“Kabuki Play”の世の中

じつは「政治用語」になっているのが「Kabuki play(カブキ・プレイ)」だ。「型にはまった表面上の議論」という意味で、かなり皮肉をこめている。
わが国を代表する伝統芸能の理解が、英語圏でもたいへん深まっているのである。

『日曜劇場』といえば、『サザエさん』と並ぶかつては東芝単独提供の看板番組であった。
これに対抗したのが、『ナショナル劇場』で、あの『水戸黄門』や『大岡越前』などのシリーズがある。

日曜日は、「光る光る東芝~♫」で終わり、月曜日は、「明るいナショナル~♫」ではじまった。
『水戸黄門』の夕方の再放送が、本放送の視聴率を超えるという椿事が起きたのは、定年後の元サラリーマンたちが、現役のときの残業で本放送を観られなかったことと、早寝の習慣による。

いまの『日曜劇場』は、『半沢直樹』が高視聴率をたたき出している。
最初の放送は、2013年だったから、7年ぶりの第二シリーズだ。
主な出演者たちが、歌舞伎界からこぞって出てきているので、「現代カブキ」だと思えば楽しみも増す。

そもそも「傾奇者(かぶき者)」といえば、奇抜で目立ちたがり屋にして粋人をいった。その典型が、加賀百万石の始祖・前田利家の甥、前田利益(慶次郎)であろう。
もちろん、現代のブームの発端となったのは、『花の慶次』の原作、隆慶一郎の『一夢庵風流記』である。

 

小説家としては、10年、実動わずか5年という短さが残念でならない。
「全集」にしかない作品もあるけれど、絶筆が多数のためフラストレーションがたまるのは仕方がない。

「おもしろさ」と「資料の読み込み」という点から、司馬遼太郎の熱血ファンには失礼だが、目ではないとわたしはおもっている。
「再構築」という作業を、圧倒的なダイナミックさで実現しているからである。

もちろん、「小説」なのだから、「決めつけ」ということも大切で、そのわかりやすさと主人公の表現が「贔屓」なだけでなく、「エコ」がつくほどに持ち上げるところが絶妙なのである。
いわゆる、キャラを立てるのは、本職だった脚本家としての血なのだろう。

政局報道で、「劇場」ということばが流行ったのは、小泉純一郎時代だったようにおもう。
彼の、明解にして短いフレーズは、前後の文脈と関係なく飛び出したから、より「見出しになった」のである。

つまり、記者たちに「同じ見出し」をつけられるようにしてあげたので、この意味で国民はニュースの選択の自由を失った。
どれをとっても、記事内容だって同じになったからである。
こうして、取材される側が取材する側のコントロールをはじめて、それが成功したのだ。

となると、取材する側がどうして取材される側のコントロール下に無批判かつすすんで入ったのか?という疑問がうまれる。
答はそこに、「安逸さ」という居心地のよさがあるからであろう。
すると、世界に冠たるわが国の「風習」である記者クラブという「倶楽部」のあるべき堕落に気づくのである。

横並び、である。

カネを出して記事を買う「読者」よりも、記者たちの「ムラの安定」が優先なのだ。
これに、広告という収入源が、記事を買うひとたちが支払うより多額になれば、お客様は広告主企業になって読者ではなくなったから、安心して横並びができるし、横並びしないといけなくなる。

それで業界として、抜け駆けは許されないことになった。

郵政大臣だったときに田中角栄が推進したメディアの統合で、新聞社とテレビが合体して「グループ企業」となったから、この構造が放送分野にもひろがって、ぜんぶがひっくるめて読者や視聴者の優先がなくなった。
そんなわけでわが国は、「報道の自由が低い」ということを国際機関がいうようになった。

あたかも、政権や政府が報道をコントロールして、取材側に自由がないと論じるのは、いまさらアリバイ作りにもならない。
むしろ、取材側が望むことを取材される政権や政府がいうので、火に油を注ぐような記事ばかりになるのである。

その証拠が、「Go To」である。
4月の第一次補正予算にあげた計画を、ただ実行しようとする役所が止まらないだけで、政権はこれを止めることができない。
要は、行政機関の行動を、行政をつかさどる内閣がコントロールできない、という状態になっているのだ。

そして、民主党政権のときの大臣経験者たちが静かなのは、どの党のだれが内閣を率いても、行政機関をコントロールできないことを経験したからである。
だからこそ、内閣首班への集中攻撃しかしないのである。詳細に踏み込むと、やぶ蛇になるのだ。

脚本と演出は、事務官たちが書いて、演じるのは政治家の役を引き受けた素人俳優たち、ということが見えてきた。
ところが、国民も演じることに慣れてきている。

効果不明なマスクを、暑い中ガマンして着けているのは、「型にはまった表面上の行動」で倶楽部活動の一員であるとしないと村八分にされる恐怖があるからである。

全体主義は、このようにしてやってくる。

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