ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス:政治的な正しさ)が、とくにアメリカで先進的なひとたちのなかでの常識になったようだ。
こうしたものごとを、「先進的」だと先進的なひとたちが自分で決めつけるから、「遅れている」という批判が正当化されるようになっている。
走ったり歩いたりすれば、速いひとは先行して遅いひとは遅れるけれど、「先進的」というのは、あくまでも思想のはなしだから、騙されてはいけない。
基準が見えないからである。
すると、上に書いたように、基準を設けるのも先進的なひとたちなので、なんのことはない、自己中の集団が異物排除をしようとしている、悪質さが浮かび上がってくるだけである。
こうしたひとに限って、「多様性」を口にするから、これをふつう「ダブルスタンダード:二重規範」と呼んで、警戒してきたのである。
なので、ダブルスタンダードのひととは、たいがいが全体主義者だ。
すくなくとも、全体主義者がいう「多様性の絶対重視」とは、「多様性(を認めないこと)の絶対重視」という意味の用語であって、それは単なる括弧書きを抜いた「略語」にすぎない。
過激な破壊工作をした、「ブラックライブズマター運動」の指導者だった黒人の運動家が、自ら共和党・トランプ派に転向すると発表して話題になった。
彼は、「民主党こそが人種差別主義者だ」と言い切ったのである。
やっと気づいたかともおもうが、気づけばまだまともである。
ポリコレを推奨しているのがその民主党にほかならない。
自分の生活のすべてに政治的価値を持ち込むのは勝手だが、他人の生活にもその政治的価値で介入するのがポリコレのポイントなのである。
しかしこれはどこかで見た光景だ。
ヒトラーのナチスや、レーニン、スターリンのソ連がまさにポリコレによってつくられた社会だった。
日本でも絶賛する新聞社があった、文化大革命だって同様だ。
これらの共通点は、いまさらだが個人の生活空間に入り込んでくることと決まっている。
日本でもむかしの左翼学生運動家が、警察や警官を「ポリ公」と呼んで蔑んだのは、国家権力の執行機関のうちで、わかりやすいひとつが警察権力だったからだ。
それで、アメリカでは民主党が支配する州や市が率先して警察組織の縮小を実施して、犯罪をはびこるようにさせている。
「先進的」なカリフォルニア州では、昨年3月に、「950ドルまでの万引き合法化」を議決して、とうとう小売店が街から消失する事態になっている。
それで、人口も他州に流失して減少をはじめたけれど、やめる気は毛頭ない。
そうやって、金銭を支払う対価として物品を得るという当然の消費文化を破壊することこそが、「革命」だからである。
つまるところ、紅衛兵がかかげた「造反有理・革命無罪」を、現代の民主党がやっている。
これが、歴史教育にも及ぶのは当然で、社会のあらゆる方面が、「政治化」しているのである。
そのために、先住民族を虐殺し、土地を奪った歴史をあげて、大反省しているのは結構なことだけど、だからといって何をするかといえば、子供に擦り込むことをやっている。
こうして、反米のアメリカ人を大量生産していて、そのいきつく先がアイビーリーグということになっている。
日本以上の学歴社会であるアメリカにおいて、エリート教育の場が取り返しのつかない反米にまみれているのである。
目的は、アメリカの衰退である。
「世界最先端」のニューヨークでもお盛んだけど、ならばマンハッタン島を返還するのか?といえば、そんなことは微塵もない。
いまや、かつてのモスクワのように、ニューヨークがなっている。
そんなわけで、ピュータンが英国で迫害されたから逃げてやって来た新大陸が、暗黒大陸にみずからならんと欲して、信教の自由もなにも、ポリコレ(共産主義・全体主義)の一方的介入で破壊されている。
それでもって、建国の土台にあったキリスト教も、他宗教に気を遣えという道理を利用して、もはや、「メリークリスマス」といってはいけないことになっている。
あえていえば、インディアンとの関係性からのお祭りである、「サンクスギビング」さえ、タブーとなった。
日本では異常な盛り上がりをみせる、ハロウィンも、アメリカでは禁止の様相だから、渋谷で外国人も暴れるのである。
そもそも、日本人にはハロウィンがなんのお祭りかもわからないものだが、たんなる仮想行列としてのお楽しみで輸入したものが、世の中の閉塞感から、「ええじゃないか」に転換してきた。
これに、ハロウィンとはなんだかしらないヨーロッパ人も加わっていたのだろうけど、やっぱり「ええじゃないか」なので、世界からの参加になったのである。
アメリカ人はそんな自国の状態をふまえての「ええじゃないか」だろうから、三つ巴の三角波になっていることから、渋谷区長がなにをいおうが介さないのである。
キリスト教徒がほとんどいないのに、毎日聖歌を聞かされる12月の日本が、唯一のクリスマスを祝っている、というのは、あたらしい観光資源になったということなのだ。