東海道新幹線のリアル英語放送

車掌さんによる案内放送だけでも、世界的にはめずらしい。
さいきんではヨーロッパでも、新型車両の特急だと車内放送があるが、旧型の客車だと特急でも「無言」がふつうだから、日本からの団体ツアーで新型に乗るだけだと、日本とのちがいをあまり感じないかもしれない。

いや、むしろポーランド国鉄の新型車両の特急は、各席に電源があるし、車内販売での飲み物が一乗車につき一杯だけソフトドリンクが無料で提供されるので、電源が窓側にしかない日本の新幹線よりも便利で、かつサービスだってわるくない。

もちろん、運賃の安さは、日本とくらべれば比較にならないほど安いので、うれしいかぎりだ。
片道2,000円も出せば、3時間程度の鉄道旅行ができる。
そうかんがえると、日本の新幹線の料金は、暴力的に高価である。

東京-京都の片道正規料金は、「のぞみ」指定席で14,000円ほどだ。なので、一家4人で往復すると、112,000もする。
LCCの国際線なら、一家でソウル往復がおなじ料金で可能だ。
もちろん、割引チケットもあるし、外国人なら特別パスもあるけれど。

そんな新幹線で、ちょうど昨年12月から、車掌さんの肉声による英語放送がはじまっている。

こんなことが「ニュース」になるのが「日本」だ。
従来からの、録音も併用して放送している。
車両端通路ドアの上には電光掲示板があって、こちらもバイリンガルだから、外国人がこまることはすくないだろう。

いま、駅は多言語対応になっていて、日本語、英語(アルファベット)、中国語、ハングルの4カ国語を目にするようになった。
動かない「看板」ならいいが、電光式だと中国語とハングルの時間分が、なにを示しているか表記がわからなくなる。

それに、構内の音声放送でも、中国語とハングルの時間分、なにをいっているのか見当がつかないのは電光式とおなじである。
「国際的」だということなのだろうが、はたしてここまでする必要があるのか?と、あえて苦言を呈したいのは、なにも中国語とハングルをディスるわけではなく、英語だけではダメなのかといいたいのだ。

もし、日本がほんとうに「国際的」になったのなら、ぜんぶ日本語で通す、というほどの「根性」があってもよさそうだが、フランスのシャルル・ド・ゴール空港でも英語放送をするくらいだから、「英語だけ」でなにがいけないのか?

これは、逆に、日本人の自信のなさ、を表現していないか?

その意味で、世界に冠たる「東海道新幹線」が、基本的に日本語と英語だけに絞っているのは「なかなかの根性」なのだと好感評価できるのだ。

けれども、やっぱり鉄道会社の「幹部」が鉄道の旅をしていない、とおもうのは、「ここぞ」というタイミングでの案内がないからだ。

たとえば、通過駅の表示、長いトンネルや鉄橋の表示がないのである。
通過駅の表示が、日本語だけなのはなぜか?

しらない国で、いまどこを走行しているのかをしるためのランドマーク的設備ぐらい、英語で電光掲示してもバチはあたらない。
それに、新聞各社が提供している「ニュース」だって、どうして英語版がないのか?話題がローカルすぎるからだろうか?

車内販売の案内放送も、日本語だけの不思議がある。
外国人観光客向けの「車内限定品」があったら、買いたくなるし、その体験が「観光」を形成するのである。

前に山陽新幹線の観光放送を書いた。
新大阪から西は、運行がJR西日本に交替する。
グリーン車だと、まずお手拭きが配付されて、ゴミの回収にも巡回してくれる。

だから、山陽新幹線から東海道新幹線になると、サービスのちがい、が歴然とする。
「会社」による「標準サービス」が、おなじ車両に乗っているだけで体験できるのは、あたかもヨーロッパ的だ。

IC(インター・シティ)特急は、国境をこえて主要都市を結ぶけれど、大陸内なら、いまはパスポートをみせるだけでほぼすむ。
ブレグジットのイギリスと大陸をむすぶ「ユーロスター」は、乗車時にパスポート・コントロールがあるから、これには時間の余裕が必要だ。

この意味で、東海道新幹線と山陽新幹線、それに九州新幹線は、全区間を乗車しようとすれば、「国境」ならぬ「会社がちがう」ということになって、国内なのに会社ごとのサービスがことなるという、世にも珍しい体験ができるようになっている。

東海道新幹線のリアル英語放送は、その中のひとつなのである。

それにしても、北海道会社と四国会社とをつくったのは、いまさらながらにどうするのか?が気になる。

「マネした電器」はすごかった

幸之助翁の「語録」は、いまでも「新刊」で購入できる。
さほどに示唆に富んでいるのは、さすが「経営の神様」である。

しかして、かれが創業・経営して、電球や二股ソケットをつくる「町工場」から、世界に冠たる巨大電器メーカーになっても、業界筋から「マネした電器」と陰口を叩かれたものだった。

けれども、ぜんぜんひるまなかった理由はなにか?

いいものを安く、大量に供給する、という信念があったからだ。
おなじ関西人どうし、ダイエーの創業者中内功氏と、根本では似ていた。
ちがうのは、「作り手」と「売り手」という立場だ。

まさに時代は、「大量生産・大量消費」をおう歌していたのだった。
だから、幸之助翁亡き後、ものが行き渡り、時代が「多様化」して、「多品種・少量生産」になると、たちまちにしてビジネス・モデルの再構築をしなければならなくなった。

これが、80年代後半のバブルがふくらむ前、つまり80年代の前半にさかんにいわれた「リストラクチャリング」の必要性だった。

中内氏がつくりあげた「流通革命」は、「作り手」と「売り手」の立場を逆転させて、「作れば売れる」から「売りやすいもを作る」に変えたのだ。

幸之助翁が構築した「直下のショップ」が、大手電器メーカーなら競って真似たビジネス・モデルだったのは、量販店など存在しない当時、商店街の電気屋さんを「囲い込む」ことが、最大の販路拡大手段だった。

なので、他社が「新発売」した機器を、おどろくほどのスピードでコピーし、さらに、機能を足し込んで「新発売」しないと、お客が「直下のショップ」から、他社の直下のショップに移ってしまうおそれが経営上もっとも重要なことだった。

そして、その主戦場は、テレビとラジオだった。
独自技術をもつソニーに対して、ソニー以外の陣営はソニー以外の技術を競うことになる。
しかし、「メカ」がインターフェースの主流だったから、かならずそこが「故障」した。

それは、いまはなき「回転式チャンネル」だ。
ガチャガチャと回して局を変える。
観たい番組が家族でちがうと「チャンネル争い」がおきたのは、テレビが一家に一台しかなかったからである。

リモコンのはしりは、回転式チャンネルがリモコンでまわる、という機構をつけたものだった。
電源と回転方向のボタンしかなかったが、座ったままでチャンネルが変わるのは画期的でもあった。しかし、よく故障した。

なので、各社の「直下のショップ」から修理にきてもらう必要があったから、テレビは近所の電気屋さんで買わないと、どこに修理をたのんだらいいかわからなかった。

それに、そもそも「電気屋さん」のおじさんは、ラジオ修理の技術者が本業だったので、店には「部品」があふれていた。
小中学生のころ、自作のラジオをつくりたくて電気屋さんに相談したら、ガタガタといろんな棚から部品をさがしてくれて、「これだけあればできるよ」といって、ただでくれた思い出がある。

そんなわけで、街の電気屋さんは、「すごいひと」だった。
トランジスター・ラジオを開発したのはアメリカ人だったけど、これを大量につくって売ったのはソニーだった。
だから、ソニーのラジオはいまでも「ブランド」である。

ところが、「感度」ということでいうと、「松下」はすごいから、こちらも負けずにいまでも「ブランド」である。
なのに、どちらもとっくに「日本製」ではない。いまどきどの国でつくろうがどうでもいいが、「こだわり」まで抜けていないか?

さらに、AMラジオ放送が終了してFMに統合されることになった。
これまでの「AMラジオ専用機」がゴミになる。
「電波」のつかいかたを効率化しないと、「5G」やら「6G」の時代に対応できないための犠牲である。

技術の進化と、消費者の選択肢の幅がひろがったことで、「直下のショップ」で買わないといけない理由が減衰するのは「修理の必要がない」ことからであった。
それで、「量販店」が台頭したが、いまは量販店も「展示場化」して、注文はネットになった。

ほとんどのものが普及して、なにが新製品なのかがわからない。
それで「検索」するのがネットだから、お店のひとよりも消費者のほうが詳しいときがある。
詳しくないひとがいるお店は、そのまま信用されないから、ネットで購入するのである。

「マネした電器」がすごかったのは、その「コピー力」だった。
コピーするための「分析力」を、そのまま「製品化」に応用して「販売」してしまうのは強力な「情報力」が根幹にないとできない。
いまは「中国メーカー」にビジネス・モデルごとコピーされた。

しかして、「マネした電器」の真骨頂は、いまやパソコンにある。
軽量にして強靱、そしてバッテリー駆動時間で他社を圧倒し、だんとつの「高単価」だ。
CPUはどのメーカーもおなじなので、同条件による「突出」に成功したのは「すごい」のである。

この「ビジネス・モデル」を他の製品に展開しないのが不思議である。

じつは、「作り手」も「売り手」も、「情報産業」になって、おなじ土俵で商売しているのである。

タレント発掘番組は娯楽ではない

アメリカNBCが2006年から放送をはじめた、オーディション番組で、翌年からイギリスITV(最大・最古の民間放送局)でも開始された。
あの「ポール・ポッツ」も「スーザン・ボイル」も、この番組から誕生しているのでご覧になったむきもおおかろう。

世界各地に拡大開催・放送されるようになったので、さいきんでは「世界一決定」までになっている。
おなじ「フォーマット」で開催を実施しているのは上記の他に、
・オーストラリア
・韓国
・ドイツ
・スエーデン
・中国
・クロアチア
・デンマーク
・フィンランド
・オランダ
・ノルウェー
・ポーランド
・ロシア
以上、ぜんぶで14カ国ある。

いわゆる「タレント」といっても「才能」のことなので、「歌手」や「アイドル」といったジャンルをこえているのが特徴で、むしろ「エンターテインメントの才能」があれば、なんでもいい。

本家アメリカ版では、優勝賞金100万ドルとラスベガスでの公演にメインで出場できる。
イギリス版は、女王はじめ王室メンバー御前でのパフォーマンスと、賞金25万ポンドとなっている。
たかが「民放」の「娯楽番組」で、「王室」が「特典」としてでてくるのだから、およそわが国では「ありえない」ことでもある。

しかも、順番が「賞金」ではなく「王室の御前」が先なのも、イギリス版をしてイギリス版せしめている。
アメリカ版では、「賞金」がトップである。

フランスをのぞく米英露中で同一フォーマット番組があることが、興味深いし、日本版がないのはなぜだろうか?
それでも、日本人は出場していて、2013年にはアメリカ版で『蛯名健一(ダンス)』が初優勝している。
その後もたくさんの「才能」が出場しているのだ。

この意味でもこの番組は、国内地上波では観ることができない「情報番組」になっている。

オリジナルの番組としては、審査員の「毒舌」ともいえるほどの「厳しい講評」も「売り」である。
他人がきいても耳が痛いはなしは、聴きようによっては「いじめ」のようにもなるが、その「適確さ」が「ショー・ビジネス」の裏側を一般人も垣間見ることができるようになっている。

もちろん、「言い過ぎ」については、観客が審査員に容赦なく「ブーイング」をおくるのだ。
審査員はその「ブーイング」に、「反論」か「詫びる」というどちらかの対処をするが、反論には説得力があり、詫びには非を認める理由を添えている。その「理由」がたとえ「屁理屈」であってもだ。
すると、観客はさらに「ブーイング」をあびせるのである。

ブーイングを喰らっても、気にとめない態度と、屁理屈でも言い訳することこそ、「白人的ふてぶてしさ」である。
善し悪しをこえて、こうした「態度」が「世界標準」であることも学べるのだ。

とはいえ、緊張して自信のない出場者は自己紹介で、おもわず厳しい男性審査員に「Sir」をつけてしまうが、ちゃんと「呼び捨て」にするようにうながすのだ。

このことが、「日本版がない」ことの理由ではないのか?
さらに、審査員適格者が「いない」ことにも原因があるのではないか?とうたがう根拠になる。

つまり、番組制作者やスポンサー、あるいは「業界」におもねることはできても、「ショー・ビジネス」からの「商品開拓」ができないということだし、日本の観客は権威ある(はずの)審査員に、「ブーイング」などしないし、もしそれが起きたら「ニュース」になってしまうだろう。

もちろん、司会者だって、審査員には「先生」をつけて「さん」呼ばわりもしない。
「先生」なら「先生らしい」講評をすべきところ、「できない」のである。

つまり、審査員としてこの番組への出演は高いリスクを負うことにもなる。
日本で想定できることは、「厳しい講評」をいうことはなく、適度なダメ出しコメントにならざるをえず、外国版にくらべれば「迫力」が減衰することになるだろう。
「リスクは避けるモノ」だからだ。

いつからこんな「脆弱な文化」になってしまったのか?

かつて、日本テレビが放送していた『スター誕生!』(1971年~1983年)は、ジャンルを「歌手」に限定していたが、敗退した出場者が泣き出すほど「厳しい講評」が連発されていた。
けれど、だれも「いじめ」とはおもわない、かえってそれが「本人のため」という説得力にあふれていたものだ。

なにも、はるかとおい過去に、「最低辺身分」としての「芸人」がいたからという意味ではない。
もちろん、はるかとおい過去、とは、ついぞこの間の昭和の時代にまであった。
歌舞伎から「人間国宝」が輩出されるようになったのはいつからか?
能と狂言は、ずいぶん前から朝廷が保護下においている。

このあたりの、むかしの事情は、隆慶一郎『吉原御免状』、続編の『かくれさと苦界行』にくわしい。
ちなみに、この2作品は本編ともいえる大作『影武者徳川家康』を読み込むための「準備編」でもあるし、並行世界の「外伝」でもある。

  

  

それは、残念ながら会場に詰めかける「客層」のちがいにもあらわれているように感じる。
日本では、じぶんの興味ある特定分野いがい、反応しない傾向がある。「お客さん」になるのだ。

しかし、外国の会場はそのようなことはいっさいなく、出たとこ勝負の出場者と同様に、これからなにがはじまるのかの好奇心の高さであふれている。
すごいものはすごい、と素直に評価する。

「世界」がみえてくる。
「世界」をみせてくれる。

これは、「娯楽」をこえて、れっきとした「情報教養」番組なのである。

さっき買ってくれたひと

いまさっきのことが記憶できないと、集中力の欠如とか、加齢やもしやの病気をうたがうはめになる。

1971年にアメリカからやってきたので、まもなく半世紀になるハンバーガー・チェーンは、例によって日本的サービスを展開しているものの、それは、世界の店舗におけるサービスが、あまりにズサンだからの比較結果でもある。

高級な接客サービスを目論むひとたちからすれば、まるで悪の根源のようないいかたをされるけど、ファストフードというビジネスにおけるスタイルとして完成されているという評価をしないから、はなしがもつれるのである。

しかし、どんなに日本的な丁寧で迅速な対応をしようとも、そして、その結果として、アメリカ本国や他の先進国からの外国人客がその対応を「絶賛」しようとも、さっき買ってくれたひとを記憶しないふりをする、だから、やっぱり「記憶しない」ということにおいて、まったく世界共通なのである。

誤解しないでほしいのは、この会社のビジネス・モデルとして、「記憶しない」ということを前提としていて、それを世界で実行しているということをいいたいだけで、「良し悪し」をいいたいのではない。

つまり、さっき買ってくれたひとを記憶していても、記憶していないふりをする、あるいは、ほんとうに記憶しないとしても、ビジネスがなりたつように設計されている、ということだ。

おおむねどんなひとでも、従業員になれる、という特徴があって、客側からすれば「どうして覚えていないんだ?」ということが全世界で共通の話題になっても、これを「無視できる」強靱なモデルになっているのである。

これが、やっぱりアメリカからやってきた、「コンビニエンス・ストア」という業態でも採用されたのは、「便利さ」という「機能」を切り取って強調し、町内の知り合いがやっている個人商店と棲み分けるためだった。

阿部寛が好演する『結婚できない男』におけるコンビニでの買いものシーンの「おかしさ」は、いま放映中の続編『まだ結婚できない男』でも採用されて「定番シーン」になっているのは、視聴者の無意識の共感を得るための重要性があるからだろう。

阿部演じる「桑野」が異常者なのではなく、だれにも日常の「店の異常」をもって、じつは「桑野」は悲しき被害者にもなるのである。

すると、これら「さっき買ってくれたひと」を無視できるビジネス・モデルをもって、はたして「接客の理想」あるいは、「ファン作り」としての普遍性を見いだせるのか?と問えば、「真逆」こそに真実がある。

それは、かれらがもともと選んだ「棲み分け」を実現するための「機能」を、一般的な商売につかってはならない、ということである。
一般的な商売とは、「顧客創造」のことだ。

もちろん、ファストフード・ビジネスも、コンビニエンス・ストアも、「顧客創造」をしているが、そのプログラムの「特殊性」が一般的ではなく、またそれがこれらビジネスの成功要因になっているとしれば、かんたんにまねのできるものではない。

さっき買ってくれたひと、嵩じれば、昨日買ってくれたひとを、どうやって覚えるのか?
そして、なにを買ったのか?ということにまで遡及できれば、おどろくほどのビジネス・チャンスが、買ったくれたひとからやってくる。

それは、かつての新幹線の社内販売のカリスマ「斉藤泉」さんが体現したと前にも書いた

購買者である客の心理で、もっとも重要なことは、「じぶんのことをしっている」ということの「確認」ができた瞬間だ。
この瞬間に、客がかってに「全面的信頼」を開始していて、さらに、もっとじぶんをしってほしいという気持になるからである。

パーサー不足で、JR東日本は新幹線の社内販売を終了するとニュースになった。
これを決定したひとたちは、列車で旅をしたことがないらしい。
高級乗用車の後部座席に身を沈めて、鉄道管内を高速道路で移動しているにちがいない。

パーサーに情報を提供する方法をかんがえない。
パーサーの個人的記憶力や集中力に依存しながら、時給を「高い」と断定している。
それに、売れたときの「歩合」もあるのか?つまり、インセンティブのことだ。

こうした「欠如」をしているのに気づかないのが、「幹部」という「患部」なのだ。
はたして、「斉藤泉」さんを、教育指導員にしておきながら、こうしたことができるのは、ぜんぶ彼女に依存したからにちがいない。

この会社の「元国鉄」だった官僚主義のDNAが、民営化で消失したのではなく、確実に保存されたことがわかる。

ようやく支払方法に交通系ICカードが採用された。
検札にこなくなった理由は、電子的処理を車掌の端末でしているからだ。
ならば、せめて号車と席番号による購買記録をなぜとらぬのか?

駅の売店で乗車前購入しようが、足りないこともあるし、車内限定品だってある。
スマホから切符が買えて、どうして車内販売の物品(駅弁などの)予約ができないのか?

それを受け取るときに、別の商品だって購入できる。つまり、販売チャンスがふえる。

「駅ナカ」ばかりに夢中のようだが、「車ナカ」こそ価値がある。

さっき買ってくれたひとを覚えさせる方法ぐらいかんがえろ、というのはわがままなのか?

とかく鉄道会社は「私鉄」でも、客を「流体」としてしかみない傾向がある。鉄道管理局がそうさせるからである。
だから、子会社・関連会社での鉄道以外の事業における「客」も、たんなる「流体」として認識されてしまうのは、本社からくる3年交替のエリートたちが、「流体」だと訓練されているし、そうでなければ「社内」でエリートになれないからである。

この「応用力のなさ」は、自分たちの「事業構造」を客観的に分析できていないことの証拠だ。
客は、安全に流せばよい、とする国の管理に依存しているだけなのだ。

他のサービス業界のひとは、けっして真似てはいけないよ。

してやられていないか?

過去の歴史は、「歴史的転換点」を「生きているひとたち」が、それに「気づかない」ものだ、ということをおしえてくれる。
毎日の生活が重要で、じぶんや家族の毎日の習慣がかわらなければ、世の中の大変化にその同時期に気づくのは「稀」だということだ。

だから、歴史上の大事件を、そのときに生きていたひとのおおくは、しっていても、当事者でなければ、じぶんには関係ないとおもうのがふつうで、ジワジワと変化はあとからやってくる。

石油ショックのとき、トイレットペーパーが奪い合いになる光景のニュースを、わが家では一家そろって茶の間で「笑って」観ていたが、それからほんとうに商店からなくなってビックリした。
家に在庫はあったが、母から買いにいけと命じられ「売り切れ」だったから覚えている。ただし、在庫分でしのげたのでじっさいはこまらなかった。

はるかにとおい中東での戦争が、こんなことになるものか?
銀座のネオンが節電で消えたのも、ふだんから点けておく必要があまりないから関係ないとおもったのは、子どもだったからである。

リーマン・ショックで、勤めていた世界最大規模の銀行が、日本から撤退し、失業したのは、じぶんのことになった。
なるほど、じぶんは世界とつながっているのだと実感できたのは、ふつうの日本人よりきっと「稀」なことだったかもしれない。

22日の24時、つまり23日の午前0時に失効する「GSOMIA」が、失効直前6時間前の22日18時に、韓国政府が「延期」を発表した。

あいかわらず、わが国との「交渉」で、「ホワイト国に復帰」をするのが「条件」という支離滅裂を主張しているから、さっそく経産省が、それとこれは別、という不変の立場をくり返した。

先週と今週にかけてのアメリカ政府による強烈な「圧力」が、今回の「延長」になったのだと、したり顔で解説する向きがある。
それに、なんだが韓国政府が「折れた」とか、日本に「屈服」したとかという、日本側が「ホルホル」している風景があるけれど、そんなに相手は「愚か」なのだろうか?

もちろん、自由と民主主義を「固持する」という立場を優先すれば「愚か」という判断になるが、民主主義の彼の国で、自由と民主主義を「やめる」という立場を主張して選挙で圧勝した政権になったのだから、「そちら側」からかんがえれば、愚かどころか「合理的」かつ「最善」「最速」の手を打っているのだとかんがえないといけないではないか。

報道にもあるように、現大統領は選挙における「公約」として、「GSOMIA見直し」を主張していたのだから、わが国政治家の「公約破りが常識」からしたら、どちらが正々堂々としているものか。

国家の基盤をなす、自由と民主主義という価値観そのものを「やめる」という、選挙で国民が支持した「大戦略」の実現のためにあらゆる手段を用いることは、それで選挙に勝利したものたちとして、「正義」になるのは当然である。

いわゆる、わが国との関係改悪=関係破壊は、レッドチーム入りを目指すためには「合理的」だし、それができればアメリカとの関係改悪も次ステップとして計画されてしかるべきだろう。
かれらのゲーム盤上では、さらに次のステップがあるはずだ。

このように観れば、彼の国政権の実行力は、わが国歴代最長となった現政権など比較にならないほどの成果をあげている。
このことこそ、注目にあたいする。

そこで、驚きの情報が、例によって「外国の報道」からもたらされた。
先週の17日、日曜日、バンコクで開催されたASEAN拡大国防相会議で、なんと「中韓防衛協定」が締結されていた。

わが国マスコミによるこの会議の報道は、日韓防衛相会談「だけ」だった。
英国デイリー・テレグラフ紙の「ジュリアン・ライオール記者」による署名入り記事である。

この記者は、日本・韓国担当の同紙特派員で、横浜在住。
話題の香港、サウス・チャイナ・モーニング・ポスト紙にもフリーランスで寄稿している。

つまり、事実上、レッドチームのほうにもう片足を入れていた。
はたして、この「協定」における「防衛情報」の取扱についての詳細は不明だが、もしかしたら日米ともに「筒抜け」となる事態ではないか?

わが国から輸入したフッ化水素などの戦略物資がどこに消えたのか?にいっさいこたえず、むしろ、二重スパイを国でやるというほどの「覚悟」は本物だ。
してやられている。

いよいよ在韓米軍の撤収=日本への移動・撤退が現実になって、とうとう、日清・日露戦争で流した日本人の血がむなしくなる事態が現実化しそうだということである。

このときの「肉弾戦」などの詳細は、もうとっくに学校でおしえないから、『反日種族主義』で狼狽する韓国人とおなじで、日本人だってちゃんと「歴史を忘れた民族」になっている。

わが家の家系では、日清日露戦役による戦死者が三人もいて、田舎にいけば軍服の遺影が仏壇の上にかけてあった。
どちらさまも三代か四代をたどれば、直系でない枝葉にこそ名誉の戦死者がいるはずだが、戦争といえば「先の戦争」しか思いだせないから、ご先祖様の兄弟が草葉の陰で泣いている。

明治維新の元勲たちがこぞっておそれた「緩衝地帯」をうしなって、対馬海峡で中韓朝露と対峙しなければならないという、「はじめて」が起きそうだ。

これらの国々は、いまや世界的にも珍奇なる「中世」で時間がとまった国家群である。為政者が「近代」の価値観をもっていないからだ。
にもかかわらず「兵装・軍備」には「核」がある。

商人国家は、安全保障なくして発展はしない。

経団連にも一般国民にも、かつて経験したことがない、とんでもない「国家存亡の危機」の時代がもうそこにやってきている。

むかしのアメリカなら、とっくに政権を転覆させる工作をしているだろうが、そんな力もうせてしまった。
ならば、こちら側になんとか引き留めるにはどうするか?よりも、向こう側に追い込む軍事費負担を請求したのは「わざと」だろう。

おなじような「増額要求」がわが国にもきているけれど、自国防衛を他国にまかせるお金のことを「思いやり予算」というのは、名作『七人の侍』を雇った「農民たち」の発想だ。
名優、左卜全や藤原釜足の、日本人を代表する「貧相」こそがおもいだされるが、あれは「国内」が舞台だ。

「中世」の世界は、勝者が敗者を「奴隷にする」のは常識である。
日本国憲法に「奴隷はいけない」と書いてあるから日本人は奴隷にならない、という保障がなくなるかもしれない。

わが国側の「覚悟」はいかに?が突きつけられている。

三重県の長島に行ってきた

市でいえば「桑名市」である。
といっても、2004年に「平成の大合併」という「文化破壊革命」で、かつての「長島町」が「多度町」とともに桑名市に吸収合併されたいきさつがある。

木曽三川という木曽川、長良川、揖斐川の河口部にある巨大な「中州」の「島」で、かつては七つの島があったから「ななしま」がなまって「ながしま」になった説と、濃尾平野をつくりだした三つの大河がつくる長大なことから「ながしま」になった説とがあるようだ。

どちらにせよ、「中州」であることにちがいない。
だから、この地に住むということは、「治水」あってのことになる。
海抜は「ゼロ」か「1m」、あるいは、「マイナス1m」という表記が電柱にある。

明治期に、四半世紀をかけて「木曽川三川分流工事」がおこなわれていまの「島」になった。
これを計画したのが、オランダ人技師だったというから、なるほどと「納得」する。

それにしても、よくもオランダ人を呼んできたものだが、島内のどこにも「オランダらしさ」が主張されていない。
長崎に「ハウステンボス」があるけれど、ほんらいならここが適地だったろう。

歴史上のエピソードでは、とにかく「伊勢長島一向一揆」として、織田信長を悩ませた「大乱」の舞台であり、皆殺しの激戦が繰り広がれた地であるが、「血の臭い」がするからか、このあたりも「淡泊」である。

織田軍は、どうやって「大河」をこえて攻めたのか?
守る一揆側はどうやってこれに抵抗したのか?
大河ドラマとは、このことだろう。

近年では、1959年の「伊勢湾台風」の被害地でしられる。
15箇所もの堤防が決壊して、街が水没しそのまま川となって、400名弱が亡くなっている。
このときの「水位」をしめすポールをみつけたが、はるか見あげる高さでおもわず背筋が凍った。

敷地を高くしている家もあるが、そうでない家がふつうに建っている。
スイス人なら、敷地を高くしないと建築許可をださないようにするのだろうけど、これは「オランダ式」か?はたまた「日本式」か?

島の西側から橋をわたれば「桑名宿」になる。
東海道五十三次のなかで唯一の船旅、「七里の渡し」(28Km)で熱田神宮がある「宮宿」とむすんだ。
東京湾アクアラインは15.1Kmだから、ざっと二倍の距離を「渡し」といっていいものか?

「桑名宿」と「宮宿」で行き先案内を、グーグルマップで検索すれば、伊勢湾の埋め立てと「長島」の関係がみえてくる。

「長島」のユニークさは、東西日本の境目、にある。
三川の西側を流れるのは揖斐川で、この川より西が「関西弁」で、「長島」は「尾張(名古屋)弁」になるから、橋をわたるだけでの変化がおもしろい。

カレーライスという国民食でみても、関西の牛肉、関東の豚肉という特徴があるけれど、なんと「長島カレー」は、中心のご飯をはさんで「牛肉カレー」と「豚肉カレー」の両方がかけてあるという贅沢さが特徴なのだ。

徳川四天王の本多家の居城が桑名城。
長島の対岸にあって、ほぼ島のまん中当たり、しかも、長良川と揖斐川の合流地点に位置している。
尾張徳川家の筆頭家老でもあったけど、「長島」を名古屋側からとで挟み撃ちできるようになっているのは、「一揆」の影響を無視できなかったからだろう。

桑名城のやや北側対岸に、「なばなの里」という植物園がある。
冬のシーズンは、イルミネーションで飾られることで有名だ。
近鉄長島駅からシャトルバスがでていて、乗客の半分とはいえ8人ほどが中国人だった。

かれらはバスチケットのクーポンを人数分もっていたから、グループ旅行だ。
もはや「団体旅行」から離脱したひとたちが、「珍しさ」をもとめてやってきている。

島の南端は「ナガシマスパーランド」。
周辺にはオリーブ園やスポーツランドもあって、アウトレットモールも隣接されている。
「なばなの里」もふくめ、おなじリゾート会社が所有している。

鉄道の乗り入れがないから、公共の交通手段はバス。
この「不便さ」が、「目的地」としての価値を、かえって高めているのは、施設内の温泉ホテルの宿泊料金をみればわかる。

名古屋からの高速バス運賃は片道1100円。
「泊まれない」ひとたちはどうする?
桑名のホテルが候補になるわけだ。
なぜなら、島内に宿泊施設が皆無だからである。

なるほど。

さてさて、帰路、交通渋滞に見舞われたのは、だれも気づかなかった「G20」が名古屋で開催されるための警備規制が原因だった。

このての国際会議を大都市でやる理由はなにか?
「地方再生」とか「創生」とかいうわりに、地方は無視されている。
はてさて、政府からみれば名古屋も地方都市扱いなのだろうか?

もしかしたら、芸術祭の意趣返しなのか?とうたがいたくなるのは、言い過ぎとしても、会議期間中の前後をふくめて、名古屋の交通は不便になること間違いない。

ならばと島や桑名にこもる人は、どれほどいるのだろうか?

環境家計簿の怪

だから何なのだ?
町内会や自治会という、生活者の組織に行政が介入して、さまざまな余計なことを押しつける。
対する住民は、無視する、協力しない、という態度で抵抗しているから、健全といえば健全である。

3ヶ月程度の、電気とガス代がいくらだったのか?
個人情報を書かずに提出せよ。
昨年同月と比較しての増減をしることが、(地球)環境にいい、そうである。

原発事故からまんべんなく負担がふえたし、太陽光発電のために、太陽光発電をしていないひとからも負担金を徴収する仕組みだから、「こんなに増えた」というのは「料金」ではなく「使用量」の変化でしかわからない。

それに、「電気料金の自由化」で、携帯電話とおなじように「二年しばり」の契約で、電気とガスやガソリン元売り会社と合算すれば、なんだか「安くなる」ようになっている。

安くなれば、たくさんつかってもいい、というかんがえも生まれる。
かんたんにいえば、経産省と環境省が「マッチ・ポンプ」の役割をしていて、はざまで揺さぶられているのが「生活者」という「国民」になっている。

では、国民のためになっているのはどちらか?
「原発の安全が確認された」と主張し、「太陽光発電」のインチキを自己証明した経産省だろうか?
それとも、地球環境よりも「自省」の存在意義だけを優先させる環境省だろうか?

どちらも、「✕」である。

「国益」とは、「国民の利益」のはずだが、かれらによる定義は「政府の利益」のことをいう。
この政府の利益には、管轄省庁の「省益」というものが主体だから、すでに「寄生虫」のようになっている。

実際の寄生虫も、宿主の行動をコントロールする能力をもっている。
宿主が死んでしまったら、寄生虫も生きていけないから、「生かさず殺さず」というギリギリを攻めてくる。
ただし、そこはうまくできていて、宿主のほうが先に死んでしまって、同時に寄生虫を殺すのである。
つまり、相打ちである。

わたしたちは、こうして貧しくなっていて、将来の悲惨が約束されている。
役人栄えて国滅ぶ。

若者の就職で、公務員志望がトップになったのは、寄生虫が有利な社会だと、一般国民がみとめているからである。
先進国では「珍しい」というこの現象は、優秀な人物ほど「民間」を志望し、できれば「起業」するからである。

付加価値創造にほとんど寄与しないのが公務員である。
国家レベルでいえば「GDP」のことである。
つまり、わが国のGDPが、寄生虫に吸い取られているのである。
だから、どんなに巨額の予算を組んでも、わが国経済は活性化しない。

世界各国の政府が、「減税」による経済活性化を画策しているのは、先進国から中進国まで、消費の活性化による景気拡大が有効だからである。
この真逆をいくわが国は、すでに「逆神」としての権威をもっている。

日本政府の政策と「逆」を選択すれば、うまくいく、という点で、かつての「共産党」とおなじレベルになっている。
政府「だけ」が維持されれば、国民生活はどうなっても関係ないのである。

さて、前年比較のためのデータ収集ということをかんがえれば、「環境家計簿」における「ゴミ袋支出」という項目がなぜないのか?
来年の7月1日をもって、レジ袋が完全有料化されるのが決まったから、いまからデータをあつめないと、比較ができない。

前にも書いたが、これは「立法」されたものではなく、関係省庁の「省令」改訂による。
ひろく国民が負担することになるものが、役所の勝手でできるということの驚きに、憲法違反の声をあげる国会議員がひとりもいない「怪」がある。

「財産権」の侵害ではないのか?
ふだんは活きのよい「日弁連」も「無言」なのは、どうしたことか?

無謀な行政命令が香港の混乱を招いたが、わが国政府の無謀にはだれも声を上げない。
なるほど、香港の事態になにもいわないことの根源に、日本政府と香港政府の共通があるからである。

その意味で、わが国の国民は香港人以下に成り下がったし、台湾人にも劣る。

野菜を買うとプラゴミがふえるから、野菜をいれたレジ袋がちょうどいいサイズのゴミ袋になるものを、野菜のプラゴミは「対象外」とする。
その根拠は、売手の都合だ。

産業優先も、ここまでくると笑うしかない。
しかも、オリンピックで来日する外国人に不便をかけて、それが「先進国だ」といいたいらしい。
もうまるで、小林よしのり『おぼっちゃまくん』的ギャグである。

消費を活性化させることとは真逆をやって、それが「地球環境保護」だというバカらしさは、なにか悪いものに取り憑かれてしまったようだ。

レジ袋がダメなら、紙袋という代替案があるけれど、これも「森林保護」という名分でどうなることか?
森林保護のために間伐材でつくる「割り箸」すら追放して、林業から現金収入を奪ったのはどこの誰か?

おかげで山が荒れて、海に魚が住めなくなった。
プラスチックでできた「箸」がエコで、どうしてレジ袋がいけないのか?

環境家計簿でわかることではない。

天下国家を論じない新聞

日本の新聞を読んでいても、世界が見えてこない。
ならば購読の意味がないし、所得の減少も手伝って、新聞を読まないひとが増えている。
テレビのニュースもおなじだし、余計なコメントが耳障りだから、こちらも観ない。

さぞや困るだろうと、新聞やテレビの作り手は思うようだが、どっこいぜんぜん困らない。
却って、ネット配信の無料ニュースで事足りることに慣れてしまった。

情報が足りないと思ったら、自分で探せば、その筋の専門家が丁寧な解説を、これまた無料で教えてくれる。
ネットなんて信用できない、というのは、いったいどこのサイトを観ているのだろう?
ほんとうはしっているのに、しらないふりをしているだけだろうから、余計にたちが悪いといまどきの一般人に思わせる。
逆効果はなはなだしいのだ。

昭和15年の「国家総動員法体制」が、そのまま戦後の体制に引き継がれた(なにも意図しなかったので「自動的」に)から、各都道府県に一紙という、紙とインクの配給体制も残ったが、県庁と取り引きする地銀も同じで、もうもたない。

それで、民間の好きにさせればいいものを、相も変わらず国家総動員体制の役所が口を出して、民間の好きにさせない。
なのに経営責任だけは民間が背負うことに、じっとガマンしている民間もどうかしているのは、株主すらも「お国の命令にしたがう」ように思考訓練されているからである。

役人から出てくる案が、金太郎飴なのは、全国一律で同じにしたいからだ。
「日本列島改造論」は、なにも土建屋だけの分野が対象なのではない。
ならば各都道府県は、何のためにあるものか?
明治の官撰時代のつづきで、知事を筆頭に中央政府の役人かタレントでことが足りるように、さいしょからなっている。

行政における競争は、こぞって若い夫婦の受け入れに熱心で、どちらさまも高齢者の移住を嫌がるのは、自治体の社会保障負担が増えるからだ。
国全体で人口が減るのに、自分の自治体だけを増やしたいと画策する無駄な抵抗の根拠はこれだ。

そんな自治体は、駅前再開発をすれば、街が繁栄を取り戻すという発想で、貴重な資源が無駄遣いされている。
まことに愚かの極みが、まじめに実行されるこわさがある。

いまは「北端」の、稚内駅が再開発されて、どこでもおなじ「ガラス張りの駅舎」になった。
どうやっていまどきここからロシアに行くのかしらないが、「日ロ友好最先端都市の形成」が設計テーマだという。地図で「近い」だけで、「最先端」になれるらしい。
漁船で密出国でもしたいのか?
毎年夏期だけ運行された、稚内と(むかしの北端の)サハリン航路も、今年は運行されなかった。

70年代からこっち、巨大な人口の「団塊世代」が、豊かさと若さにかこつけてこぞって向かったのが北海道だった。
そんなひとたちの、青春の想い出さえも、再開発は取り壊してしまった。
ただ古いものを残せばいいというものではないが、「あゝ懐かしい」というこのひとたちの「価値」を吹き飛ばして、「日露友好」とは、トホホなのである。

いったいどこから人を呼んで、いったいどのくらいお金をつかわせたかったのか?
計画にあたったトホホなひとたちには、一生わかるまい。
「事業コンセプト」が狂っている。
地元紙は、さぞやきれいな駅舎なら、おらが自慢と書きたてて、ムダな投資をあおったことだろう。
価値観の時計が、昭和で止まっている。

みずほ銀行が、現役の53歳以下には、企業年金を減額すると決めたらしいが、それを補充する行員向けの積み立て商品はつくらないのか?
役人が適当に、大金を運用するより、よほどいい。
他行で運用したい行員が、どれほどいるのかも興味あるが、国もはやく社会保障(国民皆保険)制度を「やめる」と宣言すべきだ。

この制度こそが国民を「堕落」させ「国家依存」に誘導する、諸悪の根源である。
年齢別に終わるスケジュールをはやく発表して、いまの若年者層やこれから生まれてくる子どもたちの負担を軽減させないといけない。

日本人が、外国の銀行に口座をつくることが、ほぼできなくなったのは、日本国内ローカル法である金商法(金融商品取引法)の適用を、ご丁寧かつお節介にも外国の銀行にも求めたからである。
しかも、すべての説明を日本語でせよと金融庁が頑張った。
おかげで、相手にされなくなった。

アメリカ議会は、国内法の「台湾関係法」や、このたびの「香港人権法」を上院は全会一致で成立させた。
わが国が、国内法でできない理由はないけれど、社会の木鐸たる新聞が「書かない自由」を選択したことで、その役割を終えてしまった。

もはや戦後ではない、ばかりか、もはやわが国はアジアの盟主でもない。
自由と民主主義という「共通の価値観」なんて、絵に描いた餅、ただのうわごとだったと世界に向けて発信中だ。

なにもしない、ということは、そういうことである。
新聞が天下国家を論じないのは、脳までが萎縮している証拠である。

縮む日本をつくる責任の一端に、まちがいなく新聞もふくまれる。

屋上屋の政府統計官資格創設の姑息

「国家統計」の信憑性が疑われた一連の不祥事対策として、やっぱりでてきたのが、統計にかかわる役人に、統計専門家の資格(「統計データアナリスト」)を持たせる、という手前味噌な方法だ。
政治が機能しない、わが国の絶望が、またひとつ露わになった。

もちろん、かたちのうえでは、「関係閣僚」で構成される「統計改革推進会議」で決定するというから、政治が決めたことにしてはいる。

人間社会には、社会的地位という架空の立場があるけれど、この架空の立場が「架空である」あるいは「仮のすがた」ということを忘れてしまうと、あたりまえだが本末転倒が起きるものだ。

たとえば、国会議員として活きのいい発言をしていたひとが、入閣して大臣や政務官になると、とたんにトーンダウンすることがあるが、これは「公職に就いた」から、めったなことはいえない、という「常識」がはたらくかららしい。

しかし、国会議員そのものが「公職」なのであって、国民からすれば「何をか言わんや」というはなしになる。
あげあし取りの野党や報道機関に、おかしい、といえないのは、その背後の国民を信頼していないからだ。

「無職」のときに積極的発言をしていて、それが妥当だから、入閣するように要請されたのであるから、よりはっきりと自らの政見を述べるのが本来の「立場」であろう。
これが、逆転するのが「常識」とは、いかにも日本的だ、といいたくない。

役人に対して政治家が存在する理由は、「ビジョンの提示」なのである。
それにしたがって、「行政」をするのが「行政府」のはずが、「ビジョン実現の方法」を役人がかんがえる立場になっているから、おかしくなるのである。

政党政治が日本で機能しないのは、政党内に「ビジョン実現の方法」をかんがえる事務局が存在せず、議会内にも議員を輔佐する事務局が存在しないためだ。
これでは、行政府が一方的に肥大化するのは当然である。

けっきょく、「統計改革推進会議」というのはなにを議論してきて、どんな「ビジョンの提示」をしたのか?
おそらく、役人に「丸投げ」したのだろう。
であればこその「結論」ではないか。

そもそも、各省庁で重複するような「統計」だってある。
本来は、総務省「統計局」が政府統計をすべて統括すべきなのだろうが、例によって各役所が自前の仕事を手放さないにちがいない。
各役所からでてきた役人だけで「会議」をするから、こうなる。

それで、飲み屋の注文のように「とりあえず」、総務省統計局の「権威」をつかって、役人と民間両方に開放する「資格」をつくって、この資格保持者に統計をあつかわせれば、不正がなくなる、ということにした。

そもそも、どうして「不正」が「継続的に」何年もおこなわれていたのか?
数年で異動するキャリア「上司」による指示はなかったのか?
あるいは、キャリアに忖度する部下はいなかったのか?

いわゆる「官僚=キャリア」とよばれる上級試験合格者と、「幹部」とよばれる「中級試験合格者」、それを現場でささえる「初級試験合格者」とによって役所の組織は構成されている。

どちらの役所も似たようなものだが、たとえば財務省に入省すれば、20代後半で県を代表する税務署長に就任するし、警察庁なら、どこかの県警に派遣されて、巡査から交番勤務をしたとしても、半年で警部補になる。

このくらいのスピードでなければ、本省の局長以上になるための「階段」つまり「キャリア形成」が間に合わないのである。

そんな事情をかんがえれば、いったいこの「資格」とは、どのような位置づけなのか?
さらに、民間人でもこの資格保持者なら各省庁に新設される「統計監理官」のポストに起用するという。

まさに現代の「令外の官」だ。
わが国は、平安時代とおなじ発想で運営されている。

国家統計が信用できない、というのは、近代国家として由々しき問題ではあるが、「縦割りの弊害」もあいかわらずである。

すでに「貧困率」で、先進国二位になったわが国では、「貧困」の実態がわかる調査として、3年に一回の国民生活基礎調査(厚労省)と、5年に一回の全国消費実態調査(総務省)のデータを「加工」しないとわからない、と専門家が指摘している。

ようは、なにを知りたい。
が欠如していて、それでどうする?
も、曖昧なのである。

やっぱり「ビジョンの提示」がないことが原因だろう。
おそるべきことである。

政治の「貧困」が、国民生活を「貧困化」させているのだが、だからといって「金をくれ」といいたいのではない。

むしろ、国家の統計データがぜんぜん信用できない国が、高度経済成長を遂げたように、かえって国家の介入がなかったことが結果オーライをつくった。
国営企業群の不振がいっそう顕著なのは、国家の介入のおかげである。

民間は、国家に依存してはならないけれど、国家は、民間の役に立つ情報提供が義務なのだ。
わが国の凋落は、国家が、経済や国民生活に直接介入したがるだけでなく、現実に介入するからである。

『ラーメン食いてぇ!』のうんちく

原作は、林明輝のまんがで、昨年映画化された作品である。
舞台は林の実家であるラーメン店だから、こと、ラーメンについては、いわば「再現もの」といってもいい。

老舗の、むかしから変わらない「味」は、じつはたいてい「変化」している。
貧しかった「むかし」のままだと、豊かになった「いま」の「舌」では「貧相」になってしまうから、繁盛店ほど「味を変えている」ものだ。

「むかしのまま」だと、客に納得させることが、「プロ」の味付けなのだ。

それに、家庭料理とちがって、店での料理は、「いつもおなじ」が要求されている。
昨日より今日のほうが「うまい」では、商売にならない。
もしかしたら、あしたは「まずくなる」かもしれないような不安定では、常連客はつかない。

「安心のいつも」が「安定のいつも」になって、「いつもの客が来る」のである。

新規に料理店をはじめる、これは個人事業として典型的なはなしだった。
成功と不成功における「商売上手」と「商売下手」の分岐点は、開店したその日から勝負がはじまる。
全員が新規の客に「これは!」と思わせると同時に、さいしょから「安心のいつも」である必要があるからである。

これが、簡単ではない。
いわゆる「修行」を積んで、つまり、「基礎」が完全にマスターできた上での「独立開業」でないと、商売にならないからである。

ところが、料理店は料理だけでは成りたっていない。
サービスはもちろんだが、「経営」という問題がでてくる。
それに、夫婦ふたりで店を切り盛りするばあいの「リスク」もある。

むかし、わが家のちかくに、蕎麦やうどんなどの「自家製麺類」を、持ち帰り専門で販売する店があった。
ここで買えば、わざわざ蕎麦屋から出前をとらなくてもよいほどにうまかったのは、麺だけでなく汁がうまかったからである。

ところが、おばあさんが亡くなると、とたんに味が落ちてしまった。
汁の仕込みは、おばあさんがひとりでやっていて、家族のだれにも教えていなかったという。
「どうやってもあの味ができない」
しばらくして、店自体を廃業してしまった。

それは、常連だったわが家にも「甚大な被害」となって、蕎麦は出前をしてもなにをしても、めったに「うまい汁」にお目にかかれなくなったからである。

冒頭の作品では、自家製麺のラーメンが特徴になっている。
たしかに、ラーメンという食べ物では、自家製麺は珍しい。
いまでこそ見かけるが、むかしはめったになかった。

「かんすい」というアルカリ性の液体をくわえるのが中華麺の特徴だ。
内モンゴルの「塩湖」の水から小麦を練ったことをはじまりとする。
その意味では、うどんともパスタともちがうルーツの麺である。

わたしの祖父は、ラーメンが嫌いだった。
蕎麦をじぶんで打ったり、春になるとよもぎ摘みにでかけて、よもぎ餅をつくってくれるほどのまめさがあった。
田舎から送られてきた「こんにゃく芋」をすりおろして、こんにゃく作りを手伝わされたのが苦痛だったのは、手袋をしていても手がかぶれてかゆくなるからだ。

どうして「ラーメンが嫌いなの?」ときいたら、あれは「食いもんじゃない」といったのが、印象的だ。
食糧難のむかしは、かんすいの代用に「苛性ソーダ」を入れていたのをしっていたからだ。

「苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)」とは、むかし洗濯につかっていた。
いまは、食品への使用が制限されている。

もっとも、こんにゃくにだって「灰汁」をつかう。
いまなら買ってこないといけないが、掘り炬燵の練炭の燃えかすを入れていた。

まことに、化学反応が食品に応用されている、とは子どものころには思わなかった。

中華麺づくりの難しさは、かんすいをいかに少なくして腰をだすのか?にある。
この努力を、消費者がしる機会はあまりない。
なので、たしかに「どんな素性の麺なのか」についてはわからない。

むかしといっても20年ほどまえ、香港でたべたラーメンの麺が忘れられない。
どことなく、カップヌードルの麺のようで、よりきっちりした歯ごたえなのだが、「プツン」と切れる食感が新鮮だった。

あるとき、「麺」が忘れられないという友人がいたので、香港?ときいたらシンガポールのお店だという。
はなしで聴けば、ほとんどおなじだが、そこは店内で手打ちしているという。

あゝ、ラーメン食いてぇ、と思いだした。