全国的に、「グダグダ」の宣伝となった、神奈川知事選挙は、わが国戦後社会の劣化が行き着いた先に起きる、限界点であることを示しただけの意味となった。
しかして、神奈川県民の悲惨は、なにも「知事選び」だけでなく、県議会議員選びも、横浜市議会議員選びも、ぜんぶが限界点を示していることの、絶望がある。
これを、「制度疲労」といわずに、なんというのか?
すなわち、GHQと、居残った日本政府(明治政府が残した官僚制)が、合作した、「戦後というシステム」の限界が、ふつうのひとにもわかるまでの、一種の「破局」となったのである。
念の為、『選挙広報』を隅々まで観察すれば、そこには、「公約らしきもの」が、「公約」として書かれていて、顔や名前や、政党色を隠して読んでも、全員が、ほとんどおなじことを主張していて、その内容が、「アメリカ民主党の極左」と、だいたい一致しているのである。
前回のアメリカ大統領選挙、民主党予備選に出た、極左は、民主党籍が一度もない、バーニー・サンダース上院議員(バーモント州)、とか、エリザベス・ウォーレン上院議員(マサチューセッツ州)が目立ったけれど、もっと暴れたのが、若き下院議員、アレクサンドリア・オカシオ・コルテス女史(略して、AOC)であった。
日本語では一部のひとが、「AたまOかしいCルテス」と揶揄するけれど、その言論と活動家としてのぶっ飛び方は、スターリンでも恐怖を感じることだろう。
これらのひとたちが共通していうのが、第一に、地球環境とか二酸化炭素の排出制限で、すでに空気中に0.03%(1万分の3)しかないものを、とにかく削減することに熱を入れている。
地球誕生の暁には、原始大気の組成の96%が二酸化炭素だったのに、どこへ行ったのか?といえば、のちに光合成をして、これを食べた植物の組織(炭水化物)に取り込まれて、大量の化石燃料に変化して保存されているだけなのだ。
なので、「循環型社会」をいうなら、化石燃料を燃焼(酸化)させることで、大気に戻すことができて、これをまた植物が食べることをいわないといけない。
けれども、本気で二酸化炭素を削減することは彼らには関係なく、政治における美辞麗句をもって、ひとびとの思想の統一と行動制限をしたいだけのことで、もっといえばカネになるのである。
これが、わが国では逆転して、思想の統一と行動制限(たとえば、ゴミ分別とかレジ袋有料化)をすでに前提としているから、全候補者が、これをいわないと政治家「らしく」なくなってしまうのが嫌なだけなのだ。
ために、限界点にきたというのである。
もちろん、ゴミ分別も、レジ袋も、そこにしっかり利権があって、日本でもカネのなる木に育っているのは、いい出しっぺたちの生活を見ればわかるのである。
あとは、おなじパターンで、おおむね、公共的な負担の軽減か無料化を主張するのも、極左の共通である。
代表的な極左政党になった、自公政権では、電気代の補助金を各家庭に出すといいはじめたのも、実行時期と衆議院選挙とのスケジュール調整の結果だと予想できるし、絶対に「減税」をいわない。
歴代のアメリカ共和党政権が減税して、民主党政権が増税するパターンの繰り返しを、なぜか日本人は無視して、なんだか民主党=日本での自民党の支持者にさせられているのは、ただの「バカ」だからか?
この意味で、共産党候補者の「選挙広報」での主張が、いまでは、「中央値(メジアン)」とか、「最頻値(モード)」になっていて、あたかも「平均値(ミーン、アベレージ)」に近づくほどに、「正規分布図」になるような状態なのである。
しかも、きれいな左右対称の富士山型になるのではなくて、なんだか痩せてきびしい鋭利な山のようだから、外れ値が異様に目立つので、落選したくないひとたちは、もう、独自の外れ値たる主張を口にしない。
平均になるべく努力をするのだから、社会に蔓延る閉塞感の正体とは、この何がなんでも中心に向かう、超新星爆発寸前の力学のことなのである。
これが、共産党を中心に据えた選挙の構図なのであるから、全党・全候補が、おなじことをいうしかなく、有権者の選択肢は、「だれでもおなじ」になって、わざわざ投票所に行かない。
それでいて、共産党はダメだ、というのも、やっぱり「バカ」だからか?ただし、共産党の正直さは、「国防」における外れ値しかないことに特徴があるので、ちゃんと自衛隊を党直属の「人民軍(内閣麾下の「国軍」ではない)」に改編するといえば、文句なく「平均値」になれるものを。
ソ連や中国では、90%以上の投票率での選挙をして、その支持が固い結束であることを内外に誇示したものだけど、「超・先進・共産国」になった、わが国では、選挙をしなくても、共産主義政策が実施できる、夢のような国(「ユートピア」)が実現したかに見える。
しかし、これからこれらの政策が実現すると、国民生活は間違いなく窮乏化するので、彼らが理想としている、補助金欲しさで従順な奴隷になるひとたちと、反発するひとたちとに分離して、反発するひとたちに「マーケット・イン」する政党が、大躍進するはずなのである。
つまり、わが国の限界点とは、「プロダクト・アウト型政党」しかないことの限界なのだ。
あれをやります、これをやります、だから、わたしに投票してください、という論理が、プロダクト・アウト式である。
ところが、全員がおなじことを「やります」なので、結局、自分の名前を連呼するしか、選挙活動にならないのであった。
他候補とのちがいが、名前だけに集約されるからである。
そんな日本の状況を尻目に、先進国では、自由主義(日本人は「保守」といいたがる)への回帰が、ムーブメントになってきている。
各国で、自公政権のような極左政権がひっくり返る現象になってきて、ニュージーランド、フィンランド、オランダで、マーケット・イン型の政党が、歴史的な勝利を挙げている。
つまるところ、自公政権のような極左全体主義政権が、歴史的敗北を喫しているのである。
もちろん、極左全体主義者の、資本(株式)やら広告(いまさら高額出稿してくれる)やらから支配を受けている、わが国マスコミはこれを報じないけれど、ひとの口には戸が立たないのは、世界共通なのである。
ただし、すでに民間企業が弱っているので、広告を「いい値」でだしてくれる、政府広報とかがマスコミ経営の頼みの綱になっているし、なんだかんだNHKも、極左全体主義の現政府の宣伝部隊になっていて、監督官庁たる旧郵政省の天下り人事で役人をコントロールしているのだった。
それでも、全国民が、神奈川県とか、県内の市町村を、お笑いの対象にしてくれれば、神奈川県民として唯一の幸いなのである。