量子論からの宇宙分岐

量子を観察するのとしないのとでは、たとえばそれが、光子(光)なら、粒子としての振る舞いが波としての振る舞いになることでぜんぜんちがう結果をもたらすことは、有名な「スリット実験」で確認されている。

それに、相手が「電子」であれば、むかしなら「軌道」で説明されていたものが、いまでは「電子雲」のなかの「確率」として説明されている。
とくに「電子」は、「原子」を構成する量子なので、この不思議な振る舞いは、われわれの身体にも、脳にも及ぶ「原理」なのである。

すると、われわれの身体自体も「確率」によっており、もしや脳がそれを「実態」として再構築した姿にして認識しているだけなのかもしれない。
ほんとうは、あやふやでグニャグニャなのに、「人間の形」として見せられているのかもしれないのである。

だが、物理学の「学会」も、人間集団なので、「権威」に対する「忖度」があり、「権威」に逆らう理論とその提唱者を組織から排除する「力学」がしっかり作動するのである。
学者稼業とは自身の論文がどれほど他者の論文に「引用」されるのか?で評価されるのが通常だから、学会から排除を受けると、その身と研究業績は「なかったこと」になる世界なのだ。

しかして、そのような行動を集団でする量子物理学者たちも、人間として個々が量子からの構造をもっているので、上のようにはなしは一般的なことではすまないはずである。

これを「コスミエンス」さんがわかりやすい動画にしている。

1954年、アメリカのヒュー・エヴェレット三世が、有名な「シュレディンガー方程式」を素直に解いて、なんと、電子を観測したとき、観測者ごと宇宙が分岐する、という「多世界解釈」を導きだしたのである。

それは彼が27歳の「博士論文」での業績であったのだが、上のような学会からの「無視」で、わずか52年の生涯を閉じることとなった。

しかし、「権威」も物故して、エヴェレット三世の理論が発展をはじめている。

日常で茶飯な人生の選択、たとえば、コンビニでアイスコーヒーを買うかホットコーヒーを買うかで迷ったうえで、アイスコーヒーを選んだときに「宇宙ごと分岐」して、ホットコーヒーを買った自分が存在する宇宙が別途生まれる、というのである。

このエヴェレット三世の理論に、あまりにも多数の宇宙ができること、をもって批判がある。

しかし、あまりにも多数というのも人間の解釈であるから、未知の量子物理学領域の批判として成立するのか?という批判もあるようだ。

ここから導かれるのは、自分は何人いるのか?という疑問である。

むろん、「量子もつれ」が実験でも確認されたので、物質世界が単なる「幻」であるとのかんがえを否定できなくなっている。

「多世界解釈」は、むかしからいう「並行宇宙:パラレルワールド(多元宇宙)」ともことなるのである。

だが、分岐した宇宙の中の自分を自分が認識することはできない。

文学では、松本清張の『ゼロの焦点』における「二重生活」が、まるで「パラレルワールド」のようであったけれども、戦後日本の隠された社会状況でもあった。
しかし、家族の間でも完全に相手を理解することは不可能だから、たとえばむかしから、「兄弟は他人の始まり」といわれていたものだ。

離れて住む期間が長くなると、兄弟間の生活がまるでパラレルワールドのようになって、それぞれがそれぞれの生活を詳しくしることはない。

そんな常識が、「多世界解釈」で完全に裏付けられるのである。

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