「Z世代」の次の「α世代」

先のことをかんがえると、「Z世代」も古くなってきた。
次は、生まれながらにして、スマホやタブレット端末があって、いじっている世代のことを指す。
2010年から20年代中盤にかけて生まれた世代で、親は、ミレニアム世代(1980年から1995年生まれ)にあたる。

なぜに注目されているかというと、日本ではなく世界を見たら、2025年には25億人になると予想されているからである。
つまり、歴史上最大規模の「世代」になることが、確実なのだ。

わたしのような、日本ローカルの、「ウルトラマン世代」からしたら、隔世の感がある。

「ウルトラQ」とか、「初代ウルトラマン」をリアルで観ていた世代のことで、ビートルズに間に合わず、ベイ・シティ・ローラーズでは物足りない世代だ。
それで、残念ながら日本ローカルの言い方に甘んじるしかない。

わが家には比較的早くテレビがあったと親はいって自慢していたが、生後間もなくの室内写真には、テレビはなく、ラジオ受信機が鎮座している。
たしかに、いつの頃だか忘れたが、近所のひとたちがテレビを観にわが家に来ていた記憶がある。
おそらく、巨人戦だった。

それでも、白黒18インチテレビで、観ていないときは布を被せるようになっていたし、大きなレンズが付いていた。
壊れてしまって、あたらしい2代目がきたとき、このレンズをはずして叩いたら、ジャーっと水が出てきて驚いたのを覚えている。

言葉もままならない幼児が、黙ってタブレットをいじっているのを見るにつけ、「α世代だ!」とは思うけど、一生コストを払わさられるのだと思うと、急に気の毒になるのである。
小中学生が、スマホゲームに興じているのを見ても、親が負担する通信費はいかほどかと心配になる。

自分が小中学生の頃、いったい何が学校に持ち込み禁止になったのか?
なんにせよ、絶対にデジタル機器ではない。
ポケベルですら何に使うのかに興味がなく、女子高生が子供に見える頃に、彼女たちが暗号文の如く通信しているのを知って、感心したものだった。

わたしは利用した経験はないけど、若者が多数いる駅、たとえば「お茶の水」とかの駅の改札横に黒板があって、そこに伝言を書けたのだ。
携帯電話がなかった時代の、あんがい便利な連絡手段で、迷惑な落書きも少なかったかと思う。
自分も困るから、落書きを遠慮したのだ思うと、外国人には理解できないだろう。

こうやってかんがえると、むかしは通信費がかからなかった。
自宅の黒電話でさえ、長電話をすると親がうるさかった。
どうしてもというときには、便箋にいろいろ書いて送ったものだ。

いまは知り合いからも、手書きの手紙をもらうことはなくなった。
電子メールで済む、のはたしかに便利ではあるけれど、読み返す楽しみはもうない。
手紙を保存した「文箱」も、とっくに不用品になってしまった。

毛筆で書こうが、万年筆で書こうが、年齢相応な文面やら、書いて相手に読ませる字も書けない。
今さらながらに、これを無教養だというのだと気づくが、そんなものを書いて送っても喜ぶ相手もいないのである。

ならばいっそ、便利になるだけの便利を享受するなら、金釘流ではなくてちゃんとした手紙が書けて読めるようになりたいものだ。

そんな思いがあるからか、絶滅寸前とはいわないが、「私塾」に注目が集まっている。
幼児期から、漢籍の素読に接し、和歌や漢詩の素養を養う。

ユダヤなら「タルムード」、イスラムなら「コーラン」の暗誦は、幼児・小児期の最高の教育とされたのは、漢籍の素読と同じ理由だ。
意味は教えない。
ひたすら、素読・暗誦することで、たとえ大部冊であろうが、子供の脳には書き込める。
そして、その「音」は、一生忘れない。

意味はそのうち自然と理解する。
宗教だろうがなんであろうが、「古典」とはそういうものなのだ。

さてそれで、何が「α世代」の特徴になるかといえば、デジタルの使いこなしが得意であるのはもう当然だから、その上で何?が問われる世代だということを言いたいのである。

25億人のなかで、日本人の「α世代」はいかほどか?
出生数がとっくに100万人を切ったから、よしんば100万人としても、15年間の世代全部で1500万人となる。
つまり、0.6%なのだ。

だからダメなんだ、ではなくて、一目も二目も置かれる存在感を発揮するのは、古典の教養しかない、と言いたい。

このことは、明治から150年、日本人が忘れてきた価値だけど、明治をつくったひとたちの教養は、江戸期の教育があったからだし、戦後の成長も、江戸期の教育の影響が残る明治の教育があったからだ。

「実学」のなりの果てが、現在の体たらくだとすれば、日本のα世代には、同じ轍を踏ませてはならない。

少なくとも、ウルトラマン世代の目からしたら、α世代に期待するのはこの一点なのである。

6割超全問不正解の快挙

2020年にはじまった、小学校5年生からの「教科になった英語」について、初めて実施された、初代・中学3年生への全国学力テスト(スピーキング)の結果である。

事実上の、「全滅」である。

このニュースについては、どういうわけかCIAのエージェント企業、読売新聞に詳細記事(1日付け)が掲載されたらしい。

主催した文部科学省やらの解説(言い訳)によると、問題の場面設定が複雑で難易度が高かったとか、生徒がスピーキングテストの実施方法(初めてのオンラインだった)に慣れていなかったので、正答率が低くなったのだと言っている。

問題の場面設定が複雑で難易度が高かった、とはどういうことなのか?

5問のうちの1問を例にすれば、ニュージーランド人が日本にやってきて、日本人が、「エコバッグ」ではなくて、多くが「プラスチックバッグ」を使っているのは、簡単に購入できるからだと意見を言っている。
これに対して、生徒は1分以内に返答をかんがえて、30秒以内で話せ、という問題だ。

日本語でも1分でどう答えればいいものか?と思うが、その前に、英語で「プラスチックバッグ」とは、日本語の「レジ袋」のことである。

合法的に販売しているものを、売っているのがいけない、という設問のニュージーランド人の指摘を、どうかんがえるのか?になるから、「えっ?」となるだろうし、学校の授業で、レジ袋をプラスチックバッグだと教えることになっているのだろうか?と「?」がつくのである。

この問題をつくったひとは、国立なんちゃら研究所のひとだという。

個人的な「想い」は別として、文部行政として設問を作る以上は、どんな「正答」に期待したのだろうか?という疑問が湧くのはもちろん、文科省なら、『学習指導要領』と合致していないといけない。
それに、言い訳にあるように、場面設定が複雑で難易度が高いのはそのとおりだけど、問題作りの過程において、誰も二重・三重にチェックするひとがいなかったのか?という、変な疑問も湧くのである。

つまり、担当者に丸投げ、という状況が見てとれる。

これは、前に書いた、井上ひさしの『國語元年』における、主人公、南郷清之輔が思い出される。
一人の人物が、「全国統一話し言葉」を制定するという、かつての織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった英雄たちでさえ成し遂げられなかった「偉業」だ。

一体全体、文部科学省という頭の出来の悪いひとたちからなる組織は、日本人にどんな英語レベルを求めているのか?

とはいえ、3割ほどは正解している。
いったい、この難解な場面設定をどのように考えたのか?というよりも、「脊髄反射」するほどの洗脳を受けていたのか?も気になるので、「悪問」も難なくクリアするその素直さが、かえって不気味なのである。

どこまでも悪どい、欧米人たちは、植民地を得たら、非支配者たる現地人に、自国の言語を押し付けた。
そうすれば、相手国の言語を支配者が学ばないで済むからである。
なので、実質世界帝国を築いた英国によって、英語が世界言語になったのである。

このメリットは計り知れず、すべての非英語圏では、英語学習をしないといけなくなった感がある。

なので、いまでも英語圏のひとたちは、外国語を積極的に学ぶ「変人」は別として、ほとんど英語だけしか知らないで一生を終えている。

外国語習得のための時間数が節約できるメリットこそ、先進生活レベルを維持するエネルギー源なのだ。

しかし、非英語圏に住んでいても、別段英語を必須とする職業につかない限り、一生英語を理解しなくとも困らない。
義務教育の範囲での外国語能力ならば、どこにレベルを設定するのか?は、カリキュラム設計上の重大事なのである。

それで、今回の「全国統一テスト」は、興味深い結果となった。

大騒ぎの末に無理やり導入を決めた、小学校からの英語教育の成果が、ほとんどないばかりか、「英語嫌い」を増殖させていると予想させるからである。
子供は、全問不正解の恥を内に秘めながら、横並びで安心しようとするものだ。

学校での「テスト」の意味は、生徒の理解度合いを測る、のではなくて、教師の教え方の成熟度を測ることでないと、義務教育での目的合理性としておかしい。

しかし穿ってみた本当の狙いは、日本没落・国民貧困化、すわち行き着くところの「共産革命」のために、徹底的に英語嫌いを作る、というなら、大成功していると言えるのである。
なので、英語教育の失敗とは言わずに、変な言い訳をしているのではないか?

そうやって、世界経済フォーラムのような連中が、世界を支配した暁には、日本語を廃止(禁止)して、英語だけを公用語に据えれば良い。

台湾は、こうして中国語にされた。
もちろん、日本領になっての日本語教育ではあったけど、当時の台湾には、学校教育そのものがなかった。
これは、南洋庁が設置された、パラオも同様である。

日本人に英語をどうしたら効率よく教え・習得させることができるのか?

なんだか永遠のテーマになりそうなのは、英語をネイティブとするひとたちの職業確保という側面もある。
失礼だが、ニュージーランド人の英語とか、オーストラリア人の英語を学びに留学する、というのはナンセンスだ。

『クロコダイル・ダンディ』(1986年、88年、2001)のシリーズ3本での、ズーズー弁と田舎者ぶりが、なんといっても英語圏のひとたち(主にニューヨーカー)にウケたのである。
共産化した民主党の本質に、差別主義があるから、民主党の岩盤支持層ばかりの都会人は、平然と田舎者をバカにしてはばからない。

内陸部の田舎が拠点の共和党との対立は、こんなところからはじまっている。

 

階級社会が歴然と残り、差別が大好きな野蛮人が支配層にいる欧米人にとって、どんな階級のひとたちが話す発音なのか?で、相手の身分を推し量るのだ。
その証拠が、あの、オードリー・ヘップバーン主演の『マイ・フェア・レディ』(1964年)である。

すると、英語だけが公用語になった日本でも、キングズ(クイーンズ)イングリッシュを頂点に、アメリカ・ボストンの英語、アメリカ・カリフォルニアの英語、といった具合に階層別にされて、子供時分から指定された英語を使えと命じられることになるはずだ。

日本語は禁止だから、親世代とのコミュニケーションすら取れないという、もう一つのメリットができて、家族の分断も容易になるし、そのための「LGBT法案強硬裁決」でもあった。

そんな夢を抱いている、邪悪な連中の妄想を吹き飛ばす、見事な「快挙」がこのテスト結果なのであった。

めでたしめでたし。

NHKプロパガンダの最高傑作?

2019年に放送されていたらしい、『BS1スペシャル「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた 昭和編」』の再放送が、7日(月)午後6:00~午後7:50(1時間50分)にあって、これをとある居酒屋のテレビで音声なしの字幕でチラ見していた。

わが家はテレビを観ないので、こんな放送があったこともしらなかったけど、チラ見だけでも、なんだが酷いプロパガンダであると断言したいから書いておく。

よい子は観てはいけないけれど、だまされるおとなが多数いるにちがいない。

調べてみたら、「昭和編」と「平成編」があるらしく、商魂たくましいNHKは子会社を通じてビデオ販売もしているし、ちゃっかり新潮社から書籍も出版(2023年1月)していた。

  

なお、アマゾンで書籍の方には、「帯」の「裏」も掲載されていて、「だましてだまされての世界、だまされる方が悪い」と大書されている。

このフレーズは、この本と番組のことでもあるから、なんだか、言い得て妙なのだ。

書籍のレビュー欄に、渡辺氏のことやら読売新聞社のことに「注意」を促す、まっとうな文もあったが、それなりに意識の高いおとなたちが、コロッとだまされて「良書」だと書いているのは、まったくもっていただけない。

この手のおとなたちが、世の中を壊すのであるけれど、NHKの目的通りに加担していることも自覚できない単細胞なのだ。

第一に、渡辺恒雄氏が君臨し、拠り所としている「読売新聞社」とは、明治7年(1874年)11月2日の設立とあることからして、ウソである。
大正13年(1924年)1月に、正力松太郎が瀕死の読売新聞社を役人風情が一括購入できる投げ売りで買収して、社長になっている。

この時点で、「新旧」を分けてかんがえないといけない。

念のため、正力松太郎は、内務官僚にして特別高等警察の大幹部だった。
戦後は、CIAのコードネーム付きスパイであることが、2007年にアメリカ機密文書の公開(機密解除)で明らかになった事実である。

渡辺氏は、そんな怪しい「新聞社」にまだ占領中の昭和25年に入社しているけれど、東大学生時代には共産党員だったとこの番組でも言っている。

本人は自分から辞めたと言っているけど、党は「除名」と言っている。
あの党が、自主的で自由意思の離党を許すはずもないから、党の言い分の方が正しいにちがいない。

辞めたほんとうの理由も本人がちゃんと別に述べていて、おなじ東大の宮本顕治とソリが合わなかったからだというのは、有名な「独白」だ。
このとき、宮本がいるかぎり、トップになれないことが最大の理由だと言っていた。

このひとは、正力ソックリで、あくなき、上昇志向の持主なのだ。

なので、正力に続いて、このひともCIAのエージェントだとわたしはおもっている。
まだ、アメリカで情報公開されるのを待つしかないけど。

あくまでもチラ見だけど、NHKの番組作りのまずさは、こんな人物が語る話を、ぜんぶ真実だという前提でつくっていることにある。
なので、書籍も、基本的に「音声の原稿起こし」しているだけだ。

すなわち、反証をとる、という、ジャーナリズムとしての責を放棄した、たんなる、たれ流し番組・書籍なのだ。

どんな台詞や筋書きが事前に用意されているのか?はわからないが、インタビューアーは、大越健介氏だ。
このひとが看板ニュース番組のキャスター(編集長もやった)に抜擢された理由もしらないけれど、「東大出」の学歴にだまされてはいけない。

あの弱小、野球部の出なのだ。

だから、受験勉強はやったけど、卒業までちゃんと勉強したことはないだろう。
それで、ステレオタイプしか脳内にないので、その筋の方面からは、ぜったいに踏み外さない安心感がこのひとの発言にはある。

逆にいえば、もっともジャーナリストとして向かない人物なのだ。

しかるに、平然と(まちがっていようがなんであろうが)旧来の「常識」しかいわないのは、それ以上の知識もなくていえないからだろうが、やっぱり、CIAエージェントの匂いがする。

役に立つ白痴だからだ。

もっとも残念なのは、かつて、「NHKの母」といわれた、加賀美幸子アナウンサーがナレーションをやっているので、見事にプロパガンダに加担してしまっていることなのである。
誰かが書いた原稿を読む、というのが仕事のアナウンサーの宿命だ。

しかし、視聴者は、この名アナウンサーの絶対的安定の語り口に、だまされるのだ。

加賀美アナがウソをつくはずはない、と。

ここにも、大越氏を採用したのとおなじ制作者の意図がみえてくる。

世の中は、あらゆる勘違いが織りなしているともいえるので、いまどき、こんなプロパガンダを流すのは、やっぱり、戦争反対物シーズンの8月だからだろう。

だますよりだまされる方が悪いとは、しごくごもっともなれど、まったくもって道徳的ではない。

つまり、不道徳なのであって、渡辺恒雄氏の告白が、ウソであろうが真実・誠であろうが、この番組の製作目的にとっては、どうでもいいことなのである。

そんなわけで、情報の受け手(視聴者)として、テレビを真に受けるということが、マヌケの極地なのだと知らしめてくれるだけが、この番組の唯一無二の価値である。

ちなみに、わざわざゴミを買うための金銭的余裕はないので、横浜市立図書館で書籍の貸し出しを受けようかと検索したら、20名以上の「予約」が入っていた。

やっぱり、ゴミを買いたくないひとが多数いるのだと、勝手に感心したのである。

それでわたしは、ゴミの予約を断念したのだった。

裁判を茶番にする悪あがき

もちろん、3度のトランプ起訴のことである。

当の本人は、起訴の度に上がる支持率に、もし4度目の起訴があれば、自分を共和党大統領候補に決める、と余裕の冗談をかましている。
大手マスコミは報じないが、バイデン(一家)政権側の不祥事が発覚するたびに起訴されているのだから、情報リテラシーがあるアメリカ人なら、とっくにこの茶番に気づいている。

しかし、その民主党側は、ほかに手の打ちようがないので、馬鹿の一つ覚えのごとく、3度も同じ手をつかうしかないまでに追い込まれているのだ。

地方検事であろうが、連邦検事であろうが、こんな茶番につきあうのは、成功報酬に目がくらんでいるいるからだろうけど、失敗したら逆に自分が起訴されかねないリスクがある。
つまりは、検事の身分で、白昼堂々と「賭博」をやっているのだ。

この意味で、アメリカの裁判官も、二大政党の大統領が任命するから、政治色があるものだ。

一方、何度か書いてきたが、日本の裁判官は、最高裁判所にある事務総局が人事権を掌握している。
このトップは、最高裁判所事務総長といわれるポストで、「裁判所法53条」によって、判事ではない。

つまり、事務官がなることになっていて、「事務次長」以下の局長、課長、参事官などには判事や判事補が就くこともできると、まだ占領中の昭和25年1月17日、最高裁規則第3号1項にはある。

これはこれで、いいのか?

日本人には、たっぷりやっていたテレビの捕り物帳やらの時代劇から、町奉行所のイメージが刷り込まれて、法廷がいまだに「お白州」だから、裁判官に疑問をいだかないようにされた。
それに、「大津事件」のことが必ずテストにでるので、「大審院」の正義はいまでも通用している「はず」だとも刷り込まれている。

しかし、選挙公報にある、最高裁判所裁判官国民審査のための各裁判官の自己紹介文を読むと、趣味は近所の散歩とか、おそろしく他愛もない話が印刷されていて、どうやって国民に「審査せよ」というのか?

国民にはわからないことばかりなのである。

それに、最高裁判事には上に書いたように、下級各裁判所の判事に関する人事権がないのだ。
この空疎感。
だったら、判事も事務総長も、A.I.が担当した方がよくないか?と、一瞬でもおもう。

なんだか、すごい闇の中に暮らしている気分になる。
アメリカのやり方を、GHQはどうしていれなかったのか?はしらないが、アメリカのやり方がいいともいえないので、困ったものなのである。

裁判官の人事評価と、昇級・昇格・異動などは、どうやって決めるのがよいのだろう?

少なくとも、いまのやり方がよいとはいえない。
おおいなる議論をすべきところだろう。

ところで、トランプ氏の3度目の起訴状には、へんな罪状が入っていて、その根拠法が19世紀のものなのである。
これを、アメリカの保守言論界の重鎮が、まともな起訴状ではない、と断じて話題になっている。

やぶ蛇になりそうな、「1月6日事件」の責任論なのである。

どうしてやぶ蛇になりそうかといえば、当時の民主党ペロシ下院議長の演出だということ(現状では「噂」)が、裁判で明らかにされたとき、どうするのか?があるからだ。
なにしろ、いまは、共和党が下院議長に就いている。

つまり、ペロシが強引に進めてもなにも証拠がみつからなかった本件で、今度は共和党がペロシの挙動を調査する権限を持つからである。
でっち上げの証拠づくりには失敗したが、でっち上げたことの証拠は見つかるにちがいない。

すると、話の展開がおかしくなる。

3度目の起訴をした連邦検察官には、「凄腕」という評価と実績がある。
しかし、彼の狙いは、じつはペロシではないのか?と妄想したくなるのだ。

あんまりニュースになっていないけど、カチカチ山の泥船から逃げるがごとく、沈み行く民主党バイデン政権に見切りをつけて、さっさと退官するエリート官僚が多数いるときく。
連邦検察官とは、日本も同様に、「政府の役人」なのである。
アメリカなら司法省、日本なら法務省に属する。

現状からすれば、彼の立ち位置はどっちつかずだ。
あたかもトランプ氏を有罪にすると、民主党にはいうけれど、一方で、トランプ弁護団に、ペロシの仕業を提出させるのではないか?

そうやって、あとは、裁判官にボールを投げて、自身は知らんぷりできる。

とにもかくにも、欧米人は、「偽旗作戦」が大好きなのである。
敵が味方で、味方が敵だったなんてことはよくある。

権謀術数のあらん限りをつくして、自己の保身だけをかんがえる。
これが、欧米エリートの真顔なのである。

まことに醜く、低俗なるひとたちだ。

日本なら、こんな茶番をだれが観るものか!となるにちがいなかったが、昨今の退化した日本人には、「複雑性」という理由だけをもって、アメリカの茶番が理解もできなくなったのである。

「プロパガンダ」が配信される

ここ数日で、どういうわけか集中して何本かのプロパガンダが配信されてきている。

せっかくだから、「デジタル・タトゥー」にしてとっておいている。
基本的にこれらは、「出版物」なので、ほんとうはそんな必要もないけど、「目録」にしてしまっておけば、誰がいつプロパガンダに加担したのかがすぐにわかるのは重宝だとおもうからである。

五月雨式でやって来るものだけど、ここ数日のを順番に書けば、

7月26日に、オリジナルは「昨年11月11日」の記事(東洋経済)がやってきた。
タイトルは、『共和党の下院奪回が招く米議会の「機能不全」-バイデン大統領「弾劾」の可能性が高まる』である。
著者は、米州住友商事会社ワシントン事務所調査部長 渡辺亮司とある。

次が、4日にJBpressから来た、『プーチン時代の終わり方、英国の諜報機関MI6・ロシア担当官が公式に言及 求心力が急低下、退陣・禅譲・クーデターに西側は備えよ』である。
著者は、ジャーナリスト 堀田 佳男とある。

最後3本目に来たのは、5日だが、やはりオリジナルは「4月21日」の記事(東洋経済)で、配信メールには、『「少ない方が豊かである」資本主義の次に来る世界とは?』とあって、クリックすると、『成長を必要としない、次なる社会をつくる 『資本主義の次に来る世界』 ジェイソン・ヒッケル 著 野中 香方子 訳 定価:2,640円 』という図書の宣伝であった。

どれもこれも、「ゴミ」である。

このブログの読者なら、とっくにお見通しだろうけど、これらの言い分は、みな、邪悪の具現者、「世界経済フォーラム」や戦争屋の「ネオコン」の主張でしかない。

特に2本目の記事の悪辣さは、あたかも現職のMI6・ロシア担当官が書いた風情を醸しながら、じっさいは、元職である。
民主党・ヒラリー・クリントン陣営がつくった大ウソだったことがとっくに判明している、あのトランプ陣営へのロシア疑惑の根拠となった、捏造文「スティール文書」の、クリストファー・スティールなる人物を「取材」したかのごとく書いているものだ。

民主党・ヒラリー陣営が書いた作文を、自分の名前と経歴を付けて「売った」のがこの人物で、得た金は、2000万円だったともいわれ、ダーラム特別検察官のレポートで、トランプ氏へのロシア疑惑は完全否定された。

いまでは、バイデン一家の方が、モスクワ元市長の未亡人からの3億5千万円で、国の制裁リストから「外した」ことが、「ロシア疑惑」になっている。

あまりにもあんまりなお粗末なので、極左CNNでさえも呆れたのだった。

最初の住友商事の記事は、本人の肩書きと名前を表記しているから、会社の広報を通して書いたものだと判断していい。
つまり、このひとが書いた、というよりも、文責は会社にある、という意味となる。

したがって、住友商事あるいは、少なくとも米州住友商事会社ワシントン事務所長の許可があっての文章なのだ。
これがまた、日本企業のサラリーマンのルールである。

だから、最低でも現地事務所レベルでは、民主党を応援しないと、ビジネスにならないことも示唆する。
あたかも、日本でSDGsに賛同しないと、ビジネス契約が途切れてしまうのと同様だ。

要は、マイルドな脅迫に屈しました、という意味の表明をした記事なのである。
「調査部長」といえども、サラリーマンの悲哀がみてとれるではないか!

まさに、オデッサ・ファイルでSSに協力して利益を得たのと同じ構造がみてとれる。

最後の3本目は、まったくもって、クラウス・シュワブ氏の理想とするところだ。
完全なる共産主義の実現をいう。

ずっと資本主義の対角に共産主義があると信じ込まされているので、大富豪が共産主義者だというと、そんなバカな!という感覚が植え付けられている。
無産者(身体一貫)の労働者こそ、共産主義実現のための行動するひとたちなのだ、との刷りこみだ。

しかし、高度な学識があって、資産を豊富に持つ、大富豪こそが、人類に君臨すべき選ばれた唯一の人間なのだと思いこめば、クラウス・シュワブ氏のような人間はたくさんいるから、組織をつくることが可能となる。

この意味で、街の共産主義者とは、彼らからしたら、真性の「役に立つ白痴」なのである。
いやむしろ、邪魔な存在なのだ。

『資本主義の次に来る世界』とはなにか?

唯物論にてらせば、もちろん、共産主義社会である。
とうとう、これを正々堂々と書いた本が、マル経学者とは別系統からでてきたが、主張そのものに新味はなにもない。

それよりもなによりも、資本主義を人類は経験していないのである。

あったとしたら、江戸期から明治の日露戦争までの時期の日本しかない。
それは、「道徳」が社会の根底にある経済社会だからだ。

詐欺・掠奪・冒険を根底とする経済社会は、とうてい資本主義社会ではなく、ただの中世までの「儲け主義社会」にすぎない。
さいきんでは、「マネー(資本)主義」とかとも表現するが、ようは、「銭ゲバ」のことだ。

いま話題の「BIGMOTOR」社のやり口とは、まったく江戸期から明治の日露戦争までの時期とはちがう、詐欺と掠奪を前提としたビジネスモデルだから、これを、「欧米化」といって差し支えない。
あるいは、日本人の「堕落」ともいえる。

これを、きちんと『国民経済』で解説したのが、大塚久雄教授だった。

しかしながら、大塚博士をして、現代を「資本主義社会」といわしめたところに、おおきなまちがいがあったのである。

いまや、EU離脱のお仕置きで、フラフラになった英国政府は、とうとう諜報部門の予算も枯渇して、「売文」をしないと生きていけなくなったのか?と疑わさせてくれたのが、堀田氏の功績だとおもわれる。

きっとこれからも、プロパガンダがたくさん配信されてくるにちがいない。

やばい『オデッサ・ファイル』

また今年も、8月がやってきて、まもなく、風物詩となった、「戦争反対のキャンペーン」シーズンがはじまる。
ずっと、あるいは「わざと」、国内の話ばかりとなっているから、たまには同盟国ドイツの事情について書いてみる。

フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』に次ぐ二作目が、こないだ触れた、『オデッサ・ファイル』(角川書店、1974年)だった。原本は72年の発表である。

 
 

ウクライナ戦争で、すっかり黒海の奥にある街・オデッサも日本人にはしられるようになったけど、本『オデッサ・ファイル』の「オデッサ」とは、この街は関係がない。

本書冒頭に、「ODESSA」とは、ドイツ語のOrganization Der Ehemaligen SS-Angehorigen(元SS隊員の組織)のイニシャルをつなぎ合わせた合成語だとの説明がある。

そう、「ナチス親衛隊(Schutzstaffel:略してSS)」の悪行を問う話なのである。

もちろん、作家は戦勝国の英国人だから、ともいえるけど、本作での「告発」は、「すべての報道記者諸氏に捧げる」とあるように、あくまでも、「ジャーナリスト目線」からの告発なのである。

それが証拠に、訳者が「あとがき」で書いている、「事実とフィクションが渾然一体となっていて、どの部分が事実でどの部分がフィクションなのか、判断がつきかねる」とあるとおり、ドキュメンタリー・タッチなのである。

「主人公」である、この恐ろしい組織は、最初、ナチス党内で、ヒトラー護衛組織として誕生したが、その後、国家警察(悪名高い「ゲシュタポ:国家秘密警察)」やら、「強制収容所」も傘下にした、巨大組織に成長する。

つまり、党が国家を支配する体制のなかで、その党を警察力で、国軍も含めすべてを支配したのがSSだった。
ゆえに、「国家の中の国家」とも表現されることがあるけど、これは悪い表現で、国家を超越した「なんでもあり」だといえる。

こうした組織設計は、ソ連共産党もやったことなので、「全体主義」という括りとすれば、どちら様もみな同じなのである。

だから、ヒトラーのナチスと、スターリンの共産党の「犬猿の仲」とは、何度もいうが、「同じ穴」のなかでの勢力争いにすぎない。
一方が極右で、一方が極左とだという表現は、あたかもそれぞれを「別物扱い」にして、誤解を増長するから、悪意が疑われる言い方だ。

われわれが憎むべきは、「全体主義」なのである。

その全体主義を根底から告発したのが、ハンナ・アーレント女史であったし、ハイエクであり、また、ドラッガーであった。

18歳のアーレントが、1924年にマールブルク大学で、実存主義の大家マルティン・ハイデッガーに師事し、その後不倫関係となったのは、『アーレント=ハイデガー往復書簡集』(みすず書房、2003年、新装版2018年)に詳しい。
わたしはこの本で、ハイデガーの実存主義を疑い、アーレントは、ハイデガーがナチスの思想的大黒柱に変容するさまをみている。

あくまでジャーナリストであるフォーサイスは、当然に、ハンナ・アーレントが書いてセンセーショナルを巻きおこした、『イェルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』(ニューヨーカー誌、1963年)も前提として執筆している。

 

しかしながら、アイヒマンを外国で逮捕・拉致したイスラエル政府の行為は、その外国の国家主権に対しての冒涜だとされて、その犯罪の議論を外野からの騒音にしたのも事実としてあった。
これにも、「ODESSA」が一枚噛んでいたかもしれない。

そして、なによりも、ドイツ人たち(当時は「西ドイツ」)が、過去のこと、として触れたがらなかったのは、敗戦間近の1945年2月で、SSは125万人とされていて、一般人にとっても近しいひとたちが隊員だったからだ。

巨大化した組織なので、あらゆる「調達」についても、人脈やらをたどると、「親派」はもっと増えるのは当然で、これがまた、正規の経済活動にもなっていた。

これは、橋田壽賀子の名作、『おしん』でも表現されていて、おしんの夫は、軍への納品を許されて、安定収入を得たのであった。
それで、その見返りに、軍への協力を惜しまないこととなり、敗戦後の「自決」となって物語は進展する。

ドイツ人は、こうした「反省」はしなかった。

だからといって、ドイツ人を非難したいわけでもなく、日本人を待ちあげたいのでもない。
どうしようもない強大で巨大な社会の歯車が動きだすと、どうしようもないことになるということに、重大な関心を持つべきだといいたいのである。

それが、当時のドイツ人がナチスを支持したことの分析につながる。

当初は、一部の過激分子(全体主義者)だけがワイワイやっていて、ノンポリの一般人は興味さえ示さなかったのである。
しかし、いまの日本も、国会で「絶対安定多数」をもっている自民党だって、じっさいの国民からの獲得投票率は、17%程度でしかない。

たったこれだけで、絶対安定多数がとれてしまう。

そうやって、全体主義の政権に「日和って」みたら、自己陶酔の精神的状況をつくれば自分だけ所得が増えて、興味のなかったひとたちが乞食のように群がった。
それで、国家依存しないと生きていけなくなって、積極的な支持、を自己演出してそれが、自己肯定となったのである。

ドイツ人は、戦後、過去のこと、として今度は、忘れる努力をしたのである。
しかして、日本人もドイツ人を嗤えるのか?と問えば、五十歩百歩ではないか?

マーチングの次はダンス

ずいぶん前の2017年に書いた、「高校生マーチング・バンドから見える日本の驚異」の続編である。

こんどは、「ダンス」だ。
結成してまだわずか2年しか経っていない、『アバンギャルディ』が、SNSでブレークしている。

どうやら、堺市にある大阪府立登美丘高校のダンス部OGたちが中心メンバーのようで、そのいでたちは、ちょっと懐かしさがあるジャンパー・スカートの制服で、全員がおカッパ頭(ウィッグ)で統一している。
ビデオによっては、舞台が「校内」だと、あのゴムの「上履き」で踊っているのだ。

そもそも、この高校のOGだった、akane氏が、振り付けとコーチを担当したところ、日本高校ダンス部選手権で、2015年から2連覇した、「バブリーダンス」が有名になって、17年にはレコード大賞特別賞を受賞し、すぐに日和るNHK紅白歌合戦への出場となって、全国に知れ渡った。

19年にコーチを引退したが、いわば本格的「プロ転向」したのである。

さいきんのブレークは、数週間前の「America’s Got Talent」に出場し、会場を沸かせて予選通過したことだ。
この番組は、いわば「世界の登竜門」なのである。
もしも優勝すれば、賞金100万ドルはもとより、ラスベガスでの公演が確約される。

人間はいつから踊っていたのだろうか?

おそらく太古の昔から、感情とともに体を動かして何かを表現したにちがいなく、言語の発達より先なのではないか。

この意味でもわが国は不思議で、おもに西洋の「ダンス」に対して、「日本舞踊」があるのは、「洋楽」に対して「邦楽」があるからだろう。
楽器のちがいどころか、音階もリズム感もことなる。

身体ぜんぶを用いて「踊る」のも、「洋と和」での用いる筋肉のちがいもあるために、日本人の踊りは複雑になる。
それがまた、「武道」におけるちがいとなって、「騎士」と「武士」とでは、全然ちがう動きをする。

フェンシングと剣道のちがいは、誰が見てもちがう筋肉をつかうのがわかるし、組み手としても、レスリングと柔道はまるでちがう。

さらに、小笠原流などの弓道では、座り方・立ち方・歩き方といった動作の基本が、日本舞踊での訓練と合致するのは、それが生活の基本動作でもあったからである。
糸で吊られた人形のように、頭がブレずにスッと立つのは、あんがいと難しく、外国人にはなかなかできないのである。

畳がない洋風の生活様式になった日本人にも困難になったので、「時代劇」が作れなくなった。

だから、日本で学ぶ、「ダンス論」という専門分野では、どうやら西洋のそれよりややこしいらしい。

たとえば、狂言師の世界で有名な、「猿にはじまり、狐におわる」という表現は、『釣狐』のキツネ役ができるようになるまで数十年を要するからだ。
役者は、檜板を張った能舞台(檜舞台)でキツネの歩調を真似て飛ぶように床を踏む演技を要求される。

このとき、バタバタと音がしてはいけないのだ。

キツネのように軽妙に、音を立てずに踏めるようになるには、とんでもない訓練を要するのである。
それは、足腰の動かし方であり、筋肉の使い方の習得なのである。

これを日本人は、伝統的にしっている。

また、現代の伝統的工芸品の世界では、かつて時代のアバンギャルド(前衛)だったことを重視して製品作りに取り組んでいる。
これは、いま何かと話題の「歌舞伎」も同然で、「かぶいて候」とは、頭を傾ける仕草=何それ?からきている言葉で、「風変わりなひと」のことを「かぶき者」といったことにはじまる。

なので、勝手に解釈すれば、「アバンギャルディ」とは、「かぶき者の女子たちによる前衛的ダンス・カンパニー」ということになるのだろう。

代表のaKane氏が、ここまで解説したものを見ていないので、勝手に、と書いた。
ただし、このチームのコンセプトとして、「風変わりなおもしろさを強調したい」という言葉があるので、大外れではないとおもう。

それにしても、このダンス・カンパニーも然りだが、圧倒的に芸事に関しては、上方上位だとおもうのである。

かつて書いた、マーチング・バンドにしても、「厚さ」と「熱さ」が、関東以北とは趣を異にする。
プレイヤーとしての本人はもちろん、家族の同意や積極的関与がないとできないだろうと想像できるからで、この「ノリ」が上方なのだろうとおもうのである。

つまり、「芸」がないのは、半端な人間なのだ、という地域的合意があるかとおもわれるのである。

その要求完成度は、おカッパの髪の毛一本の揺れ方にも及ぶことはまちがいない。
この人たちの練習量を容易に想像することはできるけど、「途方もない量」だとだけはわかるので、やっぱりどれほどの練習量なのか?について具体的には想像できない。

ましてや、代表兼振付師のaKane氏がいう、「ぶっとんだダンス」を披露してなんぼ、という発想は、とかく「決めたがる(自己中的)」東京の価値観とは真逆の「真のエンタメ」を求めている「理念」があるのだから、これをまた、「マネジメント」する能力は、aKane氏だけでなく、メンバーひとりひとりにも求められていて、完全に理解して実行しているのがわかるのだ。

でないと、組織は崩壊する。
つまり、まれに見る完成度と熟練度の高い「組織」なのである。

世界的に珍しい日本の部活とはいえ、府立の普通科高校を卒業して、そのままダンス・カンパニーに就職することの勇気にこそ、アバンギャルドな精神があって、外国のオーディションで、「日本精神の発露」を事前アピールしてその評価で「確かに日本的だ」と審査員にいわしめたのは、ピカピカの出来立ての「無形・伝統的工芸品」としての絶賛だったのではないかと、ひとりで痛快感に浸っているのである。

金融政策が効かない理由(わけ)

景気が加熱してインフレになったなら金利を上げて、景気が後退してデフレなら金利を下げる。

こうした「伝統的」な金融政策は、もっぱら「中央銀行」がやってきたものだ。

わが国でも、ずっとニュースで、「政府・日銀」といういい方をして、政府の経済政策と日銀はセットだとしてきたけれど、「バブルの反省」から、日銀法が改定(平成10年)されて、明治期に設立されて以降はじめて、「政府からの独立」を達成したのであった。

しかし、このブログで何度も書いたように、法的な日銀の立ち位置と、資本金での立ち位置がことなる。
上場株式会社としての日銀は、日本政府が株式の半数をもつと「されている」からである。
不思議なことに、日銀は上場企業なのに、「株式(主)構成」を一度も公表していない。

証券取引所は、どうしてこれを許しているのか?
ちなみに、日銀の企業コードは、「8301」である。

もちろん、国会でも議論されていないのは、「パンドラの箱」が日銀になっているから、怖くてきけない、しりたくない、ということではないか?

そんなわけだから、新日銀法における「政府からの独立」とは、単なる「作文」である。
これが、「法治国家」を自認する、日本国の「法治」なのである。

つまり、インチキだ。

そのインチキが、経済構造的にどんどん拡大されて、気がついたらコントロール不能になっていた、というのが、実態だとかんがえる。

その拡大とは、貨幣(法定通貨)のシェアがどんどん落ちて小さくなったことと連動する。
かんたんにいえば、「金融工学」がつくりだした、「デリバティブ」という「商品」が、売れれば売れる(実態は証券会社も「信用創造」した)ほど、中央銀行の経済コントロール力が低下することをいう。

これに、ビットコインとかでしられる、「ブロックチェーン (blockchain)技術=暗号化技術」でできている、「仮想通貨」も加わった。

ときに、「電子マネー」と一口にいっても、ブロックチェーン技術を用いたものとそうでないものは、ぜんぜん「別物」だ。

先行しているという、「デジタル人民元」にせよ、各国が開発中という、「中央銀行デジタル通貨(CBDC:Central Bank Digital Currency)」にせよ、ブロックチェーン技術が使われていないなら、それは、「中央集権型」にならざるをえず、当然ながら中央銀行は中央集権型を選択するはずだ。

逆に、ブロックチェーン技術(暗号化技術)を用いた、「仮想通貨」には、発行元さえ誰だか不明の、「分散型」だという特徴がある。

発行元が不明という一点で、中央銀行は「ふざけるな!」と敵視するはずではあるけれど、ブロックチェーン技術のもう一つの特徴に、「匿名性がある」ことをわすれてはならない。

既存の中央銀行が嫌う、誰が発行したかわからないのが問題なのではなく、誰が使ったかもわからないし、不正使用がほとんど不可能だという利点を強調したい。

これは、いま乞食化した国民が、数パーセントのキックバックでよろこんでつかっている「なんとかPAY」もおなじで、ブロックチェーン技術を用いないなら、「匿名性はない」から、経済全体がこの方式になってしまうと、その主宰者は全員の経済生活をコントロールできる、恐怖の時代が完成するのである。

つまり、愚か者たちにたった数%のエサを与えることで、将来、奴隷化したあかつきには、とんでもない利益をえる(世代を超えて永久に収奪する)のが目的なのだ。

日銀もしかり、だけれど、ずっとつかってきた「紙幣や硬貨」にも「匿名性がある」から、CBDCの設計には、ブロックチェーン技術をつかうべきだが、そうなると分散型になって、中央銀行の存在価値がなくなる。

話題の、「マイナンバーカード」も、ブロックチェーン技術を用いていないことが、国民からの不信を買っているのは、当然といえば当然だ。

いま、こんな具合で、中央銀行が発行しているはずの「おカネ」が、銀行だけでなく証券会社も含めて、タダの「数字」が電子的に移動しているだけなので、じっさいの「現物通貨」のシェアがなくなっているのである。

ところが、金融政策が、19世紀的な法定通貨しか流通しない理論のままでいるために、あたかも中央銀行の決定が、その経済圏に決定的影響を及ぼすと、「神話化」させるしかなくなった。

よくいう、「マーケット」が、巨大になって、中央銀行だけで太刀打ちできなくなったのは、これまでの施策(民間が「信用創造」したこと)の、自業自得なのである。

それゆえに、逆神化したマスコミは、あたかも中央銀行に経済コントロールの決定権がいまだにあるようにみせかける、嘘記事を平気で書いているのだし、中央銀行側も「なにやらもったいぶって難しい風情」を装うことで、重大な決定をしているのだと演じるばかりとなったのである。

その役者として、役人上がりより、学者が最適だとして選ばれたのは、「きっと難しい理論」を根拠になにかしているにちがいない、と国民やら経済界がおもえばそれでいいからである。

結局のところ、国民経済という概念も希薄化して、むしろ、不況をつくって、担保を収奪することに政府も中央銀行も、よってたかって奮闘している。

この意味にだけ、金融政策は効いている。

世界はロシアに従う?

BRICsの共通通貨は巷間にいう、金本位制の復活なのだろうか?
今月22日、その答合わせができる。

「ウオーターゲート事件」で失脚したから、ニクソン大統領の評価は低いけれども、昨今、この事件も民主党のでっちあげだったのではないか?との説がでてきている。

トランプ氏への執拗な攻撃が、却って「むかし話の検証」に火がついたのである。

すると、不可思議で辻褄が合わないことが多数判明し、現職大統領を追い詰めてピューリッツァ賞をとった記事にも、その疑問が波及しているのだ。
もしや、歴史的な、受賞剥奪が起きるかもしれない。

権威を守る、ということには、無謬性(まちがえっこない)だけでの突っ張りは効かないのだ。

これよりもっと大きな事件は、「第一次石油ショック」への疑問がある。

ニクソン大統領は、ドルと金の交換(兌換)を停止させて、ドルを「不換紙幣」とした。
これが、1971年8月15日の「ニクソンショック」だ。
円はもちろん、世界の通貨は、ほとんどがドルとリンクしていたから、自動的にぜんぶが不換紙幣になってしまったので、「ショック」が起きたのである。

ようは、通貨価値の裏打ちがなくなった。

つまり、人類はあらためて、「通貨とは何か?」という問題に直面したのである。

それから2年経った1973年10月に、アラブ諸国がイスラエルに攻撃を仕掛けた「第四次中東戦争」が勃発するも、ここで初めて「石油戦略」が発動された。
原油価格がざっと、4倍になったのだけど、この10月から翌年3月まで、日本、カナダ、オランダ、英国、アメリカの五カ国は、アラブ諸国から「禁輸措置」をくらっていた。

いまでも石油の9割をアラブに依存している日本人は、また「禁輸」をくらうかもしれないことに、ぜんぜん警戒しないのはなぜか?

わたしは、バカだから、だとおもっている。
それで太陽光や風力に頼ろうとするのは、英国をみればすぐにわかる、もっとバカなのである。

国民のバカさを、官僚の上から目線で書いたのが、堺屋太一の『油断』(日本経済新聞社、1975年)だった。
原因となった中東戦争の方は、フレデリック・フォーサイスの『オデッサ・ファイル』(角川書店、1974年・原本は中東戦争前の72年)がある。

なお、エジプト軍が用意して、開戦時に友軍の「傘」となっていたミサイル軍(空軍)の司令官が、サダト暗殺後に後任大統領となるムバラクだった。
エジプト側は、なぜか?この「傘」から陸軍が外に出て、イスラエル空軍機の餌食となって敗北したのである。

1970年の大阪万博を仕切った通産官僚の堺屋太一は、本作の発売を機に退官した。
いま、大阪・関西万博を誰が仕切っているのか?その劣化は国力としてではなく、人材枯渇とみてもよいのではないか?

さて、欧米人の戦争の伝統に、「偽旗作戦」がある。
いまもウクライナでさかんに実施されている。

クリミア大橋や、ロシアがまっ先に占拠して運転している原子力発電所をロシアが攻撃したとか、NATO加盟国であるポーランドにロシアがミサイルを撃ち込んだとか、その都度、ウクライナの発表だけを報道するけど、ぜんぶがウクライナのしわざだとアメリカ軍すら公式発表している。

ちなみに、トランプ氏を裏切って民主党に日和った、ミリー統合参謀本部議長は、とっくにウクライナ戦争を外交で始末するよう、バイデン政権に進言しているが、金儲けから戦争をはじめたひとたちに通じるはずもない。

偽旗作戦を、中東戦争当時に当てはめると、「石油戦略の発動」の手際がよすぎるという疑問が、いまとなってはアメリカ(国際石油資本)の仕込みではないか?といわれてきた。
なにせ、ニクソン大統領は、74年にキッシンジャーをサウジアラビアに派遣して、「ペトロダラー」の協約締結に成功させているのだ。

これは、石油決済にドルしか認めない代わりに、アメリカがアラブ諸国を防衛するという相互協約なのだと説明されているけど、タイミングがピッタリすぎるのである

こうして、アメリカの覇権は、金(Gold)から石油にシフトした、「石油本位制」によってさらに有利さを増した。
ために、FRBは、ただ(ゼロ・コスト)でドルを印刷できた。

それで不換紙幣に辟易した各国は、こぞってドル準備を進めて、いつでも石油を買えるようにしたのである。

ちなみに、FRBは、アメリカ政府が発行する債権(国債:利回り付き)を担保に、ドルを印刷している。
おどろくほど、FRB(だけ)が儲かる仕組みになっている。

何度も書くが、FRBは、100%民間企業で、アメリカ政府は1セントも出資していない。

ほぼコストゼロで、世界通貨を発行できるアメリカの繁栄(じつはFRBの繁栄)はこれで盤石になったのだから、その傘下にあるウオール街のアメリカ人だけでも、ニクソン大統領には感謝しないといけないだろうに。

それから20年もしないでソ連が自滅した。

当時もいまも、ソ連(ロシア)経済を支えているのは、石油と天然ガスとかの豊富な天然資源だけど、ソ連は採掘技術開発に完全敗北したのだった。
この破たんのタイミングが、あたかもレーガン政権の「スターウォーズ計画」と合致したから、レーガンが冷戦終結(アメリカ圧勝)の立役者になって見えたのである。

さて、BRICSといっても、明らかにリーダーはプーチンのロシアである。

アメリカを破壊する役割のバイデンは、しっかり計画通りに破壊して、サウジアラビアとの関係も破壊した。
サウジアラビアはすでに、人民元での石油決済を認めたので、74年の「ペトロダラー協約」は半世紀して破れたのだ。

BRICSの「C」は、中国なのに、人民元ではなくて、新共通通貨をつくるのはなぜか?

資源大国のロシアが主導する、「新ペトロマネー」ではないのか?
石油もガスもない中国だから、プーチンのロシアに従うしかないのだ。

逆神マスコミの、中国がロシアを支配する構図はありえない。

もしも、プーチンが「新ペトロマネー」をつくるなら、世界はどうなるのか?はかんがえるまでもなく、ロシアが中心となる。
アメリカは、あわててシェール革命を再開しても、もう遅い。

さては、ドル資産をどうするのか?
個人の生活にも影響するのは、必至なのである。

ヘンテコな経済制裁で、ロシアルーブルが買えないのは、世界貧困化のためだとしかおもえないのはわたしだけか?

あるべき姿が消されていくわけ

看板や店舗の前は通ったことはあるけれど、一度も利用したことのない、「BIGMOTOR」がえらいことになっている.
それがまた、損害保険会社の不正疑惑にまで発展して、傷口が拡大しているようである.
また、経営コンサルタントとして当事者に影響力があった企業の浅はかさも話題になっている。

例えば、「環境整備」の有無を言わさぬ強制は、その心を理解させる前に身体で覚えさせることに重点を置きすぎたことで、店舗前の公共の街路樹に除草薬を撒くことを合理化させてしまった。
こうすれば、落ち葉もなくなる、から清掃が楽になるというわけだ。

自動車関連だと、神奈川県に店舗周辺の徹底した清掃で有名になったディーラーがある事例を、ここの経営者も社員も知らなかったのか?

アメリカでは、バイデン一家の息子・娘だけでなくそれぞれ(兄弟・甥・姪)が、個別にいろんな(ほとんどが刑事)事件を起こしているけど、こちらはどういうわけか全員が、「お咎めなし」の特権を享受してきたのが明らかになってきた.

これらを報道しなかったマスコミの責任も問われるけれど、アメリカ人の6割がとっくに、「マスコミ報道を信じない」と回答していて、大口スポンサーの都合でしか記事を書けない状態は、マスコミ各社の自力経営回復を不可能なものにしている自業自得がある.

たとえば、フレデリック・フォーサイスは、2作目の『オデッサ・ファイル』冒頭に、「すべての報道記者諸氏に捧げる」と掲げて、当時の戦後ドイツ人たちを震えさせた。
もう、こうした記者魂は消滅した。

ヨーロッパでは、EU委員長のフォン・デア・ライエンの起訴がいつかと騒がれている。
容疑は二つ、一つはワクチンの大量買付契約が、委員長の独断だったことの越権行為の疑いで、もう一つは、夫の事業への便宜供与が不正契約だとの疑いだ。

こうした一連の、一見関係のない出来事が、世界で同時に次々と発覚してスキャンダル化していることには、正義を欺瞞で誤魔化すという共通が見てとれる。

「流行病(はやりやまい)」といわないと、SNSでバンされることに、日本政府も目をつぶってきた欺瞞を指摘したい。
わが国には、アメリカ連邦法の「通信品位法」にあたるものがないから、なにを根拠にしているのか?となる。

もちろん、直接的には、SNS企業側が利用者に同意させる「利用規約」がそれにあたる。
しかし、この利用規約に法的不備があったならどうするのか?
ここでいう、法的不備とは、言論の自由と誹謗中傷との判断にまつわる法的措置に関する規定である。
アメリカでは、これに「不正確な情報」も含まれるとして、検閲を可能にしている。

詰まるところ、日本版「通信品位法」がないといけないのだ。

しかしこれを政権党も、野党も、作る気がない。
このことを忘れさせられて、なんだかみんなで「慣れて」きている滑稽がある。

だが、ぜんぜん笑えないのは、これが社会的な訓練になるからである。

常識が壊されているのだ。
社会の誰もが、同意することや、拒否すること、あるいは忌み嫌うことの共通が、常識というものだった。

あたらしい発想をするときには、こうした常識が思考の邪魔をすることは多々ある。
なので、「常識を疑え」というのは、あたらしい発想を促すときの常識でもあった。

いま世界で行われているのは、社会を覆う常識全部を壊す努力をしている、という意味で、革命に匹敵する。

つまり、見えない革命が進行中なのである。

しかしながら、革命にはかならず「反動」がつきものだ。
それで、社会の皆が眉をひそめる「非常識」が炙り出されて、糾弾することで、あたかも社会が元通りの安定化しているように見せかける。

けれども、革命はこんな程度では止まらないから、ちょっと進むたびに反動が起きて、を繰り返す。

こうして、いつか気がついて振りかえってみたら、以前とはぜんぜんちがう社会になってしまっているものだ。

たとえば、マスクの着用が、一部のひとにすっかり定着したのも、ほんの数年前からしたらかなり異常なのである。
異常気象かなにかはしらないが、体温を超えるような猛暑の中でも、マスクを外せないひとたちが街を歩いている。

呼吸困難にならないのか心配するが、本人たちの心配は、きっと別のところにあるのだろう。

少なくとも、ウィルス感染症にマスクはなんの効果もないが、もはやそんな科学を気にしない。
ましてや、「マナー」だといわれたら、もうそれは、社会通念としての常識になったとかんがえることになったので、あとは多数派になれば革命は完成する。

子供なら脳の発達が懸念されると、日本小児医会はとっくに警告を発信していて、高齢者予備軍の50代なら、20年後程度後の認知症の発症増加が懸念されてもいる。
それでも、外せないのは、社会からの外圧としかかんがえられない。

そんな将来に認知症の原因が20年前のマスク着用習慣だと、医者はシラッというのである。
どうしてくれる?といっても、覆水盆に返らず、なのだ。

そんなわけで、「正しいこと」と「欺瞞」の区別がつかない時代に突入して、革命の準備が整ったのである。

もしやこのことを、「環境整備」というのか?

そして、革命のための見せしめとして、いくつか犠牲になる家族とか企業が、「憎悪」の対象になって、さらなる革命が進行するばかりとなったのである。

その証左が、経団連会長も胸から外せない、「SDGsバッジ」が示す、誰かが決めた「正しいこと」の推進なのである。