パリのパン屋さんと銭湯

かつて、パリでご町内の商売といえば、パン屋さんだった。
各町内には、かならず一軒のパン屋さんがあって、住民はこのパン屋さんから「しか」パンを購入できなかった。
そういう「統制」があったのだ。

もし、となりの町内に、おいしいと評判のよいパン屋さんがあっても、そこでは買えない。
ただし、パン屋さんからすれば、どんなに努力しても、おなじ町内の住民にしか売れないから、ふつうはそんな努力はしない。

それに、おいしくない仲間のパン屋さんたちから、組合を通じて文句をいわれるので、だいたいおなじような「まずさ」に調整した。
こうして、絶対につぶれないパン屋さんは、家業としては安泰だったが、仕事としては張り合いがないから、後継者不足が深刻になった。

そんな世の中になっていた、70年代、大型スーパーが登場した。
パン屋がパン屋であるのは、粉から練って発酵させる工程を職人が全部やるという前提の「パン屋保護法」だったけど、大型スーパーの店内で焼くパンは、冷凍食品であったからこの法律が適用されずに許された。

店内で「焼くだけ」でできる冷凍パンは、当初、冷凍技術が中途半端でベシャベシャだったから、街のパン屋の相手にならなかった。
ただ、安かった。

ところが、日本の技術を採用した冷凍パンが焼かれるようになって、業界地図が塗り変わってしまった。

町内のパン屋さんより、はるかにおいしくて安いパンが、スーパーで買えるようになったからである。
それが、後継者不足と重なって、町内のパン屋さんの廃業が続出した。

「統制」の保護下にあったパン屋がなくなれば、まじめな住民はスーパーのパンしか買えない。
あわてて法律をかえて、廃業したパン屋の代わりに近隣の町内のパン屋さんでも買えるよう許可したが、もはやスーパーのパンにかなわない。

困り果てた「全フランスパン屋組合」の組合長が、激論の末、このままでは日本のパンに我々が殺される、という危機宣言をだして、パン屋の自由化を政府に要求した。
背に腹は代えられね、ということである。

社会主義統制経済をむねとするミッテラン政権は、しぶしぶこれを認めて、自由競争がはじまった。
すると、世の中に、おいしくて安いパンが出まわって、経営に積極的なパン屋さんは、各町内に進出して規模の拡大を目指すようになった。

そうなると、冷凍パンでは勝負にならない逆転になったから、政府による統制とは脆いものなのだ。

これが40年前のフランスで起きたことだ。
しかし、わが国の「統制」は各方面に連綿とつづいている。
個人経営の酒屋は壊滅して、日本の町内といえば、銭湯が残っている。

タクシーもおなじで、地方によっては街からタクシー会社が消滅の危機をむかえて、市民の足がなくなりそうなところもではじめた。
たとえば、神奈川県の三浦市がそれだ。

もっといえば、医療・介護系はみな国家統制でがんじがらめだから、どちらさまの病院も赤字でこまっている。
市立病院が閉鎖に追い込まれるのも、国家統制のおかげだから、病人がいちばんこまることになっている。

こうした国家統制をのぞむ業界団体があって、おもいだせば獣医師会がそうだった。
この団体が、文部科学省という役所をまるめこんで、あたらしい獣医学部をつくらせない、と決めさせた。

文部科学省は、なぜだか省庁におけるランキングが低く、国家公務員試験の成績順位ビリ組が入省するといわれている。
それでかしらないが、少子化がわかっているのに大学設立を自由化したのは「快挙」ではあった。

もともと自由競争をさせればいいからで、たとえ少子化でも、設立したいと申請するのは勝手であるから認可をしたまでだ。
ところが、あたかも乱立した大学の経営が行き詰まったのを、文部科学省のせいにするという論調がたって、役所が批判の矢づらにたたされて怖じ気づいたのだろう。

もっとも、私学助成金でがんじがらめにするのが常套手段だから、おおいに役所にも経営責任がある。
これもやめていたら、学校経営者の責任だけしかないのに。

そんなわけで、ことしは東京都の銭湯組合が入浴料金10円の値上げをきめたそうだ。
このうしろには、東京都というお役所がいる。

パリのパン屋に遅れること、半世紀がたっても、おそらくこの制度は続くのだろう。
新規参入の形態が「スーパー銭湯」ばかりで、銭湯組合に入会しないのはこのためである。

業界人は、鉄壁の社会主義統制経済がだいすきなのだ。

安倍内閣の実績がないのは?

ながければいい、というわけでもないが、一年もしないでコロコロ政権がかわったころと比べたら、圧倒的な安定感だ。
議会の絶対的多数を確保しているのだから、その「安定感」には裏付けがあるし、むかしはさかんだった「党内派閥」も、いまではすっかり色あせている。

にもかかわらず、「これ」といった「実績」がない。
なぜだろう?

最大のポイントは、いまだに「国家資本主義」をやりたがっている、ということではあるまいか?
19世紀から20世紀に流行ったが、世界中で資本主義がさかんになって、とっくに「国家」が経済を仕切れる時代ではなくなった。

日本の経済体制は、戦前の国家総動員体制が戦後も温存された、という事実をわすれてしまうと、なにがなんだかわからなくなる。
なんども書くが、戦後復興と高度成長が、この国家総動員体制による政府の主導で成し遂げられた、というかんがえ自体がまちがっている。

戦後の混乱による、政府機能がそこなわれた時期こそが、日本経済の成長をうながし、朝鮮動乱とアメリカの対日基本政策の転換があったゆえの「奇跡」だった。

おカネがない政府、そして財政規律があった政府だったから、その後の「豊かな時代」における潤沢な政府予算が「ない」時代こそ、わが国経済は画期的発展をとげたのだ。

だから、いまの時代ならほんらい、政府機能をどのように制御するのか?についての「思想」がなければならない。
伝統的に左翼ばかりの野党は、とうぜん社会主義計画経済をやりたい。
ながねん政権を担ってきた自民党が、なんだかんだいまも与党で、しかも圧倒的な勢力なのは、自由主義、だという国民の期待からである。

しかし、ほんとうは自民党こそが、社会主義計画経済の推進者なのだ。

これが、民主党へ政権が移ったときの、国民の自民党への失望だったはずだが、あろうことか、民主党は、自民党よりほんの少しだけ左翼だったから、より強力な社会主義計画経済をやろうとして自滅した。

結果的に、より「まし」な、自民党に政権がもどっただけだ。
口癖のようにいう「自由と民主主義という共通の価値感」など、いっている本人にないものだから、米国のトランプ大統領に圧倒されるのだ。

そういう事情をかんがえれば、世界の四極構造のうち、日本タイプが三極で、アメリカ一極が「自由と民主主義」を文字どおりやっているのがみえてくる。
つまり、日本、中国、欧州は、日本タイプの「国家資本主義」をやりたいのだ。

日本タイプの表面上の指導者は、田中角栄だ。
中国共産党と田中角栄の関係は、角栄失脚後もより一層のものだった。
改革開放路線というのは、日本タイプの国家資本主義なら、共産党独裁政権による支配が継続できるとかんがえたにちがいない。
なぜなら、自民党独裁政権がつづいているからである。

おそらく、欧州も、日本研究の結論として、みずから日本タイプに変革することを「是」としたのだ。
それで、自由と民主主義を「いかに棄てるか?」を入念につくりあげた。

欧州は、どのような仕組みになっているのか?
じつは、むき出しの官僚支配であって、日本的要素が露骨に飛び出してしまった。

先月の欧州議会選挙で、英国のブレグジット党が大勝したことがニュースにはなったが、いまひとつピンとこないのが「欧州議会」ってなんだ?ということだ。
この議会、「議会」と名前はあるが、「立法府」ではない。

さらに、「欧州理事会」というのがあって、これは、EU加盟国の国家元首か政府の長で構成され、この中からえらばれたひとが「EU大統領」といわれてはいるが、アメリカの大統領とはちがって、ドイツの大統領のような「名誉職」だ。

すると、EUはいったいだれが仕切っているのか?
それが、「欧州委員会」だ。
この「委員」は、官僚によって構成されるから、ひとりも選挙でえらばれたひとはいない。

欧州人は、日本化するにあたって、日本より強力な欧州にするため、「優秀な官僚」による支配体制を、構造上も露骨につくりあげたのだ。
これは、各省庁が国会の上に位置するのとおなじだが、日本の実態を忠実に再現すれば、たしかにこうなる。

そもそも、日米に対抗するためにできたのがEUなのだ。
日本タイプと米国タイプのどちらを採用するか?
官僚統制の成功、いわゆる一般的な日本の成功というウソ物語を信じた欧州の決断が、おそらくこれから歴史的崩壊をまねくのだ。

アメリカを産んだ国、イギリスが離脱するのは、とっくに経済問題ではなく、思想の問題なのだ。
それを、どっちが得か?でしかかんがえられない卑しさが、あいかわらず日本国を支配している。

欧州の問題は、日本の問題のコピーなのだ。

安倍内閣にこれといった実績がない、深くておおきな理由である。

新潟と石川県の知事のちがい

なんども表明しているが、わたしは横浜市民なので、全国的に有名な質問「あなたの住んでいる『都道府県』はどこですか?」に、躊躇なく「横浜」とこたえるくちである。
神奈川県と縁遠いくらしをしているのが横浜市民である。

しかし、これは、一般住民目線からで、神奈川県の役人からしたら、おおくの恩恵を横浜市民だってうけているはずなのだから、なにをかいわんとおもっていることだろう。
しかし、この「距離感」がちょうどいいのである。

同じ日のニュースに、たまたまがあって、それがきのう、石川県知事と新潟県知事の発言が対照的だったから目立った。
もちろん、かれらをやり玉にあげたとて、神奈川県知事の低能ぶりに変化がおきることではない。

石川県知事の発言は、話題の「JDI(ジャパンディスプレイ)」についてであった。
2016年10月に完成したばかりの県内白山市にある工場の一時休止が検討されていることを懸念して、「世界的に見ても、最新鋭の工場をスクラップにするのは企業にとって大きな損失だ。企業経営者の常識としてあり得ないのではないか」と、いまさらあり得ない発言をしている。

JDIについて、このブログでなんども書いたから、いまさらだが、経産省の役人が「日の丸ディスプレイ」を「絶やしてはならない」という意味不明の理屈で、たっぷり税金を注ぎ込んでも、どうにもならなかったものを、とうとう中台の企業にたたき売りが決まっているのだ。

だから、知事の発言にある「企業経営者の常識」が、経産省のことだとすれば、さいしょから「あるわけがない」し、買取予定の中台企業の経営者からすれば、儲からないものははやくやめる、という常識がはたらいているだけだ。

知事は、JDIという会社がどういう会社なのかご存じないのか?
そこで、経歴をみたら、なんと京大法学部出で1968年に自治省のお役人さまになったひとだった。
自治省から石川県副知事に出向中に、現職知事が逝去したため、知事選にでて当選し、いまは全国最多7選中なのであった。

選挙という制度は、事実上の「官選」をごまかす制度でもあるのだ。

神奈川県にいるから、石川県のひとたちの苛立ちがなにかわかるような気がしたのは、同類相哀れむということだ。
きっとなんど選挙をやっても候補者に「ひと」がいなくて、知事を「選べない」という、哀しさなのだろうと。

ひるがえって、新潟県のほうは、県財政から「縮小はやむを得ない」という発言があった。
税収の大幅増が見込めないなか、県職員の給与削減も視野に「身の丈をダウンサイジングしていく」そうである。

残念なのが、県職員の「給与」削減になっていることだ。
給与は削減しなくてよいが、「人員」削減をしたいにちがいない。
これができないのが「公務員の身分」が確定されているからである。

江戸時代なら、幕府への「返納」という方法があった。
「未遂」に終わったが、有名なのは米沢藩の上杉家である。
もともとは、鎌倉幕府からつづく上杉謙信の家だから、おおいに新潟県に関係ある。

家康に従わなかったおとがめで、120万石から半減、跡目相続に失敗して60万石から半減、そしてとうとう15万石になってしまった。
それで、上杉家の窮乏は限界にきて、重臣会議で「返納」が決議されたのが、中興の祖「鷹山」が九州から婿入りする直前だった。

「返納」とは、上杉家の領地を幕府に差し出す、ということだ。
これは、「本領安堵」の逆である。

そんなわけで、新潟県知事が職員削減のタブーに手をつけられるのか?
おおいに期待したいところだ。

そういう意味で,「財政難」というのはよい現象である。
「自治体」という得体の知れない組織が、勝手気ままにつかっていたおカネがなくなる、というかんたんな理由で、「できない」ことばかりになる。
だから、重要度の「棚卸し」が重要になる。

ところで、新潟県知事も佐渡島出身の運輸省のお役人さまだった。
司法試験に不合格して入省したというから、東大と役人の世界でいう価値感では、運輸省が相応だったのだろう。
しかし、このひとは、係長時代に国鉄改革を担当している。

「係長」だったことが幸いしたのではないかともかんがえられるが、「JR」になる歴史的事業の渦中にいたことはまちがいない。
当時、日本一腐っていた会社をしっている。
その後観光庁総務課長もやっている。

新潟県の副知事時代、新潟空港にLCCを呼び込んで、その後知事の不祥事から知事になっているから、どことなく石川県と似ているが、なかみがちがう。

県庁のしごとをどんどんなくして、新潟県人の「役所依存」を治療できたら、後世に語り継がれる知事になるだろう。

老人の運転免許と香港騒乱

ちょうど一ヶ月前に「香港がこわれていく」を書いたが、とうとう本格的にこわれだしてしまった。
だまって香港がこわれるのを放ってはおけないと、香港の女子大生が来日し、日本記者クラブでの会見で「最も危険な法案」だと指摘しながら、「日本とも無関係ではない」と訴えたのだ。

一方の日本では、政府が高齢者の運転免許について、あらたな免許制度を創設し、安全機能つき自動車限定という制限をもうけることを検討しているという。
それにくわえて、金融庁が5月22日付けで『「高齢社会における資産形成・管理」報告書参考資料(案)』でだした、老後資金2000万円の是非が、なぜだか大議論になって、とうとう金融庁担当の麻生大臣が、この「報告書」じたいの受け取り拒否すると発表している。

まったくもって嘆かわしいほどの「残念」がわが国であって、なによりも落ちぶれたのがわが国政府である。
香港からやってきた学生の爪の垢でも「煎じずにそのまま飲め」といいたい。

政府からいかに自分たちの自由を守るのか?
そもそも、自由とはたいへんデリケートなもので、放っておけば「(政府に)奪われるもの」なのだ。
それが、21世紀のただいま現在、香港で目のあたりに発生しているのにもかかわらず、まったくの「他人ごと」だ。

このリアリティの欠如、想像力の欠如は、人類に対して犯罪的ではないか?
まったく日本国、日本人の絶望的な堕落だけがみえてくる。

老人による自動車事故で、マスコミがこぞって、あたかも「老人ばかりが加害者」にみえるような情報操作をして、これに迎合した政府が、なんの根拠もしめさずに「規制強化する」ことが、「よいこと」になってしまうわが国の空気は、すでに香港以下の自由度である。

警察庁がまとめている統計をみれば、70代や80代の老人による事故よりも、はるかに20代、30代のほうが高い発生率なのだ。
こうした「データ」をみずに、ただテレビのニュースでみた老人の事故がおおい、というすり込みを信じるのなら、「情弱(情報弱者)」は国民規模で蔓延していることになる。

さらに、そんな「情弱」ゆえに、老人の運転免許を厳しく制限していい、ということであれば、おそろしく不便な世の中になりかねないのだ。
対象年齢「全員」に影響するというリアリティの完全欠如である。

ふしぎなことに、事あるごとに上から目線で発言する、有名キャスターたちは、すっかり70代なのだが、じぶんは運転手付の自動車にのるから関係ないとでもおもっているのだろうか?
あるいは、自己所有の高級車には自動運転支援機能がついているから、軽トラが日常の足である地方の生活者がどうなろうと関係ないとおもっているのだろうか?

さらに、統計データにおける20代30代は、放置してよいのか?

まったく、あきれた議論である。
それがとうとう年金のはなしにまで飛び火した。

「年金だけ」で老後がくらせるとおもっているいるひとは、はたしてこの国に何人いるのか?
制度上、二階、三階部分がある「厚生年金」の議論なのか?それとも、一階「だけしかない」国民年金のはなしなのか?

国民年金なら、月8万円程度だから、自営業を夫婦でやってきたのなら、夫婦あわせて月16万円にしかならない。
もちろん、国民年金には「遺族年金」がないから、連れ合いのどちらかが先に他界すれば、元の8万円になる。

いまどき、月8万円の年金で生活できるとかんがえるひとがいたら、それはそれで尊敬にあたいする仙人かともおもえるが、ふつうなら生きていけない。
そうなれば、唯一の方法は、国民年金の受給を拒否して「生活保護」に切りかえるしかない。

麻生大臣というお金持ちのおつむは、だいじょうぶなのだろうか?
もちろん、国会の質問で、2000万円に過剰反応している野党の議員たちもおなじである。

つまり、このひとたちは、国民をごまかそうとして、じつは、おおいに国民をバカにしているのだが、政府が面倒みますと、すくない頭脳で言い切れるのは、自分の生活費を計算すらしたことがないのだろう。

ところが、こんな脳みそが腐ったレベルのはなしを、「もっともだ」と頷いて納得してしまっている国民が多数いるようだ。
どうやら、このひとたちが「ボケ」の症状をもっている。

こういうひとたちが運転すると危険だから、どうすべきかを検討してほしいものだが、免許更新の試験に「あなたは公的年金だけで生活できるようになるべきとおもいますか?」に「◯」をつけたひとを規制すればよいのだ。

国家依存してはいけない、と国家が誘導してこそ、まだ「まとも」なのである。
この精神があれば、なんとかなるさにはならないので、若い世代の事故も減るにちがいない。

それにしても、香港の自由が奪われれば、つぎは台湾が狙われるのは必定で、わが国近海のシーレーンが危険にさらされる。

これは、かつてない、国家存亡の危機の到来である。
日米欧で、こぞって強力に協力しなければならないのだが、わが政府の脳天気は止めどをしらず、中国との経済協力を推進するという。

この国は保つのだろうか?

「伊豆の踊子」にみる自治

電子辞書の串刺し機能をつかって、なぜか「根性」を検索したら、『孤児根性』ということばがでてきて、その出典が「伊豆の踊子」であった。
読みかえしてみたら、まえには気づかなかった表現が気になったので書いておく。

川端康成の出世作で、名作の誉れがたかい小説「伊豆の踊子」が書かれたのは大正11年から15年にかけてである。
もう一世紀も前になってしまう。
だから、なにげない表現にあんがい「生活史」がわかるものだ。

いまなら伊豆縦貫道という便利な道路ができて、東名高速の沼津から一気に半島のまん中を修善寺までいけるようになったけど、小説の時代にそんな道はなく、ガタガタ道をバスではしったにちがいない。
そして、かんじんの天城越えは徒歩だった。

学生を書生と呼んだのはいつまでだったか。
一高の制帽をかぶっている学生服姿で、足下には朴歯下駄とある。
すなわち、主人公は下駄で天城を徒歩で越える脚力があるが、だれもこれをうたがわない。
いまなら鼻緒がすれて、血豆ができるだろうから想像もできない。

そこへ、旅芸人一行の登場だ。
さしずめ「◯◯一座」の移動であろうが、この時代は芸人も徒歩である。
しかも、その社会的地位の低さは、江戸時代からの「河原者」を引きずっているし、一行の構成にもなかなか複雑な人生模様がある。

物語の本題は、もちろん、主人公が旅芸人一行にいたひとりの少女(踊り子)にほのかな恋心をいだくさまのこころのうごきなのだが、これに少女の切なさがくわわって、旅の情緒とかさなる。
名作といわれるゆえんだ。

しかし、今回注目したいのは、背景なのである。
一高生というのは、当時「選良(エリート)」として押しも押されもせぬ存在だから、ほんらい旅芸人とのかかわりはタブーである。
このタブーをものともしないのが、さいしょにある背景だ。
その理由が、主人公をして独白せしめた『孤児根性』だったのだ。

この真逆が、本宮ひろ志『俺の空』だろう。
旅芸人一行との交流があるのはそっくりだが、背景がまるでちがう。

天城の茶屋では、泉鏡花の『高野聖』(明治33年・1900年)を彷彿とさせる場面がある。
いまようの「ゴミ屋敷」は、ここからやってきたものか?

場面はとんで、アメリカのさまざまなストーリーに、「街を守る」という意識がたかすぎて、よそ者を排除したがる風習がテーマになることがある。
その典型がシルベスター・スタローン主演の『ランボー』(第一作目)だろう。

この作品も、ベトナム帰還兵という背景をおえば、派手なアクションシーンばかりがけっして「売り」ではない切なさがある。
西部劇以来の伝統で、なぜか「保安官」がでてくると、悪いヤツ、ということになっている。

しかし、じっさいの保安官は、警察機構を組織できない「郡部」における治安をあずかるひとで、立候補制による選挙でえらばれる。
これは、本国イギリスにおける「自治」のかんがえかたが、しっかりと大陸にコピーされた例でもある。

わが国では、戦前の内務省国家警察が解体されて、一時、自治体警察が組織され運営された。
わたしの住む横浜市にも、「横浜市警察」(昭和23年~30年)が神奈川県警察本部に合併するまで存在した。

ほんらいあるべき姿、からすれば、「自治体警察」というかんがえはただしいし、消防との組織統合だってあっていい。
地方郡部において、日本にも保安官制度があってもいいが、これらがみなできない理由は「自治」ができないからである。

こんなことをかんがえたのも、「踊り子たち」の旅の途中、村の入口での立札「物乞い旅芸人村に入るべからず」がところどころにある、という記述があったからだ。
小説だからつくりばなしだ、というのではなく、この手のはなしが事実だから、小説のつくりばなしが生きてくる。

「物乞い芸人」の譜系は、とおく平安時代なら白拍子にたどりつく。
このひとたちを保護したのが、伝統的に皇室だったことは、隆慶一郎『吉原御免状』とその続編『かくれさと苦界行』にくわしい。

 

それにしても、村の入口にところどころにある、というのだから、対象者たちがたくさんいたのだろう。
よくある「標語」の看板も、「できていないこと」だから標語になるとかんがえれば、土地土地の状況がうっすらとわかる「看板」になる。

芸人たちへの、村人たちや宿でのあつかいを読めば、「隔世の感」といってよい。
しかし、一行はあっさりと村にはいるし、さっそくお座敷での仕事を得るのだから、ぞんざいなようでそうでもない。
この二面性は、いまにもつづく日本人の特性だろう。

しかし、しっかりとした、ランボーの保安官のような、いい意味で独立心の強い、わるい意味で「ムラ社会」の「ムラ」として、自治がなされていたのは、交通と通信の不便さが、ほんらいの「自治」をひつようとしたからだろう。

だから、交通と通信がすっかり近代化して、「自治」をうしなって「自治体」となった「ムラ」がやることとして、村の入口に「核兵器廃絶宣言」という立札を出すようになったのだと納得した。

あれは「物乞い旅芸人村に入るべからず」の現代版でしかなかったのだと、「踊り子」におしえてもらった。

入院して現代医学の限界をしる

睡眠中だったからよくわからないが、突然に「悪寒」がやってきた。
全身がブルッとしたら、それから震えがとまらないのでこの時期なのにふとんをかぶった。
朝になって体温をはかると、40.1度あった。そんなバカな?ともう一度はかったら39.9度だった。

近所のかかりつけ医にいこうにも、からだが立たない。
昼近くになって、ようやく診てもらうと、そのまま紹介状をもらって基幹病院にいくよう指示された。
バス停まであるいてみたが、日陰の歩道縁石に座りこんで待つ時間がながい。

たった一晩で容態がかわるのは、むかしエジプトのカイロにいたころに罹ったアメーバ・赤痢で経験したことがある。
前夜、わが家でパーティーをしたが、おわりがけに微熱を感じた。
それで、お開きにしたものの、それからしばらくたって強烈な下痢にみまわれた。

昨夜のメンバーが病院にいくために迎えにきてくれたが、なんと、玄関ドアまでが遠いことか。
さらに、ドアノブに手がとどかないからカギがあかないのだ!
こんな状態になったので、乗用車の後部座席にひとりで乗車できなかった。

今回はここまではひどくないから、人間、いちどはひどいめにあっておくと、どこで精神的に楽ができるかわからない。
万事塞翁が馬、だと実感できる。
こうしたはなしを高校の漢文の授業でおしえてくれれば、すこしは役に立つだろうに。

病院での検温は、38.4度だったから、ずいぶんと下がったが、それでも8度越えだ。

そんなわけで、「検査」がはじまり、造影剤入りCTまで撮影した。
それでも40度という高熱の原因がみえず、とうとうインフルエンザがうたがわれ、「隔離」されての入院となった。

入院ははじめてではないが、ずいぶんとシステム化されている。
パジャマやタオル、それに洗面セットなど、身の回り品も購入・レンタル契約をするから、むかしのように自宅からのもちだしや売店で購入する手間がいらない。

今回のように、急に入院と決まっても、なにも困ることがない。
患者のためという裏に、看護師の負担軽減が重要なのだとわかる。
それに、身の回り品にかんする料金は、退院後自宅に別途請求がくるようにできていた。

そういう意味で,病院のシステムは、医師・薬剤師・看護師・管理栄養士・各種技師という主たるサービスにおけるシステム化と、会計システムにおける迅速性が問われることになっているから、二系統にわけられ、さらにサブシステムとして病院からは別系統のレンタル会社がぶらさがっているのだ。

だから、会計システム系統(管理系)について、外部委託している病院もおおいのだろう。
各種資材の発注・納品にかかわる業務も、こちら側になるから、専門事業として成立する。

この業務範囲における宿泊業との類似性は、いまさらいうまでもないけれど、宿泊業の事業領域に病院の管理系事務があると気づくことはなかった。

「寝汗」がこんなにもでるとはおもわなかったが、ベッドのシーツが濡れるほどで、レンタルのパジャマを惜しげもなく交換してくれた。
発汗によって体温がさがるのは実感できる。
水分補給は点滴だけだ。

翌朝には、すっかり「平熱」になってしまった。
ここでもう一度インフルエンザの検査をしたが、残念ながら「陰性」だったから、高熱の原因がわからなくなった。
それでまた、血液検査となったが、やはり不明なままである。

経過観察のためもう一晩入院となったが、夕方からは点滴すら中止となって、ただベッドにたたずむばかりとなった。

こうして、無事退院のはこびとなったが、症状軽減によることであって、原因がわからない事態にかわりはない。
これが、現代医療の限界なのだ。

とかく機械論的な発想で健康や病気のことをかんがえると、人間という動物の複雑さがわからなくなる。
じつは、現代の西洋医学で「治せる」のがわかっているのは、外科手術、抗生物質、ワクチン、というたったの三分野しかないのである。

これをなんとかしようとしているのが、「最先端」ということだ。
大騒ぎになった「STAP細胞」では、騒ぎの渦中に当事者の理研が特許申請していたり、ハーバード大学が世界各国に特許申請していたりした。
とくに、ハーバード大学の特許申請の「戦略性」が話題になったのは、利益に対する貪欲性からであって、これだけでも理研の敵ではない。

さてさて、退院時のお会計はなかなかの金額になっていた。
これで、わが国の病院のおおくが経営危機にあるとはどういうことなのか?

それは、タクシー業界に似ていて、国の役人が料金体系を決めてしまうから、実態はぜんぶ「国営」だからである。

チバニアンの理不尽

地球の歴史に日本の地名「チバ」がつかわれるからと、妙にもりあがっている。
なるほど、めったにない「快挙」ではありそうだ。
それが、一転して「反対者が借地権をえた」ことで、国際的指定が絶望的になったという。
それで、この「反対者」である大学名誉教授が、悪の根源だという話題になっている。

例によって例のごとく、いろいろな「記事」をみたけれど、やっぱり「根源」の問題がみえてこない。
どうしてこうした「おなじ」論調の記事しかないのかが問題だ、という立場から、まとはずれを覚悟して書いておこうとおもう。

そもそも、この反対者は、推進派だった。
おなじ大学の後輩「現職」教授が中心になって推進することに「嫉妬した」のだ、ということがおおかたの記事における「推論」あるいは「示唆」である。
ならば取材して確認してほしいものだが、拒否されているとすれば、そうした「推論」や「示唆」で記事を書くひとたちこそが呆れる存在だとおかんがえなのかもしれない。

だから、平行線のままになって、悪いのは「反対派」というはなしにおちついている。

わたしが注目するのは、「反対者」と「反対派」という、なにげない書きわけだ。
「者」というばあいは、前述の、かつては推進派だった名誉教授をいう。
ならば、「派」とはいったいなにものたちなのか?
もちろん、ここに「土地所有者」である「地権者」がふくまれている。

一方で、さいきんの一連の記事に出てこない当事者たちがいる。
それは、この場所を国の「天然記念物」にしようとするひとたちと、千葉県、そして地元の市原市という行政である。

チバニアンが、国際的に重要な場所をさす、ということに一般的に気づいたのは、2016年のことだ。
当時の馳浩文部科学大臣が3月5日に発表してニュースになった。
これをうけて、市原市は翌年の2017年2月に国の天然記念物指定を目指すと発表した。
そして、2018年6月15日に、文化審議会が文部科学大臣にそのむねの答申をしたのだ。

もちろん、国の天然記念物指定を目指すと発表した段階で、市原市は「地権者の同意をえる」としている。
しかし、今回明確になったのは、地権者の同意を得られなかった、ということだ。

その「なぜ?」が、どちらさまの記事にも「ない」のである。

つまり、おそらく、反対派のなかでは、反対「者」の名誉教授がバッシングされればされるほど、結束がたかまるという現象がおきているのではないか?とうたがうのである。

全員が「祝祭モード」になってしまったから、一種の「祝祭ファッショ」になって、そもそも反対なんてありはしない、という思い込みがしょうじたのではないか?
それが、行政の側に発生すると、どうなるのか?
強権的「交渉」しかないではないか?

簡単にいえば、お前の土地をお上に差し出せ、という江戸時代的「行政」がおこなわれなかったか?ということだ。
この裏には、どうせ世界的な発見がなければ、たんなる未使用地でしかないし、それはつまり「無価値」を意味する。

もっといえば、行政の担当者にとっては、そこがどんなに学術的に重要な場所であっても、決められた予算で買収しないことには仕事にならないし、そのためにはその場所の価値なんてどうでもいい、という発想になる。
それが、優秀な行政マンの本質である。

これに、上述した「祝祭」が背景にあるから、「ファッショ」になれるのだ。

そうなれば、地権者だって黙っていられないのは人情である。
こうして、「反対派」が形成され、泥をかぶるのが確実の代表者に名誉教授がなったから、登記をともなう「借地権」が設定できた。

以上のようなシナリオを「推定」するのである。

このシナリオが意味するのは、「地元」行政がまったくなっていないことはもちろんだが、おそらく観光関係者にもおおきな夢を与えたろうから、そうした関係者が推す議員たちもだまってはいなかったはずだ。
このひとたちが、もっとも烈しく反対派を罵倒していることだろう。
つまり、損得勘定なのである。

ジオパークの貧困について前に書いたが、チバニアンがたとえ国際認定されなくても、その価値が減るわけではない。
それを、現職の学会が焦りをもった圧力を地権者(反対派)にかけるのは、学術をこえた行動である。
気持ちはわかるが、土地の権利に気がつかないほどの「専門バカ集団」なのかとついでにうたがう。

天然記念物なのかジオパークにするのかしらないが、「国際的登録」とならなければ「無価値」だという極端発想が、やっぱりファシズムをうむのだ。

そもそも、どんな「展示」でどんな「説明」をだれがどうやっておこなうのか?すら、よくわからない。
だから、「国際的登録」ができたとしても、ジオパークの貧困が改善されることはないのだろう。
いったいなにをもって「理想」としているのか?
関係者たちの「軽薄さ」が、明瞭に「発見された」事案である。

チバニアン饅頭だけがむなしく売れたかもしれない。

「超」先進国

わが国はとっくに経済では先進国とはいえなくなっていて、過去のなごりでなんとかしているけれど、特定分野において「超」がつく先進国ではある。
この「超」には、「人類史上初」という意味がある。

たとえば、高齢化社会になることは時間の問題として確実で、その人口構成における高齢化率が、「超」高齢化することになっているし、このことの分母における「超」として、人口減少がある。

ただし、少子化の原因とされる、特殊出生率にかんしては、韓国、台湾のほうがひくいから、少子化にかんしては「超」ではない。
わが国の「超」人口減少は、団塊の世代という終戦直後生まれの「超」高齢者たちが寿命をむかえることで、平時における世界史上初の人口減少社会になるのである。

これに、経済の分野でも「超」があって、ふつうに「マイナス金利」といっているけど、じつはこれも「人類史上初」のことだ。
金利の歴史からすれば、年率3%をしたまわることじたいが、400年ぶりということだが、それ以前の人類に「金利」という概念があったのだろうか?

さらに、この「マイナス金利」を実施した日本銀行という「中央銀行」が、「債務超過」になる危険性をおびている。
印刷物の日本銀行券とひきかえに、日本政府発行の国債を購入したばかりでなく、東京証券市場の株式を、どちらも大量購入した。

国債の価格は金利と直結していて、金利があがると国債価格は「下落」し、金利がさがると国債価格が「上昇」するのは、国債が発行されるときに、利率と償還期限がきまっているからである。
くわしくは、国債価格で検索されたい。

マイナス金利を実施しながら、2%のインフレ目標をかかげた日銀にとって、この目標が達成されると、保有している国債の価値が減ることになる。

さらに、金利があがるとふつう株式も下落する。
企業業績が心配されるし、おなじおカネを投資するなら、株式よりも安くなった国債のほうが有利になるからである。

日銀には、「通貨発行利益」があるからたとえ債務超過になっても「だいじょうぶ」と、先日、若田部日銀副総裁が発言している。

ここでいう、「中央銀行の債務超過」も、「超」なのだ。
それで、だいじょうぶという論と、だいじょうぶなはずがないという論とにわかれている。
人類史上初だから、どうなるのかの「前例がない」ので、議論が平行線を維持しているのだ。

ここまでが、国内の「超」である。
しかし、われわれは鎖国しているわけではないから、同時並行的に外国ではなにが起きているかに影響される。
人口のはなしは関係がうすいが、金利や経済にまつわるはなしはそうはいかない。

ただし、人口のはなしでも、自然増減と社会増減があって、社会増減のほうは、金利や経済に影響されて「移動」する。
富裕層を中心に、海外移住がブームなのは、このことを指す。

さて、世界に多大な影響をあたえる「超先進国」(超にカッコがない)は、だれがかんがえてもアメリカ合衆国である。
このアメリカ合衆国の人口構成の将来も、なかなかで、こんご四半世紀あまりで白人がマイノリティ化する可能性がたかいという、米国の国勢調査の予測がある。

さいきんの米国凋落論は、これをベースにしている。
これに、中国では、ひとりっ子政策による人口減少がやってくるから、経済力で現在世界トップ3の米中日では、それぞれの国内に「人口減少」という問題をかかえている。

これが、いまさかんな「米中経済戦争」の根源的問題ではないか?
世界覇権という「うまみ」を、維持したい国と奪いたい国とのあらそいだが、それがなぜ「いま」なのか?の理由になるからである。

台湾が深刻な様相で、なんとかアメリカの同盟国に昇格したいのも、台湾自体の人口減少が「超」であるからだが、なぜか韓国はちがう方向なのは、たまたま現政権の志向であるから、政権がかわればまた変わるだろう。

すると、こまったちゃんはわが国である。
こうした「動き」の表層しかみない、という傾向は、なんともゆがんだ上から目線なのだ。
あえていえば、韓国の現政権にちかい。

中国は、乾坤一擲、いましかチャンスがないとかんがえているふしがある。一種の焦りともかんがえられるからこわい。
これに対する米国に、トランプ政権が対峙しているのは、歴史の「妙」である。

わが国をアメリカ人が正直に「定義した」のは、カーター政権の国務長官だったブレジンスキーの『ひよわな花日本』(1972年、サイマル出版会)がある。

どういうわけか、わが財界は、またまた中国に加担したいとかんがえていて、これに与党自民党が同調している。
天安門事件を「なかった」と放送したのは、わすれもしないNHK「クローズアップ現代」であったし、世界から経済制裁をうけたなか、わが国政府だけが「支援」した。

その見返りが、尖閣なのだから、目も当てられない。
共産主義者はダブルスタンダードが基本だから、恩を仇でかえしてもなんともおもわない訓練をうけたひとしか幹部になれないことがまだわからないのか?

今日はその、天安門事件から30年の日なのだ。

あいかわらず、日本政府の「超」がつづくのは、売国行為ではないのか?

お客様は神様の神様とは誰か?

オリンピックのチケット抽選がはじまって、つぎは大阪万博だという気分の盛り上がりは、担当する役人にはあるだろうが、あまりの手続きの面倒さに、チケット抽選申込みをあきらめたわたしはいま、かえってしらけている。

過去の栄光に「しがみつく」日本経済を象徴するのがこのふたつのイベントの現代的意味であろうけど、それにしても無頓着な大盤振る舞いは、おカネが天から降ってくるとしか想像できない役人ならではである。

これに「地元経済界」がいっしょになって盛り上がっているすがたをみせるのは、まるで学校の文化祭でお化け屋敷をやるときめて張り切る側で、一般人は、なんで文化祭でお化け屋敷なのかがわからない側のようである。

経済成長まっただ中だった前回の大阪万博のテーマは「進歩と調和」という社会主義の栄光がうたわれたから、ちゃんと「ソ連館」もできた。
だから「全方位外交」の成果なんてことではなかった。
冷戦期のあだ花のような祭典だった。

これを企画した通産省の担当官は、堺屋太一だったから、わたしは彼の発想をずいぶんと疑っていた。
こんどの担当官はだれで、どんな発想の持ち主なのだろうか?

ただただ、快晴の青空に抜けるような三波春夫の「こんにちは、こんにちは♪」だけがいまも耳の中できこえる。

その三波春夫といえば、「お客様は神様です」という名文句がある。
彼の歌手(エンターテナー)という商売からすれば、舞台を観に来てくれたお客様をうらぎったら、どんなことになるのか?という意味だったかにおもえるが、あまりのわかりやすさに、例によって言葉の上っ面だけがひとり歩きしだしてしまった。

それで、どちらさまも、「お客様は神様です」といわないと、なんだかすわりがわるくなった。
ところが、そこがことばの本質で、ことばにしていっているうちに、だんだんと意識が同化してしまう。

そして、日本語でいう「神様」とは、八百万神のことを指すので、神頼みすると、人間のいうことをかなえてくれる感覚ともかさなるようになる。
だから、お客様の要望なら「無条件」にききいれれば、そのお客様がじぶんたちの願いをかなえてくれる、と信じたのである。

いっぽう、お客様の側も、さいしょはなんだか気恥ずかしかったが、だんだんと持ち上げられてきて、それが「あたりまえ」になったら、正々堂々とクレームをいうことが当然になってしまった。

こんなことから、神様と持ち上げる → だんだん神様になる をくりかえして、とうとうほんとうに「神様」になってしまった。

ところが、いぜんとしてその神様たちから願いごとの御利益がやってこない。
きがついたら、所得移転してしまって、提供者が貧乏になった。
この提供者に、材料を提供しているひとも、理不尽な値下げ要求に屈したから、やっぱり貧乏になった。

それがしゃくにさわるとおもった流通業が、レジ袋を有料にしたのだろう。
「環境問題」というあさってのトンチンカンで、流通業を後押ししてくれる役所は、流通業からなんとおもわれているかしらないが、レーニンふうにいえば、「役にたつ白痴」ということだろう。

英国で発祥して米国にも移転した資本主義は、キリスト教的清貧の精神が転化したものだという論がある。
よくみれば、アメリカの有名大学のおおくは私立大学で、そのまたおおくがキリスト教系ばかりなのである。
そんな学校が、世界のMBAを養成している。

キリスト教も、ユダヤ教も、イスラム教も、旧約聖書をおなじくするから、「神様」といえば、これらのひとたちからすれば「おなじ神様」しかうかばない。
この神様は、絶対神だから、人間のいうことをきいてくれることはほとんどない。

神様がかってにきめたことのなかに、たまたまいくつか人間にも都合のよいことがあっただけだ。
だから、「あゝ神様、神様はどうしてこんなにも神様をお慕しているわたしのいうことをお聞き及びにならないのでしょう」となげいても、せんない相手なのである。

そうすると、三波春夫のいう「神様」だって、「そっちの」神様のことではないか?

だから、御利益など最初から期待してはいけない。
一歩引いてみないといけないのだ。
すると、たまに神様と一致点があるかもしれない。

ならばこれを、たまにではなくて「いつも」に近づけたい。
これが、マーケティングの発想である。

三波春夫は、自身のマーケティングとして、「お客様は神様です」をやったのであって、全員がまねしてはいけないものなのである。
いいかえれば、マーケティングの「三波春夫モデル」となる。

げに恐るべき大スターではあった。

動物愛護法改正案の混乱

なにやら不思議な法律があって、5年に一回の改正パターンが「決まっている」のが動物愛護法である。
どうして5年に一回となっているのかしらないが、役人が起草する政府案がもとではなく、議員立法だという「決まり」もあるから「はてな」がつづく。

どういうわけかわが国では、議員立法というと「格落ち」の感がある。
立法府にいる議員の主たるしごとは「立法」なのであるから、議員立法こそが本業発揮のバロメーターになるはずなのだが、役人案である政府案の追認こそがしごとになっているという本末転倒が、政治の貧困のわかりやすい例である。

何期も連続して当選しても、生涯一回も議員立法の提案をしたことがないひとはだれか?とか、ことし上半期の議員立法提案議員ベストテンとか、ワーストテンを報道するのが報道機関(政治部)のせめてものやくわりではないか?

そのうえでの「政局」ならまだしも、新聞の政治欄が政局「だけ」だから、週刊誌とかわらない。
新聞は週刊誌よりも高級だというのなら、ちゃんと「戦略」をかたれる政治家を育ててほしいが、明日の戦術「しか」質問しないから、その程度の集団におちついてしまう。

外国人記者のような「戦略」をきく鋭い質問をするひとが記者会見場にだれもいなくて、パソコンのタイピングの音しか聞こえない不気味さは、なんなのだろうか?

ICレコーダーで録音した音声を、あとで自動的に文字おこしさせればよくないかとおもうが、きっと自分がそこにいる意味がないからタイピングのはやさと正確さを競うしかないのだろう。
日本の記者は、ろくに質問もしない、たんなる高速タイプライターでつとまるようになっているので、AIに代替される職業になるだろう。

前回の動物愛護法改正で残った問題も、たくさんある。
なかでも、「ペット(愛玩動物)」の流通がおおきな問題になっていた。
もはや、人間の子どもよりペットの犬や猫のほうがたくさん生きているのがわが国の実態である。

それで、ペットといっしょに旅行もしたい、という要望から、ペットと泊まれる宿が、全国にひろまった。
そこでは、ほとんど人間並みのサービスが要求されるから、ペットがよろこぶ宿でないと、リピートしてくれないことになる。

「ペット流通」の問題点は、供給面とアフターケアという入口と出口にある。
供給面では、子犬や子猫の「販売」にかかわることで、アフターケアとしては、飼い主の高齢化と老犬・老猫の対策であって「動物愛護センター」での殺処分ゼロと里親さがしのはなしになる。

こんかい炎上したのは、供給面である。
およそペット先進国といわれる外国の「常識」に、「8週齢規制」がある。

これは、うまれたばかりの「子犬」や「子猫」における、母親と兄弟たちとの生活における「社会化」が、「8週齢」までのあいだに形成されるから、それまでに引き離して個体のあつかいをしないというルールである。

このルールによって、社会化を経た個体とそうでない個体への躾(人間社会で暮らす方法の教育)の効果がことなるという。
だから、しあわせなペットとしては、社会化経験の有無が、その後の一生を左右する問題になる。

人間の寿命が延びたけど、犬の寿命も延びている。
人間が80歳をこえるレベルで、犬は15歳から20歳ということになるから、犬にとっての時間は人間の4倍以上ですすんでいる。

だから、8週齢とは、たったの1週間×4×2、という計算ではなく、さらに4とか5以上を掛けないと、人間と比較できない。
つまり、ほとんどヒトの1年に相当するのだ。

この8週齢規制を、日本犬(6種:柴、秋田、甲斐、北海道、四国、紀州)は除外して、7週齢でも取引を可能とする「付則」をつけることが急遽きまったというニュースから、各動物愛護団体が猛反発したのだ。

理由は、「天然記念物」だから、ということだから、よくわからない。

それにくわえて、この規制「緩和」をしたのが、公益社団法人「日本犬保存会」(会長=岸信夫衆院議員)と同「秋田犬保存会」(会長=遠藤敬衆院議員)だと明記して「報道」した。

理由の取材があいまいなままで、安倍首相の実弟の名前をあげている。
あたかも、供給者の都合に配慮したようにおもわせるが、実態が報道からはわからない。

つまり、緩和の理由がよくわからないままで、ある方向に仕向けることをしているのだ。

もちろん、字面をよめば動物愛護団体の猛反発はわからないではないけれど、なんだか踊らされている感もある。

まことに報道の質のわるさが、社会に迷惑をもたらすものだ。
これを「偽善」というのではないか。