日本語翻訳してこれを、「発布」したのである。

しかして、この「民法」は機能したか?といえば、「したようなしなかったような」だった。
あまりにも現実の生活とちがうなら、「解釈」として現実をとりながら、かといって「法律に書いてある」も有効だった。

なんでそんなに急いだのかといえば、第一に「不平等条約の撤廃」という国家目標があったからである。
憲法をつくったのも、これだ。
第二に、産業資本主義の導入があった。

そんなわけで、日本人には、日本人の生活文化に沿った「法」ではないものからどんどん「法制度」が整備されたので、生活と法の不一致が「ふつう」になってしまったのである。

それなら矛盾だらけになるのは当然で、これを政府は強権的に、つまり妥協せずに実行させることが「業務」になった。
こうして、まずは政府自ら批判の対象にならないように「無謬性」(決して間違えない)が担保されるにいたる。

「判例」も多数あって、たとえば、消防自動車が火事場に向かう途中で歩行者を轢いてしまって、轢かれた人が死亡しても、政府官吏たる消防士に罪は問われなかったし、賠償もなかった。
もっといえば、消防自動車はいつなんどきでも、あるいは「意図的」でも誰かを轢いても無罪だったのである。

なるほどそれで、やたら消防車が出てくることの理由がわかったのは、「戦後」の『警察日記』(日活:1955年)である。
これは、民主主義になって「改善」された、というメッセージだと思われる。

では「その他」は?と問えば、国民にも政府にも、根本からの「改善」が見込めないのは、意識の問題ではなくて、残念だが「被害」の問題に気づかないようになっていることにある。

欧米人のように、酷い政府に酷い目にあって、怒りが溜まらないと治らないのだろう。

しかして、先日、「ワクチン未接種者には、これみよしがしの嫌がらせをしてやる」と発言して物議を醸したフランスのマクロン大統領が、4月の選挙で二選を目指すとようやく出馬表明した。

わが国政府も負けじと、まんぼうを延長すると決めたのは、同じ発想からであろう。

ロシア虚偽報道禁止法の衝撃

4日、ロシア議会は、「刑法改正」に「虚偽報道禁止」を加えた法案を可決し、これにプーチン大統領が署名して成立した。
これを受けて、「国内」はもとより、「西側メディア」は一斉に反発して、BBCやCNNなどもロシアから職員を撤退させている。

なお、BBCは今後ロシア国外からの情報によるロシア報道を続ける、と表明した。

このブログでは、ウクライナへの一方的支援を報道していることに違和感があると指摘し、「喧嘩両成敗」を主張してきた。

この意味で、「報道規制」と「言論の自由」についての「欺瞞」を「喧嘩両成敗」としていえば、西側メディアの自分たちの所業である「プロパガンダ」にほおかぶりして、被害者然とする態度はいただけない。

なぜなら、お約束でもある「原理原則」を無視した、手前勝手だからである。

職業倫理のうえに言論の自由がある、という関係のはずだった。
つまり、職業倫理という「土地」のうえに、言論の自由という建物があるものを、その「土地」からして自分で否定したら、「建物が宙に浮いて」しまうのが「道理」というものだ。

もっといえば、「自主規制」というものもある。

報道機関やジャーナリストが、「報道」を「自粛する」のである。
これも難しい議論になる。
そうしたことの「根拠」が、わかったようなそうでないような話になるからだ。

たとえば、近年起きた「大震災」での「暴動」や「暴行」は「ない」というのも、はたしてほんとうなのか?
諸外国の報道機関が「驚嘆した」ことを「根拠」に、「世界一の民度」と自慢することの正統性とは単なる「神話の流布」ではないのか?

少なくとも、わたしの個人的情報では、現地の信頼できるひとからの複数の「まずい話」があったし、それがうわさ話でないのは、「被害者」との関係からも信用できるのである。

であれば、報道機関が「黒を白と言い続ける」ことの無責任が、ちゃんと問われないといけない。

しかし、日本人は「民度」が高いから、こうした真実をしっているひとたちが、報道機関の情報を信用しなくなって、それが視聴率や購読数に表れだしているのだとかんがえる。

報道機関の当事者達が、「無料ネットニュース」の普及のせいで、視聴率や購読数が減少していると理由にしていることが、「笑止」なのである。
むしろこのひとたちが、「商売」として、あるいは、「活動家」としてやっている「破壊工作」による「貧困化」も、受信料や購読料が負担になっている原因になるのだから、「マッチポンプ」なのである。

さらに、何度も言及してきた、新聞社とテレビ局が「おなじ資本下」にある世界的「珍奇」は、田中角栄がやった業績のひとつだ。
だから、わが国のマスコミは、田中角栄を根本から否定せず、かえって「懐かしさ」をもって扱っている。

それは、「視聴者」の高度成長時代の記憶を呼び起こして、あたかもその象徴に田中角栄を置くことの「演出」による。
わが国の「高度成長」は、政府のおかげでもなんでもないけど、あえていえば、「池田勇人首相」の所得倍増論の方が田中角栄よりは、よほど重要な意味をもつ。

さてそれで、ロシアの「刑法改正」である。

そもそも論をここでもいえば、「刑法」は誰のためにある法律なのか?ということが、あんがいと忘れられる「前提」だ。
近代国家の「刑法」には、「刑罰」が書いてある。

つまり、裁判官への刑罰ガイドラインなのである。
だから、裁判官は、刑法にある刑罰を判決にするのであって、これを勝手に逸脱してはならない。

そしてまた、この法律を広く国民に知らしめるのは、裁判官に「立法させない」ための予防にもなっているのである。
それでもって、刑事事件の「扱い方」についてのルールである、「刑事訴訟法」が、いつ刑事犯になるかもしれない国民には「重い」のだ。

すると、ロシアの「刑法」は、どんな「刑事訴訟法」によるのか?ということを前提にして、「犯罪認定の方法」とが「問題」にならないといけない。

だから、「虚偽報道禁止条項」の「新設」だけを理由に、自社社員の安全性が確保できないから、ロシア国内から記者たちを離任させた、という大手マスメディアの「迅速な処置」は、なんだか「虚偽報道をしていた」ことの確信の裏返しにみえてしまうのである。

ならば、「記者章」発行の条件に、「報道協定」という名の、「『虚偽』報道禁止」をとっくにやっている、オリンピック開催地のアジアの大国から、どうして一斉退避しないのか?

わが国の公共放送の本部ビルには、そんな国の国営テレビ支局があって、わが国を代表する新聞社の本社ビルには、そんな国を支配する「党」の「機関紙」がやっぱり「支局」として入居している。
ちなみに、「党機関紙」は、「新聞ではない」けど、わが国の「党」は、「しんぶん」としている。

つまるところ、ロシア虚偽報道禁止法可決・成立の「衝撃」とは、世界の視聴者・読者にとって、「虚偽報道をやっている」ことを「あぶり出した」成果の「衝撃」なのである。

視聴者は、マスメディアの「非難」を「ZM(ざまぁみろ)」という目でみるのがよくて、一緒に慌ててロシア批判はしない方がいい。

どんな「刑事訴訟法」によるのか?ということを前提にした、「犯罪認定の方法」を誰も報道しないので、「わからない」からである。

世界をリードするカナダの全体主義

過去、カナダの政治状況が世界で話題になることは少なく、よってそれが、「世界をリードする」こともなかった。
しかしながら、ジャスティン・トルドー氏の「イケメン」ぶりから、わが国の淑女に衝撃を与えて以来、状況は大変化した。

カナダ国会は「2院制」だけれども、選挙で選ばれるのは「下院(「庶民院」という)」だけで、「上院(「元老院」という)」は、首相が助言して総督が国王の名において任命することになっている。
上院議員の定数は、15名で、任期の期限は本人が満75歳までである。

本国であるイギリスの国会をそのままコピーしたのだろう。

庶民院(日本だと「衆議院」)の任期は5年だが、わが国とおなじで「解散・総選挙」はある。
いまの議員たちは、2021年の解散・総選挙で選ばれたけど、その前の総選挙は2019年だったから、2年あまりで選挙になった。

カナダの政治状況が世界で話題にならなかった理由に、「保守大国」だったことでの「安定」があったからである。
しかし、「保守党」のいつもの「腐敗」と、「世界潮流」になっている「左派:グローバリスト」の台頭で、カナダもイカレてしまった。

そんなカナダが「発祥」の、トラック野郎たちの大規模デモに、徹底的な「弾圧」をやったのがトルドー氏であったけど、その根拠として発令した「緊急事態法=戦時特祖法」には、「検証の義務」というアフターケアがついている。

これには、めったに政府案に「反対しない」元老院が、「おかしい」と反対の意向を言い出したこともあって、「空気を読んだ?」野党・保守党側も、トルドー氏に日和る党首を解任して、あたらしい党首選びという「化学反応」も起きている。

ヨーロッパ系のひとたちが、「空気」を意識するというのは、あんがいと珍しい。
彼らは、「世論調査」とかという「根拠」をもってかんがえる特徴があるからだ。

そしてそれが、「選挙での投票行動」に直結するので、「気になる」のである。

しかし、マスコミが特定思想とか、特定党派のプロパガンダ機関に成り下がったので、「世論調査」に公平性と信憑性という基本が失われてしまった。

そこで、もっと深いところにある「基本」にもどって、各議員の地元支持者の「話を聞く」ということになったのである。
そこでの、住民たちの「政府への怒り」が、ようやく議員の政治活動に根拠を与える、という「原点」に戻ったのだった。

そうやって、「票」のエネルギーを得たひとたちが、党首を「解任する」結果を出した。

いまは水面下にあって、外国人には見えにくいけど、カナダ保守党の党首選挙が、あんがいと世界の将来に「保守回帰」という影響を与える可能性がでてきたのである。

その理由は、最有力候補の「主張」が、いまや本国の「英国保守党」ですら見失った、「保守主義」だからで、さらにこのひとは「世界経済フォーラム」の「非会員」であることが「確認」されているばかりか、この会議の存在に「反対表明」しているいまどき珍しい政治家なのだ。

英国の「保守主義」で「保守する」こととは、過去・現在・未来という時系列における「普遍的価値」を対象にしている。
自分を中心に捉えれば、過去とは、自分が生まれる前の全部の時間を指し、未来とは、自分がこの世を去ってからの全部の時間をイメージする。

だから、自分は、過去からの価値を未来へと引き継ぐための、「リレー」をしているなかでの「バトン」であり、「たすき」に過ぎない。

このひとたちは、とにかく「理屈」をしっかりかんがえるのだ。
日本人が、「感性」に重きをおくのとは、いまでも「ちがう」ので注意がいる。
だから、日本語でいう「保守」が、「軽く」なって浮遊・漂流し、あげくに意味を失うのである。

トルドー氏が率いる「自由党」は、ダブル・スタンダードの典型的表現法「ニュー・スピーク」をもってかんがえれば、正しくは「不自由党」なのだが、為政者だけの自由党、と言い換えればちゃんと意味が通じる。

わが国の「中途半端さ」は、より「悪質」で、どっちつかず故の「ごまかし」が効いてしまう。
「自由」なのか?「民主」なのか?が党名にもはっきりしないのは、このためだ。

おなじく「ニュー・スピーク」で解釈すれば、「自由でも民主でもない党」という意味になって、妙に実態と合致して説得力があるのだ。

さて、カナダ保守党の「揺れ戻し」が現実になると、まっ先に「SDGs」への反対表明をすると予告されている。

たとえば、トルドー政権は「ロシア制裁」で、ロシアからの原油輸入を止めると決めたが、「不足分はどうするか?」について、別の国からの「輸入」と答えている。

これがカナダ人にとってトンチンカンに聞こえるのは、カナダは1日当たりの原油生産量で、「世界4位」なのである。
どうして自国での「増産」をかんがえないのか?

自国内で原発の全廃を決めたけど、フランスの原発で発電された電気を買って「持続可能性」に満足しているドイツ人のおつむのやばさにそっくりなのだ。

そんなわけで、カナダが新しい世界政治潮流の発信元になる可能性がある。