機能不全の政府がいよいよ

今年は悪い予想が、去年のうちから世界を席巻している。

世界的な食糧危機の指摘である。
国連食糧農業機関(FAO)と国連世界食糧計画(WFP)は、揃って警告を発している。

もちろん、両機関とも「国連」の機関なので、全面的に信用できない原則に変わりはない。
ただ、なにはともあれ、結論にあたる「飢餓」については、意識しないといけないのは自己防衛からだ。

信じてはいけないのは、そうなる「理由」で、ありもしない温暖化をいうからである。

我々の食料は、ぜんぶ植物に依存している。
植物(海中ならプランクトン)を、動物が食べて、それをまた食べるという連鎖をしらないものはいないのに、温暖化の危機という嘘にコロッと騙される。

植物の成長には、温度の高さはもちろん、二酸化炭素濃度が高い方がよく育つからだ。
恐竜が栄えたのは、人間活動とは全然関係ない植物の繁栄が原因で、当時の二酸化炭素濃度はいまよりもずっと高い5倍もあったのだ。

だから、園芸系の農業では、「炭酸ガス肥料」が使われていて、ビニール・ハウス内の炭酸ガス濃度を外界よりも人工的に高くしている。
イチゴやメロンなどが、甘くて大きく育つのだ。
ナス科のピーマンなども同様だ。

火星移住計画のなかで、NASAがやった食料栽培実験でも、いまの数倍の二酸化炭素濃度にしたら、植物が巨大化した。

しかし、これは化学でかんがえれば当然で、植物は空気中の二酸化炭素を光合成を通じて食べているからである。
それで、セルロースをつくって細胞膜にする。

ちなみに、セルロースの化学式は「C6H10O5」だ。
炭素Cが6個
水素Hが10個
酸素Oが5個 でできている。

コメも小麦も、ぜんぶが炭素からできていて、可食部にあたる「タネ」もおなじだから、二酸化炭素濃度を下げる努力とは、愚の骨頂なのである。
人間がこれを食べるのは、でんぷんとなった炭素をグルコースとして消化して生きているのである。

ちなみに、グルコースの化学式は「C6H12O6」だ。
植物は、セルロースで身体をつくり、でんぷんでタネをつくっている。

中学生ぐらいの理科でこれを理解できるのに、どうして脱炭素との矛盾が問題にならないか?といえば、すくなくとも日本国内では、「暗記教育」が主におこなわれていることで、かんがえる力を弱めるからだ。

昨年の10月27日に文部科学省が発表した、令和3年度の小中学生の不登校者数は、約24万人で過去最高を記録したという。
人数の絶対値でいって過去最高というけれど、少子化の時代だから、全体に占める割合はもっと深刻な数字になるだろう。

しかも、この調査のタイトルは、「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要」であって、「問題行動」だと決めつけている。

問題行動をしているのは、文部科学省の方なのだ。
自分でかんがえる力をもっていれば、学校が苦痛になるのは正常行動だろう。

わざわざ嘘を教わりに学校に行く。
これに気づいた子供は不登校になり、鈍感でなにもかんがえずに暗記さえすれば成績がよくなる子供は、エリート扱いされている。

そんなわけで、自分でかんがえる力がない者たちが、高級官僚になっている。

だから、「国連」のいいなりで構わないし、国連から命ぜられたままにするのが、一番楽で、これによる結果責任をとる気もない。
「だって国連のいう通りにしたんだもん」で済むのだ。

これがワクチン接種で実施されて、ちゃんと「前例」までつくった。
なので、食料がなくなると警告をいっておけば、対策なんか適当でいい。
そもそも、小規模農家ばかりにしたのは、GHQだったのである。

それがまた、元小作農家の方も、「先祖代々」ということにしてきた。
もちろん、地元の自作農や元庄屋からは、いまでも小作だったことで差別されても文句をいったこともない。

けれども、温暖化とかには関係なく、ロシアから制裁されて肥料の原材料供給が止まったから、耕しても肥料がない。
不足すれば高騰もするので、よしんば購入できても採算があわない。

丹念に育てた子供はみんなサラリーマンになって、都会暮らしだ。
だれも農家を継ぐものはないから、ボチボチ廃業しても仕方がない。

こんな具合で、農地はあっても作付けしないということが、今年はいよいよブームになりそうなのである。

一方で、世界は干ばつの被害が拡大していて、食料安全保障を名目に、生産国が輸出を規制する動きになっている。

国内でないならば、外国から買えばいい、という金満なわが国は、すでに貿易赤字国になっていて、金満とはいえないけれど、そもそもが売ってくれないという事態が目の前にある。

新年早々、気の重い、逃げようもない現実がある。

口が曲がるカルビクッパ

口中がヌルヌルした気持ち悪さがずっと残る化学調味料の味を感じてから、焼き肉屋での食事で納得したことがなくなった。
それに、わたしは「赤身」が好みなので、サシがたっぷり入っている「トロ」のような肉は好みではない。

焼肉店の高級感は、どうしてもサシがある脂肉の高級さに向かうのだろうけど、わたしにとっては高級の意味がちがうのである。
だから、「すき焼き」や「しゃぶしゃぶ」の専門店も、有名な店ほど美味いと思ったことがない。

どうしてあの脂肉を煮るのか?とか、湯に潜らせてわざわざ脂肪分と旨みを湯に溶かすのか?がわからない。
「シメ」のうどんとかラーメンが美味いのは、捨てた旨みを麺が吸い取るからだろう。

中学か高校生の頃だったか忘れたが、『美味しんぼ』で、「肉をもっとも不味く食べる方法」とあったのは、無条件に合点がいった。
なので、自宅でやるのはせいぜい赤身で作る「すき焼き」までで、「しゃぶしゃぶ」には興味がない。

ずいぶん前にとある機関投資家から、チェーン化したしゃぶしゃぶ店の再生のために社長職を依頼されたことがあったけど、自分が嫌いな料理の店を経営することの不道徳が嫌だったので、候補から落ちるように面接で嫌われるだろうことを発言して、無事を得た。

やっぱり肉は焼いたのが一番美味い。

父親が魚嫌いで肉好きだったので、子供時分から近所の焼肉店におそらくボーナスのたびに連れていってもらった。
何度か会社の集まりで、横浜駅裏にあった焼肉店にも同席したが、近所の店の方がずっと美味かった記憶がある。

いまからしたら、よく会社のカネで子供が飲食できたものだ。
同席している子供は、いつもわたしだけだったからである。

群馬、栃木、茨城の三県を「北関東」というけれど、神奈川県に住んでいるひとにはあまり、「南関東」という実感がない。

そもそも、横浜人は神奈川県民であることすら意識しないで暮らしているものだ。
せいぜい、神奈川県立高校に通ったことぐらいしか、神奈川県との付き合いがないし、かつての青春ドラマを絵に描いたような、ハッキリいってどうして教師になったのかに疑問を感じる教師陣であった。

県の有名度ランキングという、なんだかわからないもので、これら三県の全国における不動の下位に、「北関東」の意識がかえって高まっているようだ。
それでかしらないが、どういうわけか南関東にない飲食チェーン店が、北関東にはたくさんある。

神奈川県は「令制」でいう「相模国」と「武蔵国」とでできていて、いまの横浜市や川崎市は武蔵国にあたる。
なので、相模国との統一感はいまでも薄いと思われる。

それに、神奈川県から見ても、千葉県から見ても、「南関東」で一緒にされる道理はない。
東京湾すら、しっかり分断の原因なのである。

浦賀水道がアジアとヨーロッパを分けるボスポラス海峡のようでもある。

横浜から見たら川崎を下位においてきたけれど、川崎側のアンチ横浜意識はそれなりで、ずいぶん前に横浜中華街に対抗して、川崎コリアタウンを企画したことがあった。

東京の会社に通っていたとき、途中下車して川崎の焼肉店にはずいぶんお世話になったものだ。
けれども、化学調味料の味にどうして気づかなかったのか?はわからない。

この10年で、気がついたのである。

最初は、北関東の焼肉チェーン店で、カルビクッパを食べた後味の悪さであった。
それから、横浜の有名店での水キムチの「水」が、舌にこびりついて、シメのカルビクッパでとどめを刺された。

以来、焼肉店行脚がはじまって、なかなか合格店が見つからないでいる。
これは一体どういうことか?
結局のところ、「出汁文化がなかった」というのが結論か?

ここにも日本人の特殊性があるのかもしれない。
とにかく、日本人のふつうとは、料理の基本に出汁がある、という常識だからだ。
フランス料理でも、中華料理でも、それぞれに出汁がある。
フォンドボー(fond de veau)しかり、中華スープしかりである。

けれども、朝鮮半島に出汁文化はなかった。
それで、科学調味料使用が世界一になったのだという説がある。
つまり、何にでも入れる。

しかし、人類の歴史で科学調味料を発明した(1908年:明治41年)のは、日本人で、あの会社(製品化は1909年)を設立した。
朝鮮併合が1910年だから、あの会社の科学調味料が「同胞」のもとにも普及して世界一になったのだろう。

すると、正統なカルビクッパだから、化学調味料の味がする、ということになるし、それが全ての料理でそうなっているのだ。
さいきんでは、科学調味料不使用、という調味料が販売されていて、科学調味料完全不使用を看板にしているお店もある。

口が曲がるカルビクッパが正統だから、これは一体どう考えればよいものか?

ニューヨークの中華料理店で大量に使っていた化学調味料で口が曲がったのを、ニューヨーカーは「チャイニーズシンドローム(中華料理店症候群)」と呼んだが、これはスープの出汁をとる手間を省いたからであったけど、そもそも出汁文化がないものを「シンドローム」というのか?になる。

なんにせよ、唐辛子も日本から半島に伝播した(ちゃんと記録がある)ものなので、全部がここ数百年のあたらしい料理なのである。

やっぱり『チャングムの誓い』は、料理もファンタジーだった。

【2023年頭】日本語再考

謹賀新年
2023年、年頭にあたって

2017年10月31日からはじめたこのブログも、5年以上が経過して、おそらく年内に1700本を超えるとおもわれる。

よくも話題があったものだと我ながらおもうこともしばしばだ。
もとは、「思索の時間」という個人のかってな楽しみだったものを、どうせならとブログにしただけだった。

ちょっとアーカイブのようになってきたから、話題がダブらないかチェックすることもある。
言葉については、何度も書いている。
それが「母語」となると話は深くなるからだ。

要するに、人間は思考する唯一の動物で、その思考から文明も文化も生まれて、日々の仕事も生活も、ぜんぶが「母語」に頼っていることの確認になるからである。

このところ、日本語がやたら達者な外国人が増えている。
その中でも、「母語」が日本語だというひとたちがいるのは、べつに不思議なことではない。

片親が日本人で育った環境とか、幼少時に来日してそのまま成人になったとかの人生があれば、「母語」が日本語になっておかしくない。
日本語しかつかわない、ふつうの日本人がうっかり忘れてしまっていることを、こうしたひとたちがハッキリと自覚していることに新鮮味がある。

やっぱり一種の、アウトサイダーなのだ。
とはいえ悪い意味ではない。
外側から観察できる視点は、貴重だといいたいのである。

母語とは、かんたんにいえば、脳内で思考するときにつかう言葉である。
だから、どんなに日本語が巧くても、深くかんがえるときに、もしも英語をつかうなら、そのひとの母語は英語である。

すると、不思議でもなんでもなく、やっぱり文化的態度が英米人のものとなる。
日本語が母語だと、見た目ではどこからしても外国人の文化的態度が、どうみても日本人になるのは当然なのである。

そこに、言語のもつ力があって、人間が言語による思考と行動をすることの証左となっている。

これが支配者によって悪用されると、言語の入れ替え政策がおこなわれて、ある日「公用語」がかわる。
たとえば、台湾では日本語から中国語への転換強制が実施(1946年10月26日)された。

人間から言葉(しかも母語)を奪う、というのは、究極の自由剥奪なのである。

しかしながら、日本人がこれを「他人事」としている。
じつは、日本人も言葉を奪われたのだ。

それが、「旧仮名遣い」あるいは「歴史的仮名遣い」の禁止と、「新仮名づかい」の強要なのである。
かくいうわたしも、新仮名づかい「だけ」を教わったから、この文章も新仮名づかい「でしか」書けない。

明治に起きた「言文一致運動」の破壊もあって、江戸の庶民が愛読していた「滑稽本」でも、いまではスラスラ読むことができない。
その本に書かれている、行書体がもう読めないというだけではない。
「鑑定団」に出品される書画の多くが、そのまま読めないのだ。

つまり、外国語のように言葉による壁をつくって、過去の日本人が残した文書を、後世の日本人に読めなくした。

だから、「新訳」という「訳本」をみないといけなくなった。
ところが、その「訳本」の対象は、もう明治期の作品にまでなっている。
「旧仮名遣い」と漢字がそのまま読むのに難易度があるからだ。

このことをよくよくかんがえてみたら、作家のオリジナル日本語を堪能していないということに遅ればせながら気がついた。
昭和40年代、つまり高度成長期に、文庫本がつぎつぎと「新装版」になった記憶がある。

かつての表紙は、どの出版社も「パラフィン紙」だけだったのが、きれいな紙の表紙カバーになった。
しかし、中身も「新訳」として、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに訳したのを「新装とした」のだ。

たとえ文語でも、作家の脳内は「書くとき」には、ぜったいに文語で思考している。
あるいは、言文一致運動以降でも、まだ「旧仮名遣い」で思考しているはずだ。

そうでなければ、書けない。

いま、「旧仮名遣い」をあえて学ぶのは、国文学の学生に限られるような状況になったけど、昭和の敗戦までは、「旧仮名遣い」がふつうだったのである。

そんなわけで、今年のわたしにとっての「はじめ」は、旧仮名遣いへの挑戦である。
読者に旧仮名遣いで書いたものをお見せするという意味ではない。
ここで公言したものの、あくまでも個人的嗜好のはなしだ。

先ずは、こんな入門書から入門を試みたい。

なお、旧仮名遣いにこだわった作家としては、福田恆存が代表だろう。
このひとは、シェイクスピア全集の翻訳もしたけれど、もとは教員だった。
戦後になって、保守言論人の重鎮にまでなったけど、政治家ではなかった。

挫折しそうになたっら、上記をガイドにして踏ん張れればいいとおもっている。
しかしながら、ほんとうに今さらながら、旧仮名遣いの価値に気づかなかったのかと新年早々にして恨めしいのである。

この意味で、学校教育の日本語破壊は、かなり練られた意図があるとわかる。
最初のトリガーを引いたのはGHQであっても、実行して80年近く継続しているのは、日本人の教育者なのだ。

日本語の破壊とは、日本文化の破壊を意味して、日本人の破壊に至る。

その破壊された日本人のひとりが、ここにいる自分なのだ。
残りの人生で、ちょっとだけでも日本人を取り戻しておきたいものだと改めて思った元旦だった。

今年もよろしくお願いします。

天然ガスの戦時保険

抜け駆けなのか、底が割れたのか?
ロシア制裁という茶番の一つの姿が、日本への天然ガス輸送に関する損害保険の継続適用だ。
もちろん、日本に住む日本人としては喜ばしい「事件」に見える。

ヨーロッパの愚鈍たちは、自滅のロシア制裁をどうしてやり続けるのか?という各国国民の疑問に、ぜんぜん答えていない。
それがまた、反動になって、反EUの勢力が支持者を増やしているのに。

もちろん、これをEUにやらせているのがアメリカ民主党バイデン政権だ。

何度も書くが、EUという国際機構は、EU委員会という官僚組織が、各国政府の上に君臨する建て付けになっている。

どういう立場なのかはっきりしない、「EU大統領」という欺瞞の役職もつくったけれど、「EU委員長」の英語表記「President of the European Commission」でわかる通り、こちらが真の大統領なのだ。

しかし、EU委員長は、加盟各国の国民による選挙を通じて選ばれているのではない。
つまり、その権力の源泉が、最初から邪悪なのである。

一方で、これも何度も書くが、EUをカネで支えているのは「ヨーロッパ中央銀行(ECB)」だ。
この組織も、加盟各国の中央銀行の上に君臨していて、「表向き」は、統一通貨ユーロの価値を維持するための施策を実行しているかに見える。

けれども、各国レベルのマクロ経済を、どうやって圏内経済としてのローカルに落とせるのかといえば、目に見えない「為替操作」をやるからだ。
つまり、各国中央銀行がやるべき為替操作をさせないことで、君臨しているのである。

ふつう、中央銀行が持っているオプションは、通貨量のコントロールで、そのまたオプションが、金利操作である。

これによって、政府が発行する国債の価値が決まる。
なぜなら、中央銀行が国債の購入を通じ(引き受け)て、市中銀行の中央銀行口座残高をコントロールするからである。

しかし、ヨーロッパはユーロという統一通貨にしたために、各国中央銀行はECBの支店に落とされた。

EUから離脱した英国は、市場としてのEUに未練たらたらだ。
その英国には、世界の保険の「再保険」を握る、ロイズがある。
再保険とは、保険会社が掛ける保険の引き受けである。

成り行きからできた「ロイズ」は、もとはコーヒーショップ(喫茶店)だった。

開業した場所が金融業の集積地でかつ、船員がいたために、気の利いた店主(ロイド氏)が街のビジネス情報を提供した。
そうしたら、保険屋たちが集まってきて海上保険の再保険投資が常連たちによってできたのである。

座礁事故や海賊の襲撃がふつうにあった時代のベニスを描いたのが、シェークスピアの『ベニスの商人』だ。
この喜劇(少なくとも作者は喜劇とした書いた)のそもそもは、とある船の積荷を買い占めていた人物が、座礁によって破産したことからはじまる。

それで、ユダヤ人商人が貸したカネの回収にあたっての要求と裁判が、この物語の白眉になっている。
もちろん背景には、キリスト教徒からみたユダヤ人差別が常識としてある。

生命保険は、被保険者が死んだら支払う、を前提とするけれど、損害保険は損害のリスク発生確率が前提となっている。

なので損害保険会社は、自社の儲けを確保した上での発生確率をもって保険料とするが、たまに外れ値的な事故が起きたら、やっぱり支払い義務を負う。
このリスクを再保険の対象にするのである。

つまり、顧客と契約する保険会社は、再保険を掛けられない保険商品を販売しない。

生命保険の外れ値も、長生きしないで逝ってしまうことだから、おなじように再保険の対象としている。
どちらも、確率統計が事業の基礎をなしている。

すると、海上運送で保険を最初に申し込む荷主は、再保険料も加味した全部の保険料を負担させられる。
これが運送コストに加算されて、そのまま流通価格なって消費者が全てのコストを負担する。

消費税とは、こうしたコストに対してさらに国が消費者から掠め取るものだ。

消費者は、所得税を取られた残りで消費生活をしているので、広い意味で二重課税になっている。
同じく、贈与税も相続税も、所得税の後からやってくる二重課税だ。

さてそれで、サハリンから出た天然ガスの日本への輸送分が、どうして再保険禁止のお目こぼしの対象になったのか?

わが家では年内で契約期限がくる経済新聞によると、なんでも日本国政府なかでも、資源エネルギー庁と金融庁が保険の継続を画策したおかげのような書き方で、いつも通り懲りずに国民を騙していないか?

日本の損害保険会社は、どこも再保険の業務をやっていないのだ。
生命保険なら、日本にも再保険を引き受ける会社はあるけど。

むしろ、ロイズがロシア制裁に賛同しているなかで、どこと再保険契約をしたのか?という肝心な情報が何もないのである。
まったく記事としては「速報レベル」で、役に立たない。

つまるところ、再保険禁止をかかげたロイズが引き受け手なら、日本にだけ抜け駆けを許したことになるし、ロイズ以外、ということになると、これはこれで「事件」である。

世界の再保険業界の、ほぼほぼロイズ独占が破られたことになるからだ。

もし前者なら、ドイツをはじめとした国々からの怨嗟の声となるだろうし、後者なら、今後ロイズからの逆襲(制裁)を食らうことになろう。
しかも、「ロイズ破り」をしたがる意思と可能性のある国は限られている。

一貫性を欠いた、自公政権のいいとこ取りが、貿易立国を支える我が国の「海運」を保険の根幹から破壊するかもしれない。
しかも、相手がクリスマス・ニューイヤー休暇での仕業なのだ。

おそらく、年初早々に、なんらかの動きが英国やEUからやってくるだろう。

これが今年最後の本ブログ記事になった。
皆様には良い新年をお迎えください。

ヤバイ民主主義

民主主義がぜったいに正しい政治手法か?といえば、そんなことはない。
にもかかわらず、日本人は民主主義がぜったいに正しい政治手法だと思いこまされてきた。

この論理は、帰納法である。
なので、反対側からの演繹法だと、民主主義がぜったいに正しいとはいえなくなる。

帰納法は、論理による積み上げ方式の思考で、演繹法とは「はじめにありき」からの落とし込みの思考法なのである。

だから、あるべき姿を最初に設定して、それを実現するための方法をかんがえると、帰納法からの答と異なることはよくある。
いまある問題のより良い解決策を論理的に導く方法だと、あるべき姿という最終ゴールがわからなくなることがあるからだ。

なので、企業実務では両方のアプローチから解決策を「寄せる」ことがおこなわれてきた。

しかし、これがこと「国家」となると、検討すべき事項がやたらと増えて、なにがなんだかわからなくなって、ついには多数決で決めることに合理性があるようにみえるのである。

判断には、事前の情報がないといけない。
これを本業としたら、生活のための業務をおこなう時間がたりない。
それにまた、国民の全員が事前の情報に触れるのは困難だし、個人の能力には「ムラ」があるから、情報が与えられてもおなじ結論に至るとは限らない。

それゆえに、「代議制」が発明させた。
意見や思想をおなじくする大勢のひとたちの代表として選ばれたひとが、みんなに代わって情報の収集と判断をすることが、いちばん合理的だったからである。

対して、直接民主制をやっている国もある。
よくしられているのは、スイスだけれど、そのスイスのやり方の細かいところまでしっている日本人はすくないし、スイス人のかんがえ方の根本についてもくわしくしっているわけではない。

大雑把にいえば、スイス人は万遍なく優秀である、という前提がある。

この自画自賛の発想は、かつてヨーロッパ最貧だった山国のどこから生まれたのか?
あまりに喰えないために、ヨーロッパ各地の王侯に雇われた傭兵となって、出身地の村はちがえどスイス人同士が殺戮を繰り返していたのに。

逆に、そんな貧困が一歩まちがえると再び実現するので、「儲けること」についての貪欲さが他のヨーロッパ諸国よりも強烈になって、「一国平和主義」を国是とするようになった。

つまり、よその国がどうなろうが関係ない、というのがスイス人なのである。

なので、独特の民主主義を採用したのも、論理的帰結であった。
それが代議制と直接民主制の両方を採ったことにある。
ただし彼らの心の深層には、激烈なカルヴァン主義があるから注意がいる。

直接民主制のミクロな本音に、他人がどうなろうと関係ない、があるゆえに、政府や特定政党による宣伝工作で、投票行動への誘導がおこなわれているから、見た目では他の民主主義諸国と似たような現象にもみえる。

愚民がかならず混じっていることを懸念して、ふつうの民主主義国家では代議制が採用された。
しかし、代議士の愚民化で、代議という制度自体に疑問がうまれてきた。

そこへ、ネット社会の爛熟で、SNSという手段が愚民にも与えられたのである。

これは、あたらしい直接民主制を意味する。
ゆえに、SNS企業への政府の介在という憲法違反が内緒でおこなわれていたことが、「Twitter File」からバレた。

今後は、Twitter社から他社への疑惑解明というかたちで、さらなる情報開示がおこなわれるかどうかに興味が移りつつある。
おそらく、来年はこの話題で持ちきりになるだろう。

けれども、愚民の投稿問題という直接民主制を隠す話にもなりかねかい。

しかも、愚民のレベルが、「論破」を旨とする論理構築へと動いて、その内容がどんなにバカバカしくとも、論理さえあればこれを賞賛するのが、一段低い愚民なのである。

つまり、ネット社会の爛熟とは、愚民に階級をつくりだしたことを意味する。
文字も、文章もまともに書けないレベルを最底辺とすれば、あらゆる「屁」理屈を駆使してでも相手を「論破」できれば、それはあたかも「王」のように、ネット上で君臨できる。

しかも、こうしたやからの存在を許すのが、民主主義なのである。

悪貨は良貨を駆逐するという、「グレシャムの法則」を持ちだすまでもなく、愚論がまともな議論を駆逐して、最終的には「抹殺する」ところまでいく。

そのまともな議論とは、公衆の役に立つものだから、じつは公衆の福祉に反するのが、愚民たちの大量意見表明なのである。

厄介なのは、こうした言論をやめろ、と命令できないことにある。

さすれば、論破には論破でのぞむしかないのか?といえば、そうではない。
論破に論破でのぞむとは、愚民の土俵にあがることになって、もっと混沌が深まるからである。

残念ながら、時間をかけて「再教育」を社会に施すしかない。
それが、「修身」ということになる。

民主主義は、参加者全員が「修身」を修めてこそ実現する、高度な倫理を要求するものだからである。

「プランB」が走っている

「両論併記」を無視して、一方的になることを「偏向」という。

これをやっても精神的な痛みを感じなくなったのは、「ポリコレ:political correctness」を正義と信じる、まさに政治的偏向をよしとしているからだ。
つまり、積極的な偏向をすることこそが、視聴者たる愚民を導く義務だと信じているのである。

これを、首尾一貫行うには、当然に組織力をもってしないといけない。

ところが、ほぼ西側世界の全マスコミが一斉にやっているから、「一社」のなかでの組織力ではない。
もちろん、「西側」という用語には、「自由圏」とか「自由社会」という意味が込められていて、かつての「共産圏=東側」と区別した。

しかしながら、その東側のひとたちは、ずっと長い間、自由を渇望していたので、自由の有り難みとか、自由の意味をしっている。
だから、体制転換によって得た自由をぜったいに手放さないように思考する当然がある。

一方で、西側先進国では、自由が行きすぎたので、これを制限することが自由を護るということになって、自由を制限することが「正義」にまでなってしまった。
それに歯止めがかからないから、なんとなく共産化がすすんでいるのに、気がつかないひとが増えている。

どうして増えるかといえば、それが正義だという主張にノンポリで従っているうちに、とうとう伝染するからである。

これは「啓蒙主義」のおおいなる復活で、啓蒙主義の間違った啓蒙をいった、ジャン・ジャック・ルソーの精神異常が、21世紀に蔓延しているといえる。
たとえば、『人間不平等起源論』は、ルソーの狂気がよくわかるものだけど、ノンポリで何気に読むと、自分に狂気が伝染するからおそろしく注意がいる。

キリスト教文化圏だったヨーロッパ発祥の自由の概念とは、清教徒が新大陸アメリカに逃げたように、信教の自由をオリジナルとする。
それが、レッセフェール(laissez-faire:フランス語で「なすに任せよ」)になって、自由放任主義から、自分だけの利己主義へと変化した。

他人も自分とおなじ権利があるとする個人主義が、利己主義のためにいまや区別されないで、悪になったのである。

さてそれで、いわゆる「企画」を立案するのは、組織の中の小数がおこなう。
すると、「企画屋」という専門職が組織内にできるのである。
企画屋にすっかりなってしまったら、これはこれで「かんがえる職人」なので、いつもいろんなことをかんがえている。

上司やトップの裁可を経て、表に発表するのが、「プランA」だとすれば、企画屋の頭の中かパソコンの中には、たいがい「プランB」が収まっている。
むしろ、上司やトップの裁可を得るとき、「両論併記」をもって選んで貰い、採用された方がプランBだとすれば、それが、プランAになって表紙となる。

計画は、「5W1H」を基本に策定するので、目的と予算、それに人員数あるいは場所の確保も伴うものだ。
なので、単純なプランBやCとは、予算と人員数のバリエーションになる。

厄介で大がかりなのは、目的からしてちがう「プラン」を策定させられるばあいだ。
このときの目的には、次元が上の大目的があるので、それぞれ別の登頂ルートのようなプランになる。

このばあいには、計画立案部署も別にすることがある。
トップにちかいひとが、「両論」を比較検討するので、プランA策定者とプランB策定者には全体像がみえないこともある。
なぜなら、みさせないことでの集中をさせたいからだ。

前に、萩藩のことを書いた
一般に「長州藩」と呼ばれているけど、当時は「長州」といういいかたはなく、明治政府の「造語」だ。
なぜに明治政府は、「萩藩」という呼び方を嫌ったのか?

おそらく、「裏金」の歴史的・組織的運用のはじめであったことと、明治政府にこの制度をコピーしたことを隠したかったからではないのか?

藩内でもぜったい秘密にされたのが、「撫育局」という組織だった。
藩主と筆頭家老の他に、この組織の存在をしるものは局員だけという徹底ぶりで、その局員は家族も含めてなにをしているか公言無用とされていた。

ゆえに、萩藩は、公儀にみせる「表の顔」をプランAとし、藩内で極秘の裏組織とした撫育局をプランBとしていた。

それでもって、局員にはその子供(将来の局員)にも表との交流をさせないために、表の藩校(明倫館が有名)には行かせずに、藩内(表)で変人扱いの吉田松陰が主宰する松下村塾に通わせる徹底ぶりだった。

つまり、伊藤博文らは、藩主直属の極秘組織にいた「超エリート」だった。

これが後に、表側がやった「萩の乱」(明治9年、西南戦争の前年に萩で不平士族が起こした反乱)で、新政府はなんと表側を皆殺しにしたのである。

けれども、現代の「萩人」たちは、新日本をつくった「裏側」を自慢するばかりに、明倫館と松下村塾(=松陰神社)の両方を崇めて、萩の乱を無視していることに疑問はないようだ。

こんなにひとは情報操作されるものか?の典型が、この地にある。
以来、伊藤博文が大蔵省に導入した「撫育局のコピー」が、特別会計として21世紀のわが国にもある。

つまり、わが国は、プランBが、いつの間にかプランAに表紙を換えているのだ。
このことが、岸田政権というお粗末で、よくみえてきた。

けれども、その本体はいずこにあるのか?は、だれにもわからないままなのである。

「Constitution」を憲法と訳した

外来語(主に英・仏・蘭・独語)を日本語に訳すという作業を、幕末・明治期に、なにかに取り憑かれたようにやったのが日本人の知識人たちだった。

この時代の日本人の教養は、「漢籍」(主に「四書五経」の素読から)であったので、学問といえば子供時分に暗誦した漢籍の解釈に関する研究のことだった。

だから、外来語を日本語に訳すとは、漢語化するという意味だった。
つまり、「漢字で表記した」のである。
このとき、「原語の発音」ではなくて、基本的に「意味」を「漢訳」したことが、凄いのである。

それで、日本由来の近代用語が現代中国語にほぼ全部入り込んでいるから、どんなに反日を叫んでも、その言葉は日本人の発明から逃れられない。

今年亡くなった、反日の旗手だった江沢民氏は、実父の江世俊が日本の傀儡政権といわれている汪兆銘の南京政府のスパイ機関に勤務していたことを打ち消す、自己の出自を隠すための政治活動だったということがわかっている。
つまり、親日の汚点を隠す自己演出で、さすがは利己主義の民族を代表した。

これは、韓国伝統の漬物「キムチ」にもいえることだと、前に書いた。
唐辛子と白菜が、日本由来なのである。

さてそれで、「Constitution」の語源をさぐると、「一緒に(con-)、立てる(statuo)、こと(-tio)に分解できる。

さいきんの学習用英和辞典は、どんどん懇切丁寧を旨とした編集と表現の工夫で進化している。
もちろん、対抗するデジタル辞書との競争があるからだけど、だからといって日本人の英語力が最低レベルでぜんぜん高まってはいない不思議がある。

つまり、別に原因があるとかんがえるのがふつうだ。

すると、辞書編纂に努める「英語学者」のひとたちは、いったい何をかんがえているのかをしりたくなるものだ。

いまさらながら、わたしが中学校で最初に習った英語は、アルファベットの大文字と小文字の後に、いきなり、あの、This is a pen. だった。
前にも書いた、英語は文字の名前と発音が別という、およそ「50音表」(母音と子音のマトリックス表)をふつうとする日本人にはあり得ない概念のちがいは、教えない。

もちろん、小学校では「国語」として、「ローマ字」を習っている。

なので、T「ティー」と、h「エイチ」と、i「アイ」と、s「エス」が、どうして「ディス」になるのか?からして、挫折がはじまるのである。

つまるところ、日本人の教育体系を根本から「改悪した」GHQの邪悪は、日本人にぜったいに英語を理解させないことを目指して、「英語」という教科を再構築したにちがいない。

学校英語がムダな教授法であればあるほど、かえって英米人が日本人に英語をおしえる「職業確保」ができるのである。
それでとうとう、「英語産業」という分野ができたけれど、いっこうに日本人は英語ができないままなのである。

なにをいおうが、日本という国は、「理系」をもってしないと食べていけない。

だから、ほんとうは数学と理科(物理・化学)をメインに教えるべきで、これを理解するための国語力があれば世界に通じる実力は得られる。

すると、英語に時間を割くのは、ムダなのである。
このムダを強要する受験制度は、日本人の潜在能力を抑制させるためとしかおもえない。

しかし、その数学と理科の教授法(教科書)も、おそるべき「難解な構造」をわざとさせて、生徒の興味を削ぐことを目指しているようにもみえる。
アメリカ人が書く教科書の、ぶ厚いけどわかりやすさを優先させる態度こそ、国力の差をつくるのである。

とはいえ、日本人とは何者であり続けるのか?という根本も、GHQによって最優先の破壊の対象になったので、学校の勉強ができることが、そのまま日本人としての成長にならないように設計されている。

これを推進・実行しているのが、文部科学省という役所の存在意義になったのだけど、さらにその上位に「日本国憲法」がある。
だから、日本を破壊したいGHQの意向を「保守」するひとたちのことを、あたかも、「革新」と呼んでおだて上げ、「護憲」の主張を曲げないのである。

その「護憲」とは、かならず「第9条」のことを指す。
どこかの国の属国になる、という規定でしかないものだ。

ならば、欧米先進国という「お手本」を参照すれば、どこに「第9条」とおなじ条文があるかといえば、どこにもない。
同盟国だったドイツでさえ、改正を繰り返してとうとうドイツ軍は外国への派兵もできるようになっている。

ただし、ドイツは前に書いたように、敗戦したドイツとは、別の国、なのではあるけれど。

そんなわけで、「憲法論議」があるようでない、へんな状態になっている。

しかし、「語源」からのConstitutionの意味する本質とは、「構造」のことなのである。
それで人間の身体にたとえると、「体質」という意味と、「気質」という意味があると辞書には「憲法」より先に書いてある。

つまるところ、「国柄」のことなのだ。

もっといえば、「日本人の気質」のことで、「気質」には「きしつ」と「かたぎ」と両方の読み方がある。
類語は、「気性」。

すると、「道義を旨として、正直に生きる」だけで、立派な憲法になるのである。
余計な条文はいらない。

こうしてみると、いまの政府がいかに日本人の気質とそぐわないかがわかるし、議員を選挙で選んでも、議会が思考停止になって国会ばかりか、全国津々浦々の市町村にまで蔓延した。

わが国は、憲法違反を旨とする、無法国家になったのである。

毒に毒された「河豚計画」

いよいよ今年最後の「週」になった。
べつに「てっちり」を食べたい、というはなしではない。

わが家の今年の大イベントは、やっぱり「中央構造線博物館」への旅だった。

この旅は、盛りだくさんで、二度目の岐阜県八百津町では、この町で生まれた「英雄」、杉原千畝氏(1900年:明治33年~1986年:昭和61年〉の記念館は改修中で入館できなかったから、三度目の訪問の口実が自動的にできた。

日本のシンドラーとして、えらく有名になったひとだけど、実像ははっきりしないところがあって、「命のビザ」も訓令に従わないことで、外務省は長く否定的であった。
それが、テレビ世論に負けていまでは顕彰するまでの180度転換をやっている。

べつに以前否定的だった外務省を擁護するつもりはないけれど、大臣訓令に逆らったことは、外交官としては「失格」どころの騒ぎではない。
即座に「解職」されても当然なのである。

ここに、「人道」というノイズが入るのは、後付けの理屈であることに注意がいる。
国際法上も「人道への罪」ができたのは、東京裁判でのことであった。

つまるところ、杉原氏の「人道主義」は、当時では通用しない「法解釈」なのだ。

残念ながら、国外における国内法執行者としての外交官(杉原氏は「副領事」だった)として、邦人保護は法律内のことだけど、外国人の保護は想定外だったのである。

ここは、「正義」をふりかざすと微妙なことだから、杉原氏をして何度も本省に問い合わせ(少なくとも三回)て、いずれも「ダメ出し」されているものだから、当時の外務省の立場は明らかなのだった。

しかし、不思議なことが起きた。

本省がダメ出しした「ビザ(査証)」を得たひとたちが、どういうわけか「有効」扱いされて、無事に日本入国を果たしているのである。
このビザを見せないといけない「関門」は、まずは出発地のリトアニア出国=ソ連入国だ。

あくまで「無効」とさせるなら、この両国に「無効通知」をすれば済む。
この通知の方法は、現地の日本大使館から当該国外務省へか、東京の相手国大使館を通じて行うか、その両方だ。

でも、ビザをもっているひとたちは、日本に入国までしている。
これは一体どういうことか?が、大疑問だったのである。
フライングして出した数人分のビザを、東京の本省が放置したのもあったろう。

もちろん、杉原氏の力量が及んでのことではない。
ちなみに、ソ連から出国した先は、いまでは悪名高き満州国なのである。
それから日本にやってきていて、多くは上海まで行っているのは、そこから主にアメリカを目指したからだ。

つまり、杉原氏が大臣訓令に逆らって発効したビザは、あくまでも有効だったことの「謎」がある。
ビザが有効とは、ぜったいに国家が関与した証なのだ。

すると、ここに「軍」の存在を疑わなければならない。

明治憲法下のわが国は、伊藤博文が意図した、新政府を「幕府化させない」という大義名分のもと、とにかく権力の分断をもって統治する方法の追求がみられる。

それが、政府と軍の分断からはじまる設計になっていることだ。

行政を司る政府と、軍の統帥権(指揮権)を分けて、あたかも天皇に集中させたが、とっくに「天皇親政」はやめている。
なので、「国軍」なのに、政府が関与しない、という建て付けが敗戦まで続いた。

ついでに、内閣総理大臣も、明治憲法下では、一国務大臣扱いだから、新憲法でいう「首班」としての、大臣任命も大臣罷免もできなかった。
すなわち、大臣はみな対等だったので、一蓮托生となって、やたら内閣総辞職がおおいのである。

そんなわけで、杉原氏のビザは、日本陸軍が抑えている満州国で「正規」とされないと、話にならない。
あくまでも、杉原氏は「トリガー」にすぎないのである。

このことの事情を、当事者側(ユダヤ人)がまとめて、一冊にしたのが、『河豚計画』だ。
こうした書籍が、ことごとく絶版になっている。

なので、わたしは、「出版不況」とかいうのは、欺瞞のひとつだとおもっている。

なお、「河豚計画」とは俗称で、ユダヤ人という毒を以てユダヤ社会が仕切るアメリカに「親日」の影響力を発揮させようという「情報戦」のことである。

日本の陸軍は、戦後になって「最低」の烙印を押されて、あたかも海軍の開明さが強調されることも、なんだか怪しいのである。

その最たるものが、真珠湾攻撃で、いかにしてアメリカとの戦争を避けるかに腐心してきた努力が吹っ飛んだどころか、チャーチルとルーズベルトを歓喜させた亡国の愚策をやったのが海軍だ。

ただ、幼年兵として水兵だったわたしの父親は、海軍がだいすきで、「陸軍のことはしらない」といっていた。
まったくの「他社」同然、しかも業界もちがう、という感覚だったらしい。

これも不思議なのは、いわゆる軍国少年の合い言葉が、「陸軍大将になりたい」で、戦後の「プロ野球選手になりたい」とおなじようにいわれていたことだ。
それで、なぜか「海軍提督になりたい」はいわない。

くわえて、主に陸軍は占領地に「軍政を敷く」ということの常識を話題にせずに、あくまでも「戦闘」を話題にさせるのも、怪しいのである。

GHQだって、実質の主体はアメリカ陸軍だった。

沖縄戦のあとに上陸したアメリカ軍がつくった、「琉球列島米国軍政府」(1945年3月~50年12月)の初代軍政長官は、海軍元帥のニミッツ提督だったけど、その後の6代長官は全員が陸軍の将官なのだ。

来年以降、「杉原千畝記念館」を訪問の際に、おそらく『河豚計画』の毒を無視している展示だろうことを想定して、つまり、杉原氏の単独行動だったことを強調していることを前提に見学したいものだ。

この意味で、韓国とか中国の「反日博物館」と、あんがいと相似形をなしている可能性があるから、そうなっているかを観に行く、という毒のある興味本位ではある。

炭素税は嬉しいディスカウント

企業売買というビジネスは、なにも会社を丸ごと売買するだけではなくて、大企業の場合は事業単位に分けて売買することのほうがふつうだ。

日本が世界に誇った「家電メーカー」の場合をみれば、いまや「メーカー名」があるからといって、そのメーカーの製品とは限らないという、消費者にはわけのわからないことになっている。

それが、「のれん分け」手法を用いるからである。

江戸時代にもあった、「のれん分け」も、一種の事業売買で、商家や職人の親方が弟子に支店たる店の出店を「許す」ことも、その「のれんの独占利用」という前提からすれば、立派なビジネスなのである。

なので、弟子入りしたいひとは、子供時分から丁稚奉公に入って、仕事を盗むように鍛えられて、一人前が認められたら「のれん分け」される。
こうして、その「のれん」というブランドの事業拡大が、さらなるブランドの拡大のためのエネルギー源になった。

近代の「支店」とちがうのは、オーナーとして同一ブランドを使用するからで、一種の企業連合を形成するけど、それが「本家」を中心としたものでも、グループ銀行を中核とした「財閥」とはちがう。

あくまでも、実業集団なのである。

5.15事件で有名な海軍士官、三上卓の作という『青年日本の歌』(「昭和維新の歌」ともいう)には、以下の言葉がある。
なお、発表翌年の昭和11年に「禁止」されていたものが、いまは右翼の街宣車でがなり立てている。

財閥富を誇れども 社稷(しゃしょく:国家)を思う心なし
ああ人栄え国亡ぶ 盲(めしい)たる民 世に躍る

どうして禁止にできたかといえば、江戸幕府 ⇒ 明治政府 という政府の、妙な遺伝で、内務省が言論を仕切る権限を持っていたからである。
それで、どうして禁止したかといえば、政府転覆と財閥が跋扈する経済体制の変革を謳う歌詞だからだった。

その「財閥解体」は、あろうことか、GHQが指令したので、三上の夢は敗戦によって実現したし、GHQが自由を与えたのでこの歌を再び歌えるようになった。

しかし、それではGHQの意図とは何であったか?を思い起こせば、「日本の弱体化」にほかならない。
これを仕切ったのが、「民政局」で、その指揮官がホイットニー准将と部下のケーディス大佐だった。

彼らの正体は、「共産主義・全体主義者」だということが、公開されている機密公文書から明らかになって、共和党支持のウィロビー少将が率いる参謀第2部(諜報活動、検閲を担当)と対立したことがわかっている。

誤解なきように注意したいのは、あくまでGHQ内での対立であって、日本国を弱体化させるという大方針が曲がったわけではない。

だからあたかも、日本の民主化はホイットニー側の「おかげ」のように扱うのも、プロパガンダで、この点で、「ああ人栄え国亡ぶ 盲(めしい)たる民 世に躍る」ままにされた。

それもこれも、「俺様気質」のマッカーサーを、ホイットニーとケーディスが手もみしてコントロールしていたことが、いまでは判明しているけど。

そんなわけで、世界に冠たる日本の「官僚組織」をそのまま使って、ひそかに社会主義化をさせて、永遠に衰退するための種まきをしていたのである。
しかし、米ソ冷戦と中国の利用というふたつの戦略から、いったん日本経済の発展を黙認した。

冷戦終結によって、日本の役割が世界の工場になって、それから中国の発展に変更させられたのは、いよいよ欧米の伝統的欲望である、大陸利権という果実の刈り取りのためだった。

それで、日本の政治家やらが、ハニー・トラップにかかるのを、アメリカ側も黙認したのである。
それでやっぱり、「ああ人栄え国亡ぶ 盲(めしい)たる民 世に躍る」になって今に至っている。

ところが、三度目の大戦略の変更で、目的が世界共産化の実現となった。

これの道具が、地球環境保護とか、ありもしない温暖化対策になって、京都議定書でもって、わが国の国富が兆円単位でむしり取られることになったけど、「盲(めしい)たる民」は、これを喜ぶようにプロパガンダされたのである。

さて、炭素税という世界共通化されたムーブメントは、当然に世界共産化のためにあるけど、これを仕掛けるのは、前代未聞の大富豪たちだ。
このために、わが国の企業も「SDGs」を掲げないと、貿易取り引きができないようにされている。

つまり、世界は、「SDGsブロック経済」になった。

ために、あたかも経営者に課せられたごとくのイリュージョンとして、二酸化炭素を多量に排出する既存の事業分野から、あたらしい持続可能な事業分野へのシフトが、大富豪たちが出資する傘下あるいは子分のファンドなどの投資家(ものをいう株主)によって実施されている。

しかし、あたらしい持続可能な事業分野とは、物理・化学的に持続できない事業分野を意味するから、共産主義者がいったんやる世界貧困化で、「盲(めしい)たる民」をして、政府依存にさせるのである。

日本が世界で唯一、この30年間、経済成長せずに賃金も減ったのは、こうした政策が大成功したからで、失敗ではないし、国民は政府依存をふつうのことだと思うようになったのも、思惑通りの大成功なのである。

それに、大富豪たちはあくまでもがめついから、二酸化炭素を多量に排出するこれまで確実に儲かってきた事業分野が、これからも儲かり続けることをしっている。
こうした事業分野を、安く買うためには「評価額」を下げればいい。

それが、手段としての決め手が「炭素税」なのだ。

大富豪たちが出資するファンドとかが、二酸化炭素を多量に排出する事業を、買いたたいて購入して、「ああ人栄え 国亡ぶ」ことを目指している。

この歌詞でいう「人」とは、大富豪たちだけのことで、奴隷たる一般人は、当然に非人扱いだという意味なので念のため。

そうやって、買収が完結したら、今度は炭素税を軽減させればもっと儲かる。

いつでもどこでも、「盲(めしい)たる民」は、痛めつけられることになっている。

破壊工作は旅館業法へ

全体主義は、忍び足でやってくる。

日本人が、かくも政府を信用するのは、それが民主主義だからとかいうものではなくて、おそらく朝廷と徳川幕藩体制の完成度の高さがそうさせているにちがいない。

つまり、中央と地方という近代の視点ではなくて、各藩の独立経営が、しらずと「善政競争」を促していたことのメリットが資産化されて、それを食い潰してきたのが明治以降から現代なのだ。

なにしろ、藩内(これを「御領内」といった)で、一揆とか打ち壊しがあって、これを公儀隠密にでも暴かれたら、その藩をあずかる大名家が「お取り潰し」という目にあったのだ。

いまでいう「倒産」とか、「失業」どころの騒ぎではない、絶望の淵に追いやられるのが家臣一同一族郎党にまで及ぶ悲惨な運命になるので、「お家のため」という言い分で、無謀な殿様(主君)の「押し込め」がどちらの藩でも行われたのだった。

当然ながら、そんな殿様になっては困るので、幼少時より厳しい躾が養育係によって行われて、藩主こそが「滅私を強制されていた」のは、なにも大名家だけのことではなかった。

なので、庶民が滅私奉公に文句をいえなかったのは、将軍や殿様こそが「滅私」だったからである。
これを支えた哲学が、朱子学という「儒学」で、宗教としての「儒教」ではない。

あまりにも自分の好みをいえない殿様の窮屈な暮らしが、お笑い話になったのが、『目黒の秋刀魚』に代表される。
こうした話が欧米にないのは、「滅私」どころか、権力者ゆえの「好き勝手という意味の自由」が許されたからで、『シンデレラ』がその典型になるのである。

支配者になればなんでもできる。
これに一石を投じたのが、シェイクスピアの史劇『ヘンリー8世』で、元の題名は『All is True(すべて真実)』だった。

この英国史上最悪の王は、さいきんの研究で脳に障害があったというが、歴史を引きずる被害者たる国民の溜飲は下がらないし、納得は得られそうもなく、いま起きている歴史的インフレの人災も「伝統」なのか?と疑いたくなる。

また、欧米人の思想の原点に、旧約聖書があるけれど、全知全能の神に近づくことが、じつはこれらの宗教を信じるひとたちの欲望に転化したとも解釈されている。

なので、禁断の木の実を食べたがゆえに、楽園を追放されて一生労働しないと生きていけないようにされたことへの反動として、一生働かないで済むことが、「勝者=勝ち組」という思想になるのである。

さらに、これが強化されて、とうとう勝ち組が負け組を支配して当然、という発想になって、いまは、この発想で大富豪たちがまとまっている。
その根本となる、「勝ち組」を日本で宣伝する邪悪は、まったく日本人の伝統思想に反するものだ。

バブル真っ盛りの時期は、「楽しくなければテレビじゃない」と豪語して、これを、「ブランド化」したフジテレビが、テレビ業界に君臨するまでになったのは、教養もなにもかなぐり捨てて、すべてがエンタメだという割り切りに、国民が同調した「悲劇的な世情」をうんだ。

それで流行ったのが、『ラブユー東京』の替え歌、『ラブユー貧乏』を、とうとうご本家のロス・プリモスが録音するに至っている。
「おカネだけが生きがいなの~♪」に込められた真実とは、まさに、現世だけの刹那なのである。

つまり、「道義」を旨とした、日本文明が自殺した驚くべき軽薄が定着した証となった。
なお、「日本文明」は、トインビーあるいはハンチントンといった博士が指摘した、人類の至宝ともいえる文明のことをいう。

この知の巨人たちそれぞれが、「日本」について語ってもいる。

   

このブログでは、何度もハイエクの傑作、『隷従(属)への道』を紹介しているけれど、およそ宿泊業やら旅行業の経営者は、ハイエクの存在すらしらない知的レベルに堕ちていると断言できるのは、その「政府依存」を当然とする態度でわかるのである。

この知的怠慢は、まさに致命的で、別にハイエクは、『致命的な思い上がり』を書いている。
いま、この本の価格は、40万円を超えているというよりも50万円弱という方がただしい。

これこそが、需要と供給のバランスを視覚的情報とする「価格」の妙なのである。
これだけの金銭を出しても、欲しい、というのは、いったい誰なのか?

どうかんがえても、観光業(旅行、宿泊、飲食など)に関係するひとたちではなさそうなのだ。

それゆえに、政府の致命的な思い上がりは、とうとう「旅館業法」に、その魔の手を伸ばしてきた。

これが、「下地」は、「政府による旅行支援策」という名の「愚策」である。

旅行会社を通じて予約すれば、宿泊施設の宿泊料が「割引」になって「お得」です、ということの欺瞞は、平等を旨とす憲法に違反する。
似たものに、「地域お買い物券」もある。

こんな愚策よりも、少額・小率でいいから、「減税」をすればいい。

これをしないで、一定の国民・市民だけを対象にすることの意味は、政府に従った者への「ご褒美」だからである。
こうやって、餌付けして奴隷化を推進するのである。
だから、一方でムチとしての「増税」をすると、平然といえるのだ。

利用者は、自分の財布からでる金額しか興味がない。

政府の支援に有り難みはなく、むしろ、提示された割引後の金額が、その宿泊施設の価値だと擦り込まれるのだ。
しかし、損益計算書しか観ない愚かな経営者は、政府からの補填でなにも変わりはないとかんがえさせられていることに、疑問すら感じない。

最初は安く泊まれたとおもっていても、それが繰り返されれば「ふつう」になるものだ。

だから、政府の予算が尽きたり、政策としての賞味期限がきたら、宿泊施設の事情とは関係なく補助が終了する。
すると、消費者は、やたら高い宿泊料金だと認識することになるのを、経営者はどうかんがえているのか?

経営者は、「やめないで、捨てないで」と政府にすがって依存するようになる。

史上最大の「薬害」になるやもしれないなかで、パンデミック対応のワクチンパスポートを事実上導入しようと図る、旅館業法改定とは、移動の自由を制限する、全体主義の第一歩なのだ。

こんな憲法違反が、堂々と推進されることに、恐怖を感じるひとが少ないことに、よほど恐怖を感じるのである。