日本には「近代政党」が二つある

わが国が「近代国家ではない」ことのわかりやすい事例が、「近代政党」の存在を確認することでわかる。
おもだった政党が、どれも近代政党ではない。
これは、明治以来、一貫しているので、いまも「近代化」しているのがわが国だともいえる。

つまり、国家の基盤中の基盤である政治体制という最上位のレベルで、わが国は「発展途上国」なのだ。
近代国家を前提としたはなしが浮いてくるのは、このためだ。

経済発展に目がくらんで、あたかも「近代国家」だと思い込んできたが、ぜんぜんちがう。
いま、GDP世界第二位という国の「後進性」が批判されているが、彼らの独裁政党は、なんと「近代政党」なのである。

では、近代政党とはなにか?
要件は三つ。
これら三つを全部みたさないと「近代政党」とはいわない。

・「綱領」があること
・「組織」があること
・「議員」がいること

最大の問題は、「組織」の中身である。
・組織には、独自のシンクタンクがあること
・組織は、党首からの指令で活動すること
・組織は、候補者を選ぶこと

の三つがある。

すると、わが国最大の自民党は、近代政党ではないことがわかる。
表面上は三つの要件を満たしているようにみえるが、「組織」の中身を満たしていない。

独自のシンクタンクをもたず、これを「官僚」にやらせる。
だから、党による政治は実現せず、役所による政治が実現する。
選挙を何回やっても変わらないのはこのためだ。

独自のシンクタンクをもたないから、党首による指令よりも、中央官庁の指令(省令からはじまって課長通達まで)に依存する。
そして、なによりも候補者を党員組織の選挙できめない。
「予備選挙」という概念が、最初からないのである。

そんな「組織」だから、「議員」は独自の「後援会」という「組織」をつくるしかない。
これが、「地元」において、国会議員-県会議員-市町村議員というピラミッド型組織となる。党の組織ではなく、議員個人の組織だ。

市町村議会選挙で、おなじ党の隣町の候補者がじぶんの街で外宣すると「攻めてきた」というのは、党組織ではなく、議員の後援会組織で選挙をやるからだ。
けっして党本部からの指令でうごかない。

そうすると、わが国であまたある「政党」で、「近代政党」といえるのは、公明党と共産党の二党「だけ」であることがわかる。
この二党は、党本部からの指令でしかうごかない。
ただし、党首も候補者も、どうやって選んでいるのか、外部からはわからないから、やっぱりちゃんとした民主主義の「近代政党」ではない。

すると、全滅だ。

全体主義の国における「選挙」は、民主主義の国における選挙とことなるのは、候補者を「選ぶ」のではなくて「信任する」という「過程」としておこなうことにある。

組織がA氏を候補者として選んだから、信任に同意するのかしないのか?を問う。
A氏かB氏かを選ぶのは党であって、党員ではない。
それに、党にとっての最優先は、党への忠誠であるから、組織構成員である党員の「優秀さ」とは頭脳のことではない。むしろ頭脳は忌避される。

「ソ連時代」に「ノスタルジー」がある現代ロシアで、旧党員たちが胸に勲章をこれでもかとつけて真顔で並んでいる光景がネットに多数アップされている。

みんな老いてはいるが、男女とも顔に刻まれたシワをみれば、どうして「党員」になれたのか想像できる。
もしやかつての「農奴」たちではないのか?
頭脳よりも忠誠を重んじることが、実践されたことの証拠だ。

「信任しない」のは、「反党行為」だから、全員一致で信任することに意義がある。結束の確認こそが「選挙」なのだ。
だから、「党」=「だれか」にしないときまらない。
独裁者が生まれる必然がここにある。

全体主義は、近代が生んだ「悪魔」だというゆえんだ。

いま、わが国が全体主義の国になる、といえば誰もが信じない。
そんなわけがない、と。
しかし、わが国の「非近代化状態」は、冗談ではなく「危険」なのである。

「効率」をもとめると、「試行錯誤」が「非効率」にみえる。
それが「国家総動員」の「計画経済」=「統制経済」を産んだ。

しかし、「神の見えざる手」のごとく、あるいは、ミーゼスが数学的証明をしたように、もっとも効率がよいのは「試行錯誤」を全員がする自由主義による社会なのだ。
かならずだれかが、いまよりも「うまいやり方」をみつけだすからである。

したがって、全体主義のリーダーシップは、トップダウン型で、党員は究極の「指示待ち」をもってむねとする。かんがえるのは「党」だからだ。
自由主義のリーダーシップが、構成員の「能力を引き出す」ことを第一とするのと、真逆のベクトルなのである。

戦後の成長は「奇跡」だったが、それをわすれて、日本人が必至に働いたからだと思い違いしている。
・安い石油
・冷戦構造
・朝鮮動乱
の三つがかさなる歴史的ラッキーがつくりだした奇跡だった。

豊かになったのは役所もおなじ。
つかえるお金がたくさんできて、役人たちが「効率」を「計画」しだす。
これこそが、「計画経済」なのである。

「試行錯誤」が科学技術の歴史であるのに、役人が「効率」をもとめるから、「試行錯誤」させないで、わかりきった「先端技術開発だけ」に予算を投じる。
それで「ソ連」がだめになったことを知らんぷりする。

中国人がすごいのは、民間に試行錯誤をやらせていることだ。

なんと、全体主義の国から学び直しがひつようなまでに落ちぶれたのがわが国だ。
だから、政治も「効率」のまねっこをすれば、悪魔の「近代政党」に支配されるようになる。

いまさらだが、手本にすべき思想の選択をまちがえてはいけない。

わが国の凋落は、役人による「計画経済」=「統制経済」の体制になってしまったからである。

企業内でも、全体主義の統制体質と、自由主義の試行錯誤を容認する体質がある。
「組織のつかいかた」のちがいである。

どちらが、業績も優良でしょうか?

「どんど焼き」ができない

正月飾りを焼いて、この火でもって焼いた餅を食べる風習がある。
ちょうどいまごろ、神社の境内でよく行われていたものだが、大ウソだった「ダイオキシン報道」以来、たき火が禁止になってできなくなっている地域もある。なにが「猛毒」のものか、あほくさい。

あれだけ騒いで、とうとう謝罪もせずフェードアウトしたけれど、世間に日和る自治体に「たき火禁止」の条例だけは、ちゃんと残った。
まさかこれで、消防行政が署員の「火事場太り」させていないか?
わたしの家の墓がある、平安時代からのお寺でも、近所が開発されて卒塔婆のお焚き上げができなくなった。

以前は境内に幼稚園もあって、落ち葉たきで焼き芋をしていたが、禁止になってしばらくしたころに幼稚園も廃園した。
住職は、童謡の「たきび」を歌いながら焼き芋をみんなで食べたものだったが、歌はうたえてもたきびをしらないで育つのが残念だといっていた。

しかし、卒塔婆のお焚き上げ、は宗教儀式でもある。
これに「禁止命令」をださせるとは、行政による「宗教弾圧」ではないかといったら、手を振って「そんなこと役所にいえません」という。そのかわり、申込数を少なくしてほしいという案内が寺からとどいた。

卒塔婆は「産業廃棄物」になって、もちろん有料で引き取られている。
国会だけでなく、地方議会も深い眠りについている。

ネット配信されたニュースによると、ワイドショーに出演しているお笑いタレントが、お焚き上げも焼却炉で焼くのもおなじこと、と発言したのが話題になっているという。
なによりも「分別」が必要だという主張で、記事も、やっぱり「地球環境優先だ」としめくくっている。

ぜんぜん「お笑いごと」ではない。

このひとたちは「日本に住んでいてよかった」とおもう。
もしも、アメリカ合衆国でおなじ発言をしたら、たいへんな目にあうだろうけど、それも想像できないのだろう。
もちろん、この発言者や記事をかいたひとを支持するひともふくまれる。

アメリカ軍がつくった日本国憲法とほとんど内容がちがうアメリカ合衆国憲法でも、信教の自由は保障されていて、「国教」という概念を否定している。

本国の英国から逃れてきた、「清教徒」のひとたちがつくった国なのだから、当然といえば当然だ。
ヘンリー8世という「怪人」が、英国国教会をつくらせて、ローマ・カトリック教会から離脱した。

ロンドンの二大聖堂、ウエストミンスターとセントポールは、前者を王家の菩提寺とし、後者を市民のためとしている。
セントポール大聖堂では、チャーチルとサッチャー首相の葬儀がおこなわれ、チャールズ・ダイアナの結婚式もここだった。

さいきんでは、トランプ政権が「宗教の自由」を強調している。
これは、国際的に「チベット」や「ウイグル」を意識しているのはあきらかだ。
国内的には、支持母体にかかわる「福音派」の優遇ともいわれている。

アメリカ合衆国という国は、宗教的基盤にある「人工国家」だから、「自由」と「民主主義」よりもまえに、「宗教」がある。
これをわすれたら、はなしにならない。

たしかに、日本人の宗教観は世界的にも「特殊」だ。
ほとんどのひとが、日常生活で宗教を意識しないが、いざとなると「神だより」に豹変する。
そのとき、困りごとにいちばん「効きそうな」神社仏閣にいって拝むのである。

つまり、日本人にとって、「神」や「仏」は、じぶんのために存在していて、じぶんのおもいを実現してくれる存在なのだ。
もっといえば、人間のためにある、神が人間に奉仕する、とかんがえている。
それでいて、じぶんはとくに信じるものはないとして「無宗教」だと思い込むから、論理がつながらない。

旧約聖書にもとづく「神」は、絶体という。
これは、存在自体が絶体だし、ましてや人間どころか万物を支配しているのだから、「御心のままに」なのであって、じぶんのおもうとおりになにかをしてくれる存在ではない。

だから、もし、神に頼み事をしてそれが現実のものになったら、どんなにちいさなことでも、それだけで「奇跡」なのである。
敬虔なひとが、えっそんなこと?とおもうようなことでも、いちいち胸のまえで十字をきるのはこのためだ。

自然崇拝からはじまるので、わが国では「八百万神」が、あらゆるものに「宿る」という発想がある。
それが、物資がないことがふつうだったことといっしょになって、「もったいない」になった。

世界でただ一国、地球環境保全に妙に執着して熱心なわが国の行動原理は、地球環境と自然崇拝とが連結しているからであろう。
けれども、これが「ゆがんで」、地球環境だけがまえにでてきた。

このタレントは、「神社にはよくいくけど、神様なんて信じていない。だから、お焚き上げとしてどこかで燃やすのなら、焼却炉でかまわないし、分別がいちばん大事。」という。

もはや「日本人」ではない。
これを当然とする記者も、支持した読者もおなじだ。
ましてや、アメリカにもいけないし、アラブにもいけない。
申し訳ないが、彼らの感覚なら、「人間ではない」ことになる。

ふつう、こうしたひとたちを「唯物論者」というのだ。

そういえば、「除夜の鐘」すらはばかれるようになったし、正月三が日だって、鐘撞き堂の鐘を自由につけなくもなった。

ヨーロッパのおどろくほどにぎやかな鐘の音や、中東アラブのスピーカーから大音響での祈りの声に、「うるさい」とクレームをする勇気なんてこれっぽっちもないものが、なにをじぶんで発言しているのかもわからないのだ。

いつの間にか、飛行場の騒音問題とおなじにされて、千年以上まえからある寺院の近くに住まうとき、お焚き上げも鐘の音にも気づかない無神経が、なにをいうかと嗤われない世の中である。
ダイオキシン報道とは、伝統文化破壊のプロパガンダだったとおもう。

すでに300兆円(30ではない)ともいわれる金額を「環境」につかっているともいわれるが、自然崇拝のためではなく「利権」のためだ。この利権は、国内外ともにある。
こうして、真に生産的な投資をしないので、貧乏になっている。

わが国は、国を挙げて「唯物論者」を増殖させて、「権利」だけを主張したら、それが「いいひと」になっている。
これをもって、日本版「文化大革命」が進行しているといえるのだ。

プラハ市の決断は連鎖反応に?

「姉妹都市」を結ぶという、地方自治体による「外交」がある。
都市の住民交流という「文化性」がおもな柱であるから、国家間の「外交関係」とはことなる次元にある。
国家間なら「条約」が、姉妹都市なら「提携書」がむすばれる。

昨年の10月に、チェコ共和国のプラハ市が、これまで提携していた「北京市」との姉妹都市を解除した。
そして、一昨日の14日に、「台北市」との姉妹都市提携書を締結したことがニュースになった。

チェコは、もともと「チェコスロバキア」(表記としてチェコとスロバキアの間に「ハイフン」をいれない)だった。
建国は1918(大正7)年であるから、ようやく百年。ヨーロッパの「複雑性」がこれだけでもわかる。

第二次世界大戦のヨーロッパ側での「原因」のひとつ、「ミュンヘン会議」(1938年)で、この国の「ズデーテン地方」のドイツへの帰属が認められ、国家の「解体」がはじまる。
われわれ日本人がしっておくべきは、「ミュンヘン会議」における「出席者」に、当事者のチェコスロバキア代表が「いない」ことだ。

これは、1772年から1939年まで、なんと5回もおこなわれた「ポーランド分割」もおなじだ。
周辺の「強国たち」によって、「勝手に自国が分割」されてしまうことがあるのだ。当事者の小国は哀しいかな「さからえない」のである。

とうぜんに、国民は悲惨な目にあうが、それすら国際社会はみない振りをするのである。
なんとこれが「国際法」ということになっている。

つまるところ、強国は「国際法」を「破る」ことで、強国たらんとする行動をとることも、国際法は「内包」しているとしるべきだ。

犬社会における「ボス」だけが、群れの低位の犬がとらえたエサを横取りしてもゆるされるのとにている。もちろん、このばあい、低位の犬は抵抗できないし、抵抗をゆるされない。
けれども、犬の記憶力は都合よく、この理不尽を忘却するようになっているから、ストレスにならない。

家庭の愛玩犬におきる「問題行動」のほとんどは、飼い主が、じぶんが「ボス」であることを犬におしえないために発生する、「精神疾患」といわれる。
おおくの犬は、ボスに依存したい欲求があるから、その欲求不満が強いストレスになって「問題行動」になっているだけなのだ。

その意味で、犬をコントロールできる飼い主は、強国とおなじ行動を犬に対して「できる」ひとである。
だから、戦後の日本人は、犬もまともに飼えなくなった。

すなわち犬をコントロールできないのは、じぶんが「弱小国の発想」と行動パターンをしていることを犬に見破られてしまって「問題行動」を、飼い主が犬に起こ「させている」のにも気づかない。
「毅然とした態度」が、なんと犬に対してさえもできないのだ。

「やさしさ」が「仇」になることがある。
それは、勘違いのやさしさなのである。

「プラハ」といえば、1968年の「プラハの春」が連想される。
背景にあるのは、「スターリン批判」による「精神ショック」だ。
強制的に「悪」を「善」とする全体主義において、「絶体善」であったはずのスターリンが、「悪」とされたから、「なんだったんだ」になった。

これも「強制」をともなう価値観の転換だから、犬の群れにたとえれば、「ボス」の交替で、犬たちにはありえないことがあたらしいボスによって強制され、犬たちが「問題行動」をおこしたようなものだ。
ぜんぜん、いいたとえではないが。
ただし、人間は都合よくわすれはしない。

しかし、現実におきた「プラハの春」は、ソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍による軍事介入にまで発展する。
これで、チェコスロバキアは全土を占領されてしまうが、市民が無差別に殺戮される過程があった。

なので、プラハ市民には、わすれることができない事件なのだ。
それで、「人間の顔をした社会主義」が「正義」となった。
鉄のカーテンの内側では、ここまでが「限界」だった。

それから、とうとう、東欧の自由革命となってチェコスロバキアも自由化された。
力のたががはずれたのを機に、チェコとスロバキアは別々の国になった。

ソ連圏内での「分業体制」で、工業を割り当てられたチェコには工業力がある。
この経済力と、プラハの春で英雄になった人物が投獄の経歴をもって「初代大統領」になってソフトランディングに成功する。

いまの大統領は、「親中路線」を突き進んでいるが、プラハ市長は初代大統領の系統にある。
それで、今回のニュースになったのだ。
つまり、筋金入りの「人権派」ともいえる。

根っこに「プラハの春」があるから、東欧圏では理解がはやいはずだ。

はたして、「シラッと顔の社会主義」をやっているわが国では、他人事である。
ふだん「人権」を「口にする」ひとたちの仮面が剥がれるときなのだが、全員が仮面をかぶっているから剥がれもしない。

日本社会党が衰退をはじめたのは、「プラハの春」の悲惨な顛末である市民殺戮に「加担」したからともいわれる。
このときから「仮面」が剥がれないのは、もう顔に食い込んでとれないのだろう。「拉致」を認めなかったのがこれだ。

カジノ反対運動が、市民投票実施派と市長リコール派とに分裂している横浜市は、「大連港」「上海港」という「港」を相手にしながらも、「上海市」と「北京市」ともに姉妹都市になっている。
注目は、2006年に「台北市」と提携していることだ。

つまりは、中田市長二期目のスタート時にあたる。
「基隆港」がないのが不思議だが、地方都市による台湾重視は、もっとあっていい。

はたして連鎖反応になるのか?
世界は?国内は?
あたらしい「踏み絵」になるかもしれない。

水素自動車をやめて通貨発行を

いまやわが国を代表する俳優が、わが国を代表する企業の広告・宣伝に一役買っている。
自動運転まではガマンできたが、「水素自動車」にはガマンできない。

ライバルの日産が、「技術の日産」といってルノーにお世話になって、ゴーン社長時代には「技術の日産」をやめていた。
ところが、またまた「技術の日産」とやりだして、ゴーン氏もろとも会社もコケてしまった。

「技術の日産」といってはいけないワケがある。
それは、このブログの記念すべき第Ⅰ号記事で書いた。

ぜんぜんコケないのがトヨタ自動車だ。
国内に敵なし、どころかしっかり資本提携して、優良どころはみな「ケイレツ」になっている。

そうでないところを「バルク」のようにまとめて、売却を画策したのが、いつでも何度でも懲りない経産省だから、ここまでくると、「国民の敵」である。
その争奪戦が、「ルノー」か「プジョー・シトロエン・クライスラー」の争いだったから、プジョー以下を押す経産省に対抗するルノーのゴーンが狙われた。

日産をルノーが買収する計画は、「バルク」購入後のための前段階にすぎなかったと、本人がレバノンでかたっている。
ルノーは「公団」だったから、ミッテランのように「国営化」をすすめるいまの若い大統領と、日本政府(経産省)の闘いだった。

ようは、社会主義政府どうしの同士討ちなのだ。

こんなことには目もくれない、トヨタ自動車はさすがだとおもっていたら、「水素自動車」というからおどろいたのだ。
あろうことか、社長がみずから「水しか排出しない」という。
ハイブリットも電気も、そして水素も、ぜんぶ「走っているときだけ」がクリーンにすぎない。

なるほど、「ハイブリット自動車」を「二十世紀に間に合わせた」だけのことはある。
しかし、いったいいくらの「補助金」を、経産省や環境省、ついでに国交省からもらっているのか?

名古屋にある「豊田産業技術記念館」にある、佐吉翁、そして、できっこないといわれても産業家として国家の援助なくやりとげた喜一郎氏の「独立の気概」はどうした?といいたい。
ほんとうは国の援助どころか、妨害まであったはずである。

トヨタの社是は「クルマのある生活」である。
だから、トヨタホームが住宅もつくっている。

世界をみわたすと、自動車産業が従来の成長をとげるかはあやしい。
それが、ガソリンではなくディーゼルでもなく、「電気」なのか「水素」なのか?ということではない。

住宅産業に匹敵する「すそ野の広さ」が、自動車産業だったのは、その必要部品点数にあった。
普通車で「4万点」というほどの「部品」が、産業としての巨大さだったのだ。

おそろしくコストがかかる水素自動車は、本体の構造だけでなく、燃料である「水素」も「問題」なのだ。
原子番号1番の意味がおもいのである。

いっとき流行った飲料用の「水素水」が問題になったのは、「いかなる容器」であっても、その「分子」の小ささがために、容器の壁を抜け出てしまって、いつの間にか「ふつうの水」になるからだった。

炭酸水の炭酸が抜けるのとはワケがちがう。
ペットボトルはいうまでもなく、アルミ缶にしてもムダな抵抗にすぎない。水素分子はアルミという金属の分子構造すら、やすやすと通過してしまうのだ。

水素ステーションに「ロスなく」どうやって運び、在庫保存するのか?

もちろん、水素は軽すぎて地球上に「水素」として存在しておらず、ほとんどが「水:H2O」としてあるから、「水素」を取りだすのには電気分解しなければならない。「水」の結合は、電気的な電子の「共有結合」だけではない「水素結合」に「ファンデルワース力」まであるとは、高校の化学でならう。

水の沸点が100度もあるのは、分子結合が強力なこのためだ。
なので水の分解には、大量のエネルギーを消費するから、全体でどこがエコなものか。

狂っている政府の法学部出の高級役人が、世界で相手にされないモノを「世界で唯一」と自画自賛して、税金を投下する。
素直にガソリンを燃やせばいいものを、これを「利権」にしたから、あらゆる評論家も「ヨイショ記事」しか書かなくなった。

どうして、こんなものにトヨタ自動車が資源(ヒト、モノ、カネ、時間)投入するのだろうか?
三菱の国産旅客機の失敗とおなじパターンで追随していないか?
「国家総動員体制」のおそろしさである。

それよりも、なによりも、わが国にとって最大のリスクは「円の信用」になってしまった。
日銀をつかって、金融緩和しかしないこの何年、国債も日本株も日銀保有という世界史上での無茶がとおっている。

いまや、「円」からの「離脱(エクソダス)」が必要なのだが、通貨は国家が発行するものという常識すら「害悪」になってきた。
「GAFA」があるではないか、といっても、どれも外国企業だ。
日本企業で、できる、のは「トヨタ自動車」が最適ではないのか?

いまこそ、ハイエクの『貨幣発行自由化論』が現実になるときなのである。なお、下右の『全集』においては、「貨幣の脱国有化」として掲載されている。

 

トヨタ自動車は、「無借金経営」で有名だが、期中の「運用力」が市中銀行の比ではない、おそるべき「実力」があるのだ。
それで、かつてから「トヨタ銀行」とよばれているのであって、たんに「資金が豊富」だからではない。

ぜひとも、トヨタ銀行の面目躍如として、政府からのちょっかいをはねかえし、ハイエクのいう「自由通貨」を発行してもらいたい。

それにしても「水素自動車」とは、政府がトヨタ自動車から通貨発行の可能性を阻止するための罠なのか?
なんであれ、日本企業の「弱体化」を、日本政府がおこなう倒錯は、国民を不幸にするが、それが「共産化」のプログラムなのはセオリーだ。

おそろしい国に生きている。

自由圏の台湾と共産圏の日本

今年はわが国に大きな影響がある、外国の選挙が目白押しである。
まずは、先週の台湾総統選挙。
3月2日には、イスラエル国会議員選挙。
4月15日は、韓国の国会総選挙。
9月は香港の立法議会選挙。(ほんとうにやるのか?)
そして、11月はアメリカ合衆国大統領選挙だ。
この間、イランの国会議員選挙も予定にあるが、どうなるものか?

桜のシーズンには、中国の国家主席が韓国と日本にやってきて、わが国では「国賓」ということになっている。
現代のレッドチームの親玉を、「国賓」とする感覚が、そもそも「尺度」が狂っている証拠である。

1991年8月29日をもって「ソ連体制」は崩壊した。
この4ヶ月前の4月、ソ連の最高指導者として「初来日」したゴルバチョフ大統領が「国賓」だったけど、その前の年に、「冷戦の終結・中距離核戦力全廃条約調印・ペレストロイカ」などを理由に、「ノーベル平和賞」を受賞していた。

今回のひとには、ゴルバチョフ氏のような実績が「ない」ばかりか、非民主化・人権弾圧という実績だけはある。

年が明けて、アメリカ合衆国大統領選挙の「予想」がかまびすしくなってきたが、再選をめざす現職に対する民主党の候補者がきまっていない。
相手がわからないから、現職は「シャドー・ボクシング」状態だ。

すでに「逆神」ともいえるのがわが国マスコミの論調だから、真逆にとらえれば、「正解」になるのだろうが、党内候補がせめぎあう状態では、どうにもならない。

しかし、たいへんおもしろい現象があって、わが国のマスコミが「押す」、民主党内にあっても「極左」とよばれるふたり、サンダース氏とウォーレン氏が表明している「政策」が、わが国政権与党のすすめる政策と「おなじ」である、という事実である。

むかしあった「計算尺」のように、わが国の「保守」の目盛りは、アメリカでは「極左」の目盛りと一致するのだ。
すなわち、この計算結果は「社会主義」に結論づけられるので、なるほどそれで彼のひとが「国賓」なのだ。

すると、わが国野党の目盛りは、アメリカの左目盛りからはみだしてしまって「計算不能」だ。これを「共産主義」とすれば、野党再編に共産党がからむ構図とただしく一致する。

その「日本共産党」は、あちらの共産党とは「ちがう」として、人権弾圧をはげしく批判している。
そんなわけで、党名の変更をかんがえないといけなくなってきた。
左に力をこめたら、ぐるっとまわって、右に接触したようである。

しかし、共産党は共産党で、じぶんたちを「保守」しているから、こうなるのだろう。
それに対して、なんといっても「問題」なのは、政権与党の「左翼性」である。とうとう自民党は、じぶんたちがなにを「保守」するのかもわからなくなった。

「自由」でも「民主」でもないから、こちらも党名を変えるとよい。
候補として、「社会党」とか「進歩党」とか、あるいは「中国共産党日本支部」とか。
そうなれば、築地にある新聞社がよろこんで「機関紙」を印刷してくれる。

その場その場の「浮き草人生」をずっとやっていたら、流れるところに流れついて、とうとうドブの縁で腐り出した。
その意味で、日韓はなかよくレッドチームの親玉を迎えることで、類似性をあらわにした。

けれども、むかしのよき日本のような「根性」をみせたのが台湾で、はっきりと「自由圏」の選択をした意義はおおきいし、極東の端に位置するわが国を護ってくれたことに、感謝しなければならない。
わが国にやってくる重要物資は、ほとんどが台湾海峡を通過してくるのだ。

なんのためにアメリカの現政権が貿易戦争を開始して、なんのために香港デモを支援して、なんのために台湾支援の立法をしているのか?
くわえて、イランのデモにまで支援表明をしているのだ。

とはいえ、3月のイスラエルの国会選挙で、はたしてどんな結果がでるのか?
中東のモザイク状になっている地図が、変化するのかしないのか?
面倒なのは、このエリアには、国境の地図と民族の地図がことなることにある。

ユダヤに対するアラブとペルシャの三つ巴だけでなく、クルドというひとたちがかぶっているからである。
これに、ロシアとトルコがいて、資源ほしさの中国もいる。
何度も書くが、アメリカはこの地域の資源を必要としなくなっているから、わが国にとって、かつてなく「やばい」のである。

つまり、とっくに状況がかわってしまった。
石油を確保するための「手段」のなかに、「シーレーン防衛」をやらねばならぬことが、いやおうにも必要になったのだ。
これは、日本人の暮らしにとって重大な変化だ。

箸にも棒にもかからない、環境対策なる国家的ムダ・ロスを即刻やめて、空母機動部隊を複数編制用意する必要がある。
本土防衛ではなく「シーレーン防衛」という、過去の米軍の代替だ。

しかし、奴隷根性から抜けない自民党の政治家たちにできるのは、レッドチームの親玉に頭をさげることしかない。
だが、野党への期待は、破滅を意味する。

わが国で、いつ、台湾のような民主政治がはじまるのだろうか?
抑圧を皮膚で感じないといけないとしても、あんがい早いかもしれない。

台湾の民進党さんにお世話になって、「日本民進党」を創立するうごきがあっていい。

どや顔でニュース解説の噴飯

新年会で知人宅を久しぶりに訪問した。
この家のリビングには、巨大なテレビがあって、つけっぱなしだから、いつの間にかテレビ好きの生活になったようである。

大相撲をジックリ観るのは何年ぶりかも思い出せない。
若貴時代がなつかしい。
けれども、時代をつくった横綱が、そろって角界から消えたのはおどろきとしかいえない。

神前への奉納をもってはじまりとするものが、いつからか「スポーツ」になって競技として一般化・国際化してしまった。
「興行」が、「試合」になったから、「稽古」が、「練習」になった。

2008年に財団法人の法律がかわって、国家による財団法人への権限を強化した「公益」財団法人が制度化された。
その見返りが、「非課税」という「優遇措置」である。

プロ集団だから、お金に目がくらむのは理解できるが、法人の転換を機に「株式会社」にしなかったのが痛恨である。
うまいこと、主務官庁の文部科学省という役人集団の餌食にされた。
こうして、国家が仕切る「パンとサーカス」の典型例になったのだった。

電源をきらず、チャンネルもそのままでいたら、ニュース解説の番組がはじまった。
「これでわかった!」という番組名を、じぶんでつけるのだから、よほど自信があるのか、あるいは安い参考書のまねなのか?

いや、そうではなく、「エセ科学」番組だけれど、なぜか長寿の「ためしてナントか」と、発想がにているのは、おなじテレビ局だからと納得した。
これが、わが国を「衰退」させる一因になっている公共放送のおぞましさだ。

GHQの統治方針を、「独立」してなお遵守しているのは、わが国自体が「エセ独立国」だという証拠でもある。
「日本人を骨抜きにする」という方針で70年間も貫かれたら、みごとに骨抜きされた。

大相撲が、スポーツの看板をおろせなくなったように、公共放送局も「骨抜き」をやめられない。
どちらも、じぶんの「意志」ではどうにもできない「仕組み」になっているからだろう。

なので、わが家はテレビを必要としないだけでなく、「有害」という結論をえて「排除」した。
かならず、「脳」に悪影響をあたえるのがテレビ放送である。
ニュースも天気予報も観ないとはずいぶん前に書いた。
「5G」の電磁波が脳に悪いというのは「うそ」だが、テレビは「本当」だ。

そんなわけで、なにがはじまるのか?という「期待」は、どのくらい「脳」に悪いのか?という意味の「期待」である。

解説のニュースは、イラン問題であった。
観ていて、おもわず微笑んでしまったから、知人は怪訝な顔をした。
べつにどこも「変」ではないような「解説」を、真顔で、しかも「ためして」のように「どや顔」でしているからだ。

けれども、その論理構成は「印象操作」そのもので、米軍に殺害された「司令官」の大規模葬儀に焦点をあて、いかに国民的英雄だったか?をまずは「擦り込む」のである。
たいへんな数のひとたちが道路を埋めて、男性は雄叫び、女性は泣いている。

「嘆き」についての国民性として、中東地域では、日本では能登地方以外あまりみかけない、葬儀屋の職区分がある。これが、「泣き女」だ。アジアにはあんがいとこの文化がある。

すなわち、あのような政治体制の国にあって、「政府主導」の「(強制)動員」ということを真っ先にうたがう必要があるものを、ストレートに放送するばかりか、これを現地「政府の意図」どおり「解説」するとは、笑いがとまらない。

しかも、ご丁寧に特派員が衛星生出演して、それらしいことをしゃべっている。現地にいながら、現地のなにを「取材」したのか?さっぱりわからないから、衛星使用料がムダである。
もしや、ペルシャ語ができないのではないか?

ところが、さすが公共放送はしたたかで、そうやって擦り込んでおきながら、こんどは話題を旅客機の誤射撃墜事件に転換させる。
はじめ政府は関与を否定していたが、一転して大統領が「謝罪」した。

「否定」が「謝罪」になったことで、政府の「うそ」を糾弾するデモとなった。
そして、このデモが変容して、体制転覆のデモにまでなっている。
あきらかに、香港のデモの影響がここにもある。
さらに、あろうことか、このひとたちは街に掲示されている「英雄」の写真を引きずり降ろしているのである。

はたして、擦り込んだ「英雄」はどうなっているのか?を解説「しない」という「確信的手抜かり」をやりとげて、なんだか悪いのはアメリカで、やっぱり「トランプ」だといわんばかりの印象操作をするのだ。

そのトランプ大統領は、イランのデモ隊を支持するツイッターをだしていて、政府との対立を「当然」としているのだ。
それでも、彼らは中東から米軍がいなくなることを望んでいると、まるで他人事のように「解説」するのは、もはや「ビョーキ」である。

アメリカはシェールオイルのおかげで、純石油輸出国になっている。
だから、自国中心のエゴを丸出しにすれば、国内に引きこもるのが合理的だから、日本の公共放送がいう中東のひとたちの望みは、アメリカ自身の望みにもなっている。

しかし、そんなことをしたら、中東の石油に依存する「同盟国」が立ち行かない。力の空白を「露・中」が狙っているからである。
依存の筆頭がわが国で、とうとう自衛隊の派遣までしないといけなくなったのは、アメリがが引いているからだ。

それで、戦争に巻きこまれるから、中東への派遣はいかがかと、またまた無茶をいう。
ならば、9割の石油を中東に依存するわが国に、石油がこなくなってもいいのか?

そしたら、電気ができなくなって、テレビも観られなくなるから、このテレビ局のひとたちはどうするのだろう?
「天に唾する」とはこのことだ。
どういう神経から、こんなことを真顔でしかも、ドヤ顔でいえるのか?

まったくなっちゃいない番組を、ボーッとして観ていれば、やっぱり「脳」が冒される。
期待をぜったいに裏切らないのが「公共放送」である。
民営化論もあるけれど、「不要」として「廃止」すべきだ。

必要論の中心は「災害」というけれど、東日本のときだって、ぜんぜん役になんか立っていない。

よいこは、けっしてみてはいけないよ。

「辞世」を詠めるか?

すこし遅れてか?とおもわれるむきもあろうけど、このブログの読者なら「旧暦」をときどき思いだすことに慣れてもいるだろう。
一昨日の8日は、旧暦で12月14日。
318年前の「討ち入りの日」なのである。

それにちなんで、東映創立10周年記念作品でもある、1961年『赤穂浪士』を観た。数ある「忠臣蔵」でこれにしたのは、わたしが生まれてちょうど二週間目に公開の作品だからだ。
もちろん、当人には知る由もないし、記憶もない。

当時の映画会社は、俳優陣も「専属」だったから、周年記念作品として、「オールスター・キャスト」であるのは当然として、そのスケールは「スペクタクル映画」なみなのである。
「CG」がない時代に、おそるべき数のエキストラが、はるか遠くまでちゃんと衣装をまとっている。

本物の建物も、まだぜんぜん排気ガスにさらされていないから、むかしのすがたで凛として建っている。
なによりも、俳優たちの演技が、「全盛期」らしいかがやきで、その深みにひたすら感心するばかりだ。

もはや、いまの俳優にはまねできまい。
「4K」とか「8K」とかが、浮き上がってむなしく、ばかばかしくなるのは、映像機器の進歩に逆比例して、かんじんの俳優がいなくなったことを確認できてしまうからだ。

このときの「作り手」たちは、まさか60年近く経ったら、「退化」するなんて想像もしなかっただろう。
ましてや、娯楽映画のはずが、二度とつくれやしないことだけでなく、教科書あるいは資料レベルになっているのだ。

それにしても、出演者それぞれが「主役」をはれる実力者でありながら、たとえ端役であろうとも、おそるべき演技の競演をやっている。
どこにも手抜きがないのは、「鍛錬」ということにしか集約しない。
げに、赤穂事件そのもののドラマ性が、端役を端役にさせないのだろう。

歌舞伎における忠臣蔵は、京都から帰る高校二年の修学旅行で、親、親戚からもらった小遣いをつかわずに、そのまま歌舞伎座へ行って、11月顔見世大歌舞伎の「昼の部」、しかも大枚はたいて「A席」の前売り購入したのをおぼえている。

ほんとうは、「通し」で「夜の部」も観たかったが、なにしろ高校生には資金がなかった。
4階の「大向こう」という案は、思いつかなかったのである。

それから幾日かして、はじめての歌舞伎座は、周辺の年寄りたちが「せんべい」をかじりながら観ていた。
袋の音とポリポリかみ砕く音が、なんともいえない「芝居小屋」にしていたが、500円でかりた音声ガイドのおかげで、イライラすることはなかった。ただし、「A席」でこれかよ、という感想はわすれない。

幸四郎あらため白鸚の高師直、梅幸の塩冶判官、勘三郎の大星由良助。ちなみに、当時の勘九郎は大星力弥で、親子を親子が演じた。
しかも、「昼の部」最後の、お軽・勘平の東海道戸塚の場面は、梅幸のお軽、勘三郎の勘平という二役だった。

いまからすれば、夢のような舞台であった。
つくづく「夜の部」がうらまれる。

吉田茂の「ワンマン道路」といわれた横浜新道には、さいきんまで松並木がのこっていたが、あたらしいインターチェンジの工事であっけなく撤去された。歴史はこうして、「忘却」されるのか。
この東京よりの歩道には、「お軽・勘平の碑」がいまでも建っている。

地元商店街と歌舞伎役者が協力して建立したとある。
いい時代があった。
きっと落成式には、有名役者たちも参列したはずだ。
ここを通るたびに、梅幸のお軽と勘三郎の勘平が、並木のあいだから踊りながら出てくる気がいまでもするし、想像してしまうのだ。

さて、映画にもどれば、吉良上野介は月形龍之介、浅野内匠頭は大川橋蔵、大石内蔵助は片岡千恵蔵、千坂兵部が市川右太衛門。
清水一角が近衛十四郎、大石主税は松方弘樹の親子である。

大川橋蔵演じる浅野内匠頭の悲壮感。
これは、銭形平次とはまったく別人である。

刃傷事件後、即日切腹となる浅野内匠頭。
しかして、事ここに至ってなお、辞世を詠む。
かんがえる時間はいかほどか?

風さそふ花よりも猶ほ
    我はまた春の名残をいかにとかせん

無念である。
岩手県一関市が、浅野内匠頭お預けになった田村家の領地である。
市立博物館には田村家文書が多数保管されていて、そこに浅野内匠頭の関連もある。
しかし、残念ながら「辞世」についての記録がどこにもない。

「忠臣蔵」じたい、事件後70年の「作品」なので、史実と装飾がまじっていることは否めない。
じっさいに、「辞世」は「なかった」にしても、おおくのひとが「ある」と信じたのは、たんに「願望」だけではあるまい。

あたかも「真実」として「辞世」が伝えられているのは、当時のひとたちの「教養」がいかほどであったかの「常識」がないとすぐさま「嘘」になるからだ。

さてそれで、ものの数分で「辞世」が浮かぶか?
いや、それよりも、そもそもふだんからにして「歌を詠める」か?
漢詩にしても、和歌にしても、そんなことはできない。
恥じるべきは、才能以前の教養のなさである。

究極の「終活」とは、後世に残る「辞世」を詠むことではなかろうか?
ならば、すぐには死ねない。

極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人

四十七士にひとり多いのは主君をいれるからである。
これは、「本物」、大石内蔵助の辞世、享年45歳。

江戸湊の大根祭り

ことしは七草に、浅草七福神をめぐることにした。
江戸にはいくつも「七福神めぐり」があるから、これを「めぐる」と、「なつかしさ」もあじわえる。

谷中七福神、日本橋七福神、隅田川七福神(向島七福神)、亀戸七福神、深川七福神、下谷七福神、柴又七福神、元祖山手七福神、新宿山ノ手七福神、荏原七福神、池上七福神、浅草名所七福神
これだけで12七福神。

有名どころは、ほかに14七福神があって、全部で26あるから、二廻りするだけで52年かかる。
上記の12だけだって、5回廻れば「還暦」とおなじだ。
そんなわけで、ことしは「浅草名所七福神」を巡ってきた。

このコースは、七福神なのに九カ所の寺院を巡るのが特徴だ。
「福禄寿」がダブってと「寿老人」、「寿老神」という微妙なちがいがあるのだが、他の七福神にはない「名所」の文字に意味がある。

江戸幕府開府前の「江戸」は、埋めたて前、ということになるので、もともと陸地だった浅草の土地には、ながい歴史がきざまれている。
このことが、千代田区、中央区という幕府以来、現代までの中心が「海だった」ので、七福神を巡るコースもないことをしめしている。

どこからはじめようが勝手だが、なにしろわたしは横浜スタートで、交通の便と「徒歩」にて「歩く」を基本とする(ようは運動不足解消を意識している)ので、JR馬喰町駅下車をもってスタートとし、まず向かうのは河童橋の「矢先稲荷神社」である。

浅草寺が大黒天、境内の浅草神社(三社様)は恵比寿さんが祀られている。
ここからちょっと歩いて、言問橋の北側にある「待乳山」は、「待乳山聖天」(本龍院)で、「大根祭り」をやっていた。

HPによる大根の意味は、身体を丈夫にして、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合をご加護頂ける功徳を表す、とある。
聖天様とは十一面観音菩薩が大聖歓喜天に姿をかえて鎮座されている。七福神では、「毘沙門天」が聖天様をお守りしている。

ビタミン不足になりがちな冬場、大根が重宝されたのだろう。
ふしぎと傷んだ大根を食べても、食あたりしない、から「あたらない」をもって「大根役者」というのは、おみごとな表現だ。

参拝をすると、社殿のよこで大根を全員にもれなく一本いただけて、さらに境内では茹でた大根にゆず味噌をかけてふるまっていた。
御神酒までもふるまわれていたので、なんだか一年分の「御利益」を使い果たした気にもなった。

なぜかわたしは、ゆずの香り=お正月、という連想を瞬間にする習慣がある。
熱々の大根にゆず味噌とは、まさに「お正月」そのもので、じつに幸せな心持ちになった。

山積みされている大根の箱には「三浦市農協」とある。
三浦産の大根だが、「三浦大根」ではない。
むかしは「練馬大根」だったかもしれないとおもったが、混雑する境内で質問にこたえてくれそうな相手を見つけられなかった。

「三浦大根」は、1979年の台風で壊滅し、その後は数軒の農家でしか栽培されない貴重な品種になってしまった。一時は三軒程度の農家が守っていたが、さいきんになって復活のきざしがある。
「幻」が「名物」にもどってきた。

いまは、ただ「大根」といえば、「青首大根」のことをいう。
もとは愛知県清須市の名物だったというから、織田信長も食したのだろうか?
こちらは、病気に強い品種に改良されて、民間の種苗会社が仕切っている。

待乳山聖天のおとなり、待乳山聖天公園の入口には、「池波正太郎生誕記念の碑」があって、顔写真も金属板に刻印されている。
なるほど、『梅庵シリーズ』で事件解決のあとにかならず「うまいもの」を肴に一杯やる場面があるが、なかでも「風呂吹き大根」が記憶にのこるのはこのためか。

誕生地にちなんだ、作家渾身の「食レポ」表現だったとすれば、妙に納得できる。
「筆の力」で喰わせるのが「池波流」で、池波正太郎が通った店をずいぶん訪ねてはみたものの、なぜかわたしには、どうもピンとこなかったことがおおい。

いま「食レポ」させたら、ばつぐんはイラン・イラク戦争の戦災孤児「サヘル・ローズ」だろう。
皆殺しの村に、ボランティアで救助活動をしていた、テヘラン大学の女学生が、がれきの下からの泣き声を聞きつけて救助に成功し、そのまま彼女が「お母さん」になった。

テヘランの名家である実家はこれを許さず「勘当」されて、日本に留学していた友人をたよって来日し、とうとう町の公園のトンネル遊具のしたで暮らしていたという。
それを見かねた近所のひとたちがふたりの生活をおおいに助けたというから、よほど「きちんとしていた」のだろう。

御利益は、じぶんのなかから生まれてくる。

イランもはげしいインフレで、反政府デモがおおきくなった矢先の「事件」が年始早々におきた。
純石油輸出国になったアメリカは、中東の石油を必要としない状況にあって、石油を売らないと生きていけないイランには、たいへん不利だ。

いまだに中東の石油がないと生きていけないわれわれに、新年早々の「不吉」がやってきた。

こればかりは、神頼みとはいかない。

ダイエットとモンテスキューの名言

「近代法学」の父とも、「三権分立」をとなえてフランス革命に影響をおよぼしたとも、とにかく有名なひとである。
ルソーとならび評されることがおおいが、ルソーとはちがって「保守主義」のひとともいわれている。

いまは読売新聞のグループ企業になった、中央公論(新)社が、1966年から76年の10年間にかけて刊行した全81巻のシリーズ『世界の名著』にも当然ながら一巻がある。
残念ながら、このシリーズも例によって「絶版」となっているから、古書での入手のみとなっている。

よくよく出版の時期をみれば、わが国が発展をとげている最中で、それは「知識」も一般に開放されて発展していた時代だとわかる。

「48作」でギネス入りした、渥美清主演のご存じ『男はつらいよ』が、この正月に50周年50作目として上映されている。
さてそれで、前田吟演じるところの「博(ひろし)」が若かりしころ、つまり、第一作が69年の夏にスタートしているから、彼の愛読する『世界』とあいまって、『世界の名著』シリーズも販売されていたのである。

このシリーズの想定読者が、「博」のような境遇のひとたちだったと想像するのは、「戦後」を引きずっていたからで、まだまだ「集団就職」の時代だったし、集団で就職したひとたちのふるい世代の生活がだんだん落ち着いてきた時期であるとかんがえるからである。

おそらく、大学という「学府」において、『世界の名著』がおかれた位置は、「専門」ということからしたら、きっと「一段下」におかれていたにちがいない。
「象牙の塔」とはそういうものだ。

だから、「独学の徒」を対象とするのがふつうだが、こんなシリーズを出版したからには、「売れる」と見込んだからで、全部に10年を要することができたのも、「売れていた」から中断されなかったともかんがえられる。

市井のひとが教養人であることは、じつはすごいことだ。
このシリーズを購入していたのが、30歳ぐらいだったとすると、とっくに80歳をこえている。
「なるほど」と気づかされる世代だ。

そんなわけで、ここでいいたいダイエットにまつわる「モンテスキューの名言」とは、

「過度な食事制限で健康を保つことは、やっかいな病気といえる。」

である。
現代人で、耳の痛いひともいるだろう。

いわゆる、食事はバランスが大切、という現代の価値観にも通じそうだが、いった本人はフランス人である。
むしろ、食べたいものを食べろ、に聞こえる。

モンテスキューが亡くなった年に生まれた、美食の大家、ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの『美味礼賛』では、料理をいかにたくさん食べることができるのか?の研究成果として「コース料理」の合理性がかたられている。
それもそのはずで、本のタイトルを直訳すれば『味覚の生理学』なのである。

 

しかして、糖尿病の悪化による様々な合併症に苦しんで亡くなった「太陽王」ルイ十五世と時代をともにし、革命の嵐も体験したひとの「研究」として、はたしていかがなものなのか?
彼は革命を支持しながらも、自身の首にも賞金がかかって亡命する。

現代の「栄養学」が、サヴァランの時代から発展したのはまちがいない。
けれども、食品成分の変化という現実とくみあわせると、後手後手になることは否めない。

食品の成分をきめるのは、おもに農業であって、その農業は「土壌」を基盤として成立している。
だから、「土壌が弱る」と、必然的に、食品のなかの成分が「薄くなる」のである。

あるはずの栄養がない。

はたして、「バランスのよい食事」の「バランス」とはなにか?
これを達成するのは、あんがいむづかしい問題なのである。

それに、「人間はパンのみに生きるにあらず」という「格言」もあるとおり、動物としての生存のための「食事」と、「人生の意味」を加味した「食事」とでは、まるで価値がちがう。
比較にならない。

だから、モンテスキューの名言は生きている。

すると、現代の栄養士や医師がいう「ダイエットのすすめ」のもとになっている「メタボ」ってなんなんだ?
血圧だって、基準値がどんどんさがっているから、むかしなら「正常」のひとが、いまなら「高血圧症」という病気にされて自動的に降圧剤が処方され、一生にわたる消費がはじまる。

眠れないと訴えれば、すぐに睡眠剤を処方してくれるけど、なんだか老人の痴呆症を発症させているようにもみえる。

よくよくおもえば、どれもがぜんぶ「対処療法」で、高血圧症という病気を治療していないし、眠れない症状だからムリに眠らせるだけなのだ。

これでは「機械論」である。

「現代」そのものが病んでいる。

ウィンドウズのサポート終了

毎年おもう、新年はやくも今日は七草。
あと一週間、14日で旧バージョンのウィンドウズOSのサポートが終了する。

当該パソコンが継続して「使えなくなる」ことはないけれど、セキュリティ対策等のサービスが終了するから、ネットに接続してつかうなら、バージョンアップさせないと危険にさらされることを「承知」だとみなされることになる。

ならば、ネットに接続してつかわなければ放置でもかまわない。しかし、いまどきのアプリケーション・ソフトは、ほとんどがネットを介したダウンロード方式で提供されているので、なかなか「単独」での利用には制限がある。

便利なアプリケーション・ソフトほど、頻繁にバージョンアップがおこなわれている。
面倒でも、期限まで「無料」のうちに新ウィンドウズに更新したほうが「得」である。

マイクロソフト社は、当初、「無料」で配付する期間をさだめていたが、とっくにその期間はすぎてしまった。
なのに、いまだに「無料」配付しているのは、世界にある「億」単位の台数のうち、更新していないものが多数あるからにちがいない。

国境をこえて、おどろくほどのパソコンが稼働している。

はたして、このうち、ネットに接続しているのが何台あって、接続していないのが何台あるのか?
これを、マイクロソフト社は「把握」しているということだ。

とにかく、ハード的な「環境」をととのえることに関してだけは、素早いという特徴をもつわが国では、パソコンをネットにつなげるための通信「環境」では、いちおういまは世界的な評価をされている。「5G」だって、「環境」はなんとかするのだろう。
一種の「公共事業」だから、社会主義体制では得意分野なのである。

けれども、パソコンを「つかう」ということに関しては、世界制覇できたソフトウェアをつくることはできなかった。
それは、そもそもパソコンをうごかすための「OS」しかり、このうえでうごくアプリケーション・ソフトしかりである。

唯一の例外は、ゲーム分野である。

そして、とうとう、日本製のパソコン自体が世の中にない、ことになった。
心臓部とも頭脳部ともいう「CPU」が、日本製ではないから、組立場所をしめすしかない。

これら、まずいことになった理由は、そのほとんどが「国家依存」に由来する。
民間事業に補助金をだして、法学部の役人が口までだすから、ことごとく「失敗」した。

なのに、この「失敗」を民間のせいにして、ぜんぜん反省しないひとたちが出世までするようになっている。
役所の昇格制度は、「成果」ではなく「公務員試験」できまっているからである。「汚職」さえしなければいいのだ。

ならば、民間企業はどうやって役所と縁切りができるのか?
この方法がない、のである。
なぜなら、あらゆる手段をつかって、当該企業いじめをするからである。

その意味で、やくざよりも恐ろしいのが役人なのである。
このひとたちは、きっと学校で天才的な手法による「いじめ」をまなんでいたにちがいない。

キーワードは「合法」ということに集約される。
非合法を旨とするやくざよりも恐ろしい根拠がこれだ。
けれども、唯一の弱点が「国内」という枠がある。
こうして、役人天国のわが国は必然的に「鎖国」をすることになっている。

もちろん、役所のパソコンだって、サポート終了になったらこまる。
けれども、かれらがこまらないのは、マイクロソフト社という「指定業者」が、「かってに」、「まっさきに」面倒をみてくれるので、余計なことはかんがえなくていいのだ。

それで、古いパソコンはあたらしく買い換えましょう、と提案されれば、予算計上すればいい。
「業務に支障をきたす」という理由であれば、いいのである。

世界企業のマイクロソフト社からしたら、こういうのを「上客」という。
ただし、かれらの活動範囲は地球規模なので、「サポート」ということばの意味が国内ローカルとはちがうのだ。

そんなわけで、今年はオリンピック・イヤーで、役人がいうように外国人観光客が大挙してやってくるかはしらないが、外国人が持ちこむ端末に規制がかけられない。
わが国の「電波法」では、わが国の電波をつかう端末には「技適(技術基準適合)」がなされたものしか許されない。

ところが、世界各国からやってくるひとたちの所持する端末が、あらかじめわが国のローカル・ルールに適合してつくられているとかんがえるほうがどうかしている。
こうして、外国人適用除外の特例ができた。

マイクロソフト社の方法と、真逆なのである。

ふだん、「もはや国境の意味がなくなった」というひとが、こういうことをいわない。

けれども、マイクロソフト社の営業方針に、もはやだれも逆らえないのは、「法律」ではなくて、じぶんがこまるからである。
ほんとうは、法律もそうなっていないといけないのに、そうなっていない。

それで、ゴーン氏が逃げちゃったのだ。

あと一週間、まだのひとはちゃんと更新しないと「損」をしますぞ。