みずほ銀行への提訴はエリート崩壊

ブルームバーグが9日に伝えた記事によると、みずほ銀行ニューク支店に勤務していたアメリカ人が、「差別的待遇を受けた」として、ニューヨーク州地裁に提訴したという。
なお、損害賠償として、約14億円を請求しており、一方のみずほ銀行からはコメントがとれていないという。

記事は、「訴状」に基づいていて、なにがあったのか?について書かれている。
また、訴えた相手は、みずほ銀行と上司だった3人のマネジャー(個人)である。
もちろん、裁判なので今後どうなるかはわからないが、サヨクの牙城ニューヨーク州地裁ということで、みずほ銀行サイドは大忙しになっていることだろう。

ちなみに、みずほ銀行といっても、旧富士銀行なのか、旧興銀なのか?はたまた旧第一勧銀なのか?があるから、3人のマネジャーとは、これら旧3行のひとを指すのか?もわからない。

わたしがもっとも気になる原告の主張は、マネジャーから「より日本人的な従業員になるための講習を受講すべきだと伝えられた」としていることだ。

つまり、外国人職員に対して、「より日本人的な従業員になるための講習」があることを意味するからで、それはどんな内容なのか?に興味が涌くのである。

むかしから、「郷に入っては郷に従う」という諺があるのが日本人だ。

明治で、幕藩体制という地方分権が、中央集権体制に体制変換した。
なので、いまの日本人は、中央集権がふつうだと思いこんでいる。
しかしながら、この国の歴史をみれば、地方分権の時間もじゅうぶんに長いのである。

それゆえに、旅人は「水のちがい」に気をつけた。
けっして生水を呑まずに、ところどころにある茶屋で、沸かした湯でいれる茶をのんで給水していたのである。

それが、中央集権の国民軍ができて、外国に出かけて戦争をすることになった。
日露戦争の2年前に発売された、『正露丸』は、「征」の字が当初つかわれていたのである。
発売当初は、『忠勇征露丸』が商品名であった。

この画期的な薬は、「水のちがい」を克服したのである。

なので、国内でも重宝した。
近代水道が全国津々浦々にまで整備されたのは、ついこないだのことなのである。
しかも、まだ井戸水に頼っている地域はたくさんある。

すると、この「水」という概念を、「ひと」に置換させれば、その土地土地の人びとの生活に、独特のもの(文化)があるのも当然で、これをまた、「この街の水があう」とか、「あわない」とかというようになったのである。

アメリカという人工的に建国された国で、民主党と共和党の対立が起きていることの原因のひとつに、東西の沿岸部、東海岸なら建国13州や、西海岸なら、カリフォルニア州やらワシントン州、それにオレゴン州とかが、民主党の牙城で、その他の内陸部が共和党の牙城になっているのは、建国後も移民の流入がとまらない沿岸部と、総じて農業で定着した伝統がある内陸部のちがいとになっている。

その代表的で、かつ、面倒なのが、ニューヨーク州なのだ。

バイデン政権が国境を破壊して、すさまじい数の不法移民が流入したことで困り果てたテキサス州が、民主党の知事や市長がかかげる「聖域都市:移民はたとえ不法でも受け入れるべきだ」と宣言した場所へ送り込んだら、ニューヨーク市長が「もう無理だ」と声明を発したが、聖域都市の看板は降ろしていないので移送を継続している。

これも、移民側からしたら、水があう・あわないという話であって、ニューヨーク市は、アメリカ人のホームレスを施設から追い出して、これに移民をいれている。
ただし、待遇、たとえば市から提供される食事などが口に合わないとして、ニューヨーク市役所に押しかけて抗議デモをやっている。

これらが、ぜんぶ合法的な「権利」なのである。

さて、みずほ銀行がアメリカ人従業員とコミュニケーションをとれなかったばかりか、どうやら失敗したらしいことは、訴状でみえてくるのは上に挙げたとおりだ。
この事象だけをみれば、日本のエリート教育がまちがっていることにも直結する。

そこで、心配事はふたつある。

ひとつが、日本企業でドミノ倒しのような訴訟ラッシュにならないか?
まずは、日本企業に就職してから、後に提訴すれば、莫大な「ボーナス」を得ることができるかもしれないからだ。

もうひとつが、経団連からケツを叩かれて自公政権がやっている、移民政策が効をなせば、ニューヨーク市のような状態が、全国に拡散して発生することの可能性だ。

すでに一部の国から、自国民への「奴隷制」だという批判を浴びている。
安い労働力が欲しいだけ、が通じないのは、相手も人間だからである。

つまるところ、ここでも、エリート教育の失敗がその根本にあるとわかるのである。
その失敗の原因は、かんたんすぎて誰にでもわかる。

文科省による、教育カリキュラムの独占(学習指導要領)だし、その延長にある受験制度がやめられないのも、ぜんぶが「利権」だからである。

利権によってつくられているのが、わが国のエリートなのだ。

だから、世界に通用しない。
もちろん、一切の逸脱が許されない教育カリキュラムの独占なのに、日本文化とはなにか?もないのは、受験の問題にはでないからである。

ムリは承知でいえば、公正取引委員会が、「インボイス制度」でしたように、文科省に対しても独占禁止法の適用を予告してほしいものだし、願わくば、この役所の廃止を訴えたい。

そうしたまちがったエリート教育のひとつの成果を、夏の甲子園で慶應義塾高校がみせてくれた。
「勝てば官軍」が染みついた自称エリートたちは、相手のミスを煽ることを旨とする。

高野連の爺さんだか、慶應の塾長だかが、スポーツマンシップとか、相手のリスペクトがなかったことに対して、世間に遺憾の意ぐらい示すべきがなにもない。

全体が麻痺しているのである。

今般、みずほ銀行が提訴されたのは、ぜんぜん特別なことではないのである。

安芸高田市政&議会の全国拡散

こないだ書いた、安芸高田市の若い市長が中心になっている軋轢は、市の公式YouTubeチャンネルで、1ヶ月で前編が116万回、後編が57万回、併せて170万回以上再生と、人口3万人ちょっとの地方自治体としては異例の記録を叩き出している。

これに便乗してか、地元、「HOME広島ニュース」(テレビ朝日系)も、100万回再生を連発して、全国放送並みのヒットとなっている。

翻って、奈良県宇陀市では、市長(たまたま出身校が京大と安芸高田市と同じ)が、駅前施設を巡る市議会議員との対立から、議員の一般質問への回答を拒否する事態となって、「全員協議会」が、異例の公開・録画・放送されるに至っている。

ただし、「宇陀新聞社」のYouTube再生回数は、上と同様に1ヶ月での数字だが、こちらはずっと地味で、前半が1600回、後半が2000回弱の再生回数である。
なお、こちらも、人口3万人ちょっとの市である。

安芸高田市は、市長がガンガン発信しているアクティブなのに対し、宇陀市は真逆のパッシブだから、野次馬の見物としては、確かに圧倒的に安芸高田市の方が面白い。

宇陀市と対立に至った議員は、弁護士の指示なのか、パッシブを貫いているので、業を煮やした同僚議員たちが、いろいろ発言しているけれど、要領がつかめないのである。
そんなことからか、コメント欄にも投稿がないのは、なんのことかよくわからないために、滅多な書き込みができないのだろう。

その他、YouTubeに、全国各所の自治体の「お粗末」が動画になっているのを散見するようになったのは、わたしの視聴分析アルゴリズムのおかげか?
ただし、再生回数では、宇陀市にも及ばない地味さばかりで、その興味のなさに興味が涌くのである。

そこで、わが横浜市はどうなのか?例によって野次馬根性が顔を出したので検索したら、全国最大人口370万都市の議会中継動画は、昨年暮れの「令和4年市会定例会第4回」で、ダイジェスト版というのがでてきた。

再生回数は24日の本稿執筆時点で、1708回だ。
人口で宇陀市の123倍以上ある、横浜市にして宇陀市に劣る実数を、統計学者の現職市長はどのようにかんがえているのか?

たぶん、興味もないのだろう。

しかしながら、予算のかけかたがNHK並みだと一目でわかるのがその贅沢なナレーションやらプロの仕事で、職員が淡々と定点で録画しています、というスタンスではぜんぜんない。

また、市議会は、「みんなの横浜市議会 子ども向け学習動画ができました編」という動画を1年前にアップしている。
議長、副議長、議会広報会議委員らの登場で、クイズ形式で学習動画をPRする企画だ。

それが、同様に、1498回の再生数なのである。

これは、市民が観ているのか?それとも市外の専門家が観ている数が多いのか?
どんなに画像や音声の質をあげたりしても、市民が興味を示さないのは、やっぱりつまらないからである。

なお、上に挙げた横浜市の公式動画は、どれも、「コメントはオフになっています」とあって、書き込みそのものも拒否しているのである。

もちろん対照的に、書き込みもアクティブなのは、安芸高田市の方で、そのほとんどが市長への応援になっている。

確かに、理詰めの市長の瞬間芸に昇華しているロジカル・シンキング能力は圧倒的だ。
また、メガバンクでアナリストだっただけに、統計の職業専門家に対して統計素人の議員が挑んだ無惨は、議員の無謀な勇気だけが目立って、吉本喜劇のような展開になるから、見物人が拍手するのも頷ける。

ただし、この拍手は、誰向け?かと問えば、なんだか無惨な議員向けだと思いたくなるのは、とっくにキャラ化してしるからだ。
これらのキャラが立った議員が一般質問に登壇すると、妙に期待が膨らむからで、もちろんこの期待を裏切ることはなく、あくまでもトンチンカンな芸を披露するのである。

市長にどんなに論破されても出てくる、あくまで上から目線でものを言う根性は、まことに恥知らずなので、視聴者を飽きさせないのである。
ただ不気味なのは、これらの御仁たちが、どうやらヒール・キャラであることすら自覚していないことへの驚きで、それがまた怖いもの見たさの「見せ物化」になっている。

なんだか、猫が捕らえたネズミをいたぶるような感じがして、一方でたまに市長への批判があるのは、そのサディスティックな残虐性に対する不快感にちがいない。

二元体制はそもそも対立関係にある、という正論に、なぁなぁに慣れた議員も新聞社もついていけない。

ただし、形式上は対立関係にある通りだが、知恵として収束を図るというのも、あながちぜんぶがまちがってはいない。
それが許されるのは、二元体制下での当事者双方が全員(首長も議員も)、正しい職務倫理のもとにある、という前提がある。

いま、我われが目にしている二つの市の軋轢は、この前提が崩壊した姿なのであり、横浜市は最初から「ありません」と表明してくれているも同然だから、市民と市が分離して存在するようになっている。
あとは国と同様に、「マフィア化」するしかないのである。

地方がこれだから、中央たる国も崩壊する。

それが、フクシマ汚染水の海洋放出問題で、当事者を無視して実行責任を担っているのが、淡路島を選挙区とする大臣様なのだった。

反対する漁民たちは、淡路島を訪問して、この議員の無謀を島の有権者に訴えたのだろうか?

こうしたことを飛び越えて、隣国から正論をかまされるわが国の国家としての「自治」はどうなっているのか?を改めてかんがえたいものである。

上方が芸能の中心なワケ

文化大革命(1966年から1976年までで「終息宣言」は1977年)で、徹底破壊された「伝統文化」は、二度と戻らない。

日本人は、「漢籍」の伝統を江戸期まで「常識の一部」としていたけれど、やっぱり、明治政府の「文明開化」とか、「脱亜入欧」が、「富国強兵」のスローガンで上塗りされて、さらに敗戦でGHQが命じたので、すっかりわずかな「古典のなかの漢文」として暗記させられているにすぎなくなった。

それでも、まだ、テストにでるからと、「絶句」や「律詩」の暗記は常識なので、いまの大陸人よりは漢詩を理解している。
あちらの一般のひとたちはぜんぜんしらないのである。

しらないだけでなく、詩の原文をみせても読めない。
当時の文法がちがうだけでなく、当時の漢字を簡略体しかしらないひとにはもう読めないからである。

さらに、日本人にはもうひとつのアプローチがあって、たとえば、『枕草子』とか、『源氏物語』には、ちゃんと漢籍の知識が織り込まれているので、これら「国文学」に親しもうとしたら、おのずと漢籍をたどらないと意味不明になってしまうのである。

藤原氏による、「摂関政治」の確立は、世界史的な不思議にみちている。

そもそも、だれも天皇の地位を簒奪しようとせずに、代理人たる摂政や関白職を設置して、その席の争奪戦を一族でやっていた。

「平安」だから、血なまぐさいことはなかった、とはぜんぜんいえない血なまぐさいことばかりやって、藤原氏はあの地位を独占するに至るのである。
すると、こんどは一族のなか、親兄弟に母方の親兄弟も加わってまた争うのだった。

ちなみに、当時は、天皇の跡取り(将来の天皇)を誰が産むかが、祖父の地位を決めた。
つまり、自分の娘を皇后にさせるばかりか、国母にしないと、摂政や関白になれないのである。
この点で、あの平家でも「清盛一代」しか、これを実現していない。

ポッと出の秀吉が関白になったことの驚き(異例さ)は、征夷大将軍よりもすごいのである。

さて、藤原氏の栄華は、道長を頂点とするといわれている。
ときの天皇は、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇で、源流となったのは、後一条天皇・後朱雀天皇の曾祖父にあたる村上帝であった。

この村上帝が、王朝文化の祖ともいえる風流人だったのである。

ただし、村上朝で平将門と藤原純友の乱があって、質素・倹約に努めなければならなかったことが、かえって帝を風流の道に向かわせたのかもしれないが、元々の才がなければやろうとしてもできないことに相違はない。

「光源氏」のモデルとされているのが、道長だというのは、紫式部の立場も影響している。

村上帝の孫にあたる、一条天皇(後一条天皇・後朱雀天皇の父)の皇后は、有名な「中宮定子」であった。
このひとの父は、道長の兄にして関白・内大臣の道隆である。
女房(中宮のブレーン)に、清少納言がいた。

しかして道隆に人望がなく、道長は対抗して娘の彰子を入内させ、なんと、ふたりが「皇后」になってしまった。
その中宮彰子の女房が、紫式部であった。

そんなわけで、清少納言と紫式部は、文化レベルを競う代理戦争のブレーンになっていたのである。

ときに、当時の平均寿命はやたら短い。
男性が50歳、女性が40歳という。
女性の嫁入りは、13歳ぐらいだった。

すると、たいそう不思議な疑問が湧き起こる。
彼女たちの教養は、どうやって磨かれたのか?だ。

ここでいう教養とは、宮廷における文化レベルに追いつくという程度ではなくて、中宮のブレーンになるほどの高度な教養をさす。
分野でいえば、手習い、和歌、音楽、絵画、薫物がメインで、ただ手習いといっても内容は深く、古歌・故事を学び、昨歌も含む。

音楽は、琴や琵琶の演奏のことで、絵画は自ら描くことはもとより、他人の作品への鑑賞力も要求された。
とくに、演奏については幼少時より厳しく教わったという。
薫物とは、香のことで、調合の知識も含む。

また、男性の必修、「漢籍」についても、ひそかなるもの(あからさまにしない)としての、当然の修得があった。

しかしながら、これらを統合した生活が、宮廷での日常なので、学問というよりも、「芸能」であったのである。
帝やらを慰めるための、ウィットに富んだ女性が好まれ、これらの素養がないものは高い地位のものほど相手にしなかった。

つまり、嫁にいけないのだ。

ただし、当時は通い婚なので、娘は実家にて一生過ごす。
なので、家庭内教育でぜんぶを修得するのが当時の常識だったから、「家」そのものの教養が娘に転化されるとかんがえられていた。

上方の、とくに、女性を中心とした「芸事」が、関東以北のそれとは様相がちがうのは、どうやら宮廷文化の影響なのではないか?とおもわれるのである。
その典型が、宝塚(少女)歌劇団だとしたら、素養にみちた良家の子女がこぞって入学を希望する意味も理解できるというものだ。

雅の伝統なのである。

待ちぼうけになった「爆買い」

まるで「待ちぼうけ」のように、勝手にウサギがかけてきて転んでくれるような、あの「爆買い」に、相変わらず期待しているひとたちがいる。

10日、彼の国が、渡航制限を解除して団体ツアーが「解禁」になると、ニュースになった。
「待ってました!」と拍手した業界人も多かったのではないかと推察する。

それから10日ほどしたら、今度は、そんなにたくさん来ないらしい?という記事が、外国人の観光でわが国のライバル、タイからの事例として流れてきた。
ましてや、肝心の航空便数が増えない、ということも懸念材料になっているらしい。

常々不思議に思うのは、どうしてこういう記事に翻弄されるのか?ということがある。
たくさんある、「経済問題」の情報が、どういうわけか「別物」扱いになってしまうからである。

日本人だって、かつて70年代には、「農協ツアー」が世界から顰蹙を買ったことがある。
たとえば、パリの高級ブランド店に大挙して入店し、まるでバーゲン品のように爆買いする光景が、現地のひとたちから白い目でみられていたものだ。

それが、「エコノミック・アニマル」といってバカにされたのである。
かつて欧州貴族が口にした、「日本人は総じて貧しいが、高貴なる民族」の片鱗もない、という意味だ。

こんな豪勢なツアーができたのは、もちろん、農家が豊かだったからである。

とくに、都市近郊農家のそれは、作物からの収入だけでなく、宅地開発の土地売却もあった。
これらの陰に、1972年、米の小売価格の自由化がなされていたのだった。

それで、1994年に「食糧法(主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律)」ができて、翌年「食糧管理法」は廃止された。
ちなみに、食糧管理法は、昭和17年2月、東條内閣によって制定された社会主義・全体主義政策であった。

アメリカの「アンティファ:アンチ・ファシズム運動」が、じつはファシストたちであるように、東條をファシストと非難するのが「戦後サヨク」なのだ。

もちろん、農家だけが豊かになった、ということではなくて、わが国経済が全体的に高成長していたことにあったのはいうまでもない。

つまり、わずか100年ばかりで、「日本人は総じて金銭的に豊かだが、卑しい民族」に転落したのだった。

いま、これらのひとたちの「次世代」が、後期高齢者になって猛威を振るっている。
「団塊の世代」(1947年~49年生まれ)の子供たち(団塊ジュニア)ではなくて、団塊の世代の「やや下の世代」を指す。

さてそれで、中国経済の減衰は、コロナ禍の渦中から顕著になった。

問題なのは、彼の国における「統計」が、どれも信用ならないので、客観的評価が誰にもできない、ということがある。
なので、「株式市場」や「債券市場」さえも、なにが株価・債券価格(金利・利回り)を変動させる要因なのか?がよくわからない、という特徴をもっている。

また、その政治が、法治ではなく人治であることは太古からの伝統であるので、『三国志』の「梨園の誓い」にあるごとく、「義」をもって兄弟の誓いをしたら、その人脈は血脈よりも絶対になるのである。

これがわが国の任侠の世界にも伝わって、「兄弟仁義」となった。

つまるところ、ほんとうのこと、は、人脈をもってしか伝わらないから、人脈がないとなにもわからないのである。
それがまた、お礼としての賄賂になるのは当然の文化である。

だから、役職者に対して贈り物をするのはいけないのではなくて、贈り物をしないといけないのである。
日本的発想が失礼になるのは、ちがう文化圏だからだ。

したがって、事業やらなんやらで、金銭を融通してもらうのも、人脈がたよりとなる。

いわゆる、「金融機関=銀行」ではない。
もっといえば、銀行員のしりあいを紹介してもらう、というのでもない。
それでは、「銀行」からカネを融通してもらう、われわれとおなじ「ふつう」になってしまう。

そうではなくて、持てるものが紹介されれば、そのひとから融通してもらうのが、「義理」を果たすというもので、紹介者の立場や自身の立場が、融資金額や利息のたかを決めるのである。
そうやって起業して、大きく成長したら大きく返済するのも、「義理」というものだ。

「人治」とは、あらゆることが、人間関係(=人脈)で成立している社会でこそ成り立つのである。

成長して大きくなったら、銀行やらから借りるけど、それもこれも人脈なのである。
それで、もっと大きくなれば、社債・債券だって発行する。
もちろん、これも人脈でだ。

そんなわけだから、商売の取引先も人脈が頼りとなっていくので、もしもの「破綻」ともなれば、それは金銭的破綻だけではなく、人脈も破綻する。
ぜんぜん「有限」責任ではないのだ。
だから、人脈のための企業清算金は絶対に用意しないと、末代まで信用をなくしてしまう。

逆に、人脈とは関係のないひとが損失を被ることは、考慮に値しないのである。

これが、最大規模の破綻といわれている、不動産デベロッパー最大手「恒大集団」や「碧桂園」の破綻にまつわる、その創業者家族が確保しようとしている私財・資産の意味である。

超弩級の企業破綻なのに、直接世界経済に影響しないのは、世界がこれら企業に貸し付けてはいなかったからだ。
ほぼ、国内での大損失で、そのほとんどが人脈に「ない」多くのひとたちが負う。

これが、国内を循環して経済を縮小させるのは、「信用収縮」が起きると予想されているからである。

そして、この予想は、昨年の秋には欧米金融機関がレポートしている。
ために、欧米金融機関は、一切の追い貸しもしないし、得意のデリバティブ商品開発もしなかった。
大津波を喰らわないための予防措置である。

すると、この秋の団体ツアーが再び爆買いをしてくれると「待ちぼうけ」している日本の業界は、本物の「待ちぼうけ」なのである。

なんだか、業界をあげて無様にみえるのは、あまりにも情報力がないためのことで、担当者のせいにはできない深刻がある。

「経済カースト」の構造

「カースト」とは、ヒンドゥー教の社会制度で、職業、結婚、食事などの規制を指すものだが、現地では、「ヴァルナ」と「ジャーティ」という。
じつは、「カースト」とは、ポルトガル語から英語になった言い方なのだ。

「四民平等」をなし遂げたと勘違いしていた日本でも、さいきんでは「上級国民」という概念ができたが、人びとの心の中に残った身分性が、再び見えるようになってきただけの現象ともいえる。

その意味で、ヒンドゥー教におけるこの区分は、「正直」といえば正直なのである。

もちろん理想としての「平等社会」は、追求すべきものだとはおもうけれども、現実は現実としてみないといけない。
しかも、外国とはいえ、多数が信仰している宗教と結びついていることを、単純に「悪」とはいえないのも、現実なのである。

そもそもカースト制の歴史をみれば、紀元前13世紀頃からはじまったというから、いまから34世紀も前のことになる。

「神権政治」の基礎にある4つの身分が「ヴァルナ」とされた。
・バラモン(祭司)
・クシャトリア(武士)
・ヴァイシャ(平民)
・シュードラ(隷属民)、がそれだ。

それから時間が経って、「世襲の職業」が婚姻における内婚集団としての「ジャーティ」に細分化したという。
それで、親の身分が子に引き継がれることになった。

これには、前世の業の報い、という概念から、現世になっているのだとする「宿命観」が信仰の対象だという事情があるのだ。

なんだか、インドらしい。
というか、これがインドなのだ。

40年ほどまえの日本では、「卒業旅行」で海外に行くのが流行っていて、たまたまインドに行ったばかりに精神異常をきたしてしまう若者が多数でたのも、この「宿命観」にやられたのである。

そもそも、「インド」の語源は、インダス川の古名「シンド(大河)」をペルシャ人が、「ヒンドゥ」と呼んでいたのを、またまたポルトガル人が「インド」としたという。
アラビア語だと、「インド」とは発音せずに、「アル・ヒンドゥ」という。
なお、「アル」とは、英語でいう定冠詞「THE」のことだ。

インド発祥の仏教が、ヒンドゥー教に席巻されて、少数派(人口の3%程度)になったのが、いまのインドだ。
とはいえ、2023年での人口推計では、インド全部の人口は14億3千万人弱なので、3%とはいえ、4000万人は仏教徒だ。

幸か不幸か、日本には、「大乗仏教」が伝来したが、ヒンドゥー教はなぜか伝来しなかった。
しかも、インド仏教オリジナルからだいぶ変形したのが日本の仏教なので、「仏教」といっても単純比較はできない。

そんなわけで、インドが途上国のままで発展しないのは、カーストによる身分制の固定がネックになっているといわれてきたのである。

しかしながら、昨今、インド経済の発展はめざましく、日本の昭和30年代を彷彿とさせる、家電普及率となってきている。

誤解をおそれず単純化していえば、先に世界の工場となった中国から、インドへの生産シフトが起きているのである。
もちろん、東南アジア諸国やアフリカにも投資先が分散されているけど、「脱中国」という状況が生まれたのは、ある意味でその政治体制上からしたら、当然の帰結ではある。

もっとも、このことの最大の要因に、「安い人件費を求める」資本行動がある。

わるくいえば、資本行動として限りなく小さい人件費負担の、「奴隷労働を求める」ことが、「最高善」になるからだ。

けれども、これは資本行動とはいえ、資本主義といえるのか?とは別だといいたい。
本ブログでは、アイン・ランドの主張に賛同しているからだ。

それで、「経済カースト」なるものの構造はどうなっているのか?を図示しているのは、苫米地英人『経済大国なのになぜ貧しいのか?』(フォレスト出版、2012年)がある。

欧米巨大銀行オーナーをトップに、以下の構成となっている。
欧米巨大銀行頭取 ⇒ IMF・BIS等の国際金融機関 ⇒ 巨大投資銀行頭取クラス ⇒ GE・エクソンモービル 多国籍企業 ⇒ アメリカ政府 ⇒ 各国政府 ⇒ 経団連などの大企業

昨今のアメリカやヨーロッパでの事象に引きづられているわが国の事象をみると、この「経済カースト図」には、説得力がある。
ただし、アメリカ政府(バイデン民主党)やEU(フォン・デア・ライエンEU委員長)のほころびを観るにつけ、「その上」の盤石さがかえって目立つのである。

わが国政府の脆弱性は、推して知るべし。

ところで、「経団連などの大企業」から下のカーストはどうなっているのだろうか?
わたしには、コロナ禍で露呈した、「人的サービス業」が、最下位のカーストにあるとしかおもえない。

すなわち、シュードラ(隷属民)だ。

ために、全体でみたらとっくに下位のわが政府(ヴァイシャ:平民)にとって、「GOTO」なる「施し」をしてやらないと、生存が危ぶまれることを、当事者たるシュードラとして思いしらされたのである。

それで、もっとよこせと声を上げるのが、シャードラ内での細かな序列をつくっているとしかみえない。

はたして、人的サービス業は、この因果な世界から抜け出すことができるのか?
仏教ならば、億万回もの輪廻転生を経ないといけない。

つまり、はやく死んで復活せよ!という「教え」なのである。
これを企業体で実行するには、「生存理由」たる経営理念の見直しから再検討することなのである。

A.I.に「不気味の谷間」がみえてこない?

A.I.ブームである。

なんでもかんでも、「A.I.ガー」というと、なんだかそれっぽく聞こえる。

しかし、A.I.がほんとうに「使えるか?」といえば、使いこなすためには、質問力が問われる、と前に書いたし、なんだかんだと人間がA.I.を疑わないでいるのは、「不気味」ではないからだ。

人間が不気味さを感じるのは、脳が不気味だと判断するからである。
本物ソックリの蝋人形が並ぶ、『マダム・タッソーの蝋人形館』が有名だ。
ここへ行けば、「不気味さ」を体験することができる。

逆に、不気味さを感じないなら、その人形はわざと、どこかが本物とちがうように作られている。

「不気味さがない」ということの意味は、人間が上位にあることを、人間が理解しているから、である。
ほんとうにA.I.が、人間を凌駕したら、人間はかならずそこに「不気味さ」を感じるものだ。

たとえば、アメリカ軍とかが開発した、「軍用犬ロボット」の不気味さがそれだ。

本物のイヌ、たとえば、ドーベルマンなら、ダラダラ歩くことだってあるけれど、ロボットは常に緊張した歩き方しかプログラムされていないので、これだけでも不気味なのである。

結局のところ、A.I.だなんだと騒いでも、しょせん人間がプログラミングした範囲でしか動かない当然があるから、便利につかえるように設計されたものなら有用かつ無害だが、そうでない邪心をもって設計されたものなら有害になるのである。

問題は、こうした邪心の書き込みをどうやって監理・管理するか?にある。

事が起きてからでは済まないし、邪心をもって書き込もうとするものは、やっぱりそれが見つからないようなプログラミングに工夫するだろう。

ようは、いたちごっこになるのである。

もちろん、A.I.には読解力がない。
なので、書き込まれたプログラムをA.I.にチェックさせても、管理はできても監理ができない。

このことが、みえない「不気味の谷間」なのだ。

だから、人間の想像力は、A.I.をもって、人間のようにふるまえ「たら・れば」を題材に、物語をつくりだしてきた。

しかし、A.I.にこうした「たら・れば」が通用しないのは、A.I.に想像力がないからだ。
想像力があるのは、人間だけなのである。

ところが、人間とは妙なもので、勝手にその想像力がはたらいて、あたかもA.I.に想像力があるかのような感覚をもたらすので、話がややこしくなるのである。

しかも、A.I.は、あんがいとシラッとウソをつく。
おそらく、シラッとウソをつくようにプログラムされているのだ。

なので、そのウソを見抜けない人間は、A.I.を信じてバカをみることとなった。
それで、自分がバカなのだと認識できない人間が、たくさんの仲間をつくって、横並びの安心感を得ようとするから、たちがわるいのである。

彼らの言い分は、とにかく、A.I.の優秀さとか、A.I.の完璧さを強調することにある。

だから、今どきネット検索ばかりで、チャットGPTを使わないなんて、生産性に対するサボタージュだ、とかと平気でのたまうし、そうやって煽って仲間作りをしているのである。

自分で価値判断できるまともなひとは、そんな迷言に惑わされないし、そもそもA.I.に判断を任せようとはしないだろう。

これと似た事例が、「意識高い系」大企業内の「CDO:Chief Diversity Officer:多様性担当役員」の活躍であった。

もっとも華々しかったのは、映画産業で、そのなかでCDOが大活躍した代表的な企業は、ディズニー、ワーナー ブラザーズ、それにNETFLIX だった。
しかし、彼らを煽ったのは、「アカデミー賞」そのものの選考基準だった。

もちろん、「アカデミー賞」を出しているのも企業なのがアメリカらしいところで、企業名は、「映画芸術科学アカデミー(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)」である。
ここにも、CDOがいた。

過去形なのは、アメリカナンバーワンブランドだったビール、「バドライト」の不買運動の影響(前年比△30%)が各社にでているからだ。
たとえば、ディズニーなら、ちゃんとした(政治的でない)映画を、子供に安心して鑑賞させたい、という親の要望が、いまのディズニーなら子供にみせたくないになったのである。

このことは、意識高い系の投資家の要求を呑まないと、経営陣から外される、ということからの大転換になっていて、消費者の不買運動が投資家に優ったことを意味する。

すると、いかがわしいA.I.礼賛の現状が、消費者からどう思われるのか?という問題になったとき、人間優先の思想がないと判断されたら、不味いことになると予想させるのである。

これが、リアルの不気味の谷間なのだ。

ウソがつくる「人手不足」

民間事業の人手不足が、結局は「移民容認」という結論に至って、いったん決まればあとは爆走するのが日本人の習性なのである。

しかし、「決める」までのプロセスが、怪しいのはずっとのことで、分かったような話で誤魔化せれて、いつも国民は蚊帳の外に置かれる。
与党の部会やらも、基本的に国民には、「密室協議」だから、しるよしもなく、もちろん地元議員との議論に参加する仕組みもない。

とにもかくにも、選挙で選ばれた、ということの一点で、あとはぜんぶが、「民主主義だ」ということにされている。
まことに便利な、「民主主義」なのだ。

では、民主主義の「本場」ならどうなのか?は、地味すぎてぜんぜん報道されない。
アメリカなら、地元の党組織とかなりの根回しをやっていて、その地元の党組織とは自身の「後援会」とは別物だ。

なので、選挙に立候補するにも、地元の党組織内での予備選挙で勝たないと、本戦に党の看板を背負って(これを「公認」という)立候補もできなくなる。
たとえば、副大統領の娘、リズ・チェイニーが地元共和党組織から除名させられて、下院議員への再選が不可能になったように、である。

いったい、特派員は何をしているのか?と前に書いたが、簡単にいえば、報道会社の「アリバイづくり」のために高い人件費と滞在費用を、新聞やらの読者が、「購読料」で負担させられている。

もちろん、NHKは、受信料収入から使っているのだろうけど、NHKも各国政府と同様に、マフィア化して、子会社・孫会社の収益もチューチューしているのである。

こうした、国のやり口を、地方自治体も真似ないわけがなく、今ではさまざまな行政サービスのなかでも、直接市民に触れる業務は、「民間企業」に事業委託しているのがふつう(たとえば「指定管理者制度」)になった。

国であれ地方自治体であれ、わが国の「公務員」は、いったん採用されたら退職まで、めったに解雇されることはない。

よしんば民間で、会社都合の場合なら、それは赤字で事業継続が困難になったことが解雇の条件となるのである。
もっとも、会社が倒産したら、元も子もなく失業するのは当然だ。

しかし、「身分」が守られる、という点では、公務員は、基本的に倒産しないし、また、スト権が無い分、いったん確定した身分は民間よりもはるかに強固なのである。

すると、民間に事業委託すると、それまでその施設やらに勤務していた公務員たちは、「配置転換」されることになる。

あたかも、民間に委託したから、公務員の数が減った、ように見えて、じつは別の仕事についているのである。
つまり、公務員の数は変わらず、民間委託としての職員数は増えている。

ではどんな仕事なのか?は、このブログで何度も紹介している、『パーキンソンの法則』がそのまま適用される。
仕事は、つくればいくらでもあるものだ。

もちろん、ここに「効率」という概念は存在しない。

効率とは、インプットした資源(ひと、もの、おカネ、時間など)と、アウトプットとして得られる価値の割合をいう。
すなわち「割り算」で算出されるものだ。

民間事業なら、経費と売上・利益といった関係になるが、役所は経費だけで、売上も利益もないから、計算不能になるのである。

そこで、従前の直接雇用の公務員たる職員が従事していたときの数字と、民間企業へ業務委託したときの数字「だけ」を比較する、という手品にもならない方法で、民間への委託の方が「安くなった」として、「効率が上がった」と結論づけることが横行しているのである。

こんな子供騙しでも、民主主義が機能していない(住民による代表のチェックたる「議会」のこと)ので、もはや民間企業からの広告費が枯れてしまったことで、役所の広報予算が頼りとなったマスコミは、どっかから「専門家」なる人物を登場させて、業務委託の効率をいって、ながら視聴している主婦たちやらを騙してはばからない。

どうして役所の広報予算がおいしいのか?といえば、役人の仕事は「予算消化」が優先されるので、「言い値」が通じるからである。
なので、広告代理店や制作会社にとっては、効率がいい、のだ。
少ないインプットでも、大きなアウトプットが得られるという本来の意味でのことだ。

こうして、わが国のなかで、ムダに存在している公務員がたくさんいるので、ほんとうは、ぜんぜん人手不足ではない。

これが、肥大化した政府(国も地方自治体も)の実態で、とうとう究極の「民業圧迫=人手不足」をはじめたのである。

だから、逆神のマスコミは、わが国の人口あたり公務員数は、他国に比べて「少ない」から、わが国の公務員一人当たりでは、これまた「効率的」な仕事ぶりなのだという詭弁を弄して、お役所をヨイショするのである。

諸外国とどのような条件で、公務員数をカウントしたのか?については、ぜんぜん説明しないのだ。

これを、「ゴミ」情報という。

いわゆる、社会調査における、「ゴミ」のことで、議論するデータの信憑性が確保されていないゴミからは、ゴミの議論しかなくなって、ぜんぶの手間がゴミと化す。
だから、真の専門家は、このような議論に最初から与しない。

ところが、一般大衆は、こうしたゴミの議論が大好きで、その証拠が、いまでも毎日、テレビでワイドショーが放映されていることである。
ゴミを電気代を負担して観ている神経がわからないけど、スポンサーがついていることはもっとわからない。

きっと企業の広報担当者も、頭脳がゴミになっているのだろうけど、これで何かしらの宣伝効果があると判断しているのなら、やっぱり視聴者がゴミ頭になっているのである。

残念ながら、ゴミ頭の国民に、民主主義をコントロールすることは不可能だ。

これが、人手不足ではないのに、移民までも受け入れることに異論がないことの本当の理由なのである。

気の毒なウクライナ、悲惨な日本

世の中には自らの私利私欲のために、他国民がどうなろうがしった事ではないとする、悪魔的な人間たちがいる。
これが、戦争屋たるネオコンだ。

ただし、この手の用語は、本来の言葉の意味から乖離して、ぜんぜんちがう意味に変容した結果である。

「ネオ」とは、「ニュー:あたらしい」という意味だし、「コン」とは、「コンサバティブ:保守」を指す。
つまり、本来なら「あたらしい保守主義」という意味のはずだが、いつの間にか、「戦争屋」になった。

岸田首相が提唱したけど、意味不明な「新しい資本主義」が、共産主義の匂いが漂うのと似ている。

ネオコンは、政治家のスポンサーが「武器商人」ばかりになって、おカネで政治家をコントロールしたからであり、こうした巨大メーカーの背後にはウオールストリート(巨大金融資本)がいるのは当然だ。
いまでは、巨大製薬会社もこれに加わった。

どちらの国も、政治にはカネがかかるから、政治家は政治資金を得るために苦労した。
王侯貴族の時代なら、あからさまに奪取したけれど。

それで政治家一般が、みんなカネに困ったので、合法的に集金しやすいルールを作り出したら、どんどん大胆になって、インチキな方法が常識に変容したのである。

アメリカのその仕組みは、完全なるインチキで、「財団」が正面に立って集金するも、その財団が集めたカネの使い方が「大胆」なのである。
なんと、選挙管理委員会へ多額の寄付(買収)をして、選挙に事実上介入している。

日本の場合は、政党にちゃんとした組織がないので、国民(税金)から「政党助成金」なるルールを勝手につくって、政府の公金をチューチューしている。
自民党には、およそ159億円、立憲民主党にはおよそ68億円が毎年公布されている。

これを頭のいいよい子ちゃんたちは、悪法もまた法なり、というのである。
自分のカネを盗まれているのに、だ。

トランプ氏がスポンサーたる大企業や大富豪から徹底的に嫌われる理由は、彼本人が大富豪だからで、従来型の「金権政治」を平然と否定してなお、「戦争を徹底的に嫌う」ために、金儲けにしか目がない人たちから「危険人物」だと見られているからである。

これまでは、なんとか理由をつけて誤魔化しながら戦争をしてきたひとたちだったけど、ソ連が勝手に自己崩壊してアメリカ一国の天下になったら、かぶっていたベールも脱ぎ捨てて、あからさまな手口をさらけ出してしまった。

まったくもって、「奢れるものは久しからず」の、『平家物語』をしらない、野蛮人たちの饗宴ばかりが目につくようになってしまった。
あたかも、「平家にあらずは人にあらず」のとおり、「ネオコンにあらずばエリートにあらず」になったのである。

国境というものは、民族国家の境界線が作るものだとの認識もない、島国の日本人には、単に海がわける自然の摂理だと勘違いできた幸せが仇となり、「切った貼った」の興亡は、あたかも戦国時代のことだけだと思い込まされている。

元寇を奇跡的にはね返した幸いの意味を、かみしめるべきなのだ。
もしも敗れていたら、いまでも彼の国の「省」になっていた。

そんなわけで、台湾が領土になって、朝鮮も領土になったとき、いまの日本人には理解できない感覚が国中に蔓延したのは想像に難くない。
しかし、そんな想像すらさせない努力が、敗戦によってもたらされたので、とうとう想像力を喪失するに至ったのである。

ビジネスの現場でも、なんでも、「問題解決」のための最初の手順は、あるべき目的・目標を定めた上での、現状認識の確認作業となる。

このとき、その問題の発生についての経緯(=歴史)を調べるのは当然だ。
そうやって、経緯(=歴史)のなかにある、原因を特定し、その原因を除去することが業務になるのである。

なので、この原因特定の追求の度合いが、甘ければ確実にその問題は解決せず、むしろかえって複雑化して、解決が困難になるあたらしい原因を上塗りすることになりかねない。

ここに、「急がば回れ」という格言が登場する。

一見ムダに見えてもちゃんと時間をかけて原因を深く追求しないと、できるはずの問題解決がいつまで経ってもできなくなるからである。

これは、たまたま顕在化した安芸高田市に見られる状態だといえる。
もちろん、安芸高田氏市の問題は、全国に蔓延している病的なものだけど、全国で隠す努力が成功しているだけである。

しかしながら、相似形にグッと拡大してみれば、たとえばウクライナという地域でも、同様のことが起きている。
そもそも、ウクライナの歴史とはどんな経緯があるのかをしらないと、他言語国家の複雑性は絶対に理解できない。
そして、国境線が自然発生的にできたとはまったくいえないのがいまのウクライナなのだ。

さらにその政府の腐敗は、体制転換時に欲にまみれた英・米人が、彼の国の資源争奪をした副作用で発生したのである。

また同様に、日本国をグッと縮小してみれば、安芸高田市になる。
何度も書くが、もう一つの、先行事例は、いまの英国だ。

建前の議会と、本音の市長が、水と油状態になっていて、市民に情報を伝えるべきの地元新聞社が、なんの役も果たしていないばかりか、雑音(ノイズ)をまき散らかしている。
この情報の「非対称性:あるいは歪み」こそが、マルクス経済学における唯一の真実、「疎外」の原因だ。

つまり、一般市民(国民)が、議会と市長の双方から分離(疎外)させられて、おそらく双方が何をしたいのか?すらわからないことになっているだろうし、また市民は興味のかけらも失ったにちがいない。

確認するが、主権者は「市民:国民」となっているのに、その市民(国民)が望んで完全なる蚊帳の外に身を引いているのである。

だから、「バトル」自体に喝采して、なにを主張しているのかの中身を理解しないのは、石原慎太郎都知事と橋下徹大阪市長とがやったことから、ぜんぜん進化していない。
石原慎太郎都知事すら橋下徹大阪市長に賛同して、いったん「維新」に入ったけれど、その後別れたのは何故だったのか?すらも記憶の外にあるのだろう。

まったく、日本国の現状の「縮図」なのである。

けれども、こんなことは全部の自治体で起きている「ふつう」なので、たまたま元気な若い市長のとんがった言動が目立っているだけである。
むしろ、何ごともないがごとくに日常が繰り返されている、ほとんどの自治体の深刻度は、より酷いにちがいない。

きっとウクライナに住んでいるひとたちは、「なんでこうなるの?」と、まるで往年の「コント55号」のギャグが現実になっている気の毒があるけれど、深刻度では似たもの同士のわが国で、次に何が起きるのかを想像すれば、ウクライナどころではない悲惨がやってくるとかんがえるしかないことが、もう悲惨なのである。

自慢できない「マクガバン・レポート」

1977年に、アメリカ連邦上院議員(民主党、サウスダコタ州)のジョージ・マクガバン「栄養と人間欲求における合衆国上院特別委員会」委員長が提出した、「マクガバン・レポート(「米国の食事目標」)」というものがある。

マクガバン氏は、民主党ではあるが、2期(4年)務めた連邦下院議員から上院に初挑戦したときに、現職共和党議員に敗退落選した結果、ジョン・F・ケネディ大統領から政府の「食糧平和プログラム」担当官に任命されたので、「ケネディ派」である。

ケネディ大統領亡き後、弟のロバート・ケネディが大統領候補になったときも、彼を支持している。

それで、「マクガバン・レポート」の内容が、衝撃的であったために、なんと公表前から物議を醸して、公表後は賛否両論が巻き起こったのだった。
後に、本人は、「(食品)業界からの圧力で政治生命が絶たれた」と表明している。

いまの民主党の姿が見え隠れしながら、ロバート・ケネディ・Jrへの党内圧力の原点がみえてくる。

さて、1977年といえば、どんな時代だったのか?
世界は冷戦真っ盛りではあったが、イラン革命(1978年)前夜でもある。

すでに、米英はスタグフレーションに苦しんでいて、この世の春を享受していたのは、日本だけだったのである。
まして、イラン革命による「第二次石油危機」では、ホンダ・シビックの大成功で、後の日米自動車摩擦に発展する。

そんなさなかに出た、このレポートでは、もっとも推奨される食生活とは、なんと、「元禄時代以前の日本人の食生活」だったのである。

この当時、高校生だったわたしに、「マクガバン・レポート」が大々的に報道されて、巷間の話題になった記憶がない。

もし、関係するなら、「梅干し博士」といわれた、國學院大学の歴史教授、樋口清之氏が記憶に残っている。
「梅干し健康法」とかも、樋口先生の影響がどこまでだったかはしらないが、それなりのブームになったものだ。

それでも、梅干しと米飯の相性のよさは、先生が主張するところでもあった。
歴史の先生が、NHKの番組で栄養を語っていたのである。

当時でも、NHK批判はいろいろあったけど、民放の酷さ(娯楽中心)が誰にでもわかったので、相対的にNHKにはまだ信頼があった。
いまではウソのようだが、当時のわたしはテレビはNHKしか観ないと決めていたのである。

それにしても、GHQが実施した、「3S政策」は、当時の日本人こそ敏感であったのではないかとおもうし、アメリカの余剰農産物を日本に買わせて消費させるためのキャンペーンを超えたプロパガンダは、日本のマスコミの中で至上命令ではなかったか?と疑うと、そのせめぎ合いのなかの、「梅干し博士」の主張は、一線を超えていなかったか?

いや、むしろ、「マクガバン・レポート」を無視する代わりに、ちょっとだけ緩めたのかもしれない。

なにしろ、GHQは、慶應大学の教授に、「コメを食うとバカになる」説を書かせて、パン食の推進を図っていたのである。
これには、まちがった戦争をはじめたことの原因に、日本人がコメを食してバカになったからだという「反省」に見せかけた差別意識まで含まれていた。

そしてなによりも、「まちがった戦争」という刷り込みこそが、戦勝国(=アメリカ民主党)のプロパガンダなのである。

いま、アメリカがウクライナにやらせているロシアとの戦争をみれば、明らかに「まちがった戦争」を仕掛けたのは、アメリカである。
この構図は、そのまま日清・日露戦争の日本にもあてはまる。

当時の欧米新聞に掲載された「ポンチ絵」は、英・米にそそのかされてロシアとにらみ合う日本の姿が描かれれていることに、時代の真実があった。

さて困ったことに、いま、日本人に元禄以前の食生活に回帰せよ、といわれたところで、何を食べれば良いのかの判断が難しくなっている。
料理のメニューや、レシピのことだとおもったら、それは早合点だ。

べつだん、「元禄」といわずとも、当時の日本は完全なる農業国だった。
なにしろ、国民の8割以上が農民か漁民だったのだ。
しかも、「化学工業」は存在していない。

つまり、誰がなんといおうが、全部がオーガニックであった。
例外がないから、「オーガニック」という概念すらない。

だから、現代と同じ食材だとしても、その中身は、まるで別物だとかんがえた方が正しい。

このことは、『日本食品標準成分表』をみても理解できる。
ちなみに、最新は、「八訂」(2020年)の「増補」(2023年)であり、1950年からはじまっている。

かんたんにいえば、初版と最新版を比較したら、おなじ食材の栄養価の変化がわかるのである。

わたしたちが口にしている食材が、70年ほどでどうなったか?をみたら、江戸時代の同じ名前の食材とは「別物」であることがわかる。

もちろん、これには、「品種改良」もあるし、外来種の移入、もある。
しかし、栽培方法の劇的な変化が、別物にしているのは想像に難くない。
また、海産物についても、その汚染度やらを考慮すると、やはり別物だろう。

この意味で、元禄時代以前の食生活とは、一般人にはほとんど宇宙食のようにほど遠い存在なのである。

つまり、口にすることが絶望なのである。

いま、「マクガバン・レポート」が意味するのは、世界で人びとに、この「絶望」を喧伝している、ということだ。
なるほど、日本人が自慢できる要素はどこにもない。

各国のマフィア化する政府

トランプ政権下で純産油国だったアメリカと比べてもせんないけれど、バイデンが就任日に署名した、シェールガス・オイルの新規掘削禁止の大統領令を皮切りに、さまざまな「対策」の成果で、約1年半後の2022年6月には、過去最高のガソリン高を記録した。

1ガロン(約3.785L)あたり、3.59ドル(約508円)になったのである。
リットルに換算すれば、約188円ほどであった。

しかし、今年の6月には、石油価格の下落で、2.1ドル(約298円)ほどになった。
同じくリットルに換算すれば、約79円となる。

電気代もそうだが、わが国は、仕組みとして作られた料金体系がある。
「産業国家」のくせして、あらゆるコストのもとになるエネルギーコストの上昇は、産業競争力を弱体化させてしまうのに、無策を続けて平気なのである。

電力各社は、空前の黒字を計上しているのに、電気料金は大幅値上げが「認可」されている。
認可を出すのは、日本経済を破壊するためにだけ機能している、経済産業省だ。

原油の9割を中東依存しているわが国は、中東産油国から禁輸措置を二度と喰らわない(第一次石油ショック時に半年間禁輸された)ために、「ジャパン・プレミアム料金」という名の、「割り増し金」を支払うことで、世界価格より高価な石油を買ってきている。

カネさえ払えばいいでしょう!という、目先の「損得勘定」が、わが国石油外交の基本なので、カネがあるうちなら、誰が担当官になっても「事件」にはならない。

カネが動くところに利権があるので、めざとい田中角栄は自派の収入源にして世を去った。

なので、この遺産を引き継ぐ茂木派なのに、再生可能エネルギー利権にも手を出して、マッチポンプ状態を自分でつくっている。
とにかくなんでもいいから、いま、カネになればいいだけという価値観が支配しているのである。

SDGsが、ただのビジネス利権であるのは、こういうことだ。

ここに、国家観や国益、あるいは国家戦略なんてものは微塵もない。
それをまた、カネになるからと選挙で支援して当選させるのも、一般有権者をしらけさせて、「棄権」に導く戦略が活きているからである。

そんなわけで、補助金が切れるという理由で、わが国のガソリン価格は上がることになっている。
9月末が本予算の期限だから、10月1日から大幅値上げになることは確定している。

レギュラーでリッターあたり200円になるというのは、ほんとうだろう。

しかし、200円で済むのか?という問題は別にあるし、過去の例からも、物価上昇の引き金になることはまちがいない。
これだけ綿密になった、物流網だけでも、ガソリンや軽油価格の上昇が物価に転嫁されるからである。

もちろん、生産におけるエネルギーコスト上昇は、さらなる海外移転につながりかねない。
それがまた、サウジアラビアが掲げる、「工業化」の狙いでもある。

生活者にとっては厳しいボディーブローにちがいない。
給与所得が下落していることに歯止めがかからないなかでの負担増になるからで、ようやくコロナ禍から脱したはずの観光業が、次の試練に見舞われることになった。

移動コストの上昇と、宿泊料金の上昇は避けられない。
過去にあった、経済が拡大基調のなかでならまだしも、縮小基調のなかでのインフレは、転換点になるにちがいないからである。

この先行例はいまの英国で、保守党の悪政が次期選挙での政権交代を確実にしているというけれど、労働党が救世主になったためしは過去にない。
甘いバラマキ政策で、かならず財政がイカれるからだ。

もちろん、円安がもたらす外国人観光客の増大は、一つの期待にはなるけれど、全体規模が小さすぎるのである。

国内観光の8割が日本人による需要であった。
何度も書いてきてきたが、国がいう「観光立国」が絵に描いた餅に過ぎないのは、わが国経済における観光業のシェアそのものが小さすぎるからだ。

むしろ、国民貧困化のための「おだて・すかし」にしか見えない。
生産性が極度に低い、わが国観光業への就労は、それ自体で貧困化への一歩になるからである。

さて、岸田氏というよりも自民党と公明党は、いつ、衆議院議員総選挙を挙行するのか?
広島サミット直後、という予想が外れて、なんだかグズグズしている。

驚くほど浅はかなこのひとたちは、ガソリン補助金の大盤振る舞いをもって人気取りとするのではないか?
それはまるで、イギリス労働党とおなじ発想なのである。

こうした、合法的買収しか、もう選挙で訴える「争点」がないのである。
その引き換えに、増税を計画するのはわかりやすいではないか。
必ず、財源の話になるからで、野党はこれに対抗できない。

どういうわけか、減税を主張しないのは、あたかもわが国のお作法になった感がある。
減税を公約にしたトラス政権は、実施しようとしたら内閣も潰されてしまった。

しかし、国民は重大なことをしらされていない。
政府は、税収で運営されてはいない、ということだ。

大統領候補に名乗り出た、ロバート・ケネディ・jrが、命がけの暴露をしたのは、CIAの予算の話だった。

この組織には、2万人以上の正規職員(もちろん国家公務員)がいるけれど、その運営の実態が不明なままなのは、傘下に多数の「投資会社」をもっているからで、政府予算に加えてどれほどの利益がこれらの会社から得ているのかがわからないと明言したのだ。

これは、ナチスにおける「親衛隊」(数十万人がいた)と酷似している。
じつは、親衛隊最大の悪事は、「経済管理本部」がやっていたのである。
ユダヤ人から奪取した、金銀財宝の窃盗はもとより、この組織は自己増殖する企業も保有していた。

都知事になる前の猪瀬直樹氏が、道路公団民営化問題に取り組んでいたときに、その傘下の子会社・孫会社の実態まで調査するのは不可能だと嘆じていたのは、会計検査院の報告とも合致するし、2002年に暗殺された石井紘基衆議院議員も、この問題に切り込んでいた。

日本政府は、会社運営もやっているのだ。
それが、伊藤博文がつくった「特別会計」なのである。

わが国も、平和的な装いの「親衛隊」が中核をなす、マフィア化した国家なのだった。