全国一律の安心とムリ

どんな地方に行っても、「全国一律」がある。
コンビニと百均がそれだ。
コンビニをコンビニせしめているのは、最大手にしてわが国で最初のコンビニの物語がかたるように、「配送」にこそ仕掛けの「タネ」がある。
つまり、じつは「コンビニ」とは、「流通の完成形」なのである。

さいきんのコンビニは、コーヒーにその「オリジナル」を求めている。
どちらのコンビニ・ブランドでも、販売する商品のおおくは、「ナショナル・ブランド」を主体とするから、看板ごとに「ちがい」を訴求するには、さいしょは「弁当」や「おにぎり」だった。

ところが、どちらさまもこれを用意して行き渡ったので、つぎは「おでん」になった。
それから、「揚げ物」になって、プライベート・ブランドの商品群開発へと進化した。
そして、昨今は、「コーヒー」になったのである。

コーヒーは嗜好品だから、ひとによって好みがわかれる。
それで、熾烈な競争が勃発した。
「販売競争」というよりも、「品質競争」になったのは、「万人向け」にこだわると、コンビニ・ブランドとしての主張が減ってしまうし、特徴的な味と香りにこだわれば、選択肢から除外される可能性もでてくる。

この、相容れない関係の、どこを自社の「コーヒー」として設定するか?は、集客における重大問題になったのである。

これにくわえて、学校の教室にも職場にも、水筒を持ちこむことが許される時代になった。
持ち運びに適した、魔法瓶機能のあるさまざまな水筒が、さまざまなメーカーから販売されている。
ペットボル飲料の手軽さはあるが、これが、「エコじゃない」という価値観がうまれて、マイボトルの水筒へとシフトした。
わが家では、紅茶用とコーヒー用にわけて、350ミリリットルと500ミリリットルの二種類があるから、水筒大尽である。

大手コーヒーショップがそうしたように、マイボトルを持ちこんだひとには10円ほどの値引きがある。
これが、「エコ」になったのは、エコロジーのエコではなくて、エコノミーのエコである。

はたして、セルフでコーヒーマシンを操作するタイプと、店員が用意するタイプに、サービス・スタイルも分離した。
マイボトル持ち込み派としては、ボトルの容量に応じられる、店員が用意するタイプが便利である。
セルフ対応だと、マイボトルが直接セッティングできないからである。
つまり、店の紙コップを注ぐためにだけつかうことになる。

そんなわけで、全国に出張しても、宿泊先の近所にたいがい存在する、コンビニのコーヒーをマイボルにて購入するのは、安心なことのひとつである。
けれども、じぶんで淹れることもある。
百均の四角いビーカーにレギュラーコーヒーとドリップ用の漏斗とペーパーがあれば、どこでも好みのコーヒーが客室で淹れることができる。

唯一のネックが、客室設置の湯沸かし器で、これが用量がすくないと、ほしい量がまかなえない。
電気ポットがあると、便利なのである。
すると、いったい、どのくらいのひとが自室でコーヒーを淹れているものか?
かなり「レア」かもしれない。

その「レア」さを、清掃係が発見して、どのくらい「情報」として客室販売の責任者に伝わるのだろうか?

昨今の、ホテル等における客室清掃は、ずいぶんと専門会社に業務委託するのがふつうになったけど、客室の使用方法についてのレポートをあげることは、「清掃業務」に含まれないだろうから、宿側が宿泊客の客室における使用状況をしることができなくなっている。
はたして、これで「宿泊業」といえるのか?

レギュラーコーヒーを淹れれば、「コーヒーかす」がでる。
だから、わたしは、ゴミ箱にハッキリした痕跡を残している。
これが、客からのメッセージでもあるのだ。
すなわち、朝食のコーヒーへの不満表明である。

さいきんは、ビジネス・ホテルの「無料朝食」でも、レギュラーコーヒーのサービスがあって、客室への持ち帰りもできる配慮がある。
すると、朝食の場が「味見」となって、気に入ればマイボトルに入れることができる。
つまり、むかしからの宿よりもコンビニエンスになっている。

こうしたことが、「ムリ」だというなら、いったいどんなことをやっているのか?
宿の独自コーヒーがあっていい。

そういう時代になっていることを、全国一律のコンビニがおしえてくれている。
あんがい、宿の経営にかかわるひとたちの感覚に「ムリ」があるのである。

不思議なことである。

場末の飲み屋は場末か?

青森に来た。
初めての土地である。
街の第一印象は、交通機関がきめる「駅」であるけど、この地には東北新幹線の「新青森駅」とむかしながらの「青森駅」がある。
かつての「青函連絡船」の想い出は、もっぱら「青森駅」であることはいうまでもない。

新幹線から奥羽本線に乗り換える。
電化されているとはいえ、いきなり2両編成のワンマンカーがやってくる。
どの位置に止まるのかは、地元のひとらしきひとたちの集団に近づくしかないが、あんがい的外れの場所で待っているのはどういうわけか。
「あらら」といいながら、通りすぎた列車のあとを追う。

5分ほどの一駅で「青森駅」に到着する。
「終点」からながめると、線路が右に曲がっているのは往年のとおりなのか?
ここから、連絡線に搭乗するひとの波や空中撮影されたかつての「青森駅」の写真が通路に掲示されている。
この「センス」が、JR東日本なのだ。もっとちゃんとながめられる場所にしないと、通行のじゃまになる。

青森は「港町」なのだ。

ここが肝心で、そのへんの衰退する県庁所在地とはちがう。
にもかかわらず、横並びの感覚が抜けないから、住民は単純に「ダメだ」と思い込んでいるのかもしれない。
しかし、雪のためのアーケードがしっかりしている駅前商店街は、シャッター街ではない。
申し訳ないが、山梨県の甲府駅の悲惨とはわけがちがう。

いったん、甲府は全国に視察受け入れを表明して、その実態をさらけ出すといいだろう。
第一は、各県庁所在地が甲府ほどは酷くないと安心する。
第二は、甲府のようになりたくないと感じる。
第三は、どうしたら甲府のようにならないで済むのか?をかんがえるきっかけになる。

このように、恥をさらすことで、甲府は自分でできることをかんがえるきっかけになる。
すくなくとも、いまの山梨県知事をえらんだ、国による支援が役にたたないどころか、かえってマイナスになることをしることができる。
甲府といえば武田信玄だけれども、武田家滅亡後は徳川の牙城になる。
「甲府殿」から、第六代将軍にだってなっている。

これが、山梨県人の国家依存のはじまりなのかしらないが、将軍輩出後は柳沢吉保が城主になるから、あんがいと「栄耀栄華」を誇ったはずだ。
しかし、一般に、青森県民が山梨県の甲府市の現状を識るチャンスにとぼしい。
だからこそ、「山梨に行く」というキャンペーンを青森県がやっていい。

それに、全国の地方からの修学旅行を山梨にするといいだろう。
かなり「教育的」な旅行になるはずである。
ギリギリ「首都圏」にあっての現状から学ぶことは重要だ。

その青森は、繁華街が分断されていて、中心街はやっぱり「港」周辺なのだ。
このあたりは、横浜と似ている。
かつて、船員たちや港湾労働者たちのいこいの場があったのだろう。
その意味で、大都市横浜の衰退は、青森をけっしてバカにはできない。

宿でもらった飲食店案内図には表記がない場所に、地元も認める店があった。

青森県はやっかいな「県」で、かつての南部藩と津軽藩からできている。
これが東西を分割するから、明治政府の強引さがわかるというものだ。
もちろん、両藩の仲は悪く、とくに南部藩からしたら津軽藩は裏切り者にあたる。
それが言語にもあらわれて、県内でも南部方言と津軽方言は相通じない。
江戸語でもない、「標準語」ができた由来である。

雪が降る青森市から、雪のない八戸へ仕事の都合で移住すると、八戸(南部藩)の同僚からいわれる「イヤミ」が辛いという。
青森市の悪口しか言わない、と。
スペインのバスク地方や、イラク周辺のクルド人のことをおもえば、別の「県」になっても不思議はない。
この意味で、青森県人は「我慢強い」から、それが「東北人」の性格になったのか?

さては、この地元も認める店は、元は「民間」の発想から生まれた「屋台村」であった。
紆余曲折して、いまも「民間」の管理となっている。
それでかしらぬが、公共がつくる地図に表記されない。
地元から全国に新聞・テレビで報じられている店の女将は、「どうしてかしら?」という。

「情報統制」がおこなわれているのである。

このようにして、地元行政は地元の情報を公開しない。
さすれば、統括するオーナーが補助金を申請し、これ見よがしに役所のお陰とすることで「よし」とする。
こうして、ミクロで衰退を促進したら、街全体のマクロで衰退してしまう。
役所栄えて街滅ぶとはこのことだ。

そんなわけで、今度は山梨県の甲府市のひとが青森にやってきて、その情報統制の「妙」をならうのか?
それとも、ばかばかしいと一笑に付すのか?
観に来るひとが、役人ではなく住民であれば、こたえはしれている。

しかし、役人どおしが傷をなめ合うなら、絶望は続くのである。

ならば、こんな場末で全国にしられる店をどうやって維持しているのか?
それはあんがい単純で、自分の得意技を駆使しながら、だれになにを提供するのか?という自問に自答しているのである。
だれに?
なにを?
である。

すると、場末なのにこの店「だけ」が場末ではなくなるのである。

ワープロかエディタか?

いまさらだが、ワープロソフトはほとんど使っていない。
ベタ打ちの文章を書く場合、やっぱりエディタを使ってしまうのは、「癖」になっているからだろう。

しかし、ワープロソフトには「文書校正」機能がついていて、文字を打ちながら指摘してくれるメリットがある。
なので、ワープロソフトに抵抗するわけではないが、「仕上げ」に文書校正専用ソフトでチェックすることはしている。

原稿の入稿に、特定のワープロソフトを指定されることがある。
このときも、エディタで作成した文書を校正専用ソフトにかけてチェックしたものを、ワープロソフトにコピーして提出という手順をおこなっている。

なんだか手間をかけているのである。
はたして、どちらがいいのか?
あくまでも、「書く側の立場」でかんがえてみたい。

なお、文書入力における「インターフェース」は、もっぱらキーボードなので、以前書いたように「静電容量式」の「英語キーボード」をつかうことを前提とする。

その理由は、思考をさまたげない、ということの重要性はそれなりに理解いただけるかとおもうが、「静電容量式」の「英語キーボード」は、これを超えて打鍵時に「快感」をもたらす。
つまり、思考を「促進」するものだからなのである。

念のため、「英語キーボード」だから「英語」を入力するのに適しているというよりも、「ローマ字入力」に適しているのである。

文章を入力するというのが、「執筆行為」になったいま、原稿用紙に手書きする、ということはほとんどなくなった。
大作家が、高級万年筆と特注の原稿用紙を愛用したのも、おそらく「入力時の快感」のためだとおもわれる。

その入力先は、もはやパソコンになったので、どんなソフトウェアを選ぶのか?が次の選択となる。
大別すれば、本タイトルのとおり、ワープロソフトかエディタとなる。

パソコンの記憶容量と、処理速度がなかった初期の時代、ワープロソフトは編集や印刷の多機能性をもって特化しようとしたけれど、いかんせん、それを肝心のパソコンがスムーズな動作をしない、できない、ということで、書き手にはえらくストレスになった。

そこで、本来はプログラムを書くためにあったエディタが、テキスト文書を入力するだけの機能であっても注目された。
つまり、単機能ではあるが、とにかくパソコンがフリーズしないのは、思考のさまたげにならなかったのだ。

それに、保存する文書も、もっとも単純な「TXT形式」という、「万能選手」であったから、どんなワープロソフトにも貼りつけることができた。
それで、あとから編集と印刷をワープロソフトでおこなえばよい、という作業上の利点を活用できたのだ。

しかしながら、とっくに、そんなパソコンの欠点が克服されたので、もはや「重い」ワープロソフトだって、難なく作動するようになった。
ただし、ページ数がある、本格的な文章だと、いまだに重くなるのがワープロソフトではある。

書き手にとっていえば、悩ましいことになったのである。

そんなわけで、ワープロソフト派は確実にふえている。
一本のソフトで、やりたいことが全部できるというメリットは、確かに魅力的ではある。

いまどきのワープロソフトには、アイデア・プロセッサ機能だって当然に付加されている。
ワープロがワードプロセッサーの略語なのだから、思考を促進するためのアイデア・プロセッサが付随するのは必然だったろう。

けれども、多機能がすべてではない。
深掘りされた単機能のよさもある。
ワープロソフトがさまざまな機能をのみこむのを横目に、エディタ側はエディタ側で、文章打ち込みにだけの分野で進化をはじめる。

編集や印刷機能については、それでも充実してきて、だんだんとワープロソフトに接近しているようにもおもえるから、開発の方向に疑問があることはあるものの、ふつうの文章から、論文、小説など、あるいは、ブログ記事などをエディタで書くひとはまだまだ健在だろう。

すると、エディタで足りないのは、「校正」になる。
いまどきのワープロソフトには、「校正機能」がついている。
しかし、ワープロソフトの校正機能は、あんがい脆弱で、このあたりは、アメリカ製のワープロソフトと日本製のワープロソフトの実力差がある。

日本語文書の「校正」なら、日本製のワープロソフトに一日の長がある。
それでも、専用の校正ソフトにはかなわない。
そんなわけで、校正ソフトを「つかう」、という一点で、入力にはエディタでかまわない、という結論にいたっている。

ならば、最初から校正ソフトに入力してはどうか?
残念ながら、これがまた中途半端なのである。

ワープロソフトもそうだが、文書入力中にいちいち指摘されると、これが思考をさまたげるのである。
だから、とにかく気持ちよく文書を打ちまくって、おもむろに校正できるのがよい。

一方で、校正ソフトにはエディタにある機能がほとんどない。
テキストを貼りつけて校正する、という基本手順があるからだろう。
エディタモードと校正モードが一発で切り替わるソフトがないものか?

ない物ねだりはつづく。

長期政権の実質無成果どころか

「モラル・ハザード」(moral hazard)についてかんがえたい。

この言葉は、主に三つの要素的な意味があって、そのなかの「日本語」の意味は、外来語としてというよりも「和製英語化」したという特徴がある。
それは、「moral」を「倫理」と訳したことが原因とされる。

辞書によれば、単数形での「moral」には「教訓」という意味合いがつよく、「道徳」の意味ならば複数形「morals」や「morality」を用いるとある。

また、おおくの辞書で「moral」は、先に「形容詞」としての解説があって、名詞の解説はあとになっている。
これにくわえて、「morale」という発音も綴りもことなる名詞が、日本語の「やる気」とか「士気」の意味になる。

あんがいややこしいのだ。

それで、英米人がいう「moral hazard」は、
・プリンシパル・エージェント問題
・保険業界用語
という二つの意味を、状況によってつかいわけている。

・プリンシパル・エージェント問題
プリンシパルとは、部下に業務を任せたひとという意味で、エージェントとは、任されたひとをいう。
たとえば、営業マンの社外でのサボりとか、経営者の判断が株主に高いリスクをもたらす場合などをいう。

・保険業界用語
保険を掛けているから安心だとして、かえって注意散漫になって事故率が高まることをいう。
また、金融危機のときにアメリカ合衆国政府が金融機関に公的資金を投じようとしたとき、議会がこれを「moral hazard」だとして否決したときのつかいかただ。

さて、そんなわけで、わが国をながめて、歴代最長を誇る現政権には、どんな成果があるのか?と問えば、ほとんどなにもないばかりか、「moral hazard」すら起きている。

これに、野党のまったくの無為・無力という、「moral hazard」がそえられて、政権の無成果を補助している感すらある。
野党による本質的な質問がないから、政権に打撃をあたえることができないばかりか、その無能・無責任さが、かえって政権の支持率を維持する役割を果たしているからである。

つまり、国家中枢における「moral hazard」が発生しているのがわが国なのだ。
実質「全党相乗り」が、国家で起きている。
このときの「moral hazard」は、上述のすべてを指す。

新型ウィルスの問題が、「防疫」という概念から、「経済政策」という分野にまで「感染」して、さまざまな「moral hazard」を一生懸命やります、と首相が発言したという「moral hazard」が起きた。

たとえば、学校を休みにしたから、子どもの面倒をみる必要が親に生じて、そのために仕事を休むばあい、賃金を政府が保障するとか、給食センターに働くひとや、仕入れ先業者、あるいは農家に補助金をだすとか。
もちろん、これに「中小零細」へ、実質無利子・無担保の貸付制度を創設することもふくまれる。

なんでもありなのは、「前例にとらわれず」ということだというが、その「前例」とは、「moral hazard 防止」のことだったのではないか?

この政権は、成果が無いことでしられてきたが、とうとう「反政府的」な政策を打ち出した。
つまり、日本政府の理念であるはずの「自由と民主主義」に対する、重大な攻撃を開始したということだ。

まったくもって、超強力な「社会主義」をおこなう、と宣言したに等しい。
「党」が「政府」を支配する形式は、どんな「党」がやっているのかをかんがえれば、もはや自民党こそ国民の敵である。
自民党内に、自由主義者が絶滅した証拠である。

有給休暇なら、仕事を休む理由をいちいち会社に説明する必要はそもそもない。
すると、有給休暇を超えて休むときの「保障」を指すのだろうが、どうやってこれを政府がしるのか?そのための企業の事務負担はいかに?

北海道では、給食用の牛乳が余りだしたが、バターは余っていない。
なぜか?
おなじ牛乳なのに、飲用の場合と加工用の場合とで、政府がさだめる引き取り価格がことなるからである。

これを「自由化」すればよい。

民間の銀行経営が行き詰まっているのに、政府系の金融機関、たとえば「日本政策金融公庫」が、無利子・無担保貸し付けをおこなうのは、民間金融機関に「死ね」といっているようなものだ。
金融庁は、なにがあっても「担保をとれ」といっている。

いったい、どんな「理由」で、無利子・無担保貸し付けをおこなうのか?
ゾンビ企業がふえるだけである。
焦げ付いたときは、自動的に国民負担になる。

こんな「経済政策」が、「自由主義」の名の下であっていいのか?
「moral hazard」をこえて、もはや「革命」だ。
自民党政権は、「社会主義革命」を「無血」で、しかも、選挙結果を経て、世界史ではじめてを開始した。

もはや、わが国は滅亡の崖っぷちに立っている。

もう、自由主義者はわが国にいないのか?

病院に行ってはいけない

なんだか、はなしが混乱しているのが、「新型コロナウィルス対策」である。
紙製品の買い占めも、冷静な判断力を失わせて「あおる」のだから、いまどきの「あおり運転」を集団でやっているようなものだ。

これにのせられるのも、いかがかとおもう。
すると、あの「B層」が思いだされる。

日本人を分析すると、この「B層」が8割も占めるというから、わが国の劣化の原因として、重要な視点となっている。
これを「発見」したのは、小泉政権のときの自民党が委託した調査会社である。
委託したのは、このときの党広報部長だった世耕弘成氏(現自由民主党参議院幹事長)だ。

あらためて、この分析とは、まず十字型の基線を描く。
横のx軸は、右に向かって、「マスコミ報道に影響されやすい」とする。
縦のy軸は、上に向かって、「知能の高さ」とする。

ゼロを原点として、x軸y軸ともに「プラス」となる第Ⅰ象限を「A層」、x軸が「マイナス」y軸は「プラス」となる第Ⅱ象限は「C層」、x軸y軸ともに「マイナス」となる第Ⅲ象限は「D層」、そして、「A層」の真下、第Ⅳ象限にあたる、x軸は「プラス」、羽軸が「マイナス」となるのが「B層」である。

すなわち、マスコミ報道に影響されやすく、比較的知能が低いひとたち、と定義される。

念のため、「A層」には、わが国の支配層が多くいると分析されるのは、マスコミ報道に影響されやすく、比較的知能が高いひとたち、となって、いわゆる「B層」を意識的にコントロールできる、とかんがえられている。
つまり、マスコミ人自身がこれにあたる。

日本人の8割という多数が「B層」なので、選挙に勝つための「マーケティング」は、「B層攻略」が鍵を握るのは当然なので、単純化した短いフレーズをくり返すことが、もっとも有効な手だてとなる。
それで、「郵政選挙」を歴史的勝利に導いたのだった。

いま、「A層」のマスコミが、不安をあおって焚きつければ、「B層」が、おもいのとおり行動するので、愉快で仕方ないことだろう。
ナチスの宣伝を一手に握った、プロパガンダの天才は、ヨーゼフ・ゲッペルス。
これを、いま、日本のマスコミがやっている。

ものが「感染症」なのだから、感染しないことが重要で、人混みに積極的に出かけない、というのは間違ってはいない。
学校を休みにしたのは、子どもや若年者が感染しても、重症にならない、という症状の特性があるから「大丈夫」なのではなく、かれらが保菌者としてウィルスをばらまくことを防ぐためである。

つまり、子どやもや若年者たちから、高齢者や生活習慣病のひとが感染し、それが「重篤化」するのである。

すると、「ウィルス検査」の実施とはなにを意味するのか?
じつは、高齢者や生活習慣病のひとが、もっともあつまる場所が病院であることをかんがえれば、病院内での通路における待合室に長時間いることが、おおきなリスクなのである。

それゆえに、「ウィルス検査」のために、病院へ感染のうたがいがあるひとたちを「集める」ということは、驚くほどの危険に、病院がさらされることになる。

検査にやってきたひとたちが、おなじく検査にやってきた感染者からその病院で感染したとしても、直後にあって検査しても「陰性」になるはずである。
なぜなら、「潜伏期間」があって「発症」するのだから、いまここで感染したひとが検査をうけても、「陽性」にはならない。

しかし、「陰性」だから安心だと、意気揚々に帰宅しても、すでに感染している可能性があるから、なにがなんだかわからない状態をつくりだすばかりとなる。

病院における感染の可能性を高めることの「やばさ」は、医療従事者である、医師や看護師も感染するおそれを増すことからも容易に想像できる。
つまり、救急で搬送されるべき病院が、その機能を喪失してしまっている可能性すら高めるのである。

そのため、政府は、「いつもの薬」を必要とする生活習慣病のひとが病院にこなくても済むように、電話での処方や4週間をこえる期間での薬剤の引き渡しを奨励しだしている。

また、この時期の「花粉症」についても、第一世代の抗アレルギー薬なら、街のドラッグストアでの購入を可能として、とにかく病院に行かせない、という努力をはじめた。

自分が「B層」かもしれない、とおもうなら、斜め上の第Ⅱ象限にあたる「C層」を意識したい。
マスコミ報道に影響されず、比較的知能が高い層のことである。
この「層」は、残念ながらわが国では小数派だが、成熟社会の「成熟」とは、「C層」がふえることでもある。

ようは、自分でかんがえて行動できるひとをいう。

その意味でも、まずはテレビを観てはいけない、のである。

組織をデザインできない

「日本的経営」のすばらしさが強調されたのは、70年代のおわりから80年代のなかごろまでのほぼ10年間であった。
時代背景には、二回のオイルショック(1973年、1979年)がある。

どちらも、実体経済に大影響したのは、「翌年」のことで、トイレットペーパーや洗剤が世の中の買いだめの対象になる「パニック」となった。
さいきん、このときに貯め込まれた物資が「発掘」されるニュースが相次いでいる。

しかし、これ以前にはやっぱり二回の「ニクソン・ショック」という事件があった。
1971年7月、突然の米中国交回復と翌8月の金(ゴールド)と米ドルの交換停止をあわせていう。

また、社会問題として「公害」が、深刻度を増していた時期でもある。
「徹底した産業優先」が、見直しの対象になって、「徹底した」が取れた。

「世界の工場」になっていたわが国は、「ものづくり」を通じて、いかに生きのこるか?が大テーマになった。
つまり、「産業優先」の継続である。

このときの教訓は、持てるものと持たざるものの勝負で、持たざるものが勝利することができる、というものだった。
巨大なアメリカが、その持てる国内資源を「安く国民に提供する」という政策で乗り切ろうとした結果、ガソリンをがぶ飲みする「アメ車」が政府によって保護された。

持たざるわが国は、完全燃焼させることによる排気ガスをクリーン化する「挑戦」に成功し、これが低燃費という恩恵も同時にもたらした。
ホンダのシビックの成功は、世の中の語り草になったものだ。
この陰に、マツダのロータリーエンジンは淘汰されたけど。

この「成功体験」が、今日までつづいているのである。

しかし、時代をもうちょっとさかのぼると、アメリカによって教えてもらった恩恵がある。
これを、すっかり忘れさせたのも、この「成功体験」だった。

つまり、日本人はあんがい「恩を仇でかえす」ことを平気でやる民族だ。
なるほど、故事ことわざになっていることの理由がわかる。

1955年(昭和30年)に発足したのは、なにも国内政治における「55年体制」ばかりではなく、財界(経団連、日経連、日本商工会議所)が積極的支援した、日本生産性本部(現社会経済生産性本部)だった。

発足したばかりの半年後の同年9月、わが国を代表するトップ・マネジメントの面々を視察団としてアメリカに派遣している。
わが国の「外貨持ちだし規制」が解除されたのは、1964年(昭和39年)4月1日のことである。

しかし、「自由化」といっても、外国に渡航するのは年に1回だけで、持ち出せる外貨は500ドルまでだった。
しかも、1ドルは360円だったから、ほとんど買い物らしい買いものはできなかったはずである。

だから、財界のトップ・マネジメントが「視察団」をもって渡航したのは、いまでは想像もできない「快挙」だったのである。
約5週間にわたる日程で、彼らはなにをみて、どんなかんがえを持ったのだろう?

帰国後、『繁栄経済と経営』という報告書をまとめている。
詳しくは下記の本にある。

この中に、「経営技術者としての役割」という項がある。
先の報告書で、アメリカの経営の特徴を6点挙げている。
1 計画性
2 市場開拓
3 労使の協力
4 人間性の尊重
5 科学性
6 社会的責任

じっくり吟味する価値が、いまだにあせてはいない。
そして、日本の企業組織の欠点として、「決定的に重要なのは組織デザインであるにもかかわらず、そうした基本がわが国の企業には欠けていた」、と指摘している。

これはきわめて重要な「発見」であったが、現在の日本企業の経営において、はたして認識すらされていないのではないか?とおもわれるのは、まことに残念なことである。

すなわち、組織デザインとは、その組織が組織としてあるはずの「目的」や「目標」を「達成する」ということにおける、合理的な組織をつくるうえで、欠かせない概念をいう。
ようは、目的合理性に基づく組織の作り方、ということである。

学校内での体育祭や文化祭を催行するためにつくられる、「実行委員会」をかんがえれば、どんな組織が無駄なく活動できるのか?をかんがえてこそ、その行事を成功に導くのである。

すると、日本的経営の三種の神器、
・終身雇用
・年功序列
・企業内労働組合

が問題なのではなく、そもそも「組織デザイン」をかんがえたこともない、ということの破壊力の方が、よほど重要であることがわかる。
つまり、企業組織の「土台」がなっちゃいないから、この上の構造物が傾くのである。

欧米人は個人主義で、日本人は集団主義だというけれど、個人主義だからこそ、組織デザインを重視した経営をしなければ、維持することもできない。
一方で、日本人の集団主義とは、じつは他人に依存することだから、無駄を無駄ともおもわない。

これが、生産性を低下させる原因だとかんがえれば、「組織を科学する」ことをもって開始しないとどんどん貧乏になる。

残業代の削減で生産性が向上するはずがなく、こんな無駄がまかり通るのも、政府依存という集団主義のおかげなのである。

卑しさがバレて円安に?

欧米人の「合理性」からしたら、意味がないことに意味を見出す。
これぞ、日本文化、ではある。

けれども、新型肺炎という感染症に対しても、この「文化」をつかうとは、まるで「魔術」を信じる所業である。
それでかしらないが、さまざまな「条件」がそろってきて、あたかもこうした「魔術」が社会の決め手になった感があるのは、21世紀の奇跡か?

いや、そうではなく、人類史に残る「愚挙」であろう。
あまりの「愚かさ」に、はたして「人類の教訓」にもならぬ。
ただの「お笑いぐさ」ではないか。

むかし「集団主義」といわれたものが、いまや「全体主義」に変換されただけで、いかに日常生活を非日常の「不便にすること」が「安全確保の努力」をしていることのアピールとアリバイになったのだ。

重要なのは、科学的根拠にもとづいた合理的判断によるものではなく、なんでもいいから「安全を優先させている」ということが主張できればよいことになっている点だ。

もちろん、「効果」なんてどうでもいい。
「国民運動」として、感染症に立ち向かう姿こそが「美しい」のである。
みんなで努力すれば、感染症の拡大を克服できる。

あまりの「愚劣さ」に、全身の力が抜ける。

韓国ドラマの時代劇にあった『チャン・ヒビン』のセリフ、「卑しい者ほど命を惜しむ」が、現在の日本人をイメージしてつくられたとしたら、まさに「おっしゃる通りでございます。ヒビンさま。」としかいいようがない傑作の一言であった。

その韓国に、わが国はとうとう、1人あたりのGDPと労働生産性で後塵を拝するようになってしまった。
OECDの2018年を分析したレポートである。
つまり、抜かれた。

日本国の凋落が止まらない、のである。
同レポートによれば、わが国の1人あたり労働生産性では、トルコやスロベニアにも抜かれている。
スロベニアは、旧ユーゴスラビアの構成国だったから、なんと旧社会主義圏の小国にも劣る状態なのだ。

このブログで何度も触れているが、日銀がとっくに「日本株」(上場企業の株式)の大株主になってしまっている。
にもかかわらず、新型肺炎による経済減速に対して、日銀総裁は先日、「大規模緩和をつづける」と発言している。

つまり、日本株を買いつづけるということだし、金融機関の貸出を減らさないように、金利を維持するということだ。

これは一体なにを意味するのか?
日本語で語ったから、国内向けのメッセージに限定されるので外国には関係ないということにはならない。
つまり、国際金融資本のみなさま、どうぞ儲けてください、と言っているのだ。

では、国際金融資本のみなさまが儲けるおカネとは、いったいどういうたぐいのおカネなのか?
それは「国富」のことを指す。
かつての「安全資産=円」が、根底から揺らぎだした。

日銀が提供するというのは、マーケットが需要と供給のなかで自動的につくりあげる「相場」ではなく、日銀がこの「相場」をむりやり維持するというのだから、株を買って、しばらくして売れば、どんどん儲かると言っている。

損をするのは、投資額がすくない国内投資家、すなわち日本人なのである。
通貨の番人、日銀がその職務を放棄して、無用の「魔術」にはしっている。

はたして、これは「経済学」として成り立つのか?
つまり、責任ある立場のひとがすすめる「経済政策」として、許容できるものなのか?
もちろん、国際金融資本のひとたちは、舌なめずりをしているにちがいない。

こんなバカなことが、「アベノミクス」というめちゃくちゃで実行されて、もう重症の「麻薬中毒」になったのが日本経済である。
財界の爺さんたちは、これをやめさせないばかりか、もっともっとと、政府に依存するばかりだから、「薬漬け」の廃人状態になっている。

これを、「卑しい」といわずしてなんと表現するものか?

アメリカは素早く減税と金利低下を実施して、いま、アメリカ国債は史上最高値をつけている。
これに、金(ゴールド)も最高値をつけたから、アメリカの株式市場が心配になる。

すなわち、市場は「リスク・オフ」にポジションをとっている。

この真逆が日本政府で、もはや世界の「逆神」になって君臨している。
それが、国際金融資本にとっての「うまみ」そのものだから、なるほど日本料理の「うまみ」が流行るわけである。

アメリカの株式が下落すれば、依存する日本市場も下落すること確実で、日銀が底上げした分がそっくり国際金融資本の手に渡る。
どうにもならない愚策が、国富の流出を加速するのだ。

悪乗りしかできない日本の役人は、もはや発狂してさまざまな「感染対策」という「魔術」を繰り出している。

厚生労働大臣が記者会見して、正直に言ったとおり「感染源が追えなくなった」から、なんでもいい適当な理由をつけて、国民に不自由な生活を強いることしか思いつかない。
それでとうとう、平時における「戒厳令」的な、外出禁止令を出すに至っては、もう、政府が活動をやめたほうがいい。

春の選抜高校野球が、競馬よろしく無観客試合にしてもやるのは、オリンピックを意識してのことなのだろう。
けれども、そもそも各国が選手を日本に送り込むのか?

でも、各校が辞退したならどうするのか?はかんがえない。
高野連という爺さんたちの集団が、「それは美しくない」といって、強制的に大阪や兵庫にあつまるように命令し、これに従わないと、あとからどんな嫌がらせを受けるかわからない恐怖が支配する。

これはもう、感染への恐怖ではなくて、社会的制裁をうける恐怖なのだ。

戦後最悪の状態がここに現出した。
けれども、これもぜんぶ国民の責任である。

卑しい発想を捨てて、政府が打ちまくる麻薬を断つ。
そして、官僚独裁政府をいかに打倒するのか?をかんがえなければならない。

30年前の、東欧の自由革命がいま、この国に本気で求められている。

欲求不満が事故の元

企業活動で「安全」といえば、スローガンがうたわれる。
これが、月替わりで掲示されるものだ。
「安全第一」は、うそではなく、会社にとっても働くひとにとっても基本にあって、当然とされている。

ところが、事故が絶えない。
安全が第一ではなくて、「なんとなく」ないがしろにされている。

これを「工学」としてかんがえるひとがいる。
人間は間違える動物であるから、「絶対」はないのは仕方がないけど、事故を容認するするわけにはいかない。
それで、事故を防ぐ技術をかんがえるのである。

しかし、「うっかりミス」ということが事故原因のほとんどだ。
この「うっかり」を研究しないといけない。
すると、やっぱり機械の方ではなくて、人間の方が問題になる。

慣れ親しんだ作業だと、からだが覚えていることもあって、あまり深くかんがえずに「なんとなく」やっていることがある。
これが、「注意1秒、ケガ一生」につながる「うっかり」を生む。
しかし、人間は集中や緊張感を持続させることがむずかしいので「ついうっかり」がでてしまうのだ。

だから休憩時間が必要なのである。
強制的に休憩させることまでするのは、過酷な環境での作業や危険作業ではあたりまえだが、軽度の作業だっておなじである。
つまり、作業スケジュールのなかに、休憩時間を無理なく強制的にふくめる段取りが重要で、必須のことになる。

しかし、これがなかなかできない。
きまったルーチンならいいが、変則作業のなかにあらかじめふくめるのは、あんがいと面倒なことだ。
この一種の「手抜き」が、事故につながるのである。

いま、さかんにいわれている「AI」への期待とは、従来ならば複雑で優秀な機械をうごかすのに「プログラミング」が必要だったものを、これからは、機械が勝手に学習してじぶんで動いてくれることである。
つまり、人間の側の「手抜き」が正当化されることへの期待だ。

残念だが、このような機械に代替できない、おおくの作業の現場では、なにも変わらない、ということが発生する。
つまり、本当の手抜きがまかり通ることになるし、それをまた深くかんがえてはいないのが実情である。

俺たちの仕事は仕方がない。

というあきらめでもある。
それでも事故を防ぎたいなら、毎度の変則作業であっても、機械に「プログラミング」をするつもりで作業分解し、危険や事故が予想できる作業上の注意点をあぶり出しておくことは無駄ではない。

これを、仲間で共有して、声かけを心がけながら、じっさいに声かけをおこなえば、かなりの安全性が確保できるはずである。
しかし、現場によっては一人での単独作業になることもままある。
であれば、指差点呼をふくめ、自己チェックの訓練をほどこすことが効果的だ。

たとえば、路線バスの運転手は、安全のためにこうした訓練を受けている。

さらにいえば、安全帽や安全眼鏡の着用をうっかりしないで事故になるケースもある。
ちょっとだけ追加作業をするような場合であったり、着用が面倒くさいといった場合である。

このときの本人の「心理」は、着用の手間と不快感に対して、安全性の比較をしているものだ。
このときの「基準」は、過去の経験による。
だから、ベテランほど危険で、実際の事故も、この道何十年のベテランが引き起こすことが目立つのだ。

こうなると「うっかり」よりも、さらに「確信的」になっている。

「まぁいいか」

上述の比較判断を瞬時でおこない、その判断ミスが事故になっているのである。

では、なぜこのような判断をしたのか?
そこにひそむ「心理」にこそ、経営者は注目しなければならない。
それは、表面上の「自己過信」である。

しかし、これを「慣れ」からくる「自己過信」として結論づけてはいけないのだ。
その深部には、「自分は特別だ」という心理があるからである。

なぜこのような心理になったのか?
周辺との立場や、経営者たちへの感情すなわち「不満」が、「俺様は特別なのだ」という感情を形成する。
もちろん、こうした場合、「周辺」とは後輩や自分より能力が低いとみなす同僚たちを指す。

その感情が、ルールを破っても問題ないという理屈になるのである。
けれども、大きなルールを破るわけにはいかない。
それで、極々小さな、しかも、現場だけにあるルールを破るのだ。
結果的に、安全帽や安全眼鏡を着用しない、ということになって、とうとう事故を引き起こす。

これを「欲求不満行動」という。

だから、上司は、こうした行動をみつけたら、その場で注意するのは当然だけど、しっかり「心理」の深読みをすべく、行動観察や面談をして、おおもとにある「欲求」を満たすか、なにかで代替することで本人の「欲求不満」を削除するか低減させることが必要なのである。

人間の心の側面は、個々人によってちがう。

だから、AIがすばらしい、とはいかないのである。

自治体広報誌の記事

3月は「春」のイメージと「年度末」が重なる妙な月である。
これを歌ったのが、天才中島みゆきの『春なのに』だった。

どうしてこうなるのか?
それは、わが国政府の会計年度が4月からはじまって翌年3月で終わるからである。
これに、学校も引きずられることになったのだ。
しょせんは「カネ」をあつかう「予算第一主義」である。

世界でみると、政府が暦年を採用しているのは、ヨーロッパ、中国、韓国。
10月からはじまるのが、アメリカ合衆国。
4月開始が、わが国ということになっている。
あんがい、「暦年」が多数なのである。

そんなこんなで、年度末、毎月配付される自治体の広報誌にどんなことが書いてあるのかのぞいてみた。
ふだんは、ポストからストレートに古新聞箱にいくものたちだ。

まずは神奈川県。
横書きなので、新聞とは逆のページが「一面」にあたる。
『かながわ気候非常事態宣言』という物騒な文字のうえには、昨年の台風19号の巨大な渦巻きを、気象衛星からの写真で大写ししている。

記事の内容は、知事の署名があるから、本人によるメッセージなのだろう。
いちおう、このひとは政治部とはいえ元報道記者だった。
どちらの報道機関も社内で「政治部」は、他部よりも格上になっているらしいが、「政局」しか書かない、書けない集団なので、頭脳がなくても字が書ければ勤まるだろう。

オーストラリアの森林火災を例に、「地球はすでに持続不可能な悪循環に陥ってしまったのではないかと心配になってしまいます」と、心配しているのだが、個人ならいいが知事という公人としてだと、こちらが心配になってしまう。

そこで、大写しの衛星写真に言及して、「今の地球の異常な気象からすれば、今後はこういった規模の台風が毎年襲ってくるという前提でさまざまな災害対策を考え直さなければなりません」とは、「前提」がおかしくないか?

わが国を襲った台風の強さや大きさは、いま衛星写真でみることができるからといって、昨年の19号が特別だったわけではない。
むしろ、ヘクトパスカル(むかしは「ミリバール」といった)で比較すれば、巨大な台風は「昭和の時代」の方がたくさんきていて、昨今のほうが「小型化」しているのだ。

それで、「こうした危機感を県民の皆さまと共有し、ともに行動していくことを目的に(タイトルの「非常事態宣言」をだした)」といい、なぜか「SDGs」の理念が突然でてきて「いのちを守る持続可能な神奈川を目指してまいります」と結んでいる。

「SDGs」とは、国際的NGO(非政府組織)である「WWF(世界自然保護基金)」という組織がかかげているもので、2015年の国連総会で採択された、2030年までの行動指針になったものだ。

「国連」というお墨付きがあるから、とうぜんに日本政府が取り組む課題にもなっている。
すなわち、神奈川県知事は国に依存しますと「宣言」しただけのことである。

なお、WWFの世界本部有力者たちは、事故を起こした化学メーカーのトップだったりして、この活動による「免責」を期待していることでもしられ、わが国を震撼させた「ロッキード事件」に関与した人物もふくまれていることに注目したい。

すなわち、あやしいのである。

これは、科学を無視した「政治活動」そのものである。
なるほど、政治記者だった知事の政策としては、本人にとって魅力的だが、県民にとっては「ゴミ」である。
こんなものに血税予算を投じる愚挙を、愚挙といわない愚挙がある。

つぎは横浜市。
林市長はピンクの衣装に身を包んでの写真で、「お花見」を推奨している。もうすでに「お花見気分」で、瀬谷区が候補の「世界花博」が待ち遠しいのだろう。
首相の花見のことは、すっかり他人事である。

「広報よこはま」のいい点は、横浜市のデータとして毎月「人口」と「世帯数」が直近の数字で発表されることである。
しかし、むかしは「市職員数」もあったはずだが。

裏面には「新型コロナウィルス」の「予防」として、イラスト付き解説がある。
こまめに手を洗う。
咳がでるひとはマスクを着ける。(アルコール消毒も有効です)
よく眠り、バランスよく食べる。

「手袋の着用」がないけれど、おおむね文句はない。
けれども、世間には消毒用アルコールもマスクも消えた。
ならば、どうするのか?の広報がひつようだから、「役に立たない記事」なのである。

政府が感染症対策のマニュアルをつくっていないという事実が、自治体にもないという事実をつきつけるから、この広報誌のページを埋める「記事=役所の活動」のほとんどが、やめてもいいものになる。
税金の無駄どころではない、職員雇用の無駄なのだ。

横浜IR(統合型リゾート)のパブリックコメント募集の記事が、ウィルス対策の下にあるけど、前ページには「横浜市新たな劇場整備検討委員会」が、劇場をつくれといっている。
IRのなかにできるのとは、あたかも「別」のようで無駄である。

そして最後のページの最後は、「改正健康増進法」による、4月1日からの「原則屋内禁煙」の記事である。
これは、「法律」だから横浜市のせいではないが、「禁煙ファシズム」のさらなる推進ということで、おおくのひとが「自由を失う」はじまりを告げる記事である。

たばこを吸う自由を失うのではない。
「自由を失う」最初の事例が、「たばこ」であるだけなのだ。

さては来年度からも、自由を失う、住みにくい国や地域をつくる迷惑な努力が止まることなく推進されることだけは確かなようである。

広報誌を読めば、よくわかる。

「技術」と「技能」の喫茶店

うまいコーヒーがのみたい。

むかし、「味」でのませる喫茶店がたくさんあった。
けれども、点在していた。
それで、電車に乗って行ったものだった。

どういうわけか、よく父とふたりで出かけたのは、母を出しぬく理由をつくっていたのかもしれない。
コーヒー好きの父は、喫茶店のコーヒーを飲んではその店で豆を買って、自宅でサイフォンをつかって再現していた。

これを、母に飲ませていたのは、種明かしなしの「勝負」を楽しんでいたのだろう。
子どものわたしは、もっぱらケーキがうれしかった。
店名にもなっている、自由が丘のモンブランの味はわすれられない。けれども、ここの洋酒たっぷりのサヴァランがたまらなく好きだった。

注文すれば、かならず「呑兵衛」になるな。と呑兵衛の父にいわれたものだ。

コーヒーについてくる、クリームがはいった小さなカップは、その小ささが妹のママゴト用食器ににていて、区別がつかなかった。
それに、牛乳とクリームの区別もつかなかった。
ブラックで味見して、クリームをいれたときの交わりかたが、なんだか不思議な模様をしていて、じっとみているとスプーンでかき混ぜられた。

おとなに近づいて、友人に誘われたのがカウンターだけの喫茶店だった。
「ここのコーヒーが横浜でいちばんうまいんだ。」
どうしてそんなことをしっているのか?けっきょくわからずじまいになったが、たしかに「うまかった」。

しかも彼は、カウンターのなかの主人と親しげに話している。
豆のことや焙煎方法、それに挽き方。
それぞれにうんちくがあって、とてもついていけない。
わかったのは、その組合せの無限さが、喫茶店という「店」をつくっているということだった。

同年代で、あんなコーヒー好きに出会ったことがなかった。
もしや、彼は喫茶店のおやじになったか?
ふと入った店で、「おう、ひさしぶり」と声がかかたっら、と想像するとそれは愉快でもある。

生豆から販売する、コーヒー豆専門店ができてきた。
生前の父が、近所にできたことをしってずいぶんかよっていた。
若かったら、彼とおなじぐらいに凝ったことだろう。

はたして、ホテルのコーヒーはどうか?
あんがいぞんざいにあつかわれているのは、大量生産大量消費のためである。
一日で、何百人ものひとたちがコーヒーをすすっている。

サービス業のえらいひとたちは、工業をバカにする傾向があるけれど、ことコーヒーに関していえば、まったく工業的なのがホテルである。
しかも、いまではとっくに時代遅れになった、大量生産大量消費そのものだから、たちがわるい。

ホテル内高級レストランの業績改革で、よくいらっしゃる常連客の好みをきいて、それを管理し、自由にブレンドが可能にしたらどうかと提案したことがある。
食事の最後のコーヒーを、じぶんの名前がついた番号で、今日は5番で、とかいえたら素晴らしくないかと。

これは、米屋の発想で、店内で各ブランド米をブレンドしてあげて、お客の好みのごはんが炊けるようにする。
スーパーの袋入りではない、「専門店」の生き残り作戦だ。
この技術を応用したらどうか?と。

けれども、ここは高級レストランで喫茶店ではないといわれて、この案は却下された。
それからしばらくして、この店自体が業績不振で営業を終了してしまった。

東京の南千住に、喫茶店の世界でしらぬものはいないという名店がある。
平均律を採用した大作曲家、あるいは「ドイツの三B」の筆頭のひとの名前がついている店で、ロゴもこの作曲家の肖像をデザインしている。

オーナーは、元ボイラー技士。
よって、焙煎は自作の焙煎機をつかっておこなう。
いまや、電器メーカーと自動コーヒーメーカーの開発までおこなっている。

「技術」と「技能」のちがいはなにか?
「技術」は、再現性で数式などに置き換えることができるもの。
「技能」は、人間の能力のことなので、パーソナルなものになる。
そこで、技術者に技能がくわわると、だれにもできない世界がつくれる。

このお店のオーナーが、それである。
もてる技術と技能を、「うまいコーヒー」という主観に集中させたら、だれにもまねできないことになったのだ。

あぁ、理系の力。

店名がついた「ブレンド」をいただいた。
渾身の一杯。
つぎから次に訪れるお客の注文をこなす手際の、惚れ惚れする「切れ味」も観賞しながら、この一杯にいたる「組合せ」をみつける作業はどんなものだったのか?

百杯も、千杯もつくっては「ちがう」として、廃棄する。
そんなことを通過してできたのだとおもえば、お客はとんでもないノウハウを買っているのである。
さも簡単にコーヒーを淹れていることで、この値段ではない。

しかも、この店は、ケーキやパンも自家製なのだ。

けっして立地にすぐれているとはいえない場所に、どこからともなくお客がやってくる。
しかし、このひとたちは「長居」しない。
まるで「寿司屋」のごとく、コーヒーで一服してさっと帰る。

江戸っ子だねぇ。

お店の趣旨を理解したお客とともに、別世界がつくられている。