「選べない」ことがある

そんなこと、あたりまえじゃないか!
しかし,この「あたりまえ」が問題なのだ。

だれでも個人は、親を「選べない」。
日本に産まれたら、いつしか日本語をはなして日本語で思考するが、その日本語をじぶんで選んだわけじゃない。
じぶんは何語を話すかすら、ふつうは「選べない」。

じぶんの両親の話す言葉でじぶんの言語もきまる。
これが、宗教にもいえる。

しかし、日本人がかんがえる宗教には、選択の自由がある。
つまり、信教の自由のことである。

だから、宗教はじぶんで「選んでいる」ことになっている。
わが家はむかしから「◯◯宗」で、「△△寺の檀家」であるから、じぶんで選んでいるわけではない、というひとがおおいだろうが、そのことではない。
いつでも乗り換えられるのに、面倒だから乗り換えない。
遠目からみれば、選んでいるのである。

世界のおおくのひとたちは、ちがう。
「信仰」じたいが神から与えられたものだから、じぶんで「選べない」とかんがえている。
もし、そのひとが別の宗派に乗り換えたら、それはじぶんの意志ではなく、神からの導きだとかんがえる。
これが、「信仰」である。

そんなわけで、「信仰」というものは、神の存在あってのことだから、じぶんの信仰と他人の信仰がちがうとき、それは、「真理」のちがいを意味したから、必然的に議論ではなく強制になる。
どちらかが、どちらかを屈服させる必要がでてくる。

こうして、ちがう信仰となれば、おなじ宗教内であろうが容赦しない。
血で血を洗う凄惨な戦いがおきたのは、お互いにじぶんの信仰が正しいという「あたりまえ」からであった。

あんまりひどい戦いがつづいたので、「寛容」という智恵がうまれる。
じぶんと他人はちがう、これを認める精神だ。
これが、個人主義に組みこまれたのである。

ところが、他人といっしょ(おなじ)でいたい、という精神がわが国に蔓延してしまっている。
初等教育では、個性を育てるはずだったのに、だ。

こうした精神をもったひとたちを、「大衆」と呼んだのはオルテガだった。
よくつかわれる階級的用語「ではない」ので注意がいる。

「個性を失って群衆化した大量のひとたち」が「大衆」である。

じつは、この「大衆」は、たんなる愚昧ではない。
いまの世の中、識字ができるのはとうぜんだし、電子計算機(パソコン)や、スマホを使いこなせる。
おおくが「高等学校」をでているし、つぎの「大学」もでている「知識人」なのだ。

ところが、専門化がすすんで、狭い範囲での「専門」が、高度な仕事に要求されるようになったから、いわゆる「専門バカ」がふつうになって、「専門バカ」どうしで世の中ぜんぶを知っているふりをしている。
そんな「ふり」をしていたら、いつのまにかそれが「じぶん」になってしまった。

知ったかぶりをしても、通用するのだ。
しかし、その「知ったかぶり」は、他人といっしょでなければならない。
もしもちがうことをいったなら、たちまちもっと詳しい「専門家」のひとから攻撃されるからである。

だから、いったん社会が大衆ばかりとなる(大衆化する)と、いきつくところまでいくしかないのである。
ずいぶん前からわが国は「高度大衆社会」といわれていた。
その破壊力が、だんだんみえるようになってきている。

朱に交われば赤くなる。
この「朱」とは、自身を取り巻く環境のことで、ふつうはこれを「選べない」。
選ぼうとしても、見えないことがままあるものだ。

たとえば、田舎暮らしの悲劇である。
都会から、「自然が豊富な」田舎に引っ越すことが憧れとなった。
けれども、地域になじめないどころか「村八分」にされて、とうとう裁判沙汰にもなっている。

町内会のボスに気に入ってもらえなければ、町内会に入会できない。
町内会の入会を拒否できる都会と真逆なのである。
入会しなくても都会ではあんまり被害はないけれど、田舎では暮らしていけない。

ゴミ出しすらできなくなるし、地域の情報が遮断されるから、災害時は危険が増す。
いわゆる「しかと」がふつうなので、外出ができない。

原因はたくさんあって、引っ越しの挨拶(贈答品)が「足りない」とか、いただいた野菜の返礼を怠ったとか、会合で意見を言った(しきたりを無視した)とか、地元有力者の本家と分家のヒエラルキーにしたがわないで分家と親密になるとかである。

選んだはずの住居地域が、とんでもないところだったとしても、これらを事前に知ることは困難である。

じつは、会社もこれと似ている。
「社風」というローカル文化が支配する場所であるからだ。
東京、大手町の大地主をやっている会社のCMが、自由な「ダイバーシティ」を強調するのは、これに起因しているのだろう。

新人をさそった先輩が、飲食店で上司を拒否するのも「ダイバーシティ」だというのは、まさに「大衆」の論理そのものである。
大衆で構成されている組織が大衆をもとめる、なかなか「進歩的」かつ現代日本の病理をえぐり出した「作品」であったが、なぜこれが「CM」なのかは理解できない。

「選べない」こととは、個人を超越し、さらに過去があっての現在で、それが将来につながるから、時間も超越している。

そういうこともあるさ、と「寛容」なこころをお互いにもたないと成り立たないが、「大衆」にはこれがない。
いまここにいる、じぶんが絶対の存在だからである。
全員がこうなると、社会はギスギスとしてきて、けっきょく自由がうしなわれる。

そんなわけで、漱石がいうとおり、「兎角この世は住みにくい」のは、いつになっても人間社会の真実なのだ。
それは、人間が不完全だからだ。

選べないことは、理不尽ではなく、全員の条件になっている。

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