世の中が不穏になって、これを隠すためにいろいろとした工夫がなされている。
不穏な状況を隠すことにも、メリットとデメリットがあるのは、「表裏一体」が世の中というものだからでもある。
しかし、それが一般的に無意識化されると、意外とデメリットの方が膨らんで、為政者に都合よくなるのである。
だから、意識して「隠されていること」をイメージしないと、不穏な世の中だということにも気づかない、安穏とした生活になって、ついには家畜化されるのである。
関東に長く住んでいると、JRの強権的なやり方が気になる。
わたしは関西人ではないし、関西に長く暮らしたこともないが、関西の粘着性が鉄道会社の態度にもあって、それが関東人の非日常になることがある。
たとえば、「近鉄」の横柄さは、関東人には結構ショックで、異文化共生の困難を国内・日本人同士でも確認できたりする。
けれども、関西人は自分たちに粘着性があるとはツユともおもっていないばかりか、かえって関東人に粘着性を感じてショックをうけるものである。
関西人は、現場で細かいクレームをつけて現場で解決したらそれでおわるが、関東人は現場ではなにもなく一週間ほどしてから強烈なクレームをいいだして手に負えなくなり、さらに解決したはずでもネチネチと尾を引くから、これを関西人は粘着性とみるのである。
それゆえに、いかに客からクレームを受けずに済ませるか?の技術が開発されるのが、関東なのである。
ために、「業務用語」として「マニュアル化」され、教育・訓練の対象となる。
線路が終わるから「終点」となる「ターミナル駅」がどんどんなくなって、「行き先表示」で終点になりえる駅のことを「ターミナル駅」といったり、乗換ができる駅を指したりするようになった。
その最たる例が、上野駅と東京駅である。
それで、「上野東京ライン」なる不可思議な路線ができて、やたら営業距離が長くなり、わたしのような横浜人からすると、東北本線(ふつう「宇都宮線」と呼ぶ)での事故やらが直接影響するようになった。
いまだに外国人観光客は、鉄道ダイヤの「正確さ」に感心しているが、ふるい日本人のわたしからしたら、「遅延」が常態化し定時運行が退化しているように感じている。
この感覚は、英国人ならいつ頃のものだったのだろうか?
すでに、鉄道発祥の英国で「定時運行」は「死語」であろう。
そこで登場するのが、駅や車内でのアナウンス放送なのである。
なお、ヨーロッパの鉄道では、ほぼ放送はされないために、この列車の行き先は正しいのか?という不安とともに乗車することが日常になっている。
それでも日本では、「安全確認のため」とか「車両点検」、それに「お客様対応」など、さまざまな「言い訳」が使い分けられている。
これらは、みな「業務用の隠語」として聴かないといけない。
なかには、客同士のトラブル(=ケンカ)も含まれるし、職員(駅員や乗務員)と客とのトラブル(=ケンカ)もあるからだ。
しかも「客」が、日本人とはかぎらない時代になった。
理由はなんであれ、遅れや運休となれば、迷惑を被るのは他の乗客多数である。
本当の機械的な故障(満員の圧力からむかしは「ドア故障」が頻発していた)ならまだしも、地震でもないのになぜか「停電」が起きたりするのはどういうわけなのか?
ニュースでは、「停電」が大規模遅延の理由というが、「停電の理由」をいわない。
技術者や作業員の不足で、メンテナンス計画どおりにならないから、といえば、むかしの鉄道省=いまの国交省の役人に叱られるのがいやなのだとわかる。
あの「フクシマ」も、緊急時マニュアルのアメリカからの導入を、経産官僚が阻止したのは、「法」のとおり運転されれば事故は起こり得ない、という理由であった。
これをもって、東大法学部卒の役人は、「法治」だと信じていると証明された。
人的ミスの可能性を、「法」は無視するから、「マニュアル」にはなりえないという区別も付かない者が君臨しているのが原子力行政ではあるが、しょせんは同じ(法)体系なので、鉄道行政もしかり、なのである。
ゆえに、「業務用の隠語」が、乗客やら利用客に放送されるのは、お役人様からのお叱りを回避するための「方便」が第一の理由だとしれるのである。
和田アキ子の『だってしょうがないじゃない』(1988年)が、名曲の理由である。
これも、無責任国家の譜系のひとつなのだった。

