昨今、江戸幕府より強圧に国民に君臨するようになった日本政府が、何かに取り憑かれたように、カタカナあるいは英語らしき用語をもって、政策プランを表現している。
その典型が、「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」とか、「GX(グリーン・トランスフォーメーション)」なのである。冒頭、江戸幕府より強圧と書いたのは、江戸幕府や各藩のひとたちの身分が、武士であったことでの矜持があって、これをヨーロッパの騎士に例えたら、「ノーブレスオブリージュ」があったことを前提にしているためだ。
日本語でなら、「武士道」だけれども、中身はぜんぜん別物である。
本物の武士が新政府の官吏となったものの、その後の世代の官吏養成を、昌平坂学問所の跡地につくった、総合大学としての「東京大学」のエリート育成が、全国規模での需要から、「帝国大学」に変更したことが、悪い意味の平準化となったのでる。
さらに戦後の、「新制大学(制度)」は、これを「大学」と称してよいものか?
「university:ユニバーシティ」を、単に「大学」と翻訳して違和感があるのは、その根本的ちがいを本能的に感じるからだ。ネット情報の玉石混交には、誰もが頼りにしている、『ウィッキペディア』にもあって、あんがと信用おけない。
なので、面倒でも他の情報源も探ることが望ましい。それで、「東京大学」を検索すれば、東京大学のHPとウィッキペディアの二つが現れるけれど、残念ながらどちらも正確な解説表記をしていない。
その共通に、あたかも歴史的な継続性があるという「誤解」を読者に与えるからである。じつは、東京大学の歴史は、断絶と分断の歴史なのである。
たまたま、場所がおなじ、ということだけだったものだから、あたかも「名称変更」という軽い解釈が一般になされてしまっている。東大ファンの皆様にはお気の毒だが、組織について見識があるひとならすぐさま理解できる。
明治政府がやった、この場所にあった学校の「廃止」と「新設」こそ、「別物」としての事実を隠せない。そんなわけで、官吏養成という、あたかもフランスの「国立行政学院(ENA:エナ)」の機能が中心にあるようで、そうでもない、中途半端な「学術」の殿堂が東大なのだ。
なお、「エナ」は、日本でいう大学院大学だから、東大の学部ともちがう。ちなみに、「エナ」は、この卒業生マクロン氏への批判がこうじて、彼が廃止(=廃校)を決定し、2022年に、「国立公務学院」が新設される茶番があった。
どちらさまも所詮は、この程度、なのである。
我が国に話を戻せば、国家公務員として国家を仕切るためには、キャリア資格を得ないといけないけれど、20代前半の一回だけの試験に合格すれば、その後の一生を国家組織が面倒を見てくれる構造になっている。
子供時分から、受験戦争にさらされて、いい学校=いい会社、という安定収入を目指すことの原点に、国家公務員のキャリア職が君臨している。現実の競争にさらされる、民間企業では、とっくに偏差値エリートに関しては、疑いの目で見ることができているから、旧態依然というのは、もう公務員の世界だけになっている。
しかし、我が国の「国のかたち」が、どんどんと共産主義に向かって、公務員天国を当然とする社会になった。
これを推進する力学とは、自民党や公明党をはじめとする、既存政党に投票する国民の意向がそうさせている。
補助金が欲しい、とか、保護が欲しい、あれもこれもおカネをもらえることをよしとする、乞食根性の刷り込みが、国家公務員と為政者の都合にいいのだ。アベノミクスとは、国家が「分配」する、まさに共産主義・計画経済の集大成で、岸田氏はより強力な共産化(これを「新しい資本主義」とダブスタ表現する)を目指す急先鋒なのだ。
そんなふうに、公僕たる公務員をまちがった方向へ育てて、深刻な勘違いをさせたのは、飼い主たる国民の失敗なのである。
まったくもって、ペットの犬に生活の主導権を握られた飼い主の多さと一致しているのではないか?残念ながら、殺処分がゼロにならないのは、そんな情けない飼い主がとる、最後の手段だからである。
しかして、人間界では、公僕たちに国民が殺処分されている。ロボットが人間を支配する、伝統的SFの世界とは、公僕に支配されることで、すでに片足は達成しているのである。
それで、これを両足にして完成させよう、というのが、DX狙いなのである。ところが、デジタルの世界には、二つの脆弱性がある。
一つは、SFならたいがいのヒーローが見つけ出して滅ぼすのが、ロボットを作った邪悪な存在にある。
DXなら、プログラミングをした人間がこれにあたる。
もう一つは、ネット上でのセキュリティに脆弱性があることだ。前者は、構造物にあたるし、後者は、土地にあたる。
だれだって、軟弱な土地に家を建てたくないように、ネット・セキュリティの脆弱性とは、致命的なのである。
つまり、DXは、この脆弱性を無視して、超高層ビルを杭もなしで建てようという無謀なのだ。見えない杭を多数打ち込むことは、基礎工事として最重要だけれども、もちろん建築コストになって跳ね返る。
ネット・セキュリティの脆弱性を阻止するためのセキュリティ投資は、一体全体いくら必要なのか?この費用も、全額が国民(企業負担分は結果的に価格転嫁される)負担になることは、国民としてしっていていい。
政府を無視してマスクを強要する医療機関
「免疫力が落ちているひとがいる可能性があるので、引き続きマスクの着用をお願いします」という、医院長名での張り紙があって、受付でのマスク着用を強要された。
もし、所持していない場合は、「一枚10円」で販売し、その収益は全額寄付するともあった。
「医院長名」の意味とは、医師会からの通達なのだろうか?と疑うのは、この医療機関の医院長が、単独の判断でやっているとは、とうていおもえないからである。
それにしても、意味不明なことを三年前のはじめからやったので、やめるにも意味不明があって、なにがなんだかわからない社会になってしまった。
もちろん、社会を構成しているのは日本社会なら日本人だ。
つまり、日本人の愚かさが、まさに国をあげて「劣化」を招いたのであるが、これを「医師たち」が先導するから、話にならない。
一体全体、10円のマスクでなにを予防しようというのか?の意図さえもわからないのに、言われたままに従うことの訓練だけはできている。
これを、古くは古代ギリシャの都市国家、スパルタ式の「軍事国家」というのである。
わたしは、「周辺各国」という特定のアジアの国(これを略して、「特亜」ともいう)から、「80年前の戦争の反省が足りない」と嫌がらせのように執拗にいわれ続けていることに、反発する気持があったけど、彼らの懸念は、コロナ禍によって、「言い得て妙」だとおもうようになった。
けれども、彼らの主張を受けて、「戦争反対」とか「9条を守れ」と街頭でも繰り返す高齢日本人を軽蔑していることにかわりはない。
それは、あたかも、この期に及んで、まだ10円のマスクを着けろといっているに等しいからである。
「特亜」の国々が、日本を軍事国家だと非難することの正統性とは、10円のマスクを着けろと強要する側のことではなくて、強要されたひとたちがきちんと従うことの、気持ち悪さなのである。
もちろんこれら「特亜」の国にも、政府の意向にきっちり従う、気持ち悪いひとたちはたくさんいる。
けれども、それが日本人ほどではない、まだ部分的小数派なのである。
その「特亜」の国のひとつは、共産主義・全体主義を標榜しているので、従わない意思表明をすること自体が、命がけのことになる。
それが、香港での「雨傘革命」だったり、こないだの「白紙革命(運動)」だった。
だまって白紙を掲げた学生達の顔写真が世界を駆け巡ったけれど、その後彼らがどうなったのかを報道するものはいない。
ニュースにならない事象は、なかったことになる、恐ろしい社会が国際的に広がっている。
妙なことに、こうした抵抗が、わが国では見事に「皆無」だから、よほど世界的に気持の悪い、全体主義の訓練が完成の領域にある、「軍事国家」だといわれても、弁解の余地がないのである。
さてそれで、かつて、「喧嘩太郎」と異名をとった、泣く子も黙る「日本医師会長」に、武見太郎(在任は、1957年~1982年の25年間)というひとがいた。
歴代の厚生大臣を尻目に、徹底的に「開業医の利益」を追及したのである。
なので、武見氏の意見にそぐわない厚生大臣の方が先に任期がきて、歴代の大臣が束になっても歯が立たなかった。
ならば、武見氏に挑んで敗退した歴代の大臣は、誰の代弁者だったのか?
もちろん、国民からの選挙で選ばれた代議士が、国会議員としての当選回数を重ねてキャリアを積んだうえで就任したから、基本的には「国民の代議員」でないといけない。
ところが、武見氏が声高に叫んでも、国民がこれに反発しなかったし、大臣が国民に向けて訴えることもしなかった。
そうやって、開業医の権利(レ点をつけて、「利権」)がどんどんと拡大して、大病院と国民は、「疎外された」のである。
ちなみに、わたしは、「疎外」という概念を完成させたカール・マルクスは、この一点だけ正しいとかんがえている。
逆に、マルクスの「理論」で、残りの全部はゴミである。
そんなわけで、医師から医師だとみなされない、歯科医師たちがやった、「虫歯撲滅運動」が本気であったために、わが国から虫歯が激減して、歯科医師たちの収入も激減した。
けれども、本物の医師の方は、医師会という業界団体が医薬品業界と結託して、経済力(財力)で厚労省を圧倒したのである。
これに、カネの匂いに敏感な代議士たちが、ハイエナもおどろく貪欲さで群がった。
いまや独立系ジャーナリストとして、世界的な有名人になった、我那覇真子女史が、スイスに単独乗り込んで、あの世界経済フォーラムを主宰する、シュワブ氏への突撃取材を試みた。
これがまた、トランプ政権でホワイトハウス首席戦略官だったスティーブ・バノン氏の目にとまり、彼の人気番組への出演ともなったのである。
その我那覇真子女史が、再びスイスで単独インタビューしたのは、スイス大統領をスイス検事総長を介して刑事告発した、パスカル・ナジャディ氏であった。
告発理由は、「コロナ関連」だ。
アメリカでは、アイダホ州議会に、「mRNAワクチン接種禁止法案」が提出されたと、接種を推進する立場から『フォーブス誌』(2月23日)が、嘲笑をこめて報じている。
しかしながら、我が国でもあまりの超過死亡数の多さ(14万人以上)に、「原因不明」とし、その理由の詳細も調べないといっている厚労省に、医師である福島雅典京都大学名誉教授は、「医薬品会社との契約開示」を求めて提訴もしている。
徐々にではあるけれど、秘密のベールが世界で開かれつつあるのである。
日本の開業医は、自滅してしまうのか?どうなのか?が問われ出しているのだ。
哀しきWBCの盛り上がり
21日、メキシコを、劇的「サヨナラ」でくだした、「侍ジャパン」の活躍は、閉塞感が充満するいまの世相を明るくする、「よいニュース」であることは否定しないし、久々に、「溜飲を下げる」おもいができて、気分が晴れることも、結構なことなのである。
しかし、だ。
「決勝」を前に、ここで冷静を取り戻しておきたい、とかんがえるのである。
いまは、「巨人・大鵬・玉子焼き」の昭和ではない。
年寄りの冷や水になんぞにつきあいたくない、という方にはつまらない話になるので、ここで退場頂いても致し方ない。
お彼岸の墓参を終えてから、テレビがある友人宅に集まって、ニュース番組の特集で観戦することになった。
野球を観るのは何年ぶりだかすらも忘れていたので、そのチーム・メンバーの名前を詳しく語る友人たちが、なんだか珍しくもあった。
すでに侍ジャパンが勝利したことをしっている皆さんとしては、「安心して観られるね」といいつつも、まるでリアルで観戦しているような雰囲気になるのは、「心理」を理解した、テレビ側の演出の巧みさがある。
有名選手たちの「地元」で、少年野球のチームがユニフォーム姿で熱心に観戦している光景も織り交ぜていることの効果なのだとおもう。
高校野球のスタンドで、必死に自校の勝利を祈る女子高生の姿とかさなる。
この子供たちの姿を観ていて、「3S政策」の威力に、わたしは独り勝手にしらけていた。
日本人はいつまで、原爆投下を指示し、あくまでも日本人を猿扱いしたトルーマンが仕掛けた、心理戦の餌食になっているのだ?
このことを自覚もできずに、あるいは、こんな話を聴きたくないと拒否しているのだ。
こうしたひとたちの末裔が、いまのアメリカ民主党であって、「LGBTQ」を推進している張本人たちなのである。
つまり、どこにも「差別解消」の意図はなく、「差別推進」のための、「差別撤廃」をいっている。
なんのことだといえば、社会のあらゆる場面に、「差別がある」ということで、「差別の生産」をやっているのだ。
そうやって、社会を分断するのは、常識人たちの結束を解いて、個々人を「アトム化:原子化」するためである。
哲人、ハンナ・アーレントは、大著『全体主義の起源』で、アトム化こそが全体主義を目指す者たちの有効手段なのだと結論づけた。
これは逆説的ではあるけれど、日本人ならわかる「人」という字が意味する、「支え合う」ことに象徴される人間の本質に、独りでは生きていけない、ことがあるからだ。
つまり、人間はかならず社会を形成する動物なのである。
それで、その既存社会=自然形成された伝統社会ともいう、を破壊して、金属臭のある機械的な全体主義社会に再構築するには、既存社会に住まう個人をバラバラな「個=本当の歯車のような人間の部品化」にすることが必要なのだ。
夫婦しかり、家族しかり、地域、から国家へと、あらゆる場面でバラバラに分解するのだ。
だから全員がただの「個」となって、どうしようもない「孤独」にさいなまれる。
この孤独に、まともな人間は耐えられないので、必ずなんらかのコミュニティに参加するか、自らあたらしいコミュニティを創設する。
そのコミュニティが、意図的に全体主義を目指していれば、いったんアトム化した個人を無意識のうちに全体主義者にさせることができるのである。
これをヒトラー率いるナチスがやってドイツ人を改造したし、ずっとアメリカ民主党がやっている。
日本では、自・公も含め、ほぼ全部の政党がやっている。
それでまっ先に狙われるのが、子供なのである。
幼児期も含めて、早い時期からやる、「英才教育」の有効性は、アトム化にも有効だからである。
「個」が確立している成人とは、ちゃんと社会の構成員として存在するので、あらためてアトム化をするには、それなりの手間と時間と理屈がいる。
けれども、それが発達期の子供を相手にしたら、だんぜん容易なのだ。
しかも、子供に、「三つ子の魂百まで」という、刷りこみが成功すれば、少なくともその人物の一生に影響を与えることができる。
そんなふうに、WBCを熱烈応援している少年野球というコミュニティを観察すれば、全くもって、アトム化と全体主義的再構築の現場だと認識できるのである。
これがまた、「昭和」に子供だった、いまの高齢世代にも完全に一致して観察できることなのである。
知らぬ間に、恐るべき教育を子供時分に受けている。
日本のプロ野球を観戦しにスタジアムに足を運ぶのが鬱陶しくなったのは、まだ原辰徳が現役であった頃の東京ドーム一塁内野席でも、巨人への応援を強要されたからであった。
赤の他人が集まって、同一チームを熱烈応援して一体感を得ることの満足とは、それを目論む者たちの舌なめずりを想像して気持が悪い。
この点で、アメリカ人たちが特定チームへの応援強要をしないで、それぞれがゲームと選手たちのプレイそのものを楽しんでいることに、敬意を表したい。
サッカーが嫌なのも、その応援の全体主義的野蛮にあるのだ。
すると、べつに穿った見方ではなくて、どうして岸田首相が、電撃的にこの時期にウクライナを訪問したのか?ということの、隠れ蓑が、WBCなのだと理解できる。
戦争当事国の一方だけの国家元首たる大統領と会って更なる支援を表明することの、危険な意味だけではなくて、どのようにロシア側に通告したのか?の報道もない。
岸田氏一行の身の安全をロシア側に事前通告するのも、戦争拡大を防止するための世界の常識なのだ。
ならばなぜに、岸田氏はプーチン氏との会談をして、戦争終結を訴えないのか?
全くもって、民主党バイデンの後追いをしているだけで、そのバイデンも民主党も、いまや窮鼠状態なのに、である。
安倍政権を今さら批判したくなるのは、ほんとうに、こんな人物が、戦後の外務大臣として第二位の任期の長さ(在任日数1682日:最長は首相を兼ねた吉田茂)なのか?と、任命責任を問いたくなるのである。
そんなわけで、愚民化の道具の一つがWBCなのであって、大相撲もしかり、なのだとしった上で、存分に楽しみたいのである。
祝!世界一!
「財閥解体」という大ウソ
日本の戦争責任を誰に、どうやっておっかぶせるのか?
この命題を解決しないと、戦勝国として自国民への説明責任が果たせない、と殊勝なことをかんがえたのも、ウソである。
どうせ薄い理解しかできない一般国民だから、「敵」をつくってみせてやれば、「そいつらを縛り上げろ」という声になって、かしこまりました縛り上げます、と政府がいえばおさまるのである。
この意味で、ヒトラーやスターリンがやったことと、米・英・仏の西側がやったことは、おなじなのだ。
英国は、清教徒革命(1640~60年)とか、名誉革命(1688~89年)とかがあったし、アメリカは独立革命(1775~83年でパリ条約により独立、別に「独立戦争」ともいう)があって、それからいうまでなくフランスはフランス革命(1789~99年)があった。
これにロシア革命(1905~17年)と、辛亥革命(1911~12年)を経ての共産革命があったので、なんのことはない、国連安全保障理事会の常任理事国は、ぜんぶが「革命経験」をしているのである。
これら革命の、「順番」に注目してほしい。
それで、欧米かぶれした日本人も、幕末動乱から明治維新と戊辰戦争(1868~69年)に、西南戦争(1877年)までの一連をセットにして、革命にしたがるのである。
この「かぶれ」が、極左も極右もおなじなので、また始末に負えない。
明治維新とは、わたしからいわせれば、極左なのに「国民作家」とされた、司馬遼太郎が描いて国民を洗脳したような物語ではぜんぜんない。
将来ある若いひとには、司馬遼太郎作品をみない方が、脳のためになるといいたい。
戦後でいえば、似たような「毒作家」に、たとえば、城山三郎とか、山崎豊子がいるけれど、たくさんいすぎて特定するのも困難だ。
こないだ物故した、大江健三郎は、この意味で「毒が薄い」のは、最初から「猛毒」だとしられているので、まともなひとなら近づかないからである。
もちろん、こんなことになったのは、言論統制の成果であって、自ら率先垂範したマスコミの罪は重すぎる。
すると、有名作家とか人気作家というのも、「作られたもの」で、売れるためには言論統制の意図に従うことが近道となる。
これを、「売文」そして、「売文家」というのである。
江戸期には、幕府による言論統制があって、明治から敗戦までは内務省と陸軍(憲兵隊)が担当し、戦後はGHQ民政局がとってかわった。
戦時中の「伏せ字」にみる検閲の痕跡は、GHQの巧妙さで戦後にはわからなくなる。
それがすなわち、いまもある「放送コード」なのだった。
田中角栄がやった、民放テレビ局を戦前の統制下で各県1紙とした地方新聞社の子会社にしたのは、「放送コード」を新聞にも適用させる方便だった。
角栄の「出世」は、アメリカのポチを演じることで達成され、叛旗を翻した途端に失脚させられたのだった。
つまり、アメリカ人は、報道をプロパガンダに変換させる方法を熟知し、応用していたのである。
人間とは「媚びる能力開発」も自らに課すことができるので、戦前・戦中にも、政府や軍に媚びる記事を書くことで、社内の内部検閲をクリアした。
この「社内検閲」が、内務省や陸軍憲兵隊の「検閲担当官」よりも厳しくなるのは、現代の「教科書検定」とおなじ構造なのである。
そうやって、検閲官がおもわず「やり過ぎ」と感じるような激烈になって、より極端な世論が誘導される。
これこそが、検閲官の上司が意図する、「自主管理」なのだ。
そんなわけで、学校で習うことの「ウソ」は、かなり悪質に変容するようになっている。
しかして、ヒトラーがいった有名な一言、「ウソも100回いえば真実になる」が、現実になる。
一口に「戦前」とはいつのことなのか?
第一次大戦後の不景気(作りすぎて売れない)に、関東大震災が国家予算を吹き飛ばして、その後の天候不順がトリガーの昭和恐慌となって、すぐさま世界恐慌が津波のようにわが国経済を破壊した。
赤い事務官僚と赤い軍事官僚が結託し、阿片で稼ぐ民間人を引き入れて成功させた、満州国の経営を本国で本格実施したのが岸信介をブレーンにした、近衛文麿内閣だった。
彼らは、資本家を追い出して、資本家のいない株式持ち合いによる企業経営を実現し、同様に、大地主を農業生産から追い出して、名誉と地代収入だけの生活を強要した。
なので、GHQがやったという、財閥解体も、農地解放も、戦前・戦中でやっていたことの、用語の切替にすぎない。
財閥から、オーナー一家の株式を奪って、これを一般販売したことだけで「財閥解体」といったのだ。
「企業群」としての財閥は手つかずで残ったし、かえって官民あげて、GHQを利用したのである。
まるで、タヌキとキツネの化かし合いなのだった。
絶対権力だったGHQが、タヌキに欺されたふりをしたのは、高度な目的達成と合致したからである。
これを、無邪気にも「日本人の優秀性」というのは、いい加減やめた方がいい。
それよりもなによりも、20万人も対象になった、公職追放で、ふつうに偉かったひとたちが強制隠居させられて、GHQのポチになった偉いひとたちは、敗戦利得者として社会的にも経済的にも地位を得たのだった。
平成の停滞を超えて、令和のいま、叩き売りとして、本当の財閥解体が行われている。
日本経済の「強み」だった、安定の制度、大企業の株式持ち合いが解消された結果なのである。
この方式をかんがえついた赤い官僚たちの優秀さを自慢する歪みと、新自由主義の思想を歪めた、「自由放任」を主張した歪みが、いまの衰退をつくっている。
歪みの二重らせん構造が、日本を蝕んでいるのである。
お彼岸のトランプ逮捕
ニューヨーク州検察当局は、トランプ氏の逮捕について週明けに動きだすと表明して、トランプ氏本人は、自身から「逮捕は21日だ」(日本時間だと明日)と発表した。
国際刑事裁判所が、プーチン氏への逮捕状を出すとした18日のタイミングと奇しくも一致している。
ただし、国際刑事裁判所には、逮捕状の執行機関がないし、ロシアは中国、アメリカとともに、国際刑事裁判所条約に加盟していない。
加盟国の中で、もっとも予算供出をしているのが、またまた、気前のよいわが国なのである。
とっくに経済でも三流国に成り下がったわが国は、いったいいつまで「一流国」の体面を維持し続けるのか?
あたかも、江戸時代の「上杉・米沢藩」のごとくであるけど、上杉鷹山を輩出したのとちがって、衰退のブレーキをかける者がだれもいない。
アメリカという国が、「民主党」というネーミングの共産党に盗まれて、スターリン時代のソ連のような国になってきた。
「逮捕は突然やってくる」と書いたのは、1970年のノーベル文学賞、ソルジェニーツィン著『収容所群島』の冒頭である。
トランプ氏は、いかなる容疑で逮捕されるのか?が、じつはよくわかっておらず、この点だけでも司法(検察と裁判所)への不信が高まっている。
その背後には、選挙で選ぶ地方検事の選挙資金を出したジョージ・ソロスの政治的影が見え隠れし、起訴を審査する大陪審での陪審員の選定さえも、政治的なフィルターがあれば、なんでもできるのだ。
それでも、「逮捕!」のニュースだけは流れて、反トランプの感情はピークにまで煽られることだろう。
まったく、『収容所群島』とおなじ世界が、アメリカで実現されることの恐ろしさは、安全地帯にいると信じている一般人から、思考能力を奪うのである。
国家は、いつでも誰でも、どんな理由であれ逮捕できる。
まったく、他人事ではないのであるけど、他人事だと信じて自身の身にふりかかる可能性を一切疑わない(かんがえない)のが、大衆というものだ。
さいきん、「イワシは生物なのか?」という議論があるのは、彼らが選んだ、「群れ」という生存方法が、個体として生物なのか?という疑問を生んでいることにある。
我々が一匹の魚として食べることでみたら、イワシは一匹の魚という生命体である。
しかし、映画でもあるように、その群れは、あたかも巨大生命体のような「形:フォーメーション」をとって、捕食者たる敵を威嚇してそれらからの攻撃を回避するのは、まったくもって、一匹をして生物とはいえないのである。
すると、思考停止状態にある人間も、群れとしての行動と個体としてを見比べれば、ほとんどイワシと大差ない。
むしろ、支配者の視線からしたら、こうした「習性」を利用しない手はなく、思考停止にさせることがどんなに都合のよいことか。
ゆえに、心理学の応用を超えた悪用が跋扈する。
消費者に買わせるためや、従業員支配など、ビジネス世界だけでなく、暴動を煽ったりする反政府的な活動もしかりだし、政府自身もこれを利用している。
それで、個体ごとに適度な自由を与えてストレスからの解放をしてやれば、その個体は人生にさえ疑問を抱くことはなくなるのである。
これを若いうちから習慣づけることで、一生どころか末代までを支配できる。
明治から150年、これをやってきた日本人の多数が、マスクを外せない理由がこれだ。
しかし、幸か不幸か、元来野蛮なアメリカ人(おおくはヨーロッパ起源)は、群れることをよしとしない傾向がDNAにある生き物なので、イワシを軽蔑するのである。
そんなわけで、トランプ氏の逮捕理由はなんでもいい。
むしろ、「このタイミング」が重要なのである。
それは、もはや否定できなくなったバイデン一家の深刻な汚職汚染や、前議会での「1月6日委員会の欺瞞」が明らかになったことなど、民主党の悪辣が事実として晒されたので、その最後のあがきが、トランプ逮捕という目くらましなのである。
もちろん、バイデンがコケたら民主党が根幹からコケることを意味する。
それはもう、ダムの決壊のような状態になるだろう。
とにかくやれと命ぜられた、ニューヨーク検察当局は、元ニューヨーク市警にいたジャーナリストによって、その職場内部における「混沌」を報告している。
7割方の職員が、「関わりたくない」とかんがえているというから、内部告発も時間の問題かもしれない。
ここで思い出しておかないと話が混乱するのは、検察がたとえ逮捕して、起訴したとしても、「有罪判決」となるとは限らない、という前提がアメリカにはあることだ。
日本において、いったん刑事で起訴されたら、99%が有罪になるのとはぜんぜんちがう。
しかしながら、もっとちがうのは、群れを嫌うアメリカ人一般が、かような恣意的な逮捕あるいは起訴を、許さない、ことにある。
もちろん、検察も地裁裁判官も、あるいは、陪審員も、ぜんぶが民主党支持者で固める用意周到があっても、アメリカ人は許さないのである。
トランプ氏の意に沿わず、解任となって敵認定された、ボルトン元国家安全保障担当大統領補佐官すら、トランプ逮捕という「悪手」で、24年大統領選挙ではトランプ氏の地滑り的圧勝になると発言した。
もっとも、民主党の狙いが、大統領候補者としてのトランプ氏から被選挙権を剥奪することにあることは、誰の目にも明らかだ。
にもかかわらず、このような暴挙を民主党が企むのは、最後の手段だからである。
態度のデカさで誤魔化してはいるけれど、「窮鼠猫をかむ」状態の窮鼠が民主党なのだと、世界が注目している。
追いつめられた当事者は、もはやこんなことにも気が回らないのだ。
日本で日付が変わった頃に、ほんとうに「大ニュース」がやってくるのか?
今日は夜更かしの日になる。
オランダ地方選挙の「BBB」勝利
昨日の、「人類の運命は時間との競争に」の続きである。
先ずは、15日に参議院を除名された、ガーシー(東谷義和氏)のことについてコメントしておく。
彼の比例での得票数は、 1,253,872票(2.4%)で、記名では、287,714票だった。
ちなみに、懲罰委員会の委員長をつとめた、「日本維新の会」の鈴木宗男氏の2019年参議院通常選挙での得票は、220,742票である。
「1票の重み」という問題をとりあえず無視したら、獲得票数が少ないひとに多いひとが除名の引導を渡された、ともいえる。
とはいえ、「本会議」においては、同党同僚の反対1票のみで、棄権2票(うち1票は尾辻議長)、他は全員が「賛成」したから、全会一致に限りなく近かった。
これは、議会政治の自殺行為として、後世に残る。
NHK党(いまは党名が変わった)からの執拗な妨害行為に悩む、参政党が「賛成」したのは理解できないことではないが、「いまだけ」を批判するいつもとちがって、あんがいと重大な投票行動であった。
これも、党員の意見を優先させたのなら、党員のレベルがしれることになる。
「敵に塩を送る」という意味でもなくて、「議員資格とはなんぞ?」を問えば、かえって、ガーシー氏本人がいう、「前例」となることのブーメランは、決して脅しではない。
わたしがいいたいのは、この一点で、ガーシー氏の行為と行動を支持しているわけではないので念のため。
そんな稚拙なわが国会を横目に、15日、オランダで起きたことは、残念ながら、現代日本人には異次元どころの事態ではない。
オランダ史上最長の政権(2010年10月~)となっている、マルク・ルッテ氏率いる連立政権は、地方選挙に歴史的敗北し、2019年に発足し下院議員が1名だけだった、「農民・市民・ムーブメント党」(The BoerBurgerBeweging :Farmer-Citizen Movement:BBB)が、歴史的勝利をおさめた。
世界的な潮流として、「保守政党」を自認する政党の、「極左化」が激しく起きていて、オランダしかり、英国しかり、日本しかりなのである。
英国は、「保守党」、日本は、「自由民主党」、オランダは、「自由民主国民党」という。
昨年からの、「オランダ農民一揆」が、今回の「BBB」勝利の原動力になっている。
ルッテ政権が強力というよりも、意味不明なまでの強権での「農業衰退策」が、一般国民の投票行動にもなったのである。
もちろん、政権側にはわかりやすい事情(=理由)があって、それが、世界経済フォーラムからの命令なのだ。
若きルッテ氏も、世界経済フォーラムが推す、世界リーダーのひとりだ。
農業生産をやめさせるとは、食糧危機をつくりだす、という意味で、日本における世界経済フォーラムに忠実なルッテ氏同様の犬、河野太郎氏がいうところの、「昆虫食推進」が経済界をも支配していることの証左なのである。
なお、ワクチン強要と昆虫食推進の共通性は、どちらも世界経済フォーラムのアジェンダだから、偶然ではない。
オランダ地方選挙の重要性は、「民主主義の学校」だからという基本の意味も当然にあるけれど、日本とちがって、オランダ国会の上院が、地方議員で成り立っている制度設計にある。
わが国にもこの方式の案があったけど、放置されている。
残念ながら、いまのわが国では、このようなことになると、国民意識が低すぎて与党の独裁が実現する可能性が高まるので、どうすべきかはよほど慎重にかんがえないといけないから、放置もやむなしになっている。
それでもって、オランダはどうなるのか?
少なくとも、強力な野党が出現したことはまちがいない。
ただし、政権与党は連立状態なので、BBBは単独で上院を支配したのでもなんでもない。
問題は、地方が中央政府の意向に従わないという、「一揆」状態が生まれたことの、これから、なのである。
われわれ日本人の生活とは一見関係のないように見えるけど、オランダはアメリカに次ぐ、世界第二の農産物輸出国だ。
直接日本に輸入される分もあるけれど、世界を回り回って、日本の食卓にも多大な影響があるのはまちがいのないことだ。
だから、世界経済フォーラムは、オランダの農業を潰しにかかったのである。
もちろん、世界最大の農産物輸出国であるアメリカの農場は、おもに共和党が支配している地域だから、民主党だけを一方的に支援する世界経済フォーラムの動きは、わかりやすいのである。
情報が遮断され、鎖国になっているのに気づかないで脳天気に生きている日本人には、対岸の火事ほども話題にさせないのは、統一地方選挙での既存政党にマスコミが肩を持つからだ。
できれば、いまのままで、オランダ政府のような「これ見よがし」をやらなくとも、日本の農業は自滅して、世界政府の意のままにしたいのである。
胃袋を外国に依存することの危険は、軍事よりも重いのである。
人類の運命は時間との競争に
バイデン政権はいつまでもつのか?という時間との競争が起きている。
もちろん、バイデン政権が1日でも、1時間でも、1秒でも早く終わってほしいと「願う」ものではあるけれど、この「ヒール:Heal」役の存在には、もちろん意味があると前に書いた。
けれども、囲碁や将棋のように、相手があるゲームをやって、相手もそれなりの実力者だと、なかなか思うように行かないのが現実の厳しさなのである。
もちろん、バイデン民主党にとっての、手ごわい相手とは、共和党トランプ派(長老派キリスト教徒)のことで、もはや両者は政治的「死闘」の様相を示している。
シリーズ第一局は、ヒラリー・クリントンを打ち負かして大統領になった、トランプが勝利したまさかがあった。
第二局目は、これもまさかの選挙不正で、トランプはバイデン民主党に組織で敗退した。
いま、第三局が佳境を迎えている。
バイデン一家の、とてつもない「汚職」、場合によっては、「国家反逆罪」が露わになってきたからだ。
これをやっているのは、中間選挙で連邦下院を制した、「野党」共和党トランプ派だ。
アメリカ議会には、「捜査権」があって、厳しく政権を監視している。
与党民主党の敗北は、議会運営上も、政権監視の目も、ままならないことになって、第3局目を創出させることに成功した。
それでもって、バイデン一家への「カネの流れ」を議会権限で捜査したら、あれよあれよと、外国からの巨額な入金がみつかった。
ただし、その全容はまだ明らかになっていない。
あたかも、バイデン・民主党を「不沈空母」にたとえたら、魚雷を喰らってもバラストタンクに海水を入れて、なんとか体制を持ちこたえているかのごとくだ。
しかし、船足は落ちて、もはや「時間の問題」になっている。
退艦命令も出ないうちから、逃げ出しているのが、日本の官僚制を真似て強化した、超高級官僚のSESメンバーがいて、これらが太平洋を渡って、東京地検特捜部の行動に影響を与えているのである。
しかしながら、最後の最後まで、徹底破壊を図るのが、アメリカ民主党に与えられたミッションだから、「徹底抗戦」を決め込んでいるはずだ。
このミッションを与えているのが、「ビルダバーグ倶楽部」で、その配下の、「世界経済フォーラム」である。
なんだか、敵味方に分かれている、「勧善懲悪」のことを、「二分化」とか「二極化」といっていて、「勝ち組」とか「負け組」とかという決めつけも、これにならっているだけの陳腐な用語なのである。
なので、「第三極」という、どっちつかずの用語が消えた。
結局のところ、人類は、ゾロアスター教の二元論(明と暗、善と悪)に舞い戻っている。
それで、追いつめられているのは、当然に「悪」の方で、余裕をなくしたこの集団は、あからさまな手段を執りだして、一層強権的になったのである。
真綿で首を締めるような、ジンワリ攻め付けるようなことができなくなった。
しかして、17日、連邦下院議会のさまざまな捜査が進展する中、民主党ペロシ議長がまる2年をかけた、「1月6日委員会」も対象になって、あの大事件がペロシ議長の「演出」だったことの全容が見えてきたことで、トランプ氏のFacebookとYouTubeのアカウントが、それぞれ凍結解除になった。
抵抗と妥協がうずまくなか、どんな判断のもとで、「凍結」され、このたびの、「解除」になったのか?そのうち判明することになる。
イーロン・マスク氏が買収して、「Twitter File」が公開され、さらに宣誓付議会証言ともなって、FBIの指示、つまり憲法違反だったことが明白になったからである。
いま、議会が犯人探しに動いていることが、とにかく原因だとわかる。
民主党は、この件でも、自ら発出した魚雷が自らに戻ってきてしまった。
なのに、そんな味方の惨状にも、お構いなしなのがわが国の自公政権なのである。
もう、止まらない、止められない。
それでも、野党にも尾てい骨のごとく存在する、「良心的」一部議員は、重要質問を政府に投げて、重要な答弁を引きだしている。
たとえば、政党でいえばぜんぜん支持できない、「日本維新の会」ではあるけれど、柳ヶ瀬裕文氏は、「コロナワクチンの情報公開(効力とメーカーとの契約内容)を要求し、政府はこれを、「契約に基づいて」拒否するという、答弁を引き出したのである。
これを受けて、京都大学名誉教授で医師の、福島雅典博士が情報公開を求めて国を提訴している。
けれども、不可思議なのは、衆議院でこんな動きがない、のだ。
今年は、春の統一地方選挙がある。
どこまで、既存政党が負けるのか?が話題にもならないのは、すっかり飼い慣らされた国民に発憤するエネルギーもないからだ。
悪い意味で、鎖国になっている。
驚きの結果がでた、オランダ地方選挙の結果は、明日の話題にしたい。
わざと?間違いに気づかないふり
10日、「シリコンバレー銀行」(資産規模で全米16位)の破綻から、すぐさまの12日、「シグネチャー銀行」(同全米26位)の破綻が続いて、浮き足立っているひとたちがいる。
それで、ヨーロッパに飛んで、「クレディスイス」が危ないといいだした。
もちろん、クレディスイスは、ずいぶん前から「危ない銀行」で、わが国の支店でも、数々の不祥事を起こしているから、その悪辣さは本社仕込みなのだ。
とにかくいろんな不祥事がある銀行で、今年になって株価が31%も下落した(いまやたったの2スイスフラン)けど、預金も急速に失っていて、スポンサーのサウジ政府系ファンドも追い銭はしないと言い出した。
そのサウジは、アメリカと冷たい関係にあるし、アメリカ・バイデン政権が即決めした、シリコンバレー銀行の預金者救済は、民主党支持者たちだからという、おぞましい理由がある。
こんな状況をもって、国際金融危機というならそれはそれで、「自由」だけれども、それぞれの残念がたまたま時期を同じくしているとかんがえた方がいい。
ただし、そもそも「銀行とはなにか?」をかんがえたら、その「インチキさ」は、誕生の歴史にさかのぼって、あんがいとこれを学校で教えない。
科目にしたら、小学校なら「社会」になるけど、中学なら「歴史」なのか?「公民」なのか?が悩ましい。
大学だったら、「経済史」になるのだろうけど、理系・文系の境なく全員の必修とはならないだろうから、やっぱり教わらないといえるし、銀行の歴史だけを「経済史」ではやらないから、教授次第になるのである。
それに、「経済学史」ともなれば、また別物だ。
そんなわけで、社会生活をするときに、誰でもぜったいにお世話になる銀行が、どんなものかをしらないで、新社会人になったら、会社のメインバンクの「口座開設」をさせられて、それが一生のおつき合いになるのだ。
個人の給与振り込み口座は、ほとんどそのまま、公共料金の引き落とし口座になって、多くの勤め人にとっての巨大な取り引きとなれば、たいがいが「住宅ローン」ということになっている。
だから、銀行取引といっても、個人のレベルだと、「お財布代わり」になるのは、入金元が給与とボーナスしかなくて、あとは支払いばかりとなるからだ。
あくまで「勤め人として生きる」なら、銀行のそもそもなんかどうでもいいとなってしまう。
しかし、近代の経済構造は、銀行なくして存在も発展もできないようになっている。
なぜならば、企業社会では、資金調達に銀行は不可欠だし、銀行だけが貸し出し行為で創出する、「信用創造」の大本だからである。
ここで、ちょっと待った!企業の資本調達なら、「株式発行」という手があるではないか、というひとがいるのは当然で、おそらくそれが、「資本主義」と結びついた発想なのは理解できる。
ただ、資本主義とはなにか?とか、資本主義の成立経緯とかになると、じつはよくわかっていないという、驚くべき現実がある。
いま、信じられている、「資本主義の定義」とは、マルクスが書いたものなのだ。
つまり、われわれは、結局、孫悟空が釈迦如来の手のひらの上にだけいたように、マルクス理論の上にある資本主義を信じているという孫悟空のような状態なのである。
それはさておき、銀行とは、ヨーロッパ発祥のものだった。
そもそもは、「金細工職人」がはじめた、「顧客が持ち込んだ細工の材料としての金などの金属の預かり証の発行」だったのである。
それで、顧客は「装飾品の作成を依頼」した。
職人は、預かった金の重さを顧客に確認させて、加工手間賃をとったのである。
けれども、このやり方が普及すると、職人同士で預かり証のやり取りをして仕事を融通するようになり、さらにそれが普及すると、預かり証そのものに金と同様の価値ができた。
いつでも、そこに記載されている金の現物と交換できたからである。
すると、資産をもつ依頼者の王侯貴族たちは、重い金属を持ち運ぶことの面倒と、保管の危険に気づく。
なので、預かり証そのものを保有することになった。
そこで、金細工職人たちは、細工をする仕事よりも、預かり証を発行することでの「利益」が莫大になることに気づいた。
簡単にいえば、預かっていないけど、預かったことにした。
つまり、インチキである。
しかし、どうしたことか、王侯貴族たちは、このインチキに気づかないで、自分がもっている預かり証に書いてある分量の金が、発行者の金細工職人のもとにある現物とが、つねに一致していると信じたのだ。
それでこれを、「信用創造」というのである。
だから、現代の銀行も、預金者から預かっただけの「額」のおカネを、そのまま横に流して他人に融資しているのではなくて、ざっと預金の50倍~200倍を貸し出している。
これを逆から表現して、だいたい2%~0.05%の間をもって、「預金準備率」というのである。
つまり、銀行にはあるはずのおカネはない。
それで、中央銀行が「あるはず」として、システム全体の信用を保持しているのだ。
これがゆえに、いったん「取付け騒ぎ」となれば、どんな銀行も経営破綻するから、危なくなったら中央銀行が資金介入するようになっている。
それでも銀行が破綻するのは、貸したおカネの使い途がメチャクチャで、ぜんぜん社会に利益をもたらさないときに、借り手が利息も払えなくなるからである。
この視点から、シリコンバレー銀行とかを眺めれば、おそろしく限定された、経営の失敗だけの「危機」なのである。
そんなわけで、誰にどんな目的でおカネを貸し出すのか?という「審査」が、銀行のなかでもっとも重要な業務になるし、社会も経済発展する。
すると今度は、わが国経済の衰退とは?をかんがえれば、誰にどんな目的でおカネを貸し出すのか?が機能していないことにこそ原因があって、異次元の金融緩和とか、政府予算のバラマキが効果あるというのは、「欺し」でしかない。
しかして、銀行システムとは、そもそもがインチキからはじまっているのであるけれど、そのインチキから出た、あたかもひょうたんから駒のごとき仕組みが、経済を発展させるもっとも重要な役割なのである。
この役割を機能させない努力を、日本政府と日銀がつるんでやっているから始末が悪いのだ。
サウジとイランの国交正常化だってさ
「合従・連衡(がっしょう・れんこう)」は、くっついたり離れたりすることを繰り返す、政治的策略をさす言葉である。
元は、『戦国策』(春秋・戦国時代:紀元前770年~紀元前221年)という、「史書」のなかにある。
中国(大陸のあの国は、世界の中心を自負していたので、近代まで「国名」がなかった)の古典は、わが国を含めた東アジアや東南アジアに多大な影響を及ぼしたのは、影響を受けた側からの話である。
残念ながら、現代の彼の国の政治体制における、教育、では、ほとんどカリキュラムのなかに、「古典」はないために、意図的に古典をしらないひとたちの国にしている。
これには、「簡体字」(1964年から採用)にしたこともその意図がある。
漢字のオリジナル文字が、「読めない・書けない」状態をつくったのだ。
韓国では、「ハングルだけで漢字廃止」(1968年)した決定の引き金だ。
これで、両国は、専門の学者以外で、漢字を読み書きできる人物がいなくなったので、過去の書籍が読めないから、自動的に「焚書」したも同然になった。
わが国でも、GHQによって、漢字の簡略化と使う文字数の制限(「当用漢字」は1964年)それに文章表現として、旧仮名遣いを改めて、現代仮名遣いにしたのと、その目的はおなじなのである。
簡単にいえば、これら三国には、国民の「愚民化」という共通の政治目的があるのだ。
それで、あたかも、「受験戦争(科挙)」を演出して、教育に熱心な様相を作り出して、さらなる「愚民化」をカムフラージュしている巧妙がある。
もちろん、これら三国の、「表向き」の理由に、本音の愚民化をいうはずもなく、逆に、国民負担の軽減、という、便利な言葉で誘惑して、平然と文化破壊をするのである。
歴代王朝が採用した「科挙」は、この点で、「古典」に知識を求めていたから、いまの浅はかな教育内容とは、雲泥の差なのであるし、科挙を明治まで採用しなかったわが国では、「生きるための教育」をしっかりやって、それがまた近代国家の素地になったのである。
教えるべきを教えず、習うべきを習わせないで、余計な知識だけを詰め込めば、それが社会的地位を得る近道だと仕向けることの悪意は、まったくもって悪魔の所業なのである。
ただし、その「愚民化」のなかから、受験エリートを採用するしかなくなったので、社会のあらゆる面で、劣化が止まらない。
こうして、為政者も愚民になったので、そのむき出しの欲望を国民にみせても動じない厚顔無恥になったのである。
そんなわけだから、革命世代から3代目・4代目ともなれば、指導者層も古典をしらないものを、あたかも「本家・本元」だと信じて疑わないのは、江戸の儒者たちが「唐(から)・天竺(てんじく)」に憧れたのとおなじなのである。
昨年の大晦日をもって、わが家では学生時代からとっていた新聞購読契約を終了したのは、前に書いた通りである。
そんなわけで、大々的な一面トップニュースだった、「イランとサウジアラビア、外交正常化で合意 中国が仲介」(11日付け)に気づくのが遅れた。
この手の扇動的な記事は、その見出しだけで読む気がしなくなるものだから、購読をやめたのだけど、チラリズム的に無料で読める電子版の範囲をみても、やっぱり読むに値しないのを確認して、この新聞を通勤電車の中で熱心に読んでいるサラリーマンには酷だけど、脳が破壊されるぞと注意を喚起したくなる。
13日付けの、「JETROビジネス短信」が参考になるかとおもったが、さすがJETROという、無能の機構に、国民が役立つ情報はあまりない。
注目すべきは、冒頭の、「7年ぶりに外交関係を正常化させる」という点にある。
あたかも、「国交の正常化=中東の緊張緩和」としたい、新聞記事よりは「まし」ではある。
つまり、この両国は、7年前まで国交は「あった」のである。
だからといって、7年前までの中東は、緊張緩和の状態だったのか?といえば、ぜんぜんそんなことはない。
むしろ、その後のトランプ政権がやった、アラブ諸国とイスラエルの平和条約締結が、よほどこの地域、ひいては世界の安定に貢献した。
これを再びオバマ時代のごとき混迷の状況に戻したのが、まさにオバマ政権で副大統領だったバイデンの仕事になったのである。
いま、サウジを率いているのは、バイデンがいじめ抜いていた、若き王子、ムハンマド・ビン・サルマーン王太子殿下だ。
彼を、「皇太子」という、用語の濫用も注意したい。
英国のチャールズ3世を、「皇太子」といっていたのも、用語の濫用で、なぜに放送コードに触れないのか?
サウジは帝国ではないし、英王室もローマ帝国につながる血筋ではないから、あくまでも「王国」なのだ。
そのサウジは、バイデンのアメリカを嫌って、ウクライナ問題ではロシアについた。
石油の取り引き決済には、これまで「米ドルだけ」に限定していたが、どういうわけかバイデンのアメリカとEUが、ロシア制裁と称して、ドル決済システムの「SWIFT」からロシアを締め出した。
資源がある側を、資源がない側が制裁するというトンチンカンをやって、ロシアはルーブル決済を決めて、サウジは人民元決済を許したのである。
アメリカ・バイデン政権の自虐は、ドルの独占を壊してしまったので、わが国がせっせと貯め込んだ、アメリカ国債保有の意味が、薄れるというコペルニクス的転換がおきている。
ならば仲介した中国に有利なことはなにか?を問えば、イランとサウジの石油を得るということに尽きるけど、どちらも強烈な「宗教国家」で、無神論の共産主義・全体主義とは、絶対的な「水と油」なのである。
すると、いまアメリカ議会でも落ち目の激しいバイデン一家に対する、退場勧告がその意味するところだとかんがえるのが妥当なのである。
「政党」がつくる民主主義
政治のあるべき目的は、憲法第13条にあるように、住民や国民の生活安定と向上にある。
それゆえに、どんな「政治形態」が望ましいのか?という問題は、上記の「目的」が達成されるなら、なんでもいい、という結論になる。
つまり、「王政」だろうが、「独裁」だろうが、その形態はどうであれ、目的が達成できるのであれば、住民や国民から文句をいうはなしはない。
しかし、「王政」や「独裁」という「形態」には、どうしても「個人依存」という「偶然」が発生源となって、善政を敷いた王や独裁者の「後任」がまた善政を敷くとは限らない。
この不安定さをどうするのか?
それで考案されたのが、近代デモクラシーだった。
住民や国民のなかから、これは、という人物を選んで、その人物に「目的達成」を委託する、という方式だから、ダメだとなれば、別のひとに交代させる、あんがいと冷徹な仕組みだ。
これに、行政の方は、住民や国民のなかから、事務員に就職してもらって、生活の安定と向上のための各種手続き事務をするひとを雇うことにした。
それで、烏合の衆になっては困るので、首長とか首相あるいは大統領を別に選んで、組織の管理監督をさせることにしたのである。
また、悪さやトラブルが起きたときの裁定のために、裁判所というものをつくって、双方の言い分を聞きながら裁定するけど、それにはあらかじめ決められたルールがないといけないので、住民や国民のなかから選んだひとたちにルールを決めてもらうことをした。
そうやって、裁判所では、訴える側と弁護する側双方が、あらかじめ決められたルールをもって主張して、裁定をするひとは、これらの言い分をルールに照らして裁定することにした。
世の中が複雑になって、ルールもたくさん作られてそれでまた複雑になったから、たっぷり勉強してルールを知っていると認定されたひとだけが裁判にかかわることになったのである。
狭い地域に国がたくさんあって、共通の価値観がキリスト教だった(すでに過去形)ヨーロッパでは、高緯度で寒く食糧栽培ができないため、狩猟・肉食という基礎文化からどうしても人間が野蛮になるので、他人から掠奪やら強奪することを生活の基盤にしたし、征服者だったモンゴルやらの騎馬民族の血も引くので、その野蛮さは原始の動物的なのである。
とりあえず、ローマ帝国の歴史をみれば、いまなら精神異常者かとおもわれるような人物が、どういうわけか「皇帝」になって君臨し、おどろくほど野蛮な行為が記録されているけれど、かれらは「記録される」ということすら気にした節もない野蛮さを発揮している。
これは、「後世に残る」とか、もっと高尚にいえば「歴史になる」ということも意識しない、つまり、「恥を恥とも思わない」という態度で、ときたま「賢帝」があらわれる程度なのだ。
たとえば、キリスト教の結婚式で、「二人を死が分かつまで」と、結婚契約に「終わり」の規定があるのに、神道の誓詞だと、「永久(とわ)」で、両者には決定的違いがある。
なのでキリスト教文化では、本人の死後にはプライバシーが存在せず、有名人ほど、生前の恥ずかしいことも、個人的な手紙も、みんな公表されてしまう。
日本人に、この感覚はなく、欧米から輸入した、プライバシー保護も「永久」になるのである。
すなわち、ヨーロッパ人とは、日本人がかんがえる「道徳」のかけらもない、という意味の野蛮人なので、こんな歴史的人物たちを祖先にするヨーロッパ人は、日本人の「潔癖症的な道徳」とは別の、「もっと緩い道徳」しか意識できないのも無理はない。
そうかと思えば、ローマ皇帝に「ポッと出」のまともな「賢帝」もでてくるから、目くらましのように惑わされるのである。
それで、「人類は皆兄弟」という錯覚に陥るのだ。
結局のところ、自然に地球が寒冷化して、北方のゲルマン人が寒さによって南下して、ローマ帝国は滅亡した。
食い物がある土地を「奪う」ための死闘があって、持てる者が待たざる者たちに負けたのだ。
これと似たひとたちが、俗にいう漢民族だし、南北アメリカ大陸での原住民虐殺の結果が、現在のアメリカ大陸だ。
もちろん、ウラル山脈の西側にいたロシア人も、シベリア征服をおなじ方法でやったから、広大な領土をもつロシアになった(ロシア国内にはいまも約200言語の少数民族がいる)のである。
人類史ではより決定的なのは、モンゴル帝国だったのはいうまでもない。
こうやってみれば、日本はとんでもない野蛮な民族に囲まれて生き残ってきたといえる。
島国だったことが幸いしたのは、大袈裟ではない。
けれども、明治のグローバリズムによって、日本人の高潔な道徳に対する破壊活動が恒常化して、ついに78年前の敗戦で、決定的な破壊が加速・進行した。
明治には、個人の高潔さを訴えれば、それでよかった(選挙権も限定された)から、当選した個人が集まってそれを「政党」ということができたのは、まだ「目的」に対して機能していたからでもあった。
戦前は、民主主義ではなかったような錯覚があるのは、「大正デモクラシー」を横に置くからだ。
結局、自民党は、大正デモクラシーの「あだ花」だとかんがえた方が妥当なのだ。
その自民党で、党本部が機能するのは「選挙対策」だけで、その選挙は、候補者が自分で組織した「後援会」でやるしかないから、「自分党」という性格をもっている。
つまり、「自分党」の集合体が「自民党ブランド」なのである。
けれども、すっかり破壊が進んだので、欧米人が発明した「近代政党制」を導入するしかなくなった。
それでできたのが、「参政党」だ。
この苦し紛れが、日本人の「希望」になっている。
残念ながら、わが国はむかしのような「個人依存」がとうとうできなくなったのだ。
この「堕落」こそ、掃き溜めに鶴を呼ぶ。
それが、「不死鳥」となって復活のしるしとせよと叫んだのが、坂口安吾の『堕落論』だった。
参政党は、国民に意見を聞かない。
党員の意見や異見を聞く。
よって、国民は党員になって議論するべし。
果たしてその目的は明確で、生活の安定と向上、なのであるけど、経済政策の稚拙さは否めない。
不満があったら、党員になって意見を出せという、仕組みはよくできている。
それで、外部のシンクタンクにも課題分析を依頼している。
自・公も、大失敗した民主党も、官僚組織をシンクタンクにするしかなかったのも、近代政党ではないからだ。
欧米人がかんがえついた、民主主義の実行には、欧米方式のやり方しかないのだ。
これが、わが国における政治のグローバル化であって、その実現者に自民党や公明党、既存野党は適さないことが判明したのだった。