キーワードは「脆弱性」

プーチン率いるロシアは、いつから準備をしていたのか?

おそらく、2014年の「政変」から「クリミア併合」に至る過程を経てからの「計画」ではないかと思われる。
もちろん、この年に「ミンスク合意」もされたが、守らなかったのはウクライナ側だった。

しかも、兵力として今回の係争地である「ドンバス」を攻めたのは、ウクライナ国軍ではなくて、富豪の「私兵(「アゾフ大隊」:ネオナチという)」であって、ウクライナ政府はこれを阻止しなかったのである。

ロシアの準備は、「経済制裁」を予測して、もはや外貨獲得の唯一の手段である「資源輸出」の相手先も、オリンピック前に冬の大会開催国と協議を終えていたし、決済方法もドルではない通貨として、「SWIFTからの排除」にも備えていた。

かつての「計画経済」における計画を進化させたといえるから、ロシア政府は機能している。
しかしながら、都合よく「短期決着」、あるいはウクライナ軍の抵抗を軽視して「兵站」の用意なく戦闘部隊だけで突入したのは、ロシア人らしい臆病なまでの用意周到を欠いたための「核」への言及だったように思える。

これを、「プーチンのご乱心」という学者がいるし、軍事常識も欠いている指摘がある。
ロシア軍に「脆弱性」があるとすれば、やっぱり「補給」だ。

飛び道具では、精密な短距離弾道ミサイルを駆使して、ウクライナ軍の基地と司令部をピンポイントで徹底的に破壊しながらも、「誤爆させない」のは、目標の画像をもって着弾点を自動で定める最新技術が用いられている、との解説もある。

しかしながら、ロシアはこのような最新ミサイルの「開発実射実験」をこれまで国内でやっていないことは確認済みだ。
では、どうやって「本番」に多用することができているのか?

それが、北が打って「代理」実験をしていた、という分析をしているのは、ジャーナリストの山口敬之氏である。
確かに、「他」にはかんがえにくい。
ならば、ロケットマンがじゃんじゃん発射することとも辻褄があう。

その報酬は、「現物支給」なのかもしれない。

さて、ウクライナの大統領は、28日、ロシアとの停戦「交渉」に合意したと発表した。停戦の合意ではない。
場所は、ベラルーシ国境付近という。
二回目の「交渉」は、ベラルーシ・ポーランド国境付近と発表された。

今回の「第三次世界大戦」は、米欧がウクライナを見捨てた、ことでの決着になるだろうけど、このことが意味するのは、「脆弱な国家」は、なにもできずにただ領土を奪われる、という「冷厳な事実」である。

これはかつての「列強」が、ポーランドを分割したときと似ていて、当事者のポーランドはなにもできずに、ただ自国が勝手に分割されて、「亡国」したのであった。

その意味でクリミアだけでなく「再び」となる今回も、ウクライナは国土の「一部」を、とられる「だけ」だから、全土を失ったポーランドよりは「まし」だと自分を慰めるしかない。

すると、「米欧」という、れっきとした「列強」が、どう判断するかで「脆弱な国家の運命が決まる」という、むかしながら、に変化はないことがはっきりしたのである。

では、ウクライナが置かれた「状況」と、わが国の状況とを比べたら、ほとんどおなじ、が見えてくる。
報道では、「ロシアが核をちらつかせてウクライナを脅迫している」というけれど、冬のオリンピック開催国は、核ミサイルの「射程日本地図」を公開してはばからない。

「親中派」の本音は、「とっくに脅迫されていることへの現実対応」という理屈にちがいない。
同じくロシアも北も、わが国に射程を定めているから、それぞれの「現実対応」で、経済協力したり、拉致被害者を放置していられるのである。

すると、ウクライナのように目に見える状態ではなくて、日本は目に見えない状態なので、余計に深刻な「脆弱な国家」なのだとわかる。

2000年も続いている国だから、永遠に国はある、というのは、理屈ではなく、単なる「希望」にすぎない。

であれば、「現実対応」として、どうするのか?が問われて当然なのに、これを「問う」ことすらはばかれるのは、「脆弱の極地」である。
それが現代の「神学論争」となっている、「憲法9条論議」だ。

ところで、「近代化」の名の下に、さまざまな「生活習慣」も変えてきたのが、明治期の「文明開化」と「富国強兵」のスローガンだった。
これは、ほんとうは「文明開化」と「富国強兵」をしたかったのではなくて、「不平等条約の撤廃」をしたかったのである。

つまり、「不平等条約の撤廃」のための「手段」が、文明開化と富国強兵だった。
そうやって、国民生活に直結する「大法典」たる「民法」も、フランス民法が日本語になったのである。

もちろん、「明治憲法」だっておなじ理由で、不平等条約の撤廃の条件に、「野蛮を捨てろ」という、野蛮な欧州人にアドバイスされたからであった。

一国の法は、その国の歴史・風俗・習慣の集大成をもって成立するのは、「無法な野蛮」をなんとかしたい欧州人の願いから生まれた。
しかしながら、そんなことは構わずに、外国の法典を日本語に訳してそのまま法典としたから、いつの間にかに「法に書いてある」という理由で、それが「社会のルール」になったのがわが国の根幹にある「たすきの掛け違い」になったのである。

そうやってかんがえれば、現代フランス人が日本に親和性がある理由もわかるというものだ。

けれども、民間人虐殺の大被害を及ぼした近代戦争の体験が、「あつものに懲りてなますを吹く」ことになったので、ウクライナ以上の深刻を自力で補正できずにいる。

この犯罪をやった側が「勝者」となっていることの理不尽を、敵対する「外国勢力」が利用して、ますますわが国の脆弱性が目立つという構図になっている。

唯一人、トランプ氏が「日本に独立」をうながした大統領であったけど、こんな「大問題」を4年間の短さでやれるほどに、現代日本人は強い意志を持っていない。
トランプ氏任期中の千載一遇のチャンスすら、チャンスとも思えなかったからである。

日本が日本でいられる時間も、あとわずか、だということだ。