クリスマスもハロウィンも日本だけ

ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス:政治的な正しさ)が、とくにアメリカで先進的なひとたちのなかでの常識になったようだ。

こうしたものごとを、「先進的」だと先進的なひとたちが自分で決めつけるから、「遅れている」という批判が正当化されるようになっている。

走ったり歩いたりすれば、速いひとは先行して遅いひとは遅れるけれど、「先進的」というのは、あくまでも思想のはなしだから、騙されてはいけない。

基準が見えないからである。

すると、上に書いたように、基準を設けるのも先進的なひとたちなので、なんのことはない、自己中の集団が異物排除をしようとしている、悪質さが浮かび上がってくるだけである。

こうしたひとに限って、「多様性」を口にするから、これをふつう「ダブルスタンダード:二重規範」と呼んで、警戒してきたのである。

なので、ダブルスタンダードのひととは、たいがいが全体主義者だ。
すくなくとも、全体主義者がいう「多様性の絶対重視」とは、「多様性(を認めないこと)の絶対重視」という意味の用語であって、それは単なる括弧書きを抜いた「略語」にすぎない。

過激な破壊工作をした、「ブラックライブズマター運動」の指導者だった黒人の運動家が、自ら共和党・トランプ派に転向すると発表して話題になった。
彼は、「民主党こそが人種差別主義者だ」と言い切ったのである。

やっと気づいたかともおもうが、気づけばまだまともである。

ポリコレを推奨しているのがその民主党にほかならない。

自分の生活のすべてに政治的価値を持ち込むのは勝手だが、他人の生活にもその政治的価値で介入するのがポリコレのポイントなのである。

しかしこれはどこかで見た光景だ。
ヒトラーのナチスや、レーニン、スターリンのソ連がまさにポリコレによってつくられた社会だった。
日本でも絶賛する新聞社があった、文化大革命だって同様だ。

これらの共通点は、いまさらだが個人の生活空間に入り込んでくることと決まっている。

日本でもむかしの左翼学生運動家が、警察や警官を「ポリ公」と呼んで蔑んだのは、国家権力の執行機関のうちで、わかりやすいひとつが警察権力だったからだ。
それで、アメリカでは民主党が支配する州や市が率先して警察組織の縮小を実施して、犯罪をはびこるようにさせている。

「先進的」なカリフォルニア州では、昨年3月に、「950ドルまでの万引き合法化」を議決して、とうとう小売店が街から消失する事態になっている。
それで、人口も他州に流失して減少をはじめたけれど、やめる気は毛頭ない。

そうやって、金銭を支払う対価として物品を得るという当然の消費文化を破壊することこそが、「革命」だからである。

つまるところ、紅衛兵がかかげた「造反有理・革命無罪」を、現代の民主党がやっている。

これが、歴史教育にも及ぶのは当然で、社会のあらゆる方面が、「政治化」しているのである。
そのために、先住民族を虐殺し、土地を奪った歴史をあげて、大反省しているのは結構なことだけど、だからといって何をするかといえば、子供に擦り込むことをやっている。

こうして、反米のアメリカ人を大量生産していて、そのいきつく先がアイビーリーグということになっている。
日本以上の学歴社会であるアメリカにおいて、エリート教育の場が取り返しのつかない反米にまみれているのである。

目的は、アメリカの衰退である。

「世界最先端」のニューヨークでもお盛んだけど、ならばマンハッタン島を返還するのか?といえば、そんなことは微塵もない。
いまや、かつてのモスクワのように、ニューヨークがなっている。

そんなわけで、ピュータンが英国で迫害されたから逃げてやって来た新大陸が、暗黒大陸にみずからならんと欲して、信教の自由もなにも、ポリコレ(共産主義・全体主義)の一方的介入で破壊されている。

それでもって、建国の土台にあったキリスト教も、他宗教に気を遣えという道理を利用して、もはや、「メリークリスマス」といってはいけないことになっている。
あえていえば、インディアンとの関係性からのお祭りである、「サンクスギビング」さえ、タブーとなった。

日本では異常な盛り上がりをみせる、ハロウィンも、アメリカでは禁止の様相だから、渋谷で外国人も暴れるのである。

そもそも、日本人にはハロウィンがなんのお祭りかもわからないものだが、たんなる仮想行列としてのお楽しみで輸入したものが、世の中の閉塞感から、「ええじゃないか」に転換してきた。

これに、ハロウィンとはなんだかしらないヨーロッパ人も加わっていたのだろうけど、やっぱり「ええじゃないか」なので、世界からの参加になったのである。

アメリカ人はそんな自国の状態をふまえての「ええじゃないか」だろうから、三つ巴の三角波になっていることから、渋谷区長がなにをいおうが介さないのである。

キリスト教徒がほとんどいないのに、毎日聖歌を聞かされる12月の日本が、唯一のクリスマスを祝っている、というのは、あたらしい観光資源になったということなのだ。

かかあ天下の幸福

群馬県における、「うちのかかあは(働き者で)天下一」が、変に略されてできたのが、「かかあ天下」で、恐妻家の意味に変化してしまったのである。

前に、千葉の女の乳搾りについて書いた。
こちらも、「働き者」という本来の意味が、変に転じていたものだ。

エジプト人のフィフィ女史が、驚異的な日本語能力をもって発信している中に、「日本は女尊男卑の国だ」という指摘がある。

エジプトにいる日本人で、フィフィ女史に匹敵するアラビア語能力を発揮して、エジプトでの評論を発信しているひとをしらない。

ただし、エジプトだと二通りの言語がつかわれる。

アラビア語でのまじめな評論なら、「正則アラビア語=文語」をもって話すという、高度な語学力を要求される。
ふだんの日常会話における、「口語」では、話者の教養が否定されてしまうから誰も信用しないだろう。

なお、正則アラビア語=文語と口語とでは、別の言語かとおもうようなちがいがある。

もうひとつは、フランス語である。
クレオパトラの自死によって古代エジプト王朝が滅亡して、ローマの属国となって以来ほぼ2000年間、エジプトは常に覇権国の属国に置かれていた。

ナポレオンのエジプト遠征で、この国の知識人たちはフランス語をもって知的会話をしているのである。
ただし、その後の英国支配もあって、英語も常用されてはいるが、上流階級はなんといってもフランス語なのである。

かつて、エジプトにおける歌姫といえば、ダリダが有名だった。

しかし、日本でなら美空ひばりに匹敵するこの国民的大歌手は、パリに在住していて、アラビア語とフランス語が混じった歌を熱唱していたのである。

イスラム教の一夫多妻婚は、ときの支配者たちがつくった後宮(ハーレム)をもって、あたかも好色さだけが強調されているけれど、教祖モハンマドが定めた妻は4人までというルールは、ジハード(布教による聖戦)における戦死者の未亡人たち救済のためのものといわれている。

女性の3倍の男性が、戦死したのであった。

砂漠における生活は、日本人には想像も出来ない苛酷さがある。
なので、われわれの常識をもって安易な評価をするのは控えないといけない。

逆に、先方からしたら、「日本という異星」とおもうほどの異次元が日本なのである。
今の時期、紅葉を愛でるために来訪する外国人が多数なのは周知だが、アラブ系のひとたちには、木々が色づく光景だけで、それはもう異界なのである。

およそ100年前のパリでは、女性参政権をめぐって、シャンゼリゼを埋めつくす女性たちの大規模デモがあった。
いまの常識ならば、参政権を要求するためのデモにちがいないと勘違いするのだろうが、じっさいの目的は、その真逆、大反対の意思表明だったのである。

政治なる汚いものは男にやらせ、子供を産む神聖なる女性を穢すな!という要求なのである。

それがいつのまにか逆転して、女性の権利にまでなったのは、男女平等というジェンダーフリーの事始めが原因である。
しかして、そのまた原因に、啓蒙主義による「人権」という概念が誕生したからである。

なので、人類は1215年の「マグナ・カルタ」を嚆矢とすればこの1000年のことであり、日本なら「戦後民主主義=女性参政権」となって、たった80年弱のあたらしいことでしかない。

はたして、人間の男女とは、おなじ生き物なのか?とかんがえを巡らせば、似て異なるものだ。

生命が生殖機能を獲得して、ようやく死ぬことができるようになった。
雌雄のちがいがなかった億年単位の時間、生命は死ぬことができなかったのである。

そんなわけで、男尊女卑という常識は、あんがいと脆弱なもので、本来は女尊男卑の原則が、人類共通のものとしてあったのである。

ところが、あたかも酒席に遅れてきた者が、周りに追いつこうとして追い抜いて泥酔するがごとく、男尊女卑が擦り込まれてのち、男女平等の刷りこみ教育から追い抜いたら、目的が女性をトップに据えることだけに陥った。

わたしは、とくだん林真理子女史の読者ではないが、なぜにこのひとが日本大学という巨大組織の理事長になったかの原因と結果について、ただ違和感をもつのみなのである。

しかし、なにも日大だけが問題なのではなくて、世界的にもやらかしてくれる女性政治家や高級官僚が目立つのである。

これは、女性だから目立つので、なんだか気の毒ではあるけれど、その人事が適材適所なのか?ではなくて、女性だから選ばれて就任したのだとなっているかのように見えるから、気の毒なのであるという議論がある。

けれども、適材適所という判断基準も、男女平等という観点からのものなのである。

男女は別の生き物だとしたうえでの、適材適所をかんがえないといけないのではないか?

人手不足だから、主婦を働きに出すように仕向けながら、税制上で事実上の所得制限をもうけたり、保育所の不足をつくったりと、政府と財界に都合のよいことをやっている。
ついでに、どうせ「DINKS」だろうからと、男性の所得制限もして、ダブルインカムでないと生活できないようにしている。

さらに、こんな所得では結婚もできないので、親のすねをかじるようにして、個人資産の減少を促すのである。

それを誤魔化すために、女性管理職やらを数量で義務化しようというのは、女尊男卑を装って、その奥におどろくほどの男尊女卑が隠されているから、いまどきかえって男女平等を信じ込まされてきた男性側に戸惑いの違和感が生じるのである。

さては、「かかあ天下の幸福」とは、どっちのことなのだろう?

LINEがまたやらかした

日本人の一般多数が利用している、LINEという便利なサービスは、サービス開始の当初から、「危険性」が指摘されていた。

何度も繰り返している、情報漏洩がまた起きていたけど、この企業はその事実をひと月も公表していなかった。

悪質さの確信犯なのである。

しかし、利用者の方に、「危険性の認識不足」ということがあるので、事業者としておおいに助かっているという側面がある。

その勘違いのひとつが、LINEにおける文章会話の漏洩を、「たわいのないことばかりだから」として軽視することが挙げられる。

今回の漏洩は、この意味でわかりやすかった。

なぜなら、漏洩したのはそんな「たわいのないことばかりの文章会話」ではなくて、完全なる、個人情報(個人が特定できる情報)だけだったからである。

だれも、そんなたわいのない文章会話の内容をしりたくもない。

それでも、LINEに登録したら、どのような設定をしないといけないか?について、よくしっているのは、小学生から高校生くらいまでの、ティーンエイジャーなのだ。

また一方で、危険がいわれている、短時間の動画サイトも、小学生からのティーンエイジャーが多数利用しているので、なにがなんだかわからなくなる。

つまり、残念ながら、やっぱりティーンエイジャーたちは、その危険性の本質を理解しているわけではない。

すると、ティーンエイジャーたちの端末や通信費を負担しているだろう、保護者といわないといけない親たちの理解度は、相当に絶望的なのである。

さらに問題なのは、LINEをつかうように導いている、自治他や企業だ。

ここに、これら組織体の、道徳的劣化、あるいは、社会的責任の放棄、という問題がみえてくる。

たとえば、LINEの情報漏洩問題が真っ最中のとき、神奈川県はLINEによる行政情報の提供を宣伝していて、まったく動じている風情は微塵もなかった。
いやむしろ、そんな問題の存在を完全に無視していたのである。

担当の県職員を非難したいのではなくて、選挙で選ばれる、知事や県議会議員たちの無関心におどろきを禁じ得ないのである。

いったい誰のための選挙なのか?という根本が腐っている。

まちがいなく、住民のためではなくて、議員やらの本人のためになっているのである。

その意味で、わが国はソ連化している。

なので、ヘンテコな多数決の論理が、企業をしてLINEを営業ツールにする決済がまかり通っている。
対して、なぜに株主は反対しないのか?が謎なのである。

しかし、もはやわが国の上場株は、外国人支配がすすんでいる。
NTT法を廃止して、外国人がNTT株を際限なく購入できるようにするのは、わが国の通信インフラを外国人に売却するに等しい。

ようは、政権与党による売国が、あからさまになっている。

それなら、自治体がLINEをかたくなにつかうように住民に強いるのもわかるというものだ。

LINEサービスを提供する企業は、もとは韓国の企業である。
それが、日本に上陸して、情報漏洩をやらかしているのは、漏洩ではなくて売却しているのではないか?と疑われた。

通信を管轄する、総務省は、日本人ユーザーの情報があるサーバーを、韓国から日本に移転させるようにしてきた。

なんと、韓国には、ネットの個人情報を保護するための法律が存在しないし、その概念もない。

なので、登録会員の個人情報がこの国から周辺の国へ大量に流れても、サーバーのある場所が法律の適用を受ける国際ルールなので、日本人の情報流出も、日本政府は関知できない。

むかし、日本のホテルがカリフォルニア州にサーバーを置いて、そこを拠点に北米大陸のアメリカ人やカナダ人からの予約を日本に送信していたら、州当局が売上税の徴収を開始したことがある。
アリゾナ州ではそのような課税制度がなかったので、急遽、サーバーの引っ越しが業界のブームになった。

ガラケーからスマホになったいまでは、スマホが自動で収集する位置情報とかが漏洩してしまえば、個人が特定できるまでになっている。
ましてや、LINE Payをつかうと、生活情報の基盤も漏れるのである。

しかし、そんなものが漏れても、関係ない、というひとが多数だ。

そうはいかないのが、どうしてもそんな情報をほしいひとたちがいるからで、その理由が、ビッグデータ収集ならまだしも、そこで留まらない突然の脅迫のリスクもあるのだ。

どこに行って、どんな買い物をしたのか?によっては、他人にしられたくないこともあるだろう。

それが、脅迫になったとき、なにを要求されるのか?
自分はたいした人間ではない、という思い込みこそが、相手につけいる先を与えている。

そんなわけで、わたしは、このサービスはなかったこと、にしているのである。

通信キャリア3社が共同でつくった、「+メッセージ」は、仕組みの上で安全性が確保されている。

これにシフトさせる自治体や企業があれば、それはそれで、良心的なのだとわかる「踏み絵」となるのに。

鼻をきかせる店選び

旅をすると、必然的に初めての土地で飲食をすることになる。

電車での移動だと、その街の情報を得る方法はあんがいと限られると思いきや、自家用車の移動だと、もっと限られる。

そこで、「鼻をきかせる」ことが大切で、ハリウッド映画風にいえば、「本能に従え!」ということになる。

ネットがない時代の旅でも、もっとも信用ならなかったのは、「観光協会」の窓口であった。
こういった組織が、まだあることに驚きを禁じ得ないのは、なんだか「交通安全協会」がまだあるのと似ている。

地元タクシーに乗って、運転手さんから情報を得るというのは、今でも常套手段だろう。
この意味で、タクシーの運転手さんは、「情報産業」の一員である。

なので、イマイチな情報だと、タクシー会社のブランドが傷ついていることを、タクシー会社はどこまで気がついているのか?が問われるのである。

「売上 = 単価 ✖️ 数量」 という、全産業にとって絶対的な公式をどのように因数分解するかが、経営センスを決めるのである。

いったん規制緩和されたのを、再び国家介入を求めたような業界だから、残念だがお里がしれることになってしまった。

国交省のなんの経営センスもない役人に、単価を認可してもらうことになったし、運転手の数(自動車の台数)すら、国交省の役人が決めるのは、もうほとんど自助努力の分野がどこだかわからない、という縛りとなって、そこでの競争だけが熾烈になっている。

これに個人タクシーが絡んでくるので、企業組織対個人経営という構図もある。

企業組織対個人経営で、企業組織が圧勝したのは、コンビニエンスストアという分野だ。
このあたりを、タクシー会社はどのように自社をコンビニ化しようとしているのか?

酒類の販売許可という規制があったのは、食糧管理法で米屋が町内に必ず一軒あったのと同じであった。

いまもある米屋は、顧客の好みに合わせたブレンドの技をもって、それを顧客カードに登録する方法も採用した。
そこで、「賢い主婦」は、スーパーで袋詰めされた単一のブランド米を買うよりも選択の範囲を広げている。

「安く買う」ことだけが、「賢い」ということではないけれど、「専業主婦」が家計の贅沢さをあらわすことになった。

町内の酒屋が絶滅危惧種になったのは、コンビニで酒類販売ができるようになったことだった。

『サザエさん』の脇役、三河屋さんの「御用聞き」自体が、いまや死語となって、通用口がある家もなくなった。
ケースで買うのが当然だった、晩酌用のビールを配達してくれて、人寄せのときには追加注文に素早く応じてくれた酒屋さんも、ほとんどいない。

そんなわけで、しらない街の飲食店情報を、街の酒屋で聞き出すことが、いまでは困難になったのである。

税理士がひとり生活するには、30社ほどの顧問先がないといけないのと同様に、街の酒屋さんも、個人宅だけでなくて、街の飲食店の配達先をもっていないと生活できないのだ。
それで、必然的に、注文の、「単価」と「数量」で、店舗ごとの営業状況を熟知することになっていた。

だから、圧倒的な確率で、街の酒屋さんから聞き出した情報に狂いはなかったのである。

ネットがある、いま、いわゆる飲食店の紹介サイトをどう使うのか?をかんがえると、わたしの場合は、ほとんど参考にしていないというのが、結論であ

いわゆる、評価点数と投稿コメントの二つが決定要素なのだろうけど、この二つがぜんぜん信用ならないのは、観光協会と同じなのである。

そこで、なにも「Googleマップ」を宣伝するつもりは毛頭ないが、この企業が仕掛けている、利用者のマップによる「検索ログ」を取ろうとして、マップ上の情報を詳細化する努力をしりながらも、しらない街の飲食店を探すのに使っている。

いまいるホテルの部屋からでも、地図検索すれば、その街の飲食店分布具合が俯瞰できる。

そこで、捻くれ者のわたしは、まず、「場末」を確認するのである。
それからおもむろに、中心部の混み具合をピンチ拡大しながら、物色する。

よくしる地元で、これをやって、コツをつかむと、しらない街でもちゃんと使えるのである。
だいたいこんな方法で選んでいるが、ハズレに当たらないのは、しらない街だから、他店と比較ができないということもある。

もちろん、わたしはそんな成功体験をグルメサイトにあげる気はまったくないので、ひそかにGoogleマップのポイント登録をするだけで、自分だけの「覚え」としている。

それを、こっそりとGoogleマップ側は見ているのだとしりつつも、なのである。

梅干しと醤油の買い物ツアー

こないだ3㎏予約した「完全潰れ梅干し」が、用意できたとの連絡があったので、大風の中かみさんとお買い物半日ツアーに出かけてきた。

せっかく小田原まで出かけるのなら、すこし足を伸ばして、御殿場の醤油を追加購入しようとなったのである。

このお醤油屋さんは、日曜が休みだし、土曜も休むかもしれないので、念のため電話して営業中か確認した。
さいきん、目指した先が定休日だったり不定休の休みに当たったりと、店先で呆然とすることがあるのだ。

言っちゃ悪いが、ちゃんとした老舗ほどHPの情報が更新されていなくて、信用できないのである。

もちろん、老舗でもデジタル対応がしっかりしていることもふつうにあるが、あんがいと「ここ一番」の店が、ダメなことがあってそれが印象に残るのである。

逆に、老舗の立場からいえば、べつにHPなんてどうでもよくて、なんかしらないが商工会とかとの付き合いでHPを製作すれば、地元行政から補助金が出て安く作れるとそそのかされたパターンが多いのだ。

どんなに行政が鬼の形相で地団駄踏んでも、商店街振興がムダな努力となるのとおなじなのである。

そもそも、その店に魅力がないか、魅力の表現すらできないならば、なにをやってもうまくいかないし、ましてや商売をしらない行政マンがどんなにえらそうに口をだしても、ほとんどが無意味なのである。

明治の初めの、「武士の商法」よりひどいのが、行政における「地元経済対策」の失敗の本質である。

これを、国家も「経済産業省」なる武士の商法しかしらないものに、多額の予算を与えるので、もっと始末が悪いことになっている。

そんなわけで、知らないひとには知らないままに、わが家ではちゃんとした醤油をつかって、自己満足に浸っていればそれだけでいいのである。

在庫の醤油が一升を切ったから足を伸ばした買い物動機であるが、この造り醤油屋の醤油を一升瓶で販売している小売店を他に知らないからでもある。
沼津のスーパーには、小瓶しか取り扱いがなかったのだ。

しかし、どういうわけかビンからペットボトルへの容器変更を行っている最中で、ビンで二升買えたのは、直接行ってみた甲斐があったというものだ。
これからは、ここの醤油瓶は保存して、ペットボトルだけの販売になったら、自分で容器を入れ替えて保存することになるだろう。

そのための、漏斗もどこかで買っておかねばならない。

せっかくのちゃんとした醤油が、なぜにペットボトルになるのか?
いまどきだからこそ、世にも不思議なことではある。

ゴミになった最終物の再利用という発明品だった、「レジ袋」を法ではなくて、省令という国会を通さないやり方で国民に有料扱いを強制させた、横須賀の小泉議員の天才は横にしても、レジ袋同様に高分子体の「PET(POLY ETHYLENE TEREPHTHALATE)ボトル」は、再利用が困難な物質だ。

それを、「リサイクル」と言いだして、爆発的に利用が増えたのは、プロパガンダによって国民の道徳のタガをはずしたからである。
それでもって、悪辣な組織と化した横浜市は、回収したペットボルは再利用業者に引き渡すだけで、「再利用している(はずだ)」と強弁して、その先の出来事に頬被りしてはばからない。

醤油などは、化学反応を起こさない、ガラス瓶での保存がもっとも安全で合理的なのだ。
PETボトルでの長期放置は、石油由来成分がしみだしてくるおそれがあるからである。

けれども、ガラス瓶の扱いは重いとか、ペットボルに比べたら費用がかかるとか、あれこれといろんな悪魔の誘惑があるので、とうとう社長の決断に至ったのだろうとおもうと、残念でならない。

そんなわけで、ラベル付き一升瓶が貴重になったのである。

一方、小田原は曽我の梅林では、用意してあった梅干しは、「完全潰れ梅」のはずが、なんだか粒ぞろいなのである。
店主の気配りが、なんだかうれしい。

けれども、厚手のビニール袋に入っているから、これもどうやって容器に詰め替えるか?が問題になった。
むかしなら、樽にそのまま漬けたのだろうが、いまではプラスチック製の樽になっている。

卓上には、陶器の梅干し壺を常備しているけれど、保存用のものはない。
耐熱ガラスの鍋があったが、ずいぶん前に棄ててしまった。
蓋付きのあれが、梅干し保存に最適だったかもしれないと悔やむが、後の祭りだ。

やっぱり、陶器かガラス製の容器がいい。

それならば、と、リサイクル・ショップで探してみよう、ということになった。

曽我のこのあたりは、「農村」なので、その他の野菜やいまなら柿とみかんの直売所が並んでいる場所もある。

ぜんぶが小田原産だ。

せっかくなので覗いてみたら、大量のみかんがあった。
早生なので、小粒な品種はもう終わりだという。
味見をしたら、好みの酸味がある。

「小田原のみかんは酸っぱい」といわれてきたが、さいきんではずいぶんと甘くなったそうだ。

「甘いは、うまい」というトレンドがすっかり果物に張り付いて、逆に、「やみくもに甘い」ばかりとなった。

それが典型は、山梨の、「シャインマスカット」だろう。
ただ甘いだけの葡萄が、もっとも高単価商品になっているのは、ちょっと笑える。

それでも、ひと手間加えると劇的に変化するものだ。
旬の柿は、ヘタを取って焼くと断然甘くなることを覚えたし、シナモンとの相性もバッチリだ。
サツマイモは、70度の時間帯をおおくつくる加熱法(弱火で蒸す)で、酵素が作用して抜群に甘くなる。

なんだかいろいろ買い込んだけど、スーパーにないものばかりで、まずは満足なのである。

アメリカ連邦予算とデジタル通貨

17日が期限となる、「つなぎ予算」が間もなく終わるので、ここ数日中に「本予算成立」をさせないと、政府機能が停止する。

バイデン政権と、その前半2年間を支配した民主党下院議会は、湯水のような予算を通過させて、とうとう国債の利子が、今月、1兆ドルを突破した。

わが国の一般会計予算の1.5倍規模の金額が、利払いだけで消えていく。
一体、どんな予算が通過するのだろうか?

アメリカ国債がデフォルトする可能性は、もう絵空事ではなくなった。

しかし、あたらしい予算でも、国債を新規発行するしかないだろう。
どちらの政府も、国債を発行したら、それを中央銀行が引き取って、政府の口座にあたらしい預金を増やすやり方をしている。

日銀がずっとやっていた、異次元の金融緩和もこのやり方だった。

政府は、完全消費者なので、税収とその他のいろんな手数料収入とを合わせて日銀の口座におカネを入れて管理している。
この意味で、個人のメインバンクと変わらない。

アメリカも、その巨額の消費を政府がやっているので、政府がおカネをつかわないと、いろいろ困るひとたちがいるのは、万国共通である。

なので、これまで通り国債を発行して、あたらしく増えたドルをつかうことが急に止まると、事故になる。

一方で、インフレとは、増えすぎたおカネの価値が減少することなので、アメリカのインフレは止まらないことも意味する。
すると、FRBは、金利を上げて市中にあるおカネを回収しようとするから、各国との金利差が生まれて、ドル高になるのである。

すでに、円が100円/ドルだったものが、150円/ドルになったのも、アメリカの金利が5%を超えているのに、日銀のコントロールが1%にも充たないことの「差」から生じたモノだった。
これで、日本人は石油をはじめに輸入材の高騰で、高い買い物をさせられている。

これが、コストプッシュインフレ(悪いインフレ)で、賃金が増えない理由のひとつにもなっている。
そうやって、貧乏のスパイラルに巻きこまれてしまった。

一方で、アメリカが国債をデフォルトさせたら、世界最大のアメリカ国債保有国である日本は、一緒に破滅する。
「うわさ」だけでも、円安になるから、いよいよコストプッシュインフレが加速するだろう。

つまり、わが国のアメリカ依存は、アメリカ政府がどちらに転んでも、ロクなことにならない状況におかれているのである。

これを、将棋ならふつう、「詰んだ」という。

そこで、もうどうせ「詰んだ」のだから、国民を置いてきぼりにして、政府だけは逃げ切ろうという悪魔の発想が生まれて、それをはなからそそのかしている、「ビルダーバーグ倶楽部」とその配下の、「世界経済フォーラム」に魂を売り出した。

それが、デジタル通貨の強制策で、これが彼らの究極目標だ。

日本でも、来年の夏頃を目処に、あたらしいデザインの紙幣になる。
商売をやっているひとなら、すぐさま気がつくのが、自動精算機の読み取りや両替機の新紙幣対応で、また手間とコストがかかることだ。

しかし、デジタル通貨への移行という大義名分でなら、端末の問題にはならない。

給与もなにもが振込になっているから、現金を引き出せないか現金を使うのにためらいが生じるような、ほんとうは嫌がらせだけど、もっともらしくプロパガンダすれば、従順な羊と化した国民は一斉に従うことになって、あんがいと早くデジタル通貨の時代に転換できるかもしれない。

それが、現金だと割り増しになるような料金体系の設定だ。

いま、電車やバスを利用するとき、数円単位でデジタル決済に有利となっているのを、数十円とか数百円、あるいは、懲罰的に倍とかにしたら、おおくのひとはデジタル決済を選ぶだろう。
理由は、現金の扱いには人手が必要で、その人手が不足しているから、でいい。

しかし、人手不足はほんとうは存在しない。

政府や自治体が肥大化したのを、たとえば、指定管理者制度なる民間委託の形式をもって、あたかも公務員の数はそのままに、じつはモリモリと増えている。
こうしたひとたちが、準公務員化しているのを、公式統計でも無視しているから、日本の公務員数は世界的に少ない、というプロパガンダになっている。

なんだか、日本の役人は世界でもっとも効率的に働いているように宣伝されているが、分母に入れるべき人数が操作されているのである。

イヤイヤ、霞ヶ関の役所ビルは、深夜まで煌々として明るいから、おそるべき残業地獄で、公務員の数も足りていないのではないか?というひともいる。

これは、国会班やら予算やらの徹夜組で、働き方の問題ではなく、働かせ方の問題だ。

日本の官僚制度は、国会質問の大臣答弁には、事前の質問票を国会議員から受け取って、これに瑕疵なく答えないといけない仕組みになっているし、そうはいっても議員から抜き打ちの質問があれば、国会班は大急ぎで答弁書を作文しないといけない。

予算は、財務省に提出するだけでも骨が折れる作業だけれど、政府案になるまで何度も財務省から突き返されるので、その対応がまた苛酷となるのである。

もちろん、全ての役所は予算がないと動けないから、必死になって自省担当の課長級であるところの主計官らに翻弄されるのである。

そんなわけで、国民生活とは別世界の予算が編成される。
アメリカは予算編成権が連邦下院にあるけど、日本は行政府の財務省にあることが、決定的な設計ミスだ。

はたして、独立行政法人国立印刷局には、ほんとうに新紙幣の印刷注文があるのか?

依頼主は、日本銀行券なので、日本銀行である。
独立行政法人に、「国立」が付いているのも、「国立大学」や「国立病院」やらとおなじで、ぜんぜん国は予算措置をしないのに、あたかも「国立」という偽装をしている。

デジタル通貨の透明性は、ほんらいの「匿名性」を破壊して、すべての取引を国家が把握するグローバル全体主義の到達点だ。

その透明性のための、インボイス制度が、先行してはじまったのである。

半年分の梅干しを予約した

わが国を代表する食品のひとつに、「梅干し」がある。

材料は、梅の実と塩、それに赤じそがあってもなくてもいい。
わたしは、どちらかというと、白梅の方が好きだが、しそで赤く染まった梅干しが嫌いというわけでもない。

中学だかのころ、母親が仲間と小旅行で行った箱根の帰りに、ふもとの小田原で買ってきた、「味な梅」が大好きになって、これだけを買いに小田原まで行ったことがある。

柔らかい小梅が、かつお節と一緒に漬けてあるものだ。

概して、「小田原に美味いものなし」というひとがいて、たしかにこれといって何か?と自問して、すぐさま浮かぶものがないのだけれど、やっぱり「梅干し」ではないか?

市内には、有名な「曽我の梅林」があって、まさに梅の産地なのである。

梅といえば、いまや、紀州の南高梅があまりにも有名だけれども、これは、和歌山県立南部高校の先生が品種選定にかかわったことからも、本来の品種名「高田」と「南校」との語呂あわせで、「南高梅」になった経緯がある。

ただしい読み方は、「なんこううめ」だ。

しかし、神奈川県には、「十郎梅」がある。
日本3大仇討ちでしられる、『曽我物語』(曾我兄弟)にゆかりの、「曽我」なのだ。

ちなみに、のこりの2大仇討ちは、赤穂浪士の討入り,伊賀上野の敵討(荒木又右衛門)のことだ。

その曾我兄弟の兄の名が、「十郎祐成(一万)」で、弟の名が、「五郎時致(箱(筥)王)」である。
その兄の名にちなんで、命名されたのが、「十郎梅」ということになっているけど、ときの小田原市長も「十郎」だったので、あれれ?ではある。

小田原(藩)が生んだ、偉人というより聖人といえば、二宮(金次郎)尊徳に相違なく、「報徳思想」の提唱者で、JR小田原駅東口に銅像がちんまりと設置されている。
鴨宮駅にある、「報徳タクシー」の看板を、電車の車内からみると、いよいよ「聖地」にやって来た感じがするのである。

おそらく、いまどきの地元で、そんなに熱心な報徳教育はされていないだろうことは、いったん無視する。

なので、小田原市は、「仇討ち」なる野蛮行為で有名ということの「非道徳」をたてにして、曾我兄弟の物語を熱心に教えるということもしていないだろうと思うのだが、これも無視する。

なぜならば、小田原市から一歩引いた、すなわち一つ上の行政団体となれば、当然に神奈川「県」ということになるけれど、神奈川県立高校を卒業したわたしの記憶に、県として地元の歴史上の人物として、曾我兄弟も二宮尊徳も、とくだん授業で教わった記憶がないからだ。

つまりは、地元の教育委員会が、「地元」を教えないようにしているのである。

まさに、グローバル全体主義の御先棒をかついでいるのだが、その時期は、ずっとむかしに遡ることができるのである。

これは、子供のアイデンティティーの生成上、まずいことになる。

まだ、まともさが残っていた昭和30年代、高校生までが学園紛争で暴れていたし、これが終わると、いわゆる、「学園もの」が流行って、その最後が中学校を舞台にした、『金八先生』だったのは、アイデンティティー形成に地域や伝統を抜こうとした反発もあったのではないかと疑う。

つまり、旧い日本とあたらしいがGHQが命じてつくりだした、民族性を抜くことを目的とした教育の現場での、軋轢だったのではないか?と。
すると、いまの状態は?ととえば、無機質な日本人になったがゆえの、A.I.との競争になっているのが疑われるのである。

そこで、原点回帰して、家庭教育を、とおもうが、そうはいかないのが、肝心の家庭も無機質化したからである。

すると、残っているのは、地元の特産品を丁寧につくっている現場ということになる。

さてそれで、梅干しの話だ。
炊飯器が壊れてから、ご飯用の土鍋とお櫃の生活となったのだが、朝がゆが気に入ってしまったのである。

梅干しと一緒に炊くと、たいそう味わい深いし、ステンレス製の「茶がゆ器」に煎茶をいれて炊けば、茶がゆができる。

それで、御殿場方面からの帰りに東名高速ではなく、国道246号を、大井松田から国府津に向かって右に方向転換すれば、そのまま曽我の梅林を通過する。
このとき、数軒の梅干し製造の専門店があるのだ。

基本的に「十郎梅」の梅干しだけど、塩だけで漬けているのはいまどきなら、探さないと売っていないから、ここまでやってくるのである。

いまや、梅干しも添加物まみれになっている。

南高梅は皮も厚いので破れにくいが、十郎梅は皮が薄いから破れやすい。
だから、きれいな梅干しは贈答用としても、見事な見栄えがする。
しかし、梅がゆをつくりたいから、潰れているほうが都合がいい。
もちろん、財布にも都合がいい。

そんな事情を話したら、樽から出すのにかならず潰れ梅がでてしまうので、数日待ってほしいといわれて、予約注文だけしたのである。

こんどは、梅干しを引き取りに向かうのが楽しみになった。

エントロピー増大のディアスポラ

宇宙の大法則としられているのが、「エントロピー増大の法則」だ。

「秩序があるものは、その秩序が崩壊される方向にしか動かない」。

部屋が乱雑になるのは、この法則のわかりやすい例だから、元の整理された状態にするには、必ず「人手」がいる。
つまり、整理するという意思をもった、人間にしかできないのである。

残念ながら、人間以外の動物は、ぜんぶ、エントロピー増大の方向にしか行動できない。
どんなに可愛くて、賢い犬でも、部屋の整理を自分からすることはないし、万が一それを人間がみて、「きちんと整理されている」と感じることは、万が一もない。

犬や動物は、「空間の秩序ある状態」を認識できないのである。

せいぜい、本能として、巣の清潔を保つのが精いっぱいだ。
けれども、これらの動物がバカで劣っているのではなく、エントロピー増大の法則を全面的に受け入れているにちがいないので、ムダなことはしないだけではないのか?とおもう。

しかし、人間の堕落は、エントロピーの増大を放置するばかりか、積極的になることがある。
それが、戦争による破壊だし、あるいは、思想による行動での、ディアスポラ(移民)となっている。

戦争が拡大するのも、移民が増大するのも、エントロピー拡大の法則のままに任せることを装った事態なのだといえる。

つまりは、わざと、だ。

そもそも、ディアスポラのはじまりは、そこに住めないことからの移動であったはずだ。

歴史上最大規模の民族大移動は、学校でも習う、「ゲルマン人の大移動」であるが、その理由は、地球寒冷化であった。
ヨーロッパ北方の森に住んでいた、ゲルマン(ローマ人がこう呼んだが、語源は不詳)たちが、寒くて南下したら、ローマ帝国内に侵入することになった。

ゲルマン人の、森での生活の記憶が、ワーグナーの、『ジークフリート』になったのである。

しかし、聖書を読んだことがない日本人でも、「バビロン捕囚」の話は有名で、これでユダヤ人が世界に散らばって、とうとう20世紀半ばまで、国家を持つことはなかった。

すなわち、聖書にある数々の、「初め」のなかの、人為によるディアスポラの初め、ということになっている。
なお、「バベルの塔」の話で、言語をバラバラにしてひとを離散させたのは、「神」の御意思であったので念のため。

読み物として、日本人には理解できても、なかなか日本人の歴史的体験としての実感がないので、欧米人が言う、「ユダヤ問題」を理解するのは困難だ。

ただし、江戸幕府や明治新政府がやった、「転封:国替え」で、武士たちだけでなく町人も一緒に移り住むことはあった。
「白虎隊の悲劇」で有名な、会津藩が下北半島の南部藩から切り取った地に転封されて、多くの町人も一緒に移り住んだのである。

これも、ディアスポラのひとつだろうし、村ごと「逃散」したことも、喰えないためのディアスポラだといえる。

すると、集団化した愚鈍爺ばかりの経団連から要請されて、与党がやっている、移民受入策(「高度人材」なる、「奴隷」の欺瞞用語をつかう)で、あたかも吸い取り紙やら、電気配線の修理でつかう、はんだ吸い取り線のように、外国からの「人寄せ」に熱心になった。

どうやらこれを、望ましい「国際化」と呼ぶらしい。

これも、グローバル全体主義のアメリカ民主党・バイデン政権がやっている、国境の破壊を真似ているのだろう。

岸田氏を擁護するつもりはぜんぜんないものの、わが国における「移民の積極的受入」が、歴代自民党政権の基本政策になったのは、「少子・高齢化」による人口減少がはじまった、2000年ごろからのことである。

2009年からの民主党政権も、責任逃れはできない一貫性がある。

なので、おおくの保守系論者たちがいう、「真正保守だった安倍晋三氏亡きあと」という嘆きは、ネズミ講の詐欺にあっているひとが、知人・友人を巻きこむのと似ている。

このブログでは、安倍氏は、社会主義者だと、とっくに認定している。

ところで、同様にこのブログでなんども書いている、「社会主義」の反対語は、「自由主義」だということが、どうしても理解できないひとがいる。
なぜか次元のことなる、「保守主義」が連想されるからだ。

いわゆる、「保守か革新か」という、二択の政治キャンペーンが、いま衰退中のマスコミをしてわざと、延々と垂れ流してきたので、おおいに擦り込まれているのである。

この意味でなら、安倍氏は自ら、真正保守を装ったのである。

その保守とは、戦後レジューム(アメリカ民主党が支配したGHQによるわが国の征服体制)そのもののことだった。
なので、彼がいった、戦後レジューム「からの脱却」に、天才的詐欺師の言語魔術のタネがある。

いまや正確な表現が不明の、「N国党」幹事長にして、「つばさの党」代表、黒川敦彦氏が、ジェスチャー付きで歌うフレーズ、「おじいちゃんの代からC・I・A~」というのは、安倍氏を指して的を射ている。

さてそれで、入国ばかりが注目されるのは、インバウンドもおなじだが、出国のことが無視されている。

これは、日本人がディアスポラをする、という、より深刻な事態なのだけど。

真綿の掛け布団

単に、「インフレ」とは、通貨価値が下がること、なので、相対的に物価が上がる現象をいう。

だから、これを端折って、インフレ=物価上昇というのは、残念ながら正しくない。
ここはあんがいと重要だ。

なぜなら、物価上昇の原因には、金融緩和で通貨価値が下がるインフレだけでなく、物不足も十分な理由になるからだし、たとえば、中東で不穏なことが起きることで原油の供給に不安が高まれば原油価格の上昇になる.

もしも、ホルムズ海峡封鎖ともなれば、原油自体の供給ルートがふさがって、原油不足からの製品生産が滞れば、これまた諸物価高騰の理由となるのである。

原油は、精製して燃料になるだけでなく、プラスチック製品の原材料だというふたつの側面がある。
「脱炭素」のウソ=グローバル全体主義政治思想戦としての欺瞞の、理由がここにある。

なので、原油の調達などによる、コスト上昇をもって、「コストプッシュ型インフレ」といって、通貨価値の下落によるインフレと分けてかんがえる必要があるのだ。
もちろん、そうやって、通貨価値の要因と、コストプッシュによる要因の重みを分析することで、有効な「対策」の方法がちがうことになるのである。

もっとも、ホルムズ海峡封鎖という、ひとつの破局は、同時に日本円を含めた各国通貨の通貨価値を下げるので、多数の波が重なるような相乗効果的な現象も想定できる。

経済物理学を言うなら、こうした「波」の研究をすればいいのに、なぜかいまだに、「経済人」を前提にした古いだけの古典をもって、経済物理学というから、笑止なのである。

長い「デフレ」のトンネルから抜けたと思ったら、コントロールするといっていたインフレについて、もはやノーコンなのではないか?という不安な状態になっているのは、あくまでも、「金融政策でコントロールできるインフレ」という長い条件説明がいる意味であったからだ。

相手が、コストプッシュ型のインフレなら、金融政策は当然に無力なのである。

ましてや、原油供給量を、OPECプラスの各国が減らしているので、この場合には、原油供給量を増やさないと収まらないのは、原因と結果の関係からの当然である。

しかし、わが国は、このような要請を産油国にしていないし、してもムダなのは、そもそも産油国が減産を決めた理由にある、アメリカの横暴についての対抗だから、そのアメリカのポチがなにをいってもムダなので、お利口さんでムダな努力はしない、わがエリート外務官僚は、ふて寝を決め込んでいるのである。

それで、ポチに徹したアリバイ工作として、外務大臣をイスラエルに行かせて、ポチとしてできるだけの援助を申し出て、アラブ側を無視するということをしている。
だから、OPECプラスの実質リーダーである、サウジアラビアとロシアは、わが国があからさまな敵対行為をしていると、またまたテイクノートしているにちがいない。

かつての、「全方位外交」が崩壊して、ただ忠実な「股分(こぶん)」に成り下がったのが、いまの日本国の立ち位置だ。
ロシア案による、イスラエルへの停戦を求めた国連安保理決議に、非常任理事国の日本は、「反対票」を投じて、これを世界に示したのである。

もちろん、世界各国は、そんなわが国のアメリカへの忠誠を、気の毒がって見ているのだろうけど、やがて過去からの尊敬のまなざしは絶えて、侮蔑の態度をとるようになるだろう。

こうした政治的自虐の態度も、円(通貨)安の要因になるのは当然で、金融当局の対応策では通じないのである。

「通貨価値」が示すのは、総合的な国家としての、「信用」の問題だからである。

すると、これからのわが国は恒常的に、金融当局には手に負えないタイプのインフレになると予想できる。
しかも、景気高揚なんてことはおそらく起きないので、やわらかなスタグフレーションがダラダラと続くのだろう。

このダラダラが、「ゆでがえる」状態をつくって、またそれが愚かな国民を欺くのである。

景気高揚には、政府の介入をやめて、自由経済にすべきなのに、すっかり洗脳された阿呆な大多数の国民が、社会主義経済(政府による富の分配=アベノミクス)を、むしろ頼りに(乞食化)しているのである。

この意味で、岸田政権は、安倍政権の後継政権としても忠実だ。
岸田氏本人が、どうしてかくも不人気なのかがわからないポイントだろう。

何度も書くが、政党政治の根源には、人物よりも党組織が優先する原理と原則があるので、頭を誰にしても、変わらない。

だから、政権交代が望まれるけど、与党に代わる野党がない、という、選択の不自由な体制が創られてしまった(小沢一郎が仕掛けた「小選挙区比例代表制」)ので、どうにもこうにも、にっちもさっちもならないのである。

日米ともに、無党派(まともな国民)層が最大になるのは、こういうことなのである。

そんなわけで、たまたま呼ばれた寝具のセールで、予期しない買い物となったのが、「真綿の掛け布団」なのである。
念のため、「真綿(まわた)」とは、絹(シルク)でつくった綿のことである。
布団自体も、シルクの布で包まれている。

齢を重ねて気づくのは、残り時間の意識である。
しかも、だんだんと「眠り」について敏感になってくるのだ。

とはいえ、ほんとうは、「呆け」を誘発する、睡眠導入剤なる麻薬に手を出すには及んでいない。

自然素材の寝具は特に高価なので、本来は若い時分から愛用した方がだんぜんお得なのは、伝統的工芸品の逸品と似ている。
だいたいが、「一生もの」という、製品寿命だからで、ものによっては親子三代で使いつづけることができる。

真綿の布団の耐久年数を聞いたら、ざっと30年だという。
ならば、これがわたしにとっては、この人生で最後の布団の買い物だ。

納品まで3週間余り。
完全受注生産品なので、これより生産を開始するという。

さては、宿泊業界は、「寝具」をどうするのか?も憂鬱になる。
自宅での睡眠の快適性が、旅先で担保されないからである。

阿呆な国の観光官僚は、客になったこともないので、巨額な補助金を客室改修費に使わせる悪魔(『ファウスト』における「メフィストフェレス」のごとく)の誘惑で以て、各部屋を温泉湯船付きに改造させたりしている。

これに、ただカネがもらえる欲に目がくらんだ、「ファウスト博士」あるいは、「乞食」のような経営者は、人手不足だというのに、清掃にえらく手間がかかる部屋にすることで、どうにも販売の回転が滞るように自分からしている。

自分たちが提供する商品がなにか?を、ぜんぜん分かっておらず、これに銀行までが加担するのは、横浜銀行をやり玉に挙げた、横浜の銭湯の投資における、東京の銭湯との比較の絶望とおなじなのである。

旅先の寝具がチープすぎて、翌日以降、腰や首が不調になるリスクは、客が負わねばならぬことを、誰もフォローしないで、「おもてなし」と言っているのも、もはやSDGsと同様の自己欺瞞にすぎない。

生きづらさを拡大総生産する文科省

『新訳聖書』のなかの、「ヨハネによる福音書」冒頭、第1章第1節に、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とある。

これは、人間にとっての根源的現実だと、信者には解されている。

さらに、第14節に、「言は肉となって、」とあって、第20章第30節の小見出し、「本書の目的」と続き、第31節に、「イエスは神の子メシアであると信じるため」と続いている。

言葉から生まれたのは、肉体をもった者であって、それがついに信仰の対象へと移ろっていく。

しかして、「god」を「神」と誤訳したことの痛恨は、かえってキリスト教の布教を困難にした。
わが国伝統の、「八百万神」のなかの、「ひとつの柱」に、絶対神が落ち込んでしまったからである。
この原因は、明治期に、「中国語訳聖書」から、「日本語訳」をつくるときに起きたという。

信長や秀吉の時代、「切支丹、伴天連」といっていたころ、日本人信者たちは、「god」を、「デウス」と呼んで、日本の「神々」と分けていた。

なので、われわれ日本人は、世界でもっともキリスト教が普及していない国の住人だと自己認識もしていようが、わたしはこれを、「プロパガンダ」の効果だとかんがえている。
そして、同様のプロパガンダで、「無宗教の民族である」と信じ込まされてきたのである。

このブログでは、繰り返し書いてきたが、日本人はおそらく世界最強の宗教的民族なのだ。

これを日本人から忘れさせるのが、以上のプロパガンダの目的である。
なぜなら、そうしないとキリスト教の国であるアメリカ合衆国に、ふたたび楯を突くことになるおそれがあるからだ。

プロセスとして、キリストへの信仰と、日本人を無宗教だと信じ込ませることとは、「おなじ」だ。

一向宗徒による、「一向一揆」が盛んだったのは、近江・金森合戦(1466年)を初めにして、石山合戦(1570年~1580年)へと、各地を拠点にして100年以上も続いたのである。
フランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教の布教を開始したのは、1549年だから、宣教師たちが布教に努めたのは、一向一揆とほとんど同時代なのである。

しかして、いま、「浄土真宗」と呼んでいる、当時の「一向宗」の本質とはなんだったのか?

誰もが教科書にある、宗祖親鸞の、「他力本願」と「南無阿弥陀仏を唱えること」を暗記させられただろう。
これが意味することをわざと教えないのが、わが国の戦後学校教育の特徴で、よくよくかんがえれば、親鸞は彼の師、法然とともに、仏教を装って、キリスト教を発明したのである。

わが国で最大信徒を抱える、巨大宗教とは、浄土真宗に他ならず、彼らのパワーを怖れた徳川家康の策略によって、「檀家制度」と、東・西に本願寺を分裂させていまがある。

ちなみに、お節介なフランス人は、仏教の分類上、「浄土真宗」を仏教だと認めていない。

およそ宗教とは、信じる者がいて成立する。
邪悪なGHQによる征服で、日本人は、信じるモノを喪失させられたので、いつの間にか、「科学万能主義」あるいは、「拝金主義(エコノミックアニマル)」を信じるように誘導された。

それがまた、無神論の宗教、共産主義と親和性が高いので、「党員」の手塚治虫は、『鉄腕アトム』を描いて、当時の子供世代から洗脳を謀ったのである。

つまるところ、半世紀以上の時間をかけたら、日本人の全員が、こうした洗脳を受けた世代に染まったのである。

ゆっくりと、だが確実な民族破壊の実践なのである。

そんなわけで、わたしの子供時分から、保守の重鎮たちは口を揃えて、「日本語が危ない」と言っていたのが、いまさらながらに思い出されるのは、日本語がいま「絶滅危惧」の崖っぷちにある状態だからである。

これを、石井光太氏が、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋社、2022年)で突きつけている。

この書籍の中でも、わたしの気にさわったのは、序章にある、文科省が、OECD加盟国の生徒の学習到達度調査(PISA:Programme for International Student Assessment)に対しての、「傾向と対策」を実施していることである。

この三流官庁は、責任逃れだけにしか興味がないから、とにかく批判を回避したいのだろうが、その方法が、「お受験対策」とおなじにしている。

もちろん、わが国の生徒たちの成績が、世界標準に対して芳しくなくとも、「言葉=母語=国語」ということにおける、教育目的と方針が、国民に納得できるものであれば、ぜんぜん浮き足立つこともないのである。

その証拠に、数学的リテラシーと科学的リテラシーに関しての成績は、相変わらず上位に位置しているのだ。
つまり、より客観的評価が容易な科目では、とくだんの問題はない。

すると、外国との比較対象として、「国語」は適切な対象なのか?をかんがえないといけない。
これが、「英語」となれば、OECD加盟国中で、常に最下位なのを恥じてもせんないのだ。

言語とは、『聖書』にあるように、文化そのものだからである。
だから、言語についてのリテラシーを、国際比較するとは、文化を比較するに等しい、ムダではないのか?

本書で、中学校の校長(元は国語教師)が登場して嘆く、「今の子は知識の暗記や正論を述べることだけにとらわれて、そこから自分の言葉で考える、想像する、表現するといったことが苦手なので、国語に限らず、他の教科から日常生活までいろんな誤解が生じ、生きづらさが生まれたり、トラブルになったりしてしまうのです」の方が、外国との比較より、よほど深刻なのである。

わたしの中学校卒業クラスも、国語教師が担任で、先生が亡くなるまで、だいたい毎年クラス会をやっていた。
先生も、校長になったのであるが、もう20年以上も前に、この本の校長のようなことを嘆いていた。

それが、「今の子は何を考えているのかわからない」だったのである。

しかし、この本でよく分かった。
なんと、「言語化ができない」のだ。
自分の思っていることを、言葉にすることができない。
だから、親であろうが誰であろうが、その子の苦しみを推し量ることができないのである。

つまり、とっくに言葉(国語)を失っているのである。

この子たちは、もうすっかりおとなになって、社会の中堅にいる。

これが、日本経済の衰退原因ではないのか?と疑うのである。
現場レベルで、言葉が通じあわないのなら、それはもう、『旧約聖書』で描かれた、「バベルの塔」の逸話とおなじではないか。

国民生活のためにも、経済活動のためにも、先ずは、文部科学省なる省庁を廃止すべきときがきている。