「مصر تستطيع(できるエジプト)」

日本の教育制度が、「歩くコーラン」をつくる、という評判は、もう10年ほども前になる、サウジアラビアの国営テレビ番組『خواطر:ハワーテル(改善)』が火付け役になった。

この番組での、日本人からみたら過激な日本絶賛ぶりは、日本テレビ系列(日本テレビは「CIA系列」)の『世界まる見え!テレビ特捜部』でも何度か放送されている。
なので、サウジアラビア国営テレビが当時、「CIA系列」だったかどうかはしらないが、妙に連携していたことは確かである。

その中でのひとつの紹介エピソードに、日本人の「清潔感」が特集されて、なぜに街にゴミがないのか?を追及レポートしていた。
その結果、たどり着いたのが、小学校における授業後の「教室や廊下の清掃」であった。

これを、当時の教育大臣(1万人いる中の「王子」のひとり)に報告したら、大臣が直接学校を訪問して、その実態に共感し、全国の学校に広まったという経緯がある。

なので本稿冒頭の、「歩くコーラン」とは、イスラム教スンニ派を主宰するサウド王家からの、お墨付きでもある。

じっさいに『コーラン』を読破したことのある日本人はどれほどなのか?見当もつかないけれど、仏教徒なのに『仏典』を読んだことのある日本人がどれほどなのか?も怪しい。
人気の、『般若心経』も、その内容の理解には、なかなかの素養がひつようなのである。

しかし、そんなことには一切構わず、権威のありそうなアラブ人がひとりでも、「歩くコーランだといっている」ことで十分な自慢ができる。

それでもって、無批判に「日本式教育」を、日本人がおおいに自慢しているのが、一見無邪気ではあるけれど、かなり悪質でもある。

なにしろプロジェクトの名前が、あたかもできない子を励ますようで、実態は空虚そのものの「できるエジプト」なのだ。こんなタイトルをつけて恥じない日本人こそ、「恥の文化自慢」をするのではないのか?と恥じたくなる。

じっさいに、エジプト側の評価を集めると、とうてい無批判に受け入れている、ということではなく、むしろ教育専門家は、批判的であるようだ。

ことの発端は、「アラブの春」で、劇的な混乱とその後のクーデターによる政権交代(2013年)で、シシ大統領(軍事)政権が発足し、翌年の大統領選挙で安定化した。
シシ氏が来日して、日本の小学校での「特別活動(給食や清掃)」に感銘を受けたとして、大統領の肝いりではじまったのが、「EDUーPortニッポン」(2016年)なるプロジェクトである。

テレビもそうだが、基本的に「成功」としての報告がなされているのは、日本政府やJICAなどの立場からのもの「だけ」だからである。

しかし、エジプト側の評価は、上にあるように複雑なのである。

さてそれで、これらの「日本式」教育援助には、重大な前提が抜け落ちていることを書いておきたい。
第一に、それは、あたかも教育が「学校だけで完結する」ようにされていることにある。

また、アラブ諸国の、日本の成功の原因が教育にあるという認識も、その教育とはいつのものか?という前提が、いかにも「戦後」という位置付けになっている勘違いも指摘しておきたいのである。

端的にいえば、教育の基本は家庭であって、それは両親やその上の世代が家族として担うものであって、学校教育での限界もここにある。
つまり、それは家庭生活の中で得られるものを第一として、近代の学校とは、その補完機関でしかありえないことの認識欠如がある。

そして、欧米とちがって、わが国における家庭教育の質の高さに一切触れず、いきなり「特別活動」を「日本式」ということの意味が恣意的なのだ。

しかも、歴史的な寺子屋教育にみる、識字率の高さは、ヨーロッパにおける特権階級の地位を守るためにやった「文盲の維持」とは、まったくちがう社会的素地があることも無視している。エジプトはヨーロッパ(はじめはローマ帝国)による支配を、2000年間受けてきたのだ。

むしろ、日本の学校における「特別活動」は、前提に家庭での躾教育があって、それを学校で「復習」させていたのだといえる。

だから、こうした社会的素地のない外国で、いきなり「日本式」をやることの問題は、現地の専門家による批判になっている道理があるのである。

すると、アラブ人がいう、「歩くコーラン」をつくる日本式教育への評価とは、イスラム教の衰退を意味していないか?

このことは、アラブ人ユーチューバーが製作した、日本取材の動画でもみてとれる。
彼らは、日本人の暮らしにイスラムの精神を見出すからである。
すなわち、世界で最も敬虔なイスラム的生活者とは、日本人だ、と。

もちろん、そんなことを日本人は意識して生活してはいない。

ほとんどボタンの掛け違いになっている「日本式」のアラブ圏での普及は、将来、両文明間の深刻な軋轢とならないことを祈りたい。

邪悪な日本政府は、日本人の税金で「反日」を輸出している可能性が高いのである。

物見遊山は観光なのか?

「物見遊山(ものみゆさん))という言葉ができたのは、修行僧が息抜きで山を散策したことがいわれとされるから、「修行僧」というひとがいないと成り立たない。

すると、ふるくは「仏教伝来」以降ということになって、それ以前には、なんといっていたのか?が気になるところだ。

ただの「物見」とか、「見物」だったのか?

それとも、「ピクニック」のことだから、「遠足」とかといっていたのか?
しかし、「遠足」で語源をしらべると、江戸末期の徒歩での遠出、ということだし、明治の学校制度から定着してきた言葉でもあるから、やたらあたらしいのである。

上に書いたように、「ゆさん」には、「息抜きとか、気晴らし」という意味があるので、それなりの暇人ができることになる。
ただ日常を生きるためにだけ働きまくらないといけないなら、とうてい「ゆさん」はできない。

それだから、江戸期にはいって庶民にも広まったとあるのは、江戸時代の安定を象徴するのである。

そうはいっても、あの十返舎一九の傑作、『東海道中膝栗毛』は、1802年から1814年にかけて書かれたので、1868年の明治元年からしたら、たかが半世紀前程度の旅行記なのである。

ちなみに、いまから60年程度前の1964年4月1日に、「海外渡航自由化」がはじまって、観光目的のパスポートが発給されることになった。
それでも1人年1回、海外持ち出し500ドル(1ドル:360円)までの制限付きだったので、隔世の感とはこのことだ。

逆にいえば、この日以前の海外渡航は、みな許可制であった。

なお、現在では渡航回数は自由だが、現金での持ちだし=出国と入国先の国での規制があって、日本出国には100万円相当まで、アメリカ入国だと1万米ドルまでが上限で、あとは申告を要する。
理由は、マネロン防止という今様だ。

現金は申告してもなにも課税されないけど、外国製の高級時計とかをしていて日本出国時に申告しないと、帰国時に外国で購入したとみなされたら課税されるので高級時計などをふだんからつけていたら注意がいる。

さてそれで、江戸時代とは、幕府を中心にした中央集権政権と思いたくなるけれど、そうではなくて、実態は、幕府が連邦政府で各藩諸侯の治める連合国家であったことは、きちんと認識しておきたい。

なので、「国内旅券」たる、「通行手形」がないと、国境を越えられなかった、はずである。

しかし、近年の研究(たとえば、『旅と関所』国立歴史民俗博物館研究報告第36集、1991年)で、手形には大きく二種類あって、時代劇や土産物にある「道中手形」で、正確には「関所手形」という書類と、意外なのは「往来手形」で、「途中手形」というものが存在していたことがわかっている。

この対象は、庶民男子の話で、「入り鉄砲に出女」の規制があった、女性や武士階級には適応しない。

それで、関所に提出するのが「関所手形」で、身分証として見せるだけだったのが「往来手形」という区分になるようだ。
どちらも、「書類」なので、よくある土産物の木製でできた「通行手形」は、現代の旅の記念品だけのものである。

「往来手形」の発行主は、寺社や庄屋、それに旅籠もあったので、その身分証としての信頼性は「適当」だったものだが、旅の途中で発行を依頼したからいう、「途中手形」は、ほんとうに「誰の誰兵衛」なのか?の信用力が薄く、何度も「まかりならん」とのおふれも出ているのに改まらなかったという。

つまり、どこからやって来たのか「本籍」が本人の申告でしかないで発行を請け負ったのが、江戸やらの「旅籠」だったのである。

いってみれば、当時の旅籠が、幕府のおふれにも逆らっていたことの証拠なのだ。

そんなわけで、地方からでてきた「旅人(あくまで庶民の男子)」は、あんがいと適当な形式でも旅ができた。
金銭の心配はどうしたのか?に興味が向くが、「助け合い」の精神で、なんとかなったともいえる。

その、「なんとかなる」ための方便でもあったのが、「お伊勢参り」とかの、有名寺社への「参拝旅行」だった。
つまり、ほんとうは物見遊山なんだけど、誰かに目的は?と聴かれたら「信仰のための参拝」が通じたのである。

これは、関所でもおなじで、「手形不所持」でも、係官の観察眼を通じて問題なし、とあらば通過できたというから、あんがいと「そんなもん」だったようだ。

あたかも「関所破り」して、冷戦時の「ベルリンの壁」のごとく、命がけのこと、というのは、庶民男子以外でのことだった。

弥次さん喜多さんのお気軽旅が、庶民男子の旅だったのもそのためなのだ。

そうやって、識字率が当時世界一だったわが国の庶民は。なんと書式が印刷されている、「旅日記帳」を購入して、旅に出ては、目にしたことを自分の旅日記に書いていた。

そうした「知」が、専門家としての作家を生んで、ベストセラーとなるのだから、その本の通りに旅をしたひとが、さらなる情報を作家に与えたにちがいない。

いまとぜんぜん変わらない、いや、いまもぜんぜん変わらない物見遊山こそが観光のコアなのである。

恐怖のトランスヒューマニズム

デカルトの、『方法序説』が示した、科学と精神世界の棲み分け、すなわち、分離、は、一方で「機械論」を生みだし、それがまた、「唯物論」になった。

一方の精神世界の方は、「迷信」の科学的解明とかによって、歴史的な衰退がはじまり、欧米諸国の精神的基盤だったキリスト教は、ファッションにも及ばない体たらくとなって、利益誘導「でしか」、もはやヨーロッパの統一もままならなくなったのである。

それがおぞましき姿を、14日、ローマ教皇と会談したゼレンスキー氏の態度が示していた。
教皇の前を歩き、教皇が勧める前にサッサと着席したこのユダヤ人の姿は、全世界に配信されて、その背信ぶりに世界の信徒が驚き、絶望したのだった。

そして彼は、教皇に向かって一方的に、「武器だ、武器だ、武器をくれ!」と述べて、教皇は、「武器で平和は訪れない」と返した。

ナチスにまっ先に蹂躙された経験をもつポーランドが、もっとも熱心にウクライナ支援をしている一方で、ハンガリーの反発があるから、旧東側もバラバラにみえたが、そのポーランドもゼレンスキー氏の辞任と和平を水面下で画策していたことがバレた。

しかし、ゼレンスキー氏は、辞任したら国民に殺されると自ら言及し、イタリアの別荘で余生を暮らしたいらしい。
各国首脳は、その条件を呑むから、和平の努力をせよと迫っているらしい。

ヨーロッパも、ようやくナチスに協力することの無意味に気がつきはじめたようだ。

なお、ウクライナにナチスがいるのは、第一大戦後に独立したポーランドが、すぐさま西ウクライナを奪い取って、第二次大戦でナチスがポーランドを奪う。
ベルリンが空襲で、ナチス本部は西ウクライナに移転して、ドイツ領ポーランドのまま敗戦となって、ソ連の衛星国になって返還された経緯がある。

だから、ゼレンスキー政権は、ネオではない、本物のナチ政権なのである。

先日書いたように、ナチスは親衛隊の組織に、「赤ちゃん工場」を保有し運営していた。

もちろん、純粋アーリア人の「血統」のための、繁殖センターとして、である。
しかし、ナチスがさかんに宣伝した、「アーリア人」なる人種は、存在しないのである。

「優生学」の悪魔的解釈が、政治になったのだった。

けれども、人間を犬のように扱うことの倫理をなぜに問わなかったのか?
そこに、「機械論」からの「唯物論」への純粋な信仰があったのだ。

つまり、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)とは、マルクス主義政党の、一典型なのである。
共産党だけを唯一とする、というはじめの教義からしたら、共産党がカソリック教会で、ナチスは原理主義のプロテスタントだといえる。

しかも、ナチスは、20世紀最大の哲学者、マルチン・ハイデガーをも取り込んでしまったのだ。

 

ハイデガーの「実存主義」をよくしることができるのは、右の『往復書簡』がよほど役に立つ。
教え子にして優秀すぎるハンナ・アーレントとの不倫関係は、まさに「実存」なのである。
しかして、アーレントのなんと冷徹なことか。

戦後になって、もう一つのおぞましきものは、「ロボトミー手術」をまじめに追及した、「精神外科」の分野にある。
「脳科学」の危うさも、ここにある。

この手術を受けた有名人に、ジョン・F・ケネディの実妹、ローズ・マリー・“ローズマリー”・ケネディがいる。
手術を決意したのは、父、ジョセフ・P・ケネディ・シニアで、ケネディ家の政治活動の妨げになるとの判断だったというから、鬼畜の家系なのだ。

もちろん、本人は自分の前頭葉の一部が除去されることをしらずに眠りについたのである。

さてそれで、あたらしい優生学の話だ。
これは、現代科学が行き着いた、究極でもある。
遺伝的な血統にプラスして、A.I.を脳に埋めこむという、まったくもってSFの現実化である。

はたして、ローズマリー・ケネディの手術も、最先端の手術であった。

なので、いま「最先端」だからといって、100年後、1000年後からしたら、ほとんどが「まじない」の部類にはいるのではないのか。

すると、こうした「最先端」をもってエキュスキューズしようとすることのムリは、もうタダの欲望にすぎない。
だからこそ、「倫理」が問われるのだけれども、唯物主義に倫理なんてものはない。

量子力学の大発見で、物質と精神の融合こそが、いまや「最先端」になったから、唯物論者たちはそうとうに焦っているはずなのである。

それが、むりやりの「トランスヒューマニズム」になって、断固推進をいうのが、「トランスヒューマニスト協会」なる、極左(唯物論者たち)団体だ。

このおそるべき時代遅れが、あたかも時代の最先端のごとき噴飯を真顔でやれることのメカニズムこそ、人類は詳細にしっておくべきことになったのである。

「手に職をつける」ことで生きる

生活のいろんな場面で、国家が介入してくる、時代になった。
そういえばむかしの生活は、いまよりもずっと自由だったとおもうのである。

それは、世間の構造がいまよりもずっと単純だったからではない。

どんな社会にするのか?は、個々の意志が塊ってつくるのである。
だから、教育がおそろしく重要で、国家やらなんらかの組織がこれを支配すると、個々の意志をコントロールできてしまう。

そうやって、全体主義をよしとするような気分を刷り込められたら、たちまちそうなるし、その緊張を解放して民主主義をよしとするなら、一晩でも変わる。

この事例として、わたしには、橋田壽賀子の『おしん』の一生が、わかりやすかった。

 

とはいえ、「レビュー」を読むと、あんがいとトンチンカンな感想を書いているひとがいて、それはそれで、「ひとそれぞれ」だとおもうのである。
ただし、橋田氏が明かしたこの作品の執筆動機は、明治の女(彼女から観た母や祖母世代)の記憶を残すこと、だと書いている。

しかして、「おしん」の独立心の根源には、貧乏からの逃避願望があった。

それでまた、彼女が奉公先で仕込まれたのは本人の資質にくわえて、見どころをみつける能力が、奉公先それぞれの経営者にあったラッキーとかさなる。
ここが、人生における偶然と成り行きが織りなすドラマになる理由なのだ。

なので、わたしは『おしん』を「経済ドラマ」として読んで、それで読書ノートを作ったら、彼女個人の人生と社会との絡みがよくわかったのである。

ざっくり、「おしん」は、4つの職業人だった。

1.料理人(奉公人として)
2.髪結い(初の独立稼業)
3.縫製職人(ビジネス化への試み)
4.魚屋(ビジネスは「信用」に行き着いた結果の成功)

「利益は後からついてくる」あくまでも「結果」なのだと強調したのが、ヤマト運輸をヤマト運輸にした、小倉昌男氏だった。
このことを心の芯から理解するのにどれほどの足掻きがあったものか?
それをまた、いつまでも理解できない身内や周辺に、おしんは不満として孤独感に苛まれるのである。

さいきんの「多様化する働き方」というフレーズに違和感があるのは、もともと職業とは多様化していたのだから、なにをいっているのか?とおもうからである。

むしろ、国家の教育制度が、「複線的」であったものを、戦後の教育改革なる騙しで、「単線的」に変えさせられたことが、あたかも「勤め人」になることだけになったことの反動にすぎない。

つまり、高等ではないのに高等学校という場所の、圧倒的「普通科」選択である。

なので、職業学校的な、商業高校、工業高校、農業高校などが、いかにも低レベルという状態に追い込んで、普通科の天下が長く続いたのである。
しかも、職業学校から普通科とか、普通科から職業学校への「転科」はほとんど行われず、それはまた社会に出てからも同じであった。

だからこれを、「単線的」というのである。

旧制の学校制度には、こんな無謀な決めつけはなかったが、尋常小学校までが義務教育だったことも大きい。
それから先は、個々の人生で選択したのである。

それでもって、成績優秀だったひとたちが、狭い視野で教育をコントロールしようなぞという姑息をやるから、あたかも日本人が全員、高等教育機関に通わないといけないような風潮ができて、その究極が、高校無償化という愚策になったのである。

前にも書いたが、教育の無償化は、『共産党宣言』にちゃんと書いてある、共産主義政策の基本なのである。

与党になにやら隙間風が吹いているのはよいとして、これら「無償化」の徹底を公約とする公明党は、その宿敵、共産党となんらちがいのない、ただの共産主義・全体主義政党なのであると告白している。

ただし、「維新の会」というより邪悪な集団は、公明党よりも、もっと巧妙で積極的に共産主義・全体主義を推進するものなので、「五十歩百歩」だ。

時代はA.I.を使いこなすまでになったけど、全部の職業でA.I.が必要だというわけではない。
だから、A.I.を使いこなすことができる人材を育成する「必要」も、一部でしかないのである。

世の中のことは、需要と供給のバランスで成り立っている。

それだから、どんな職業の需要が高くて、どんな職業の供給が多いかが、職業選択上の着眼点になるのは当然だ。
これにも国家が介入して、いわゆる、「国家試験」とか、「国家資格」を設けている。
そうやって、供給の数をコントロールしているのである。

ところが、A.I.がこの介入に介入してきた。

機械学習による「ルーチンワーク」がA.I.の本質なので、法的なルーチンワークなら、人間を要しないことがふつうになると容易に想像できる。
なので、将来を見据えた職業選択をするなら、A.I.とまともにぶつからない分野こそ、人間のやるべき仕事になるのである。

これが、手に職をつける、ことへの回帰になっているのである。
この点で、戦後の教育制度は、すでに完全陳腐化している。

すると、人間の触覚やらの「五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)」と、センサーとの闘いになってくる。
視覚センサー、聴覚センサー、触覚センサー、味覚センサー、臭覚センサーの精度と、人間の感覚器官の精度との闘いだ。

しかし、いかにセンサー技術が発達しても、それでどうする?ができないと、人間の勝利が確定する。
ここに、「職人技を超越した職人芸」が、将来にもまったく侮れない、重要な要素があると確信できるのだ。

なので、なにをもって職とするか?の職業選択こそ、学校選択よりもはるかに重要な分岐点になる。
ただし、「複線的」であれば、「おしん」のように、何回も乗り換えが可能だけど。

そんなわけで、わたしはとうてい間に合わないけれど、10代の若者の可能性をかんがえると、ワクワクする時代になったのはよいことだ。

このワクワクを教えることが、教育なんだけど、これを家庭でできないから、チャンスをみすみす逃す若者が多数なのだろう。

ワクワクをしった少数の若者の需要が高まるのも、道理、というものなのである。

A case of multi-organ inflammation following で検索

”A case of multi-organ inflammation following” で検索すると、これまでにない情報がでてくる。
しかしながら、これを日本語翻訳して検索しても、さっぱり、なのである。

どうなっているのか?はかんたんで、日本語にフィルターがかかっているだけだ。
つまり、検索できないように「だれかが」している。

けれども、少しだけ日本語での情報提供も「進化」して、たとえば、「ヤフーニュース 14歳」とするだけで、これまでネット界隈の「うわさ」(3月頃)だったことが、ちゃんとしたニュースになっていることに気づくのである。
念のため、出典は、「NBS NEWS」(毎日放送)である。

詳しくは実際に、検索していただきたい。

さて、上の「うわさ」の発信源は、あんがいとちゃんとしていて、『Legal Medicine』を発行している、日本法医学会であった。

つまり、ほんとうのうわさの発信源は、この学術論文を読んだひとだといえる。

しかし、マスコミは学術論文を根拠にニュースとせず、警察の「司法解剖」をもって根拠としたところに、病根がある。
この論文は司法解剖の結果をまとめたものだから、なんだか順番と時期がズレているのである。

学術よりも警察という行政機関を優先するマスコミの姑息がここにもあって、一般人もこれに洗脳されているのである。

ではどうして、徳島県警は徳島大学に司法解剖を依頼したかといえば、「健康な10代の女性(死亡したのは14歳の少女だった)が、突然亡くなるのはおかしい」ということだったのだ。

「2類」であり続けたのは、解剖をさせない、ということが理由ではないかと勘ぐられるのも、だんだんと真実味をおびてくるけど、この疑いを捜査する機関がわが国にはない。

捜査対象が、政府になるからだ。
警察も、検察も、政府の一部なのである。
ならば、もはや反社も同然の医師会を捜査する、という企画を警察幹部はたてないのか?

そうやって、解剖もさせずに、死因がハッキリしないで遺族に顔も見せず、あの袋詰めのまま火葬にされてしまう。

高齢者を優先にしたのも、いまとなってはぜんぜん「敬老の精神」ではなくて、ただの死因隠しだったのではないか?
「なにせ歳が歳だから」で、遺族もあきらめがつく。

そうやって、高福祉社会から高齢者数を減らせば、なんだか得をするのは予算が苦しい政府になる。

しかし、誰のための何のための高福祉社会だったのか?を問えば、結局は税金のつかい途を政治家やら官僚、それに、医師会の医師たちにあたえるための、「方便でしかない」ことに気づくのである。

自分が払った税金を自分でつかうのなら、わざわざ政府を介さずに、直接自分でつかった方が、「手数料分」も節約できる。
これが、アメリカ共和党トランプ派の言い分なのである。

それでは業界が困るといって、大反対するのが民主党のオバマだった。
大不評の「オバマ・ケア」の正体がこれで、民主党支持者も「しまった」と思っている。

それでもって、冒頭の検索をしたら、両極端の記事が山ほどでてくる。

積極的な意見の裏に、利権があるのでは?と勘ぐると、それなりの言葉が正直にあったりして、これはけれで有意義なのである。
消極的な意見では、かなりのリスクについての詳細が記述されていて、自己防衛に役に立つ。

ウクライナの話題で目立たないようにセッティングされたから、むしろこれを決めたかった?とおもわれる重要事項が、WHOへの資金と権限の付与を決めたことである。

G7以外に、中国とサウジが別途開催した会議で、世界全体のことはわからないけど、独立国の権限を一部とはいえ国際機関たるWHOに付与するとは、世界政府の実現にほかならない。
それで同時に、世界政府を目指すとしている、グローバル全体主義の司令塔の本体、「ビルダーバーグ倶楽部」が、プレッシャーをかけたのだろう。

この点で、わが国の岸田氏が、きっちり着こなすスーツの襟に、「SDGsバッジ」を輝かせていたのも印象的なのである。
ゼレンスキー氏の丸首姿とは、「エチケット違反」どころではない対比があった。

それでまたどういうことか、ワクチン工場を経産省の予算で建てることになっていて、「mRNAワクチン」を国産として製造するそうな。

厚生労働省の予算でないところが、与党とどう折り合いをつけたのか気になるけど、インフルエンザとかも、mRNAワクチンでというから、一体全体どんな「認可」なのかももうわからなくなったのである。

これを、「医療崩壊」というのではないのか?

もはや、ワクチンなるものは打ってはいけない、ということになるけれど、国民に牙をむいた国家は、WHOの印籠をみせて、強制的に打たせるのだろう。
拒否したら、社会生活ができない報復を受けるのだ。

これを決める、国会議員を国民に選ばせるふりをし続けるのは、もうやめてもらいたい。

噂される、夏の次期衆議院選挙は、国民にとって命がけの選択となること必定なのだが、すっかり愚民にさせられた国民に反発する力はもうないから、どうにもこうにもならないのか?

あれやこれやをかんがえると、ため息しかないのである。

報道がない連邦下院司法委員会の発表

日・米だけでなく、世界の報道機関が、「報道しない自由」を掲げるようになって、いわゆるジャーナリズムは自殺した。

それで、有料の会員制とか特定の団体とかが支援する「報道機関」が、その独特の立場から情報発信をはじめたので、どこまでが事実なのかを穿ってみないと、やっぱりよくわからないことになってきた。

まことに煩雑で面倒くさいことになった。

しかしながら、既存の報道機関が発行する「新聞」や「雑誌」、「テレビ・ラジオ」を購読・視聴することの意味が、壊滅的な「無意味」になったので、どちらもみな経営危機になったのは、ご同慶の至りである。

日本独特の、GHQがつくったNHKが特殊なのは、「受信料」の本質が「税」であると主張したことでわかるように、自分から「国営放送だ」といってはばからない人物を解任もできない、政治の貧困があることだ。

もはや民営化論や国営化論でなくて、不要論でいい。

そんななかで、大紀元・エポックタイムズ(ニューヨーク)さんが、アメリカ連邦下院司法委員会の「発表」を、24日に日本語版としてダイジェストを報じ、フルならば有料会員登録へと誘導されることになっている。

この発表自体は、現地時間の10日のもので、司法委員会のメンバーが総出で会見に臨んだ内容の紹介である。
そして、どの既存メディアも「報じない」という、アメリカ人に対しても目くらましをやっていることがよくわかったのである。

属国たるわが国のばあいも、本国のメディアが報じないなら、ぜったいに触れないのは、祟りを畏れるからだろう。
その祟りは、日本なら東京の「虎ノ門」にあるご本尊が、ほんとうに祟るからだとおもわれる。

なので、ここのご本尊をお守りする神官たる人物が、「LGBT法案を通せ」とお告げだか啓示をいえば、たちまち強行採決だってやるのが、属国の国会の使命となるのだった。

それなら、ユーチューブのようなSNSがあるではないか?とならないのは、Twitter社が政府機関からやらされたこととおなじことがユーチューブでもまだやっているからで、これらの「プラットフォーム企業」が、堂々と検閲できるのは、「通信品位法」というアメリカ本国の法律を根拠にしているからである。

わが国にはこんな法律がないけど、なぜか国会でプラットフォーム企業による検閲が、言論の自由を犯していることも議論されない。
民間企業の経営方針は自由だから、ということなのだろう。

ならば、NHKにエンタメとか恣意的なニュースもやらせずに、淡々と国会中継専門放送局にするとか、国会事務局にアメリカのような放送局(ラジオ局がある)をきちんと設置して、国家として検閲を認めないとしたうえで、ユーチューブに流せば国会の議論も多少は気合いが入ることだろう。

さて今回、大紀元・エポックタイムズが報じたのは、連邦下院司法委員が100日以上掛けて調査してきた、「報告書」の内容についてで、バイデン大統領一家の外国企業からの入金が1000万ドル以上ある、というものだ。
さらに、その受け取り方法にはマネロン疑惑もついてきている。

歴史的な「汚職」の発覚だ。

これが10日のことだから、「広島サミット」の開催時期19日~21日を改めてみれば、バイデン本人ばかりか各国首脳の、「役者ぶり」がよくわかるというものだ。

つまり、G7の首脳は全員で、アメリカ連邦下院司法委員会の報告書を無視したのである。

これは、西側マスコミが、「報道しない自由」をいうどころの騒ぎではない。
各国の国民をも欺く、詐欺師集団だと、全世界に示したも同然なのである。

「広島サミット」の、アメリカやらに都合のよい情報ばかりを伝えるという、「編集」で、既存メディアの情報に依存すると、洗脳されるから、自身の脳の健康のためには、なるべく観ない聴かないという態度で予防することが重要だ。

これらがほとんど報じないことにこそ、重要な情報がある。

たとえば、ゼレンスキー氏の「電撃的緊急来日」という宣伝では、彼はサウジアラビアに立ち寄って、アラブ連盟の首脳会議に出席したことを無視する。
この首脳会議では、ほとんど除名状態だった、シリアがアラブ連盟に復帰する重要事が決まった。

また、西安での「中国・中央アジアサミット」についても書いた通りである。

それに、なんといっても重要なのは、リスボンで開かれた、「第69回ビルダーバーグ会議」なのである。

先進国首脳会議がはじまったのは、1975年で、今回の広島サミットは、49回目の開催である。
つまり、ビルダーバーグ倶楽部(会議)の方が早い。

もっといえば、これらの「会議」が、各地で同時開催されることの意味が、もはや先進国による世界支配の終わりを示していることの方が、重要な認識になったのである。

もちろん、世界支配を目論む、世界経済フォーラムの上位団体、ビルダーバーグ倶楽部こそが、ほんとうの「サミット」で、広島に集まったひとびとはその操り人形にすぎないのである。

とはいえ、バイデン一家の犯罪がこれからどうなるのか?は、やっぱり影響が大きすぎる。

ウオッチの目が離せないのである。

幼稚な既成事実の応酬

「広島サミット」も終わってみたら、なにが決まったか?よりも、元俳優のゼレンスキー氏が主役となった、へんな既成事実だけが目立った。

彼がどうやってわが国まできたのか?は、「フランス政府専用機(フランス軍)」に搭乗していたことがわかって、マクロンがEUとアメリカに折れたこともわかった。

飛行ルートについては、明海大学の小谷哲夫教授が、22日の「テレ東Biz」で解説している。
ウクライナからサウジアラビアを経由し、このとき当初予定の米軍(旅客)機ではなく、上に書いた通りで、なお、インドを横断しベンガル湾からミャンマーを通過して中国上空から広島に到着したという。

当然ながら、「通常の飛行ルート」ではない特別だ。

最低でも、中国上空を米軍機は飛べないし、日本海上空ならロシア軍機にも狙われるから、在日米軍機の支援が必要となる。
そんなわけで、帰国にあたっても、EU内でまだ中立的にみえるフランスの機体が使われたのだ。

教授は、「相当前からアメリカと来日準備の協議をしていたはず」と述べて、「電撃来日」を否定したのだった。
その協議は、言わずもがな、サウジアラビアや、イエメンなど(イランも?)と、インドやミャンマー、中国とに及ぶ「大交渉」がひつようなのだ。

一方で、中国は、サミット前日の18日に二日間の日程で、西安での「中国・中央アジアサミット」を開催していた。
参加国は中国の他5カ国(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン)で、中国からこれらの参加国へ5000億円の支援が決まった。

個人的には、この地域で興味深い、「世界一の親日国」を自称しているアゼルバイジャンが不参加だったことの理由の詳細をしりたいが、よくわからない。

いまや、「逆神」としての価値しかない、マスコミ報道では、「G7サミットに対抗するため」という理由付けがされているので、おそらく中国の本意は、G7に対抗するため「ではない」とかんがえたくなる。

それがまた、上述の飛行ルートへの協力(国土上空通過許可)でわかるのだ。

これを、遠藤誉筑波大学名誉教授がありがたくも別角度から解説してくれている。

なかでもカザフスタンを例に、中国の心配事についての記述は一読の価値がある。

キーワードの「産出する石油やガスの硫化水素(H2S)成分が多いこと」という指摘は、まことにもっともな物理的理由である。
さすが、理学博士だ。

つまり、カザフスタンも含めたカスピ海の油田やガス田(アゼルバイジャンも)が、この地域の経済発展に欠かせないだけに、硫化水素との技術的な闘いを制さねばならぬのに、西側(アメリカ・ドイツ・日本)の技術を要する、という条件が、中国の世界戦略に立ちはだかっているのである。

だから、単純に「対抗した」というレベルの話ではない。

しかし、あたかも既成事実を積み重ねたようなことが、そのまま国際政治になることを示している。
それでもって、「上海協力機構の首脳会議」とならなかったことも、気になるポイントなのである。
かんたんにいえば、ロシアが不参加だったことだ。

一方で、広島サミットでは、ウクライナの和平を模索するひとがだれもいないで、原爆記念館(「本館」ではないが)に行ったのは、どういうことか?という問題も、日本人に突きつけた。
なんだかしらないが、原爆を投下された日本が悪いことになっているのは、だんぜん納得がいく話ではない。

この一点で、岸田氏は即座に抗議して辞任しないと、またまたのらりくらりとして、歴史になってしまう汚点をつくる。

まるで国家観のない人物を、最長の外務大臣に据えた安倍晋三氏の任命責任だって、いまさらに問いたい大問題だが、もう自民党にこれをいう人物も絶えた。

こんな人物を首相にしていることが、日本人の民族的悲喜劇だ。

それでもって、興味深いのは、最新鋭戦車に続いて、禁断の最新鋭戦闘機F16をウクライナに供与することも決まった。

フライイングとして、東京新聞社会部の名物女性記者が、ツイッターに「日本が保有するF16戦闘機」と書いたことで、プチ炎上したらしい。
わが国は、この戦闘機をアメリカから供与されていないのである。
だから、保有していない。

けれども、ウクライナに戦闘機供与をするという既成事実だけが発信されているのである。
これでロシアの劣勢も、なんだか既成事実になったと書くひともいる。

残念ながら、最新鋭戦車でも書いたが、最新鋭戦闘機ともなれば、だれが操縦するのか?という問題が無視されることの方に驚きがあるし、そもそも「ウクライナ軍」なる国家の軍隊組織は現実に存在しているのか?さえもおおきな疑問だ。

地上を走る戦車ですら、新人が操縦できる、という程度までに最短で8ヶ月の訓練を要する。

戦車の乗員は、「走る」「撃つ」「込める」「指揮する」の4つの分野で、専門的に分化しているから、ただ走行できる、では、戦車にならないし、最新鋭とは「自動化:コンピューターへのプログラミング操作」という意味もあって、そのプログラミングが専門的でまた煩雑なのである。

ましてや、最新鋭戦闘機を操縦して、実戦におもむくまでにいかほどの訓練を要するのか?は、素人の想像を絶するし、その費用と教官をどうやって確保するのか?

すぐさま飛んでいくような、実戦配備なんてできないから、各国が供与する、という政治的パフォーマンスをやって、訓練期間中に、和平協定に応じろ、というのが、ゼレンスキー氏への各国の強い要求になっていることの本音がわかる。

武器さえあれば、戦争に勝てる、なんてかんたんな戦争を現代ではしたくともできないのである。

だから、今回の供与決定という政治判断は、たんに、軍事産業に発注する、という意味でしかなく、それでウクライナがロシアに勝てるかどうか?なんてことは、だれも関心をもっていないのだわかったのである。

つきつめれば、中国は西側技術を欲しがる国をとにかくなだめる努力をしていて、G7各国は、完成された軍事的機械類が売れればいい、ということの「応酬」があった、ということにすぎない。

バイデン氏と下院議長の、連邦予算に関する調性が失敗におわって、いかにアメリカ大統領がF16をウクライナに渡したいといっても、そんなカネがどこにもないのが、いまのアメリカ政府の財布事情である。

一方で、デフォルトをいって、一方で戦闘機供与をいうバイデン民主党政権の無責任がここにある。

東京新聞社会部の名物女性記者の幼稚を嗤うどころか、世界の報道が狂っているのである。

ドキュメンタリー映画『BirthGap』の真実

「人口爆発」と、「地球温暖化」が、「食糧危機」を招いて、結果的に人類は滅亡の淵に追いやれる。
ために、「昆虫食」という話になっている。

このブログでは、地球温暖化についての疑義を書いてきたけど、上記3要素のぜんぶに疑義がある。
少なくとも、食糧について、人類はとうにカロリーベースでは、食料問題を解決している。

そこで、検索エンジンで「食糧危機」を入力すれば、でてくるのはほぼ左翼の記事ばかりで、一種の「踏み絵」状態にあることがわかる。

例によって、チャットGPTへ、「食糧危機のウソを示しなさい」と入力したら、「食糧危機を煽る人たちは、、、、、。」と説明があって、「実際には、世界の穀物生産は人口や所得の増加を上回っており、穀物価格は長期的に低下傾向にあることはグラフで示されています」と。

もちろん、そのグラフの出典も示している。

「したがって」、に続いて、「食糧危機のウソとは、恒常的な食料供給不足や価格高騰を予測することで、農家や農業関係者が自分たちの利益を図ろうとすることだと言えるかもしれません」。

なんだか左翼のみなさんの努力を、一撃で排除してしまうのが気の毒になるほどだ。

そんなわけで、3要素の2要素は、すでに論破されている。
そこで、最後に残った、人口爆発はどうなのか?を検証するのが、表題のドキュメンタリー映画『BirthGap』なのである。

詳細は、ハラノタイムズさんのサブチャンネル、「Harano Talks Official Channel」で、日本語解説をしている。

解説にもあるが、この作品の制作者であり、監督でもある、Stephen J Shaw氏は、現在日本在住で、元はデータアナリストであった。
つまり、数値データ解析の専門家なのである。

Shaw氏が、世界の人口問題に気づいたのは、日本の少子・高齢問題、なかんずく「少子化」についての原因を、データによって解析したことからはじまるという。
つまり、一般的な解説の「ウソ」に気づいたのだ。

もちろん、先進国における出生率の低下があっても、途上国の人口爆発が人口増加問題の根源だということの「ウソ」のことである。

世界は、この70年で、出生数が「半減」もしているのである。
それなのに、どうして人口爆発なのか?

むしろ、世界は人口減少によって、巨大な限界集落化をして、社会機構の維持が困難になる可能性の方がよほど確実な問題なのである。

つまり、「移民」による人口確保という手段は、単純に、民族国家としての社会機構を自ら破壊する愚かな行為だといえる。

しかし、どうしてこうなったのか?の深掘りは、意外に困難で、ひとつの原因に、1973年の第四次中東戦争に端を発する、石油ショックがあったというまでになっている。
わが国における、「ショック」の到来は、翌年の74年になってからだった。

一般的には、アラブ産油国による「石油戦略の発動」といわれてきたが、これも、じっさいは「国際石油資本(いわゆる「石油メジャー」)」によって煽られたものだったことが、明らかになっている。
急激な原油の値上げで儲けたのは、石油産油国ではなくて、むしろ石油メジャーの方だったことをもとに調べたら出てきた事実だ。

この世界史的な「事件」で、それまでの安い石油に依存した経済体制が、崩壊したかにみえた。
けれども、このときの石油価格の変化は、1バレル(159L)あたり、3ドルから一挙に4倍の、11ドルから13ドルあたりに「高騰」したのだけれども、直近の23日では、73.63ドル(WTI原油先物)で、スポット価格のドバイ原油の7月渡しは75.30ドルだ。

なお、最高値は、2008年7月3日につけた、145.31ドル(終値)であった。

ここで原油価格の決定メカニズムを議論するものではないが、50年前の原油価格を比べるにあたっては、50乗根を計算すれば、伸び率が年率換算できる。
すると、50√(75.3/13)=1.036、すなわち、3.6%ほどになるから、たしかに石油ショック時の一気に4倍の上昇は、全世界の経済状況を一変させたことは事実だ。

とはいえ、それでも、いまではかんがえられない「安さ」なのである。

さらに、前に書いたが、わが国における「高度成長」が終わったのは、石油ショックが原因ではなく、田中角栄内閣のバラマキによる無駄遣いが原因だった。

このあたりの時間軸における「近さ」は、昭和2年の「昭和金融恐慌」という国内問題と、2年後の1929年(昭和4年)の、「世界大恐慌」とが混同されるのに似ている。

人間の判断が、一般論によって作られることを示唆するけれど、原因がなんであれ、これをきっかけにして、生活防衛のための「女性の社会進出」の口火を切ったのはまちがいない。

素地として、当時の「ウーマンリブ」運動が、「主婦連」を攻撃して、それがまた、「男女同権」となって、いまの「LGBTQ」になってきた。

はたして、世界における人口減少とはなにか?をしるには、自然発生的なもの、と受け入れる前に、まさかの「人為」をうたがうことは、いまの時点における重大事になったのである。

それが証拠に、この作品の上映が12日に予定されていた、ケンブリッジ大学セントジョンズカレッジで、「中止」に追い込まれたのは左翼学生からの妨害行為が原因だった。

こうした「行為」こそが、長いストーリーの「人為」の一部になっているのである。

チャットGPTの回答について

昨日の、「チャットGPTへの質問力」で、じっさいに質問した、「A.I.の普及によって税金の使い途と役所の機能は、将来どんなふうに変化するか?」の回答について、研究したい。

第一印象は、あたりまえだが、既存情報でしかないことだ。
これは、ネット上の情報を集めるという、チャットGPTの仕組みがそうなっているので、そのまま出てきた、という確認になった。

「未来を予測することはできない」と断ってくるのも、しっかりプログラミングされている。

第二は、各種関連資料のありかをちゃんと示してくれることの利便性だ。
これは、チャットGPTが自分で書いた文脈に連なる資料と関連づけるので、すでに検索エンジンの上をいく、「A.I.らしさ」がわかる。

だからといって、A.I.が文章そのものを理解しているのではないので念のため。

第三は、税金の使い途などが「効率化する」ことへの、読者としてのあらたな疑問が生まれたことである。
つまり、行政で発生することのすべてを、どうやってデジタル化するのか?からはじまって、だからよりよくA.I.が判断するための条件設定に、ただ機械学習させればいいのか?といいたくなるからだ。

結局は、この点が人間の絶対的関与が必要なのだけれども、それを誰がどうやってA.I.にプログラミングするのか?が、ブラックボックスになっている。

映画『マトリックス』における、「アーキテクチャ」のことだ。

以上から、第四として、革命的な発想の逆転はない、ということがわかる。
「既存」がすべて、であることからの結論だから、第一印象とおなじだけれど、ここでの「コンサバ」とは、「保守主義」ということではなくて、ただの「惰性」なのである。

これは、「慣性の法則」として書いてきたことの、A.I.による捕捉なのである。

もちろん、物理法則としてのそれではなくて、組織における決めごとの「惰性」が、組織全体の法則として現れることを指している。
いわゆる「お役所仕事」のことである。

しかし、「お役所仕事」は、なにもお役所だけのことではなくて、たいがいの「事務業務」には、これがある。
むかしからのやり方を、いちいち変えるようなことをしたら、かえって効率が悪いことになるからでもあるけれど、それが絶対化して効率が悪くても、だれも変えようとはしないものだ。

すると、A.I.の活用に、こんな絶対化して非効率になった仕事が効率化することに、ほんとうに意味があるのか?という問題もある。

惰性をA.I.で効率化するのは、惰性をブラッシュアップする、ということになるからである。

むかしだったら、「屋上屋を架す」ことが、その煩雑性から上司や経営者にバレたものだけど、A.I.活用というスローガンで、何重もの屋上屋を架すことになっても、きっと効率よくみえるのだろう。

もしや、指標はA.I.を動かすための「電気代だけ」になるかもしれない。

それで、なんだかさいきんA.I.の電気代がかさむ、としてプログラムを調べたら、屋上屋を架していることがバレるのだろう。

これもA.I.に監視させることになるはずだ。

いや、それよりも、A.I.稼働率なるものがA.I.から社内に公開されて、活用度合いの高い部署とそうでない部署の差別的待遇が起きるかもしれない。

A.I.先進国としてのアメリカで、最近話題になった「雇用統計の闇」では、ホワイトカラーの失業と、ブルーカラーの人手不足が、統計上では失業率を下げていると分析されて、高等教育機関の経営者たちを震撼させている。

アメリカがA.I.先進国なのは、A.I.が得意な言語が、開発言語としての英語だからで、また、大株主がA.I.導入を経営陣に押しつけているからだ。
それは、ホワイトカラーのコスト(人員)削減が、社会的な失業増につながっていても、株価と配当の増加を望むからである。

この状況が、高等教育機関の経営者たちを震撼させるのは、高額な授業料を負担してでも得られる、高学歴という「資格」が、自動的に高給をもたらす法則が日本以上に強烈だったからである。

アメリカの「学歴社会」は、日本のそれがおままごとにみえるほどなのだ。

ところが、これが崩れだして、たいがいのホワイトカラーの業務が、A.I.に置き換わってしまっているのである。
それは、主にルーチンワークで、税理士や公認会計士あるいは初級公務員を筆頭に、人間の資格保持者を必要としないからである。

いま、アメリカ人の10代で、税理士や公認会計士を目指す子供が絶えてきているのはそのためだ。

すると、業界や士業にやさしいわが国のばあいをかんがえたら、A.I.が到底できない、プログラミング不可能な恣意的な権限をこれら士業にもたせることにして、A.I.を排除することが政治課題になるはずである。

たとえば、「回答」にあったように、どの役所がどんな補助金制度をつくって、その応募・対応手順もまたA.I.が教えてくれるようなことは、税理士や中小企業診断士の手数料収入を減らすことになるから、かんたんに検索できないように秘匿化するなどの姑息をやって、あくまでも国民にしらせないで行うことになるのだろう。

士業を管轄する役所が、これら士業のために各種情報を「資格登録者ネットワーク(ふつう「なんとか会:協会」とかという業界組織)を通じて、一般に人にはわからないように流しているからだ。
それで、その士業に依頼して、つまり手数料を払わさせられているふつうがある。

はやく気づく業界団体が、これをやること必定なのである。

すると、結果的にA.I.で国民に利便性を提供する業界は、こうした分析ができなかったか、なんらかの見せしめだとして、気の利いた子供たちは当該士業になるための教育機関に授業料を払おうともしなくなるのは当然だ。

哀れな文科省やらの既得権益保守派は、そこでどんな邪魔をしかけるのか?という人為がはたらくにちがいない。

そんなわけで、チャットGPTの回答を読むと、政治の貧困からの脱却こそが国民のテーマだとわかるのであった。

チャットGPTへの質問力

「A.I.(人口頭脳)」が話題になって久しいけれど、それがどんなものなのか?について、あんがいと誤解がある。

誰もが想像するのは、かつてのSF映画に登場する、ウルトラ優れたコンピューターで、たいがいが、人間と直接会話する設定になっていて、たいがいが人間を支配している状態を、人間側のレジスタンスでこれを破壊し、人間による世界を取り戻すという話になっている。

そこで、たとえば、「SF映画で人間がコンピューターから実権を取り戻すストーリーはどんなものか?」と、Chyat GPTを組み込んだ「Bing」に聞いてみた。

すると、回答の冒頭は以下の通りだ。
「人間がコンピューターから実権を取り戻すストーリーは、SF映画の定番のテーマの一つですね。
そんなSF映画の中から、おすすめの作品をいくつかご紹介します。」として、5つの作品が簡単な内容解説をつけて紹介された。

そして、以下の文章で結ばれている。
「以上が私が選んだおすすめ作品です。どれも人間とコンピューター(A.I.)との関係や対立を描いており、興味深い内容だと思います」。

ここであらためて、「Chyat GPT」の定義を確認すれば、まず用語として、「Chat Generative Pre-trained Trensformer」のことである。
かんたんにいえば「自発的学習して、アウトプットを生成するA.I.との雑談)」という意味になる。

それで何がいまさかんに話題になったことの根拠かといえば、「GPT-4」になったことを発端としている。

「GPT-3」が、小学生並みという評価だったのに、4になって、大学生に成長した、といわれるほどになって、より実用的になったのだ。
これを東大の副学長は、「ルビコン川をこえた可能性」とも表現している。

いよいよ、本格的なA.I.時代が到来し、人類は引き返すことができなくなった、ということだろう。

問いかけの文字数の制約、という点で、2500字から一桁増えて、25000字になっただけでなく、また、文章だけでなく、音声や画像をマルチにつかった方法でも、文章としてアウトプットすることができるように大進化したのである。

あたかも、「検索エンジン」が機能拡大したようにおもうひともいるだろうが、ぜんぜんちがうし、「自動翻訳」でもない。

これは、開発言語が英語だから、より英語の方がパフォーマンスが高いというけど、日本語にも対応しているので、日本人がそのままつかえる、「回答生成機」なのである。

だから、検索エンジンや自動翻訳機のようにもつかえるけど、それだけでは機能を十分に引き出しているとはいえない奥深さがあるのである。

すると、どうやったらこの利便性を十分に引き出せるのか?をかんがえたら、これを利用する人間側の「質問力」が、直接的に問われる、という問題がある。

A.I. についての誤解は前にも書いたが、それはA.I.自体の問題であったけれど、いざ「つかいこなす」となったら、ブーメランのように人間の能力が問われるのは、意外でもあり尤もでもある。

この『教科書が読めない子どもたち』は、すでに古典的名著といえるだろうが、A.I.も文章そのものを理解しているとはいえないことは、「GPT-4」になってもおなじなのである。
それこそが、A.I.のA.I.たるゆえんで、人間の脳にはとうてい追いつかない。

しかし、まさに著者が指摘しているように、人間側も「文章を理解できない」ようになってきたことが、大問題なのだ。
だから、A.I.に対して、的確な質問文を与えることができない。

インプットが不十分なら、アウトプットが不十分になるのは、当然だ。

すると、ルビコン川をこえてしまった人類には、初等教育から、すっかり設計をやり直さないといけないことが確実になった、といえる。

「お試し」なら無料でつかえるけれど、全機能をつかうなら「有料:サブスク」契約をしないといけないのも、「世の常」となって、一生涯課金される、という高コストな人生も強要されているにひとしい。

このことは、「税金」の概念すら変えるにちがいなく、その配分を業務にする「議会」の役割も、必然的に変わることになる。

人々は、なにを役所に期待するのか?さえも、A.I.に聞けば答えてくれるのである。

そこで、以下の質問をした。
「A.I.の普及によって税金の使い途と役所の機能は、将来どんなふうに変化するか?」

回答は以下のとおり(かなり長文なのでご参考に)。

こんにちは、これはBingです。

AIが普及したら税金の使い方と役所の機能はどのように変化するかという質問ですね。
残念ながら、私は未来を予測することはできませんが、現在のAIの状況や自治体におけるAIの活用事例をもとに、一般的な考え方をお伝えできます。

まず、AIとは何かということですが、総務省の「自治体におけるAI活用・導入ガイドブック」Ad1によると、「知的な機械、特に、知的なコンピュータプログラムを作る科学と技術」と説明されています。

AIは、ビッグデータから自ら知識を獲得する「機械学習」やその一つの手法である「ディープラーニング」などの技術の進歩により、人間の知覚や発話、認知や判断などの機能を模倣したり、超えたりすることが可能になっています。

次に、AIが普及した場合に税金の使い方や役所の機能がどのように変化するかということですが、これは一概には言えませんが、以下のような可能性が考えられます。

税金の使い方については、AIを活用することで行政業務の効率化や住民サービスの向上、地域課題の解決などが期待されます。例えば、「AIを活用した申請受付・審査支援システム」Ad1や「AIを活用した住民税の賦課修正業務の効率化実証」Ad1などがあります。

これらの取組は、行政手続きや税務処理を迅速かつ正確に行うことで、職員の負担軽減や住民へのサービス向上につながります。また、「AIを活用した児童虐待対応支援システム」Ad1や「AIを活用した介護予防」Ad1などは、社会的な課題に対してAIが有効な支援を提供することで、人間だけでは対応しきれない問題に取り組むことができます。これらの取組は、社会保障・福祉や社会資本整備などの分野で税金を有効に活用することにつながります。

役所の機能については、AIを活用することで行政サービスの多様化やデジタル化が進むと考えられます。例えば、「AIを活用した総合案内サービス」Ad1や「AIリアルタイム議事録」Ad1などがあります。

これらの取組は、住民からの問い合わせや情報提供を音声やテキストで自動的に行うことで、24時間365日対応可能なサービスを提供することができます。また、「AI-OCRによる行政文書の読取・データ化」Ad1や「AI活用に向けた民間事業者へのデータ提供」Ad1などは、紙媒体や非構造化データをデジタルデータに変換し、分析や共有を容易にすることで、行政データの有効活用を促進します。
これらの取組は、役所の業務プロセスや情報インフラの改善・強化につながります。

以上のように、AIが普及した場合に税金の使い方や役所の機能がどのように変化するかは具体的には分かりませんが、一般的な考え方としては、
AIは人間では難しいか不可能なことを可能にする技術である
AIは人間では時間やコストがかかることを効率的に行う技術である
AIは人間では気づきにくいことを発見する技術である

という点から、
AIは行政業務や住民サービスを高度化・多様化・デジタル化する
AIは社会保障・福祉や社会資本整備などの分野で税金を有効活用する
AIは地域課題や新たなニーズを解決・創出する
という可能性があると考えられます。

という回答だった。