洋犬と和犬は同じ犬ではない

外国からやってきた犬を、「洋犬」といい、わが国古来の犬を、「和犬」という。

洋犬はさまざまな犬種が認定されているけど、元は「猟犬」が多い。
これらを、「軍用犬」や「警察犬」、はたまた「盲導犬」などの役務犬にするべく改良してきた歴史があるのはご存じのとおりだ。

一方で、和犬は基本的にすべて、「猟犬」として人間と共存してきた。
なかには、土佐犬や秋田犬のように「闘犬」に仕立てた犬種もいるけど、元は猟犬で、その他もやっぱり猟犬である。
もっとも小型の和犬、「柴犬」のDNAを調べたら、世界の犬でもっともオオカミに近い「原始的な犬」であることが確認された。

そんなわけで、プロには柴犬の飼育は困難でしられ、およそ「愛玩犬」にもっとも遠い犬種ではあるけれど、なぜか日本では普及度が高いので、あんがいとふつうの家に、しかも室内犬として飼われている。
ただし、人間の生活側から見た「問題行動」が多いので、双方の不幸が懸念される犬種でもある。

一般に、和犬よりも洋犬の方がずっと「飼いやすい」と評価されている。
このことは、躾しやすい、という意味でもある。
犬と人間とについては、何度も書いたけど、そもそもが、信頼関係と主従関係が重要なのは、洋犬であろうが和犬であろうがおなじだ。

しかし、人間生活における変化で、「愛玩犬」という使役犬の需要が、猟犬や番犬の需要より高くなってきた。
つまり、人間の仕事を補助する、という役目から、人間の心を癒やす、という役目に、人間の要求が変わったのである。

本来、犬側にとっては、こんな人間の一方的な要求の変化はお構いなしのはずだけど、犬という動物を万年単位で支配してきた人間だから、強制的なる遺伝操作によって、人間に従順な個体だけを選んで繁殖させることを繰り返す「努力」をした。

もちろん、この努力は続いているけど、その成果がいま各家庭にいる「飼い犬=愛玩犬」となっていることは間違いなく、さらに、そのほとんどが「洋犬」なのである。

しかし、そうはいっても、ロボットではない生体だから、飼い慣らせない飼い主がたくさんいて、いったん噛みつきや吠えの癖をつけたら、「癒やし」どころかストレスの毎日がやってくる。
人間にとっての「破壊行動」もおなじだ。

それで、世にいう「ドッグ・トレーナー」という職業人に、頼る、という飼い主が絶えないばかりか増えている。
ドッグ・トレーナーというプロに聞けば、やっぱり「柴犬」を敬遠するのは、成果がでにくいので手間の割に料金を請求できないからだともいう。

すると、それ以外の犬種は?といえば、洋犬なら「楽」というこたえがある。
また、一方で和犬なら「柴犬」ばかりが話題になるのは、その他の和犬、たとえば甲斐犬とか紀州犬とかを「室内愛玩犬」として、さすがに飼おうというひとがいないからである。

以上の話は、別の角度からみると、洋犬と和犬のちがいのようでいて、じつは「人間のちがい」をあらわしている。
それは、どちらも「猟犬」というタイプの使役犬ではあるのに、「猟のやり方」がちがうからなのだ。

ヨーロッパ諸国が原種の洋犬が仕込まれた猟とは、基本的に猟師が仕留めた獲物をくわえて持ち帰る、あるいは、猟師の指令で獲物を追いつめる、という仕事を担当する。
「回収する」という意味の英語「retrieve」から、「レトリバー」という名の犬を作ったのが典型例だ。

一方で、日本独自種の和犬をつかった猟のやり方は、山に犬を放って、犬が勝手に駆け巡りながら獲物を見つけ、これを猟師のいる方向へと追いこんだり、獲物を足止めさせるために噛みついて、吠えることで場所を知らせる仕事を担当する。
つまり、犬が猟師にとどめを「刺させる」のだ。

こうしてみればわかるとおり、洋犬は徹底的に人間の命令に従うようになっているし、和犬は見方によっては、人間が犬に使われているともいえる。

最近の洋犬は、首輪にGPSをつけて猟をするけど、これにスピーカーもつけて、猟師が鳴らすと戻らせるコマンドにもなっている。
これが、「できない」のが和犬なのだ。せいぜいGPSをつけて、犬がどこにいるかを知ることしかできない。

和犬がどうやって猟師の位置を把握しているのかいえば、最初に猟師がここにいる、と示すからだが、わからなくなってしまうこともある。
それで、猟師は自分から山に入って探さずに、指定した場所に通えば多くは遭遇できるけど、そうはいかないと野犬になる。

洋犬の従順さはDNAに仕込まれていて、和犬の自由さもDNAに仕込まれている。
だから、和犬を洋犬のように扱うことはできない相談なのだ。
これが、愛玩使役の「飼育困難」の理由である。

洋犬は、「飼い主が快適」な躾を教えることが第一だけど、和犬は、双方の「信頼関係を結ぶこと」が躾よりも重要な第一で、それからやっと躾という順になるのである。
このひと手間が、スキルのない飼い主には困難をきわめる。

なんだか、上司と部下のよくある関係のようだ。
あんがいと、優秀なタイプに「和犬型」が多いのだけど、スキルがない上司には取扱ができないで、いまは「洋犬型」をかわいがる傾向がある。

わが国が成長していた時代、全員が和犬型で、これから出世するには一皮むけて猟師にならないといけなかった。
それは、部下に上手に「使われる」ということであった。

なんでも命令型は、やっぱり効率が悪いのである。

キリンHDの社会的責任

企業活動を制約するかんがえ方に、「企業の社会的責任論」というものがある。
企業からすると、「社会的責任を負うこと(負わされる:被害意識として)」としてとらえられるものだ。
これには、いわゆる「企業悪玉論」という背景もある。

その「企業悪玉論」を生んだのは、高度成長さなかの「公害」や「食品」、「薬害」など、予防コストを惜しんだ、「利益優先主義」が社会からの猛烈な批判を浴びたからであった。

さらにその後に追い打ちをかけて、決定的となったのが、石油ショック時の、石油元売り各社による「価格カルテル」の摘発があったし、物価上昇局面と物不足からの、「総合商社」による「買い占め」問題への批判だった。

ただし、冷静に思い起こせば、「トイレットペーパー・パニック」のように、消費者の側も、けっして「冷静」とはいえなかった。
これは、「うわさ」が「デマ」に変換されて、なぜか、石油不足 ⇒ 紙不足 ⇒ トイレットペーパーがなくなる という順での「買い占め行動」を誘発し、それが爆発的拡大をした。

ついぞ半年前のティッシュペーパーや紙マスクの不足だって、これとあんまりかわらない事情からの「買い占め行動」となったし、東日本大震災のときのコンビニがカラになったのもおなじだ。

つまり、企業を批判しながら、自分たちは「防御行動」だと自分にいいきかせながら、しっかりと買い占め行動をすることに、矛盾はないと発想しているのである。
それに、買い占めの対象になるのが、たいがいは「単価の安い物品」という特徴もあって、なんだか貧乏くさいのである。

これは、重要な事実だ。

興味深い例に、大統領選挙をめぐる暴動など、混乱が予想されたニューヨークのスパー・マーケット店内が、買い占め行動によって「カラ」になった、というわが国マスコミの「現地レポート」に、ニューヨーク在住の日本人が、「クリスマス前」とか、「週末のいつもの光景」だと曝露したものがある。

あたかも、日本人の買い占め行動の常識と、アメリカ人とくにニューヨーカーも、「おなじ」だというレポートは、これを信じる日本人を端からバカにしているか、アメリカ人もバカにしているものだった。
けれども、現地日本人の曝露をしらないで、「アメリカ人もおなじ」だと思い込んだひとも多かろう。

これが、「グローバリズム」を推進する、「グローバリスト」たちの所業なのである。
「人類」はおなじ価値観だ、という決めつけは、恐ろしいほどに「薄っぺら」な発想だ。
左・右を問わない、全体主義者は、「人類は皆兄弟」というスローガンを、美しい理想だと信じているものだ。

そんなわけで、薄っぺらなひとたちの薄っぺらな発想で、企業組織も汚染され、企業の意思決定も薄っぺらとなる。
まさに、「企業はひとなり」。
すべての企業は、人間が所属する組織でできているからである。

だから、企業を眺めるときに、その規模や有名度とかで勝手に判断してはいけないのだ。
個々人の集合体が企業をなすので、薄っぺらな発想が組織を支配しているなら、どんなに高学歴の個人も、けっして逆らえない力学がかならず作用する。

ニュースになっているキリンホールディングスとは、ようは「キリンビール」だ。
すなわち、わが国を代表する「財閥」、三菱グループの主要企業でもある。
三菱鉛筆以外の「三菱」は、ぜんぶ三菱グループの企業群である。

当該企業が、どんな情報分析のもとにミャンマーにおける「軍系との提携解消」を判断し、それでどうしたいのか?がわからない。
現状、報道だけしかないのが大不満だ。
以下の「推測」は間違っている可能性もあるのでご承知おきを願いたい。

この企業の判断とは、クーデターを起こした軍との関係を断ち切る、ということだ。
すると、クーデターを起こしたことが、民主主義には「悪」だから、このままでは企業の社会的責任が果たせない、ということだろう。

すると、この企業組織を構成するひとたちを代表するトップは、「軍と民主主義」についての判断をしたも同然ということになって、拘束された民主派を企業として支援するという、きわめて政治的な判断と行動だということになる。

今回のミャンマー(元は「ビルマ」)での出来事は、ミャンマーという多民族国家の複雑さと、これにかかわる歴史の複雑さいうマグマの爆発でもあると前に触れた
英米を中心にする、「民主派」への大支援の背景に、彼らのアジア支配という歴史がからむし、わが国のかつての「占領」だってからむのだ。

スー・チー氏の父、アウンサン将軍(建国の「父」ともいう:日本名は面田 紋次(おもた もんじ))が、最後に敗色濃厚な日本を裏切ったのだという事実が意味するのは、その判断の前までは、日本と「べったり」だったということである。
はてさて、当時のビルマが独立したのは、どこからか?

1943年(昭和18年)のことで、当然だが大英帝国からの独立である。
これは、2年前のマレー半島上陸作戦からによる。
『怪傑ハリマオ』の時代なのだ。
そして、彼は、実在の人物だ。

  

ビルマ独立義勇軍(いまのビルマ国軍:ミャンマー軍)を組織したのも、日本であったけど、現地人の創設者は、アウンサンであった。
独立後のバー・モウ政権下、彼は国防相になって、ビルマ国民軍に改組したのである。

さてそれで、キリンの判断の意味とは?
薄っぺらな、「コンプライアンス」としての「いい子になりたい」でなければよいのだけれども。

訓練された「市民」がいない

平和な時代に平和に暮らしていると、市民としての訓練をどこにも受ける機会がない。
家庭内、そして学校生活から、社会に出ても、誰も訓練してくれないのだ。
それは、意識的に訓練を受けたひとが皆無なので、訓練教官をやるひとも、できるひとも、やろうというひともいない。

この点、しっかりしているのは社会主義者のみなさんで、こちらは訓練を受けて、立派な「プロ市民」へと成長する。
意識的に訓練をするひとと、意識的に訓練を受けるひとがいる。
それが、「一生」にわたるので、いつかはちゃんと「次世代」も訓練して絶やさない努力がはらわれている。

ただし、一世を風靡した70年安保の炎も、全共闘世代というひとたちが高齢化して、ちょっと前の「アベガー」とか、リュックに「安倍政治を許さない」と書いたステッカーをつけて静かにあるいていたけれど、安倍退陣で、影をひそめてしまったのが残念だ。

このひとたちの子どもや孫たちは、はたして引き継いでいるのかと心配になる。
恥を恥とも思わずに、行動する勇気には敬服するのだ。
こうしたひとたちすらいなくなるのは、とてもよくない危険なことである。

わたしは、全共闘世代の下で、ビートルズにも間に合わなかった、哀しき「ウルトラマン世代」である。
なので、連日生中継された、浅間山荘事件の異常に、おののいた方である。
学習塾でさえも、授業中にラジオの中継をつけていた。

中学も3年生になったら、ベイ・シティ・ローラーズが流行ったけれど、こんどは自分がすこしおとなになっていて、同級生たちも盛り上がってはおらず、もっぱら1年生が興奮していた。
あんがいと、世代間のちがいを認識した最初だったのだ。

そんなわけで、会社員になって驚いたのが、『ウルトラマン研究序説』(1991年)だった。
わざと「序説」で終了すると書いているのも潔かった。
ウルトラマンと敵対する怪獣(宇宙生物)たちの生物学的研究、それに科特隊(科学特捜隊)のモチベーションなど組織研究や正義についての哲学。

サブタイトルには、「若手学者25人がまじめ分析」とある。
もう30年も前の「若手」のことである。
いまならきっと、中堅も超えて「大御所」になっているにちがいない。

何回か書いたけど、学者というのは万国共通で、勉強エリートのひとたちがなる「職業」である。
各国で、入試や卒業についての基準はことなるけれども、学部学生から大学院に進学して、そのまま研究室にはいる「ふつう」がある。

だから、一般的な学者は、職業(ビジネス)人としての経験がない。
それにわが国の場合、高級官僚の「無謬性」を担保するための用意だてとして、官費で「博士号」をとらせる習慣が役所にある。
明治の頃のやり方を、令和になってもやっている。

これが、各大学に官僚出身の教員が採用される素地でもある。
もちろん、大学経営側の思惑は、文科省をふくめた役所とのパイプづくりという下心もあってのことだ。

つまり、突きつめると、学生のため、ではない。
あるとすれば、優秀と見越した学生を、自分の出身母体である役所に採用させることだろうけど、ほんとうに本人はそれでいいのか?
もちろん、公務員試験に受からないと、その先はないけど。

興味深いのは、日本の国家公務員は、最初に入省した「本省」に忠実となる訓練は受けるけど、国家に忠実となるような訓練は受けない。
役人人生には、「転勤」がつきものだけど、霞ヶ関のビル間を、「出向」といって転勤することだってある。

「◯◯省」から「✕✕省」や、「△△委員会」へ出向するのだ。
最強の出向先は、「内閣法制局」で、参事官以上の幹部ポストなら連続5年以上を勤めると、退官後「弁護士資格」が与えられることになっている。
司法試験を受けないで日本の弁護士になるのは、大学の法学教授をやる道と二通りしかない。

なお、外務省には、最高裁判事(国際法)になる道があって、たいがいが「条約局長」経験者から選ばれることになっている。
だから、事務次官からアメリカ大使になるばかりが出世ではない。

こうしたことをよくよくみれば、官界の世間離れが尋常ではないことだけがわかるのだ。
つまり、彼らは彼らとして、市民としての訓練をその職業人生で受けることはない、という事実である。

すると、学者と官界がダメとなれば、政界もあやしくなる。

なにしろ、投票する国民も、市民としての訓練を受けることがないからだ。
あえていえば、「他人に迷惑をかけてはいけない」という、あたりさわりのないことに落ち着いて、リスクを避けることだけが行動基準になってしまった。

それで、コンプライアンスといういい方で、「法令遵守」(「順守」とも書く)を最重要事項にしたから、意思表明もできなくなった。

わが国の当代最強ともいわれる、元検事にして弁護士、郷原信郎氏のいまとなってはやや古い事例だが、本質的な議論を堪能できる一冊である。

これを読んで思うのは、法哲学と経済哲学、経済哲学と社会哲学という個々ではなくて、「面」として総合的にかんがえる訓練をされていない、という実感なのである。
これこそが、現代社会を生きる市民としての訓練のカリキュラムではないのか、と。

社会を壊したらまっ先に自分が

「自業自得」のことを最近では「ブーメラン」というようになった。
けれども、ブーメランだとやや「タイムラグ」があるから、同時進行のなかで、まっ先に自分に影響が及ぶなら、やっぱりただの「自業自得」だ。

「マスコミ」あるいは、「メディア」の中心に、新聞があった。
ラジオやテレビがなかった時代から、ある、からである。
それだけでなく、音声を聞けるのとちがって、新聞は情報の受け手が「字」を読めないといけない。

つまり、その社会において、「識字率」が高くないと、じつは成立しない商売でもある。
だから、いまだに新聞を発行する会社は、自社をメディアの中心、あるいは「頂点」だと自負しているはずである。

困ったことに、わが国は、江戸時代から教育熱心で、ふつうのひとが字を読めた。
これは、あんがい農村でもいえて、少なくとも自分の名前は書けもした。
「読む」と「書く」は、意味がちがうことに注意したい。

読めるから、自動的に書けるにならないのだ。
もちろん、武士が読み書きする文書や、「漢籍」をスラスラと一般人が読めずとも、仮名交じりならなんとかなった。
これが、世界的に驚愕される「貸本屋」が成立した原因である。

それで、書く方は、「代書屋」という稼業があったのである。
これがいまでは、「行政書士」、「司法書士」と看板をかえただけだから、現代のわれわれも「自由自在」に書けることになっていない。
うっかりすると損失を被るのは、江戸時代だっておなじだったのだ。

それでもとりあえず、仮名を習えば、なんとかなった。
秀吉の直筆は、ほとんど仮名で書いてある。
産業構造が大変化した明治期になって、小学校制度ができたけど、よかったことは国家予算が足りないから、地方では地元の負担になったことだ。

それで、地元の篤志家たちが資金を提供して校舎を建てた。
場合によっては、教師も雇ったから、私塾にちかい。
貧困になやむ長野県が「教育県」といわれたのは、篤志家がたくさんいて、地元の将来を子どもに期待したからである。
それで、いま「文化財」になっている、いまではあり得ない立派な校舎が残っている。

外国はもっと大変で、ヨーロッパ語族は「文字の名前」と「発音」が一致しないため、話せても別に訓練しないと読み書きができない。
アラブに至っては、文語と口語のちがいがいまも残るので、新聞や雑誌を「読める」だけでも教養人である。
日本にあてはめれば、大和言葉で新聞や雑誌が記述されていると思えばよい。

戦後の占領期、日本人の路上の靴磨が客待ちの時間に新聞を読んでいるのを見て、米兵たちが驚愕したというエピソードは真実である。
「文字を読める教養人」が、なぜに路上で靴磨きをしているのか?理解に苦しんだというのは、彼らの故郷の常識にあわなかったからである。

そんなことをかんがえると、イギリスにある新聞が、「高級紙」と「大衆紙」とに分類できることの意味もわかる。
元は「小さなサイズ」を意味した「タブロイド」が、ゴシップ記事を一面にだす新聞の紙面の大きさ規格であったため、「タブロイド判」といえば「大衆紙」という意味に条件付けられて、これがアメリカにも日本にも伝来したのだ。
最近では、タブロイド判だからといっても、ゴシップを扱わない「携行しやすい」新聞もある。

本来は、「社会の木鐸」を旨としたのがジャーナリズムのあるべき姿ではあるけれど、安易な啓蒙主義で政府批判をもって「社会の木鐸」を任じていたら、これがもっと安易に自己目的化した。
それで、何が何でも「政府が悪い」をやることに、イデオロギーが加わった。
採用されたのが、自由主義でも資本主義でもなくて、これらに反対の側にある社会主義となった。

マルクスのいう、資本主義から社会主義に歴史の必然として「移行する」のが正しいとしたのなら、本来の社会主義者は徹底的に資本主義を押し進めればよいものを、なぜか資本主義を攻撃して、既存社会を破壊することを目的にする「革命ごっこ」に自己陶酔した。

マルクスは資本主義の内部矛盾にこそ、社会主義への歴史の必然を見たのにだ。

なにを焦っているのか、このようなひとたちが、とうとう自分たちの都合でニュースを報道するようになった。
都合によるから、ニュースではなく一方の立場からの宣伝になったのだ。
そして、望み通り、資本主義社会の崩壊がはじまったら、なんと、購読者たちの財力が衰えて、まずは「夕刊」を契約しなくなり、ついには購読をやめるに至った。

都合よく社会を見る目しかなくなったから、四半世紀も経ってのいまさら、インターネットの普及が原因だと噴飯物の勘違いをしている。

ここにきて急速に解約が進んでいるのは、経済力だけでなく、「購入に値しない」という、商品としての価値を失ったからだ。
アメリカでは、CNNが経営危機に陥った。
大統領選挙における一方的な放送が、視聴者の反発を買って、選挙前の44%にまで視聴率がなくなった。

身売りの話が出始めたけど、もしやCNNをトランプ氏がM&Aするかもしれない。
ならば、こんどは真逆の放送局となるのか?

トランプ氏の信仰と正直は、「まっとうな」放送局にするだけで、ビジネスとしての復活をさせるだろう。

しかして、このことが、業界の脅威になるかもしれない。

夢追い人にロマンはない

「ロマン(ROMAN)」とはフランス語で意味は、感情的、理想的に物事をとらえることをいう。
これから、「ロマンス(ROMANCE)」に派生して、男女のこともいうようになった。

近しかったらさぞやうっとうしいだろうベートーベンが書いたえらく甘美な曲、『ロマンス』(1番、2番)は、ロマン派音楽の小品だが傑作の部類にはいるだろう。
ベートーベンは、明らかに「恋」に飢えていたはずで、聞くものをすべて「ロマンチック」にさせるのは、魅力なのか魔術なのか。

「ロマンス」の元は、ラテン語で「ロマンス語で書かれた物語」をいう。
なお、いまでもロマンス語群から「ロマンシュ語」を公用語にしている国に、スイスがある。

ちなみに、欧文フォントとして不可欠な「ヘルベチカ(Helvetica)」は、ふたりのスイス人が作成した(1957年)もので、スイスの公式国名のラテン語表記、「Helvetia(ヘルヴェティア共和国から)」に由来していて、意味は「スイスの」である。

日本人はなんだか、「スイス」と聞いただけで、ロマンを感じてしまうのは、「刷りこみ」ができているからだ。
スイスがヨーロッパ最貧国ともいわれた時代、周辺各国に傭兵として雇われる以外に、まともな産業がなかったのである。

いまスイスは傭兵を禁止しているけれど、バチカンの「衛兵」は、スイス人の「傭兵」が、歴史的にも「例外」としていまだに務めている。
プロテスタントのなかでも、激烈な「カルヴァン派」を生んだスイスにあって、カソリックの総本山で働くことは、どんな気持だったのか?

いや、「傭兵」だから、やっぱりおカネ目当てだったろう。
だとすると、雇い続けたバチカン側は、いったいどんな了見だったのか?
もしや、「契約に忠実」という評価がすべて、だったのかもしれない。
詳しい方に、是非ともご教授いただきたいものだ。

なお、マックス・ヴェーバーの有名な『プロ倫』がいう、資本主義の精神は、プロテスタントではなくて、むしろ、「イエズス会」にあるのだという説があるのは承知している。

わたしの勝手な解釈になるかもしれないけど、雇い主に忠実でないと、「傭兵」という商売は成り立たない。
群雄割拠したヨーロッパでの「スイス傭兵」は、有名だったがゆえに、戦場ではスイス人ばかりが死闘したという話もある。

スイスアルプスの谷は日本アルプスの比ではない険しさなので、谷向こうの「隣村」と、人的交流はほとんどなかったのが、かえって感情移入せずにすんだのも、このビジネスがスイスで成立した要因だったとおもえるのである。

しかも、これが、国としての、「主たる産業」だった。

そんな歴史をふまえて、「永世中立」のスイスは、ヨーロッパの嫌われ者になっている。
スイス傭兵を雇った側は、決してスイス人を尊敬しなかったからである。
しかも、豊かさを増していく過程での、スイス人の徹底した合理的思考に、周辺各国はぜんぜん「ロマン」を感じていなかったのである。

とくに、南のイタリア側は、イタリア内では豊かな「北イタリア」になっていて、もともと貧困の南イタリアとはぜんぜんちがう「国」だったけど、独特の「あけっぴろげ」さという、人生の意味を深刻にかんがえない風情にあふれている。

だから、スイス人とイタリア人は、仲がいいわけがなく、それは、スイス国内のイタリア語圏が「浮いている」ことでもわかる。
よくもこんな違和感ばかりで、おなじ国を維持しているものだし、なぜかイタリア編入も求めないのだ。

つまり、ここにも「ロマン」はない。

あるのは、民衆の「見識」なのである。
これが、スイスであろうがイタリアであろうが、「国柄」をつくっている。

「国柄」に「お」をつけると、「お国柄」となって、なんだか急に話が日本国内ローカルになるのは、長い安定の「幕藩体制」を思い起こさせるからだろう。

秋田県と山形県といってもピンとこないけど、秋田藩の佐竹と米沢藩の上杉といえば、その「お国柄」が浮かび上がってくるから不思議である。
これは、全国で通じるものであるけれど、「天領」という全国共通との不一致も興味深い。

たとえば、電車で京都から10分で着く大津は、天領でもあり、膳所(ぜぜ)藩でもあった、隣どおしが一緒になって「市」になっている。
天領の天領たる自慢は、幕府直轄という「権威」だけれど、膳所藩の藩域に行けば、天領とは別の活気が「お国柄」を示す。

大津駅と膳所駅間は、散策しながら歩くにはちょうどいい距離なので、石山詣でのついでにお勧めしたい。
東海道を歩くもよし、琵琶湖畔にでるもよし。
たぶん、人柄もちがうのだろうと想像させるから、ここには「ロマン」がある。

はてさて、イギリス人へのアンケートで、島国なのにどうして日本と自国の「コロナ死亡者数」が、かくもちがうのか?が発表されている。
イギリス10万人超、対、日本5千人超が与えられたデータである。

・スコットランドだけで日本よりも多い。
・日本人は政府の言うことを聞いて、ちゃんと守るから。
 ⇒ イギリス人は、政府の言うことを聞かないし、守らないから。
※このデータがおかしい、という回答はなかったようである。

WHOが各国に通達し、わが厚生労働省(新型コロナウイルス感染症対策推進本部)も都道府県・保健所設置市・特別区に「事務連絡」(2020年6月18日)をだした。
もう半年以上も前だけど、おかしな記述がみつかって話題になっている。

『新型コロナウイルス感染症の陽性者であって、入院中や療養中に亡くなった方については、厳密な死因を問わず、「死亡者数」として全数を公表するようお願いいたします。』

おそらく、イギリス人は勘違いしている。
政府とは関係なく、現場医師たちの「死亡診断」におけるモラルのちがいだろう。
イギリス人医師は、政府(WHO)に忠実で、日本人医師は自己の「プロ意識」に忠実なのだ。

ここに「ロマン」はない。
ただし、WHOと政府には、ロマン「しか」ない。

戦後「日本国」は滅亡した

有名なサンデル教授の『白熱教室』からわかるように、わたしたちは正義そのものが流動化した世の中に住んでいる。
民主主義の行き着く先、「大衆社会」の到来がそうさせている。

民主主義を、それ「だけ」で機能させるのが危険なのは、「法」の介在の有無が決定的要素となっているからである、と先日書いた。
法の介在がある体制を「共和制」といい、法が介在しないで、多数決だけがものをいうのを「民主制」といって区別するのである。

このとき法の介在をするものを「司法」という。

だから、共和制では、司法が先で立法が後なのだ。
ここでいう「法」には、過去からの慣習法も含まれるから、なにも文章化された法典の存在「だけ」が法ではない。
むしろ、明文化されていないけど、人々の心の中にある決めごとのルールが優先されるのは当然なのだ。

単なる民主制は、こうした過去からの慣習法を無視できる。
多数の人々が同意しさえすれば、たちまち「法」になるからである。
すると、民主制では、立法が先で司法が後になる、という特徴をもつ。

こうして、圧倒的に「今」が重要となる。
今がよければ、明日もいいはずだ、という思想は、かならず「進歩主義」と同義になるから、ここに社会は進化するという「唯物論の歴史観」が入り込んで、社会主義との連結が生まれるのである。

すなわち、「現世利益」だけの追求である。

青島幸男作詞、中村八大作曲『明日があるさ』は、1963年発売の坂本九のヒット曲で、いまでも芸人たちが交互に歌う演出がされて人気である。
晩年、都知事となったことで青島の本性が世人にしれることになったけど、この作品でしっかり「自己紹介」をしているのであった。

民主主義の発想には「保守するものがない」ということになるから、エドマンド・バーク流の、いわゆる英国伝統主義的な保守思想も無視するものとなるのも当然だ。

 

戦後のわが国にとって、アメリカ合衆国とは、「宗主国」であった。

いっとき、事実上の51番目の州だという指摘もあったけど、アジアの大国の圧力から、51番目の州に「なりたい」という願望が散見される。
独立心の欠如といえばそれまでの、単なる依存症である。

その宗主国での大統領選挙が「破壊された」から、従来の「アメリカ合衆国」(「株式会社アメリカ」)と、これに反発する「アメリカ共和国」とに分裂したのが、今年1月20日正午(現地時間)であった。
ただし、歴史的分裂の異変のあと、いまだに不可解な状態にある。

・ホワイトハウスの電気が消えたままである
 ⇒ 新大統領はどこで執務しているのか?が不明
・ワシントンD.C.で10日間連続の停電
 ⇒ 原因不明
・州兵による大規模な首都の警備は3月まで継続する
 ⇒ 誰が命じているのか?が不明
 ⇒ 議事堂を囲むフェンスと警備は、内側からの脱出ができない構造
・歴史的に大量の大統領令(すでに40本)が署名された
 ⇒ ほとんどが執行されていない(一部は官報にもでない)

なお、2018年9月の「選挙に関する大統領令」による、不正にかかわった者の全資産没収は、この2月1日から開始されるようになっているので、昨日のアマゾンCEOの突然の辞任も憶測をよんでいる。
一方で、極左過激派による各州民主党本部への攻撃は、「カネよこせ」という要求で、スポンサーのはずの大富豪が行方不明になっていることも、憶測をよんでいる。

なお、この大富豪は、知事リコール請求にまで発展した、「あいちトリエンナーレ」のスポンサーでもあったことが判明している。

こうした、宗主国の異変を受けてのわが国の異変なのだ。

すなわち、コロナ戒厳令下、人々の生活を規制するさまざまな処置が意味するのは、今コロナを撲滅させないと明日がない、という表現でわかるように、典型的な「民主制」が社会主義に転用されたことを意味するのである。

かんたんにいえば、体よく「全体主義社会が成立した」のである。

もちろん、この規制と憲法との整合性は無視される。
つまり、なんのことはない、日本国憲法も葬られた。
それが、国民統合の象徴である天皇の地位の無視にもなっている。
天皇誕生日を「なにもしない」と発表した政府こそ、日本国憲法の無視を宣言した証拠なのだ。

驚くことに、このことを問題視する「保守論客」がいないことである。
つまり、我が国は、共和制でもなく、純粋民主制ゆえの全体主義に到達したのであるから、実態はともかく、概念として間違いなく「滅亡した」のだ。

滅亡したのを、「戦後の日本国」とすれば、現在の日本国は、社会主義の「日本民主主義国」として国柄を変えたことになる。
昔だったら、元号を変えるほどの事態だけど、もはやわが国に制度としての天皇もいないのだ。
「令和」の文字は、もはや単なる記号になった。

我々はもう、過去の日本国には戻れない。
過去の日本国が大日本帝国に戻れなかったように、である。

これから、都道府県知事による中央政府との権限争いが発生する。

都道府県民のための争いではなく、知事たちが「藩主=領主」になるための争いである。
緊急事態宣言の「解除の日」に、これらのことが判明すること間違いないのは、政府から与えられた権限を、ぜったいに返上しないからである。

主権が形の上でも在民だった日本国時代と違って、主権者は領主たる知事にある。
領民である我々は、領主様の生殺与奪の中で生きるしかないことになったのだ。

もちろん、中央政府こそが生殺与奪を握るのだと主張するはずだから、我々は二重の支配を受ける身におとしめられた。
幕藩体制よりもひどい。

さようなら、日本国。
さようなら、日本国憲法。

ナンセンスな「コロナ粛正」

政治家が「小粒になった」のは、昭和の時代後半からのことであった。
いまは、政治家が「いない」時代になった。

わが国に議員は、万人単位でいる。
しかし、地方から国政レベルまで、どこを探しても「政治家がいない」のだ。

「大宰相」なんてひとは、本人の「意志」の有無が左右するから、もう出てこない。
国民のために政府を運営する意志のことである。
きょうび、自分たちのために政府を運営する意志をもった集団と化した。

つまり、「政治屋」はたくさんいても、「政治家」が絶えたのである。

コロナ戒厳令下にあるいま、バーやクラブにいって楽しいひとときを過ごした政治屋が、粛正されている。
離党ではすまなくなって、議員辞職に発展してきたのは、潔癖症がなすメカニズムによる。

はたして、国民のおおかたの反応は?といえば、正直、「どうでもよい」のである。
なぜなら、こうした議員に対して、国民が、国民のための政治家だと認識していないからだ。

おそらく、議員本人は、そんなことはない、自分はかくかくしかじか国民のために政治活動をやってきた、と「常識」を述べるだろう。
しかしながら、その「常識」が、国民にとって、国民のための政治活動だとぜんぜん認識できないのだ。

このギャップは、どうしてできたのか?
それはあんがい単純な仕組みだけれど、大がかりで大規模だから、絶望感さえ醸し出す。
行政事務官たちの集団独裁を、国民は感じ見ているのである。

アメリカ風にいえば、「日本版ディープステート」だ。

これを修正して正常化させるには、政治家集団による巻き返しが必要だけど、集団どころかひとりもそんな意志をもった人間がいないから、議員が徹底的に「小粒化」して、とうとう目に見えないミクロンとか、オングストローム単位にまで縮小してしまった。

これをもって、「いない」というのである。

トランプ氏を強く支持する日本人をネット上に多数見受けるのは、トランプ党日本支部が欲しい、という切実なれど、幻想をみる快さがあるからだ。
つまり、日本政治マーケットにおいて、既存政党のポートフォリオは、完全に間違っている、という意味だ。

だとすれば、粛正対象になった議員は、静かに粛正されるのではなくて、大騒ぎして抵抗すべきであった。
・第一に、コロナパンデミックの科学的論拠が皆無なこと
・第二に、自粛警察が全体主義を促進することの警告
・第三に、全体主義化のメカニズムの説明

最初の「抵抗」は、しつこいほどこのブログで書いてきたし、二番目の話もおなじだ。
三番目について、ひと言でいえば以下のようになる。

家庭内や、小さい組織内だけで語られるローカルだが伝統的な価値観に基づく「道徳心」が、社会全体に広がって、それが社会構成員の全員に「強制」されるようになると、たちまちにして「全体主義」へと変容する、ということだ。

だから、いまこそ抵抗が必要なのである。

ややこしいかもしれないが、全体主義を防止するためのメカニズムは、この逆の発想にある。
それは、利己心が結果的に利他となる、という「逆説的」かんがえ方だ。
計算の順番を間違えると答が違う、かけ算と足し算がおなじ式にあるときのようなことが社会で起きる。

じつは、資本主義が生まれた原因といわれているかんがえ方も同様なのである。
厳しい信仰をもったひとたちが、「まじめに」自分の職業に没頭したら、個々人が「儲って」しまった。そこで、その儲けをふやすべく他人に投資したら、社会全体に「よい」利益をもたらしたという「真理」なのである。

つまり、ハイエクが「発見」した、「カタラクシー(交換)」メカニズムの発露としてかんがえれば、今回いう「抵抗」とは、ぜんぜん「あり」の、きわめて論理的行動となるのである。
ハイエクをしらない政治屋の見識の薄さが、粛正される側になる「仇」となったのは自業自得だ。

あゝ、もっと勉強しておけばよかった。

でも、残念なことに、偏差値で進学先学校を選ぶと、なかなかハイエクを教えてくれる先生に当たらないのが、わが国「集団独裁」の恐ろしいところなのだ。
かんたんにいうと、集団独裁を推進したいひとたちばかりの「東京大学」を頂点に、偏差値でいう自分の「限界」を目指してはいけないのである。

すると、困ったことに、高校生が自分から将来いったいどこの誰に師事するのか?を現役のときに決めてから、その師がいる学校を受験するという手順になる。
こまかくいうと、その師が、別の学校に転籍してはこまるので、教師の人事情報も受験の前に必要になる。

つまるところ、いまのように、偏差値でいけそうな大学を選んで受験して合格するという流れにあっては、教師との出会いも「偶然」となる「仕組み」になっているのである。
これは、「情報の非対称性」そのものの「市場競争」を強いられていることを意味する不幸である。これが、「偏差値偏向教育批判」の本質だ。

もちろん、ひとの出会いは偶然性があるものだけれど、めざす先生の周辺に、偶然の出会いがあることが「高等教育」としては望ましい。
すると、いまの「高等学校」がぜんぜん高等ではなくて、予備校化している批判の意味もみえてくる。

とにもかくにも、学業エリートを政治家として選んではいけないのだ。

スー・チー氏は「いい人」なのか?

昨日の1日、ミャンマーで事前に予告されていた軍部によるクーデターが実行されたと報道された。

これによって、国家最高顧問だった、アウン・サン・スー・チー氏、現職大統領など与党(国民民主連盟:NLD)幹部が拘束され、軍部出身の副大統領が大統領代行に就任したと発表があったという。

クーデターの理由について軍は、昨年秋の与党が圧勝した総選挙による「不正」だと説明している。
ミャンマーの人口は、2020年4月1日の推定で、5,458万人とされていて、不正投票が860万だというから、総人口の16%にあたる。

有権者を分母にすれば、想像以上の「不正」になるだろう。
しかし、「不正の証拠」についての説明はまだされていないから、今後の情報に注視したい。

例によって、役に立たないわが外務省は、現地大使館の「情報収集」と、在留邦人への「不要不急での外出自粛を呼びかける」という、間抜けなことを実施していると自分で発表している。
また、謝謝茂木大臣は、「民主化がなんとか」と寝ぼけたことを発表した。

現地での情報収集なら、まずは、昨秋の総選挙について「不正」のレポートを確認したいところだ。
本省への公電による報告には、なんと書いたのか?
まさか、「与党の地滑り的勝利」なんて、現地紙のトップ見出しをそのまま訳したりして?

次が、軍によるクーデター予告である。
スー・チー氏も事前に認識していた様子だけれど、はたしてわが大使館の「情報網」に、キャッチされていたものか?
むしろ、現地の日系商社の方が先で、家族はとっくに買いだめをして「巣ごもり」準備をしていたかもしれない。

緊迫した「やばさ」について、現地の邦人婦人会をつうじて、大使館員の夫に伝えられたやもしれぬ。

軍によるクーデターの2大成功要素は
1.軍の一体運用
2.放送局(いまならネットも)支配
であるから、ことが起きたら、情報・通信が遮断されることは、「セオリー」だ。

わが国の、5.15(1932年:主に海軍)も、2.26(1936年:主に陸軍)も、失敗に帰したのは、軍の一体がなかったからである。
なにせ2.26は、大元帥陛下によって、「賊軍」とされたのだ。
ただし、電力封鎖(変電所襲撃)とNHKは押さえていた。

ことが起きてから、なんだか対応しているように見せるのは、ムダとはいわぬが、肝心のその前のことがわからない。
国民がわからないままなのは、なにもしていなかった、という意味になるけど、外務省はそれでいいのだろうか?

報道機関も一斉に、ことが起きてからのことばかりなのだ。
こちらも、例によって、「特派員」がいるのに。
すると、大使館と「つるんで」なにもしていなかった、という意味になるから、大使館の情報収集のアリバイ崩しを記事にしない。

同類相哀れむ、ということで一件落着。

悪いのは、面倒な事態を起こした「軍」なのだ、ということにしている。
これが、わが国の関係者だけでなく、「世界中」のことであるから、どちらさまもおなじ論調で、「軍」が悪いことにした。
暗黙の了解とは、このことだ。

そもそも、スー・チー氏が長らく自宅軟禁されていたのはなぜか?
ミャンマー(むかしは「ビルマ」といった)の歴史をたどれば、イギリスの植民地から、日本の占領という流れは消し去れない。
日本の占領がおわるときを描いたのが、『ビルマの竪琴』なのだ。

  

原作者、竹山道雄は、その一貫した自由主義ゆえ、戦後(左翼)論壇から危険視され、ついには無視されるという悲劇がある。
当時のわが国を代表する知識人としての語り口は、丁寧でわかりやすい。

人間のややこしさは、たとえば、自由主義の本家であるはずのイギリスが、ときにむき出しの欲望に駆られて、帝国主義を完成させたことにも見られる。
大英帝国の栄光を支えたのは、アジアの悲惨であった。

インドや東南アジアが酷いことになった理由のひとつに、「戦略物資」の存在がある。
大戦争以来ずっとこの方、「石油」がそれで、おかげで争奪戦が繰り広げられる中東は平和から見放されてきた。

では、その前のエンジンやプラスチックがなかった時代はというと、「胡椒」だったのだ。
これを求めたヨーロッパが、供給地のアジアをこぞって我が物にした。
和食を中心としたわが国は、そこまでして胡椒を求めず、哀れなアジアの解放を理想としたとき、決定的な対立となったのである。

ここには、「人種差別」という別のキーワードがからむ。

そんなわけで、スー・チー氏の父、アウンサン将軍は、はじめ日本と共闘したが、敗色濃厚の日本を追い出して安定の大帝国・英国側についた軍人だった。
それで、スー・チー嬢はオックスフォードで教育を受けることになった。

彼女をいまでも英国やヨーロッパ諸国が支援する理由がこれだ。
しかしながら、こうした外国からの援助や恩恵を公然と受ける立場では、自国憲法で「大統領になれない」という当然の憲法規定がある。
軍事政権時代の憲法だという批判もあるが、アメリカでも資格なしだ。

なので彼女は、自分を大統領より「上の立場」と公式に発言した。
なお、彼女が日本語を学んだのは、オックスフォード大学で、その理由は、父将軍の日本における行動を研究するためというから、「裏切り」の正当理由をしりたいのだろう。

彼女の時代遅れのような、大英帝国流の思想から国民を支配する行動が、イスラム系住民たちへの弾圧、「ロヒンギャ問題」となったのである。
そんな彼女を、欧米と一緒になって支援する道理が、わが国にあるのか?
彼女の「日本嫌い」の理由は、あんがいとわかりやすいが、根深いのだ。

さてそれで、彼女は「いい人」なのだろうか?

家畜たちの沈黙

げに教育とは恐ろしきものである。

国家や組織に従うことが正義であると、子どものときから仕込まれれば、10代後半で目覚めたところで、せいぜい左翼になるのがオチなのである。
もちろんこれも、家庭で環境遺伝するから、親子代々の左翼活動家となるのであって、ふしぎと右翼活動家はなかなかいない。

ただし、日本語における、左翼と右翼は使い方が難しいので、ほんとうは使いたくない。
たとえば、戦前の左翼は戦後の右翼で、戦前の右翼は、戦後の極左のことをいうからである。

そもそも、フランス革命後の議会で議長席から見て、王側が右側に座って、革命側が左に座ったことを指すだけだから、それぞれの歴史がある国によって、最初から意味が異なって当たり前の、ずいぶんと曖昧ないい方なのだ。

だから、戦前からハイエクがいっているように、一般的な左翼のことを、社会主義者とか集産主義者と呼んで、右翼はやめて自由主義者と再定義して分類した方が、よほど正確で脳内整理の役に立つ。

なお、集産主義者とは、全体主義者のことをいう。
国民の自由を奪う全体主義は、社会主義・共産主義からしか生まれない。
たとえば、ヒトラーのナチスを「右翼」というひとがいるけれど、「国家社会主義ドイツ労働者党」なのだから、ナチスも社会主義を基盤にしている。

ちゃんとしているとの評価がある学者が書く論文でも、安易に右翼と左翼とが出てくると、がっかりするのは上の理由による。

用語の定義に厳密でない「論文」に意味はない。

こうした定義づけをさらにねじれさせるのが、「保守」という用語である。
なにを保守するのか?という、対象が曖昧な用語なのである。
一般的に、民族や国民の歴史や伝統を「保守する」という意味ではあるけども、社会主義政党での保守とは、社会主義理論の教条主義的志向(ガチガチの頭でっかち)を指すから、真逆の意味になる。

そんなわけで、いつの間にかわが国の「保守政党」=「自由民主党」が、欧米諸国でいう「急進左派政党」に変容したのだけれども、相変わらずむかし擦り込まれた「保守政党」だという思い込みが社会に残存している。

どうしてこんなことに気づかずに、みんなで「自民党=保守」と思考できるのか?といえば、曖昧な言葉の定義が、ある志向のひとたちに便利に利用されているからであろう。
それが、「社会主義者たち」で、わが国でいう「左派=野党」を指す。

「もりかけ」や「桜(しっくりこないが話が小さすぎる)」を、野党が追及すればするほど、急進左派政党としての自民党の政策は実行される。
何の事はない、野党もこぞって「賛成」しているのを、あたかも「翼賛政治」に見せないようにしているのだ。

こうしたことに、真っ向反対していたのが、2002年に暗殺されたと思われる石井紘基衆議院議員であったことは、前に書いた。
国民にとって、真の損失とは、こうした「ひと」を失ったことなのだ。
没年齢61歳という「若さ」であった。

かつて、モスクワ大学に留学経験がある氏は、ソ連の「裏」を見たのだ。
それで、ソ連という国の「悪」と「恐怖政治」をしった。
帰国後に、友人・知人たちへ「日本がソ連になると警告」を熱弁して、聞かされた側は目を白黒させたという。

おそらく、ソ連型統治のメカニズムを、わが国の政治に見たのだろう。

本日、2月1日。
政府は2度目の「緊急事態宣言」の「延長」を決定するはずだ。
科学的根拠はない。
あるのは、政治的根拠だけだ。

再生産数は、とっくに「1」を切っているし、発表されているデータが「正しければ」正月明けから感染増加が著しかったので、素人でも「家庭内感染」だとかんがえることができる。
消毒に努める飲食店での感染と比べれば、家庭の危険度は数十倍にもなる。

それで、どうして飲食店の営業を規制するのか?

個人的に、パチンコ店が街にふつうにあることの異常をいいたいけれど、そうはいっても、どうしてパチンコ店の営業を規制して、「自粛しない」と制裁を課すことが正義となるのか?
この1年、パチンコ店での感染例は「ない」にもかかわらずだ。

こうした、「強権」を振るう知事が、どういうわけか「支持」されると報道されている。
本当なのか?
この知事は、弁護士出身なのだから、明らかに「確信犯」である。

とうとう、病気で、と認定されたひとの「死者数」と、「自殺者数」が並んだ。
このなかには、無症状だが検査陽性になった「だけ」のひともいる。
近しいひとたちに迷惑をかける、という遺書まであるのだ。

政府は感染症分類の「2類」から「5類」に緩めるのではなく、さらに強力な分類として、「1類」との中間を新設する検討までしている。
しかし、「2類」なのに、どうして隔離せず「自宅療養」なのか?
病床が足りないどころか、空いているのに。

「1類」には、エボラ出血熱、ペストなどがあり、「2類」には、SARS、MARS、結核がなどあるけれど、その下の「3類」にコレラ、腸チフスがある。

政府が国民を「粛正」する。

もちろん、粛正対象者は、家畜扱いなのである。
ソ連や中国、カンボジアでおきたことが、日本ではじまっているのである。
なんと、わが国が誇るスーパーコンピュータをつかって、SNSでの発信内容をチェックしだしたことを、担当大臣が国会で答弁した。

全体主義の統治者にとって、「夢のコンピュータ」になったのである。

もはや家畜だって、反乱を起こすべきである。

それで、「PCR正常化プロジェクト」がはじまっている。

共和制と民主主義

国家の政治体制をいうときの「区分」で、いまや圧倒的に多数なのは「共和国(republic)」である。
近代での本来的な意味は、「非君主国」ということだったけど、民主主義(democracy)と結びついた君主制「立憲君主国」がでてくると、表面的には「大統領制」をいうようになった。

わが国の曖昧さは、天皇の位置づけから破壊されたので、大手を振って「立憲君主制」ともいえず、なんだかわからないから、「民主主義国家」ということにしている。

これが、世界的にも珍しいのは、「共和国」は共和国であって、「民主主義国家」とはいわないからである。
ここに、戦後のわが国の「政治体制(政体)=国体」についての「闇」があるのだ。

トランプ氏が大統領選挙の正当性を、表面的に放棄して、バイデン政権らしきものが発足した最近になって、「株式会社アメリカ合衆国」と、「アメリカ共和国」とを分ける議論が起きている。
そもそも、トランプ氏が属したのが「共和党」だから、トランプ派が「アメリカ共和国」をいいだしたともいえる。

だから、表面的な政権らしきものを、「株式会社アメリカ合衆国」と表現したい気持はわかるし、なかなかうまいいい方なので感心している。
「日本株式会社」とか「株式会社日本」といういい方が、オリジナルだと言い張っても空しい表現だけど、国をあげてひとつの「エンタープライズ」だといえば、納得もいく。

自由主義を標榜した、かつてのアメリカ合衆国なら、こんないい方に反発しただろうけど、国家を超えた巨大テック企業たちの「情報支配」が、ほんとうに国家を支配したうえでのビジネスをやっているから、彼らに支えられた民主党は、株式会社アメリカ合衆国の表面上のボードメンバーとなっている。

すると、国家間の軋轢というのは、もはや「過去のこと」にすぎず、真の支配者である巨大テック企業の意向こそが、国家意思となる時代になった。
だから、今度の政権が「親中」だとかいうのも、まやかしであって、巨大テック企業が儲かるためのルールづくりが、そのまま「対中要求」になるはずなのだ。

もちろん、個々人を情報支配して全体主義を完成させたいひとたちとも手を組むのは、その技術的背景が「儲かる」からであって、さらに、アメリカ大統領選挙での介入で、全体主義の旨味を知ってしまったから、もう戻れないのである。

これは、一種の麻薬中毒なのだ。

巨大テック企業の経営トップが、このような麻薬中毒に陥る一方で、支配される側は、州政府から本物の薬物依存を促進されて、民主党系=左派の知事が君臨する、たとえばオレゴン州では、注射器を希望者に無料配付という「行政サービス」がおこなわれているし、カナダでも同様の状況以上(コカインの配付)が発生している。

もう30年以上前に、スイスでは無料麻薬投与所が開設されていて、ここでは本人が希望する薬物を、有資格者によって「安全」に提供されている。
当然だが、スイス社会は、本人が廃人になることを容認したかわりに、薬欲しさの犯罪を防止することを、国民投票によって優先させたのである。

すると、スイスの「民主主義国家」としての完成度は、その徹底的な「個人主義」とセットで、「完璧」であることがわかる。
直接民主制(単純多数決)によって、自動的に「法」がつくられるからである。

対して、自由主義の「共和制」では、「法の支配」を前提におく。
たとえ多数決で決しても、それが、「法」に合致しなければ「無効」とするのが、「共和制」の本質なのだ。

たとえば、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのように、1個のパンを盗んだことが、生涯追われる罪になるのか?という問いである。
刑法があれば、その罰則以上の罪に問うことはゆるされないのが、法治の原則である。

アメリカ合衆国連邦議会における、トランプ氏二度目の弾劾訴追(下院)と裁判続行決議(上院)は、アメリカ合衆国が、共和制の法治ではなくて、民主制の多数決になった瞬間を見せてくれたものなのだ。
つまり、国柄の変更である。

これを押し進める、ほんとうの勢力が、グローバリストたちである。

フロリダに第二の大統領府をつくった、トランプ氏の「アメリカ・ファースト」とは、反グローバリゼーションの旗印だ。
だから、彼が掲げた選挙キャンペーンが「法と秩序」だった。
まさに、共和制をストレートに表現したのである。

さてそれで、わが国の、民主主義国家とは、とっくに多数決による「民主制」そのもので、学校教育の現場でも、「多数決」をもって決めることが正義とされる「(洗脳)教育」がされている。
そうやって育った、おとなたちのなかの成績優秀者が、民主制の支配者になるようになっている。

日本の危機が、アメリカの危機より深刻なのは、こんなところにも見つけられるのである。