暗殺の実態が不明な半年で

作夏の大事件は、参議院通常選挙投票日(7月10日)の直前、7月8日午前に安倍晋三氏が遊説中に暗殺されたことだった。
これは、究極の選挙妨害ともいえるけど、なにせ公衆の面前での殺人事件なのに妙に事件追求の努力がされていない不思議がある。

それから数えて、この8日で半年が経過した。

この間、まったくもってケネディ暗殺犯とされた、オズワルドと似た扱いを山上容疑者は受けていて、「元」とはいえ、憲政史上最長の内閣を率いた人物の暗殺事件について、物理的分析がほとんどないままに放置されている。

マスコミだけでなく、政界からも、警察はなにをしているのか?の質問すらない。
与野党を超えて「真実追究」はもちろんのことなのに、なぜか話が本末転倒の感がある。

この事件を物理学者がきっちり「音声解析」していることも、マイナーなニュースで、大手メディアは一切の無視を決め込んでいる。

襲われた安倍氏は演台を自分から降りたが、手からマイクは放していなかった。
よって、現場ではこのマイクが捉えた音を、拡声器を通して聴衆に聞こえたという。

それは、山上容疑者が放った一発目の0.2秒前の音だった。

しかも、彼の手製の銃は、先込め式の火縄銃のような構造で、込めた散弾は6粒だという。
これらはほんとうに発射されたのか?すら、怪しいが、この物理学者は「空砲だった」と重大な解析結果を発表している。

この解析による山上容疑者の銃とは別の発射音は、4発。
安倍氏の立ち位置からすると、左右から2発、という。
命中したのは3発で、1発は安倍氏が山上容疑者の方に大きく振り向いたことでの失中とみられるという。

なんだか、フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』(出版は1971年、映画化は1973年)のラスト・シーンを彷彿とさせる。

 

すると、いきなりプロ(おそらく消音器付きライフル)の狙撃手が複数いないとあり得ない。
日本では、銃刀法で一般人がライフルを所持できるのは、散弾銃の所持許可免許を取得して、10年連続無事故でかつ、狩猟用としての申請をしないと所持できない。

ちなみに、この免許の書換は3年に1回だ。

しかも、消音器はぜったいに販売も所持も許可されない。
なので、日本人なら公務員系(警察あるいは自衛隊)、そうでなければ外国人しか見当がたたない。

日本を舞台にした消音器付きライフルを用いたサスペンスなら、現役エンジニアの榊正志作『レイラインシリーズ3 アマテラス・サーガ: 失われた卑弥呼の金印を探せ! 失われた秘剣 』が、いまもっともスリリングだ。

本作だけでも楽しめるが、前2作から、という順番がお薦めだ。

なお現実の警察は、安倍氏暗殺後もライフル所持者に対する調査もしていない。
果たして、この解析以外の解析を警察すら未発表だから、とっくに「ヤミの中」なのだ。

それを隠蔽するかのように、特定宗教団体を叩くというパフォーマンスが連日報道され、まったくの目くらましをくらっているのが、いつものように国民なのである。

なので、すっかり現行犯逮捕された山上容疑者が単独犯だという前提で、事件があたかも解決した風情になっている。
これにはまた、検察が起訴したら99.6%が有罪になるという、わが国刑事裁判の国際比較でも「異様」な状況が背景にある。

他の先進国は、のきなみ6~7割程度でしかないのだ。

もちろん、わが警察の丁寧な捜査が、刑事訴訟での圧倒的「証拠」提出となる原因であって、他国の警察のずさんな捜査が優秀な法務官の検察をして裁判に勝てないのだ、という意見もあろう。

しかして、99.6%という実績値は、それでも高すぎるとみるのが一般的な感想になる。
これでは、刑事裁判における裁判官の存在がみえないし、起訴するか起訴猶予にするかで、検察が実質裁判の判決を書いているようなものだ。

ちなみに、検察官は、わが国では法務省のお役人様である。

ふつうの省庁は、国家公務員総合職試験(戦前の「高等文官試験」、戦後の「上級職試験」)合格者が「キャリア」として、最終的に事務次官に上り詰めるけど、これからはずれているのが外務省の「外交官試験」だ。

日本ではあまりいわないけど、こうした試験制での役人採用方法を、ふつう「科挙」といい、欧米では「中国式」とよぶ。

しかし、もっとはずれているのが法務省で、この役所のキャリアとは司法試験合格者で検事に任官したものをいう。
なので、おどろくことに、法務省では国家公務員総合職試験合格者でも、本省の局長になれない。

だから、外局に検察庁があるとかんがえるのはまちがいで、法務省全体が検察官たちの牙城なのだ。
それでできた序列が上から下へ、検事総長 ⇒ 東京高検検事長 ⇒ 大阪高検検事長 ⇒最高検察庁次長検事 ⇒ 法務事務次官 というすさまじさになっている。

どこまで警察と検察におもねるのかしらないが、有名大学の有名教授たちが、山上容疑者を「価値ある行為だった」とした言論を発している。

殺人犯を殺人犯ではなくて英雄扱いをしていることが問題なのではなくて、もう犯人を山上容疑者だと、警察・検察のいうとおりに決めつけていることが問題なのだ。

これもまた、社会に真実を隠す努力としての「ノイズ」なのであって、「冤罪」がなくならない原因のひとつである。

国民が恐れないといけないのは、こんな体制だといつなんどき逮捕されるかもしれないし、ひとたび起訴されようものなら、ほとんどが有罪に一直線だということだ。

これを、「暗黒国家」というのである。

1970年、ノーベル文学賞のソルジェニーツィンは、代表作『収容所群島』の冒頭に、「逮捕は突然やって来る」と書いた。

アメリカ下院の影響力

議長選びでもたついた感があったアメリカ合衆国連邦下院議会ではあるけれど、「スタート・ダッシュ」はそれなりに強力だ。

日本の国会とちがって、アメリカ議会は下院と上院とで、役割がちがう。
外務次官でアメリカ大使だった、村田良平氏がのこした、「日本は一院制にすべし」とあるのは、戦後わが国の国会、とくに参議院がたんなる衆議院のコピーでしかないムダをいいたかったとかんがえられる。

わたしが子供だったずっとむかしから、「参議院改革」というグダグダをやっていて、さいきんではもうとっくに「飽きた」感がある。
国民を飽きさせるのがマスコミの役目なので、わざと枝葉末節の話を大袈裟にして、根幹に関わる議論を抹殺してきた成果なのだ。

それでもって、実質的に衆議院(外国では「下院」、身分制の英国では「庶民院」)だけの一院制になっていて、参議院をばかにしくさった結果として、一般人は参議院議員にしかなれない選挙制度をつくった。

むかしは、参議院を「良識の府」なぞとおだてていたが、選挙まで似せたので単なるコピーにした一方で、衆議院は厳しい小選挙区制にしたから、ぽっと出で勝てる要素がなくなった。
これが、議員の「世襲制」をつくって、「あたらしい身分社会」としたのである。

小選挙区制は政権交代を促す、というキャッチフレーズは、ウソだった。

それでも、参議院議員にだって、国政調査権があると「憲法62条」にあるから、あんがいと行政府からは侮れない。
これが、国民にとっての民主主義の「首の皮一枚」なのだ。

組織論として、時代の最先端の研究をするのは、大学という象牙の塔(ほんとうは「タコツボ」)にこもった学者ではなくて、軍隊だ。
同盟国だったヒトラーのドイツが、人類最初の「無差別爆撃」を、スペインのゲルニカでやった。

これで、戦争は兵隊同士の戦闘で決着をつける、という古今東西の常識がやぶられて、戦後の掠奪ではなくて、「戦略」という名目の一般人虐殺が戦争のオプションになった。
この最終オプションとして、核がある。

ちなみに、歴史的掠奪の阿鼻叫喚は、東ローマ帝国が滅亡した、コンスタンチノープルの陥落があまりにも有名だ。
攻めたオスマン帝国のメフメト2世が、自軍のあまりの蛮行に涙したという。

これをツヴァイクが、『人類の星の時間』の、エピソード、「ビザンチンの都を奪い取る」で描いている。

だから、軍のコアな思想には、兵隊同士の戦闘にいかに勝利するか?はいまどきの「紛争」レベルになったけど、これがまた、いまだに有効なのである。
ゆえに、クラウゼビッツの『戦争論』が、現代でも名著になっている。

 

むかしの軍(たとえば、大日本帝国陸軍と同海軍も、アメリカの陸・海軍も)は、それぞれ「陸軍省」と「海軍省」とがあって内閣に属した行政府と、陸の「参謀本部」と海の「軍令部」もまた、それぞれにあって分かれていた。

勝利を目指したら、統合することの有利に気がついて、アメリカは戦後の1947年になって、トルーマン大統領の要請でできたのが、「国防総省:いわゆるペンタゴン」だ。

じっさい、国防総省のなかに、かつての陸軍省やら海軍省が「統合」されているので、省内に省があるのは、官僚組織の壁の厚さを物語る。
しかして、国防総省となっても、行政機関なのだ。
なので、各軍の将官で組織する統合参謀本部は別にある。

これはどういうことかといえば、軍政(軍を維持するための行政)と、作戦(敵国や仮想敵国、あるいは同盟国間)とを分けているのである。

行政には、人事と予算が、統合参謀には作戦という役割が明確にされている。
もちろん、アメリカは合理的思想の国なので、制服を着た軍人はこの両者を人事異動で行き来するし、民間人でさえ専門家なら、「顧問」として両者に配置されている。

わが国の防衛省は、制服組を作戦にだけあたらせて、軍政(予算と人事)には一切タッチさせず、法学部をでた国家公務員だけがこれにあたっている。
これを、(広義の)シビリアン・コントロールだと信じている道理は、GHQの命によるだけなのは、本国のアメリカをみればすぐにわかる。

そんな視点で、アメリカ連邦議会をみると、下院が予算、上院が政府高官人事と外交(条約と批准)、という役割だから、議会においてさえ、より権力の分散を意図していることがわかるのである。

それで、これら「優先権」にあたらない議論は、両院で議決されて、「上」で決まらないと決まらない仕組みになっている。
その「上」は、単純多数決でないこともあるので、単純多数決しかしらない日本人にはわかりにくい。

バイデン氏や民主党、それに行政府のさまざまな「疑惑」について、下院の委員会が発足して、「捜査」を開始すると宣言している。
ただし、これらは大方、上院に持ち込まれるので、どうなるかは不透明だ。

しかしながら、昨年末に滑り込み成立した連邦予算案(4000ページ)を、たった3日で可決させたペロシ前議長が地団駄踏んで悔しがった、ちゃぶ台返しをさっそくやってひっくり返したのは、まずは「快挙」である。

ウクライナへの追加軍事支援予算も該当していて、戦争をやめさせることが明確な意志となっている。

上院で否決されようがなんであろうが、下院の捜査で上院に圧力をかけるばかりか、国民に実態をしらしめることが先だという戦略なのである。

つまり、これから先、アメリカはスキャンダルだらけ、になる。

これが、日本に影響しないわけがなく、70年代にいわれた「アメリカがクシャミをすると、日本は風邪をひく」どころか、もはや、「アメリカがクシャミをしたら、日本は即死しそう」な状態にある。

事実上、アメリカ民主党の日本支部となっているわが国与党は、持ちこたえられるのか?

読者の激減や視聴率の低迷で瀕死のマスコミが、一社でも「裏切って」、アメリカのスキャンダル・ラッシュを正確に報道したら、もしや経営再生になるのだけれど、そこは日本人だから、玉砕するまでがんばるのだろう。

その前に、愚民化しすぎた国民が寝たままのほうが、よほど悲惨で、新聞も、NHKの受信料も払えない貧困に、マスコミは負ける自業自得がやってくるのであろう。

日本は今年デフォルトするか?

七草もすぎて、いつもの通りあっという間に正月が終わる。

企業活動も本格始動する中で、今年ありそうな出来事の最大惨事はなにかを妄想したら、それはデフォルトだとおもわれるので書いておく。

昨年発足して英国史上最短で退陣した、トラス首相のことは、記憶に焼き付けるまでの時間もなく、気の毒なくらいだれも覚えていない。
しかし、伝統ある英国の民主体制のなかでの、保守党党首選挙を経ての首相就任だったから、なんで辞めたの?という疑問はつきまとう。

トラス氏は、ちゃんと選挙中に公約として「減税」を訴えていた。
しかも、その規模は、かつてのサッチャー氏や、トランプ氏がアメリカでやった規模とは比較にならない「小さな規模」のものだ。

にもかかわらず、勝利して内閣が発足していよいよ実施するための仕事をはじめたら、市場が反応して、英国ポンドと英国国債が暴落した。
減税によって英国政府債務が膨らんで、デフォルトするかもしれいことの、市場からの警告だ、と報道された。

彼女は当初、たいした規模ではないからと減税を強行する態度を示したが、結局曲げて、あたかも市場に屈服したけど、与党内からの批判に絶えられずに辞任に至ったのだった、ということになっている。

しかし、これをよく観察すると、市場とマスコミがグルなのではないか?と疑うのである。
「市場」には、二種類あって、一つが大富豪が動かすという意味、ひとつがその他大勢が動かすという意味で、マスコミはその大富豪たちが会社を保有している。

つまり、減税するな、という命令を自ら「売り」でやってみせて、これをマスコミが書きたて、それから大勢の一般投資家が「売り」をかけて波状攻撃としたのである。

英国でのこの一連の騒ぎは、世界の各国政府を震撼させた。

コロナで傷んで、エネルギー危機でインフレが拡大し、それがスタグフレーションの景気後退になる時期に、むかしだったら増税をやるバカはいなかった。
もちろん、ちゃんとした経済学者たちが、そんな政治家を阿呆呼ばわりしたはずだ。

しかし、いまはちがう。

なにせ、研究費が、どの国も政府予算に依存するようになったから、まず政府批判をするバカが学者世界からいなくなったのである。
それでもって、どちらの政府も、この時期に増税をやるといっている。

国民はそれでは貧困化するので、なんとかしてくれとなって、減税を要求するばかりか、補助金もほしがる。

ところが、どの国の政府も、財政赤字は世界共通なのである。
これには、はるか以前からのケインズ経済学で、政府の財政支出による「景気対策」が恒常化したことによる。

一応、ケインズ自身は、「不景気のときだけだよ」といったけど、そんな律儀な政治家なんて世界にいない。
だから、なんでもかんでも財政支出の対象にして、役所は肥大化をつづけた。

それが、70年代から80年代にかけての、サッチャーとレーガンによる、「小さな政府」への転換運動だった。
日本では、形だけ中曽根内閣で「第二次臨時行政調査会」なる茶番がおこなわれて、土光敏夫氏がまんまとピエロにされてしまった残念がある。

なお、内閣府が小さな政府と大きな政府について、長い蛇足記事で解説しているから、騙されないように批判的に読まれると参考になる。

つまるところ、いまの苦境は、ほぼ100年前から用意されていて、半世紀前の揺り戻しが成功したら、それからまた元の木阿弥になったのである。
英国はブレアの労働党政権になって、アメリカはクリントンの民主党政権に戻ってしまった。

この流れを無視して、いましかみない。

じっさいに、トラス政権の失敗が日本の与党にどんな恐怖を味あわせたのか?についての情報がないことが、その震撼ぶりをかえって想像させるのである。

「世界政府」という、ついぞこの前なら与太話だった単語が、いまではすっかり正体をあらわして、まだ与太話だというひとの情弱ぶりが心配になるほどに変わった。

トラス女史は、世界政府を甘く見た、としか解釈できない。

もちろん、世界政府は支配者のための団体だから、支配される側のことは知ったこっちゃない当然がある。
世界人類を奴隷にしたいひとたちが主宰者なのだ。

だから、景気後退時に増税をやらせる。
そうでないと、財政破綻させるぞ、という脅しなのである。

しかし、財政破綻して困るのは政府自体であって、国民ではない。
ここに国民が気がつかないように脅すのが、脅迫のコツだ。

いま、日本国債の格付けは「A」(A一個なので「シングルA」という)である。
この下は、「BBB」(B三個なので「トリプルB」という)で、ここまでが「投資適格」の位置づけとなっている。

そのまた下の、「BB」に格付けされたら、大変だ。
これは、「投資不適格」というランクだから、いわゆる「ジャンク」扱いになる。
すると、まともな機関投資家(銀行や生保)は、買えないどころか保持することもできない。

資産内容の健全性が規制されているし、預金者や保険加入者に説明責任が果たせなくなるからである。

なので、日本国債の格付けがどうなるのか?は、政府にとっても国民にとっても大問題になる。
それでもって、政府はその大問題を国民に負担させようと画策するはずだ。

しかし、日本人にとって、国内だけでみれば、あたらしい政府樹立の大チャンスでもある。
いまの政府運営者たちにはお引き取り願えるからである。

ただし、これを救済しようとやってくるのが外国勢力だと厄介だ。
たとえば、隣の大国とか。

どちらにせよ、日本国は、身の丈を忘れて発行しすぎた国債によって破綻するのは、時間の問題になりつつある。
これが、麻薬と麻薬中毒者の末路なのだが、もうだれにも止められない。

それをトラス政権が教えてくれた。
わが国のばあいは、亡国の危機だけど。
日本が日本のまま継続していくことが、困難になってきている。

5月に予定の、広島サミット後に、一つ目の「山」がくると予想している。

神頼みの初詣?

七福神めぐりがいつもの年始の恒例ではあるけれど、今年はなんだか参拝者が多くて、列に並ぶと暗くなる畏れが強くて、参拝を断念して次の目的地に向かうことがいくつかあった。

これでは、七福神にならないけれど、巡っていることで神様にはご勘弁いただきたいと、これまた人間の都合を通しているのは、やっぱり日本人なのである。

西洋や中東の神様は、「唯一絶対神」なので、人間の都合を聞いてくれるような存在ではなく、人智を超えているから、どんな仕打ちを人間がされてもそれを「試練」とするのが正しき解釈となっている。

それで、西洋にも中東にも、「巡礼」はあるけれど、日本の、「お遍路さん」とはちがうし、そもそも一神教だから、「七福神」なる概念もあるわけない。

日本的だった、「聖地巡礼」が、もっと日本的になったのが、「聖地=撮影地」にする変換が成功したことでの、「ロケ地巡礼」が、アニメにも適用される現象となった。

これがまた、日本を飛び出したのは、宮崎駿『千と千尋の神隠し』の、モデル地といわれる台湾の「九份」だ。
台北から電車に乗って、最寄りの駅(瑞芳駅)からはご当地が山の上なのでタクシーを利用してだいたい1時間で到着する。

この駅近くの市場には、食堂もいくつかあって、安くて美味いがあるし、瑞芳駅では売り子が「駅弁」をむかしの日本の日常のように、頸から容器を抱えて売っている。
20年ほどのむかしに購入したときは、1個180円の八角風味鶏そぼろご飯で美味だった。

台湾は自動車は右側通行になったけど、鉄道は日本時代のままで左側通行だ。
日本文化の駅弁があるのも、元日本、の意地なのだろうか?
まだ若い売り子の姐さんは、「ベントー、ベントー」と元気いっぱいに叫んで売っていた。

シベリア出兵以来、日本食なかでも醤油が定着した、ウラジオストックはモスクワ行きシベリア鉄道の出発点だけど、この駅に駅弁はない。

いつの間にかに、そんな台湾にも、「ひとりあたりのGDP」で追い抜かれてしまったわが国は、もう神頼みしかないのか?
韓国にも抜かれていたが、為替のために抜き返し、たぶん今年はまた抜かれる予想になっている。

ぜんぶが政府のせいではないにしろ、日本人が日本政府に経済政策を依存したら、歴史的で奇跡的な成功事例だけの、なんとかのひとつ覚えしかできない、見事な経済政策の失敗(社会主義化を目指しているから、本当は成功しているけど)での体たらくだが、30年経っても間違いに気づかない国民もどうかしている。

台湾と朝鮮半島が、欧米的な植民地でなかったのは、歴史を調べるとわかることだけど、欧米的な植民地だとするGHQの戦後価値観を推すひとたちに都合がわるいから、意識的に積極的に調べることをしないとわからないようにしている。

この意味で、日本の国名は「帝国」であるし、じっさいに天皇を戴く国体としても「帝国」だけれど、欧米的な帝国主義をどこまで模倣したのかは、ものすごく曖昧なのである。

GHQ内で、日本の労働法を作りにやって来たヘレン・ミアーズ女史が書いた、『アメリカの鏡・日本』は、マッカーサーによって日本語版は「発禁」になって、昭和40年代に出版されても、よほどの意識高い系でないと日本人は興味も示さない、という「大衆化」が既にすすんでいた。

「帝国」が面倒なのは、欧米的な帝国主義の具現者で、世界最大の版図をもっていた「英国」は、自ら「帝国を名乗らない」という混乱がある。
つまり、英国は正式に「大英帝国」を名乗ったことはない。
周りが勝手に言うのを、放置しているだけなのである。

その英国は、もう経済がズダズダで、生活苦が産業革命時の状況になりつつある。
このころの様子がわかるのが、名作『エレファントマン』(1980年:日本公開は81年5月)だった。
「I’m a human being!」という叫びから、人権映画だというひとがいる。

わたしは、作品が描く当時の英国の社会常識表現(時代考証)にこそ価値があるとおもっている。
そこにいる、有象無象のひとたちのうごめく様が、およそ先進的ではない動物なのが、これぞ「品も格もない欧米人の姿」だからだ。

エレファントマン役の名優ジョン・ハートは、1984年に『1984』で、主役のウィンストン・スミス役を見事に演じたことでも記憶に残る。

資本主義は人間を幸せにしない、というマルクスの都合のいい表現に、当時が資本主義かどうかを厳格に規定しないでいるから、いまだにこれを信じているひとが多数派で、それを常識人といっているのがテレビ制作者だ。

この映画がみさせる当時のロンドンからは、ただの人間の汚い欲望しかない。
このひとたちは、ヨーロッパ中世の人間のたんなる末裔なのだ。

人権という概念は、啓蒙主義からうまれた。
それこそが、ヨーロッパ中世の批判的思想ではあったけど、政治家を含む一般人はそのまま中世の価値観で20世紀の大戦争をやってきた。

そこにあるのは、今だけカネだけ自分だけ、という、みごとな「大衆」なのである。

その大衆を、どうやってコントロールして奴隷にするのか?が、啓蒙主義が成りの果てにある、共産主義・全体主義だ。

このひとたちは、巨大な富の独占を背景に、自分たちだけは生き残れるとした安全地帯に身を置いて、経済社会の破壊を試みている。
だから、今年以降は、先進国でいつデフォルトが起きても不思議はない。

その準備として、「昆虫食だ」という噴飯のプロパガンダがある。
奴隷は生かさず殺さず、というまさに奴隷貿易時代が再来しそうだ。

ナショナリズム対グローバリズム全体主義とネオコンのミックスが世界の二元論的構図となって、後者を進めれば奴隷化の道、前者を進めればデフォルトの道となっている。

昨年秋にちょっとだけナショナリズムを選んだら、たちまちデフォルトしそうになって、あわてて首相を頸にしてミックスに戻しめたのがいまの英国だ。
MAGA派のアメリカは、これから財政破綻と向き合うことになる。

すると、もっとも脆弱なのが、わが国だとわかるのである。

ただし、デフォルト(財政破綻)を恐れているのは政府だけ、ということに注目すれば、その余波を一般人が喰らうにせよ、永遠に子孫まで奴隷になるよりはマシ、というものだ。

それが、神頼みの初詣になっているなら、まだ大丈夫?
だんだんと、おかしい?と気づいたひとがいるから、と思いたい。

どうか、ロケ地巡礼ではありませんように。

「あさましき」アメリカ議会

昨日書いたとおり、「あさましい」ということばの意味は、清少納言の現代語訳をしたら、「あきれちゃうわね」とか、「情けねー」、「あれれびっくりだわー」となる。

なのでそのまま、現代アメリカ合衆国連邦下院議会での議長選びこそ、「あさましきもの」としてみえたのであった。

アメリカがつくった憲法だから、日本とアメリカの政治形態は、議院内閣制と大統領制のちがいはあっても、国会のちがいはないとかんがえているのが大方の日本人感覚だろうけど、ぜんぜんちがう、いわば「似て非なるもの」だとわかったのが、今回の騒動だった。

ただ、例によって例のごとく、テレビや新聞をみているだけでは、アメリカの「凄さ」がわからない。
もちろん、わからないように報じているからである。

そもそも、「議長」の権限がちがう。

日本の議長は、ただ「権威」として存在し、三権の長なるおだて方をされているけど、バリバリ仕事をしているようにはぜんぜん見えない。
しかし、アメリカでは、議長の権限は絶大で、議会でなにを議論するかも議長権限で決めるのである。

しかも、議会には「政府に対しての捜査権(個人ではない)」まであって、わが国でいう「国政調査権」なんて甘いものではない。
大統領には議会決議について、拒否権があるものの、再度議決されたらもう拒否できない。

つまるところ、大統領(行政府)に命令することができるのが、議会なのだ。

しかして、アメリカは上院と下院の役割が、日本の衆参両院とはこれまたぜんぜんちがうけど、2年に1回総選挙をする下院の予算に関する権限は絶大で、ここだけは、日本の衆議院の優先と似ている。

そんなわけで、選挙後の最初の議会は、とにかく議長を決めることからはじまるから、これが決まらないと、なんと各議員の就任式さえもできないルールになっている。

与党のトップが談合して、それなりの当選回数があるひとを議長に据える日本のやり方が通じないのは、アメリカの政党に「党議拘束」という全体主義の概念がないからだ。

議員は、政党の看板よりも、自分の主張で選挙を闘う建前だからだ。

なので、議員は議会で自由に個別に投票するし、その投票行動は地元で報道されて有権者は議員の行動をしることになっているから、これがまた、次回選挙での活動実績が相手候補からの批判となるのである。

それでもって、ケビン・マッカーシー氏を議長にするのに、どうしてこんな「混乱」があったのか?には、深い理由があった。
これを日本の報道機関は報じないから、おカネを出す価値がないといっているのである。

アメリカの政治は、共和党・民主党という二大政党制に表面はみえても、実質的に、ナショナリズム対グローバリズム全体主義とネオコン(戦争屋:RINO:Republican In Name Only)のミックスとの対立関係になっている。

昨年の中間選挙という総選挙で、共和党内ではこれまでの反主流派だった、ナショナリズムの「MAGA:Make America Great Again」を提唱する、いわゆるトランプ派が大勝利して、主流派となった。

それで、かつて「共和党主流派」といわれてきた、グローバリズム信奉のネオコンが、いまではすっかり勢力を弱めているかにみえる。
しかし、彼らの背景にある軍産複合体の財力を含めた影響力は侮れず、上院を仕切るミッチ・マコーネルも、下院リーダーのケビン・マッカーシーもRINOなのだ。

日本人なら、多数を占めるMAGA派の議員から議長を選べばいい、と発想するけど、このひとたちはそんな「やわ」なことはしない。
あえてRINOの人物を選ぶのに、RINO潰しの条件闘争をやったのが、今回の議長選びの本質なのだ。

つまり、議長になりたくてしょうがないRINOのマッカーシー氏を、徹底的に追い込んで、MAGA派が目する諸目標を議長権限のなかに盛り込んだり、あるいは、民主党の前職ペロシ氏が伝統を覆した議長解職の封印を、たったひとりの議員からでも提案できるちゃぶ台返しをやったりもした。

そうやって、いつなんどきでも、マッカーシー氏が裏切ってRINOの本領を発揮しようものなら、即座に議長職を解職するというすさまじき条件にも同意させたのであった。

なお、「聖書文化」からの契約社会ゆえに、これらの同意は、ぜんぶ「文書」になっている。

これはまったくの、MAGA派の勝利で、粘った(追いつめた)甲斐があった。
MAGA派は、事前(選挙後から年末まで)に、相当な打ち合わせ(マッカーシー氏にサインさせる文書の文言準備も)をしていたとおもわれる。

にもかかわらず、MAGA派の領袖トランプ氏の党内指導力が弱まっている、という、信じがたいウソを垂れ流したのが日米の大手メディアである。
どこまでも、民主党グローバリズム目線だけなのだ。

新年から購読をやめた経済紙は、うわさによると、元旦から連日グローバリズム礼賛記事を特集したらしいが、まったくもって価値のなさを確認できたので、安心感に変わった。
まじめに読むと、脳が腐った情報が宇宙の壁に書き込まれてしまう痛恨からまずは予防ができたからだ。

さらに、RINO潰しは炸裂して、共和党内予備選におけるRINO候補を落選させるより、そもそもRINOの候補者を立てさせないための、既存RINO支持母体に対する、選挙関与の禁止まで要求して、同意させることまでやった。

そんなわけで、先にとぼけてマッカーシー氏支持を表明したトランプ氏は、ボチボチいいだろう、ということで、議場にいるもっともトランプ氏の支持者である議員に電話をして、マッカーシー氏への投票を棄権するように指示して、ようやくにして議長選出が決まったのである。

ただし、下院過半数の218票以上を獲得したわけでなく、棄権を含めない出席者の過半数での勝利(216票)だったから、マッカーシー氏には薄氷だった。
いつでも頸にしてやる、ということが最初から仕込まれている。

「身内」にもここまでやる、のが、「本場」の議会なのである。
あさましきものなのだ。

さてそれで、これからは民主党との闘いがはじまる。
日本にも、もちろん世界にも影響を与えること必至の議論がどうなるのか?
新議長が呑んだ議題の中に、コロナ関連の再調査もあるし、ウクライナ支援予算の凍結もある。

あさましきものの本番がはじまる。

「あさましきもの」になった日本人

初売りの、「福袋争奪現場」の映像を観て、げにあさましき、と思ったので書いておく。

清少納言の、『枕草子』は、紫式部の、『源氏物語』と双璧をなす、日本では平安時代の傑作でしられる。
『源氏』が「小説」で、『枕』は「随筆(エッセー)」の、歴史的作品で、残念ながらヨーロッパで女性が文学作品を残すのは、彼女らから700年以上後になる。

日本人は3つの文字体系(漢字、平仮名、片仮名)を駆使する、世にも珍しい民族だ。
いまではこれにローマ字が加わって、4つの文字体系をもって「国語」としている。

一般に、「アルファベット」という、表音文字は、英語で26文字だと教わるもので、大文字と小文字をあわせれば、52字になる。
ただし、「読み方=発音」について前に書いたとおり、「文字の名前」と「発音」は別だという体系がある

「ABCの歌(ABC Song)」でいうのは「文字の名前」で、「発音」と分けることを英語の先生がおしえてくれなかった恨みは深い。
何度も書くが、「T」と「h」、「i」、「s」で、「This」になったら、どうして「ディス」なのか?で、おおくの子供がつまずくようになっている。

国語として習った、ローマ字読みが通じないことだけは、子供だったわたしでも理解して、以来、英語とはいまだに馴染んでいない。

もちろん、アルファベットを用いる言語は英語だけではない。
たとえば、スペイン語は「27字」、ドイツ語は「30字」、ポーランド語は「32字」、ある。

そんなわけだから、外国人の日本語学習熱がマンガやアニメの「サブカル化」で、毎年ごとに「空前のブーム」になっているけど、「4体系の文字の存在」で、おおかたのひとがひるむのである。

日本で使われている漢字は、2010年(平成22年)に公示された、「改定常用漢字表2136字」ということになっている。
これに、おおかたの外国人には平仮名と片仮名が加わって、まずは呆然とし、さらにローマ字は発音に違和感ができるようだ。

しかし、平仮名と片仮名の表記に関する法則がきっちりしていないことで、とある外国人に、日本語でもっとも難しいのは、片仮名表記だといっていたことを思い出す。

このひとによれば、漢字は覚えるのは大変だけど、「部首」と「つくり」を理解して、ひたすら書き取り練習をすることでなんとかなるから、忍耐力が解決するけど、平仮名と片仮名はそれでは済まない難易度だという。

これには理由が二つあった。

一つは、外来語は片仮名表記にするという法則はよしとして、その片仮名がオリジナルの外来語とぜんぜんちがう発音なのだという。
たとえば、「アップル」と書いても、「Apple」の発音にならない。
なので、彼らの頭の中では、「Apple」を「アップル」と書くことが、たいへん困難だと。

もう一つは、法則がかんたんに破られてしまうことに戸惑うことだという。
たとえば、「アップル」と書くべきなのに、どうして「あっぷる」と書くことが許されるのか?
表音文字の言語のばあいは、おおかた文法が厳密だからである。

つまり、外国人には、「あっぷる」と「アップル」がおなじ「Apple」のことだとわかるのに、相当のタイムラグがあるという。
「あっぷる」とはなにか?がわからないのである。

ここに、「かわいい」という文化の理解がひつようになって、なんらかの理由でかわいい表現をしたいとき、片仮名が平仮名表記に変換される法則を発見するのだという。

日本人が「アップル」を「Apple」とそのまま英語で書くのは、やや堅い、フォーマルな表現なのだという法則にも気づくそうだ。

しかし一方で別のディープな日本語ファンの外国人には、マンガやアニメではなくて、『源氏物語』や『枕草子』を原文で読みたい、というひともいる。

関東の田舎者でそだったわたしや、わたしの周辺の友人に、ほとんど関西人がいなかったので、気づくのにやたら時間がかかったのは、やっぱり学校で習わないことだから、英語とおなじ、あるいは日本人としてはもっと深刻な恨みがあるのが「古文」だ。

平安時代の日本語は、言文一致していたのである。

なので、作品として残った文章は、そのまま「口語」でもあった。
すると、いったいどんな口調で読まれていたのか?もあるけれど、書き手の口調がそのまま記録されている、とかんがえるほうが先になる。

口調とは、発音のイントネーションとリズムだ。
つまり、(古代)京都弁にちがいない。

あたかも、標準語を基準に「京都弁」というけれど、ほんとうはえらく長い間、京都弁が標準語だった。
ゆえに、これら作品の「音読」には、いまでは京都弁の素養がひつようなのだ。

標準語のイントネーションで、「春は曙。。。。。」とNHKのアナウンサーのように読み出したら、味も素っ気もない「コンピュータ読み」となる。
「春」からして、標準語と現代京都弁はイントネーションがちがう。
使い捨ての「貼るカイロ」の「貼る」が、京都弁の「春」だ。

さては、「あさましきもの」の意味が、現代とは異なると辞書をみればわかる。
「取り返しのつかないこと」とかとあるけれど、ニュアンス的には「予想外で驚いた」ことが、のちに「みっともない」になったという。

いまの女子表現なら、「あきれちゃうわね」とか、「情けねー」、「あれれびっくりだわー」と、清少納言はいっている。
だから、「あさましい」と現代女子がいいだしたら、それは立派なことなのだ。

そんなわけで、「デジタル古語辞典」には、単語の「発音」を音声登録して欲しいだけでなく、例文にも正しいイントネーションとリズムがわかるような音声登録も欲しい。

このことは、外国語の英語辞書より、ずっと重要な機能なのではないか?
なにせ、日本人が日本語を忘れてしまうからである。

標準語で朗読するような、「あさましきもの」にしてほしくないのだけれど、取り返しのつかないことになっている?

「量子もつれ」の大光明

七草もすぎて、正月気分からの転換のために「賀詞」を書いておく。
「量子もつれの実験」が、2022年のノーベル物理学賞だった。

これを、NHKが「特殊な現象」といったから、どうにもならない。
もちろん、わたしはNHKだけでなくテレビを観ないので、「NHKがいった」というのは、ネット検索ででてくる「記事」をみたことによる。

とうとうこの公共放送局は、科学の解説すらテキトーになって、有料でみている視聴者を誤魔化している。
まことに、害悪しか社会に流さないので、もはや「反社」だといえる。

むかしは、原子が最小だったのだけど、それから原子核が陽子と中性子とでできていて、その周りを電子がクルクル回転していると習うまでになった。
だから、原子が最小ではなくなって、素粒子が最小に変わった。

ちなみに、素粒子にはまだ「仮説上」のものもある。

その素粒子のひとつである電子が、やっぱり素粒子(陽子や中性子などは「クオーク」という素粒子)からできている原子核の周りをグルグル回転しているかと思いきや、じつは「電子雲」という状態にあって、電子がどこに存在しているかの場所の特定は、「確率」になった。

なお、「原子」の大きさは、原子核を野球のボールとすれば、電子雲の大きさに換算すると、野球場を呑み込むほどもあって、この間にある空間にはなにもないという「スカスカ」なのである。

有名な二重スリットの実験で、まずは光が波動だとわかった。
粒子として、スリットを超えた側に筋となって届く(あとはクッキリ影になる)こともあるが、光源を動かすと影が縞模様になることもある。

つまり、スリットの裏に光が回り込んできて、波のような干渉をつくるから、粒のようで波のようだから波動であるとされた。
これでニュートン力学の限界となって、ニュートン破りをやったアインシュタインすらも量子の不思議な振る舞いには否定的だった。

この「不思議」が納得できないので、とある仮説を唱えたら、それが破られる実験結果がでたので、今回のノーベル物理学賞に至ったのである。

物理学が二系統になったのは、目に見える物質世界を対象にする、「古典力学」と、目に見えない極小世界を対象にする、「量子力学」になったからなのである。
その意味で、アインシュタインは、両者の橋渡しという驚くほど重要な役割を果たした。

量子力学がおかしなことになるのは、人間が電子という素粒子の位置を目で見て確認したら、その瞬間に素粒子が態度を変えるという現象がじっさいに起きるからである。

目に見えるとは、人間の網膜に光が入ってこれを神経細胞が捉えて脳に伝える、という手順がぜったいに必要なので、量子(この場合は電子)がもつエネルギーが変化するからだという。

ふつうの生活感からしたら不思議だけど、量子はかならずこうした態度をとるから、NHKの説明のようにぜんぜん「特殊なこと」ではない。
むしろ、これが極小世界では「ふつう」に起きている。

それでもって、「量子もつれ」とは、電子やら光子といった素粒子が、ある条件のスリットを通過したときに、二つに分かれて、これがそれぞれ逆方向に回転(スピン)しているのだけれど、一つの回転方向を観察すると、その瞬間に、もう片方の回転方向がその逆に決まるという現象を確認した実験がノーベル物理学賞になったのだ。

アインシュタインは、観察する前から決まっている、として有名な、「神はサイコロを振らない」といっていたのが、上に書いた仮説のことである。
しかし、観察するまでは決まっておらず、観察した瞬間に決まることが確認された。

このときの「その瞬間」が、光の速度よりも速いこともわかった。

だからなんなんだ?
となるけど、これは重大な発見で、最小単位の素粒子の振る舞いが、目に見える世界に影響するのは当然だからである。

つまり、古典力学の方に重大な影響が及ぶこと確実なのである。

それでどうした?

もちろんこの振る舞いを応用すれば、量子コンピュータやらの開発原理になって、いまとはケタがいくつも違う別世界の扉が開くことになる。
その最先端が、量子テレポーテーションの実用化で、実験室ではすでに実現している。

それゆえに、話は宇宙に飛ぶ。
じっさいに、宇宙での観測(見える世界)と理論の不一致が深刻で、見える世界が全体の5%ほどでしかないことはわかっている。

この空白を埋めるのが、目に見えないから名づけられた「ダーク・マター(暗黒物質)」と「ダーク・エネルギー(暗黒エネルギー)」だ。

2020年のノーベル物理学賞は、ロジャー・ペンローズを含む3名で、「天の川銀河中心のブラックホール」だった。
しかして、ペンローズ氏は「量子脳」についての提唱者でもあって、昨今のA.I.についても、量子論が入っていないことで否定的なのである。

 

この点で、数学者の新井紀子氏のベストセラー『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の主張と合致する。

つまるところ、目に見えない世界の究極にある、人間の心、あるいは意識とは、量子の振る舞いであるという説だ。

これは、日本人のはるか祖先たちがかんがえていた、「たま・しい」とよく似ている。
「たま」とは、「御霊(みたま)」のことで、永遠不滅の意識のことをいい、「しい」とは、「肉体」のことで、こちらは着衣のように着替えるものという。

なので、死とはこれまでの「しい」を捨てて、新規の「しい」をみつけてはそこに入り込むという観念になった。

ちなみに、「勾玉(まがたま)」は、「たま」のかたちを表しているという。
翡翠(ひすい)の勾玉を、古代に、どうやって製作したのか?じつは不明だ。
翡翠の硬度は6.5~7度もあって、加工が極めて困難なため「オーパーツ」扱いされている。

これが、仏教の輪廻転生と結びついたのである。

なお、皇位が男系男子とされたのも、「玉(タマ)」がついている男性が発出する精液こそ、「みたま」の発露であるとかんがえた古代人には、それが母体で「しい」になることからだとの説がある。

さいきん、東大の研究で、宇宙の果てにある「壁」に、量子もつれによる一方のスピンが、全宇宙の物質に関しての情報を自動的に書き込んでいると発表された。
なので、わたしたちの「しい」も、「たま」としての記憶もぜんぶ記録されていると。

これは、死者もおなじなので、量子を応用すると「生き返る」ことになる。
物質としての肉体も、精神も性格も生存時の記憶も、再生できるというのだ。

「意識」が生命体であるとしたのは、あの『2001年宇宙の旅』シリーズでのアーサー・クラークの発想だ。
シリーズ最終作は、『3001年終局への旅』である。
全シリーズを読破してこそ、第一巻が理解できる。

問題は、人間の「意識」なのである。

見える世界しか見ないという態度こそ、唾棄すべき「大衆」なのである。
つまり、いま大衆である自分に発破をかけて、見えない世界も見る努力をするか、しないかが、「たま」となったときに大きくちがう。

これを、仏教が「悟り」といって、この世に生きている間に自身の心を磨くための「修行」を一般人にも要求したのに似ている。
すると、清浄なる心をもって現実世界を生きないと、宇宙に邪悪な精神が刻まれることにもなる。

まさに、道徳社会の実現こそが、大衆である個々人の「救済」をも意味するのだ。

これを、西部邁は『大衆への反逆』といった。

しかして、この救済は、「大光明」である。
宗教的な概念が、物理学によって証明されるのだ。

よって、人類が初めて地上に、道徳的かつ倫理に基づく社会を築く最大のインセンティブとなる。
すると、これこそが、アイン・ランドがいった、「未来のシステム」としての「資本主義」がようやく成立する条件となる。

人としてあるべき道を説く宗教を含めた倫理思想に、だんだんと物理学が接近していて、それが欧米発の思想ではなく、古代の日本人の思想と似てきている。
この分野こそ、日本人が世界をリードできるのは、道徳と倫理のエバンジェリストたる人類唯一の民族だからであるとかんがえる。

よきかな、よきかな。

首相の賃上げ要請の意味

いまの首相のことだけではない。
アベノミクスという社会主義政策をやった、安倍晋三氏は、その間に「働き方改革」なる珍奇な政策をもって、「賃上げ要請」を財界にしていたからだ。

それでも、岸田氏が財界の新年会にノコノコと出かけて、名だたる財界人の前で「賃上げ要請をした」ことがニュースになった。
もちろん、「ニュース」としては、「賃上げ要請した」という事実しか伝えていない。

けれども、このことが真の価値あるニュースなのは、「マジ」だからである。

絶対権力を持っている王様が、その権力のあらん限りを尽くして、「インフレよおさまれ!」と命令しても、世の中のインフレがおさまらないことは、むかしの「女・子供にもわかる」ことだった。

けれども、どんどん教育が劣化して、大のおとながわからない国になったのである。

それで、いう方だけでなく、いわれた方も、またこのことを伝える方も、三方みんなでこれをニュースにすることの滑稽は、観るに堪えない「エロ・グロ・ナンセンス」の極みといえる。

いわれた側の代表たる、「勇気ある」財界人は、賃上げできる経営環境の(政府による)整備がひつようだ、と首相に向かっていったそうだが、これをいわれた首相がそのイヤミを理解できるかどうかよりも、自社を儲けさせることができない御仁が財界トップであることのナンセンスが、もうどうにもならないのである。

それでもって、この会場にいたたくさんの財界人たちが、「いやー、首相に一発かましましたな」といいながら、水割りでも舐めている光景を想像するに、いたたまれなくなのである。

まったくの妄想になるけれど、たとえば、財界トップが石坂泰三だったり、土光敏夫だったら、「政府が経済に介入するからこうなる。首相は経済対策なる民間経済活動への邪魔をやめろ」とか、「行政改革として、抜本的に経済産業省を廃止せよ」とかいって、ざまぁみろというすっきり感をあじわいたい。

 

ましてや、株主でもない首相が、どうして民間経営に口をはさむ権利があるものか。
ただし、いまや「上場日本企業群」の大株主になった、日銀総裁がいうなら話は別だ。

日銀が保有している「日本株」を、いつ、いかなる金額で「売り出すのか?」という「出口」問題は、あまりの無惨を日本経済に与えるから、国債とは別に持っているしかない、ということでの、実質オーナーの立ち位置が確定している。

この意味で、すでにわが国の上場企業は、株式会社としての機能を失っている。
日本国債の国債市場がない状態にあることと、そっくりな状況を日銀が株式市場でつくった。

資本主義とはどういう主義なのか?ということを、定義したのはなんとマルクスで、共産主義から理屈立てただけの単純理由で邪悪な主義だと決めてしまった。
それだから、じつは資本主義とはどういう主義なのか?についての議論がずっと止まっているのだ。

ただし、マルクスの親派ゾンバルトによる、資本主義発生のメカニズム解説は、あんがいとユニークでおもしろい。

ほんとうの定義が不明なまま放置されているのをいいことに、いろんな知識人が「ポスト資本主義」を語ってこられたのは、マルクスの独善的な定義に無批判で接ぎ木したからにすぎない。
だから、ポスト資本主義が、ぜんぶ社会主義になるのは、当然なのだ。

ならば、世界で最初に「株式会社」を発明したのは誰か?

オランダ人がつくった「東インド会社」が、本国から遠いために資金調達が困難になって苦し紛れに植民地のインドネシアでやったのが、人類初の「株式の発行」であった。

なんと、これを真似たのが、イギリスで、それから蒸気機関の技術革新と結びついて、イギリス本国での産業革命となったのである。
この意味で、イギリスはいわれるほどの産業資本主義の勃興に貢献していない。

「紘工業」の最初は、鉱山から石炭を掘り出して燃やす技術と、蒸気エンジンから生まれる「回転運動」をもって大量生産した「繊維産業」だった。
このために、最初コショウと阿片を目当てに征服したインドで、綿花を作らせて原材料にして、できた布地をインドに持ち込んだのである。

なお、コショウは自国とヨーロッパで販売し、阿片は清国に運んで銀をえた。
その豊富な銀を通貨にしたらたちまちインフレになるので、貴族の生活に欠かせない銀食器になったのである。

ちなみに、スターリング・シルバーの「スターリング」とは、価値あるという意味だ。
ちまたに銀があふれたので、自分で価値あるといったとかいわないとか?
なお、幕末の日本から大量流出した金・銀も、これに貢献している。

なので、阿片栽培の一部を綿花にしただけだったし、紅茶は規模が小さかった。
インドよりもっと近い、地中海でつながる中近東(本当は北アフリカ)のエジプトでも綿をつくらせたのは、スエズ運河を強奪して管理しながら、もしものリスク回避の一石二鳥だった。

そんなわけで、英・蘭の現在につづく豊かさは、当時の巨大蓄積の恩恵により、それが近年になって、急速に底をついてきた。
これが、いま両国で起きている、社会主義化の原因となる貧困化だし、両王室が妙に威張っていられる原因でもあるのだ。

七つの海を支配した「大英帝国」を、イギリス王室は自ら「帝国」とはいわない。
さすれば、「王国」なのは、ヨーロッパ人は「ローマ帝国」をすぐさまイメージしてしまい、ローマとは地縁も血縁もないことがばれることを恥とするからだ。

それでもって、英・蘭共にあくまでも「王国」なのである。

さてそれで、どうしたことか、こんなざまの英・蘭を自公政権が真似て、わが国も貧困化する努力をしているのである。

それが、社会主義化=共産主義・全体主義を目的としているとしか、かかんがえられないのは、マルクスのリニア(まっすぐな一本道)な思想の実現だと解釈のしようがないからである。

だから、安倍氏もそうだったけど、岸田氏はもっと素直に、自身が独裁的権限があるとおもっていて、賃上げせよ、と平気でいえるのである。
そんなひとに、もっと政府が補助金をくれないとできませんよとおねだりしたのが、「財界トップ」という、いまや乞食の組合長なのである。

ちなみに、わたしがエジプトで暮らしていた80年代のはじめにも、ご当地には乞食組合がほんとうにあって、乞食の子はちゃんとした乞食になるべく、幼児の段階で親が子を不具にする悲惨があった。

これを題材にした、エジプト版の吉本喜劇のような大衆演劇の上演作品があって、劇場で鑑賞したことがある。

底抜けに明るい乞食たちの暮らしと惚けた主張が、喜劇になっていたのだ。

地中海の真北にある、古代ギリシャの悲劇を超越した深刻な現代劇が、喜劇になって、乞食を卑下する身分が高いエジプト人庶民たちが嗤って観ているという絶望体験だったのである。

それが、首相からの賃上げ要請という喜劇の本質で、ほんとうは絶望的な悲劇なのである。

メルケルの「けんかをやめて」

1982年(昭和52年)にヒットした、河合奈保子の『けんかをやめて』(作詞・作曲:竹内まりや)の歌詞をそのまま思いついたのが、「メルケルの告白」だ。

まずは、歌詞のさわりを。
「けんかをやめて 二人をとめて
私のために争わないで
もうこれ以上
ちがうタイプのひとを
好きになってしまう。。。。。」

昨年12月7日に、ドイツの新聞『ツァイト(DIE ZEIT:ザ・タイム)』に掲載された、メルケル元首相のインタビュー記事が今頃に日本語での話題になっている。

昨年2月からの「ウクライナ紛争」が、ロシアによる西部4州の併合によって、「戦争」になったけど、これはまったくの「見せかけ」で、本当の戦争準備は2014年の「ミンスク合意」からだった、と告白したのである。

なんのこと?

つまり、アメリカと西側各国(EUとNATO)が、「時間稼ぎ」としてやったロシアへの「罠」だったとズバリ言いきったのだ。
この和平合意は、ロシアに有利にみえた。

しかし、われわれ(EUとNATO)は、最初からこの合意を守る気は毛頭もなく、ウクライナとNATOの戦争準備をするための「方便=ウソ」だった、と。

この記事がでたことで、ヨーロッパ主要メディアは、一大反メルケル・キャンペーンを開始して、いつものように「発言をなかったこと」とするために、報道しない自由を発動した。

けれども、当時のフランス大統領だったオランド氏も、このメルケル氏の告白をあっさり「その通りだ」と「追認」してしまったのである。

ミンスク合意の「立会人」が、EUの二大国、ドイツとフランスだったから、両国の首脳による真実がでたことで、当事者のウクライナとロシアは即座に反応した。
もちろん、ウクライナのゼレンスキー氏は無視を決め込む反応だけど、プーチン氏は怒り心頭のコメントを発した。

邪悪なアメリカ人とヨーロッパ人たちが、ロシアを分割して資源を我が物にしようと策略して、ウクライナを利用した、と。

このことを日本語で裏づける記事に、昨年11月9日付けの『PRESIDENT ONLine』で、東郷和彦氏と中島岳志氏との対談がある。
この中で、東郷氏が「こんなにうまくプーチンが引っかかるとは思っていなかった。これでプーチンを弱体化できる」と、アメリカ・ヌーランド国務次官が発言したと「聞いた」といっている。

つまり、ヌーランドが「主犯」だと示唆するものだけど、彼女はオバマ政権下では国務次官補で、なお、バイデン副大統領と共にウクライナ担当だった。
だから、メルケル氏とオランド氏の後にいた「アメリカ」とは、事実上この人物のことなのである。

ちなみに、東郷家とは、生粋の外交官一家で、祖父の茂徳氏は終戦時の外務大臣、父の文彦氏は、外務事務次官から駐米大使になった人物で、和彦氏は条約局長をつとめて駐オランダ大使(本人はライデン大学卒)といったキャリアがある。

すなわち、記事上での「見聞」も、根拠があってのものとみるのは、職業外交官の習性に、曖昧な言質をとられることはしない、があるからだ。

そんなわけで、一方的にロシアが悪い、という理屈は成り立たなくなったのだけど、欧米主要メディアの翻訳コピーした記事しかださないのが日本のマスコミなので、一概に信用できない、という日本人が多数のままなのだ。

これは、人間の心理でもあるけれど、あんがいと「鳥の習性」とも似ていて、最初に見聞きしたものを信じることにある。
なので、プロパガンダの重要な点に、とにかく早く真実がバレる前に、大量に連続的に情報を流すことが肝要となる。

そうすれば、後から真実がわかっても、ひとびとはそれを信じないからだ。

なんにせよ、メルケル氏とオランド氏の告白には、ウクライナの人々の生活がどうなろうが知ったこっちゃない、という恐ろしい意味がある。
この意味で、ナチの手先となったゼレンスキー政権も、国民がどうなろうが知ったこっちゃないし、EUも日本も同類なのだ。

この感覚は、スラブ民族に対する、西ヨーロッパ人の強烈な差別意識が深層心理にあるからではないか?
どんなに口できれい事(たとえば「人道」とか「人権」)をいおうが、彼らの野蛮な本性がしれるのである。

それは、余りにも「従順な性格」のスラブ民族(Slav)のことを、語源にして「Slave:奴隷」としたことによくあらわれている。

つまるところ、ウクライナもロシアも、西ヨーロッパやアメリカ人からしたら、いまも、どうせ奴隷だという位置付けにすぎないことを意味する。
だから、奴隷が天然資源を豊富にもっていることを許さずに、ぜんぶ自分たちのものとするのが「主人としての正義」なのである。

すると、メルケルのいまさらながらの告白の意味とは、ぜんぜん反省していないことに基準をおくと、単なる「いい子になりたい」という、これまたどうしようもない幼稚な精神がみえてくる。

「アメリカの主導に従っただけだも~ん」という責任転嫁を真顔でできる厚顔無恥ぶりに、ただ唖然とするのである。

わが国がちゃんとした国だったら、つまり国民意識が高かったら、とっくにロシア包囲網から離脱しているだろうに、ぜんぜんできないのは政治家や政府のせいだけではなく、「けんかをやめて」ともいえない国民のせいなのであった。

国家主権の放棄がESG投資

各国政府というのは、古い概念になってきている。
つまり、世界政府への主権の移動がはじまっている。

これが証拠が、ESG(E:Environment:環境、S:Social:社会、G:Governance:ガバナンスを意味する)で、国連で決まったSDGsの企業経営版にあたる。

SDGsの下に経済活動としてESGをおこなうことが、事実上義務づけられたのである。
国連加盟各国が、これに承諾して調印をした。

このことは、一部のひとしか指摘していないけど、国家主権の放棄を意味するほどの重大事だ。
この重大事が、あたかもなかったこととか、関係ないといった態度でスルーされている。

関係ないとは、国民の生活に関係ない、という意味にまでなるのだけれど、関係ないはずがない。
それどころか、直結していて、個人として逃れることができないし、個人がルールづくりに関与しないという意味でしかない。

かんたんにいえば、あきらめろ、ということの命令なのである。
誰からの命令かといえば、国連から、だから、国家主権の放棄なのである。
すなわち、国家は国連の下請け行政機関に成り下がったのだ。

これは、巨大なEUで、EUのEはヨーロッパのEだが、文字どおりUNの国連がその本性をあらわにした。
選挙を経ない官僚機構が、選挙で選ばれた各国政府に指令を出すのだから、これを世界共産化政府の樹立というのである。

北朝鮮は金日成バッジの着用を義務づけたけど、いまは、ESGに賛同する企業の社員たちがSDGsバッジを着用させられている。
これは、ESGを表明しないと、国際取引での排除を意味するからである。

つまり、ビジネス契約が継続もしくは、新規にできない。

あたかも、排他的な事業組合を、全産業に強要しているのである。
だから、全体主義である。
これら国際間取り引きのある企業の従業員は、この強制から逃れられない。

ここに、外国人も宿泊する旅館やホテルも含まれるし、外国人の利用がある国内交通機関も含まれる。
また、外国から肥料や飼料を買い付けている農業も、逃れられない。

賛同しない限り、売ってくれないし、買ってくれない。
とにかく、全産業、なのである。

それだから、投資会社は証券会社も、ESG関連株とかと称して「将来性」を謳って販売している。
「持続可能ですよ」と。

しかしてその「持続可能」とは、世界政府のことである。

国家主権を放棄したくない国や、いったん政権によって放棄した国でも政権交代したら主権を取り戻す動きになるはずだ。
このとき、国連はこうした国々に「制裁」をするのだろうか?

じっさいに、常任理事5大国のひとつ、ロシアは主権の放棄をしていない。
英国とフランスは放棄した。
中国は微妙で、アメリカはオバマ政権が放棄したのをトランプ政権がちゃぶ台返しをやった。

その恨みが、トランプ追放を画策したバイデン政権で、しつこくも共和党(トランプ派)は再度取り戻そうとしている。

EU内では、ドイツが放棄したけれど、ハンガリーは放棄を拒否した。
イタリアの現政権は、フランスを植民地支配を続けていると名指し非難して、いまや両国はにらみ合いを続けているけど、マクロン政権の基盤が揺らいでいる。

イタリアがいう、植民地主義とは主にフランスのアフリカ支配のことを指す。

1884年(明治17年)11月15日から翌年の2月26日まで開かれた、「アフリカ分割会議(「ベルリン会議」と誤魔化すこともある)」で、ヨーロッパ列強が、アフリカ大陸の分割を「決めた」のである。
仕切ったのは、ビスマルクで、当時のドイツは「第二帝国」だった。

もちろん、アフリカ人はひとりも参加していない。

これで決まった「分割地図」をみれば、どうしてベルギーがチョコレート大国なのかもよくわかる。
カカオ豆の産地をベルギーが抑えたからだ。

日本人も、チョコレートを食べるときにはアフリカ人の血と汗の苦味を感じるくらいの感性がほしい。

じっさいに、いまフランスが原子力発電大国なのも、フランスがとった北西アフリカがいまでも天然ウランの産地だからである。
イタリアはリビアとエチオピア・ソマリアの一部をとったが、この中心が「白地」なのは、ヨーロッパ人に免疫がない疫病の発生地帯だったからだ。

ムッソリーニのイタリアのリビア支配に反旗を掲げたオマー・ムクターとの死闘の実話を描いた一大歴史絵巻が、『その男ゾルバ』や『アラビアのロレンス』で有名な名優、アンソニー・クインが演じている。
けれども、ムッソリーニだけを非難してもはじまらない、全ヨーロッパ人の強欲がこの大陸を支配していたのである。

 

そんなわけで、いまどきはEUの統一だって、不安材料がたっぷりで、ことしはスペインで総選挙が予定されている。
昨年の2月の地方選挙で、いわゆる「極右」が大躍進して、ラテンの兄弟イタリアと歩調をあわせている感があるからどうなるか?

植民地主義を肯定するマスコミが書く「極右」とは、民族自決をいうひとたちで、アフリカ人の自立を認めて支援する側をいうから、やっぱり主要マスコミこそ過去の植民地主義が忘れられない邪悪で強欲なのだ。

3日に招集されるアメリカ連邦下院では、議長が誰になるのかの混沌があるように、主権を取り戻す共和党トランプ派と、主権を放棄する民主党と共和党のネオコンの争いが、内戦勃発を予想させるほどの緊迫を帯びてきた。

わが国は敗戦で、とっくに主権を放棄したので、誰が首相になろうが、なんど選挙をやろうが変わらない。
ただし、国民にも奴隷にされることに抵抗する小数派がいるので、すでに「奴隷の幸せ」を享受しているひとたちとの対立はこれから起きるだろう。

その奴隷になることの幸せ(な心理)を描いたのが、作者不明の『O嬢の物語』だった。
一応、ポリーヌ・レアージュ作となっているが、誰だか不明のままなのだ。

作品はあたかも「エロ」をもって表現しているけれど、自由を奪われることから積極的(主体的)に奴隷になることを選ぶ。
それこそが解放なのだという逆説の帰結は、あまりにも衝撃的で理解困難であった。

いま、人類はその理解困難な心理に落とし込まれる瀬戸際にある。
そして、『1984年』の主人公同様に、死を許可されることが示唆されて物語は終わるのである。