トランプは、ソクラテスを目指す

エイプリルフールを直前に、民主党地方検察官は業務終了間際の裁判所に駈け込んで起訴状を提出したので、このトップニュースは、ニューヨーク現地時間の夜になった。

あろうことか、起訴状が封印されているために、トランプ氏本人も、その代理人たる弁護士も、いかなる罪で起訴されたのかも判らない状況にある。
もちろん、マスコミもわからない。

なので、今回の「ニューヨーク州法」による起訴が、なにを立件したのか?まったく不明なままなので、とにかく「憶測ばかり」となっているのである。

連続セクハラで辞任した、民主党次期大統領候補の筆頭だった、クオモ前ニューヨーク州知事でさえ、この起訴はあり得ない「司法の武器化だ」と声明を出した。

ちなみに、AV女優への口止め料の出どころが、選挙資金だったための選挙法違反だと一部で報道があるが、とっくのとうに、連邦検事(連邦選挙法に基づく)が立件を断念していて、全米選挙委員会も不問とする決定をしているのである。

もっと不思議なのは、トランプ氏をゆすったこの女優は、名誉毀損裁判で敗訴し、そもそもが「嘘だった」と告白したから、なんでおカネが動いたのか?もわからないので、おカネを払った当時のトランプ氏弁護士が一番怪しい。

その弁護士が、今回の検察側証人になっている。

州法でしか起訴権限がない、州検察官が、なにをもって起訴ができるのか?当該の陪審員以外だれにもわからないし、陪審員は本件を口外してはならない立場にある。

この事実をしって、いきなりわたしはプラトンが書き残した、『ソクラテスの弁明』(紀元前399年春に死刑判決がくだった)を思いだした。

中学生ぐらいから高校生の6年間は、いわゆる「ティーン・エイジャー」として、だれもが人生におけるもっとも多感な時期にあたる。

これを、「青春時代」というのは、薹(とう)がたって食えないおとなが嫉妬していうのであって、とうの本人たちには通じない。

いい爺さんたちが、「まだまだ青春だ!」とか「一生青春だ!」と意気をあげるから、青春時代が怪しくなるのである。

この意味で、森田公一とトップギャランの名曲、『青春時代』の歌詞(作詞は阿久悠)は、正しいから、爺いになっても歌えるのだ。

多感な10代で、ちゃんとしたおとなが選んだ、当時の『新潮文庫の百冊』を、どれから読破するか?は、あんがいと悩みのタネだった。
いまでは、すっかり入れ替わった感があるのは、売りたいというおとなの事情が強くなったからかもしれない残念がある。

例えば、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を、いい歳の爺さんが読んでいたら気持ちが悪い。
一生の内で、10代だから読んでおかないといけない文章がある。

現代国語の教科書のごとき、「悪文集」のことではない。

これを逃すことの「損」は、その人の一生で、本人すらもう気づかないのだ。

『ソクラテスの弁明』が、「新潮文庫の百冊」に入っていないのも不思議だ。

日本の「世界史」という科目は、戦後GHQによってつくられたから、ギリシャ・ローマをさんざんやるけど、我が国にも多大な影響を及ぼした、蒙古帝国(モンゴル)のことは教えない。

わたしは司馬遼太郎の読者ではないけれど、彼は、大阪外語大蒙古語科を卒業している。

読書離れが日本だけでなく世界的に進んでいるのは、目先の快楽提供をもって、脳の言語中枢を使う読書を面倒なものにする愚民化教育が全世界で実施されているからだ。

いま、肉体と精神のちがいを訴えて、LGBTQを最大優先する、冗談では済まない社会分断キャンペーンが政治的に行われて、とうとう母校の小学校で銃を乱射するひとが現れても、この犯人こそが「被害者なのだ」という、殺人擁護のもう一つの倒錯が報道姿勢になっている。

理由なく殺された被害者の人権よりも、犯人の人権を守る、というのは、正しい裁判を受けさせるということでの話で、犯行が正義ではない。
まさに、死人に口なしなのは、唯物論によって、死人は「物体」に過ぎなくなったからである。

これが嵩じれば、非支配者も生きながらにしておなじ扱いになるのは歴史が証明している。

これを、家畜化という。

さてそれで、70歳のソクラテスは、ある日突然「神を冒涜した」と訴えられた。

「共和制で民主主義」があった、当時のアテナイでは、500人ものひとたちが、裁判当日のくじ引きで陪審員になって、有罪か無罪かを決めて、有罪ならば、その量刑も決める仕組みであった。

原告と被告は、これらの多数を前に、起訴理由と自己弁護のそれぞれを時間内で弁論をしないといけない。
なお、当時は、検察官も弁護士もいないけれども、なによりも、キリスト教がない。

アテナイ人がいう、冒涜された「神」とは誰か?

21世紀のいま、全世界で我われがみている光景は、なんだかソクラテスの裁判のようなのだ。
その「相似」が、絶妙なのである。

第一に、共和制民主主義という共通は、権威と世俗的政治権力の両方が、主権者たる市民に帰属するために、歯止めが効かなくなることがある。

第二に、効かなくなった歯止めは、かならず暴走して、極端に走り、歴史的汚点をつくりだすものの、誰がやったのか?については、「市民ゆえ」に、個人を特定できないから、これがスパイラルとなって、無責任がさらなる無責任をよんで、破局を迎えるのである。

しかして、ソクラテスが毒杯を飲んだのは、刑とは別の理由だった。

ソクラテスの影響力は、欧米人の教養の基礎にあるから、欧米人でこれをしらないものは、無教養のそしりを免れない。
トランプ氏は、したたかにも、ソクラテスを彷彿とさせるように振る舞うだろう。

けれども、彼は決して、従順な羊ではない。

起訴からすぐさま、声明を発して、不当な起訴をした担当検事、その背景のバイデン、そして民主党議員を一人残らず排除する、と宣言した。

連邦下院のマッカーシー議長は、担当検事の背景を議会捜査の対象とすることも表明している。

何度もいうが、バシバシの戦闘(事実上の内戦)が開始されたのである。

最後に、ソクラテスを殺してしまったアテナイ人たちは、冷静になって目が覚めたら、ソクラテスを起訴した人物たちを、「裁判なしで処刑した」のであった。

これを、なぶり殺しというのは、自分たちの無責任の怒りの矛先が、自分たちではなく別の一点に集中する力学が働くからなのである。

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