ポイントカードはお好きですか?

個人的な好きと嫌いでいえば,嫌いである.
個人商店で好みに合致する商品がある店なのに,ポイントカードがあるとがっかりする.
全国的なチェーン店だと,ポイントカードではなくてプリペイドカードのばあいもあるから,財布の厚みはそれだけでも増す.

これに,クレジットカードも,企業チェーンや系列での利用のために発行されている.
だから,いつのまにか,財布は紙幣ではなくてプラスチックのカードによって占拠されてしまうことになった.
スマホのアプリとしてこれらが進化しているというが,決済のおおくを現金にたよる国だから,財布を忘れると身動きがとれない.

それで,たまに財布のなかのカード類を抜いて薄くする.
ところがどういうわけか,ふだんいかない店のポイントカードを抜くと,その店に立ち寄ることがある.
そして,レジでの支払にポイントカードがないと気づくと,妙に「損をした」気分になる.

だから,最初からポイントカードをもらわないように努力する.
「ポイントカードはお持ちですか?」
「いいえ」
「おつくりしましょうか?」
「いいえ」
「失礼しました」と口で言っても,なにか不思議そうな態度を店員さんはとるものだ.
そんなにおかしいことなのだろうか?という気分になることも嫌いな理由のひとつだ.

そもそも,なんでポイントカードを発行するのか?
スーパーマーケットのばあいは,顧客が購入した商品のデータを得るためのものだった.
だれが,いつ,どんな商品を,何個購入して,どのくらいの金額をつかっているのか?
これで,店舗全体というおおきな枠でABC分析をするのとはちがった細かさで,顧客の購買行動をしることができた.

たとえば,店舗全体で分析すれば,月間で数個しか販売実績のない商品は,取扱商品から排除されるのがふつうだ.
ところが,この商品を購入しているのが,その店舗での購入金額トップクラスのひとだとわかれば,排除してしまったらそのお客様まで来店しなくなるかも知れない.

こんな重要なデータを,ポイントカードという媒体をつうじて店は得るのだから,そのデータの購入料として買いもの代金の数パーセントをお支払いする,というのが本来の趣旨だった.
それは,消費者サイドからみれば,ポイントカードを見せると数パーセントの割引がもらえる,ということになっていた「だけ」である.

この「だけ」が,ひとりあるきしだして,なんだかわからないがスタンプを貯めるとなにかもらえるようになる.
店側は,どんな情報を得たのかさえもないから,「ただ」の割引でしかない.
こうして,所得が店から客に移転する「だけ」になった.

ただし,客側はいつつかうともしれないポイントカードを,つねに携行するという手間をかけなければならない.
だから,客は客なりにその面倒さというコストを払っているから,ポイントによるメリットは当然のものとなった.要は,ありがたくない,のだ.

貧しいはなしである.
上記の「貧しい」とは,貧乏ということではない.
発想の貧しさのことである.
なんのためのポイントカードなのか?ということをかんがえることをやめた,発想の貧しさのことである.

やっぱりポイントカードを好きになれない.
嫌いなのだ.

部下は自分の鏡である

「子は親の鏡」という.それで.いよいよとなると,「親の顔をみてみたい」になって,恥をさらすのは,やっぱり親だ.
GHQの一員としてよばれて来日し,いまの労働法の基礎をつくった,ヘレン・ミアーズが書いた「アメリカの鏡・日本」は,ニッポンという子の親がアメリカだという立場でかいたが,マッカーサーは,この本を「日本人に読ませてはならない」として,日本語での出版を発禁にした.

日米は,黒船から断絶していたのではなく,マッカーサーによって断絶してしまったということがわかるから,いまの日米をかんがえるときの基本としても読める.
日本は,「親」から見捨てられた「不肖の子」であった.

企業において,部下を育てる,というテーマは,ふつう上司の仕事として認識されている.
だから,経営者は使用人である幹部従業員を,幹部従業員は中堅従業員を,中堅従業員は新入社員を,というぐあいにピラミッド構造を地でいく順位で面倒をみることになっている.
すると,いちばん問題なのが,経営者はだれに面倒をみてもらうのかがはっきりしない.

まず,この順番が正しいとすれば,経営者の面倒をみるのは新入社員がのぞましい,ということになる.
本来,経営者は会社全体の面倒をみなければならないが,そうはいかない,というなら以上のようになるだろう.

接客業において,おおくの企業はものすごいことが「常識」になっている.
それは,お金をくれる「お客様」の接客をするのが,新入社員とその先輩たちという,社歴がみじかいひとたちばかりが「兵隊」として存在するのだ.
かんたんにいえば,素人をお客様にあてがって,それでよしとしているのだ.

こうした業界の常識に異議をとなえたのが,いまではすっかり「古典」あつかいになっている,「逆さまのピラミッド」である.

この本は,当時のアメリカで,「サービス革命を引き起こした」といわれるものだった.
いまのアメリカでも,この本の影響力はつよいのではないか?
しかし,日本ではあまり高い評価はされなかったかもしれない.
「なんとなくピンとこない」というのが,一般的な感想だったと記憶している.

おそらく,日本の読者はいまでも「ピンとこない」かもしれないが,その前に,サービス業従事者の読書嫌いも半端ない状態だということは認識しておきたい.

この本が,日本で「ピンとこない」といわれる理由はかんたんだ.
日本人のはたらきかたは,「集団主義」といわれて久しいが,その「集団」が,組織だっていないという特徴がある.
つまり,「なんとなく組織」なのである.

「フラットな組織」といえばそうなのだが,もっとも重要なことは,仕事のやり方のなかにふくまれる数々のルールが不明確なのである.
だから,仕事にムラができる.
しかし,これを,経営者も放置するから,組織の意思疎通が苦手という組織になる.

もっとも,読書嫌いなサービス業従事者には,経営者もふくまれる.
製造業では大変な効果をだした,TWI(Training Within Industry)という現場責任者向けの研修をほとんどのひとが知らないだろう.
これは,現場責任者が後輩を教育するための「研修」である.

欧米は,人種も言語もバラバラだったから,意思疎通に苦労した.
そこで,仕事のルールを明確にするという努力がなされた.
日本は,これらの問題がほとんどないから,「有利」だとされてきた.
ところが,個人の価値観が「発散」する時代になって,この「有利」さがぐらついている.

むしろ,見た目でかんがえ方がちがうと思われるひとたちが集まった組織のほうが,個人への許容量がおおい.
見た目がおなじだと,自分とおなじだとかんたんに錯覚する.

だから、どんな働きかたをしたいと思うのかを,新入社員にきくと,接客上の訓練のありかたにもアイデアがあるかもしれない.
将来を背負うことがきまっている新入社員から面倒をみてもらうのは,経営者にとってもチャンスなのだ.

定義の変更

かんがえ方の出発点が,「定義」である.
なにもかたくかんがえなくても,じぶんでじぶんを「定義」で縛ってしまうことがある.
どうもうまくいかない,といったとき,「定義」を変更するだけで,はなしはおおきくかわる.

新津春子さんというひとの講演をきいた.
テレビで有名になったが,本人はちょっと迷惑そうだった.
彼女は,ビル清掃の達人である.
しかし,ビル清掃のしごとが,社会から低くみられていることもしっている.
「わたしたちはお客様の目にはっていない」
「でも,それでいい」

中国残留孤児二世の彼女は,日本語ができず,ビル清掃のしごとしかなかったという.
それで,「ビル清掃人になっちゃった」.
募集しても募集しても,ひとがこないから,法律違反だといわれようが,管理職として一日18時間はたらいた.

「日本人だって,みんな『ビル清掃人になっちゃった』ってがっかりするの」.
唯一,彼女がふつうでなかったのは,「ビル清掃人になっちゃった」けど,「ビル清掃『職人』になる」と意識したからだ.
国家資格もある,奥深いしごと,なのである.

こうして,コンテストで日本一となり,職場の羽田空港は世界一清潔な空港に毎年連続して選ばれている.
彼女は,羽田でただ一人の「清掃マイスター」になった.

山形新幹線の社内販売のカリスマ,斉藤泉さんも似ている.
彼女は,短大生時代にこのアルバイトをはじめる.
ふつうは,ワゴンを押しながら社内を往復して,お客さんから声がかかればとまって,お客さんのいう通りの商品をわたせばいい,とかんがえるだろう.

彼女は,「日本一小さなお店の店長になった」と定義した.
店長だから、なにを売りたいかは自分できめる.
そのために,乗車前にはかならずホームを往復して,お客さんの年齢や職業,それに手荷物をみて客層を確認し,さらに,天気に気温や湿度を自分でも「感じる」という.

こうやって,ワゴンに積み込む商品とレイアウトをきめる.
そして,販売しながらも,購入してくれたお客の意見を収集した.
それで,いまでは伝説となった,地元の老舗駅弁屋さんと「お弁当を開発」してしまう.
これが,駅弁の人気全国二位になる.

これらは,個人の世界のはなしであるが,よくかんがえれば,これぞ「事業コンセプト」なのだ.
あまたいる同僚とは,一線どころかぶっちぎりの成果をたたきだす.

仕事のノウハウを解説した書籍や動画もたくさんあるが,なかなかドンピシャにあたらない.
それは,方法論ばかりがかたられて,「定義の変更」という「思想」がないからだとおもう.
「自分はなにものなのか?」
という問いに,漠然としたイメージしかないひとと,明確なイメージがあるひととでは,まったくちがう成果になるのは当然どころか必然である.

こんなことはあたりまえ,わざわざ書く必要もなかろうに,というのはもっともである.
しかし,あんがいそうでもないひとがおおくなったようにおもう.
そういうひとたちは,かならず誰かや何かに「依存」する.
国や自治体がなにかをしてくれるという「政府依存」が蔓延しているし,その政府がゆるそうとしているカジノでは,「ギャンブル依存」が話題になっている.

「自立して生活できる国民を育てる」はずの義務教育も,いつのまにか「依存してしか生きられない」ようにしているのが滑稽だ.
高等教育ばかりが「いい教育」と定義しているひとたちがいるが,「職人」ならば年齢的に中学校卒業でも遅いと断言する「名工」がたくさんいる.

人間に備わった「五感」の各種センサーを,一生つかえるレベルまで研ぎ澄ますには,10歳ぐらいから訓練するのが理想というから,「若年労働」どころのさわぎではない.
こうして,あと数年もすれば,最新鋭工機でもつくりえないものづくりも絶えるだろう.
そのころ,小学校では「プログラミング」が必修になっているはずだ.

「プログラミング」を小学生におしえても「児童の職業訓練」とみなさない.
こんな都合のよいはなしを,よろこぶ親は,どんな「定義」で生活しているのか興味がわく.
職人になりたいと志すこどもを,職人にしてあげられないことのほうがよほど問題だ.
技術は文化とおなじで,一度絶えると復活できない.

台湾の故宮博物院収蔵の「青磁」を例にしても,いまだその製造方法は解明されていない.
人間の手がつくり出す業を,録画保存しても,職人の感覚を保存することはできないから,絶えれば情報がないよりはまし,という程度だろう.

あらゆる場面で,「定義の変更」が必要なのではないか?

山陽新幹線の観光放送

数年ぶりの広島出張.更新も数日ぶりだ.
これは,同時にひさしぶりの山陽新幹線に乗ることを意味する.

新横浜から出発した「行き」は,とくになにごともなく広島に到着したが,広島始発の「帰り」に,へんな放送があった.
岡山後楽園,姫路城,淡路大橋.
姫路城にいたっては,◯◯時頃にみえてくると,予告放送までしていた.
後楽園はその面積,姫路城は高さ,淡路大橋は高さと長さを説明していた.

なぜ,「行き」には放送しなかったのか?
JR西日本のサービスの「ムラ」なのか?
そして,なによりも不思議なのは,車掌さんの生声放送で,日本語だけの案内なのだ.
なぜ,英語その他の外国語で放送しないのか?

むかし,時速220km運転を自慢していた時期,客席とデッキの境の通路ドア上にスピードメーターがついていて,220km運転になると,「ただいま時速220kmです」というアナウンスがあったが,これも車掌さんの生声で英語の放送はなかったと記憶する.(本当はどうだったのか?)

それから,各車両に電光掲示板がつくと,ながいトンネルや鉄橋がちかづくとその説明がながれた.これは日英併記だったと記憶がある.
詳しいことは,「鉄道ファン」におまかせするとして,いつのころからか,「広告」と「ニュース」がメインになった.

ところが,ここでも外国語表示は到着まぢかの「駅名」ばかりである.通過駅の案内は日本語表記のみだ.外国人こそ,いま通過した駅がどこか知りたいのではないか?
そうやって,自分がどこにいるのかと,地図と車窓の景色をくらべるものだ.
鉄道会社が,旅情を理解しないのは,うそのようなナンセンスである,
その証拠が,土地土地の歴史や文化を無視してはばからないコンクリートとガラスの駅舎である.
地元観光協会は,本当にこれらを「歓迎」していたのか?と,いまさらそのセンスをうたがう.
はるばるやってきた駅舎を背景に,記念写真をとる気がうせる.

JR西日本のすごさは,トンネルがおおい山陽新幹線でも,通信が切れない自社「SIMカード」の案内を日英併記しているのだ.きっと列車無線回線をつかっているのだろう.
そんなに外国人は,毎日のように山陽新幹線を往復していて,新幹線滞在時間が長いのか?といいたくなるが,要は「広告」なのだ.

つまり,かなりうがった見方だが,広告に占拠された電光掲示板に対抗した車掌さんが,あふれるサービス精神のやむにやまれぬ事情からでた,「フライング」だったかもしれない.
個人客として,この「仮説」を証明することはできないから,バカといわれようが気になるのである.

むかし,渥美清が寅さんシリーズがはじまる前に主演した,「喜劇急行列車」の車掌さんをおもいだす.

この映画の佐久間良子演じるヒロインよりも,食堂車のウェイトレスの大原麗子,それよりも主人公の女房役,楠トシエが気になるのはわたしだけなのだろうか?彼女は,にっぽんのお母さんを代表していた.
ちなみに,主人公渥美の後輩役が関敬六だった,
 
渥美の車掌さんは,もしかしたら現実とファンタジーのギリギリだったろう.
今回の車掌さんは,現実である.
しかし,「会社」からなんていわれるのだろう?

こういうひとの「想い」をくめない会社こそ,ため息の対象であると,わたしの「妄想」はつきない.

国家をだれが経営しているのか?

社長とか,役員とかいうひとを,ふつう「経営者」という.
しかし,経営者が経営しているとはかぎらない.
むしろ,経営者が経営していないことのほうがおおくなってしまったかもしれない.

とにもかくにも,でるわでるわの不祥事だらけである.
新幹線の台車の問題は,甚大な事故原因になりかねない.「インフラ輸出」どころではない.
どうして,削ってはいけないところを削ったのか?
一連の不祥事で,ほんとうに安全に問題がある唯一の事例である.

ベアリング会社の製造所偽装も,なにもかも「安全には問題ない」ですんでいる.
つまり,これは技術的にJISを超えているのではないか?
ましてや,自動車会社の完成検査問題も,輸出車には適応しない国内販売向け「だけ」の問題だから,本質的になにが問題なのかわからない.

輸出先の国々から,クレームが一切ないのは,もともと輸出車に完成検査義務がないからだ.
なぜ,国内だけ問題になるのだろう?
結局,自動車が「メカ」だった時代,しかも手作り感満載のころの「ルール」が変わっていない,いや,「変えていないだけ」なのではないか?

国有地の払い下げ問題が,連日報道されているが,とうとう財務局で自殺者まででた.
公文書偽造をほんとうにやったのだろうか?
その手口は?まったく不明である.
公文書は,決済後の保管状態であっても,そうかんたんに改ざんできるものではないからだ.

民間企業でも,決裁書は厳重に保管されるから,たとえ起案者であっても,文書保管部署に行って書類を差し替えることなどできない.

この問題は,ほんとうに国会を空転させるにたる重大さをひめているのだろうか?
はっきりいって,どうでもよいのではないか?
「問題解決」の要諦は,優先順位の決定である.
国家の解決すべき課題の最優先順位に,この問題があるとはおもえない,という意味である.

大企業での一連の不祥事と,国家機関における不祥事には,共通点がある.
それは,だれが経営(マネジメント)しているのか?ということの「曖昧さ」である.
これは,日本文化なのであろうか?

欧米の研究では,AI(人工頭脳)の発展によって,まっさきになくなる仕事として,公務員があげられた.
法治国家における「行政」とは,法令に基づく,という基本があるから納得できるはなしである.
しかし,日本における公務員の仕事には,法令にはない「裁量」という分野がある.

アメリカ第七代ジャクソン大統領がさだめ,いまでもいきているのがいわゆるジャクソン・ルールともいわれる「スポイルズ・システム」である.これは,ときに猟官運動の弊害も指摘されたが,本質的な思想背景は,「公務員の仕事はだれにでもできる」というものだ.
だから,政府高官ポストも政権交代によって半分が「素人」にいれかわる.

それでいて巨大国家が運営できるのは,法令のうえでしか公務員は行動できないからだ.
「裁量」は,政治家がうけもつ分野だから,法令の改正がおこなわれる.
日本では,議会機能は限定的で,法令の改正も公務員が起案するから,公務員に都合がいいことが上書きされていく.

「綱紀粛正」の対象は,上級職の公務員ではなく,初級職に集中して攻撃がくわえられる.
「綱紀粛正」のやり方も,政治家がかんがえずに,上級職にまかせるから当然上級職に及ばないやりかたになる.
どうして日本の政治家は,かくも公務員に甘いのか?それは,単純に公務員に担がれているからにすぎないからだ.

民間の大企業はガルブレイスが「新しい産業国家」で指摘したようになったが,じつは公務員の世界のほうが先に簒奪されている.

だから、治療のほうほうがないのだ.
残念だが,大崩壊をつうじてしか,これをただすことはできないだろう.
そのとき,日本は独立国でいられるか?までも危ういことになりそうだ.

美しい港町

ボランティアの活動は尊敬すべきものとおもうが,どうしてこうなるのか?ということもある.
そのボランティア活動に参加したことがないから,関係者には申し訳ない.
申し訳ないのだが,お節介で余計なお世話のはなしを書こうとおもう.

いろいろな場所で,ボランティア清掃活動をしている団体がある.
公園をはじめ,会員企業の従業員が自社の職場やその周辺を清掃しているという.
これだけなら,お節介の焼きようがないのだが,会の名称のはじめに「美しい港町」とあるのが気になるのだ.
以下,会の活動とはまったく関係のないはなしである.

美しい港町,とはなにを意味するのか?
そもそも,「港町」は,たいがい猥雑である.それに「美しい」がつくから,相反するので「おや?」とおもうのだ.
猥雑なのにゴミがおちていない.
これだけで,「美しい」といえるのか?ということである.

ほんらい,人間の移動は陸上をあるくなり,動物の背中にのるなりしていた.
これに画期をなすのは,やはり海上移動の技術革新であろう.
ローマ時代,地中海をいきかうガレー船は,奴隷の労力をつかって漕ぐちからを動力とした.
古代エジプトは,ナイル川を行き来するのにパピルスをたばねた船をつくり,帆によって風のちからを動力とした.つまり,河口の地中海へは水の流れにのって,帰りは帆をあげて川をのぼる.

ところが,ナイルの流れはかなりはやい.
風の向きにかかわらず,川をのぼるために考案されたのが三角帆だ.
いまのヨットの原型といわれている.
四角い帆だけでは,風向き次第で自由航行はできない.

ローマがエジプトを征服して,帆船が完成し,それがついにポルトガル・スペインによって大航海時代となる,という説がある.
その真偽はべつにして,船という乗り物は,陸上交通ではかんがえられない物量をはこぶことができる.それは,飛行機が発明されたあとの現代でもかわらない.

とうぜんだが,ひとと荷物をのせてさまざまな航海がはじまる.
こうして,「征服」という問題をのぞいても,世界中に港ができる.
そうなれば,一方通行ではなく,複雑な経路でも港にひとと物資があつまるようになるから,「猥雑」になるのは必然である.欲望がうずまくところになるからだ.

それは,スターウォーズの世界でもおなじ.
さまざまな星の宇宙船があつまるところは,猥雑である.

横浜が開港の地になったのは,江戸からの距離がちょうど良かったからだろう.
日本側は,横浜でも江戸にちかすぎるから,ほんとうは横須賀(浦賀)にしたかったのではないか.
アメリカは,江戸にしたかったが,抵抗が強い理由もわかるから,まんなかをとって横浜にしたのではないか.
ふるい街で,鉄道駅が町外れになっているのとおなじ理由であろう.

ひとと物資があつまる港町は,そのままだと猥雑に発展する.
それで,都市計画というかんがえかたがうまれるのだが,「発展」のいきおいに押されると,「無計画」という「計画」になる.
それが,ひとを相手にする港から,物流や工場立地に変化すると様相が一変する.
いわゆる「産業優先」という思想である.

横浜もそうだが,海岸段丘という地形が「良港」をつくっている.
地上は削られた丘にみえるが,そのまま海におちているから海底が深いのだ.
横浜駅から根岸線にのると,左手にみなとみらい地区がみえるが,右手は海岸段丘である.
桜木町に河口がある大岡川をはさんで,石川町駅からの根岸の海岸段丘につづく.

横浜中華街が,周辺の街並みにたいして斜めのブロックになっているのは,海側が「港」だった名残である.山下公園は,関東大震災のがれきを埋め立ててできたから,オリジナルの横浜港とはちがう.
ここまでが,客船が着くイメージで,本牧の先までがコンテナなどの貨物流通エリア,そして根岸に向かうと石油コンビナートになる.

原三渓がつくった名園の「三渓園」は,砂浜に面していたが,昭和40年代に埋め立てられて石油コンビナートになったから,とてつもなく風情のない借景になっている.
それからもどんどん埋め立てられて,とうとう横浜市沿岸の砂浜は,すべて埋め立てされつくした.八景島に人口海岸をあとからつくったが,だったら最初から埋め立てなければよかった.

来年からはもう泳げなくなるといって,「冨岡海水浴場」の最後にいったことを覚えている.
ただし,すでに周辺の埋め立てで流れがかわったか,水がよどんでいて,あまり気持ちのいい海水浴ではなかった.

柴漁港はいまでもある.
埋め立て前の場所を示す大きな石碑が新漁港の近くの交差点あるが,往年の風景を感じさせるものはほとんどない.この石碑の前にひろがる住宅地がわびしくもおもうが,ふつうはこの石碑がわびしいだろう.もうほどんどわからない,過去の痕跡である.

その横浜が,カジノ誘致に熱心であるという.
どうしてカジノを開設すると,街の発展になるのか?いまひとつ理解に苦しむが,市民の過半は反対だというから,それはそれである.
ただし,カジノは基本的に「猥雑」であるから,港町っぽさはある.

どうもカジノは賭博ばかりが話題になるが,そんなものではない.
ディズニーリゾートが「ファンタジー」をテーマにしているように,カジノは「欲望」をテーマしたリゾートだ.だから、ショービジネスの場でもあり,美食の場でもあり,性風俗の場でもある.
世界のカジノで,娼婦がいないカジノはない.カジノからこれらの「猥雑」さは除去できない.

べつに,発展をうらむわけではないが,「美しい港町」とはなにか?をいまさらながらかんがえると,なにをもって「美しい」とするのかが問われていることはまちがいない.
すると,「都市計画」と「景観」という巨大なテーマがあらわれるはずで,「清掃活動」を否定するつもりはないが,時間と労力のつかいかたがちがうとおもうのだ.

すべる床

戦後日本の司法制度がアメリカとちがうのは,憲法がちがうからだろうけど,占領軍はほとんどアメリカ軍なのに,なぜ本国のコピーを導入しなかったのかと,疑問をもつと,けっこう「不謹慎」な議論になる.
二度とアメリカに歯向かうことがないように,日本人を骨抜きにする,というのが占領政策の基本だったというから,はたして不謹慎なのはどちらなのかと疑問をもつ.

世界史的には日露戦争が「近代総力戦」のはじまりというから,「日本史」という分野だけでかんがえてはまちがいなのだろう.「第ゼロ次世界大戦」ともいわれている.
ところで,「総力戦」とはなにか?とかんがえると,それは国民あげて戦う,ということなのだけれども,問題は「戦後」にある.

「総力戦」の「戦後処理」こそが,「総力」をかけなければならないのが「総力戦」である.
日本は,日露戦争の戦後処理でも,なんとか「勝利」した.
当時の国民は,暴動騒ぎをおこすから,日本人はおとなしい国民ではなかった.
ときの政府は,武器弾薬も戦費も尽きていることを国民に知らせなかった.知らせれば,敵に知られる.そうすれば,「戦後」がやってこない.
だから,国民が暴動をおこして,ロシアは安心したのだ.

いつのまにか,日本人はおとなしい国民になってしまったようにみえるが,本当にそうなのか?
欧米に追いつけ追い越せが,国是だったころ,国内でもっとも恥ずべきものは道路だった.
舗装率は,目も当てられず,三日に一度はふる雨に,ドロドロの泥道ばかりだった.
とにかく舗装をする.
その道路の下に,下水管も,ましてや電線を埋設するなどかんがえない.

ゆたかになると,トイレがくみ取り式では話にならないことに気がついた.
それで,せっせと道路をほじくって下水管を埋設した.
ところが,やっぱり電線を埋めるなど,かんがえなかった.
いまでは,日本観光の名物が,複雑な空中の電線である.

どうせ電線を埋設しないなら,どうして市電やトロリーバスを復活しないのか?
ベネチアでは,新市街と有名な観光地の旧市街を結ぶ市電が,一本レールの新型になっている.
レールはガイドの役割で,車輪はタイヤで走る.デザインは,当然オシャレなイタリアである.
ウソみたいに高コストな水素ステーションを要する水素自動車よりも,はるかに経済的だろう.

歩道や公共施設の整備不良で転んだら,いったいいくらの賠償金を要求されるか?
それが,日本ではあんがいおおきな事件になっていない.
三日に一度雨が降る国で,どうして床材にツルツルにみがいた石材をつかうのだろう?
むかし,会社の同僚が駅の床で滑って転倒し,脚を骨折したことがある.松葉杖で通勤していたが,治りかけたらまた転倒して,反対側の脚を骨折し,先に折っていた方が完治するまでいっときでも寝たきりになったことがある.
鉄道会社を訴えるべきだとおもったが,本人はなにもしなかった.

それで,本人にかわって鉄道会社宛に手紙を書いたら,丁重だが内容のない返信が来た.
二三年後,おもむろに工事がはじまって,凹凸加工がされた石材に構内の一部だけ張り替えられた.

ほんとうにこの国は,先進国なのだろうか?
いや,先進国になったことがあったのか?といまさらながら,不思議におもうことがある.
予定どおり,骨抜きにされたかもしれない.
おそろしいことである.

清掃のプロ

新津春子氏の講演を聴いてきた.
彼女のはなしは,「経営センス」に満ちていた.
それは,これまでの半生でのはなしにも,これからやりたいことを決めているはなしにも,みごとに表現されていた.
ただものではない.

 

自分はなにものなのか?

彼女の原点は,中国残留孤児二世である,という出生からはじまる.
毛沢東時代に生まれ,働いても働いても食べるのがやっという生活だから,子どもでも手伝いはあたりまえだった.家の掃除はご母堂から訓練されたという.
学校にはいると,日本人である,という理由でいじめられた.
祖父がいじめっこの家に怒鳴り込んで,その親に猛抗議したという.
当時,50年はすすんでいる日本を残留孤児の父が見てきた.それで,一家で移住を決意した.
日本語ができないことで学校で,中国人だ,といじめられた.
「わたしはなにものなのか?」

日本での生活も苦しかったが,物資がなんでもあって,努力すれば自分も買える.
一家の生活を支えるために,高校生アルバイトをはじめるが,ことばが不自由なので清掃のしごとしかなかった.
選択の余地がなかったが,自分にはこのしごとしかない,ときめた.
それは,自分の価値をみとめてもらう闘いでもあった.

世襲の企業のばあい,自分(自社)はなにものなのか?という疑問をスルーしていることがよくある.よくいえば「伝統」であり,わるく言えば「惰性」である.
だから,自分(自社)はなにものなのか?という問いにたいする回答は,たいへん重要だ.
それが,企業理念,である.
その企業理念を,いかに他人(他社)からみとめてもらうかの闘いが「経営」である.

彼女は,高校生にしてこの根本法則を体得していた.

アルバイトなのに社内研修にでる

学校をでてから,かずかずの清掃会社をわたりあるいた.
それは,さまざまな「清掃」を体得するためであった.ひとくちに「清掃」といっても,専門とする業務の種類・バリエーションがたくさんあるからだ.
しかも,清掃技術のための学校もある.
彼女は,この学校に入校する.

ここで,生涯の「師」と出会う.
そして,師からさそわれて,師が常務をつとめる羽田空港の清掃会社にアルバイトとして入社する.しかし,彼女は,これまでの経験から,清掃技術のおおくはマスターしている.それで,いきなりアルバイトなのに指導員をやらされた.

アルバイトで指導員はいなかったから,社員から変なめでみられた.
日本人は,自分のできがわるいと,紹介者のわる口を言うという特性があるから,師に迷惑はかけられない,とおもったという.
それに,羽田空港はひろすぎた.自分一人では,とうていできない.チームワークという,中国人には不得意なことが,もっとも重要だと気づく.

それで,清掃技術をみがく社内研修にも積極的に出席した.
彼女はアルバイトという身分だから,この研修費用は会社から借金をしているとおもいこんだ.それで,どうやって返済するのか?が気になったという.
「あなたが習得した技術で会社に貢献してください.だから無料です.」
十何社を渡り歩いた彼女が,一生この会社にきめた瞬間のことばである.

これぞ「カンパニー」の真髄ではないか.
従業員のたしかな技術がなければ,会社は競争に勝てない.社員だろうがアルバイトだろうが,従業員にはちがいない.たしかな戦力をそろえることが優先される.
このはなしを聴いて,チェスター・バーナードの「バーナード理論」を思いだした.

バーナードはいう.「会社は,従業員を採用しようとして応募者を選択しているとおもいこんでいるが,ほんとうは応募者から選ばれているのだ.」
人口減少ゆえの人手不足に悩む日本政府と日本企業のおおきな勘違いがこれでわかる.

清掃の肝心要は「心をこめる」ことという精神

清掃技術日本一をきめる大会が年一回ひらかれている.
師から出場するように命じられた彼女は,特訓をうけることになるのだが,師は「あなたの清掃には心がこもっていない」としかいわない.なにを言っているのだ?とおもいながら出た予選会で,当然とおもっていた優勝ではなく,二位だった.

とうとう我慢ができなくて,「先生,心をこめるってなんですか?」と聞いた.
それは相手を敬う「精神」だった.ただ机をタオルで拭くのではない.机が人間だったらどうして欲しいかをかんがえればわかる.
「タオルで拭く」のは「作業」であって,それは「清掃業務」という「仕事」ではない.

仕事には精神がなければならない.その精神を実現するためには,かんがえて行動しなければならない.
これを習得した彼女は,みごと全国大会で優勝する.
師は,「あなたが優勝することはわかっていましたよ」といってくれた.
彼女は,自分の存在を尊敬する人から認められた,とおもったという.

チームワークには,コミュニケーションが必要だが,そのコミュニケーションにも心をこめるという精神がなければ,けっしてうまくいかない.
無口なひとには,なるべく声をかける.ことばがわかるヒトならば,かならず通じるという.

経営者へのメッセージ

この講演には,経営者のひともおおくきているだろうからとことわって,つぎのひとことがあった.
「事故・事件がなにもなかった日は,社長が従業員に感謝すべきですね」だって,「事故・事件があったら,社長はおしまい,辞めなきゃならなくなるかもしれない」でしょ.

社長が従業員に感謝できるという「精神」は,どこからくるのかをいいたいのだろう.
従業員から社内昇格して社長になった経営者に,よほど問いたいことである.
「おれは偉いんだ!」という気持が態度になる.
そんなひとほど,えらいめにあって退陣するはめになる.

しかし,のこされた従業員はさらなるえらいめにあう.
これをコンプライアンスの強化でなんとかできるものではない.
次期社長や役員を選択するための役員会メンバーが,遡及して責任を負うルールがひつようだ.
最低でも候補者から「理念」とその実現方法についての回答内容を吟味すべきだ.これが,役員をうみだすひとが負う製造物責任というものであろう.

十数社の転職体験からえた,するどくもふかい指摘である.

冴えるプロフェッショナルのことば

「心をこめる」とどうなるか?
「手順」がふえるのだ.

いかに手順を減らして,合理的に改善するか?つまり,コストを下げるか?
これが,バブル崩壊後の「正解」とされてきたことだ.
しかし,品質を向上させて単価をあげないと,新興国の製品にかなわない.
じつは,すでに「いいものを安く」ではなく,「いいものだから高く」しないと生きのこれないことになっている.

「手順がふえても,『いかに早く』というチャレンジをたのしむ」

手順がふえることを否定するどころか,前提にしているのだ.
それで,以下のような質問があった.
洗剤の残り具合をどうやって確認しているのか?
彼女は即座に,「ph試験紙をつかう」とこたえた.
そして,「phが中性になるまでやる」と.

人手不足でも,管理職としての責任だから、といって一日18時間はたらいた.法律違反,といわれても,どうにも清掃スケジュールがこなせない.
彼女が日本一になって,テレビにでると状況がかわったという.

ひとは,プロフェッショナルのしごとを尊敬するから,ひとが集まる.
これが,バーナードの「選ばれる」ということだ.

横浜は観光地か?

東京から電車で30分.
大阪と京都をJRの新快速で移動するのとほぼおなじ時間距離である.
神奈川県と東京は多摩川をはさんでいるが,あいだに川崎市があるので,横浜人は鶴見川の先は別だとかんがえている.(鶴見川の東京寄りにも「横浜市鶴見区」はあるが)

さいきんは,駅前が工場だった川崎が,その工場跡地の再開発で元気だ.
JR横浜駅は,地元では「サグラダ・ファミリア状態」とよばれるほどに,長く工事をしている.
わたしがこどものときからはじまった工事は,とうとう駅ビルと隣のホテルを解体して,高層建築にするらしいが,その完成は2030年というから,広い構内のまたどこかで工事がはじまるのではないか?混沌はつづく.
それで,乗車すれば10分もかからない川崎にむかうひとがいる.

公式発表された昨年(2017年)の人口は,373万人で日本最大の自治体が横浜市である.
「港町横浜」とか「国際都市横浜」と市役所などは自画自賛するけれど,港の機能はひとの移動ではなく物流が主体で,その物流はこの五十年でコンテナが中心になった.

横浜駅からみなとみらい地区を通過して,山下公園までの「ベイエリア」には,めったにこない客船の桟橋があるくらいで,「港」はないが,なぜか有名な観光エリアになっている.
大桟橋のほかに,新港埠頭にも客船ターミナルをつくるそうだから,入出国関連は不効率になる.
もっとも,世界最大級の客船は,ベイブリッジをくぐれないから,かつては米軍専用だった大黒ふ頭に接岸する.ここは,いまでも貨物専用だから,客船用の乗降場を市が建設するという.

ベイブリッジの計画時,専門家はいまの高さで世界最大級の客船はこぐれる,と結論して建設された.かくも,専門家など役に立たない.
最大級の客船には,およそ4,000人以上の乗客がいるはずだから,バス100台以上をしたてて,大桟橋の入国審査までやってくる.そこから,東京,日光,箱根といった観光地に向かうから,横浜市内を観光する乗客はいない.市は役人も議員も,これがくやしいという.

山下公園のさきにある山下埠頭から本牧にかけてが,本当の横浜港で,コンテナのためのキリンのようなガントリー・クレーンが林立している.コンテナの形状は国際規格だから,それをあつかうガントリー・クレーンも国際規格である.だから、ほんとうはぜんぜんめずらしくない.世界中のどこへいっても,コンテナ船がやってくるならガントリー・クレーンがなければ出し入れができない.

その港の機能がたっぷり楽しめるのが,本牧ふ頭D突堤の尖端にいちする「横浜港シンボルタワー」である.ベイブリッジからもみえる.
外観は,古墳時代の円墳のようだが,まんなかに灯台風の塔がたっている.
内部はらせん階段だから,げんきなひとでないと展望スペースまでは苦労するだろう.

ここで,日本人の「観光」にたいする特性が学習できる.
展望できる先はどこかという解説があるくらいで,あとは勝手にみろ,という殺風景である.
眼下にひろがるコンテナヤードで,巨大なコンテとそれを輸送するトレーラー,そしてなによりもこのコンテナを移動させるための特殊機器が,じつにせせこましく動き回っているのだ.
これらの解説が一切ない.この不親切さは特筆に値する.

タワーという建造物を建てたら,もう興味がない.
このやりっぱなし感が,全国の観光地の共通点である.
いったい,ここでなにをみて欲しいのか?なにを見せたいのか?というテーマ性が欠如しているのだ.
このことが理解できないで,客船の乗客が市内を観光してくれないとくやしがっても,見向きもされないだろう.

それで,駐車場をはさんで向こう側にある「休憩所」も,いかにも公共施設という風情で,テーブルやイスにおいても,まったくウェルカム感がない.「売店」も,なにを売っているのか?販売員すら興味があるとはおもえない.

昨年訪問した,ポーランドのグダンスク中心部からでている路線バスで40分も乗った先の終点は,バルト海からの艦砲射撃ではじまった第二次世界大戦勃発地で,広大な公園に記念塔がある.旧社会主義国の「休憩所」と横浜港シンボルタワーの「休憩所」の雰囲気が似ていたのが印象的だった.

かつての横浜を代表する目抜き通りの伊勢佐木町商店街も,いまではすっかり寂れてしまった.
ハマッコは,わざわざ東京の銀座に行く必要がないとおもっていたのだ.
伊勢佐木町と元町で,買いものの物欲はじゅうぶんに充たされていたし,もしろ東京よりもいちはやく舶来のいぶきを感じることができた.
東京なにするものぞ,だった.

それにはちゃんと根拠があって,日本を代表する会社の本社は横浜にあったのだ.
とくに貿易関係の老舗は,明治のむかしから横浜に本社があるときまっていた.
それが,「港町」の本領であるし,だからこその購買力だった.
ところが,飛鳥田という社会党の党首になるひとが市長のときに,法人住民税をいじくった.
これで,あっという間に東京への本社移転ブームがおきた.

さいわいなことに,その東京につとめるひとのベッドタウンとして,横浜市の人口は増えたから,本社があろうがなかろうが,税収は安定したのだ.
こうして,おおいなる田舎としての位置づけがきまった.だから,みなとみらいは,表玄関だけを整備するというつまらないことになった.そこにあるのは,「ポスト・モダン」という「みらい」設定だから,無機質なガラスの建物群だけがそびえたつ.これは,いまどきの開発途上国の都市設計とおなじである.気がつけば,横浜は典型的な途上国と同格になっていた.

伊勢佐木町は,いまではアジア系のひとたちが目立つ「国際」ぶりだ.
もう,米軍の兵隊さんも,貿易商のビジネスマンも,横浜ではめったにみかけなくなった.
どこからみても,観光客とはおもえない生活感でオーラがでているひとたちが,どうみても学校に通っているとはおもえない子どもをつれて,大声で中国語をはなしながら道路のまんなかを闊歩している.もちろん子どもも日本語をはなさない.

その伊勢佐木町から,JR線をはさんで反対側にある横浜市役所が,いまの場所から移転して桜木町駅に高層ビル化するという.
いまの市役所は,昭和34年に完成したが,設計はあの日本を代表する建築家・文化勲章受章者の,村野藤吾である.東京では日生劇場,帝国ホテル本館内茶室などがある.それで,建築学会が保存の要望書をだして,市も保存をきめたという.どんな「保存」をするのだろうか?

昭和34年というほぼ60年前には,横浜市の行政機能はこの建物に収まっていたことを意味する.
あたらしい市庁舎は,例によって例のごとくガラス張りの「近代的超高層建築」だろうから,60年先までもつか知らないが,人口減少で行政も縮小を余儀なくされたら,「保存」した現庁舎がちょうどいいサイズになっているかもしれない.

そのときの住人たちが,用なしになったガラス張りの建物をどう始末するのだろうか?建築学会が「保存」を要望するような建築なのかはしらない.
それよりも,街のそこかしこに建造・運用されている,公共のエレベーターやエスカレーターが,いつまで動くのだろうと心配する.メンテナンス費用がつきたとき,まちがいなく放置される運命だろう.それはもう,西ヨーロッパ先進国でおきている.電気代がはらえない交通信号も間引きされるだろうが,これは放置されると勘違いしてあぶないから,ちゃんとなくしてほしい.

残念ながら,行政の関係者は議員もふくめ,まだ人口が増えるモデルをつづけている.
いや,もしかしたら,パーキンソンの法則にはまっているのかも,とおもわれる.

じっさいに,まだやっている「みなとみらいの再開発」では,どんどん新しいビルがたつ予定になっている.
しかし,いけばわかるが,ほとんど魅力のない街が,新しいというだけで観光地化しているようだ.
「横浜ならでは」というものがないのだ.
だから,泳ぎつづけないと死んでしまうまぐろのようなもので,ずーっと「再開発」をしないといけないモデルになってしまった.これは,一歩まちがうとスラム化するきけんがある.
もったいないし愚かなことである.

発展とはなにか?を哲学しなかったつけが,巨大なブーメランでかえってくるだろう.

退屈な観光地

どんな国のひとがお節介焼きなのか?とかんがえをめぐらすと,やっぱり,とおもうのはドイツ人ではないかとおもう.

一人旅をしていたむかし,スイスのホテルで朝食をとっていたら,となりのテーブルのドイツ人夫妻から声をかけれた.笑顔でないのでなにかとおもうと,わたしのプチフランスパンの食べ方がわるいという.手でわってちぎってはいけない,ナイフを横にいれて切りなさい,といって見せてくれた.
「パンはこうやって食べるものなのよ,わかったわね!」真顔であった.

それでは,「ハラキリ」のようだから,日本人としてはあまり気分がよくない,と言いかえそうかともおもったが,めんどうくさいのでやめた.
いわれたとおりにして食べたら,夫婦ともはじめて笑顔になった.
それで,この夫婦が先にすませて席を立ってから,またちぎって食べた.若い頃の思い出である.

スイスでは,住宅のベランダには花を飾ることが条例できめられているから,花を枯らしたりとだえさせたりすると,お隣さんから文句をいわれ,放置すると罰金刑になる.それに景観にわるいから,洗濯物を外に干してはならない.だから,どこにいっても「生活感」がない.世界の公園と自慢するのはよくわかるけれども,これもゲルマン系の習性だろうか.
ドイツでは,ガラス窓がよごれていても見知らぬ通行人が文句をいいにくるから,執念すらかんじる.

スイスは,九州ほどの小国ではあるけれど,ハイキングコースの総延長は地球をまわる距離になる.それではと,ケーブルカーや登山電車には乗らないで,ハイキングを試みた.
整備された山道を歩いていると,ちょっと一服したいなぁとか,のどがかわいてきたなぁ,とおもうと,なぜか国旗がみえてくる.そこは山小屋で,かんがえられる要求はすべて満たされるようになっている.たぶん,なんにんものモニターが歩いてきめた場所に建てたのだろう.

めざす頂上まで,何カ所にもこうした山小屋があるから,てぶらでハイキングがたのしめるようになっている.
また,眺望がいいばしょには,どんな景色がみえるのか解説した絵図があるから,無視できない.
絵図と実物の景色を確認したくなるようになっている.

それで,頂上につけば,またそこにも国旗があって,テラスでビールがいただける.もちろん,缶ごと口にするなどという野暮はない.ガラスのグラスにそそいでくれるし,ちゃんとしたサンドウィッチも陶器のお皿で提供される.
だから、けっして安くない.

しかし,そうやってゴミの管理もしているから,ちゃんと便利さを買っていると認識できるようになっている.山小屋の背面には,上水タンクがあって,床下には山にたれながさないように汚水もタンクに貯められるようになっている.どうやってここまで運んだのか?廃棄物をどうやってふもとまでおろすのか?そんなことを想像できないひとは,ここにはいない.

歩いて山をのぼっても,山小屋でつかった金額をかんがえてみたら,ケーブルカーや登山電車をつかったのとそうたいしたちがいはない.こうやって,ちゃんとお金をつかわさせるが,どちらを選んでもきっちり価値は提供されているから,損をした,という気はまったくしないように設計されている.
以上のはなしは,35年前のことである.
これが,観光産業というものだ.

この点,日本人はみごとに無頓着であるし,貧乏くさい.
日本のリゾートなら,せいぜい使い捨てのカップや皿に,プラスチックのスプーンやフォークがあたりまえだろう.本気で地元の森林をまもるつもりがないから,間伐材の割り箸をつかわずにプラスチックの箸を使わせる.それで,利用者には,ぼられた感がのこる.どこにも「豊かさ」がない.
これで,環境を守るという発想らしいから,どうかしている.

それならば,「観光都市」ではどうだろう.
東京の新橋・汐留開発で,鉄道貨物駅であった汐留駅の跡地をえがいた都市計画のマスタープランをもって,同時期・同様に鉄道貨物駅跡地のドイツ・ケルンでの都市計画と比較するこころみがあった.

東京都の職員がケルン市の職員にマスター図面をみせると,ケルン市の職員は,「われわれはこれを『都市計画』とは呼ばない」と一蹴していた.その後,都がどのように修正したかは,くわしくしらないが,このときドイツ人が言いたかったのは,ゾーン・プランニングの概念が希薄だということだった.

日本でのゾーン・プランニングは,商業,住宅といった「用途」を中心概念にしているようだが,ドイツでは,旧市街・新市街という街並みのデザインの美しさのちがいをさきにかんがえるらしい.つまり,伝統建築エリアと,モダン建築エリアである.これを広い道路で区分する.
たしかに,われわれ日本人にはこの概念が希薄だから,国内にのこるのはせいぜい旧家という「点」であって,エリアと呼ぶにふさわしい「面」はすくない.

上述の都の職員を責めるだけでは公平ではない.背後にはかならず日本建築学会という魔物が存在するからだ.鳴り物入りの建物を行政がつくろうとしたら,かならずコンペをやることで,役人は結果責任を回避する.応募の候補者も,選考にあたる専門家も,建築学会のなかでいきているひとたちだ.

ところが,さほどにゾーン・プランニングに無頓着という日本人だが,あんがい戦前につくった「日本人街」はちゃんとしているという.
いまでは「リゾート」として有名になっている青島に,旧日本人街と旧ロシア人街がのこっている.写真でみせてもらったが,なるほど,どこかでみたような街並みだ.戦災で焼けるまえの銀座のようであるから,ヨーロッパとはちがう.

英国のチャールズ皇太子といえば,日本ではスキャンダルをイメージするのだろうけど,あんがい芸術肌のひとである.彼は,カメラをもっていない.
各地を訪れると,ささっとスケッチをするのだ.それから,おもむろに水彩をほどこすという.
その彼が,ロンドンの街並みや,世界各地にできているショッピングモールを批判した本まで出版している.「英国の未来像-建築に関する考察-」は,日本語版もある.街並みの美しさが失われることが,そこに住む市民の損失であることを大層な説得力でかたっている.

小田急江ノ島線に,湘南台という藤沢市の駅がある.ここは,相鉄いずみの線や横浜市営地下鉄の起点・終点だから,神奈川県内の交通の要衝でもあるが,けっして観光都市ではない.
しかし,魔物と上述した,日本建築学会が賞賛した建造物があるので,これを観にでかける価値がある街である.それは,藤沢市湘南台文化センターこども館,という駅前の公共施設である.

同様に,JR根岸線本郷台駅前にそびえる,神奈川県立地球市民かながわプラザ,という施設名称からしてあやしい建築も観ておきたいから,春の湘南観光にいかがだろうか?ただし,ゲテモノである.
わたしはこれらの建造物を観ると,旧ソ連科学アカデミーを牛耳った,ルイセンコをおもいだす.
チャールズ皇太子が観たら,卒倒するだろうし,思想としての日本文化への重大な疑問をもつだろう.

観光庁が,外国人観光客に日本観光のアンケート調査をしたら,もっともおおかったこたえが「退屈な日本」だった.
正直な回答がえられたことは確かだろう.