レバノン化するニッポン

中東のレバノンというのは地中海に面した「国」を指す。
首都は同国最大の港湾都市ベイルートである。
この港で、市の半分が被害を被る大爆発がおきた。

むかしは「中近東」と別けていたけど、最近では範囲の広い「中東」が便利な表現になっている。
京都を中心にした中央集権国家としての歴史がながいわが国では、都からの距離で国名(近江とか遠江、上・下、前・後)をつけたのと同様に、ヨーロッパとくにイギリスからの遠近で地域名をつけたものだ。

イギリスからみた地理の概念として、インドが「東」だったので、インドよりも近い東との中間を、「中近東」といって、それよりもインドに近くなる中間を、「中東」といって区別した。

日本人には、どちらも遠いので、「近」がとれて「中東」ですませることがおおくなった。
これは、あいかわらずこの地域の「石油」にしか主たる興味がないからであって、中東と中近東を区別する気概も失ったのである。

もっとも、その原因にもなるのは中東戦争以来の複雑さで、その中東戦争の原因だって、複雑なのである。
複雑なことをかんがえると気分が悪くなるひとが増えて、単純化された情報こそに居心地のよさがあるのを「大衆」と呼ぶので、わが国は世界に冠たる「大衆社会」である。

その「大衆」からの人気を得ないと、どんな職業でも成功できない。
そんなわけで、「大衆」による「大衆化」が極大にまで膨張し最後は自己崩壊する物理特性を大衆社会は内包している。
これが、民主主義の暴走となって小数派への弾圧になるのである。

しかし、オルテガがいう批判すべき大衆とは、大衆のなかの大衆すなわち、専門家を指すのであった。
大衆に真っ先に迎合するのが、大衆である専門家だから、これが膨張のエンジンであり、燃料にもなっている。

大衆となった専門家と、本来の専門家を見抜くためのリトマス紙とは、「わからないことをわからないという」ことである。
大衆となった専門家は、わからないことをわからないとはいわない。
本来の専門家は、わからないことをわからないというのだ。

わが国には、中東の専門家が数々いるけど、被災者には申し訳ないが、どうなっているのかを観察できるチャンスが、このたびの「ベイルート大爆発」である。
つまり、わからないことをわからないとはいわないか、わからないことをわからないというか?

中東戦争の当事国ではなかったのに、人口の少ない小国だったレバノンは、国防力も乏しく、周辺の当事国から大量の「難民」がなだれ込むのを阻止することができなかった。
当然に、難民の中に紛れ込んだ、当事国になりたくないレバノンにとっての危険人物たちもいた。

世界の三大宗教の聖地があるイスラエルと隣接するレバノンも、「宗派のるつぼ」だった。国内には18もの宗派がある。
そこで、人口で最大のキリスト教マロン派(東方カトリック)とイスラム教とで知恵をだし、大統領と首相を交互に選出する方法をあみだした。

ちなみに、元日産自動車のカルロス・ゴーン被告は、キリスト教マロン派だという。

しかし、中東戦争の影響で、上に書いたバランスが狂ってしまったゆえの長期にわたる内戦で、いまは「ヒズボラ」というテロ組織が政権を担っている。ただし、意外にも普通選挙はおこなわれている。
彼らはイスラム教シーア派だ。

これには、事情があって、キリスト教徒よりもイスラム教徒の方が「多産」だということがある。
平和が破られて半世紀も経ったので、人口構成がかわってしまった。

シーア派といえばイランである。
しかして、ヒズボラ支配の実態とは、イランの支配のことを意味する。
そのイランは、イスラエルとは犬猿の仲のはずだけど、「敵の敵は味方」という論理が働いて、「それはそれ、これはこれ」がまかり通る。

こうして話が、どんどん複雑になっていくのである。

レバノン国内に話を絞れば、中央政府(ヒズボラ:シーア派)の意向を無視した残り17の宗派が、別々の動きをはじめるという「運動」がある。港湾に備蓄されていた小麦等の食料が、この爆発で雲散霧消してしまったことが、いきなり「食料危機」になったのだ。

大爆発の原因追及よりも、さぁどうなるレバノン?ということになっている。

話をわが国にもどすと、中央政府と地方政府の一部が、ぜんぜんちがうことをいいだして、なにがなんだかわからなくなっているのは、ご承知のとおり「コロナ対策」の分裂である。

中央は「Go To」で旅行に行けといい、地方の一部は「自粛せよ」といっている。この一部とは、東京・大阪・愛知といった大都市圏の(宗派を異にする)知事たちなのだ。
武器を使わないけどまるで、レバノン内戦の様相なのである。

いまからすれば、中央の内閣と総理大臣の権限を地方政府、なかんずく知事へ大幅に譲る、「緊急事態宣言」がわが国における「大爆発」だったのである。
『特別措置法』に従って権限を返上すべきなのに、これをしないのは、知事は「直接選挙で選ばれた」ことの「民主主義」があるからである。

これは、「民主主義の暴走」である。
そしてこうなったのは、この膨張運動の担い手が、政治の専門家であるという「大衆」が知事をやっているからである。
大衆は、わからないことをわからないとはいわないのである。

もちろん、「緊急事態宣言」をだした、中央の政治家も、企画した中央のエリート役人も、みんな「大衆」なのである。
だから、「民主主義の暴走」を予想しなかったばかりか、できなかったのだ。

地方は中央に従うだけの存在だと、これら大衆が決めつけて、大衆の知事たちが反逆を開始したのである。

この分裂は、もう誰にも止められない。
だから、もう止まらない。
わが国は、急速に分裂し、レバノン化するしかない事態となった。

古い本を読む

社内コンサルタントから卒業して、他社さんのコンサルをすることになってから、俄然と読書の量と傾向が変化した。
もちろん、量は増えたのだけれど、問題は質なのである。
最初は気がつかなかったのだが、振り返るとはっきりとした痕跡が見えてきた。

それが「古い本」なのである。

どのくらい古いかといえば、現代語で読める範囲をいうけれど、おおよそ80年代から90年代にピークがある。わが国の経済絶頂期こそ、出版においても絶頂だったのだろう。時代にたえる図書は、後に「古典」といわれてもおかしくない要素を持っている。

それは、深い思索による発露を意味するので、著者自身もその瞬間にしか書けない文章かもしれないという緊張感がある。ただうまい表現ということではない。私が選んで読むのは、小説ではないからである。

もちろん示唆に富む小説だってあるのは知っている。だが、文壇ではなく論壇での議論を優先して読みたいという願望が強いのは、不遜にも他人様にアドバイスをするということの不安を消しこみたいからであった。
できるだけ「正解」に近づけたい。そのための抽象(哲学)が欲求の対象になったのだ。

しかし、過去形になっているのは、このところの10年以上、あるいは15年か、わが国の論壇の議論における劣化を感じるようになったからである。そこにかつての論客達による深い思索の発露を感じないばかりか、「薄さと軽さ」が読むに耐えなくなったのだった。

これは何故なのか?

ついぞ気がつかないできてしまったけど、コロナ禍という「社会現象」を目の当たりして、ますます何故か?についての答えの欲求が高まってきた。すなわち、日本社会がコロナ前の元に戻れそうにないからである。
その理由と、先の何故か?が同じ答えにあるのではないかという気がしてきたのだ。

大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、これは「わが国近代の終焉」なのかもしれない、という予感である。
近代は、資本主義の工業化を生みだし、その結果「大衆」をつくった。
大衆とは、自分からかんがえないひとの集団を指す。

その大衆がつくりだした社会を「大衆社会」といい、大衆社会は大衆によって崩壊すると予想されている。
コロナ禍は、ウィルスがもたらす病気によるのではなく、かかって死にたくないという大衆の心理がつくりだした「禍」だ。

すなわち、大衆が大衆社会を崩壊させている歴史的場面を、いま我々は目撃しているのである。

オルテガ・イ・ガセットの名著『大衆の反逆』(1930年)では、労働者という意味で「大衆」を批判したのではなく、専門家層、とくに「科学者」に対し、「近代の原始人、近代の野蛮人」と激しい批判をしている。

まさにいま、国や都道府県が招集している、「専門家会議」という場で、役人が恣意的にあつめた「科学者」を自称する、「近代の原始人、近代の野蛮人」たちが、専門家たる研究の成果からの見解を述べるのではなく、自身の気分で意見を述べて、非専門家に命じることを使命にしてしまった。

かつてのソ連に生きていた、ルイセンコが蔓延っているのである。
エセ遺伝学者の彼は、スターリンやその批判をしたフルシチョフという時の権力者におもねった学説をとなえ、ソ連科学アカデミーの議長にまで上り詰めた。一方で、正規の科学者たちは多数、よくてシベリア送りになったのだ。

いま、わが国は、ひとりではない、多数のルイセンコが蔓延っている。
そして、これを批判する者は、研究予算もなにも奪われるのである。

上に書いた経済の絶頂と出版における絶頂期が同じ80年代から90年代にピークがあるということの裏に、ソ連東欧の体制転換という歴史的大事件が隠れていることに気づくのである。
この時、わが国では「たまたま」バブルだった、のだ。

つまり、世界の大変化に気がつかず、文字通りの井の中の蛙たちが絶頂を謳歌していた姿が浮かび上がってくるのである。
それにしても、なぜこうした歴史的大転換に気がつかなかったのか?いや、今現在だって気づいているといえるのか?

価値基準が違うという認識があったから、無視できたのである。

それは、バブル後にしきりにいわれた「自由と民主主義という同じ価値基盤の上に立って」という政治家達が発信した言葉にヒントがある。
ひとは、本当に同じ価値基盤があれば、それをわざわざ言葉にはしない。違うけど「同質」といって確認し合う必要があるのは、そうしないと友好国でないとされて不都合だからである。

詰まるところ、「日本の異質性」こそが、日本人の価値基盤だったということである。
それは、日本人は特別だという傲慢な発想を、だれもがしていたということで、まさにコロナにかかる数が欧米に比して少ないことの理由になっている。

では、何が「異質」なのか?

今更ながら、「自由」と「民主」の概念なのではないかと疑っている。

本人のせいではまったくないけど、韓国の俳優名はカタカナで表記することになっている。それで、「ハン・ジミン」というひとをテロップで見て笑ってしまったことがある。

問題なのは、「ハン」ではなくて「ジミン」の方だ。政治用語なら「ジ・ミン」にしないといけないけれど、日本人には「自民」であって「自由」と「民主」は切っても切れないという感覚がある。けれども、世界の常識は、「自・民」なのである。

わかりやすいのはやっぱりアメリカで、二大政党のゆえんは、民主党が「民主主義重視」の政党で、共和党が「自由主義重視」の政党だからである。実はこのバランスが難しい。

民主主義が強くなりすぎると、多数の暴力となって少数が排除されるし、自由主義が強くなりすぎると、他人を無視し、とうとう個人が絶対になって無政府主義になる。

ふつうの国は、これらが牽制しあってバランスを保つようにできている。

わが国の異質は、自由と民主主義が一体だから、牽制の方法がないことだ。
それで、たまたまコロナがきっかけになって、特に民主主義が強くなりすぎて暴走をはじめたのである。自由と民主主義が一体だから、この暴走を止める手段がない。それで、社会自体が崩壊を開始した。

大衆民主主義社会の自壊である。

民主主義の暴走を止めるには、自由主義が頑張らないといけない。
ところが、民主主義をやめろとは誰もいえない。却って、民主主義の名のもとに為政者達が命令する社会になっている。まさに多数による暴力がはじまって、自由の圧殺となっているのである。

つまり、いまのままでは「コロナ禍」は永久に終わらないということだ。
「感染」と「PCR検査陽性」を一致させるという、現代のルイセンコ説を「まちがっている」といえる政治家がいない。
責任をとりたくないからである。

だから、決して「一過性」ではなく、むしろ延々と続くのである。
それは、コロナ禍が原因で社会的に生きていけなくなったひとの数が、コロナに感染して亡くなるひとを上まわっても終わらない。

小室直樹は輪廻転生のごとく、この暴走によって傷めつけられた国民が自ら気づくまで、何度も傷めつけられることを覚悟せよといっていた。
西部邁『大衆への反逆』(文藝春秋)も、1983年出版の「古い本」であって、これから35年後の2018年に自裁して果てた。暗に小室のいう輪廻を自ら断ち切って「おさらば」を告げたからだと思われる。

民主主義と自由主義、この本質を熟知する二人の碩学の結論は、期せずして同じなのである。

これから生きていくには、自分自身にも、コンサルタントとしていえるのは、過去を棄てて、あたらしい仕事を見つけるしかないということである。

施餓鬼会のないお盆

お盆だって、ほんとうは「盂蘭盆(うらぼん)」で、これを「裏」と書いたから「表盆」はいつだ?ということになる。
サンスクリット語という古代インド・アーリア語が仏教典のオリジナルだ。
これを三蔵法師が漢語に訳して「お経」になった。

外来語を表記するのに、わが国ではふつうカタカナが使われる。
集合でいうと、外来語∈カタカナ語、と書けて、外来語はカタカナ語に属することを意味する。
りんごの英語Appleをふつう「アップル」と書くけれど、「あっぷる」とも書くこともあるからややこしい。

アルファベットを使う国や地域では、オリジナルの発音に真似た表記で外来語も書くしかない。
この意味で、漢語をつくる漢字でも、外来語はアルファベットと同様にオリジナルと似せた発音の文字を使う。

けれども、我々もよくしる漢字には、「表音」だけでなく「表意」の機能もある。
それで、発音表記のために書いたものに、なんだか「意味」があるように思えてしまうのだ。

ようは、当て字に意味を見出すという効果が発生する、ということである。

だから、「名訳」は、オリジナルの意味に合致した漢字をあてて、その発音までオリジナルに近いと、まったく自国語のようにすることを意識したものだ。この確率はかなり低いだろうけど、当て字に意味があると思い込むことになる。

日本の高校で習う漢文の「読み下し」とは、もっとすぐれた方法で、オリジナルの漢語で書かれた文章を「レ点」をつけて後から、とか、「而」の文字を目印に、そのまま「訓読み」すなわち、日本語にして読み進むという恐るべきものである。

漢語という外国語を日本語に翻訳するのではなく、日本語として直接読みこなすのである。
この読み下しのための「行ったり来たり」を、英語の長文読解でもやるというのは、江戸から明治の「漢籍の素養」があるひとの英語習得法を、現代の漢籍の素養がないひとにもやっているということである。

まさか、英語を読み下そうとしたのではなかろうか?

さて、「盂蘭盆会」には、「施餓鬼の法要」がおこなわれる地域がある。
地域と宗派によるのだけれど、これに「新盆」も含まれる。
亡くなったひとの初めての「盂蘭盆」のことである。

そもそも「お盆」とは、先祖の霊をお迎えしてこれを祀ることをいう。
迎え火でキュウリを馬に、送り火は茄子を牛に見立てるのは、早く来てゆっくりお帰りいただくための風習である。
有名な「大文字焼き」や盛大な夏の「花火大会」は、迎え火と送り火の「過剰」な形なのである。

また、「施餓鬼」とは、ご先祖には関係ないが、無縁仏などの不幸な魂を供養して、善行を積むことでいま生きているひとの魂を磨き、それで将来自分が死んだとき、成仏しようという儀式である。

生まれたからには必ず死ぬ。
だから、仏教徒のばあい、人生の究極目標は、成仏すること、一点に絞られるのだ。

だいたい、8月15日を中心に前後の日にちを「お盆」としていたけれど、大戦争の停戦日が同じになったので、戦争犠牲者たちの「鎮魂」も兼ねるようになった。
国際的に正式な戦争の終結日は、降伏文書に署名した9月2日である。

そんなわけで、毎年8月は、わが国が宗教国家であることを世界に知らしめる。それは、「お盆休み」という長期休暇があって、近代化や工業化のために集団就職やらで地方から出てきたひとたちが、ご先祖様のために帰省する「大移動」が風物詩にもなるからであった。

「夏休み」=「お盆休み」が、外国の「バカンス」にならない理由がここにある。

これを破壊するのが、わが国「保守政治」なのだからどうかしている。
さらに、既存宗教がなんの役にもたたないばかりか、そんな政治に異議も唱えずひたすら追随するのはいかがなものか?

わが家に届いたお寺からの案内に驚愕した。
今年は盂蘭盆会も施餓鬼の法要も新盆も中止します。
理由は、「三密」がいけないからだとあった。

おいおい、わが家の宗派は「密教」でなかったか?
比叡山参拝はなんだったのか?

本来の「三密」とは、「身密:手に諸尊の印相を結ぶ」、「口密(語密):口に真言を読誦する」、「心密:心に曼荼羅の諸尊を観想する」の「身・口・心」(しん・こう・しん)のことなのである。
「信仰心」という漢字が浮かべば、完璧な漢語の翻訳者だ。

なお、ここでも「密」という漢字は「表音」のために使われているのであって、漢字がもつ意味とは関係ないことに注意を要する。
コロナ対策の「三密」は、対策としての意味はないが、「密」という漢字の意味は有効である。

物質的な今般流行のウィルスに感染・発病予防のために、無理にご参集いただくことはありません。
宗教行事ですので、檀家各位がご判断ください。
寺としては、毎年同様の法要をいたします。
ご参集いただけなくても、同日・同時刻に、ご自宅の仏壇にてご供養をされますようお勧めいたします。
なお、当日はユーチューブでのリアルタイム配信をいたします。

こんな案内ならまだわかる。

果たして、わが国の宗教は、人間を幸せにしてくれるものなのか?
過剰な社会に警鐘を鳴らせない宗教にもこまったものである。
宗教国家なのに宗教が弱体化するなら、本格的な衰退といえよう。

東京の中心で「変」を叫ぶ

千代田区が荒れている。

区長と議会の対立は、区長が議会の解散を宣告し、これを区の選管と総務大臣が無効と言ったら、区長は裁判所の判断を仰ぐという。
また、初当選した3年前の選挙では、都知事の応援があったけど、この騒動で都知事は「区のこと」としている。

報道によると、事の発端は、区長が家族で購入した区内マンションが「抽選外」で購入できて、その理由にある「特別」とはどうやら「容積率の割り増し」という貢献をしたからだという。
区長権限の個人への悪用ではないか?という疑いがうまれた。

そこで、区議会は区長の証言をとろうとしたが、埒もないので100条委員会という伝家の宝刀を抜いた。
この委員会での「偽証」をもって、区長は「刑事告発議決」をくらった。
それで、刑事告発議決をすること=不信任議決だという「解釈」をして、地方自治法178条をもって議会解散を告げたのである。

ところが、この「お告げ文」を議長に手渡しても、議長は断固として受け取らなかった。
このときのシチュエーションは、春先に「やらない」と区長が公言した、コロナ見舞金(12万円/区民)を「やる」といいだしから、区の予算委員会も紛糾し、その「休憩時間」という間隙をついたものだった。

さらに、突然議長室に区長がやってきて、この「お告げ文」を差し出してからの押し問答のやりとりは映像記録されている。
議長がしきりに「総務省見解」をたてに拒否しているので、冒頭の総務大臣の発言は、とっくにあった見解の「追認」をしただけなのだろう。

というわけで、わが国の中心である東京の、そのまた中心である千代田区で、「変」が起きている。

さいきんの記憶で、千代田区といえば、内田なにがしという都議会議員が知事をもしのぐ「都のドン」だったことぐらいだったけど、とっくに引退している。
ただし、このひとの女婿は現職の千代田区議でもある。

「区長」対「全議員(25名)」という構図は、わが国ではなかなか珍しい。

当然だがマスコミは、発端となった「疑惑」があるから、区長が悪だと暗示させるような報道姿勢である。
首長のこんな横暴がまかり通るなら、全国の自治体がおかしくなる、といってあおっている。

しかし、「賽は投げられた」のだから、どうかんがえるべきかを別の視点から論じてみたい。
人生には取り返しのつかないことがある、からである。

本件では、「区長が議会解散を告げた」という事実が、取り返しのつかないことにあたる。
また、これ以前に、「議会が刑事告発の議決をした」という事実も、取り返しがつかないことなのだ。

そして、議会は総務省に依っていて、区長は裁判所に依っている。

三権分立しているといいながら、本当は三権分立していないわが国で、三権分立しているはずだと主張する区長の態度は、正義に満ちている。
25人もいる議員の全員が、この区長に対峙していて行政当局の元締めである総務省に依るのは、いったいどういう了見なのか?

それは、「従来秩序の維持」という常識が、25人の区議にあるのだといえる。この意味で、千代田区民の常識が議員にひとりの洩れもなく具現化されているのである。
けれども、「従来秩序の維持」がすべての前提にあるということは何を意味するのか?

このブログで何度も主張してきた、「国家行政による支配」を意味する。
すなわち、わが国に事実上「地方自治」なんて存在せず、旧自治省=現総務省のいいなり、ということを「よし」とするかんがえにほかならない。
その旧自治省とは、さらにさかのぼれば旧内務省のことである。

敗戦を境に中央省庁の看板の掛け替えがおこなわれた。
現在最強とされる大蔵省は、このとき看板は掛け替えず、いまの財務省になったのは「不適切な接待」とか「金融危機」による。
大蔵省解体論があるけれど、職員をクビにしたわけではなく、金融庁を創設しただけだった。

ほんとうの「最強」は、旧内務省なのである。
鳩山内閣で廃止した「事務次官会議」も、いまは「次官連絡会議」になっているけど、この会議の議長こそ、官僚の中の官僚、わが国の筆頭官僚が務めるポストなのだ。

それは、事務担当内閣官房副長官であって、歴代おおむね旧内務省・旧自治省事務次官経験者が就任することになっている。
そして、事務次官なら一般職だけど、内閣官房副長官は認証官なのである。
このちがい、お分かりか?

個人が家族をつくり、家族の集団が町内会・自治会で地域を支え、その集合体が自治体となるなら、日本全国の自治体を支配するとは、わが国民を支配するということになる。
これが、旧内務省・旧自治省で、いまでいう総務省の行政なのだ。

だから、たまたまとはいえ、わが国の中心地・千代田区で起きていることは、総務省支配の終焉か、継続か?ということでもなく、もはや裁判所に委ねるということが、蟻の一穴を意味するのである。
総務省見解 → 選挙委員会の解散無効判断 → 総務大臣の解散無効見解を無視した区長の、司法判断優先とは、まさに反乱の意味の「変」なのである。

さては、司法の判断とは、三権分立に向かうのか?
それとも、国家行政当局の支配継続を維持するのか?

「大変」なことになっている。

“Kabuki Play”の世の中

じつは「政治用語」になっているのが「Kabuki play(カブキ・プレイ)」だ。「型にはまった表面上の議論」という意味で、かなり皮肉をこめている。
わが国を代表する伝統芸能の理解が、英語圏でもたいへん深まっているのである。

『日曜劇場』といえば、『サザエさん』と並ぶかつては東芝単独提供の看板番組であった。
これに対抗したのが、『ナショナル劇場』で、あの『水戸黄門』や『大岡越前』などのシリーズがある。

日曜日は、「光る光る東芝~♫」で終わり、月曜日は、「明るいナショナル~♫」ではじまった。
『水戸黄門』の夕方の再放送が、本放送の視聴率を超えるという椿事が起きたのは、定年後の元サラリーマンたちが、現役のときの残業で本放送を観られなかったことと、早寝の習慣による。

いまの『日曜劇場』は、『半沢直樹』が高視聴率をたたき出している。
最初の放送は、2013年だったから、7年ぶりの第二シリーズだ。
主な出演者たちが、歌舞伎界からこぞって出てきているので、「現代カブキ」だと思えば楽しみも増す。

そもそも「傾奇者(かぶき者)」といえば、奇抜で目立ちたがり屋にして粋人をいった。その典型が、加賀百万石の始祖・前田利家の甥、前田利益(慶次郎)であろう。
もちろん、現代のブームの発端となったのは、『花の慶次』の原作、隆慶一郎の『一夢庵風流記』である。

 

小説家としては、10年、実動わずか5年という短さが残念でならない。
「全集」にしかない作品もあるけれど、絶筆が多数のためフラストレーションがたまるのは仕方がない。

「おもしろさ」と「資料の読み込み」という点から、司馬遼太郎の熱血ファンには失礼だが、目ではないとわたしはおもっている。
「再構築」という作業を、圧倒的なダイナミックさで実現しているからである。

もちろん、「小説」なのだから、「決めつけ」ということも大切で、そのわかりやすさと主人公の表現が「贔屓」なだけでなく、「エコ」がつくほどに持ち上げるところが絶妙なのである。
いわゆる、キャラを立てるのは、本職だった脚本家としての血なのだろう。

政局報道で、「劇場」ということばが流行ったのは、小泉純一郎時代だったようにおもう。
彼の、明解にして短いフレーズは、前後の文脈と関係なく飛び出したから、より「見出しになった」のである。

つまり、記者たちに「同じ見出し」をつけられるようにしてあげたので、この意味で国民はニュースの選択の自由を失った。
どれをとっても、記事内容だって同じになったからである。
こうして、取材される側が取材する側のコントロールをはじめて、それが成功したのだ。

となると、取材する側がどうして取材される側のコントロール下に無批判かつすすんで入ったのか?という疑問がうまれる。
答はそこに、「安逸さ」という居心地のよさがあるからであろう。
すると、世界に冠たるわが国の「風習」である記者クラブという「倶楽部」のあるべき堕落に気づくのである。

横並び、である。

カネを出して記事を買う「読者」よりも、記者たちの「ムラの安定」が優先なのだ。
これに、広告という収入源が、記事を買うひとたちが支払うより多額になれば、お客様は広告主企業になって読者ではなくなったから、安心して横並びができるし、横並びしないといけなくなる。

それで業界として、抜け駆けは許されないことになった。

郵政大臣だったときに田中角栄が推進したメディアの統合で、新聞社とテレビが合体して「グループ企業」となったから、この構造が放送分野にもひろがって、ぜんぶがひっくるめて読者や視聴者の優先がなくなった。
そんなわけでわが国は、「報道の自由が低い」ということを国際機関がいうようになった。

あたかも、政権や政府が報道をコントロールして、取材側に自由がないと論じるのは、いまさらアリバイ作りにもならない。
むしろ、取材側が望むことを取材される政権や政府がいうので、火に油を注ぐような記事ばかりになるのである。

その証拠が、「Go To」である。
4月の第一次補正予算にあげた計画を、ただ実行しようとする役所が止まらないだけで、政権はこれを止めることができない。
要は、行政機関の行動を、行政をつかさどる内閣がコントロールできない、という状態になっているのだ。

そして、民主党政権のときの大臣経験者たちが静かなのは、どの党のだれが内閣を率いても、行政機関をコントロールできないことを経験したからである。
だからこそ、内閣首班への集中攻撃しかしないのである。詳細に踏み込むと、やぶ蛇になるのだ。

脚本と演出は、事務官たちが書いて、演じるのは政治家の役を引き受けた素人俳優たち、ということが見えてきた。
ところが、国民も演じることに慣れてきている。

効果不明なマスクを、暑い中ガマンして着けているのは、「型にはまった表面上の行動」で倶楽部活動の一員であるとしないと村八分にされる恐怖があるからである。

全体主義は、このようにしてやってくる。

憲法53条による臨時国会の召集

衆議院議長に野党4党(立憲民主、国民民主、共産、社民)の代表たちが、臨時国会の招集を求めることを文書で伝達し、議長は与党の国対委員長を呼んで、「コロナ禍での国会のあるべき姿を与党もよく考えてほしい」と要請したと報道された。

日本国憲法第53条の条文は、以下のとおり。
「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」
主語が、「内閣」であることに注意。

現在の衆議院HPによると、令和2年6月17日現在、総数465名、うち会派名「立憲民主・国民・社保・無所属フォーラム」だけで119名だから26%になって、「四分の一以上の要求がある」ことになる。共産党を加えると、28%だ。

また、報道によると、「ただ、開会時期に定めはなく、実際に開くかどうかは事実上、内閣の意向による。安倍内閣は早期召集に否定的だ」とある。

これはいったいどういうことか?

まず、どうして野党代表者たちは、衆議院議長を訪問したのか?
行くべき先は、官邸ではないのか?
本来なら総理大臣に直接訴えるところだが、すくなくても、内閣官房長官に要求すべき事項であって、「国会対策委員会」で話す内容ではない。

つぎは、報道側が書いている、「実際に開くかどうかは事実上、内閣の意向による」という一文である。
憲法の条文のどこに、こんな「解釈」ができる文字があるのか?

むしろ、「四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」とは、「できるだけ速やかに」と読むのがふつうであろう。
「開くかどうか」ではなくて、数の要件を満たせば「開会を決定しなければならない」と「憲法」に書いてあるのである。

もちろん、野党の要求なのだから、与党とその内閣としては「やりたくない」というのはわかる。
しかし、だからこそ、憲法で「嫌でもやれ」と規定しているのではないのか?

しかも、野党議員といえども、選挙で選ばれている国会議員、すなわち国民の代表なのである。
それが、ちゃんと数の制約も満たしているのだ。

だから、臨時国会は(できるだけ速やかに)開会しなければならない。

開会後、どんな内容の議論が行われるのか?は関係ないのである。
たしかに、与党側が懸念しているように、野党がなにを目的にして開会を求めているのか?という疑問はある。
しかし、それは開会しないという理由にはならない。

憲法は、議論の内容を定めてはおらず、開会の条件を「四分の一以上」としているだけだからだ。
だから、数が満たされれば、しのごといわずに開会すればいいのだ。

そして、国民は固唾を呑んで天下国家の論戦に聞き入る、という順番になるのである。

つまり、憲法は議論の具体的内容を想定はしていないが、国民を代表する議員が国会の「四分の一以上」で要求することの意味として、国民が固唾を呑んで天下国家の論戦に聞き入るような内容の議論が用意されていることを想定しているのである。

すなわち、不毛の議論をするはずがない、ということだ。
近代民主主義国家の憲法とは、主権者たる国民からの命令書、なのだからこうなる。

それで、野党側は、どうやら「コロナ禍」や「大雨災害」を議論したいらしい。
まことに、タイムリーではないか?

巷には9月解散・総選挙のうわさまであるけれど、このタイミングで仕掛ける野党代表は、政権交代を狙うと公言しているのだから、緊張感がある議論になるにちがいない。
果たしてそれで、万が一「不毛の議論」を野党がやたっら、おおコケ、では済まされない。

どんな周到な準備があって、どんな論法で内閣を追いつめるのか?
はたまた、どんな代案をもって、国民がおもわず膝を叩くような妙案を披露するのか?
まったく、楽しみである。

それでこそ、政権交代の一撃となる。
だから、内閣・与党は、真っ向勝負しなければならないのである。
これぞ、憲法が望む国会のあるべき姿にほかならない。

しかして、嫌な予感がするのは、双方ともに、お粗末極まりないグズグズの論戦だ。
あれ?これは「いつものこと」だった。

それよりも、なによりも、米中間におけるわが国の立ち位置をはっきりさせることが必要だ。
世界大手のわが国自動車メーカーや、台湾資本になったとてわが国を代表する電機メーカーが、この期に及んで大陸に新工場をつくると表明している。

まさか、アメリカから名指しされた首相補佐官の出身母体・経産省が、あちらの国へ投資せよと命じているんじゃあるまいな?
それに、前回のアメリカ合衆国大統領選挙では、事前にヒラリー勝利を確信して、完全に読みを間違えた外務省は、今回も大丈夫なのか?

トランプ、バイデン、どちらが勝とうがわが国外交はちゃんと対応します、なんて寝言をいいだしかねない。

そんなわけで、野党のみなさんには、頑張ってほしい。

「統計」のセンスがないと欺される

「統計学」と聞いたら、なんだか難しそうで面倒に思える。
でも、世の中にあふれている「数字」の多くが、統計処理して出てきたものを「装っている」。
「装っている」のだから、本当はまちがっているかもしれない。

小学校でならう、「平均」が統計のはじまりである。
テストの平均点の出し方がわからないと困るし、理科でならう「開花時期」だって、年毎の平均から予想する。
そのために、グラフを描いて数字を視覚化する工夫もならう。

だから、難しく「統計処理」といったところで、中身は「平均の計算」のことだったりする。

日常生活の場面でも、何気なく「平均」を使っている。
今日は大根が安いとか、豚肉が安いとか、あるいは、電気代が高くなってきたとか。
何に対して安い・高いの判断をしているかといえば、「だいたいこのくらいの値段」という経験からの「平均値」を基準にしているのである。

生活の数字にうといひと、たとえば、ふだん自炊をしないでいるひとが、たまにスーパーに行くと、安いか高いかの判断がつかないことがある。
これは、買い物経験からの「平均値」がわからないことが原因だ。
それで、やけに高い買い物になって、外食の方が楽で安いと確信したりするのである。

主婦や主夫から笑われそうだが、生涯独身者が増加すると、あんがいこうした「外食派」が多数になる世の中になるだろう。
すると、「基準」というものの重要性がみえてくる。
自炊があたりまえのひとの基準と、そうでないひとの基準は、ぜんぜんちがう。

これが顕著になると、「価値観」ということになって、そのちがいは「相容れないレベル」にまで発展することがある。
そして、「個の尊重」と結合すれば、あらゆる分野での「多様化」が発生し、とうとう収拾がつかなくなって「発散」する。

いまは、価値の多様化をこえて、価値発散の時代といわれる理由である。

なんだか、「超新星爆発」に似ているのである。
水素の核融合によって何十億年も輝いていた星が燃え尽きるとき、自分の中心に向かって崩壊し、自重に耐えられなくなって大爆発を起こす。残った星屑は、とてつもなく小さいのに、とてつもなく重いか、元の星が巨大ならブラックホールになる。

いわば、この星屑になった状態が「オタク」であるし、SNSで「いいね」を大量にかせぐなら、それはブラックホールに例えられるのではないか?
「いいね」の集まりとは、「他人の欲望を欲望する」からだと東浩紀が『観光客の哲学』で解説している。それが、わたしには「ブラックホール的現象」に思えるのだ。

さてそれで、「基準」に話をもどす。
平均を出すばあいでも、大根なら大根の、豚肉なら豚肉の値段を基準にしないとおかしなことになる。

今日の大根は安いとか、高いと思うのは、大根の購買経験からいうのであって、豚肉の値段から大根のことをかんがえることはない。
ただし、豚バラの大根煮がどうしても食べたいとか、今夜のおかずはブリ大根しかないと想ったら別である。

だから、集めてくる元の数字が、おなじルールによっていないと、平均ということをかんがえるにもまちがってしまうのだ。
ふつうなら、このようなまちがいをするひとはいない。
けれども、なんだか世の中には怪しい数字がたくさんあって、それが「もっともらしい」形で並んでいるから欺されるのだ。

たとえば、しつこいが「感染者」と「PCR検査陽性者」が、いつの間にかに「イコール」の関係になってしまっている。
「感染とはなにか?」、「この検査の陽性とはなにか?」という「定義」を、曖昧なまま放置したから、ヘンテコな基準になってしまった。

このヘンテコな基準をもとに、飲食業とかに行政があれこれ命じたり、そうしたことを一般人が正当だと信じ込まされてしまったから、どうにもこうにもならなくなってしまって、「こっくりさん」が仕切る社会になった。

レジ袋の有料化が地球環境のためという理由も、「プラスチックは悪だ」という粗っぽくてヘンテコな基準があるために世の中にまかり通っている。
世の中のプラスチックはレジ袋だけではないし、プラスチック全体のわずかな部分でしかないのがレジ袋なのだから、論理破綻もはなはだしいのに、罰則付きなのである。

これらは21世紀の「生類憐みの令」だから、未来の人々からわれわれは「令和時代の愚か者」との烙印を押されること確実である。

すると、あろうことか気象庁が、昨日7月31日より、大雨特別警報の「基準を変える」というから要注意である。
つまり、一昨日までとはちがう基準となるのだから、おなじ「大雨特別警報」でも意味がちがう。

変える理由は一見もっともらしいけれども、ほとんど国民をバカにしている。
発端は、2013年の伊豆大島の大雨で、死者・行方不明者が多数でたのに、「大雨特別警報」を出さなかったことにあるという。

こんな警報が出ようが出まいが、そこにいるひとならどんな状態の雨がどのくらいの時間降っているかぐらいじぶんでわかる。
むしろ、そんな状況で避難しろといわれても、かえって危ないとかんがえるのが人間だし、避難させる側だって躊躇する。

「予報」でなんとかしろ、というのが筋であるし、逃げ方の研究と逃げる先の確保がよほど重要である。

基準を変える理由は、観測機器に予算を大枚つかった後の責任回避だけだとおもわれる。

米国は「コウモリ君」を許さない

米中新冷戦がエスカレートして、いつ「熱戦」になっても不思議ではない状態になってきた。

香港に適用された法律について、各国政府の支持数をみたら、反対と賛成に2倍ほどの開きがあって、あたかも世界は「賛成多数」にみえたところが「ミソ」になった。

外国から多額のODA(政府開発援助)を受け取りながら、これを流用(横流し)して、より貧しい国への「援助資金」にしていた効果が現れたのだから、上の法律の適用を強行した政権党のひとたちは、これまでの流用が「正しかった」と安堵したにちがいない。

一方で、流用されているのを承知しながら、「見なかったことにする」と見てみぬ振りをしながら、多額の資金提供を続けるのは、どんな了見なのか?と疑われても、知らんぷりを貫く根性が、わが日本政府と政権与党にはある。

ふつうなら、野党が厳しく追及して、政権交代をねらうのだけれど、わが国には「もっと援助すべし」というのが野党だから、政府も安心して見てみぬ振りができるのである。

国民から集めたカネをどう分配するのか?
政治の本質はここにある。
なので、民主主義ならこれを委ねるのが選挙であるはずだけど、分配を仕切るのが国会ではなくて財務省という行政機関なので、もともとわが国には「政治の本質がない」のである。

だから、「政治不信」という言葉は間違っている。
「ないものねだり」にすぎないからだ。
本質がないのだから、不信になることはない。
むしろ、戦前のわが国の方が、よほど国会が機能していたことを羨ましく思うことしかできないことを嘆くだけである。

さて、アメリカの本気度があがってきて、過去のやり方の変更を開始している。
わが国は、政治の本質がないからこの意味が理解しにくい。
すべてを仕切る行政官僚が発想することは、古来から「有職故実」、すなわち「前例主義」になるからである。

果たして、香港の法律に反対したグループにわが国も入ってはいるけど、わが国の本気度が冷めているのは、わが国以外の積極性をみればだれにだってわかるものだ。
特に今回は、香港だからもあるけれど、「英連邦」という、かつての大英帝国が積極的で、英国が抜けたEUもこれに続いている。

それは、「感染症」の初期における「隠蔽」がまとわりついているからで、「ひと・ひと感染しない」という虚偽情報を流した責任論があるからである。
世界は、損害賠償の請求計算をしだして、その額は数百兆円規模になっている。

もちろん、「支払方法」も検討している。
請求先が拒否しても、「差し押さえ」という手法をかんがえている。
対象は、金融資産はもとより、不動産も含むけれど、個人名義でも可能とするところが過去にない方法になっている。

それが、アメリカで検討されている「党員」の入国拒否と国外退去にリンクしている。
つまり、国家が国家に請求するのではなくて、国を支配している「党」と構成員である「党員」に請求するというのである。

このニュースによって、グーグルの漢字検索で「脱党」が急速にヒット数を上げている。
党員名簿をアメリカが把握しているという情報戦も加わっている。

そんなわけで、アメリカ側の本気と苛立ちは、わが国にも飛んできて、アメリカ政府系の研究所の日本研究レポートで、「親中派」を名指しした。
現役官僚の首相補佐官と与党の幹事長、それに連立している片方の与党である。

これに対して、わが国の報道に、内閣官房と与党内の動きの情報がぜんぜんない。

しかしながら、アメリカの本気がわかるのは、与党の幹事長の前に現職官僚の名前を出したことである。
官僚国家であることを、よくしっているぞという意味だけど、占領中に官僚体制をいじらなかったことを思いだせといっているように思える。

かつてのアメリカは、こんな露骨なことはしなかった。
ロッキード事件だって、田中角栄を失脚させるための複雑な方法だった。
すなわち、「平時ではない」という意味であって、「コウモリ君」を許さないぞと平手打ちしたのである。

すでに東南アジアの海にも空母が配置されている。
これに、海上自衛隊の護衛艦も訓練に参加はしたけれど、たったの一隻だ。
しかも、わが方は、敵に向かって「撃てるのか?」という大問題がある。
さては、アメリカは日本国憲法をどういじるのか?

ありうる手は、「事情変更の原則」を使って9条を無効にするのではないのか?

その前哨戦が、「名指し」なのだろう。
「個人を狙う」というのは、わが国も彼の国と同じあつかいを受けているということでもある。
これで、内閣法制局の役人と最高裁の判事がどのくらい「怯え」ているのか。

彼の国の国民が歓喜しているように、わが国の国民にも悦ばしいことになっている哀しさがある。

アメリカ合衆国が、外国に対しても国民のためにならない「党」と「官僚」を、これからも「名指しする」というのは、個人的破滅を意味する。
すなわち、内政干渉を超えた攻撃が、わが国の支配層にもはじまったのだ。

その意味で、恐ろしい国ではある。

【訃報】30日、岩里政男(李登輝)氏が逝去された。各社の報道に、「親日家で、流ちょうな日本語」などというバカげた表記を散見するのは、「コウモリ君」を自称しているようなものだ。本人がしきりに発言していた「22歳まで日本人だった」から、「元日本人」なのではない。「ずっと日本人だ」という意味である。「旧制高校と旧帝大」で、武士としての教育を受けた最後の「哲人政治家」は、明治の元勲をも超えて、自らは長期政権を率いずに引退し、なによりも後身の育成に心血を注いだことは、簡単にできることではない。現代の偉人が歴史になった。享年97歳。ご冥福をお祈りいたします。

教育改革は「教育クーポン」から

「教育問題」が範囲を拡大して限界を超えたから、いまや「発散」してしまい、何が何だかわからなくなってきている。
風船が爆発したようなもので、収拾がつかない。

欧米では、「国家の役割」についての議論が旺盛で、とくに70年代から90年にかけて盛んだったのは、経済の悪化(不況とインフレが同時に起きる「スタグフレーション」)に悩まされ、中産階級の衰退が深刻になったからである。

当時のわが国は、こうした「先進国たち」を尻目に、成長を謳歌していたし、「世界一の教育大国」を自画自賛していた。
中曽根首相が、アメリカにおける教育の廃退的状況を笑ったことで、レーガン大統領との関係が微妙になったことも、自画自賛の結果であった。

政界でも俳優としても無名のレーガン氏が、現職のカーター大統領を破って地滑り的勝利をおさめたのは、カーター大統領が発足させた「連邦教育省」への批判だったといわれている。
日本では、テヘランの大使館占拠事件への対応のまずさということになってはいるけど。

つまり、アメリカ合衆国連邦政府には、カーター政権の前には、「教育省」という役所が「なかった」のである。

なぜに、アメリカ人は「連邦教育省」を嫌うのか?
その理由は、わが国の憲法にもコピーされていて、第89条がこれにあたる。
「公金その他の公の財産は,宗教上の組織若しくは団体の使用,便益若しくは維持のため,又は公の支配に属しない慈善,教育若しくは博愛の事業に対し,これを支出し,又はその利用に供してはならない」。

英国の清教徒(カルヴァン派プロテスタント)たちが、イングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世による弾圧を恐れてメイフラワー号に乗り、新大陸に渡ったことを「建国」のはじまりとしているのがアメリカ合衆国の成り立ちである。

だから、「信仰の自由」について厳格なのがアメリカ人というひとたちだ。
わが国では、一向一揆の果て、徳川家康による本願寺東西分裂の画策が成功し、さらに、島原の乱を制圧してこのかた、「信仰の自由」を厳密にかんがえないようになって400年あまりが経過している。

そんなわけで、子どもでも憲法に違和感をもつのは、第18条の「奴隷」とならんで、この89条なのである。
それは、日本国の成り立ちを無視した、アメリカの事情がプンプン臭うからである。

しかし、国家として、社会として、信仰というものの自由を認めるということは、ものすごい決心なのである。
それは、知の伝統「リベラルアーツ(自由7科)」の構造をみればよくわかる。
これらをとりまとめるのがこの上の「哲学」で、さらに最上位に「神学」がある。

つまり、神への信仰あっての自由なのである。信仰の自由こそ、すべての自由の源泉なのだ。
したがって、子どもに受けさせる教育も、信仰による選択の自由が保障されなければならない、とアメリカ人はかんがえている。

だから、国家の介入を嫌うばかりか「拒否する」のである。
そうしないと、簡単に自由を失うからである。
そのために、「公金」だって受け取らないぞ、ということで、まさに悪魔のささやきを拒否するという態度を、思わず日本国憲法にも書いたのである。

しかし、こうしたアメリカ人の常識が通じないのが、日本国・日本国民なのである。
それで、私学助成という公金の支出については、内閣法制局も最高裁も、私学といえども「公の支配に属している」ということで、「合憲」としているのだ。

このときの「公の支配」とは、簡単にいえば「文部科学省の支配」ということである。
つまるところ、アメリカ人が想定した真逆の現象を、「これでよし」とし、「自由の喪失」についてはかんがえない家康以来400年の伝統が生きている。

だから、「教育の自由化」の意味が、「中高一貫」とか、私学の「学費無償化」の方向に行く。
本来あるべきはずの、質的向上すら、授業の質的向上ではなくて、あたらしい教科の導入になってしまうのだ。

それもこれも、文部科学省の支配の強化が目的で、自由のさらなる喪失をだれも気にしないことが基礎にあるのだけれども、憲法違反にならないようにするという本末転倒がまず最初にあることが重要なのだ。

どうせ私学に行かせても学費が無料になるなら、公立学校を私学化させればよい。
教育クーポンを子ども宛に発行して、好きな学校選択という手もある。
人気校は、抽選でよい。

すると、実績と気概のある私学が、高額の授業料をとって、文科省の支配から離脱するかもしれない。助成金をもらわないと、経営が成り立たないようにしたから、値上げしないといけないはずだ。
これを「格差助長」というなかれ。
いまだって、高額の授業料をとっているのだ。

それよりも、自由を取り戻す学校ができることが、よほど国民福祉に合致する。
「学歴」の意味が急速に失われている現代社会にあって、「卒」よりも「スキル」が重視されている。

学問研究のための大学と、スキル付与のための教育機関に分離するゆえんがここにある。

再度の緊急事態宣ってなんだ?

以下は、国内に限った話なのであらかじめご承知おきを。

緊急事態宣言とは、『新型インフルエンザ等対策特別措置法』の「等」にあたる「新型コロナウイルス」に対する措置として、内閣総理大臣が「宣言」すると、大幅に都道府県知事へ権限が委譲されることになるものだ。
この権限を、市町村長にもよこせと知事たちが「経済再生担当大臣」に要求している。

すっかり、この病気の「担当大臣」になった感があるけれど、緊急事態宣言を出すのは内閣総理大臣であるし、内閣は国会に報告の義務を負っている。

以上の文から、問題点が3つ出てくる。
・前回の緊急事態宣言と終息宣言の期間と終わってからの今までについて
・地方自治法における知事の権限と市町村長の権限の曖昧さについて
・そもそもの「病気蔓延の根拠」が不明なことについて放置されていること

3番目の「そもそも」が、一番の問題である。
「病気蔓延の根拠」とは、ふつうは「患者数」のことをいう。
もちろん、「患者」とは、「発症して医師から当該の感染症だと診断をうけたひと」を指す。

これが、厳密に行われなければならないのは、社会に広がる病気の蔓延について識ることができる唯一の方法だからである。

その仕組みは、従来のインフルエンザと同じで、現場の医療機関が「診断」した報告が地元保健所に届き、これを地方上部機関がとりまとめ、さらに国ベースでとりまとめるのである。
もちろん、現場の医療機関には「報告義務」があるから成立している。

今回の場合、この仕組みが無視され、なぜか「PCR検査」による、「感染者」を根拠にしてしまっている。
これが、感染症に対して、「意図的」で「悪質」な方法であるのは以下の2点がある。

・感染がはじまった初期の頃、今回のウィルスの遺伝子解析ができていないのに「PCR検査」を基準として、「陰性」と「陽性」の混乱が起きた。
・遺伝子解析ができた後の「PCR検査」の精度は向上したが、「感染」の概念が曖昧なまま放置されている。

特に後者には重要な問題があって、一般に細胞にウィルスが付着した「だけ」の状態を「感染とはいわない」のに、最新のPCR検査では「陽性」になってしまうのだ。
したがって、発症もしていないひとを「隔離する」という、過剰なことが行われている。

人間が発症に要する、ウィルスの数は10万個とも100万個ともいわれているけど、付着しただけの状態では自然免疫が働きだすので、その後の攻撃で何事もなく済む場合だってある。
もちろん、本人も自分の体内でなにが起きているのを知る由もないままだ。

これだけのウィルスが、細胞に付着したあと、細胞に侵入し増殖を開始したとき「感染」という。

しかも、PCR検査を実施するひとたちをどうやって選んでいるのか?という問題もある。
たとえば、豊島区はローラー作戦、新宿区は夜の街作戦という違いがある。
よって、感染者「数」の数字だけをみても意味はないし、検査数との比率も公表されていない。

夜の街の一部で、積極的にPCR検査を受けるひとがいるというのは、新宿区が「陽性者=感染者」と決めつけて、10万円の見舞金を支給するからである。
さらに、「陽性者=感染者」がその後どのくらいの数と比率で、「発症した」のかも発表されていないし、それから重篤化したのかもわからない。

つまり、「砂上の楼閣」、あるいは「幻(まぼろし)」なのである。

われわれの社会は、幻を見て大騒ぎしている。

今般の知事たちの要請が、さもありなんと思えるのは、冒頭の問題点の2番目、地方自治法における知事と市町村長の権限の曖昧さという点である。
法律に曖昧さがあるなら、これを放置しているのは「国会の怠慢」なのだが、三権分立をしていないわが国では、総務省の役人の怠慢となっている。

でも、ぜんぜん「怠慢」なのではなく、その方が総務省の役人にとって都合がいいからである。
そこに、介入の余地ができるからだ。
こうして、総務省の役人は、全国の「自治体」という組織から「自治」を骨抜きにして、命令できるのである。

冒頭の問題点の1番目は、緊急事態宣言発令中よりも、解除された後の方が「厳しい強制」になっていることだ。
終息解除となれば、知事に与えられた権限もなくなるはずなのに、おおくの知事はこれを返上しなかった。

少なくても、『新型インフルエンザ等対策特別措置法』に「違反」している。
ましてや、「県からの指示」と称して、店内マスク着用義務なぞは、「憲法違反」の誹りを免れない。

これを、三権分立していないわが国の「司法」は、やっぱり「無関心」を装って、なにもしないのである。
最後の砦、裁判所の無作為は、犯罪的なのである。

そんなわけで、権限を返さない知事たちを叱るでもない担当大臣は、盗人に追い銭のごとく市町村長にも権限をよこせと追求されているの「図」なのである。

「命令できる」って、こんな気持のいいことはない。
もはや、国民も市民も憲法もない。
だから、国会も「報告待ち」でぜんぜん攻めないどころか他人事だ。
司法の堕落は国会よりも悪質かもしれないのは、「国民生活の自由を奪う緊急事態宣言は憲法違反の可能性がある」とひと言いえばすむからである。

香港よりも酷い国にわれわれは住んでいる。
なるほど、香港人の移住先に選ばれない理由がこれだ。