雷は地上から上空へ「昇る」?

台風なのか?熱帯低気圧なのか?それとも温帯低気圧か?が曖昧な、一応台風15号が通過した。
横浜は、ずっと「ゴロゴロ」と雷鳴が轟いていたけれど、音だけだった。

先週の14号では、ごく近所に三つほど「落ちて」、よくも停電しなかったものだと思うほど「腹」に響いたものである。

昔から、雷は「落ちるもの」だから、ちゃんと「落雷」というけれど、おどろくことに、雷は「地上から上空へ」電流の柱が「昇る」のである。
たしかに、小さな電流があちこちの上空から降りてきて、これが地上に到達すると「通電」する。

しかし、それだけ、では雷にならず、通電の瞬間に今度は「雷」となって、上空に昇るのである。
それが、「稲妻」だ。

人間の目には、上空からの小さな電流が見えない。
見えるのは、「稲妻」である「雷光」で、それとプラズマ化で空気を裂くことでできた「雷鳴」が、同時に「落ちる」ように感じるのである。

つまり、稲妻の前段階である、地面に通電する、という点では「落ちてくる」のでる。

では、上空とはどのくらい「上」なのか?
「水蒸気」でできている「雲」は、「対流圏」までしか存在できない。
ジェット旅客機が巡航する、「成層圏」に雲はない。

すると、だいたい地上から極地では6キロメートル、赤道で17キロメートル上空が「対流圏界面」という境界になっている。
なので、小さな電流が落ち始めるのも、この高さを上限とする。
なお、このあたりの気温はマイナス50度はある。

それで、水蒸気は氷粒になるけれど、「核」となるなにかがないと水蒸気が集まって固まらない。
これがまた、太陽からの「放射線:太陽風」による「塵」が材料なのだ。

この氷粒が落下して、温度が下がると雪になり、さらに温度が下がると雨になる。
雨になるのは、だいたい4キロメートル上空から下なので、ここから地上に降るまでに空気抵抗もあって1時間~40分ほどかかる。

つまり、いま傘に当たっている雨粒は、1時間前に「降り出した」ものではあるけど、おそらくさらに上空にあって、氷粒だったものである。
それも、「太陽風」がないといけないので、水蒸気だけではいけなくて、どこまでも「太陽のおかげ」なのだ。

しかし、空中の「電荷」は、最上部は「プラス」、雪から雨になるあたりが「マイナス」、それから下がまた「プラス」になっている。
もちろん、「地面」は、「アース」なので、「マイナス」である。

なんだか電池を2本つなげたような。

これが空気中でバリバリしながら、地上に来ずに済んでいる状態もある。
それでもって、科学の結論は、雷は4種類ある、だ。
上から下、下から上がそれぞれ2パターンずつ。

結局のところ、電子の流れと電流の流れの組合せで、これがプラズマになったのが雷だ。
やっぱり、雷光になる前の状態は目に見えない。

すると、目に見える状態になったとき、とは、ほぼすべてが終わった状態を示す、ということだ。
つまり、結果、である。

こうしたことは、自然現象だけでなく、社会現象でもいえる。

目に見えない作業を「仕込み」といったり、「準備」といったりするし、もっと大がかりになれば、「計画」ともいう。
この計画が、なんだか物騒なものなら「陰謀」ともいう。

なので、よくある「陰謀論」を相手にしない、という態度は、あんがいと「計画」の意味をしらないと自白している側面もある。

一般的に、計画をたてるときに気をつかうべきことに、「科学的アプローチ」があることはしられている。
しかし、社会の全員がしっているとは限らない。

これは、科学的アプローチを常識とする企業・組織のなかに、仲間入りしないといけないからである。
ならば、小・中学校や高等学校・大学で、どうして科学的アプローチを教えないのか?といえば、教師たちがしらないからだ。

わが国で教師になるのは、「大卒」でないといけない。
だから、大学でも習わないと、教師になってもしらないままなのである。
すると、大学の教師もしらない、ということになって、一部の教授が「組織論」を授業している状態だけがある。

組織論は、授業であって、その大学組織を云々することはない。
ここが大学の厄介なところで、あんがいと「灯台下暗し」なのである。

そんなわけで、目に見えないことの重要性を、科学者はしっているが、文系は無視する。
こうして同様に、科学的アプローチもしらないで、なんとかなるのが文系の世界になったのが、日本の経済力を劣化させているのである。

もちろん、国民がそんな状態になれば、おのずと政治家もそんな状態でいられるから、こんどは一部の政治家が科学的アプローチをやろうとすると、へんな邪魔がはいるのである。

それで、国民はそのへんな邪魔を支持するように仕向けられて、科学的アプローチを嫌がるのは、そのほうが「楽」だからである。
残念ながら、この意味で日本人は「勤勉さ」を失った。

たまには、雷が昇ることもあるのだとしってみても、それがどうした?自分には関係ない、というひとたちになってしまった。
ならば、なになら関係があるのか?

これが、経済「貧困化」の原因で、それは、「精神の貧困」からやってくるのである。

バカを繰り返す愚か者たち

「戦後」といえば、日本人には「大東亜戦争の敗戦後」のことをいう。

なお、「太平洋戦争」というようになったのは、「戦後」GHQによる占領政策による「命令」であった。
こうした、「占領政策」が、主権回復(昭和27年4月28日)後も、ダラダラ適用されている不思議がある。

主権回復後の当時の「国会」は、それでも頑張って、社会党議員からの発議で、「戦犯の名誉回復」を全会一致で決議した
よって、わが国にはこの決議をもって、法的に戦犯は存在しないが、「いるように」プロパガンダされていて、それが効をなしている。

これをやっているマスコミが、「国会軽視」とか、「法治国家」という。

われわれ国民は、これもプロパガンダだから、国会軽視は現実で、法治国家ではないことに目を開くひつようがある。
すなわち、ぜんぜん「主権在民」の民主主義ではなくなっている。

その証拠に、旅館業法改正案では、マスク着用をしないひとの「宿泊拒否」を認めることになっている。
まことに恐ろしい、「任意」が「強制化」される瞬間になる可能性に、だれも批判しない。

こうして、全体主義は、ヒタヒタとやってくるのである。
そして、「たかがマスク」から、気がつけば個人の自由がほとんどない社会に変容する。

さてそれで、戦勝国のアメリカをみれば、この国は建国以来「敗戦の憂き目」をみたことがない、「偉大な国」となっている。
もちろん、「偉大な国」というのは、愛国的自信から発せられる「自慢」である。

しかし、この「自慢」の意味は、あんがいと複雑で、迫害を受けてアメリカに移民したひとたちの子孫としての、出自であるヨーロッパに対する「当てつけ」という意味もある。

むかしの日本人は、アメリカの歴史の薄さをバカにしていたけれど、それは、神話も含めた日本の歴史についての知識があったからで、神話を含めた歴史の知識を子供に授けてはいけない、というGHQのお達しから、いまでは自国はおろか、アメリカの歴史も無視してはばからない「いまだけ」の視点になっている。

だから平気で、「アメリカの保守派」なることばをつかう。

このときの「保守」とは、あたかも自民党的保守をイメージしているから、始末が悪いのである。
つまり、「価値観」がおなじだと。

そんなはずはない。

アメリカ人と日本人の価値観がおなじだとする感覚が、すでにグローバリズムに染められてしまったことになるから、そんな発想をしていたら、すぐさま「解毒剤」を用意すべきだとおもうのが健全というものだ。

しかも、このばあい、「アメリカ民主党の価値観」であることが多いのである。

前にも書いたが、アメリカ民主党の勢力圏は、沿岸部になっている。
東も西も、沿岸部はおおよそアメリカ民主党の牙城だし、島であるハワイも同様だ。

これは、「新規」移民受け入れ口としての立地が原因なのである。
建国前からの「移民」と、建国後しばらくしてからの「移民」の「質」におおきな変化があった。
むかしの移民は、宗教や政治の「難民」であったのに、建国後の安定からは、外国で喰えないひとたちが経済移民になったのである。

この意味で、日本人移民とは、その多くが「棄民」であった事実がある。
日本政府は、自国民を「棄民」する、歴史的伝統をもっている。

そんなわけで、民主党が戦争をはじめて、共和党がこれを終結させる。
「戦争屋」が、沿岸部で支持されるのは、「喰えればなにをしてもいい」という、ヨーロッパ下層の乞食の発想があるからである。

それで、うまいこと「乞食」を美化したのが、マークトウェーンの『王子と乞食』だった。
アメリカ人が「母国」イギリスをこき下ろした、ともいえる。
果たしてこれは、児童文学なのか?

このパターンが、壊れたのは、共和党ブッシュ息子政権だった。
このときの主義主張は、「ネオコン」で、ラムズフェルド氏がその代表として名前をあげた。

「ネオコン」とは、「あたらしい保守主義」と直訳できるけど、実態はどこにも「保守主義」の香りはしない。
アメリカの場合の「保守主義」とは、「建国の理念を守る」ことをいうから、そもそもなにが「あたらしいのか?」になるのである。

つまり、これは「民主党」の戦争屋に親和性がある、という意味で「あたらしかっただけ」なのだ。
それゆえに、いまは「RINO:Republican In Name Only:名ばかり共和党」と、新定義された。

すると、クリントン政権からオバマ政権までと、トランプ政権を除く、いまのバイデン政権まで、ずっとアメリカは「戦争屋」の政権が続いている。
これに追従しますと宣言したのが、岸田氏による「あたらしい資本主義」なのである。

ウクライナをダシにして、ロシア解体を目論む貪欲な戦争屋が、とうとうプーチーン氏を追い込んで、ウクライナ東部4州(ぜんぶロシア語地域)の「併合」になりそうだ。

ロシア語を話すひとたちへの、虐殺行為が終わらないからである。

これらが「ロシア領」となれば、侵略者はウクライナになるし、これを支援するNATO=EUとアメリカも侵略者になって、日本も同様なのである。

もう、「バカはやめなさい」という、国も政治家もいないのか?

履歴書に顔写真を貼る意味

ずいぶんと前に書いた話の、別角度からの蒸し返しである。

履歴書に顔写真を貼らせる文化は、おそらく世界の先進国で日本「だけ」になっている。

もちろん、日本は先進国なのか?と問われると、「もはや経済でも一流ではない」と歴史的発言をした、2008年1月18日の大田弘子経済財政相の「経済演説」から何も変わっていない。

この演説は、毎年通常国会がはじまると恒例の「政府4演説」の中の「経済演説」であった。
他には、内閣総理大臣の「施政方針演説」、外務大臣の「外交演説」、財務大臣の「財務演説」がある。

大田大臣が指摘したのは、ひとりあたりのGDPが、OECD加盟国のなかで18位になったことを根拠にしている。
2021年のデータでは、さらに「落下」して、加盟38カ国中23位となっている。

ちなみに、わが国のひとりあたりのGDPでの「ピーク」は、1997年の「4位」だった。
1位:ルクセンブルク、2位:スイス、3位:ノルウェー。
1位と2位の順位は、いまも変わっておらず、ノルウェーが4位になっている。

さて、1997年とは、平成9年のことである。
この年の、総務省統計によると、各家庭でのインターネットの普及率は、9.2%だった。
これとパソコンの普及率は、ほぼパラレルである。

2020年では、これが83.4%になっている。

すると、いまようにいえば「デジタルトランスフォーメーション」をすると、国民ひとりあたりのGDPが「下がる」ということになっているのだ。

昨年12月の「企業PC実態調査」(Biz Clip:NTT西日本が運営するサイト)による従業員数別に見てみたところ、99人以下の企業でも90.4%と9割を超えて、5000人以上の企業で98.6%、1万人以上の企業で97.5%と、高い導入比率の中でも大企業のほうがより高いことがわかった。

これは、大企業の方が「生産性が低い」かも、という仮説が成りたつ。

ならば、OECD加盟国のインターネットやパソコンの普及率は、低いのか?といえば、そうでもない。
ただ「バラツキ」があることは確かだ。

すると、なにがこんなにも「ちがう」のか?

わたしは、マサチューセッツ工科大学(MIT)が、1989年に発表した『アメリカ再生のための米日欧産業比較』(MIT産業生産性調査委員会)、邦訳は『Made in America』(草思社、1990年)の「訳者まえがき」にヒントがあるとかんがえている。

その訳者、依田直也氏の経歴は、同書によると、工学博士だけでなく、トップ・マネジメント経営理念、長期的経営戦略、産業政策論、未来論といった専門分野が広く、出版当時は東レ経営研究所専務であった。

さてそれで、依田氏の指摘は、レポート本文で「かつての強みが、弱みに変わる」ことに注視していて、日本の強みが弱みになることの「警告」をしている点にある。

また、MITの方々がサジェッションしてくれた、「日本も民間でこのような(本書のような)調査をすべき」を、日本人は「やらなかった」ことにあるとかんがえている。
つまり、日本人は、民間でなく政府に依ったのであった。

なぜ、MITの方々は「民間で」にこだわったのか?
それは、経済活動はあくまでも「民間部門が主体」だからである。
むしろ政府は、その民間経済活動の邪魔をしたがる存在だからでもある。

もちろん、ぜんぶが「自由」ではなくて、安全にかかわる「規制」は、政府の仕事である。
しかし、それ以外の規制は、政府に利権をあたえる手段になってしまうものだ。

この「安全」には、消費者への安全はもちろん、経済安全保障という側面もあるのは、国民経済を守ることも、政府の仕事だからだ。

すると、わが国の問題点は、組織運営のマネジメントに関する訓練が、産業界の常識になっていないことが、国際競争での「敗北原因」ではないか?とおもわれる。

つまり、「経営力」の弱さをいう。

これは、経営者の経営力でもあるし、管理職の管理能力でもある。
わが国は、幸か不幸か、敗戦後の「公職追放令」によって、従業員から経営トップになる「慣習」がつくられた。
人事用語でいえば、資格要件を満たさない人が、社内昇格することになったのである。

これを、「三等重役」と呼んだことは、前に書いた。

もちろん、欧米のやり方がぜんぶ正しいとはいわないけれど、彼らの仕組みは、良し悪しでなく、経営者や管理職は、それぞれが「専門職」として扱われていることに注視したいのである。

わが国では、なんとなく「総合職」という区分になるけど、「総合」ゆえに、人材育成についての個人別将来計画が存在しないで、場あたり的な異動と昇格が「ふつう」なのだ。
「偶然」が支配するようになっている。

偶然巡り会った上司や同僚によって、職業人生がつくられていく。

そんなわけで、応募の時から「履歴書に写真」をつけて、善男善女の印象操作を若者に強いるのは、入社後の評価とおなじ、中身よりも見た目重視の安易があるとかんがえてよい。

こんな企業組織風土が、国全体の経済を「落下」させているのである。

最大原発砲撃は、やっぱり

「状況証拠」の話である。
場所は、ウクライナ南部ザポリージャにある。
欧州最大規模の「稼働中」の原発だ。

規模はどうであれ、「稼働中」の原発を「砲撃」したのは、人類史上「初」の暴挙であることにかわりはない。
それで、ウクライナ大統領は、「暴挙だ」とロシア軍を名指し非難した。
一方で、ロシア軍は国連に、ウクライナ側砲撃の「証拠」を提出した。

もちろん、わが国を含めた「西側のマスコミ」は、もはや正気を失って、双方の主張を両方とも公平に扱うことをやめたので、一方的に「ウクライナ側」の肩を持つ「報道」に徹している。

何度も書くが、これは、「プロパガンダ」であって、報道ではない。
けれども、プロパガンダの「セオリー」は、情報の受け手に「これが報道だ」と思いこませるひつようがあるために、「情報統制」をやって、あたかも「報道」の「偽装」をするのである。

つまるところ、「情報鎖国」する。

なので、その「籠」のなかの住民たちは、「余計な情報」を耳目にしないし、さらに、プロパガンダは、「正義を煽る」から、ジョージ・オーウェルが『1984年』で書いたように、「二分間憎悪」を視聴者に仕向ける。

こうして、知らぬ間に訓練させられた視聴者は、テレビの美人アナウンサーの言葉どおりに、「ロシアを憎み」、「プーチンを悪魔」だと信じることに、積極性まで持たされる。
それで、居酒屋談義でさえ、「悪の権化はロシア」になるのである。

おなじパターンが、トランプ氏にも使われているから、アメリカでトランプ人気が衰えるばかりか盛り上がっている事実に、日本人はもう「適応できない」までに訓練されたので、その情報自体を信じないか、あるいは、トランプ氏を支持しているアメリカ人を「馬鹿者たち」と思うのである。

これは、「安倍氏国葬反対運動」にもいえる。
わたしは、安倍氏の国葬に懐疑的ではある。
それは、おもに「アベノミクス」なる社会主義経済政策に反対してきたからである。

だから、若い時分から社会主義・共産主義・全体主義に「賛同」してきたひとたちが、どうして国葬反対運動に熱心なのか?が不思議なのである。
安倍氏の功績としてあげられる、「国防」が気に入らない「だけ」なのか?
そこまでして中共の支配を受けたいのか?

レーニンがいった「役に立つ白痴」、だとしか思えない。

さてそれで、ザポリージャ原子力発電所への砲撃の犯人探しの話である。
これには、「ウクライナ軍」の突如の攻勢で、東部地域の「領土奪還」の勇ましい「ニュース」が絡んでいる。

もちろん、このニュースも「プロパガンダ」である。

とにかく、後退を余儀なくされたという「ロシア軍」の方の話が「ない」から、ぜんぶが「大本営発表」状態になっている。
わが国マスコミは、「大本営発表」を「自主的に」やっていて、恥ずかしいと微塵も思わないほどに劣化した。

しかし、ロシア軍は「いなかった」のである。

なぜか?
「ウクライナ軍」の攻勢にまつわる事前情報をキャッチしたからだ、という情報も出ているけれど、すでにこの地域もふくめて、ウクライナ全土がエネルギー枯渇の事態になっているのだ。

枯渇させたのは、ロシアである。
もう、この地域の気温は、東京でいう「晩秋から初冬」になっている。
地図で「緯度」を確認されたい。
なお、東京は暖流の黒潮があるために、「温暖」だという特徴もある。

それでもって、「ウクライナ軍」の進攻に、地元住民たちはどうしたのか?
こぞって「逃げた」のだった。
どこへ?
ロシア軍が制圧している地域へ、である。

なので、衛星写真だけで大騒ぎになった「4月のブチャ」でのように、今度は多数の遺体が墓地で発見されたことも、犯人が「怪しい」のである。
なぜなら、ロシア側に逃げる住民心理のなかに、自分はロシア語を話す、という理由があるし、ロシア軍への協力者は「裏切り者」とするのがウクライナ側の言い分だからである。

1940年、ポーランドで起きた「カチンの森事件」が、重要な過去事例なのだ。
約22千人のポーランド人将校、 警官、 知識層を含む一般人が、当時ソ連のNKVD (内務人民委員部)によって虐殺されたのである。

これをいま、ウクライナのナチがやっている可能性がある。

なお、「ウクライナ軍」は、とっくに消滅しているから、「報道」でいう「ウクライナ軍」という言い方も、プロパガンダである。
「政府親衛隊」が正しい。

ところで、ザポリージャ原発とこの地域を「占領」していたのは、ロシア軍である。
原発施設は、軍ではない別組織が占拠して「運転継続」していたのだ。

だから、「砲撃」したのがロシア軍だというのは、味方同士のことになる。

ところで、この原発をどうしてロシア側が占拠しても「運転」できるのか?
それは、この原発の稼働開始が、1985年、つまりまだ「ソ連」だったからである。
東欧で「体制転換ドミノ」が起きたのは、1989年からなのだ。

そんなわけで、IAEA(国際原子力機関)は、ザポリージャ原発への砲撃での、「安全運転」に関して、ロシア側の努力を評価する、と声明を発し、さらに、IAEA職員を常駐させると決定したのである。

国連大好きなわが国マスコミは、これを、「報道しない」ということで、関連するニュースがみな「プロパガンダ」だとばれたのである。

状況証拠はもうひとつ、ザポリージャの住民たちが、砲撃中止の請願署名を、ウクライナ政府に提出した。
その数、2万筆。
なお、この地域の住民人口は、2021年推計で53千人である。

ついでに、本件で、アメリカ側はなぜか「沈黙」しているのである。
なお念のため、「国連」は、ロシアのいう「特別軍事作戦」扱いを「正式」としていて、「戦争」という用語は用いていない。

なぜ「特別軍事作戦」なのかといえば、東部二州が独立宣言して、これをロシアが承認し、さらにこれらの「二国」とロシアは、「安全保障条約」を締結した。
よって、ロシア軍の行動は、「安保条約の履行」にすぎないからである。

だから、これが「日米」のこととおなじ状況であることを日本人に気づかせない努力がされている、ともいえるのである。
しかしながら、アメリカはロシアのように日本を助けるために「血を流す」のか?の疑問がのこる。

戦争をやりたいひとたちが、最初から「戦争」と呼んでいるのである。

「塩」はどこまでブランドになるか?

「塩化ナトリウム:NaCl」を主成分にした食品を、「塩:しお」という。

地球の生命が「海」で生まれて、両生類から陸上生物へと「進化」したので、動物としての人間の身体も「海」での名残があって、「塩」がないと生きていけない。

それがわかるのは、熱中症や日射病になったとき、水分とともに塩を摂取することで「回復」するからである。

むかしエジプトにいたとき、よくピラミッド周辺で、顔を赤くして休んでいる日本人観光客をみかけた。
「同胞」として、ホテルの朝食テーブルにある塩が入った紙袋をわたしてあげたことが何度かある。

もっとも「効く」のは、貴重な「フリーズドライの梅干しタブレット」で、これを差し出したら、「わたし梅干しが嫌いなんです」といわれて、呆れたことがあった。

ただし、帰国後「初版」の執筆をしたのが、『地球の歩き方』だったので、この当時の日本人観光客のほとんどは、『ブルーガイド』を手にしていて、遺跡の情報は豊富だけど、「過ごし方」を知らなかったのである。

日本人は、島国の住人だから、「塩」は海から汲んだ海水からつくるのだと思いこんでいる。
しかし、あんがいと大陸では、陸で掘った「岩塩」が一般的なのだ。

もっとも、その岩塩が、塩の岩になったのは、太古の海が干上がったのと地面が隆起したのとが重なってできたものだ。
それでまた、さまざまなミネラル分を含有することになって、それが「色」にも反映されている。

ミネラル分とは、もちろんミネラルウォーターにも入っているミネラルのことで、なんだか「貴重な成分」に感じるけれど、ミネラルとは、「無機物」のことをいう。
つまり、「炭素」がない物質のことをいう。

「炭素」があると、「有機物」になって、われわれの身体の構成物質となる。
もちろん、「無機物」も、ないと生きていけない。
それは、金属、塩(えん)類、水、水素、酸素、窒素などだからである。

要は、「炭素:C」の有無で、物質を二分しているのである。

水(H2O)とは、「純水」のことだ。
これは、「飲んでうまい」ものではない。
なぜかスパーに「純水サーバー」があって、容器代はとるけれど中身は「無料」となっている。

掃除用に使っているのだろうか?
洗車に適しているけど、量がたりない。

「うまい水」には、大雑把にいえば、ふたつの特徴がある。
・適度な不純物(ミネラル)が含有している
・分子クラスタが細かい

「山の清水」がうまいのは、このふたつが満たされているからだ。

ちなみに、水の分子クラスタは、「のどごし」に影響する。
グビグビ飲んだとき、のどに水が引っかかって痛いことがあるのは、その水の分子クラスタが「大きい」とおもわれる。

「水」自体も、じつは不思議な物質だけど、「塩」もありふれていながら特徴がある。
いわゆる「塩化ナトリウム」は、よくある電子の「共有結合」ではなくて、「イオン結合」によってできているので、水にふれると、共有結合している水分子の電子による電気作用で「結合」がはずれてしまう。

それで、塩はかんたんに水に「溶ける」のである。

しかしながら、「純水」と同様に、塩化ナトリウム「だけ」の塩は、人工的・工業的な製品だから、「自然塩」となると、他のミネラルを含有しているのがふつうだ。

なかでも、マグネシウムは、「にがり」成分であるから、海水塩の自然塩ほど、なめるとやや苦いのである。
塩なのに「甘い」ことがあるのは、カルシウムのはたらきで、もしも「酸味」があったら、カリウムのはたらきだ。

1㎏100円の塩は、ほぼ塩化ナトリウムだから、とにかくしょっぱい。
むかしは「専売」だったから、日本人の生活では、これしかなかった。
いま、たくさんの塩が販売されているのは、「専売廃止」による、自由化のおかげだが、選ぶための知識を学校で教えないから、戸惑うのである。

しかも、販売価格も「ピンキリ」なのである。

生活が豊かになるとは、「選択の自由が増す」という意味があるけれど、選択肢が多すぎるとひとはその品への興味もなくしてしまう。
これは、心理的に追いつめられることでの、「欲求不満行動」なのである。

「塩なんかどれでもいいや」となる。

いってみれば、塩化ナトリウムと各種ミネラルの配合具合は、無限大の組合せになるけれど、塩の産地は限られている。
それで、それをどうやって「売るのか?」となれば、どうしても「成分の話」になるものだ。

しかし、受け手側の「化学知識」が欠けていたら、それが何なの?となって、心の琴線に届かない。
ゆえに、「教育」をしかけないといけない、ということになる。

一方で、難しいことはどうでもいい、「美味いが一番」ということになると、またまた厄介なのが、料理に合わせた「塩の種類」を用意しないといけない。

これは、産地からしたら「一択」なので、他の産地のものとの「比較」とか、用途についての紹介が欠かせないのだが面倒である。
そんなわけで、知る人ぞ知るはあっても、なかなか「ブランド化しない」のだ。

長野県大鹿村は、村立中央構造線博物館と中央構造線の真上にある。
ここの「鹿塩温泉」の湯は、世にも不思議な、山中の「塩水」で、その成分が「絶妙」という。
マグネシウムが「適度」な含有だという。

おそらく、太平洋プレートが沈み込んで、プレート中や海底を移動中に堆積した物質が、大陸プレートの強烈な圧力で「搾られて」、岩石内のもとの海水が出てきているとかんがえられている。

「岩にしみいる」のではなくて、岩からしみだすのである。
こうした岩石は、分子レベルまで粉砕される、おそるべき圧力なのだ。

それで、「塩畑」が復活されて、つくるのに1ヶ月かかる「塩」が販売されている。
1㎏、2000円。
安いのか高いのか?

そこは、まずは「お試し」が、困難なわが国屈指の「秘境」にあるのだった。

結果平等と平均の無機質

「神の前での平等」が、「平等」の概念のはじまり、だとされている。

しかしながらこの概念は、ユダヤ、キリスト、イスラムの「教え」から生まれたものだから、これらの宗教を信じるひとたちが多く住んでいる国や地域、あるいは人間集団間では「通じて」も、そうでないひとたちには通じない。

殊にわれわれ日本人は、外国人と接触する機会が限定されていた「背景」があったので、「文明開化」までは、ほとんど外国の知識がない状態で暮らしていたし、文明開化「後」も、人口の多数を占めた農民、あるいはその中の「小作」にとって、「外国が云々」とはほど遠い生活をしていたのだった。

地方の「名士の家」に残る、「開かずの金庫」を開けてみるテレビ番組の企画は、なかなかよくできていて、「空」の場合と「たっぷりある」場合とに完全に分かれている。

たっぷりある」場合の、その中身は、「土地権利書」や「株券」、「通帳類」が多く、その他に、古銭を含む「現金」がある。
なので、めったに「舶来品」が見あたらない。

むかしは、「舶来品」といえば、「万年筆」と「時計」だった。

もちろんいまでも「外国製の高級万年筆」や「時計」は健在だけど、それらを「舶来品」とは呼ばないで、メーカー名でいうことが一般的になった。
これには、「国産品の高級万年筆」や「時計」ができたからであろう。

しかしながら、「国産」は、機能的な有利はあるが、「所有価値」としての地位が確立しない。
これは、やっぱり「大量生産」の負の恩恵だといえる。

さてそれで、日本人の「神」とは、「欧米の神」とはぜんぜんちがう「自然崇拝」からの概念なのに、「God」を「『神』と訳した」ところから、混乱がはじまったといわれている。

けれども、その欧米だって、キリスト教「以前」には「別の神」が崇拝の対象だった。
たとえば、北欧などに伝わる「森の妖精」は、その名残であるし、ベートーベンの「第九」に至っては「別の神」を礼賛している。

さらに、かつての「当時」、皆殺しにあったからよくわからない、キリスト教「グノーシス派」について、ダン・ブラウンが書いた、『ダ・ヴィンチ・コード』が大ヒットしたのも、一種のバチカンやプロテスタントといった既存勢力に対する、「欲求不満行動」だったにちがいない。

ところで、よくわかっていない「けれども」、グノーシス派の「やばさ」はなぜか伝わっていて、それが、「神界」の「序列」を主張したこと、だという。

つまり、いわゆる「聖書の神」は、神界では「最低ランク」に序せられていて、じつはボスたる「最高神」がいる。
その最高神を信仰するのが、グノーシス派なのだ、と。
それで、「あなたの神は最低ランク」といわれたひとたちが、怒って皆殺しにしたと理由づけている。

この話は、なんだか「カインとアベル」の、人類最初の「殺人」に似ている。
日本神話の、「海幸彦・山幸彦」の話に似ている、ということは、ここでは未だ早い。

アダムとイブの長男カインは農業従事者となり、その弟アベルは羊飼いになった。
問題が起きるのは、「神への捧げ物」で、兄のカインが献げた農産物、弟のアベルが献げた、初子のよく肥えた子羊のうち、神はアベルのものを「選んだ」ことにある。

これに怒ったカインが、アベルを殺した。
人類初の殺人の前に、人類初の兄弟喧嘩が描かれている。
その「兄弟喧嘩」だけを抽出すると、「海幸彦・山幸彦」の話になるけど、日本神話では殺人には至らない。

なぜに全知全能の神は、「選んだのか?」が、聖書を基盤とする人たちの間で、大議論になってきたのである。
全知全能ならば、神の選択の「結果」も神は知っていたことになって、殺人を「教唆」していないか?という疑問である。

しかし、日本人がもっとも誤解している「この神」は、ぜんぜん平等ではなく、それは、「神自身の都合にすべてが支配されている」ことを、人間が「受け入れること」を「信仰」としていることにある。

その意味で、聖書の神は、人間の都合を無視する理不尽な存在だ。
逆に、日本の神々は、人間の都合をかなえてくれる存在なのである。

ゆえに、聖書の神を信仰するひとたちは、「機会の平等」にこだわって、日本人は「結果の平等」に重きをおく。
聖書の神が、人間行動の結果を決めるのだし、日本の神々は、人間行動を助けてくれるから、結果がうまれる。

つまり、日本人は聖書の「神」も、人間のためにある、とかんがえるけど、ぜんぜん逆なのである。

ところが、そんな「冷酷で残忍な神」を信じるものか!としたのが、ニーチェの「気づき」であった。
ニーチェの生きた「世界」は、聖書の神を信じるひとたちの世界だったから、驚天動地になったのだ。

それが逆に、ニーチェが意図したわけではなくても、「無神論という宗教」にひとびとを向かわせたのは、「真の選民思想」からだった。

これが、「大富豪なら特別だ」になったのである。
共産主義・全体主義にもっとも親和性があるのが、大富豪なのだ。

そんなわけで、「選民」として抜け出した大富豪たちは、なにランクであれ「神界」に入ったから、それ以外の人々に掟破りの「結果平等」を促して、新規の神界入りを制限させることにした。
「機会の平等」を、LGBT優遇やらで阻止することの真意がここにある。

これが、「平均」に集約させることの意味である。

日本人の特性は、これとはちがう思考回路での「結果平等と平均」だったけど、無機質にかんがえれば、おなじことだ。
それで、より従順に「結果平等と平均」を推進することが、日本支配(奴隷化)だけでなく、世界支配のセオリーになったのである。

よって、偏差値教育と受験制度は変えてはならないし、公務員試験も入社試験も変えてはならない。
むしろ、日本的方法(オリジナルは「科挙」(欧米では「中華方式」という))が、各国で採用されるのを喜んではならないのである。

すると、日本人奴隷化計画を壊すのは、偏差値教育と受験制度の「大転換」にこそ、「カギ」があることがわかるのである。

「国葬」でかます英国のおとぼけ

エリザベスⅡ世の「国葬」をめぐっての、手際のよさは、下準備の周到さのあらわれであることは、どんな「計画立案者」にもすぐに理解できることである。

これは、昭和天皇のときにもいえたことだから、なにもここで英国人を褒めることではない。

それよりも、「ご立派」なのは、弔問外交における「全方位」をあっさりやめて、自己主張をしっかり打ち出したことである。
つまり、英国政府がだした「招待」を、無意味にした英国議会の「特定国代表の女王棺エリアへの入場拒否」のことである。

この特定国とは、「中共」のことで、しっかり「名指しした」のだった。

つまり、政府は「どうぞ」で、議会は「拒否した」のだ。
これは当然に、「三権分立」の常識だし、権力の序列では、議会が政府の「上」にあることも、その制度上から当然である。

また、この議会の決定も、国葬参列自体を拒否してはいない、という狡猾さがあって、入れないのは「棺周辺だけ」なのである。
しかし、各国参列者が棺を廻るのに、その国の弔問者だけは遠目からみているしかないことになる。

せっかく遠方からやってくる弔問客に「礼を欠く」のはいかがか?という意見もあろうけど、「いやなものは嫌だ」と決めたのは「喪主側」だから、どうしようもない。

英国政府も、相手が議会だからどうしようもない、といっている。
まるで、この間のペロシ下院議長の台湾訪問に、議会のことだからどうしようもないといった、バイデンのホワイトハウスとおなじだ。

これはもしや、新国王の意向なのか、それとも遺言的な意趣返しなのか?はわからない。
それは、2015年10月に英国を訪問した、習近平氏一行の「不遜な態度」を指す。

女王が、「とても失礼」と発言したのを、報道される「異例」が記憶に新しい。

世界でのプロトコール上、最上位になるわが国天皇が、こんな発言をするはずもないので、序列二位の英女王がいったとは、なかなかの「ご憤慨」ぶりがわかったものである。

ただ、歴史的に、現代英王室の「あたらしさ」と、アングロサクソン元来の「野蛮さ」を加味すれば、さもありなん、ではあった。

もちろん、英国と清国はたいへんな歴史的関係にあって、なにしろ「アヘン戦争」をやらかした「カネの亡者」としての野蛮ぶりは、現代史にも影響している。

アヘン戦争による清国の疲弊が、辛亥革命となって、それがまた中共を成立せしめたからである。
わが国は、その辛亥革命の当事者たちを「匿って」なお、「支援」もしたので、あんがいと「革命の輸出」をやったのである。

いまのように、なんにもしないことが「正義」ではなかった。

それだから、「被害者」としての立場を、「対日本向け」にやったら、やたらと援助された成功体験が、習氏一行の横柄さになったのだとすれば、英国人の筋の通し方は、日本人への当てつけにもなったのである。

逆に、習氏一行の、日本への逆恨みとなったやもしれぬ。

とはいえ、当事者たる日本人が、こんなことで日本が関係しているとは微塵も思わないという、歴史的にも稀にみる「ボケ状態」だということにも気づかない深刻さがあるのだ。

ほぼ同時期に挙行される、日・英の「国葬」における、両国の「性格」がでているのは、個人各家の葬儀での「性格」の延長線なのである。
冠婚葬祭の厄介とは、その家々の性格が外に出ることにある。

そんなわけで、すでに「終身皇帝」の身分を、内輪で受けている習氏一派からしたら、おもわぬ「弾」が飛んできた。
それもそのはずで、すでに英国は、グローバリストによって完全支配されている国だからである。

すなわち、グローバリストの仲間である、江沢民派への弾圧をやめさせたい。

江沢民派こそ、欧米グローバル大企業の「権益の源泉」だった。
いったい、江氏一家は、いかほどの富を得たのか?については、2020年最後(11月)のスイスの国民投票があったときに、ほんの少しだけ情報漏洩した。

「否決」されたこのときの「選択」は、やんわりと、「スイス企業が外国で行う活動による人権侵害や環境被害に対する法的責任を企業に問うことができるようにする件」だった。

この「スイス企業」には、「銀行」も含まれる。
要は、「やばい相手の口座凍結」の可否が問われたのだった。

投票に先立ち、議会の「否決勧告」もあって、「無事否決」されたけど、もはやアメリカからの圧力で「秘密が保持されない」スイス銀行の個人中国名口座の実態が報じられたのである。

なお、この時点でアメリカは、共和党トランプ政権だった。

それで、全部で約5000口座にある残高が、日本円換算で1400兆円以上だったのである。

日本人全員の資産に匹敵する富があった。
江氏個人の口座は5つで、足せばもちろんかんたんに「兆」を超えるどころか、ゼロが二つ付くといわれたものだ。

英国の「弔問外交」の狡猾さが、だんだんと『ゴッドファーザー』の「別室」での出来事とおなじにみえてきた。

日本の「国葬」ではどうなのか?

サマルカンドの会談は怪談か?

「アジアはない」と断言したのは、文化勲章受章者にして、初代国立民族学博物館館長だった、「知の巨人」梅棹忠夫氏の言葉である。
せめて、「西洋」と「東洋」の間ということで、「中洋」という用語を提案もされている。

その「中洋」とは、いわば「中央アジア」一帯のことで、シルクロードの各地をまとめて指している。

念のため、「ユネスコ:UNESCO」という、得体の知れない組織が定めた「第一号世界遺産」が、「長安⇔天山回廊の交易路網:シルクロード」とされたけど、各国の「政治」のたまものであることに変わりはなく、インド経由の交易網、あるいは「海洋のシルクロード」は無視された。

なぜか繁盛店だったのに、横浜中華街から消えた店に、「中央アジア料理」の専門店があった。
店側は「郷土料理」をうたっていたが、エジプト暮らしをしたわたしにも、砂漠の「郷土料理」の感じが強かった。

生態学者として踏破した梅棹先生が、歩いて得たものと、わたしのような「素人」が感じたことが一致したのは、自分なりに感動的なのである。
つまるところ、かつての起点「長安」(現西安)近辺の郷土料理は、アラブ・遊牧民の料理とそっくりなのである。

この地域間の距離は、気が遠くなるほどだけど、砂漠とオアシスの波状攻撃的な繰り返しによって、実態は「おなじ」という、空前の「空白地帯」なのである。
つまり、地図を蛇腹に畳んで長安とアラブだけを見ても、生活実態に変化はないのだ、と。

それで、畳まれて見えなくなる地域にある国々が、「スタン国」なのである。
国名に「スタン」がつく。
いまは、さまざまな「事情」から、スタンをはずしている国もあるけれど。

たとえば、いま「新疆ウイグル自治区」と呼ばされている地域は、むかし「東トルキスタン」といった。
この地域が、トルコ人の「故郷」なのである。
なぜか、トルコ人は「西移動」した民族なのである。

あるいは、いまの「キルギス」は、ちょっと前まで「キルギ・スタン」だった。
それで、「スタン国」の西の果てが、「トルクメニ・スタン」と「アフガニ・スタン」なのである。

ちなみに、アフガニスタンの隣国は、西にイラン、東に「パキ・スタン」で、北は「タジキ・スタン」と「ウズベキ・スタン」なのである。

そのウズベキスタンの要衝が、サマルカンドだ。
首都は、タシュケント。

15日、そのサマルカンドで開催中の、「上海協力機構(SCO)」首脳会議という名目で、ロシアのプーチン大統領と中国の習近平氏が「会談」したことが「ニュース」になっている。

この「ニュース」には、「ふたつ」のニュースが混じっている。
ひとつは、露・中のウクライナ協力がどうなるのか?
ひとつは、習氏の「外遊」で、なんと2年8ヶ月ぶりに国外に出たことだ。

「コロナ後初」という日本語記事が目立つのは、あたかも「コロナ収束」をイメージさせるプロパガンダで、来月の「皇帝就任」が確定したことを隠す記法になっている。

つまり、「大々的に」皇帝就任記事を書きたてたい、という事前の演出だ。

もちろん、「ゼロ・コロナ」として上海市を封鎖したのは、敵対する「上海閥=江沢民派」への「大弾圧・逮捕」の方便だったことも一切書かないし、世界のグローバリストと奮闘しているのが、習氏の派閥であることも書かない。

だから、江沢民派を応援したいグローバリストにせがまれて、アメリカ連邦下院議長が「訪台」したと、このブログでは「書いた」のである。

ところで、「先遣隊」として、ロシア高官と事前会談したのは、習氏の側近中の側近といわれる人物だった。
このひとの「中国語が変」ということも、ロシア側がリークして、珍しくも「音声付き映像」を放映してしまった。

このひとの「声」を一般人が聞くのは、はじめてらしい。

なお、この「ロシア高官」とは、プーチン氏の「女房役」、メドベージェフ氏なのである。
首相と大統領を交互にやって、大統領時代には「プーチン首相」の好きにさせたひとである。

一方で、「中国語の発音が変」なひととは、「実力皇帝秘書」の素性がしれる事態になったので注目されている。
それが、典型的「農民」の言葉遣いだと。

「脅し」を商売にしてきた、旧ソ連と現役中共のつばぜり合いなのだ。

このニュースで、元NATO総司令官だった、ジェイムズ・スタヴリディスと、元米軍特殊部隊でノンフィクション作家のエリオット・アッカーマンの共著、『2034米中戦争』(2021年、二見書房)での「表記」を思い出させてくれた。

あゝ、リアルなんだ。

さてそれで、ロシアと中国の関係がより深くなるように仕向けているグローバリストたちの思惑はなんなのか?
なんだか、破滅的、なのである。

一方で、ヨーロッパは、「冬」をにらんで一般家庭での「凍死」が危惧されるようになったのは、「冗談」ではない。
それでも、「温暖化阻止・脱炭素」をやめないのは、EU委員長のフォン・デア・ライエン氏である。

EUは、加盟国民による「選挙で選ばれない」官僚トップのEU委員長が、一種の独裁的権限を有する、やばい組織なのである。
「EU議会」とか、「EU大統領」とかは、「お飾り」の建て付けになっている。

『スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲』 (1980年)にでてきた、温和な銀河共和国の元老院最高議長が、じつは最悪の「ダース・シディアス」だったのにそっくりなのだ。

それで、フォン・デア・ライエン氏は、15日、プーチン氏を「国際刑事裁判所(ICC)」に提訴すべきと発言した。
まさに、サマルカンドでの両首脳会談に当てつけている。
もう、「怪談」なのだ。

『ファイナルファンタジーⅩ』の「ザナルカンド」になっているのか?

いやいやおじさんとしては、やっぱり「ジェダイ」の登場と活躍に期待したいのであった。
しかして、もはやこれこそが「ファイナル・ファンタジー」か?

「顧客カード」を廃止して欲しい

世にいう「ポイント」や「スタンプ」のカードもおなじである。

前に、顧客カードで財布が膨らむのがいやだ、と書いた。
だから、「お得なポイント・カードをお作りしますか?」とお店のひとにいわれたら、断ることにしている。

それで次回から、「カードをお持ちですか?」とレジでいわれて「ありません」といえば、ポイントが付かないことで、妙に損をした気になるのである。

それでもこの手のカードを持ちたくない。
財布以外に、「カード入れ」を買って、そこに様々なカードを入れたら、驚くほど入りきれずに「膨らんだ」ことがある。

多分使わないだろう、と持ち歩かずにカード入れに保管していると、なぜか、財布にない状態で当該店舗にて買い物をしてしまう。
それで、「ポイント・カードをお持ちですか?」といつものように聞かれて、「忘れた」とこたえると、レシートにポイントを書いてくれる店と、その場で権利落ちの店とに分かれる。

レシートにポイントを書いてくれる店は、このレシートとポイント・カードを持ってくればポイントを付与しますというし、場合によっては2週間以内とかの条件が付くこともある。

ポイント付与しか用事がない店にわざわざ行く気がしないから、たいがいは「権利放棄」するのである。
それでまた、思い出しては「損をした気になる」のである。

つまり、「お得なポイント」とは、お店にとっての「お得」ばかりで、客にとっての「お得」はない。
いつ気分で、買い物するかわからないからといって、あのカード入れをふだんから持ち歩くのは、獲得ポイントに見合わないと思うからである。

それでも財布には何枚か入っている。
だから、当該店舗のレジ前で、トランプのカードを自分で引くようなことをするのだ。

家電量販店は、「ポイント・サービス」として、たいがいが「スマホ・アプリ」にもなっている。
それでも「カード」を持ち歩いているのは、スマホを「読み取り機」になるべくかざしたくないからである。

残念ながら、「アプリ」をダウンロードしたときに、認証しないといけない「利用規約」をしっかり読んでいないから、自分がなにを「許可した」のかが自分でわからないままなのである。

これは、「LINEの話」でも書いたけど、利用者はその「リスク」を認識してはいないから、「安心して」利用しているにちがいない。
すると、企業がさまざまなサービスを「LINE」を媒介して行うことの、「社会的責任」をどうかんがえるのか?

LINEユーザーがたくさんいるから、自社のマーケティング上、LINEを介したサービスを提供する、という発想では、「順番」がちがう。
自社の大切な顧客の個人情報が、プラットフォーム提供者にも「抜かれる」ことの重大性を鑑みれば、企業としてそのような手段を選んで、顧客に使わせていいものか?になるからである。

しかし、いまの「法務部」は、企業にしろLINE側にしろ、顧客自身が、「利用規約」を「読んで」から、「許可ボタン」をポチっていることをもって、利用者の「自己責任」としているのである。

これをまた利用者が、「しらない」という「暗黒状態」なのである。

つまるところ、やっぱりぶ厚くなる「紙のカード」同様に、たとえスマホ一台の携行で済むにせよ、客が損をする構造になっている。
支配と被支配の関係が、こんな身近なところにもあるのだけれど、被支配者の「企業への信頼」が、自身を無防備にさせているとは。

しかし、一方で、自分の個人情報なんて「どうでもいい価値なのだ」という割り切りだって、「あり」なのである。
それなので、レジでスマホをいじって「なんとかPAY」を決済手段にしているひとを、わたしは眺めているのである。

確信的か無知かのどちらかだけど、もちろんわたしには関係ない。

ところで、こうした決済手段が「増える」ことは、店舗側にも負担になる。
それでもって、対応機器を設置した店舗側に、どんな情報が提供されるか?が、なぜか無関心のばあいがある。

これは、「満願」となったスタンプ・カードを差し出せば、商品交換できるようになっている「紙のスタンプ・カード」にもいえて、ここに「個人情報の記載」を求めないことが多いのだ。

もちろん、その情報をなにに使うのか?とか、得た情報の管理とか、店側の負担になるような説明表記をしないといけないのが面倒だ、ということもあるだろう。

けれども、せっかくのスタンプ・カードが、商売にとっての「無料券」に転換される「だけ」でいいのか?という疑問もあるのだ。
たとえば、「満願」になるだけ通ってくれたお客様の、せめて「苗字だけでも」欲しくないのか?

あるいは、「市町村までだけ」の住所とか、あるいは、地方や郊外立地ほど、駐車場にとめた自動車のナンバーと「お名前」の情報連携とか。

政府は、「DX:デジタルトランスフォーメーション」なる、横文字をつかいたがって、予算をばらまいて利権化したいのだろうけど、紙のスタンプ・カードの情報利用だって、十分立派な「DX」なのである。

せめて、名前で呼ばれるとうれしい、を実現してほしいものなのだ。

英語の本を自動翻訳で読む

「機械翻訳」ともいうけれど、近年顕著な「進歩」を遂げている分野にあたる。

人類の祖先がDNAから特定されて、そのまた「血の分岐」がさかんに研究されている。
縄文人の「歯髄」が採取されたことで、とうとう「日本人の起源」も解明されるかと思いきや、まさかの闇に深入りした。

中国人と朝鮮人との「ちがい」だけがわかってしまって、これらのひとたちよりもはるか昔に日本列島に棲み着いたことが「確認」されたからである。
それで、いったいどういうひとたちが縄文人だったのか?が、わからないままなのである。

現代日本人の半数が、縄文人の子孫だと確認されているので、この「不明」の意味は、そのまま日本人のルーツに影響するのである。
しかも、日本語そのもののルーツもわからないままなのである。
世界の言語体系にまったくそぐわないからだ。

「血」と「言語」の両方共が、「謎の民族」。
これが、「日本人」なのである。

元がアフリカだとわかっているのに、「その後」がわからない。
アフリカ大陸から、世界に「拡散する」には、シナイ半島・アラビア半島を「経由」しないと、「陸路」ではユーラシア大陸に行けない。
いま、「中東」、ちょっと前なら「中近東」と言われる地域を指す。

どちらも、ヨーロッパ側を基点にした物言いである。
この場合、「東」とはインドのことで、インドとの中間だから「中東」なのだし、「中東」よりもヨーロッパに近いあたりを「中近東」と呼んだ。

ヨーロッパの真逆の位置にある日本からは、当然だがぜんぜん「東」ではないし、「近く」もない。
ただ、アフリカ大陸から、どんどん東に移動して、最後の島々に棲み着いた(この先は広大な太平洋)のが日本人の祖先たちなので、「中間分岐点」としての中東の価値は変わらない。

そこで登場したのが、ユダヤ教で、それから、キリスト教、もっと後にイスラム教が生まれた。
しかし、ユダヤ教が「最古」なのではなくて、いまのイラン北部に生まれた「ゾロアスター教」が最古なのである。

だから、ユダヤ教の聖典である『旧約聖書』には、ゾロアスター教の影響があるのは当然で、これがまた「東方の賢者」として、キリスト誕生の預言をする話の素地になっている。

祖先がおなじ人類の言葉が、どうしてかくも「乱れたのか?」(言語がたくさんできた)の答を示すのが、「バベルの塔伝説」だ。
旧約聖書「創世記11章1節~9節」にある。
「ノアの箱舟」の後の話のなかで最大イベントになっている。

ゆえに、この言語の障害を取り除くのは、欧米系人類の「夢」でもある。

それは、「労働の概念」にもあって、人類の「原罪」たる、智恵の実を食したために「労働を強いられた」から、これら宗教のひとたちは、「労働からの解放」を「夢」としている。

労働からの解放とは、働かずに遊んで暮らすこと、つまり、「エデンの園への回帰願望」のことをいう。
なので、マルクスは「アンチテーゼ」として、「働かざる者食うべからず」を共産主義の基本に据えたのだった。

しかし、「その心」は、遊んで暮らすには、「奴隷が必要」なための「方便」だから、世界的大富豪が望む「家系の未来永劫の安泰」と、共産党幹部の思惑が一致するのである。

ちなみに、カール・マルクスの家系は、完全にロスチャイルド家のなかにあって、極貧生活だった、という「美談」は嘘だ。
また、最近の話題提供者たる、グレタちゃんも、ロスチャイルド家のなかにいる(母系)から、突如無名の少女が「国連演説」したのではない。

こうして、ロシア革命の大スポンサーが、いまの世界的大富豪の先祖だったことと一致する。
ロシア・東欧の「農奴(serf)」が、完全なる「奴隷(slave)化」したのであった。

もちろん、「slave」の語源は、スラブ人の「Slav」である。

そんなわけで、「翻訳」に関する「ソフトウェア」が、日本製ではなくて「欧米系・製」なのには、「訳(わけ)」があるのだ。

「日本語を英語」にしたり、「英語を日本語」にすることの「便利さ」を、英語教師が発狂しそうな「精度」で提供していて、それをまた「私塾」の英語講師が活発な利用を受講者に促している。
「答合わせ」になるからだ。

なんだか、算数や数学の授業で、「電卓を使わせない」数学教師の状態に似ている。
先進国で、「教育用電卓」を使用しない国はわが国「だけ」なのである。
もちろん「算盤」すら教えない。

さてそれで、現在最強の翻訳サービスは、「DeepL 翻訳ツール」サイトである。
こちらは、ドイツ製で、「グーグル翻訳」との比較で圧勝している。
無料サービスには制限があるし、指定できる言語数も少ないけれど、まずはお試しを。

「OCR(optical character reader)」の技術によって、紙の本をデジタル化して認識させることができるようになったものの、その手間(「自炊」という)をかんがえると、業者に依頼できなくなった恨みがある。
「著作権」が個人の知的生産活動を阻害している、といえる。

これが、「電子書籍」だと、「スクリーンショット(いわゆる「スクショ」)で、紙の書籍の手間とは比較にならない手軽さが実現した。
そうやって、電子書籍のページをPDF化すれば、OCR機能も自動的に起動して、出来上がったPDFは、原版と見た目もおなじなのに「検索」もできるように生まれ変わるのだ。

わたしは「iPad」を愛用しているのだけれども、どんどん多機能化してレンズも増える「カメラ機能」の方向性が変なのが恨めしい。
紙の本を撮影するに特化した、うまいカメラが欲しいのである。

あとは、「iPhone」に任せればいいのだけれど、デジカメ機能が最小の機種が欲しい。
スマホでふつうに写真を撮る趣味も、関心もないからである。
ましてや、「インスタ映え」をや。

そうやって「撮影」してから、今度は翻訳ソフトやサービスを利用すれば、言語の壁を乗り越えられる時代になってきた。
さすれば、電子書籍ほど、英語だけでなく「洋書」は豊富にあるから、とりあえず「速読レベル」なら、日本語翻訳版の出版を待つまでもない。

どうせなら、一気に全部を翻訳してくれたら、範囲指定の手間も省ける。
すると今度は、「図書検索」という問題が発生するのだ。

この壁をどうやって乗り越えるのかが、ニーズになってきている。