トランプの「憲法停止」発言

2020年11月の大統領選挙から、翌年1月の議事堂事件を経てホワイトハウスを去るまでの期間、どんなに側近から進言されてもやろうとしなかった「戒厳令:憲法停止」を、とうとう本人が口にした。

当時の、大統領だったトランプ氏は、「護憲」を公約にしていたことを、なによりも根拠にして、戒厳令の発動に同意しなかったのである。
じつは、かなりの支持者たちは、こんなトランプ氏に、歯がゆい想いをつのらせた。

邪悪な極左民主党から、アメリカ合衆国(=建国の精神)を守る、最後のたのみがトランプ氏だったから、建国の精神が書いてある憲法を守ろうとしないばかりか、アメリカ社会の破壊をものともしないものたちを、武力で排除する事にためらってはならないとかんがえたからである。

しかし、トランプ氏は、大統領権限にある戒厳令の発動をしなかった。

これには、もしやアメリカ軍を統率する、統合参謀本部議長たる、ミリー陸軍大将とソリが合わないばかりか、ミリー氏が民主党支持ということから、へたに軍を動かすと、クーデターを起こされる危険性に気づいたからかもしれない。

この意味で、将来、トランプ政権の内情が何らかの「手記」とか、「回顧録」で、「翼を失ったエンジェル状態の悲惨」があきらかになるのだろう。
その傍証として、Twitter社から出ている曝露が、トランプ政権の司法省やFBIが、トランプ降ろしをやっていたことだ。

民間人になったトランプ氏は、影の大統領府たる自身の別荘で、さまざまな過去分析をやっていたにちがいない。
それゆえに、この夏の、FBIによる家宅捜索になったとすれば、辻褄があうのである。

精力的で富豪でもあるトランプ氏は、優秀なスタッフを自費で雇い、さらに自身は各州の知事選挙を応援したのは、足元を固めないと頂点たる大統領選挙に勝てないからだ。
しかも、二度と不正をやらせないための準備も怠らないのは、当然である。

にもかかわらず、この11月の中間選挙では、またもや、が起きた。
共和党楽勝が、辛勝になって、上院では勝ったとはならなかった。
いま、アリゾナ州知事選の選挙に関する裁判では、どうしてこうなるかがわからないほどのズダズダが、証拠として提出されている。

もちろん、勝者を宣言した民主党候補は、選挙を取り仕切る州務長官のまま立候補したという「州法違反」すら問われない無法が通っている。
日本でいえば、選挙管理委員長がそのままの立場で立候補して勝った、というはなしである。

勝者として、自分の選挙管理について「公平だった」といえる神経も、日本人にはかんがえられないだろうけど、ならば、どんな指示を選挙管理上の実務でやったのかについては、「秘密」としたままなのである。

こんな一連の出来事を確認して、トランプ氏は、「憲法停止」を発言している。

すこしばかり、今さら感があるのだけれど、彼の本業が、不動産開発業だから、スクラップ・アンド・ビルドをやりたいのは理解できるところだ。
しかし、日本とちがって軍隊があるアメリカで、憲法停止とは軍を動かす戒厳令を布告することになるので、誰が対象なのか?という問題になる。

すなわち、バイデン氏とその政府機構にいる人物たちの「逮捕」を示唆していることになるのだ。
とうぜんに、軍が逮捕権を発動したら、裁判は軍法会議となる。

こんなことは、逮捕される側のバイデン氏からしたら、一応現職の大統領として看過できない。
そうなると、先手を打って、念願のトランプ逮捕をやりたいバイデン氏からしたら、よくぞいった、ということにならないか?

悪くすると、内戦になる。
そうでないなら、アメリカは「南北朝」のような、大統領が二人いることになる。
それは、わが国の南北朝のように、「正統性」の問題なのだ。

トランプ氏は、自身の「正統性」をいうだろうけど、形式上の見た目では、バイデン氏に分がある。
残念だけど、民主主義とは、手続き、をもって正統とする主義なのだ。

せっかくTwitter社から、邪悪な実態が暴露されているのに、トランプ氏の発言の真意がわからない。
この邪悪な実態の広がり、つまり、Twitter社だけの問題だったのか?それとも他社はどうしていたのか?を、拡大追求すべきなのに。

影響力としては、「他社」の方がはるかにあるとかんがえられる。

ついでにいえば、「TikTok」を、州レベルで禁止する動きが出てきていて、これには民主党の州も含まれるから、超党派の運きになっている。
そのプロパガンダの手口と、利用者情報(もちろん個人情報)の取得方法が、用意周到だからだ。

これを、わが国では、デジタル庁が「利用促進」させるという真逆をやって、「LINE」と同様に、行政が関与して、国民の個人情報を外国に引き渡しているともいえる。

軍隊ではない、自衛隊は、なんのために存在しているのかも根本から見直すと、単なる「ジェスチャー」だということになって、なんだか邪悪な憲法の停止もできない罠にはまっていることだけがわかるのである。

サウジは大丈夫なのか?

3期目という掟破りをやったばかりの習近平氏が、飛行機に乗って、サウジアラビアを訪問して、「最高級の国賓」として大歓迎を受けたことがニュースになっている。

トップが飛行機に乗ることの意味は、あんがい深い。

それでもって、「包括的戦略協定」を両国間で締結して、サウジアラビアは、一気に中共圏に加わったように報道されている。

事実上の「国王」にして、現首相の王太子(日本では王太子を皇太子と書くプロパガンダが横行している)は、いったいなにをかんがえているのか?
わからないけど、勝手に邪推してみたい。

なお、外交儀礼としての「国際プロトコール」では、席次を「古さ」ではかることになっている。
たとえば、東京駐在の外交団(特命全権大使)の席次も、着任順になっているから、着任が古い公使級では大使とはちがう序列ができる。

それで、国の席次も「国家元首」の古さ順になるので、世界最古の「王朝」として、わが国皇族が席次の筆頭に「かならず」なるのである。
これが、うそみたいに歴史が浅い英国王朝の、エリザベス二世女王の葬儀でも行われたが、日本のメディアは、例によってこれをいわない。

だれが何といおうと、わが国で消費している石油の最大の供給国は、サウジアラビアで、これに隣国のアラブ首長国連邦(UAE)を足せば、7割というシェアになって、さらに湾岸産油国を加えれば9割になる。

つまり、われわれ日本人のふつうすぎる文明的生活は、アラブの石油の上に成っているのは、いまさらいうまでもない事だけど、これを意識しないで生きているから、あんがいとピンとこないピントズレのひとが多数いる。

地中から出てきた石油(原油)を、タンカーに乗せて日本まで運ぶので、まずはペルシャ湾の入り口にある、ホルムズ海峡の安全(たとえばソマリアの海賊や対岸のイランの動向)が保てないとたちまち大騒ぎになるのである。

それから、インド洋を越えて、つぎの難関がマラッカ海峡で、そのつぎが台湾海峡となっている。
これは、中国と韓国もおなじことだ。

わが国を「(仮想)敵国」としている、中国や韓国、なかでも中国は、マラッカ海峡を自国でコントロールするべく、南の島を埋めたてて要塞化した。

当時のアメリカ・オバマ政権は、「よしておくれよう」というだけで、なにもしなかったから、そのツケをトランプ政権が払わされることなったけど、どういうわけか、わが国のマスコミはこの功績を「戦争を煽る」といって煽るのである。

オバマとトランプのどちらが、わが国の国民生活のためになったかは、かんがえるまでもないけど、かんがえさせない戦略にはまって、オバマやバイデンに好意的な日本人がたくさんいるのである。

これを、情報弱者というけれど、ワイドショーの芸人MCが自らしたり顔で情弱を演じて、一般人を洗脳させる役をしれっとやっているのを、毎日観ていたらこれが「伝染」するから、コロナよりおそろしい。

それで、当時、わが国最初の女性総理を目指すと公言してはばからなかったひとが、島の要塞化を質問されて、「わが国からはるかに遠い島のことだから関係ない」という、驚きの見解を述べて、「ダメ出し」されたのであった。

こんな人物でも、与党の政調会長とか総務会長をやって、政界でのキャリア構築ができること自体が絶望的なのであるけど、岐阜のひとは落選させない。
まぁ、それをいったら、菅氏とか、小泉氏とか、河野氏とか甘利氏がいる、わが神奈川県民のお粗末も、全国民に謝罪すべきはなしになる。

さてそれで、サウジアラビアである。
この国は、サウド王家という一族が支配しているけれど、最初の建国は1744年で、いまの英国の王朝(ウインザー朝)よりぜんぜん古い(格上)のだ。
なお、英国は女系相続したので、女王の死去によってウインザー朝は滅亡した。

国名の「サウジ」とは、「サウド家の」という意味だから、わかりやすい。

王国として権力を掌握した背景に、イスラム教があって、いわゆるスンニ派のなかのワッハーブ派という宗派を「庇護する」ことを条件に「世俗的権力」を得たという事情がある。

日本人は敗戦後、宗教を「理性でかんがえる」ことを強要された(啓蒙主義にはじまる革命思想による)ので、神道も理解できないように改造人間にされたから、イスラム教も理性で解説したがる。

しかし、このひとたちは「信仰」をしているという、「感性」のはなしなので、理解に苦しむようになった。
『旧約聖書』を根源にする、ユダヤ・キリスト・イスラム教徒は世界人口の半分以上になるので、理性派が小数派だと認識しないとはなしが通じないのである。

そんなわけで、平然と宗教弾圧が立法によってできる国にするという、特定宗教の被害者「救済」をしようという、人類史に逆らうことをやるのは、憲法違反以前の問題だけど、だれも気づいていないのか?こわくていえないのか?

信者が自己の「救済」を完全「世俗」の近代国家の法に求める本末転倒に、日本が宗教否定の思想になったことの根源的重要性があるのに。
つまり、中共チームに精神的加盟をしたことになったのである。

いろいろあって、いまの「サウジアラビア」になったのは、1932年のことだった。
だから正規には、まだ90年の「王国」なのである。
ただし、王家がワッハーブ派を「主宰する」ことでの「政教一致」を看板にしたことがあたらしい。

建国時の宗教と世俗のベクトルが、もっと宗教に寄ったのではなくて、一体化したのが、いまのサウジアラビア王国の根源にある。

実質的に最高指導者となった、若きムハンマド・ビン・サルマン王太子兼首相の生い立ち(1985年生まれ)は、例によってよくわからない。
サウジアラビアのキング・サウード大学法学部卒で、神経言語プログラミングの学位を取得し、卒業後は民間企業に就職したとある。

じっさいに、彼の思想がどこにあるのかはわからないけど、サウド家としての立ち位置(じつはこの国の「王族」は1万人:人口二千七百人にひとりいる)からすれば、王族だけでも統率するのに宗教がひつようになる。

この原因は、初代、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの子供が、200人いるともいわれて、五世代目が生まれてきている事情による。

なので、中国との蜜月といっても、宗教を否定する共産主義の中国(日本も含む)とは、水と油以上に交わる可能性はない。
すると、包括的戦略協定とは、完全に「世俗的」なのであって、ワッハーブ派の斎主としては、「悪魔との提携」となる。

これを、伝統的サウド家のひとたちは、一致団結して支持しているかどうかも疑問がある。

むしろ、伝統的イスラムの保守を標榜せざるをえないサウジからしたら、欧米的(キリスト教)グローバル全体主義に対抗する意味が強いはずだ。
すなわち、敵の敵は味方、とする「治乱興亡」の立ち位置からの蜜月なのだろう。

そんなふうに妄想すれば、アラブ的で予想が困難な「ちゃぶ台返し」を、いつ、どのような方法で行うのか?があるだろうし、中共的な「倫理なき裏切り」が先なのか?の順番もふくめて、「離別」についての興味が深まるのである。

ただ、石油産油国の盟主として「SDGs」を気にしているのが、わたし的には気に入らない。
もっと石油を使うキャンペーンを徹底的にやって、国連にカネを出さないといった方が、人類のためになる。

日本にも、SDGsを推進するなら石油を売ってあげない、というだけで目が覚めるのに。

どちらにせよ、自分だけ、しかかんがえないひとたちの「強い握手」は、やっぱり、自分だけのためにある。
そこに、「神の御意思」が登場したり、中共の内部事情たる権力闘争があるだけという、単純さが隠されている。

本当は、日本の立ち位置が一番危ういことがわかった「会談」だったのである。

国際スタンダードの偽善

世の中おかしな事ばかりが起きている。

日本政府のおかしな事は、ずいぶん書いてきたけれど、これは「自公政権」であろうが、「民主党政権」であろうが、大差なかったことへの国民の反省がぜんぜんないことに原因がある。

さらに、仕組みが巨大すぎて、なかなか全体像が見えない、ということも遠因にある。
その仕組みとは、人間の脳内にある「思想」を源泉にしてつくられるのもだから、目に見える事と、見えない事が混在するので、大きさだけでなくもっと見えにくい。

それが、何度もいう「グローバル全体主義=世界共産化」という思想で、むかしは貧乏を嫌った、でも自分で労働しない知識人たちが勝手に自己洗脳して、革命を夢見たものだけど、この中に、とんでもない大富豪たちがいたのである。

そのひとたちが、革命家に資金を提供したことが、眉唾でも陰謀論でもなく、証拠文書がでてきた。
なので、いまでは、ただ革命家というのではなくて、「職業人」としての革命家を指す。

すなわち、自身の思想はもとより、これで生活の糧を得るので、確実に「保守化する」というメカニズムが働く。
これをふつう、「保身」という。

なので、革命が成就しない状態が望ましいことになる。

しかし、それでは納得できないのが、資金だけなく組織やらも提供する、スポンサーとしての大富豪たちだ。
その「富豪」度合いが、グローバル化した世の中になって、過去にない巨大な資産と化した。

その中で、表に現れるのが「年収」という基準である。

日本で起きたバブル経済とその崩壊も、いまでは「シナリオ」を指摘するひともいて、それがまた、まんざら嘘とは思えない節がある。
一方それとは別に、世界の「富裕層」には、いつの間にか基準ができていて、それが「年収30億円以上」というものになった。

失われた30年を過ごしてきた日本人一般には、想像もできない金額だけど、このレベルのひとは、世界に万人単位で存在するのは、とっくに知られていたことだ。

それで、だれに言われたのかしらないが、日本政府も気がついたらしく、年収30億円を基準に所得税増税をすると決めた。
対象者は、たったの三ケタで、200~300人しかいない。
かつての実力からすれば、2万人ぐらいても不思議はないのに。

問題なのは、「増税」というペナルティーをかけることが、一般人への金持ちに対する「憎悪を煽る」ことをやって、その感情がどれほど卑しく、共産主義的かを隠すのである。

つまるところ、ジャパニーズ・ドリームは「悪」とする教育を行うのである。
だから、アメリカン・ドリームをいうトランプ氏が憎しみの対象になっている。

イーロン・マスク氏が解放した、Twitter社がやってきた情報操作のやり口が、つぎつぎと公表されて、とうとう、FBIとか、その上の司法省との結託が暴かれて、言論の自由を保障した憲法違反の事態だったことがアメリカ人に衝撃を与えている。

何度も書くが、憲法が規定するのは、「国家が対象」だから、FBIとか司法省の関与が、違憲となるのである。
これが、トランプ政権下でも実施されていたことに、驚きを禁じ得ない。

つまり、「政権を無視」する、官僚群の存在も確認されることになった。
この官僚群とは、日本の官僚制を手本にしてつくった「終身制のSES」のことをいう。
政権交代で数千人が入れ替わる政府職員を監督する立場の、超高級官僚群である。

もちろん、EUも、日本の官僚制を真似たし、中共も同様である。

歴史的には、「科挙」がオリジナルだけど、江戸期まで科挙を一度も採用しなかった歴史のあるわが国で、「近代化」の名の下に「高等文官試験」という科挙制度を導入し、これを常態化させた。

しかしながら、科挙に合格した超高級官僚群は、「国際機関」という名の「役所」にも入り込んで、国家群を支配するのである。

これが典型は、EUだけれど、すべての国際機関がこれにあたる。

たとえば、IATA(International Air Transport Association:国際航空運送協会)は、「One ID」なる、デジタル統一書類を導入して、搭乗の便を図るとしたけれど、一方で個人情報の統一管理につながる重大事にもみえる。

これが、デジタル・ワクチン・パスポートと連携して、さらに、本物のパスポートもつながれば、はたして「旅行の自由:移動の自由」を制限できるようにも応用できる。

そして、究極が、デジタル・通過だ。
国家などによる個人の生殺与奪が、うそみたいに容易になるのだ。

そんななか、ノー天気なわが国財界は、二度目の「酒屋」をトップにするという人材不足に苛まれている。

最初は、アサヒビールの樋口氏だった。
けだし、世界的に有名なシェア奪回の立役者は、樋口氏の前任だった村井勉氏だと、ハーバード大学ビジネス・スクールの有名な教科書「ケース・スタディ」にある。

樋口氏や村井氏を、あるいは新浪氏を云々したいのではなくて、どうして財界代表が「酒屋」なのか?をもっとかんがえたほうがいいといいたいのだ。
この人事をよろこぶひとは、たぶん「偽善者」なのである。

日本経済は大丈夫なのか?
いまの子供は、遠くない将来、どんな就職をするのか?

辞世を残す人生がない

ついこの前までのむかしのひとは、「辞世」を残して死んでいた。

「辞世」を残さないのが、主流になった感があるけれど、その理由をかんがえると、なんだか辞世を詠みたくなるのである。
しかし、自分にそんな教養がないことに愕然とする。

歌を詠んでたしなむのは、カラオケに興じることではない、完全なるクリエイティブな行為だけれど、その大元になるのはなにも「語彙の豊富さ」だけでなく、最大の問題が「感性の貧弱」なのだと自覚するしかないのである。

当然だけど、辞世とは自分の人生の最期に残す言葉なので、死期を覚悟したら筆をとって書いておかないと、辞世にならない。
これが、いまでは「遺言書」になって、なんだか事務的なのである。

それでは「いつ」、自分の死期を覚悟するのか?という問題が、辞世を残す教養の有無の前に立ちはだかる。
この意味で、「余命宣告」というものは、ありがたいことになるのだけれど、それが、本人の頭脳を明晰なままで、という条件と必ずしも一致しないうらみがある。

いわゆる、痛み止め、ということでのモルヒネの使用がはじまれば、適度な麻薬中毒にさせられることもかんがえておかないといけないからである。
すると、第3ステージとかの宣告を受けた時点で、辞世の準備をしないといけない。

まだ、癌のばあいはいいけれど、脳卒中とか、不慮の事故となれば、絶望的だ。

もっと絶望的なのは、病院は病気を治すところだという、暗黙の了解ができてしまったので、辞世をかんがえたいといっても、嫌なかおをされるにちがいない。
すこし前の世代のひとは、畳の上で死ぬことにこだわっていたけれど、いまは、帰宅させない家族の事情もふえた。

いまどきはいわなくなった「完全看護」というものが、病人の病院への預け入れ、となったからである。

その前は、「いざ」ともなれば家族が病室に寝泊まりもできた。
身の回りの世話を、家族がやって看護師(婦)は、専門の医療行為に特化していたからである。

例によって、穿った見方をすれば、公的健康保険によって、病人の物質化が推進された、ともいえる。
つまり、すべての病人は、「保険点数」によってコントロールされるので、病院は「保険点数表」に記載された「医療行為」をもって営業している。

この点数があれば、「完全看護」という名の下に、看護師の職務としないと点数加算できないから、請求(保険と患者負担の両方)ができない。
売上をたてるにあたって、料金が国家によって制限されるのは、バスやタクシーの料金とおなじ仕組みなのである。

これを、新聞などのマスコミは、「医療産業」とか「ヘルスケア事業」といって、調子にのった政府は、将来の「成長産業だ」とうそぶいている。

すると、意図的に国民を不健康にしないと、成長しない産業になる。
もちろん、将来は、確実に人口が減少するからだ。
だから、人口が減る分も加味して、国民を不健康にさせないと「医療産業」は成長しないという、驚くべきメカニズムに気づくのである。

そこででてくるのが、「不老不死の実現」を擦り込む宣伝(プロパガンダ)なのである。
これがいわゆる、つくられた「健康ブーム」であって、その結果として脳を冒されたひとは、「健康のためなら死んでもいい」とかんがえるようになる。

その浅はかさが、たとえば、居酒屋にある「メガ・ジョッキ」なる商品で、むかしの中ジョッキほどの容器に、緑茶とかトマトジュースで割った「甲類焼酎飲料」ではないのか?

工業的に製造されるアルコールを「甲類焼酎」としていることも意識せず、ただ、緑茶が健康にいいとか、トマトジュースで「正当性」を担保するのである。
その緑茶やジュースに、どれほどの残留農薬があるかも気にしない。

そんなわけで、過去のひとたちの「辞世」を、文学として読んでみることに、それなりの価値があるのは確かだろう。
そこには、確実に本人の生き様が表現されている。

すると、「命は大切」といういまのご時世ほど、個人の人生はないがしろにされていて、「寿命」も「医療」も、比較にならなかったむかしのひとの生き様が、かえって神々しかったことがわかる。

校長先生が自分で出した本だけど、本文の前からすでに一読の価値がある。

それにしても、「辞世」を残すのは、なかなかの日本文化なのだ。
だから、民族の文化破壊をしたいひとたちは、日本人に辞世を残させない努力をしているとかんがえると、妙にスッキリするのである。

『万葉集』が世界に冠たる「詩集」になっているのは、ヨーロッパでもかんがえられない、8世紀にして、天皇や貴族ばかりか庶民が歌を詠んでこれを国家が、一緒に残したことの意味だ。

政府に依存することをいいたくはないけれど、庶民の辞世を集めるくらいの事業をやった方がいい。
国家存亡の危機にあって、はるか将来の人類に、価値あるものになるにちがいないからである。

残念ながら、「歌」にすることができないならば、せめて「作文」でも残しておきたい。

田舎の料理動画の共通

アゼルバイジャンの田舎でひたすら食事を用意している動画が、すさまじい再生回数を稼いでいる。
しかも、撮影者は家族とおぼしきひとで、その4K映像の美しさもさることながら、さりげない「日常」の風景が絶妙なアングルで撮られていて、観ていて飽きない。

たとえば、窓に飾られている花とか、犬やニワトリなどの様子が、料理支度の合間合間に挿入されていて、その場の雰囲気があくまでも第三者的な目線でつくられている。
そのセンスが、素人とはおもえない。

ただし、ひたすら料理を作っている映像なのに、どういうわけか、「生活感がない」のである。
それに、「せりふ」がない。
無声映画ならぬ、無言動画なのだ。

さらに不思議なのは、洗濯物がないことだ。
撮さないにしても、物干し台も確認できない。
それに、家の敷地内に、やたらと「かまど」があるのだ。

気分かどうかはわからないけど、これらのかまどを万遍なく使っているのは、回を重ねてみているとよくわかる。
最後まで観ないと、なにを作っているのかもわからない。
ただ、出来上がって食べ始めると動画は終了してしまう。

こんな動画が、どういうアルゴリズムなのかある日出てきて、何度も観ているうちに、似たような動画がまたでてきた。
それが、どうやらアゼルバイジャン国境のイラン側のものと、西に翔んでウクライナの山中に暮らすひとの「料理シリーズ」なのである。

アゼルバイジャンとは、「火の国」という意味だ。
天然ガスが岩から漏れて、これにどうやって着火したかはしらないが、少なくとも数千年間燃え続けている場所が、天然記念物として有名な観光地になっているという。

それが、人類初の啓典宗教を生みだして、「ゾロアスター教」になった歴史がある。
人間の営みは、この周辺の地形がシルクロードの要衝だったことから、住んでいるひとの都合とは関係なく国境をわけた。

それで、アゼルバイジャンよりもイラン側に住む「アゼルバイジャン人」が多いという複雑がある。

だから、動画内で「イラン」とか「アゼルバイジャン国境」という場所の表示があっても、民族としてのペルシャ人ではない、国境で分断されたひとたちがつくる料理が、観ていておなじなのに気づいた。

ちがうとすれば、日本における郷土料理ほどもないちがいで、群馬のうどんと埼玉のうどんといった感がある。

これが、いわゆる「種(イースト)なしパン」の場合の「おなじ」にみえる。
しかし、「種なしパン」のふつうがある地域は、北アフリカのエジプトもおなじだから、おそるべき「おなじ」があるのである。
ウクライナでも、種なしパンを焼くシーンがある。

もちろん、このパンについては聖書にも記載があるものだ。

だから、地図上の平面だけではなくて、時間の奥行きもふくめて、おなじ、なのだ。

そうはいっても、種なしパンだけがパンではなくて、ちゃんとイーストをいれて発酵させるパンもつくる。
赤身の牛肉と羊のボンジリ脂を包丁で叩いてつくる、ハンバーガーは、ちゃんとバンズから焼くから、みていてぜったいに美味いとわかる。

調味料は、塩とコショウ、それにターメリックがたまにはいる。
極めてシンプルなのである。
横浜にあった、「夜逃げしたペルシャ料理店」の美味さの記憶がよみがえる。

カスピ海を東に越えて、ヒマラヤの南縁にある、ブータン料理は、塩とコショウ、これに唐辛子と山椒を組み合わせた、といってもこれだけの調味料なので、たいへんわかりやすい味だ。
ただし、唐辛子と山椒が効いているから、総じて辛い。

アゼルバイジャンでは、唐辛子がないのではなくて、いがいと多用しないのだ。
そのかわりに、ターメリックをつかうので、おそらく「やさしい味」に仕上げているとおもわれる。

一方で、戦争中であることを感じさせない、ウクライナの山中とは、いったいどこなのか?動画では一切の説明がない。
日本のような、ただしそんなに険しくはない、中腹の村といった感じの場所に家がある。

これら三カ所は、水道もない場所にある。
井戸か湧き水から汲んできている。
そして燃料は、かならず「薪」だ。
しかも、マッチ1本で薪に直接火をつける。

この大量の薪を、どうやって調達しているのかも不明だ。
ただし、「斧」は必需品なので、女性といっても扱い方に年季がはいっている。

むかし、日本に暮らす外国人が、日本のお土産を故郷に持ち帰る番組があって、モデルをしているモルドバ人が、ウォシュレットと日本製の斧を持ち帰ったのを観た。

母親の面倒をみてくれている伯父さんが薪を探しにでかけたときに、土産の斧の切れ味に驚いて、「日本人はこんなすごい切れ味の斧をつかっているのか?」という場面が印象的だった。
電気とガスの生活だといっても、想像を超えているだろうから、「そうね」といって話題を変えたこのひとは、日本人的な配慮ができるようにもなったのだろう。

それにしても、なにを料理しているのか?出来上がってもそれがどんなものなのかがわからないものもある。

まだまだ、世界は広いのだ。

「いいひと」と「わるいひと」

むかし、うまい広告を矢継ぎ早にだしていたサントリーのCMに、「いいひとって寒いですね」というフレーズがあって、画像でウィスキーを飲めば温かくなるようなイメージを演出していた。

これは、キッコーマンの醤油のCMで、明石家さんまが「幸せってなんだろう?なんだろう?キッコーマン、キッコーマン♪」と歌っていた、「傑作」に匹敵するすごさだといまでもおもっている。

どうして、キッコーマンが幸せなのか?
「食卓を囲む家族の存在」そのものが、幸せ、だといえるし、たとえひとり飯でも、キッコーマンの醤油があれば美味しくて幸せになれる、ということだと解釈された。

ソ連がロシアになって、ウラジオストックを旅行したとき、宿泊したホテルのレストランは、「イタリアン」だったけど、ぜんぶのテーブルに、あのキッコーマンの醤油サシがおいてあった。

なんでイタリア料理店でキッコーマンの醤油なんだ?と、大いなる疑問になったので、質問したら、シベリア出兵(1918年~22年)でやってきた日本兵3万人が持ち込んだ「醤油」が普及して、この地域では食卓に醤油がない、ということがあり得ないからだ、という答だった。

あり得ない、という発想のあり得ない素直さに驚嘆したのである。

何気ないけど、「哲学的」ともいえるキャッチを生みだす専門家が注目されて、「キャッチ・コピー」から「キャッチ」を省いた、「コピー・ライター」という職業人が社会的認知されて、憧れになったのである。

では、「寒い」いいひとってどんなひとなのか?

自己犠牲の精神をもったひと、とかもあるけれど、他人に利用されるばかりで「バカをみるひと」という意味だろうか?
すると、正直者はバカをみる、ので、バカ正直はダメで、適度な嘘つきが「世渡り」には必要だということになる。

一直線のバカか、適度なバカか?
どちらにしても、いいひと、は損をするバカだから、ウィスキーでも飲んで自分を癒しましょう!ということなのか?

1996年のアトランタ・オリンピックで、3位に入った女子マラソンの有森裕子さんが放った、「初めて自分で自分を褒めたいと思います」が、なんだか新鮮だった。
それで、マスコミは「名言」として扱って、いまでも「名言」になっている。

この「新鮮」の意味には、ちょっとした「違和感」があったのだった。

なんだか日本人的じゃない、自己満足と自己陶酔の表現というものを、口外しないのが日本人だったからである。
ちなみに、このとき、有森さんは30歳(1966年生まれ)だった。

一般人が違和感を持つことを、「名言」として扱いつづけることは、やっぱりプロパガンダである。
本人の意思とは関係ないから、有森さんを云々する気は毛頭ない。
それでもって、いまでは十分「名言」になって、違和感を持つことが「変」になった。

これは、大袈裟にいえば、いや、大真面目に、「文化革命」なのである。
日本人の意識が、改造されて、それが成功したのだ。

ふつう、なにか悪い結果となったときの原因をさぐると、たいがいが「善意」からの判断が残念な結果になる。
最初から、「悪意」があって、そのまま悪い結果になることは滅多にないものだ。

しかし、プロパガンダはちがう。
その「目的」は、プロパガンダ自体の意図だから、最初から悪意なのである。
つまり、善人をして「悪化」させることが目的だ。

「自分へのご褒美」のどこに悪意があるのか?をかんがえると、「甘えの構造の容認」という「悪魔的ささやき」にゆだねることになるからだ。
子供は親に甘える構造で生きている。

思春期に、「反抗期」があるのは、子供からおとなへの成長によって、「甘えの構造」からの脱却をはかるという、重要な行動原理がある。
つまり、「反抗期」を経ておとなになるのだから、心の「はしか」のようなものだ。

だから、「はしか」にかからないで成人したら、それが命取りになることもある。

幼児期に「はしか」が流行れば、親はこぞって幼稚園や保育園に行かせて、なるべくうつして貰うようにしたのだった。
このくらいの知識は、当時のおとなたちの常識だった。

わたしは、ぜんぜんうつらずにいて、そうこうしているうちに、幼稚園が臨時休園してしまったのである。
「はしか」の流行がすさまじいという「理由」だったけれど、親からしたらどうしてくれる、だった。

そんなわけで、わたしは、「はしか」を還暦を超えてもやっていない。

もはや、わたしにとって怖いのはコロナではなく「はしか」なのだ。
だから、成人して、従兄弟の子たちが「はしか」にかかったときは、ぜったいに近寄らなかったし、従兄弟たちからも近寄ると危険といわれたものだ。

どうしてこのとき、通っていた幼稚園が臨時休園したのか?
いまでは「謎」のままだけど、わたしにとっては命にかかわる重大事の「悪意」にしか思えない。

そしてそれが、もしも「善意」のいいひとが園長だったからか?それとも行政からの指導だったのか?を思えば、いま「悪意」を予感するのは、あの優しい園長先生ではなく、やっぱり行政の影を感じるからである。

行政の悪意とは、責任逃れの一点に源泉がある。

だから、わるいひとほど「自己責任」をいっておきながら、「自分へのご褒美」を推奨するのである。

アメとムチ、そのものである。

「いい子」ゆえに反抗期を失って、あたまは子供なのに身体はおとなという「いびつ」な生き物に、日本人を改造したのである。
そんなひとたちが、50歳以下のぜんぶになった。

二次元で生きている

ハッとする名言を、懇意にしている飲食店の社長が吐いた言葉である。

二次元とは平面のことだ。
接客サービスをする、お店の平面でしか思考がない、という意味だ。
あるいは、そんな平面での業務をどうやって廻すのか?に集中している、という意味でもある。

なぜならば、この店は、大繁盛店で、都合がいい日時を指定したいなら、ぜったいに予約しないと入店できないし、その予約も困難なのだ。
これを一家4人とアルバイト2人とでやっている。
なお、調理場の人数はべつだ。

接客要員が6人で、よくもこの席数の面倒を見られるものだと感心するが、ムダな動きがないばかりか、見事といえる阿吽の呼吸が揃っている。
短期のはずのアルバイトも、一人前の働きをするのも見事なのだ。
学生さんだから、どんなに長くても4年で引退してしまう。

つまるところ、この流れるような活気ある接客を、客は堪能しにやってくるのではないか?

ウェイター、ウェイトレスなんて、消耗品だといってはばからない経営者にであったことがある。
学校の成績が悪くて、進学できないで就職してくるのだから、我が社は掃きだめのようなものだ、と。

ならば自分でウェイターの仕事をしたことがあるのか?と質問したら、自分は経営者だから、そんなことはやったことがないと豪語した。
けれども、経営状況の改善をしたくてわたしに依頼したのだから、その原因を実態から分析するのは当然となる。

そうして、なんやかんやの後、敵情視察と称してこの社長がいう「凄い店」を見学に行った。
それはまるで、上記の店のような大繁盛店で、上記のように流れるような接客をしているのだった。

すると、この店には優秀な従業員が集まっている。
どうやって集めているのでしょうね?というから、店長に直接きいた。
「ふつうに募集しているだけ」とのこたえに、ぜんぜん納得しなかった。

それで、こんどは一番若いひとに目をつけて話をきいたら、店長や先輩たちがいろいろと細かく教えてくれるから、安心して楽しく働いているとの回答だったのだ。
しかも、ちゃんとしていて少しもぎこちなさがないのに、3ヶ月ほどの経験しかないという。

もう一度、店長に聞いたのは、社長は誰か?ということだったけど、案の定、店長が社長だった。

そんなわけで、困った社長に、接客体験をしてもらうことになった。
「接客なんか簡単ですよ」とうそぶいて、いざやってみたら、なにがなんだかわからなくなって、挙げ句にお客から煽られる始末だった。

以上は、平面にもならない、一次元の「点」の思考をしていたひとの例である。

しかし、「二次元で生きている」といった、冒頭の社長は、ほんとうは「三次元や四次元でかんがえることに憧れる」と話すのである。
当然ながら、三次元は「立体」のことであり、四次元には「時間」がくわわる。

人間は三次元で生きていて、四次元の世界はタイムマシーンがないかぎりどうにもならない。
だから、「時空を超えた」四次元は、思考の世界でしかないのである。

接客業にとって、「いま」だけをかんがえるのに、ふだんは平面しかないけれど、この世界の「いま」は、三次元だ。
たとえば、食材だけでも、地上のものと、海の中のものがあるし、高騰しているエネルギー・コストをかんがえたら、途方もないことになっている。

けれども、途方もないことだからかんがえることに意味はない、ということが嫌だといいたいのが、この社長の思考と欲求なのである。

そんな途方もないことを意識しながら、平面で生きているのだ、と。

だから、このひとは、いまの世の中が、途方もない方向へ向かって突き進んでいることを、途方もない不安の目で見ることができている。
「たかが飲食店のオヤジ」ではないのだ。
むしろ、話があうオヤジであって、なお、わたしよりまだ若い。

なにか途方もなくて、世の中がわかる話はないですか?といつも聞かれるのは、わたしにとっても、途方もない。

それで、このブログでも書いた、『ビルダーバーグ倶楽部』を紹介したのは、蔵書としている横浜市立図書館が目と鼻の先にあるからだ。
おそらく予約しても、すぐには借りられないけれど、気長に待って、忘れた頃に貸出の案内が来る方が、一層の途方もなさを理解できるだろう。

もちろん、世界も日本のマスコミも、メジャーなところはほとんど、この「倶楽部」の傘下に収まっている。
さほどの「大富豪たち」が、「言論」を買い取っている。

かつてできなかったのは、「大富豪」にも限界があったからだけど、世界をまたぐグローバル大企業の出現で、金持ちのレベルが人類史級にアップグレードしたことが「原因」なのである。

ゆえに、独占禁止法が、無力化してしまった。
この法律の適用をさせないための「おカネ」が、とうとう裁判官にも及んでいる。

すると、われわれは、ほんとうに二次元の世界だけに押し込められてしまうのか?という瀬戸際に、いま、あるのである。
不思議なことに、これを求めるひとたちが、あんがい多数になっている。

「SDGsバッジ」を襟に付けて歩いているひとが、それ、だ。

きっと将来、このバッジ(あるいは生体)にチップがついて、行動を監視されるようになるのだろうけど、つけないひとは、電子通貨が使えない、という処置をうけて、社会から排除されるにちがいない。

電子通貨こそが、人類支配の最終兵器なのである。
これを、倶楽部は「公言」しているので、念のため。

「地銀」の存在価値

全国の県庁所在地に本店を置くのが、地銀:地方銀行だ。

わが国で、銀行業をはじめて始めたのが、渋沢栄一であったけど、明治政府から頼まれて設立した経緯がある。
なので、「第一国立銀行」という名の、民間銀行第一号になった。

なお、どうして「Bank」を「金行」といわず、「銀行」というのか前に書いた。

ただし、社名に「Bank」と書いていなくとも、「金融業」をやっていれば、それは「広義の銀行」だから、第一国立銀行がわが国で最初の銀行ではなく、まだ江戸時代だった横浜に開業した、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」がこれにあたる。

大桟橋の付け根、「開港広場前交差点」のシルクセンター側の角が「跡地」、すなわち、「英一番館跡」がそれだ。
当然ながら、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」が、わが国にやってきた「外資企業」のはじめてだから、「英一番」ではなくて「世界一番」だった。

とはいえ、大英帝国が「世界」でもあった時代だ。
それで、「英一番」には、「世界一番」の意味がある。

では、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」は、どんな「金融」をしていたかといえば、「貿易決済」であって、「小切手」を扱っていたのである。
鎖国していた江戸期には、世界一「内国為替」が発達していたために、小切手は日本人にはなじまない。

いまだに、日本人になじまないのが「小切手」だから、これはもう、「文化のちがい」の典型例となっている。

それにしても、「ジャーディン・マセソン商会」といえば、「阿片貿易」が連想される、悪名高き会社である。
しかしながら、よくよくかんがえれば、「大英帝国」が大英帝国ならしめたのが「阿片」によるかんがえも及ばない「莫大な利益」なので、ジャーディン・マセソン商会とは、「大英帝国の本質」といって差し支えない。

つまるところ、よくいって「経済やくざ」なのである。

だから、横浜での事業の本業が「貿易決済」だといっても、中身については「ヤバイ話」があっても、ぜんぜんおかしくない。
そんなわけで、横浜人は、アジア人に厄災をもたらした大英帝国の本質たるこの会社の所業を決して自慢してはいけないのである。

ついでに、『ロビンソンクルーソー』も、阿片貿易で富を得て、日本を目指す旅をするけど、台風に阻まれて断念するという話になっている。
さほどに、当時の英国人は「麻薬」だろうが何だろうが、自分だけ儲かればなんでもよいという「道徳観」がふつうだった。

すると、このどこに、マックス・ヴェーバーがいう「資本主義の精神」があるのか?はなはだ疑問なのである。
これが、わたしが「資本主義は未来のシステムだ」という、アイン・ランドに同意する理由でもある。

「ジャーディン・マセソン商会」が、「物(ブツ)」を中心としたのに対して、本業で「カネ」を扱ったのが、「HSBC:香港上海銀行」である。
阿片貿易の決済は、HSBCなくして語れない。

すると、横浜にHSBCよりも早くにやってきたのは、それなりの「先見の明」だったのか?それとも、HSBCと話を付けた先遣隊だったのか?

そのHSBCも、個人相手の業務はとっくに日本から撤退した。

アジアとヨーロッパを接続する、一大国際ハブ空港になった、トルコのイスタンブール空港には、HSBCに個人口座を持つひと向けの「ラウンジ」があって、この銀行が発行するクレジット・カードを見せると利用できるようになっている。

「金商法:金融商品取引法」ができた2007年(平成19年)、この法の裏目的にある「キャピタル・フライト(円資産の海外流出)防止」のために、日本人は、HSBCのような外国銀行に、外貨預金口座を個人名義で開設できなくなったのである。

よって、空港ラウンジすら、つかう権利もない。

「金解禁」という、もっぱら国内事情(じつは「グローバリズム」)による政策で、昭和2年にはじまる「昭和恐慌」のため、だれでも設立できた銀行がバタバタと倒産した。
「世界大恐慌」は、その2年後の、1949年のことに注意したい。

これから徐々に、国家総動員体制となって、県庁所在地に一行だけという地銀体制ができて、いまに至っている。
ちなみに、東京は特殊だけれど、「富士銀行」が、事実上の都にとっての地銀で、「みずほ銀行公務部」が引き継いでいる。

「国内」ばかりか、「地域ローカル」という営業許可の範囲しか自由を与えられていないのは、トラック運送業やバス・タクシーとおなじ国による社会主義経済の構造だから、貸出先の地元に資金需要がなくなると、「貸金業」としての根本価値が危うくなる。

これが、地銀同士のグループ化になって、アメーバの結合のようなことになった。

けれども、効果が「足し算」にすぎず、経営統合の文言にしている「相乗効果」すなわち「掛け算」にならないのは、預金の「運用」ができないからである。
それで、どちらの地銀も、外国債券投資しか低リスクで高利回りが期待できないので、これに走ったのである。

バスに乗り遅れるな、という横並びを嗤えないのは、「追いつめられた」からでもある。
この「雪隠詰め」の恐ろしさを、地銀が教えてくれていて、蟻地獄のごとく脱出できないのは、かつての自由主義経済の教科書通りなのである。

といいつつ、悲惨なのは、およそ「機関投資家」として、外債の専門ディーラーも育成してこなかった「国内だけの事情」があったので、社内昇格するお偉いさんたちにも外債の知識なんかない。

だから、外国の証券会社を通じて、「投資信託を購入する」という、ほとんど個人投資家とおなじことを、ただケタ違いの多額でやっている状態になったのである。
それがいま、円安で巨大な含み損の資産になってしまった。

なんだか哀れだけれども、これをどうすることもできないのが、「金融行政」という、どうにもならないことがある。
なので、マスコミは、地銀があたかもバカのように批判するだろうけど、もっと巨大な、エリート気取りのバカがいることを書かないのである。

ジャーディン・マセソン商会がやっていたことも、大英帝国がやっていたことも、書かないのとおなじなのだ。

構造がおなじ、他業種はこれをどうみている?

ミステリー「教養」小説

日本人とは何者なのか?

ご先祖たる「縄文人」が、どこからやってきたひとたちなのかも、じつはわかっていない。
だから、「日本語の起源」すら、わからない。

むかし、大ヒットしたテレビ・ドラマに『ルーツ(Roots)』があった。
アレックス・ヘイリーが自身の家系をたどって、小説化したのを原作にしたのだったが、アメリカでは1977年に8日間連続放送(ABC)されて、なんと全米平均視聴率を、44.9%もたたき出して、社会現象にもなった傑作だ。

ゆえに、エミー賞も受賞している。
いまとなっては、キャンセル・カルチャーとしての「批判的人種理論」のルーツにも利用されようとは、作家の想像を超える事態になったのである。

さて、同年秋(10月2日から8日間連続)、日本語版が放送されて、どの学校でも誰かが「クンタ・キンテ」とあだ名が付いたし、タイトルの「ルーツ」が日本語化された。

それから、「自分探し」とか、「家系図」とか、時間をもてあました教養ある退職者には「自家版ルーツの執筆」というブームにもなった。

もちろん、ワープロもパソコンもない時代なので、作家気分に浸るための「環境整備」が重要視されて、万年筆とかの筆記具ばかりか家具も購入されたし、「原稿用紙」をオーダーすることもブームになった。

万年筆なら、軸太の「モンブラン マイスターシュテュック」か「ペリカン スーベレーン」が定番なんだろうけれど、国産だと、「パイロット カスタム823」というポンプ式大容量インク・タンクの逸品がある。
どれにしても、次には「インク沼」がやってくる。

なお、高級万年筆は、ペン先の「研磨」が重要なので、購入後毎日使ったとして1ヶ月後、そうでないなら3ヶ月後とかに、「調整」といって「再研磨」を依頼すると、驚くほどの書き味になる。
持主の「書き癖」が柔らかい金ペンの減りに現れるのを、職人が見破って角度調整してくれるからである。

だから、売りっぱなしの店で高級万年筆を購入するのは、まずい、のである。

原稿用紙は、紙質やマス目の罫線をどんな風にするのかもあるけれど、自分の名前を欄外に入れるので、その書体もどうするかが悩ましい問題になったのである。
なにしろ、オーダーメードだから、いちど決めたら浮気がしにくい。
補充をするときは、オリジナルとおなじものになるからである。

ただし、その価格は驚きなので、作家といえば有名なイメージの、書き損じたら原稿用紙をクシャクシャ丸めて投げ捨てるようなことは、もったいなくてとてもできない行為なのである。
それで、下書きを安い原稿用紙でして、清書につかう、という工夫をすることになった。

さてそれで、ミステリーなのに教養小説に仕上がっているのは、『アマテラスの暗号』(伊勢谷 武、2020年)だ。

「神道」というと、古代からのイメージがあるけれど、現代のわれわれにとっての神道は、あんがいと新しくつくられた宗教の概念である。
なので、「神社」といった方が古代に近づくことができる。

とはいえ、神社にある「由来」には、たいがい「官幣社」とか「郷社」とか、明治政府がつくった「社格」によるヒエラルキーの記述があって、これが、「新しい」から、現代のマスコミ報道と同様に、その部分は「読まない」ことにこしたことはない。

あたかも「社格が高い」ことを、神社側が主張していることも、神社らしくない。

問題となるのは、「信仰心」だからである。
ここが、たいへんな「キモ」なのだ。
欧米人が近代以降に失ったのがこの「信仰心」で、それに取って代わったのが「理性」である。

これを、「宣言」したのが、デカルトの『方法序説』だった。
現代の「科学万能主義」は、ここからはじまる。

だから、科学万能主義という「理性」だけでもって、「信仰」を旨とする宗教をみようとすると、ぜんぶが「カルト」にみえてくる。

もちろん、宗教側(おもにローマ・カトリック教会)も、ひとびとの信仰心を利用して大儲けして身分までも確立し、特権とした酷い歴史があるから、これをルサンチマン(弱者から強者への鬱憤)したのが「政教分離」だったのである。

さらに、新興宗教の究極としての共産主義・全体主義は、マルクスが書いた聖書のパロディだから、「(既存)宗教を麻薬」とみなして否定して、自分たちだけを信じろという。
つまり、「理性への信仰」を疑いなきものとしたから、新興宗教の究極なのである。

これをふつう、「屋上屋を架す」というのだ。

そうやってみると、いよいよ神社の不思議がみえてくる。
教義も経典もない、鳥居とやしろ(社)だけが建っていて、その社のなかにも、御簾の先にも、ほんとうはなにもないのだ。

ならば、なにを拝んでいるのか?

自らの信仰心を確認しているのである。

ゆえに、神社は破壊の対象になる。
近代文明の根源にある「理性への信仰」に、もっともそぐわない存在が、日本だけにある神社だからだ。

どうして日本だけなのか?
どうして周辺国にも、世界にも神社はなかったのか?

そんなことはどうでもいい、と、初詣の準備は着々とはじまっている。
この「ふつう」のすごさが、ほんとうのミステリーなのである。

「曝露」は正しいことだけなのか?

世の中「曝露ブーム」である。

たとえば、参議院議員になった「ガーシー氏」は、とにかく「有名人の曝露」で有名になったひとである。
当選後、一度も帰国せず(詐欺容疑で逮捕される可能性があるため)、もちろん「登院」もしていない。
国会議員が、国会に出ないのは職場放棄だとして、懲罰の対象になれば、「最高刑」は除名である。
これが、ずっとこの議員にまつわる話になっている。

ただし、公正な選挙で当選した事実があるから、めったやたらに、懲罰できない。
民主主義の建前が、ガーシー氏の身分を守っている。
そんなわけで、今日も元気に曝露を続けているのである。

そこで、彼の情報源はどうなっているのか?
じっさいに、彼は「告発クラブ」のような組織をサイバー上でつくっていると公言している。
その中身の信憑性を担保するための、しくみ、も構築しているという。

これが、泉が枯れないごとくの、「源泉」なのである。

こんなことは、ふつうのひとにはできないから、ガーシー氏のオリジナルになるのだ。
そこにまた、「世直し」という建前もかましているので、支持者も絶えない。
芸能ネタをバカにできないのは、むかしから「外国勢力」との関係があるからで、その関係図も大きな変化がある。
すると、外国からの情報戦にひとりで挑んでいるヒーローにもなるのである。

そんな政治ネタばかりでは、芸能ネタだけをみたいバカが飽きるので、芸能人の下ネタも織り込む。
ところがこれが、あれよと、国際売春組織の曝露につながるから、やっぱり政治ネタにもなっている。
国際売春組織の裏に、とある外国政府やらの政治・外交戦略が見え隠れするからだ。

そんなわけで、ガーシー氏を「お下劣」だとして、「国会の品位を穢す」と一方的に非難できないのは、そんな指摘をする国会議員の品位がとっくにないからでもある。
すると、そんな議員たちを選ばされている国民にこそ品位がない、ということになって無限ループする。

ここに、曝露の価値が生まれるのである。

さてそれで、ガーシー氏には悪いけど、巨悪の曝露がアメリカではじまった。
それが、「Twitter File」と名づけられた、Twitter社の社内文書の曝露だ。

これは、世界的規模で今日も行われている「ビッグテック」による、「検閲」に関して、イーロン・マスク氏が買収して検閲団体から脱退したTwitter社で起きている、一連の「浄化運動」のことでもある。
その成果を、Twitter社はTwitterを通じて発表している。

「第一弾」として発表されたので、最低でも「第二弾」があるとおもわれる。

その第一弾の内容は、2020年大統領選挙「まで」のことだった。
だから、第二弾は「その後」になると大方のひとたちに予想されている。

その最大の「検閲」は、バイデン氏の次男(長男は亡くなっている)、ハンター・バイデン氏のパソコンから得られた「不正」を暴いた「ワシントンポスト紙」のスクープ記事に関する言論封殺である。
なにもTwitterだけがやらかしたことではないので念のため。

今回の「曝露」だけでも、たいへんな反響がアメリカで起きている。
なかでも、これらビッグテックによる「検閲」を側面から支えた「ジャーナリストたち」が、一斉にヒステリックな反応を示していて、逆に火に油を注ぐことにもなっている。
ついでに、かれら自身の化けの皮を自分で剥がすことにもなっていることが、哀れなのである。

このことと、州が連邦政府を提訴した裁判で、FBIが「検閲」を支持していたことが、宣誓供述としてでてきた。
すると、法的に「出版」とみなされている私企業による「検閲」自体は、言論の自由を確保すべしとした憲法には抵触しないが、政府機関であるFBIが関与したとなると、一気に憲法違反の重大な問題になるのだ。

なぜならば、近代国家の憲法とは、国民から政府への命令書なので、憲法が縛るのは「政府=公務員」だけだからだ。
一般国民や民間企業が、憲法違反を問われることはない。
ただし、一般国民や民間企業でも、政府の依頼を受けたことだと、それは政府とみなされる、というアメリカ合衆国最高裁判所の判決がある。

つまり、Twitter社は、民間企業ではない、と認定される可能性もある。
また、Facebookのザッカーバーグ氏も、裁判証言でFBIからの協力要請があって、これに応じた、といったから、株価が急落した経緯もある。

沈黙しているのは、グーグルとアップルになった。
もちろん、ご存じのように、グーグルにはユーチューブがあるし、グーグルストアもあって、ストアでは、アップルも同じく、保守系とみなされたSNS「Getter」の販売拒否という手段もつかわれて、ユーザーはアプリのダウンロードができなくなった。
この手法には、Amazonも加担した。

しかし、それでもわたしは、イーロン・マスク氏の本意をうたがって、納得していない。
これはまったくの「勘」ではあるのだけど。