時代は「事業再構築」

「事業再構築」とは、「リストラクチャリング」という。
80年代、いわゆる「バブル前」の時代、さかんに「リストラクチャリング」がいわれたのを覚えているひとがあんがい少ない。

この「バブル前の時代」とは、「円高不況」の時代をいう。
「戦後世界」という「西側自由世界」を作ったのは、「鉄のカーテン」に仕切られた「東側世界」との経済的交流が断たれた軍事環境を最下層の基盤にして、その上に西側金融システムという「層」があったのである。

世界最強になった経済大国の、アメリカ・ドルを基軸にした体制のことである。
しかし、ベトナム戦争という「泥沼」に、戦費というドルも投げ棄てて、とうとう「金と交換する余裕」も失った。

こうして、「ニクソン・ショック=ドル・ショック」となったのが、1971年のことである。
もっともこの年は、ニクソン大統領が電撃的に北京を訪問した方が早く、わが国ではこちらを「ニクソン・ショック」ということもある。

そうかんがえると、「1970年のこんにちは~🎵」と幸せいっぱいでやっていた「万博」の翌年のことなので、「高度成長」のほろ酔い気分がすっ飛んだ出来事であった。
日本人が、すべからく「単純」だということを確認できる。

もちろん、「アメリカがクシャミをすれば、日本は風邪をひく」というのは、「戦後体制」そのもののことだから、今だって変わらない。
むしろ、アメリカがクシャミをすれば、日本は肺炎になってしまう。
しかし、中国がクシャミをしたら、日本は生きていない状態になってしまったことが、今回のコロナ禍でよくわかった。

そのアメリカが、さらにドルの価値を下げる(本当は円の価値を上げる)ことにしたのが、「プラザ合意」(1985年)であった。
巨大な貿易赤字に耐えられなくなったからである。
このことで、円は1ドル250円から120円になった。

わが国財界は、140円のころ悲鳴をあげて、120円になったら「もたない」と叫んだが、あっさりと120円を突破した。

翌1986年に、「円高不況」がわが国を襲ったのである。
そして5年後には、ソ連崩壊(1991年)となって、東欧の自由化及び中国の改革開放路線が確定した。
これによって、わが国製造業は中国へこぞって生産拠点を移転させることになった。

国内では、円高不況をナントかしようとして、金融緩和が行われたが、これが後の「バブル」を招く。
だから、本稿冒頭の「リストラクチャリング」がいわれた時代とは、円高不況対策のことだったのである。

バブル崩壊による企業業績をよくするために行われたのが、「人員削減=リストラ」である。
「リストラクチャリング=事業の再構築」という意味からすれば、これほどかけ離れた用語はないけど、一気に定着した。

「社員」から「役員」になる、という「出世」をする日本企業にとっての人員削減は、「やってはいけないこと」という不文律があったのだけれど、いったん掴んだ「安全地帯」から出ることを嫌がったひとたちが、「事業再構築」という願ってもない理由を得たのだ。

そんなわけで、各企業とも横並びして、事業再構築ではない人員削減に邁進したことで、もっと辛いことになる事業再構築を先送りしてきた。

このブログでは、何度も「コロナ禍」の本質は、科学を無視した人為によるわざわいであると指摘してきた。
まるで、ネズミが集団自殺するがごとく。
破滅に向かってまっしぐらに走るのが、「正しい」とされる社会である。

集団自殺に加わるのか、こうした集団から逃れるのか?
ここが、経営判断のしどころになっている。
いま、業界単位で横並びすることが、どんなに危険なことであるか。

おそらく、生き残れる企業は、「独自路線」を選択することが決定的となる。

では、独自路線とはなにか?
自社の事業を、根本から見直して、なんのため?誰のため?という問いに自ら詰問することが必要最低限の思考実験となる。
そのうえで、なにをすべきか?をかんがえる。

つまり、リストラクチャリングの手順を踏むことなのだ。
結果的に、「従来通り」という答えになれば、それはそれである。
なにも考えないで「従来通り」とは、まったく意味がちがうからである。

ひとの移動と集合が、まちがった情報によって破壊された。
何年先のことかしらないけれど、こんな「判断をした社会」を嗤う時代もくるだろう。単純ながら意図的な情報戦にあっさり負けた愚か者集団だ、と。
しかし、われわれは今を生きなければならない。

ひとの移動と集合を業としてきたものにとっては、壊滅的打撃となるのは当然である。
公共交通で移動したがらないひとたちと、空間を共有する集合をしたがらないひとたちを相手にどうするのか?

今回の病気が、どうやってうつるのか?を、もう一度科学的な目線で確認し、対策の徹底実施とその説明が必須となろう。
「あたらしい日常」ではなくて、従来の「日常」を取り戻すことをアッピールすることが、もっとも重要なのではなかろうか。

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