2020年にはじまった、小学校5年生からの「教科になった英語」について、初めて実施された、初代・中学3年生への全国学力テスト(スピーキング)の結果である。
事実上の、「全滅」である。
このニュースについては、どういうわけかCIAのエージェント企業、読売新聞に詳細記事(1日付け)が掲載されたらしい。
主催した文部科学省やらの解説(言い訳)によると、問題の場面設定が複雑で難易度が高かったとか、生徒がスピーキングテストの実施方法(初めてのオンラインだった)に慣れていなかったので、正答率が低くなったのだと言っている。
問題の場面設定が複雑で難易度が高かった、とはどういうことなのか?
5問のうちの1問を例にすれば、ニュージーランド人が日本にやってきて、日本人が、「エコバッグ」ではなくて、多くが「プラスチックバッグ」を使っているのは、簡単に購入できるからだと意見を言っている。
これに対して、生徒は1分以内に返答をかんがえて、30秒以内で話せ、という問題だ。
日本語でも1分でどう答えればいいものか?と思うが、その前に、英語で「プラスチックバッグ」とは、日本語の「レジ袋」のことである。
合法的に販売しているものを、売っているのがいけない、という設問のニュージーランド人の指摘を、どうかんがえるのか?になるから、「えっ?」となるだろうし、学校の授業で、レジ袋をプラスチックバッグだと教えることになっているのだろうか?と「?」がつくのである。
この問題をつくったひとは、国立なんちゃら研究所のひとだという。
個人的な「想い」は別として、文部行政として設問を作る以上は、どんな「正答」に期待したのだろうか?という疑問が湧くのはもちろん、文科省なら、『学習指導要領』と合致していないといけない。
それに、言い訳にあるように、場面設定が複雑で難易度が高いのはそのとおりだけど、問題作りの過程において、誰も二重・三重にチェックするひとがいなかったのか?という、変な疑問も湧くのである。
つまり、担当者に丸投げ、という状況が見てとれる。
これは、前に書いた、井上ひさしの『國語元年』における、主人公、南郷清之輔が思い出される。
一人の人物が、「全国統一話し言葉」を制定するという、かつての織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった英雄たちでさえ成し遂げられなかった「偉業」だ。
一体全体、文部科学省という頭の出来の悪いひとたちからなる組織は、日本人にどんな英語レベルを求めているのか?
とはいえ、3割ほどは正解している。
いったい、この難解な場面設定をどのように考えたのか?というよりも、「脊髄反射」するほどの洗脳を受けていたのか?も気になるので、「悪問」も難なくクリアするその素直さが、かえって不気味なのである。
どこまでも悪どい、欧米人たちは、植民地を得たら、非支配者たる現地人に、自国の言語を押し付けた。
そうすれば、相手国の言語を支配者が学ばないで済むからである。
なので、実質世界帝国を築いた英国によって、英語が世界言語になったのである。
このメリットは計り知れず、すべての非英語圏では、英語学習をしないといけなくなった感がある。
なので、いまでも英語圏のひとたちは、外国語を積極的に学ぶ「変人」は別として、ほとんど英語だけしか知らないで一生を終えている。
外国語習得のための時間数が節約できるメリットこそ、先進生活レベルを維持するエネルギー源なのだ。
しかし、非英語圏に住んでいても、別段英語を必須とする職業につかない限り、一生英語を理解しなくとも困らない。
義務教育の範囲での外国語能力ならば、どこにレベルを設定するのか?は、カリキュラム設計上の重大事なのである。
それで、今回の「全国統一テスト」は、興味深い結果となった。
大騒ぎの末に無理やり導入を決めた、小学校からの英語教育の成果が、ほとんどないばかりか、「英語嫌い」を増殖させていると予想させるからである。
子供は、全問不正解の恥を内に秘めながら、横並びで安心しようとするものだ。
学校での「テスト」の意味は、生徒の理解度合いを測る、のではなくて、教師の教え方の成熟度を測ることでないと、義務教育での目的合理性としておかしい。
しかし穿ってみた本当の狙いは、日本没落・国民貧困化、すわち行き着くところの「共産革命」のために、徹底的に英語嫌いを作る、というなら、大成功していると言えるのである。
なので、英語教育の失敗とは言わずに、変な言い訳をしているのではないか?
そうやって、世界経済フォーラムのような連中が、世界を支配した暁には、日本語を廃止(禁止)して、英語だけを公用語に据えれば良い。
台湾は、こうして中国語にされた。
もちろん、日本領になっての日本語教育ではあったけど、当時の台湾には、学校教育そのものがなかった。
これは、南洋庁が設置された、パラオも同様である。
日本人に英語をどうしたら効率よく教え・習得させることができるのか?
なんだか永遠のテーマになりそうなのは、英語をネイティブとするひとたちの職業確保という側面もある。
失礼だが、ニュージーランド人の英語とか、オーストラリア人の英語を学びに留学する、というのはナンセンスだ。
『クロコダイル・ダンディ』(1986年、88年、2001)のシリーズ3本での、ズーズー弁と田舎者ぶりが、なんといっても英語圏のひとたち(主にニューヨーカー)にウケたのである。
共産化した民主党の本質に、差別主義があるから、民主党の岩盤支持層ばかりの都会人は、平然と田舎者をバカにしてはばからない。
内陸部の田舎が拠点の共和党との対立は、こんなところからはじまっている。
階級社会が歴然と残り、差別が大好きな野蛮人が支配層にいる欧米人にとって、どんな階級のひとたちが話す発音なのか?で、相手の身分を推し量るのだ。
その証拠が、あの、オードリー・ヘップバーン主演の『マイ・フェア・レディ』(1964年)である。
すると、英語だけが公用語になった日本でも、キングズ(クイーンズ)イングリッシュを頂点に、アメリカ・ボストンの英語、アメリカ・カリフォルニアの英語、といった具合に階層別にされて、子供時分から指定された英語を使えと命じられることになるはずだ。
日本語は禁止だから、親世代とのコミュニケーションすら取れないという、もう一つのメリットができて、家族の分断も容易になるし、そのための「LGBT法案強硬裁決」でもあった。
そんな夢を抱いている、邪悪な連中の妄想を吹き飛ばす、見事な「快挙」がこのテスト結果なのであった。
めでたしめでたし。