金1グラム1万円

世の中は、「金価格上昇」と書きたてているけれど、金の販売社がかならずパンフレットに書く、「太古からの不変の価値」が本当ならば、「ドルや円価値の下降」が正しい評価になる。

そのドルに対しても「円安」だから、日本人が貧しくなるメカニズムは、このなかのどこかに潜んでいる。

約30年前、1グラム1200円だったのが、いっとき700円台までになって、これを底にしてとうとう1万円となったのである。

従来型の経済理論を、ことごとく否定したのがトルコのエルドアン大統領で、徹底したトルコ・リラ安政策を実施してきた。
しかし、3期目の昨年の大統領選挙で、対立候補との激戦となり、その政権基盤が「盤石」ではないと国際社会のしることになった。

どこでなにがあったのかはしらないが、3期目のスタートにあたって、従来型の経済理論を採用することになったのは、これはこれで世界をおどろかすことになったのだった。

しかしながら、トルコ人はトルコ・リラを使わないでドルでの生活になっているから、だからなんなのか?があるのである。

それでも紙面を埋めるために何でもするインチキで、トルコのインフレをトルコ・リラベースの論法でもっともらしい記事にして、中央銀行の利上げについても不可思議な解説をしている。
7月のインフレ率は、47.8%なのに、8月のトルコ中央銀行の利上げ後も、政策金利は年率25%でしかないのである。

これで、インフレ退治ができるのか?になるけれど、トルコ・リラをベースにした話なので、もはや話半分でしかない。

こんな国もある。

わが国は、「経済カースト」のなかでは、トルコよりは「まし」だとおもいたいが、完全にFRBの支配下に日銀が位置するから、その政策自由度においてはまさかのトルコ以下なのである。

これは、トルコが地図上で位置すること、つまり、地政学的に、ロシアの影響が避けられないことと関係している。
NATO加盟国なのに、EUには加盟できないトルコの中途半端さは、逆にトルコの政策自由度を担保させているのである。

あたかも、トランプ氏を徹底的に政治迫害してはばからなくなったことが、かえってトランプ氏の支持を深めて、過去最大の政治資金があつまっているように、トルコはうまくヨーロッパとつき合っている。

翻って、わが国のまずさは、徹底的にアメリカ民主党の分党のようにふるまうことで、その腰巾着ぶりを強化しているけれど、もはや「泥船」だと国民が気づきだしている。

とうとう、あのソロス財団(「オープンソサイエティ財団」)が、ヨーロッパからの撤退を表明し、従業員は全員解雇の対象となった。
どんなに資金をいれても、効果がないばかりか、かえって反発を生むことに気がついたようだ。

別の見方からしたら、トランプ潰しに集中する、という意味にもみえる。

また、BRICs首脳会議では、事前にいわれていた新通貨の話はなかった。
だが、現在の各国通貨の決済を加盟国間でより円滑にするためのシステムを構築する、ということが、新通貨のことだとすると、あんがい「まとも」なのだ。

これにはふたつの意味がある。
ひとつは、BISからの脱却を示唆するからだ。
もうひとつは、ハイエクの「通貨自由発行論」がイメージできる。

すると、わたしにはBRICs機構は、第二国連にみえてくるのである。

24年1月に新規加盟が決まったのは、イラン、サウジアラビア、エジプト、アルゼンチン、UAE、エチオピアの6ヵ国で、これらを加えた後のBRICs経済圏は、なんと西側先進国(G20)のGDPを抜き去るのである。

そしてなにより、サウジを中心とするアラブ湾岸産油国が、キッシンジャーが提案した、「ペトロダラー」からの脱却を決めたので、ドルの神通力が弱まること確実になったことが、わが国にも多大な影響を及ぼす。

何のためのアメリカ国債大量保有だったのか?だ。

また、BRICs新通貨が金本位制だという噂がもっともらしくながれたのも、石油本位の後ろ盾を失うドルへの攻撃だったとしたら、否応なしに金価格が上昇し(ドルや円の価値低下)が起きるのである。

すくなくとも、ペトロダラーを創設したキッシンジャー御大(御年100歳)が存命中に、その崩壊を目にして永眠するのか?それともすでになにか手を打っているのか?

一般人にはわからない。

ただ、1974年から半世紀で、大転換点をむかえていることはまちがいない。

国際バカロレアの解説講義を聞いてきた

国際バカロレア(International Baccalaureate:IB)とは、スイスに本部を置く非営利団体がおこなう、大学入学資格試験とそのための教育プログラムをさす。

この設立の背景には、外交官の子供たちが赴任先の国における教育で、母国での大学進学に不利にならないようするためで、目的には、より良い平和な世界を築くために貢献する人材育成として、「全人教育」を掲げているという。

ここで注意したいことが3つある。

ひとつは、ヨーロッパの外交官とは、すなわち「貴族」だということだ。
日本人はすっかり忘れてしまっているが、現代ヨーロッパは相変わらず「身分社会」なのである。
ゆえに、貴族の子供に対する特権的教育プログラムになるのは当然である。

ひとつは、より良い平和な世界を築くために貢献する人材育成としているのに、ウクライナ戦争をやめられられないのは、このプログラムの失敗を意味しないか?ということだ。

それがまた、ひとつ、「全人教育」を掲げていることの不可能なのである。
わが国の伝統にしたがえば、子供の教育の責任の第一は、家庭=親にあった。

共産化したアメリカ民主党は、親が子供の教育責任者であることを否定して、行政にあるとした。
それで教育委員会に抗議した親たちを、なんと「国内テロリスト認定」したのであった。
この認定を受けた親を、FBIが逮捕する事態にまでなっている。

このような、発信源の側の諸事情をふまえたうえで、IBの説明を受けるのは重要なことだけど、説明者はこのような前提を説明してくれるわけもないので、聴く側の問題になっている。

また、このブログでは何度も書いてきたが、だからといってわが国の教育が素晴らしいとは到底いえないのも事実である。

この原因は、独占禁止法に違反する文科省の学校教育全般(義務教育から大学まで)に対する独占であって、さらに、研究予算の配分も文科省が決めるので、学者も全員いやでも文科省の役人に逆らうことができなくなっているおぞましい現実がある。

文科省役人の好き放題の隠れ蓑になっている、堕落した国家機関が、日本学術会議なのだ。

もちろん、わが国の大学受験制度は、文科省の独占を強化するためにある。
そのための、手段が「難関校の神話化」である。
これにぶら下がっているビジネスが、受験予備校・塾である。

とにかく、「なぜ?なに?」といった余計なことを一切かんがえず、教科書が聖書・コーランのごとく正しい、とした一種の宗教的な学習ができる者が、難関校に合格するようになっている。
ゆえに、A.I.時代を迎えて、これらの人間は生き残れるのか?という疑問が各所から湧き起こっているのであって、決してやっかみからの世迷い言ではない。

それはもう、いまの日本政府をみればわかる。

この難関校出身者ばかりで構成されている組織群の体たらくは、かつての興銀や長銀の破綻と似ているのである。

興銀は東大出でなければひとに非ず、だったし、対する長銀は京大出でなければひとに非ず、といった、およそいいおとなが口にするのもはばかれることが、行内の常識だった。
この幼児性は、家庭内教育の否定を第一にした、GHQ=アメリカ民主党が構築した、戦後教育の成果であり、その経営破綻は、結果だったのである。

ただし、日本型の経済を支えたのも、これら長期信用銀行の役割だったから、これを潰さざるをえなくしたバブルとバブルの崩壊は、日本潰しの最終局面としてアメリカに都合がよかったことも、日本人はしっておくべきだ。

そんなわけだから、家庭内教育とIBを分けて、あらためてIBだけをみれば、少なくともいまの日本の完全管理された学校教育の方法よりは、より、生徒オリエンテッドであることは間違いない。

前にも書いた、アメリカの教科書がやたら分厚いのは、「読めば分かる」ように、懇切丁寧さの結果なのである。
だから、学生はこれら大部冊を読む作業に徹するのだけれど、飽きさせないための工夫も又ページ数を増やす原因で、現実世界での応用事例をふんだんに紹介している特徴がある。

今回、わたしが受けた解説講義は、IB認定校のじっさいの数学授業をサンプルにしたものだった。
生徒たちと学校の中庭に出て、校舎にある塔の撮影をする。
この画像に三角形を書く加工して、タンジェントをもちいて塔の高さを算出するのである。

そのためには、現場でなにを確認しないといけないか?を生徒にかんがえさせて、意見を述べさせる。

なお、これらの計算に用いるのは、世界的に有名な「教育用グラフ電卓」、TI-Nspire CX II CASで、生徒たちに配布されている。

さて、こうした授業法がわが国で普及しないのは、当然に文科省の独占から逸脱するからだし、受験問題の解法に合致しないからであるけれど、一方で、現場レベルでは、数学教師がこうした授業法を面倒がって嫌がるからである。

公務員化=お役人化した教師は、学習指導要領に準拠していていさえあれば、それでいいからで、できるできないは、生徒の理解力と努力次第、という上から目線が、この上もなく楽ちんだからだ。

もはや、国家百年の計、などと教育の重要性をいうものもいなくなって、なんでもいいから大学卒業が高学歴なのだ、とか、それで一生が安泰だという時代は終わったのに、素直にやらされているだけの子供が最大の被害者なのであることだけがわかったのである。

人類史上初が軽すぎる日本の怖さ

フクシマの、処理水(「汚染水」となぜかいわなくなった)海洋投棄のことである。

電気事業連合会からの巨額広告料収入があるからか?また、政府広報の巨額広告料収入があるからか?むかしは、「聞屋」といって蔑まされた記者稼業が、ふたたびあやしい存在になってひさしい。

もっと政治向きに穿ってみれば、電力労連がNHKとかの労組と結託しているのか?ともおもえるのは、その報道内容のほとんどが、「ウソ」で、国民の目を事実からそらす努力をしているからである。

物質文明のひとつの極致が、原子力発電である。

二度も「核」の空中爆発をくらってえらい目にあった日本人がいう、「世界初の暴挙」があることを忘れて、今度は自ら「世界初」を決定して実行した。

あたかも、ヒロシマに刻まれている、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」に対して、被害者の日本人があやまちを冒したようで書き換えるべきではないのか?の正当な意見に、広島市は詭弁を弄しているから、参照されるといい。

こんなことがまかり通るから、フクシマの人類史上初がたいした議論にならずに、あるいは信用できないけど、マスコミが実施する社会調査で、支持者が6割もいるような恥を恥とも思えぬ国民になったのである。

広島市の見解のとおりなら、二度目となる今回の海洋投棄は、わが国の意思なのだから、攻撃された受身とはぜんぜんちがう、かえって重大な「あやまち」ではないか?と、広島市長は広島市民たる岸田首相に抗議をして当然なのに、これをしないのは、ダブルスタンダードである。

そんなわけで、中国がわが国水産物の禁輸を決めて、わが国の水産物輸出の42%を失うに至った。

この数字の中に、広島県の水産物も含まれる。
ことは、福島県の漁協だけの問題ではないのだけれど、こんな事態を日本政府と与党はほんとうに事前に予想しなかったのだろうか?

さきに「ありき」を決めてしまって、あとはひたすら実行するのみ、というのは、あまりにもストレートで単純すぎる。
単純な受験脳が仕切る、エリートの崩壊だとしかおもえない。

まずは、外交的な敗北があげられるのだ。

海産物が市場からなくなって、困るのは中国人だ!という言い分も、子供じみている。
なんであれ、外交カードを相手に渡したことにかわりはなく、今度は解禁したばかりの渡航制限復活もいいだした。

24日付、ニューズウィークによると、もしや、あちらの原潜が台湾海峡で沈没したかもしれず、その汚染はフクシマ海洋投棄の比ではない。
これを隠す、絶好の口実を相手に与えた、という意味でも、外交カードなのだ。

「廃棄物その他の物の投棄による海洋汚染の防止に関する条約」通称、ロンドン条約は、わが外務省のHPでは、「同条約は,水銀,カドミウム,放射性廃棄物などの有害廃棄物を限定的に列挙し,これらの海洋投棄のみを禁止していた。」と解説している。

つまり、条約違反が疑われるのである。

さらに、この条約の前提に、「海洋法」がある。
「海」は誰のものか?を規定しているのだけれども、「みんなのもの」と結論づけている。
世界の大陸につながっているのが海だからで、汚すな、という具体的ルールがロンドン条約だ。

政府が「お墨付きを得た」という、IAEAは、上の条約を管轄してはいない。

人類が経験した、メルトダウンを伴う原発事故は、過去3度ある。
スリーマイル島とチェルノブイリ事故につづいて、フクシマとなったが、どれもこれまでは、「陸上での処置」をしてきた。

このたびの日本政府の決定は、人類初めての海洋投棄となったのだ。

事故から12年以上が経過して、タンクが足らないというけれど、水のまま保管するだけなのはどういうことか?
コンクリートで固体化する方法がどうしてとられないのか?がわからない。

つまり、物理的方法論の前に、わが国はこの12年以上、この事故を国内問題としていたのに、今回、国際問題に拡大したのである。
しかも、自分たちの意思でだ。

さらに、あたかもトリチウムだけだ、とウソをついている。
東電の発表で、ALPSを通過した「処理水」には、セシウムやらストロンチウムやらも含まれている。

世界の原発を見渡せば、どこもかしこも、トリチウムを含んだ排水を放出しているという、無責任な報道もある。
これは、熱交換器を通じて蒸気を冷やすのにつかった水が、トリチウム化するからで、フクシマのように、デブリに直接触れた水とは意味がちがう。

だから、セシウムやらストロンチウムが入っているのである。(環境省
トリチウムの半減期は、12.3年。
セシウムは、セシウム134の半減期は約2年、セシウム137の半減期は約30年。
ストロンチウムは、28.8年だ。

ついでに書けば、デブリとは燃料棒が溶けてしまって、周りの構造物も溶かしたために溜まったもので、どんな成分なのか?はいまだにわかっていない。

どちらにしても、薄めたから大丈夫だ、という理屈は、バリバリの文系か知能が低いひとにしか通じない。
いよいよ、小学校の理科での授業が面倒になったのである。

理系脳の子供に、薄めたから大丈夫は通じっこない。

悪魔的な宣伝部隊からしたら、6割と、かくも支持者が多いことに満足していることだろう。
しかし、この愚かな支持者達は、「仕方がない」という理由のはずだから、仕方がない人生を歩むはずだといえば、他人事になってしまう。

ところが、国内問題から国際問題になったことの重大性にも気づかない阿呆だから、思いもかけない海の彼方の国から、どんなイチャモンがつけられるのかも想像できないないのだろう。

もちろん、「風評被害」を作り出しているのも、政府だ。
ぜったいに正確なデータを公表しない。
日本の漁業を潰して平気の平左なのは、もう「票田」ではないからである。

これに真っ向対抗するような外務省なら、とっくに反対表明してしかるべきなのだった。

さては、日本観光で寿司や刺身を食べることの危険を外国人観光客にも擦り込んだ政府が、インバウンド増大のためと称する観光庁予算を倍増させるのは、もう狂っている。

歴代最長の外務大臣経験者の岸田氏をして、国際問題になったことの重大性に気づかないのも不幸だが、やっぱり国民のおおくが阿呆丸出しなのが問題なのであった。

みずほ銀行への提訴はエリート崩壊

ブルームバーグが9日に伝えた記事によると、みずほ銀行ニューク支店に勤務していたアメリカ人が、「差別的待遇を受けた」として、ニューヨーク州地裁に提訴したという。
なお、損害賠償として、約14億円を請求しており、一方のみずほ銀行からはコメントがとれていないという。

記事は、「訴状」に基づいていて、なにがあったのか?について書かれている。
また、訴えた相手は、みずほ銀行と上司だった3人のマネジャー(個人)である。
もちろん、裁判なので今後どうなるかはわからないが、サヨクの牙城ニューヨーク州地裁ということで、みずほ銀行サイドは大忙しになっていることだろう。

ちなみに、みずほ銀行といっても、旧富士銀行なのか、旧興銀なのか?はたまた旧第一勧銀なのか?があるから、3人のマネジャーとは、これら旧3行のひとを指すのか?もわからない。

わたしがもっとも気になる原告の主張は、マネジャーから「より日本人的な従業員になるための講習を受講すべきだと伝えられた」としていることだ。

つまり、外国人職員に対して、「より日本人的な従業員になるための講習」があることを意味するからで、それはどんな内容なのか?に興味が涌くのである。

むかしから、「郷に入っては郷に従う」という諺があるのが日本人だ。

明治で、幕藩体制という地方分権が、中央集権体制に体制変換した。
なので、いまの日本人は、中央集権がふつうだと思いこんでいる。
しかしながら、この国の歴史をみれば、地方分権の時間もじゅうぶんに長いのである。

それゆえに、旅人は「水のちがい」に気をつけた。
けっして生水を呑まずに、ところどころにある茶屋で、沸かした湯でいれる茶をのんで給水していたのである。

それが、中央集権の国民軍ができて、外国に出かけて戦争をすることになった。
日露戦争の2年前に発売された、『正露丸』は、「征」の字が当初つかわれていたのである。
発売当初は、『忠勇征露丸』が商品名であった。

この画期的な薬は、「水のちがい」を克服したのである。

なので、国内でも重宝した。
近代水道が全国津々浦々にまで整備されたのは、ついこないだのことなのである。
しかも、まだ井戸水に頼っている地域はたくさんある。

すると、この「水」という概念を、「ひと」に置換させれば、その土地土地の人びとの生活に、独特のもの(文化)があるのも当然で、これをまた、「この街の水があう」とか、「あわない」とかというようになったのである。

アメリカという人工的に建国された国で、民主党と共和党の対立が起きていることの原因のひとつに、東西の沿岸部、東海岸なら建国13州や、西海岸なら、カリフォルニア州やらワシントン州、それにオレゴン州とかが、民主党の牙城で、その他の内陸部が共和党の牙城になっているのは、建国後も移民の流入がとまらない沿岸部と、総じて農業で定着した伝統がある内陸部のちがいとになっている。

その代表的で、かつ、面倒なのが、ニューヨーク州なのだ。

バイデン政権が国境を破壊して、すさまじい数の不法移民が流入したことで困り果てたテキサス州が、民主党の知事や市長がかかげる「聖域都市:移民はたとえ不法でも受け入れるべきだ」と宣言した場所へ送り込んだら、ニューヨーク市長が「もう無理だ」と声明を発したが、聖域都市の看板は降ろしていないので移送を継続している。

これも、移民側からしたら、水があう・あわないという話であって、ニューヨーク市は、アメリカ人のホームレスを施設から追い出して、これに移民をいれている。
ただし、待遇、たとえば市から提供される食事などが口に合わないとして、ニューヨーク市役所に押しかけて抗議デモをやっている。

これらが、ぜんぶ合法的な「権利」なのである。

さて、みずほ銀行がアメリカ人従業員とコミュニケーションをとれなかったばかりか、どうやら失敗したらしいことは、訴状でみえてくるのは上に挙げたとおりだ。
この事象だけをみれば、日本のエリート教育がまちがっていることにも直結する。

そこで、心配事はふたつある。

ひとつが、日本企業でドミノ倒しのような訴訟ラッシュにならないか?
まずは、日本企業に就職してから、後に提訴すれば、莫大な「ボーナス」を得ることができるかもしれないからだ。

もうひとつが、経団連からケツを叩かれて自公政権がやっている、移民政策が効をなせば、ニューヨーク市のような状態が、全国に拡散して発生することの可能性だ。

すでに一部の国から、自国民への「奴隷制」だという批判を浴びている。
安い労働力が欲しいだけ、が通じないのは、相手も人間だからである。

つまるところ、ここでも、エリート教育の失敗がその根本にあるとわかるのである。
その失敗の原因は、かんたんすぎて誰にでもわかる。

文科省による、教育カリキュラムの独占(学習指導要領)だし、その延長にある受験制度がやめられないのも、ぜんぶが「利権」だからである。

利権によってつくられているのが、わが国のエリートなのだ。

だから、世界に通用しない。
もちろん、一切の逸脱が許されない教育カリキュラムの独占なのに、日本文化とはなにか?もないのは、受験の問題にはでないからである。

ムリは承知でいえば、公正取引委員会が、「インボイス制度」でしたように、文科省に対しても独占禁止法の適用を予告してほしいものだし、願わくば、この役所の廃止を訴えたい。

そうしたまちがったエリート教育のひとつの成果を、夏の甲子園で慶應義塾高校がみせてくれた。
「勝てば官軍」が染みついた自称エリートたちは、相手のミスを煽ることを旨とする。

高野連の爺さんだか、慶應の塾長だかが、スポーツマンシップとか、相手のリスペクトがなかったことに対して、世間に遺憾の意ぐらい示すべきがなにもない。

全体が麻痺しているのである。

今般、みずほ銀行が提訴されたのは、ぜんぜん特別なことではないのである。

安芸高田市政&議会の全国拡散

こないだ書いた、安芸高田市の若い市長が中心になっている軋轢は、市の公式YouTubeチャンネルで、1ヶ月で前編が116万回、後編が57万回、併せて170万回以上再生と、人口3万人ちょっとの地方自治体としては異例の記録を叩き出している。

これに便乗してか、地元、「HOME広島ニュース」(テレビ朝日系)も、100万回再生を連発して、全国放送並みのヒットとなっている。

翻って、奈良県宇陀市では、市長(たまたま出身校が京大と安芸高田市と同じ)が、駅前施設を巡る市議会議員との対立から、議員の一般質問への回答を拒否する事態となって、「全員協議会」が、異例の公開・録画・放送されるに至っている。

ただし、「宇陀新聞社」のYouTube再生回数は、上と同様に1ヶ月での数字だが、こちらはずっと地味で、前半が1600回、後半が2000回弱の再生回数である。
なお、こちらも、人口3万人ちょっとの市である。

安芸高田市は、市長がガンガン発信しているアクティブなのに対し、宇陀市は真逆のパッシブだから、野次馬の見物としては、確かに圧倒的に安芸高田市の方が面白い。

宇陀市と対立に至った議員は、弁護士の指示なのか、パッシブを貫いているので、業を煮やした同僚議員たちが、いろいろ発言しているけれど、要領がつかめないのである。
そんなことからか、コメント欄にも投稿がないのは、なんのことかよくわからないために、滅多な書き込みができないのだろう。

その他、YouTubeに、全国各所の自治体の「お粗末」が動画になっているのを散見するようになったのは、わたしの視聴分析アルゴリズムのおかげか?
ただし、再生回数では、宇陀市にも及ばない地味さばかりで、その興味のなさに興味が涌くのである。

そこで、わが横浜市はどうなのか?例によって野次馬根性が顔を出したので検索したら、全国最大人口370万都市の議会中継動画は、昨年暮れの「令和4年市会定例会第4回」で、ダイジェスト版というのがでてきた。

再生回数は24日の本稿執筆時点で、1708回だ。
人口で宇陀市の123倍以上ある、横浜市にして宇陀市に劣る実数を、統計学者の現職市長はどのようにかんがえているのか?

たぶん、興味もないのだろう。

しかしながら、予算のかけかたがNHK並みだと一目でわかるのがその贅沢なナレーションやらプロの仕事で、職員が淡々と定点で録画しています、というスタンスではぜんぜんない。

また、市議会は、「みんなの横浜市議会 子ども向け学習動画ができました編」という動画を1年前にアップしている。
議長、副議長、議会広報会議委員らの登場で、クイズ形式で学習動画をPRする企画だ。

それが、同様に、1498回の再生数なのである。

これは、市民が観ているのか?それとも市外の専門家が観ている数が多いのか?
どんなに画像や音声の質をあげたりしても、市民が興味を示さないのは、やっぱりつまらないからである。

なお、上に挙げた横浜市の公式動画は、どれも、「コメントはオフになっています」とあって、書き込みそのものも拒否しているのである。

もちろん対照的に、書き込みもアクティブなのは、安芸高田市の方で、そのほとんどが市長への応援になっている。

確かに、理詰めの市長の瞬間芸に昇華しているロジカル・シンキング能力は圧倒的だ。
また、メガバンクでアナリストだっただけに、統計の職業専門家に対して統計素人の議員が挑んだ無惨は、議員の無謀な勇気だけが目立って、吉本喜劇のような展開になるから、見物人が拍手するのも頷ける。

ただし、この拍手は、誰向け?かと問えば、なんだか無惨な議員向けだと思いたくなるのは、とっくにキャラ化してしるからだ。
これらのキャラが立った議員が一般質問に登壇すると、妙に期待が膨らむからで、もちろんこの期待を裏切ることはなく、あくまでもトンチンカンな芸を披露するのである。

市長にどんなに論破されても出てくる、あくまで上から目線でものを言う根性は、まことに恥知らずなので、視聴者を飽きさせないのである。
ただ不気味なのは、これらの御仁たちが、どうやらヒール・キャラであることすら自覚していないことへの驚きで、それがまた怖いもの見たさの「見せ物化」になっている。

なんだか、猫が捕らえたネズミをいたぶるような感じがして、一方でたまに市長への批判があるのは、そのサディスティックな残虐性に対する不快感にちがいない。

二元体制はそもそも対立関係にある、という正論に、なぁなぁに慣れた議員も新聞社もついていけない。

ただし、形式上は対立関係にある通りだが、知恵として収束を図るというのも、あながちぜんぶがまちがってはいない。
それが許されるのは、二元体制下での当事者双方が全員(首長も議員も)、正しい職務倫理のもとにある、という前提がある。

いま、我われが目にしている二つの市の軋轢は、この前提が崩壊した姿なのであり、横浜市は最初から「ありません」と表明してくれているも同然だから、市民と市が分離して存在するようになっている。
あとは国と同様に、「マフィア化」するしかないのである。

地方がこれだから、中央たる国も崩壊する。

それが、フクシマ汚染水の海洋放出問題で、当事者を無視して実行責任を担っているのが、淡路島を選挙区とする大臣様なのだった。

反対する漁民たちは、淡路島を訪問して、この議員の無謀を島の有権者に訴えたのだろうか?

こうしたことを飛び越えて、隣国から正論をかまされるわが国の国家としての「自治」はどうなっているのか?を改めてかんがえたいものである。

上方が芸能の中心なワケ

文化大革命(1966年から1976年までで「終息宣言」は1977年)で、徹底破壊された「伝統文化」は、二度と戻らない。

日本人は、「漢籍」の伝統を江戸期まで「常識の一部」としていたけれど、やっぱり、明治政府の「文明開化」とか、「脱亜入欧」が、「富国強兵」のスローガンで上塗りされて、さらに敗戦でGHQが命じたので、すっかりわずかな「古典のなかの漢文」として暗記させられているにすぎなくなった。

それでも、まだ、テストにでるからと、「絶句」や「律詩」の暗記は常識なので、いまの大陸人よりは漢詩を理解している。
あちらの一般のひとたちはぜんぜんしらないのである。

しらないだけでなく、詩の原文をみせても読めない。
当時の文法がちがうだけでなく、当時の漢字を簡略体しかしらないひとにはもう読めないからである。

さらに、日本人にはもうひとつのアプローチがあって、たとえば、『枕草子』とか、『源氏物語』には、ちゃんと漢籍の知識が織り込まれているので、これら「国文学」に親しもうとしたら、おのずと漢籍をたどらないと意味不明になってしまうのである。

藤原氏による、「摂関政治」の確立は、世界史的な不思議にみちている。

そもそも、だれも天皇の地位を簒奪しようとせずに、代理人たる摂政や関白職を設置して、その席の争奪戦を一族でやっていた。

「平安」だから、血なまぐさいことはなかった、とはぜんぜんいえない血なまぐさいことばかりやって、藤原氏はあの地位を独占するに至るのである。
すると、こんどは一族のなか、親兄弟に母方の親兄弟も加わってまた争うのだった。

ちなみに、当時は、天皇の跡取り(将来の天皇)を誰が産むかが、祖父の地位を決めた。
つまり、自分の娘を皇后にさせるばかりか、国母にしないと、摂政や関白になれないのである。
この点で、あの平家でも「清盛一代」しか、これを実現していない。

ポッと出の秀吉が関白になったことの驚き(異例さ)は、征夷大将軍よりもすごいのである。

さて、藤原氏の栄華は、道長を頂点とするといわれている。
ときの天皇は、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇で、源流となったのは、後一条天皇・後朱雀天皇の曾祖父にあたる村上帝であった。

この村上帝が、王朝文化の祖ともいえる風流人だったのである。

ただし、村上朝で平将門と藤原純友の乱があって、質素・倹約に努めなければならなかったことが、かえって帝を風流の道に向かわせたのかもしれないが、元々の才がなければやろうとしてもできないことに相違はない。

「光源氏」のモデルとされているのが、道長だというのは、紫式部の立場も影響している。

村上帝の孫にあたる、一条天皇(後一条天皇・後朱雀天皇の父)の皇后は、有名な「中宮定子」であった。
このひとの父は、道長の兄にして関白・内大臣の道隆である。
女房(中宮のブレーン)に、清少納言がいた。

しかして道隆に人望がなく、道長は対抗して娘の彰子を入内させ、なんと、ふたりが「皇后」になってしまった。
その中宮彰子の女房が、紫式部であった。

そんなわけで、清少納言と紫式部は、文化レベルを競う代理戦争のブレーンになっていたのである。

ときに、当時の平均寿命はやたら短い。
男性が50歳、女性が40歳という。
女性の嫁入りは、13歳ぐらいだった。

すると、たいそう不思議な疑問が湧き起こる。
彼女たちの教養は、どうやって磨かれたのか?だ。

ここでいう教養とは、宮廷における文化レベルに追いつくという程度ではなくて、中宮のブレーンになるほどの高度な教養をさす。
分野でいえば、手習い、和歌、音楽、絵画、薫物がメインで、ただ手習いといっても内容は深く、古歌・故事を学び、昨歌も含む。

音楽は、琴や琵琶の演奏のことで、絵画は自ら描くことはもとより、他人の作品への鑑賞力も要求された。
とくに、演奏については幼少時より厳しく教わったという。
薫物とは、香のことで、調合の知識も含む。

また、男性の必修、「漢籍」についても、ひそかなるもの(あからさまにしない)としての、当然の修得があった。

しかしながら、これらを統合した生活が、宮廷での日常なので、学問というよりも、「芸能」であったのである。
帝やらを慰めるための、ウィットに富んだ女性が好まれ、これらの素養がないものは高い地位のものほど相手にしなかった。

つまり、嫁にいけないのだ。

ただし、当時は通い婚なので、娘は実家にて一生過ごす。
なので、家庭内教育でぜんぶを修得するのが当時の常識だったから、「家」そのものの教養が娘に転化されるとかんがえられていた。

上方の、とくに、女性を中心とした「芸事」が、関東以北のそれとは様相がちがうのは、どうやら宮廷文化の影響なのではないか?とおもわれるのである。
その典型が、宝塚(少女)歌劇団だとしたら、素養にみちた良家の子女がこぞって入学を希望する意味も理解できるというものだ。

雅の伝統なのである。

待ちぼうけになった「爆買い」

まるで「待ちぼうけ」のように、勝手にウサギがかけてきて転んでくれるような、あの「爆買い」に、相変わらず期待しているひとたちがいる。

10日、彼の国が、渡航制限を解除して団体ツアーが「解禁」になると、ニュースになった。
「待ってました!」と拍手した業界人も多かったのではないかと推察する。

それから10日ほどしたら、今度は、そんなにたくさん来ないらしい?という記事が、外国人の観光でわが国のライバル、タイからの事例として流れてきた。
ましてや、肝心の航空便数が増えない、ということも懸念材料になっているらしい。

常々不思議に思うのは、どうしてこういう記事に翻弄されるのか?ということがある。
たくさんある、「経済問題」の情報が、どういうわけか「別物」扱いになってしまうからである。

日本人だって、かつて70年代には、「農協ツアー」が世界から顰蹙を買ったことがある。
たとえば、パリの高級ブランド店に大挙して入店し、まるでバーゲン品のように爆買いする光景が、現地のひとたちから白い目でみられていたものだ。

それが、「エコノミック・アニマル」といってバカにされたのである。
かつて欧州貴族が口にした、「日本人は総じて貧しいが、高貴なる民族」の片鱗もない、という意味だ。

こんな豪勢なツアーができたのは、もちろん、農家が豊かだったからである。

とくに、都市近郊農家のそれは、作物からの収入だけでなく、宅地開発の土地売却もあった。
これらの陰に、1972年、米の小売価格の自由化がなされていたのだった。

それで、1994年に「食糧法(主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律)」ができて、翌年「食糧管理法」は廃止された。
ちなみに、食糧管理法は、昭和17年2月、東條内閣によって制定された社会主義・全体主義政策であった。

アメリカの「アンティファ:アンチ・ファシズム運動」が、じつはファシストたちであるように、東條をファシストと非難するのが「戦後サヨク」なのだ。

もちろん、農家だけが豊かになった、ということではなくて、わが国経済が全体的に高成長していたことにあったのはいうまでもない。

つまり、わずか100年ばかりで、「日本人は総じて金銭的に豊かだが、卑しい民族」に転落したのだった。

いま、これらのひとたちの「次世代」が、後期高齢者になって猛威を振るっている。
「団塊の世代」(1947年~49年生まれ)の子供たち(団塊ジュニア)ではなくて、団塊の世代の「やや下の世代」を指す。

さてそれで、中国経済の減衰は、コロナ禍の渦中から顕著になった。

問題なのは、彼の国における「統計」が、どれも信用ならないので、客観的評価が誰にもできない、ということがある。
なので、「株式市場」や「債券市場」さえも、なにが株価・債券価格(金利・利回り)を変動させる要因なのか?がよくわからない、という特徴をもっている。

また、その政治が、法治ではなく人治であることは太古からの伝統であるので、『三国志』の「梨園の誓い」にあるごとく、「義」をもって兄弟の誓いをしたら、その人脈は血脈よりも絶対になるのである。

これがわが国の任侠の世界にも伝わって、「兄弟仁義」となった。

つまるところ、ほんとうのこと、は、人脈をもってしか伝わらないから、人脈がないとなにもわからないのである。
それがまた、お礼としての賄賂になるのは当然の文化である。

だから、役職者に対して贈り物をするのはいけないのではなくて、贈り物をしないといけないのである。
日本的発想が失礼になるのは、ちがう文化圏だからだ。

したがって、事業やらなんやらで、金銭を融通してもらうのも、人脈がたよりとなる。

いわゆる、「金融機関=銀行」ではない。
もっといえば、銀行員のしりあいを紹介してもらう、というのでもない。
それでは、「銀行」からカネを融通してもらう、われわれとおなじ「ふつう」になってしまう。

そうではなくて、持てるものが紹介されれば、そのひとから融通してもらうのが、「義理」を果たすというもので、紹介者の立場や自身の立場が、融資金額や利息のたかを決めるのである。
そうやって起業して、大きく成長したら大きく返済するのも、「義理」というものだ。

「人治」とは、あらゆることが、人間関係(=人脈)で成立している社会でこそ成り立つのである。

成長して大きくなったら、銀行やらから借りるけど、それもこれも人脈なのである。
それで、もっと大きくなれば、社債・債券だって発行する。
もちろん、これも人脈でだ。

そんなわけだから、商売の取引先も人脈が頼りとなっていくので、もしもの「破綻」ともなれば、それは金銭的破綻だけではなく、人脈も破綻する。
ぜんぜん「有限」責任ではないのだ。
だから、人脈のための企業清算金は絶対に用意しないと、末代まで信用をなくしてしまう。

逆に、人脈とは関係のないひとが損失を被ることは、考慮に値しないのである。

これが、最大規模の破綻といわれている、不動産デベロッパー最大手「恒大集団」や「碧桂園」の破綻にまつわる、その創業者家族が確保しようとしている私財・資産の意味である。

超弩級の企業破綻なのに、直接世界経済に影響しないのは、世界がこれら企業に貸し付けてはいなかったからだ。
ほぼ、国内での大損失で、そのほとんどが人脈に「ない」多くのひとたちが負う。

これが、国内を循環して経済を縮小させるのは、「信用収縮」が起きると予想されているからである。

そして、この予想は、昨年の秋には欧米金融機関がレポートしている。
ために、欧米金融機関は、一切の追い貸しもしないし、得意のデリバティブ商品開発もしなかった。
大津波を喰らわないための予防措置である。

すると、この秋の団体ツアーが再び爆買いをしてくれると「待ちぼうけ」している日本の業界は、本物の「待ちぼうけ」なのである。

なんだか、業界をあげて無様にみえるのは、あまりにも情報力がないためのことで、担当者のせいにはできない深刻がある。

「経済カースト」の構造

「カースト」とは、ヒンドゥー教の社会制度で、職業、結婚、食事などの規制を指すものだが、現地では、「ヴァルナ」と「ジャーティ」という。
じつは、「カースト」とは、ポルトガル語から英語になった言い方なのだ。

「四民平等」をなし遂げたと勘違いしていた日本でも、さいきんでは「上級国民」という概念ができたが、人びとの心の中に残った身分性が、再び見えるようになってきただけの現象ともいえる。

その意味で、ヒンドゥー教におけるこの区分は、「正直」といえば正直なのである。

もちろん理想としての「平等社会」は、追求すべきものだとはおもうけれども、現実は現実としてみないといけない。
しかも、外国とはいえ、多数が信仰している宗教と結びついていることを、単純に「悪」とはいえないのも、現実なのである。

そもそもカースト制の歴史をみれば、紀元前13世紀頃からはじまったというから、いまから34世紀も前のことになる。

「神権政治」の基礎にある4つの身分が「ヴァルナ」とされた。
・バラモン(祭司)
・クシャトリア(武士)
・ヴァイシャ(平民)
・シュードラ(隷属民)、がそれだ。

それから時間が経って、「世襲の職業」が婚姻における内婚集団としての「ジャーティ」に細分化したという。
それで、親の身分が子に引き継がれることになった。

これには、前世の業の報い、という概念から、現世になっているのだとする「宿命観」が信仰の対象だという事情があるのだ。

なんだか、インドらしい。
というか、これがインドなのだ。

40年ほどまえの日本では、「卒業旅行」で海外に行くのが流行っていて、たまたまインドに行ったばかりに精神異常をきたしてしまう若者が多数でたのも、この「宿命観」にやられたのである。

そもそも、「インド」の語源は、インダス川の古名「シンド(大河)」をペルシャ人が、「ヒンドゥ」と呼んでいたのを、またまたポルトガル人が「インド」としたという。
アラビア語だと、「インド」とは発音せずに、「アル・ヒンドゥ」という。
なお、「アル」とは、英語でいう定冠詞「THE」のことだ。

インド発祥の仏教が、ヒンドゥー教に席巻されて、少数派(人口の3%程度)になったのが、いまのインドだ。
とはいえ、2023年での人口推計では、インド全部の人口は14億3千万人弱なので、3%とはいえ、4000万人は仏教徒だ。

幸か不幸か、日本には、「大乗仏教」が伝来したが、ヒンドゥー教はなぜか伝来しなかった。
しかも、インド仏教オリジナルからだいぶ変形したのが日本の仏教なので、「仏教」といっても単純比較はできない。

そんなわけで、インドが途上国のままで発展しないのは、カーストによる身分制の固定がネックになっているといわれてきたのである。

しかしながら、昨今、インド経済の発展はめざましく、日本の昭和30年代を彷彿とさせる、家電普及率となってきている。

誤解をおそれず単純化していえば、先に世界の工場となった中国から、インドへの生産シフトが起きているのである。
もちろん、東南アジア諸国やアフリカにも投資先が分散されているけど、「脱中国」という状況が生まれたのは、ある意味でその政治体制上からしたら、当然の帰結ではある。

もっとも、このことの最大の要因に、「安い人件費を求める」資本行動がある。

わるくいえば、資本行動として限りなく小さい人件費負担の、「奴隷労働を求める」ことが、「最高善」になるからだ。

けれども、これは資本行動とはいえ、資本主義といえるのか?とは別だといいたい。
本ブログでは、アイン・ランドの主張に賛同しているからだ。

それで、「経済カースト」なるものの構造はどうなっているのか?を図示しているのは、苫米地英人『経済大国なのになぜ貧しいのか?』(フォレスト出版、2012年)がある。

欧米巨大銀行オーナーをトップに、以下の構成となっている。
欧米巨大銀行頭取 ⇒ IMF・BIS等の国際金融機関 ⇒ 巨大投資銀行頭取クラス ⇒ GE・エクソンモービル 多国籍企業 ⇒ アメリカ政府 ⇒ 各国政府 ⇒ 経団連などの大企業

昨今のアメリカやヨーロッパでの事象に引きづられているわが国の事象をみると、この「経済カースト図」には、説得力がある。
ただし、アメリカ政府(バイデン民主党)やEU(フォン・デア・ライエンEU委員長)のほころびを観るにつけ、「その上」の盤石さがかえって目立つのである。

わが国政府の脆弱性は、推して知るべし。

ところで、「経団連などの大企業」から下のカーストはどうなっているのだろうか?
わたしには、コロナ禍で露呈した、「人的サービス業」が、最下位のカーストにあるとしかおもえない。

すなわち、シュードラ(隷属民)だ。

ために、全体でみたらとっくに下位のわが政府(ヴァイシャ:平民)にとって、「GOTO」なる「施し」をしてやらないと、生存が危ぶまれることを、当事者たるシュードラとして思いしらされたのである。

それで、もっとよこせと声を上げるのが、シャードラ内での細かな序列をつくっているとしかみえない。

はたして、人的サービス業は、この因果な世界から抜け出すことができるのか?
仏教ならば、億万回もの輪廻転生を経ないといけない。

つまり、はやく死んで復活せよ!という「教え」なのである。
これを企業体で実行するには、「生存理由」たる経営理念の見直しから再検討することなのである。

A.I.に「不気味の谷間」がみえてこない?

A.I.ブームである。

なんでもかんでも、「A.I.ガー」というと、なんだかそれっぽく聞こえる。

しかし、A.I.がほんとうに「使えるか?」といえば、使いこなすためには、質問力が問われる、と前に書いたし、なんだかんだと人間がA.I.を疑わないでいるのは、「不気味」ではないからだ。

人間が不気味さを感じるのは、脳が不気味だと判断するからである。
本物ソックリの蝋人形が並ぶ、『マダム・タッソーの蝋人形館』が有名だ。
ここへ行けば、「不気味さ」を体験することができる。

逆に、不気味さを感じないなら、その人形はわざと、どこかが本物とちがうように作られている。

「不気味さがない」ということの意味は、人間が上位にあることを、人間が理解しているから、である。
ほんとうにA.I.が、人間を凌駕したら、人間はかならずそこに「不気味さ」を感じるものだ。

たとえば、アメリカ軍とかが開発した、「軍用犬ロボット」の不気味さがそれだ。

本物のイヌ、たとえば、ドーベルマンなら、ダラダラ歩くことだってあるけれど、ロボットは常に緊張した歩き方しかプログラムされていないので、これだけでも不気味なのである。

結局のところ、A.I.だなんだと騒いでも、しょせん人間がプログラミングした範囲でしか動かない当然があるから、便利につかえるように設計されたものなら有用かつ無害だが、そうでない邪心をもって設計されたものなら有害になるのである。

問題は、こうした邪心の書き込みをどうやって監理・管理するか?にある。

事が起きてからでは済まないし、邪心をもって書き込もうとするものは、やっぱりそれが見つからないようなプログラミングに工夫するだろう。

ようは、いたちごっこになるのである。

もちろん、A.I.には読解力がない。
なので、書き込まれたプログラムをA.I.にチェックさせても、管理はできても監理ができない。

このことが、みえない「不気味の谷間」なのだ。

だから、人間の想像力は、A.I.をもって、人間のようにふるまえ「たら・れば」を題材に、物語をつくりだしてきた。

しかし、A.I.にこうした「たら・れば」が通用しないのは、A.I.に想像力がないからだ。
想像力があるのは、人間だけなのである。

ところが、人間とは妙なもので、勝手にその想像力がはたらいて、あたかもA.I.に想像力があるかのような感覚をもたらすので、話がややこしくなるのである。

しかも、A.I.は、あんがいとシラッとウソをつく。
おそらく、シラッとウソをつくようにプログラムされているのだ。

なので、そのウソを見抜けない人間は、A.I.を信じてバカをみることとなった。
それで、自分がバカなのだと認識できない人間が、たくさんの仲間をつくって、横並びの安心感を得ようとするから、たちがわるいのである。

彼らの言い分は、とにかく、A.I.の優秀さとか、A.I.の完璧さを強調することにある。

だから、今どきネット検索ばかりで、チャットGPTを使わないなんて、生産性に対するサボタージュだ、とかと平気でのたまうし、そうやって煽って仲間作りをしているのである。

自分で価値判断できるまともなひとは、そんな迷言に惑わされないし、そもそもA.I.に判断を任せようとはしないだろう。

これと似た事例が、「意識高い系」大企業内の「CDO:Chief Diversity Officer:多様性担当役員」の活躍であった。

もっとも華々しかったのは、映画産業で、そのなかでCDOが大活躍した代表的な企業は、ディズニー、ワーナー ブラザーズ、それにNETFLIX だった。
しかし、彼らを煽ったのは、「アカデミー賞」そのものの選考基準だった。

もちろん、「アカデミー賞」を出しているのも企業なのがアメリカらしいところで、企業名は、「映画芸術科学アカデミー(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)」である。
ここにも、CDOがいた。

過去形なのは、アメリカナンバーワンブランドだったビール、「バドライト」の不買運動の影響(前年比△30%)が各社にでているからだ。
たとえば、ディズニーなら、ちゃんとした(政治的でない)映画を、子供に安心して鑑賞させたい、という親の要望が、いまのディズニーなら子供にみせたくないになったのである。

このことは、意識高い系の投資家の要求を呑まないと、経営陣から外される、ということからの大転換になっていて、消費者の不買運動が投資家に優ったことを意味する。

すると、いかがわしいA.I.礼賛の現状が、消費者からどう思われるのか?という問題になったとき、人間優先の思想がないと判断されたら、不味いことになると予想させるのである。

これが、リアルの不気味の谷間なのだ。

ウソがつくる「人手不足」

民間事業の人手不足が、結局は「移民容認」という結論に至って、いったん決まればあとは爆走するのが日本人の習性なのである。

しかし、「決める」までのプロセスが、怪しいのはずっとのことで、分かったような話で誤魔化せれて、いつも国民は蚊帳の外に置かれる。
与党の部会やらも、基本的に国民には、「密室協議」だから、しるよしもなく、もちろん地元議員との議論に参加する仕組みもない。

とにもかくにも、選挙で選ばれた、ということの一点で、あとはぜんぶが、「民主主義だ」ということにされている。
まことに便利な、「民主主義」なのだ。

では、民主主義の「本場」ならどうなのか?は、地味すぎてぜんぜん報道されない。
アメリカなら、地元の党組織とかなりの根回しをやっていて、その地元の党組織とは自身の「後援会」とは別物だ。

なので、選挙に立候補するにも、地元の党組織内での予備選挙で勝たないと、本戦に党の看板を背負って(これを「公認」という)立候補もできなくなる。
たとえば、副大統領の娘、リズ・チェイニーが地元共和党組織から除名させられて、下院議員への再選が不可能になったように、である。

いったい、特派員は何をしているのか?と前に書いたが、簡単にいえば、報道会社の「アリバイづくり」のために高い人件費と滞在費用を、新聞やらの読者が、「購読料」で負担させられている。

もちろん、NHKは、受信料収入から使っているのだろうけど、NHKも各国政府と同様に、マフィア化して、子会社・孫会社の収益もチューチューしているのである。

こうした、国のやり口を、地方自治体も真似ないわけがなく、今ではさまざまな行政サービスのなかでも、直接市民に触れる業務は、「民間企業」に事業委託しているのがふつう(たとえば「指定管理者制度」)になった。

国であれ地方自治体であれ、わが国の「公務員」は、いったん採用されたら退職まで、めったに解雇されることはない。

よしんば民間で、会社都合の場合なら、それは赤字で事業継続が困難になったことが解雇の条件となるのである。
もっとも、会社が倒産したら、元も子もなく失業するのは当然だ。

しかし、「身分」が守られる、という点では、公務員は、基本的に倒産しないし、また、スト権が無い分、いったん確定した身分は民間よりもはるかに強固なのである。

すると、民間に事業委託すると、それまでその施設やらに勤務していた公務員たちは、「配置転換」されることになる。

あたかも、民間に委託したから、公務員の数が減った、ように見えて、じつは別の仕事についているのである。
つまり、公務員の数は変わらず、民間委託としての職員数は増えている。

ではどんな仕事なのか?は、このブログで何度も紹介している、『パーキンソンの法則』がそのまま適用される。
仕事は、つくればいくらでもあるものだ。

もちろん、ここに「効率」という概念は存在しない。

効率とは、インプットした資源(ひと、もの、おカネ、時間など)と、アウトプットとして得られる価値の割合をいう。
すなわち「割り算」で算出されるものだ。

民間事業なら、経費と売上・利益といった関係になるが、役所は経費だけで、売上も利益もないから、計算不能になるのである。

そこで、従前の直接雇用の公務員たる職員が従事していたときの数字と、民間企業へ業務委託したときの数字「だけ」を比較する、という手品にもならない方法で、民間への委託の方が「安くなった」として、「効率が上がった」と結論づけることが横行しているのである。

こんな子供騙しでも、民主主義が機能していない(住民による代表のチェックたる「議会」のこと)ので、もはや民間企業からの広告費が枯れてしまったことで、役所の広報予算が頼りとなったマスコミは、どっかから「専門家」なる人物を登場させて、業務委託の効率をいって、ながら視聴している主婦たちやらを騙してはばからない。

どうして役所の広報予算がおいしいのか?といえば、役人の仕事は「予算消化」が優先されるので、「言い値」が通じるからである。
なので、広告代理店や制作会社にとっては、効率がいい、のだ。
少ないインプットでも、大きなアウトプットが得られるという本来の意味でのことだ。

こうして、わが国のなかで、ムダに存在している公務員がたくさんいるので、ほんとうは、ぜんぜん人手不足ではない。

これが、肥大化した政府(国も地方自治体も)の実態で、とうとう究極の「民業圧迫=人手不足」をはじめたのである。

だから、逆神のマスコミは、わが国の人口あたり公務員数は、他国に比べて「少ない」から、わが国の公務員一人当たりでは、これまた「効率的」な仕事ぶりなのだという詭弁を弄して、お役所をヨイショするのである。

諸外国とどのような条件で、公務員数をカウントしたのか?については、ぜんぜん説明しないのだ。

これを、「ゴミ」情報という。

いわゆる、社会調査における、「ゴミ」のことで、議論するデータの信憑性が確保されていないゴミからは、ゴミの議論しかなくなって、ぜんぶの手間がゴミと化す。
だから、真の専門家は、このような議論に最初から与しない。

ところが、一般大衆は、こうしたゴミの議論が大好きで、その証拠が、いまでも毎日、テレビでワイドショーが放映されていることである。
ゴミを電気代を負担して観ている神経がわからないけど、スポンサーがついていることはもっとわからない。

きっと企業の広報担当者も、頭脳がゴミになっているのだろうけど、これで何かしらの宣伝効果があると判断しているのなら、やっぱり視聴者がゴミ頭になっているのである。

残念ながら、ゴミ頭の国民に、民主主義をコントロールすることは不可能だ。

これが、人手不足ではないのに、移民までも受け入れることに異論がないことの本当の理由なのである。