日本の恥ずかしい「世界最古」

「天皇制」は、共産党用語なので、あまり使いたくないけれど、現存する世界最古の王朝が、我が国の「皇室」なのは事実である。
けれども、「王朝」は、王家だけでは成り立たない。
構成員たる「王侯貴族」と、組織としての「朝廷」がないといけない。

「王政復古の大号令」が出たのは、慶応3年12月9日(西暦だと1868年1月3日)のことだった。
これで徳川幕府が滅亡して、明治新政府になるのだけれど、じつは「朝廷も廃止」されてしまったことは習わない。

これでなんだかわからなくなって、戊辰戦争が起きたのに、である。

つまり、やらなくともよかった「内戦」を、やらされた、ともいえる。
だれに?
武器商人たちに、である。
「白虎隊の悲劇」は、起きなくてよかった意味の「悲劇」なのだ。

そもそも、「天皇」なのに、なんで「王政」で「復古」なのか?という大疑問がある。
なにに「復古」するのか?を、ぜんぜん教えてくれないでただ暦年を暗記すれば、受験は通る。
でもどうして、「皇政」と書かないのか?
当時のひとが、漢字をしらないわけがないし、そこまでフランス革命のいきさつに詳しかったともおもえない。

はるか昔の小学校で、後醍醐天皇と護良親王による「天皇親政」への「復古」なのだ、と教わった。
「もりなが」が、「森永製菓」と結びついて、「おいしそう」とかんがえていた。
それがまた、「もりよし」に読み方が変わって、「おいしそう」でなくなったのは、なぜか「グリコ森永事件」と関連づけたからであった。

「朝廷」を廃止したのは、公卿だけで構成員にしたかったわけではないからだ。
薩長の志士たちが、公卿に昇格したいだけなのなら、朝廷を廃止しなくともよいものを。
つまるところ、明治新政府とは、千年の都を移しただけでなく、完全転覆させたのである。

これを、「尊皇攘夷」と叫んでいたひとたちがやった「尊皇」だから、旧水戸藩の水戸学のひとたちは怒りに震えたにちがいない。
それでか、「政府系の学校」では、幕末から明治における水戸学をやたら「影響力はなかった」と嘘を教えて誤魔化すことにしたのだろう。

島崎藤村晩年の傑作『夜明け前』では、自身の父親が発狂したのを、平田篤胤の国学(「平学」ともいった)と明治政府のギャップとして描いているが、もしや、「水戸学」の影響が隠されているのでは?と、勝手に想像したくなる。

   

また、「京都」は、明治になってからの呼び方で、ずっと「都」とか「京」だけでよかった。
正式には、「平安京」だ。
これを、ヘブライ語では「エルサレム(エル・シャローム:THE 平和)」といって、あたらしい都の造営費用を出したのが、大量移民してきた「秦氏」だったし、彼らが住まった地域を「太秦」という。

朝廷の転覆を誤魔化すために、ヨーロッパの貴族制を真似て、公侯伯子男の爵位をもって、もとの公卿と大名家を懐柔した。
それで帝国議会をつくったら、貴族院も定めたのである。
あたかも、新政府が朝廷の如くにしたので、皇室の孤独はやっぱり無視した。

それでも、宮家を継続させて体面を整えてはいた。
生きているひとたちが観ている前で、いきなり断絶ができなかったからだろう。
なお、伊藤博文は、明治天皇を、ただ「天皇」と呼んでいて、けっして「陛下」をつけなかったことがしられている。

ちなみに、伊藤が明治憲法を起草したというのは、横浜市金沢区にある野島のなかの「夏島」と呼ばれる場所で、いまは横浜市の野島公園のなかに「伊藤博文別邸」として保存されている。
目の前は、「金沢シーパラダイス」で、海からジェットコースターの嬌声が聞こえる風情になってしまった。

敗戦後、多くの皇族が「臣籍降下」して民間人になったのは、生活費を大蔵省が支給しないと決めたからだ。
たとえGHQからの指示があったとしても、大蔵省の役人は法律なしに、ただ生活費をカットしたのである。
それで、家屋敷を堤康次郎が次々に買い取って、跡地に「プリンスホテル」を建てた。

どうして堤康次郎「だけ」が購入できたのか?はしらない。
そうやって、天皇家の本家筋だけが残ったのである。

さて「世界最古」といえば、たいがいが自慢の種になるものだ。

たとえば、世界最古の企業は、いまでも「金剛組」ということになっている。
飛鳥時代の578年に、大阪の四天王寺を建てて以来の宮大工だけど、ちょっと一回倒産している。
それでもギネス登録になっているのは、1759年創業のギネス社も「もったいない」とおもったからか?

では世にも珍しい「恥ずかしい世界最古」はというと、発布以来一度も改正されていない「日本国憲法」なのである。
国民がしらない間に、「改正されない世界最古」を日々更新している。

この、「恥ずかしい憲法」を、本音で批判した勇気ある人物が、外務次官にして駐米大使、駐独大使を歴任した、村田良平氏(1929~2010)で、氏が残した、『回想録』は壮絶だ。
日米安保も切って捨て、「憲法停止」にまで言及している。
おまけに、生涯で仕えた24人の外務大臣の中でも「三傑」にあたる、「不適格者」をほぼ名指しした。

河野洋平、田中真紀子、川口順子の三人だ。
暗に任命権者の総理もやり玉にあがるのだろう。
それは、河野洋平を任命した、村山富市、小渕恵三、森喜朗で、女傑ふたりは小泉純一郎であった。

なるほど、納得。
ただ、わが国の総理大臣は、自分の都合で人事ができるはずもなく、自民党の堕落こそが最悪なのだということだろう。

 

日本国憲法を、ここまで痛烈に批判した官僚(しかも外務事務次官、駐米大使経験者)をしらない。
その「下巻」の終わり二章(十三章、十四章)だけでも「必読」に値するから人気なのか?あるいは読書妨害工作(情報統制)か?なぜか下巻だけ入手困難になっている。

第二次名誉革命はあるのか?

強大な政府を持つ不幸について、前に書いた。
英国の衰退は、なにもブレグジット(EU離脱:2020年1月31日)だけのせいではない。

もともとをいえば、第一次大戦あたりからフラフラになっていたのが、第二次大戦で決定的となって、「パクス・ブリタニカ」が「パクス・アメリカーナ」へと世界の中心が移動したのである。
もっともその「パクス・ブリタニカ」すら、阿片貿易という麻薬を販売して稼ぐ事の「効率」を、国家・組織を挙げてやった結果だったから、産業資本主義が成功したものとはぜんぜんいえないものだったけど。

ちょっとだけ日本の先進的事例をあてはめれば、上杉謙信がうちたてた「上杉120万石」が、関ヶ原後の強制転封で半減し、さらに相続問題で半減して、とうとう15万石に落ちぶれて(それでもでかい)も、120万石の「家格と格式」を死守したから、とうとう上杉鷹山が婿入りしたときの、ほぼ破産状態がいまの英国と重なるのである。

ただし、表向きに存在する英王室の私的財産が莫大なのは、阿片による利益のすさまじさの証拠だし、裏にあるイングランド銀行を所有しているロスチャイルド家の資産の半端なさは、日本人の「お金持ち」のレベルを超えて想像もつかない。
こんな富が一握りのひとたちの個人資産なのだから、日本の上杉家のような覇権を争った「大名家」における困窮と貧乏それに経世済民の思想も、彼らには想像がつかないだろう。

あのJ.F.ケネディが、大統領になったときに、尊敬する政治家は誰かと記者に質問されて、Yozan Uesugi、と答えたことの深い意味を、当時の英語に堪能な若き日本人記者もすでに理解できない教育レベルになっていた。

 

邪悪なフランクリン・ルーズヴェルトと組んで、邪悪な戦争を指導したのがウィンストン・チャーチルだったけど、戦後の日本人は子供の時分から、チャーチルは偉人だと習う悪い風習ができた。
吉田茂は、戦時中の英国駐在大使という閑職にあって、きっとチャーチルのものまねを研究していたにちがいない。

「ゆりかごから墓場まで」を堂々と標榜した英国の社会主義は、戦後、加速度的に進行して、保守党の日和るひとたち(とにかく議席にしがみつく)が、労働党と左傾化競争をしたのである。
これを後押ししたのが、ロンドン大学の構成校、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)だった。

この社会主義者養成校が、なにをとち狂ったのか、あるいは偽装のためか?あろうことか真性自由主義者のハイエクを招聘して、18年も教授職をやらせていた。
おそらく、ハイエクのなかの積年の鬱憤が、歴史的名著と名高いものの、計量経済学者としての自殺になった、『隷属(従)への道』を書かせたのだろう。

以降、ケインズとの激しい論争を経て、ハイエクは法哲学の深淵に向かい、「新自由主義」の旗手となったが、その「新自由主義」がグローバル全体主義に横取りされて、ぜんぜんちがう「主義」としての攻撃対象になってしまった。

つまり、ハイエクの思想とは真逆の、「統制経済=全体主義」を目指すものと再定義されていて、これをやりたい連中がすっとぼけて自己欺瞞の論陣を張り、この土俵に乗って反論するから、どんどんとちがう用語になってしまったのである。

巷間、ハイエクはケインズに「負けた」といわれているけど、実態はその逆で、ケインズがハイエクに歩み寄って、ケインズ自ら「ケインズ経済学(=政府部門に依存する社会主義経済学)における政府の財政出動は、不況時に限る」といわしめたのである。

しかしながら、英国大蔵省の官僚だったケインズが、「不況時に限る」ようなことを、いったん味をしめた政府が「限りなく実行する」ことの原理をしらないはずはないから、どこまでの歩み寄りだったかはわからない。

ただ、ケインズがケインズ経済学の限界を示した事も、いまではどの国の政治家もしらないでいられるのは、学者がとぼけて教えないからだろう。
政府からの「援助交際」としての予算がほしいからである。

こんな先生たちを見破った女子高生や女子大生が、「援交」を求めるのは、よほど教育が行き渡っている証拠でもあるから、教育とはおそるべき洗脳を意味する。

 

そんな堕落した保守党に、彗星のごとく登場したのが、主要閣僚の経験がなかったサッチャー女史だった。
彼女の時代のラッキーは、ビッグテックもいない世の中だったから、ハイエクの政策が正々堂々と実行できた。

しかしながら、そのサッチャー女史を「降ろす運動」が、保守党にできて、まるで砂上の楼閣のごとく、あるいは、積木くずしのごとく崩壊させて、元の木阿弥にしたのであった。

それでまた、社会主義推進が強力に進められて、とうとう日本の自民党のように、共産党も飲み込む勢いになって、英国では労働党の影が薄くなった。
保守党が社会党よりも左傾化したからである。

国王と貴族が現存する、階級社会の英国では、庶民はたいがいが庶民のままで一生を終えることになっている。
だから、教育内容は別にして、日本人がかんがえるほど、英国は平等社会ではない。

英国国会の下院のことを、「庶民院」というのは、貴族からの目線でいっている。
当然ながら、上院にあたる「貴族院」は、勅撰であって国民の一般投票である選挙はない。

名誉革命いらい、国王に政治権力はないので、君臨すれども統治せずになったけど、わが国皇室のごとく伝統もないから、権威もない。
英国王室が、あたかも伝統があるかのように演出する事に執心するのはこのためだ。

そんななか、ミレニアル以降、エネルギー政策を(わざと)間違えて、自然エネルギー(特に風力発電)に依存した大失敗(じつは目的通り)で、庶民はろうそうくで暖をとるまでになってしまった。
これに、家賃の高騰が襲って、寒空の下、ホームレスもあふれ出している。
いまや、大英帝国の庶民は、ドッグフードをかじっているのである。

国民奴隷化を意図する政治がつくりだしたこの悲惨は、議会に対する第二次名誉革命になるのか?という期待を生みだしているけれど、そんな元気もなくなっているかもしれない。

なぜならば、国民投票でブレグジットに賛成した理由が、移民が得る「国民健康保険」への反発だったからである。
分け前はわたさない、という損得勘定をやった根性が政府に利用されてしまった。
ひるがえって、わが国では、外国人への生活保護手当が政治問題になっている。

ほんとうの吸血鬼は政府なんだけど。

「法」ではなくて、局長級の「通達」によるこの制度に、外国政府が正式に「日本に行って生活保護申請をせよ」と自国民にアナウンスしていることが、国家安全保障にかかわるという議論にならないで、個人の損得勘定にするのはどうなっているのか?

政府がより強大化して国民の管理に役立つ、「マイナンバーカード」を申請すれば、おカネがもらえるからやる、という団塊世代の高齢者が多数なのも、乞食になることよりも「自分だけ」を教育されたことの成果なのである。

英国人と日本人のどちらが早く、名誉革命を仕掛けるのか?のみえない競争がある。
しかし、デジタル・シフトして個人情報を握った政府は、歴史上最強の存在になるので、残念ながら「隷属(従)への道」を突き進んでいて、もはや完成間近に迫っている。

そのうち、人生になんか意味がないという「虚無主義」が、政府によって流行るようになるのだろう。
これを誰が言い出すのか?が、裏切り者のあぶり出しにもなるのである。

トランプ氏のタラレバ重大発表

2024年の大統領選挙に出馬を表明した中間選挙後の先月から、ちょうど1ヶ月が経過した15日、予告通りトランプ氏の「重大発表」があった。

日本語の「ニュース」では、スーパーマンやらに扮したトランプ氏の絵があるカード(昔の子供が熱中した「仮面ライダーカード」のようなもの)の特別限定版の販売開始(1枚99ドル)と、これを45枚セットで購入したなら、トランプ氏のディナーにかならず招待される特典付きの発表だった、と揶揄っている情報「しか」ない。

なんという、トランプのずっこけぶり!というわけだ。
しかし、賢明なひとなら、逆神化したマスコミの主張のそのまた逆に真実があることをしっている。

まことに嘆かわしい、「なんだ」という感想しか読者にもたせず、同時に、トランプ氏をバカにする読者コメントが多数のようで、こちらも嘆かわしい。
みごとに、プロパガンダの手中にはまった情弱ぶりを読者に披露させるとは、なかなかに悪意に満ちていて悪質なのである。

これも、「憎悪」を煽る、全体主義の典型的な洗脳手法であることに気づかないのは危険だ。

おそらく、これらの読者は、いま、アメリカ人たちが愕然としている「Twitter File」の波状的発表の衝撃もしらないのだろう。
また、個人情報(リアルな所在地)をさらして、あろうことか、イーロン・マスク氏の子息が乗っている自動車が襲われるという事件が起きた事もしらないのだろう。

しかしながら、いまどきの「ネット・ニュース」の読者が、そこにコメント投稿しているのだから、上記の事柄をほんとうにしらないのだろうか?と、疑問におもうこともある。

手元をすこしうごかせば、たちまち、上記の情報が飛び出すのがネットのネットたるゆえんだからである。

つまり、そこには、「観たくないものは観ない」という意思の存在を感じるし、観たいと思った情報に、ここぞと飛びついて同調することに、へんなよろこびを感じているのかもしれないのである。

これを、一般的に「左巻き」とか、「右巻き」とかという。
巻いた先は、どちらも全体主義にいきつくから、おなじ、なのである。

どちらにせよ、トランプ氏が予告までした「重大発表」を、切り取っただけのおよそ記事とはいえない文章が、どうして社名を挙げてでも出してくるのか?といえば、社としての内部チェックをちゃんと経ている記事だからである。

これを、「編集」というから、その記事をだす主体は、「出版社」ということになって、報道機関とはいわない。
つまり、報道機関が社名を変えないで、いつの間にか出版社になって読者を誘導しているのだから、正しく「詐欺」なのである。

Twitter Fileで曝露されている、イーロン・マスク氏が買収する前のTwitter社内で、どんな言論統制が行われて、現職大統領のアカウントが停止されたかの赤裸々な内容だけでも衝撃的だが、どんどん明らかになるFBI(国家機関)が関与して、具体的な国民監視と言論封殺の指示までしていたことが公表された。

これらのことが、今後、訴訟社会のアメリカでどんな裁判がはじまるのかもあるけれど、「言論の自由を守る」という側が、トランプ氏の側だという事に気がつけば、いわゆる本来の「左派」こそがこれに同調し、言論弾圧への非難を強調すべきところなのに、逆になっている。

そんなわけで、トランプ氏の重大発表とは、自分が大統領に再選され「タラ」、就任後ただちに大統領令を発して、「あらゆる(ビッグテックの含む)言論統制を禁止する」といったのである。
また、深刻な児童の人身売買を真剣になくすための方策をも含んでいた。

それで、言論統制に加担した連邦政府の役人(おそらくSESの高級官僚)を、逮捕し罷免して、役所から追放するともいった。
ちなみに、日本の官僚制を真似たSESは、終身制なのである。

前にも書いたように、さいきんのトランプ氏は「憲法停止」も発言している。

前・大統領時代は、徹底的に合衆国憲法を護るといった公約を守り通したけれど、今度は『怒りのアフガン』状態なのだ。
この発言が、中間選挙後だったことに注目したい。

彼がアメリカン・ヒーローを強調して、絵入りカードを販売するのは、あんがいと用意周到な政治手法の発露なのである。

12月15日は、『スーパーマン』(1978年)が公開された日だ。
闇勢力による児童の人身売買への対応という、大仕事を絵入りカードで強調したのであって、狂った老人ではないのだ。

この点で、トランプ氏もアメリカ国民の、民主党やらの全体主義勢力に対する「憎悪」を煽る手法を用いている。

そして、とうとう馬脚を露わすほどに大胆になったFBIとか、司法省、あるいは国家安全保障省のような役所までもが、国民を監視するためにTwitterを利用したことのヤバさが、禁断のDS(ディープ・ステート)の存在を白日のもとにした。

これでとうとう、「DS」を口にしても、陰謀論ではなくなって、ただの事実になったから、「DS=陰謀論」という方がよほど怪しくなったのである。

ゆえに、トランプ氏が大統領に再びな「レバ」、彼はDSとの全面戦争をはじめるといったのである。

これを、重大発表といわずして、なにを重大発表というのか?

アメリカは、この重大発表を起点として、あたらしい「内戦」に突入した。

それは目に見えない「超限戦」なのだ。
あらゆる邪悪な反トランプ勢力を、思い切りあぶり出して、国民の目にさらしたいのだろう。

2022年12月15日が、開戦の日、となった。

それを、絵入りカードの販売ではじめたところが、心憎いのである。
ちなみに、販売と同時に即刻完売し、すでに驚きのプレミアがついて転売されているという。
需要が供給を上回った証拠だ。

しかして勝算は?

じつは、人類の将来がかかっている闘いだから、負けは許されない。
みずから奴隷になりたい、「役に立つ白痴」たちが、よってたかって邪魔をするにちがいないけど。

健闘を祈るばかり、ではなくて、なにができるのかをかんがえたい。

日本に反撃能力はない

このところ、敵基地への先制攻撃とか反撃能力とかがかまびすしい。
それで、防衛費をGDPの2%にするための増税「予定」が、閣議決定されたと騒ぎになっている。

むかし、防衛費をGDPの1%にするしないで大もめしたことがあって、とにかくアメリカ軍にわが国防衛を「やらせればいい」という、不思議な上から目線でもって、在日米軍の駐留費負担を、「思いやり予算」と呼ぶ事になった。

爾来、われわれ日本人は、なんだかアメリカを「下にみる」ことで、世界でいちばんえらいのは、日本人以外にいない、という、驚くほどの「高貴な民族だ」と自画自賛している。

おそらく、この発想法を真似っこしているのが火病の韓国なので、やっぱり似たもの同士なのである。

けれども、実態は、敗戦以来の占領が続いていて、在日米軍の最大任務が、日本占領の軍事的継続だということも忘れて、自分を支配するものに「思いやり予算」を供出することの「愚」にも気づかない。

すなわち、人類史レベルでの「愚か者集団」が、現代日本人なのである。

むかし、ローマに逆らった「カルタゴ」を日本にたとえる与太話が流行った事があったのも、人類史レベルの愚か者に自己満足を与えるための慰めばなしであった。
まだ、大日本帝国時代の生き証人たちがいたからの「論」で、ほとんど絶えた現代では、もっと愚劣な自慢話が慰みに代わったのである。

あの時代の「非武装中立論」とか、「フィンランド化」という言論は、まだ、正直な愚か者が論じていた分、誰にでも「愚か」だと認識できた。
これらの正直な愚か者たちが、それでも隠して守りたかったのが日本国憲法「前文」と「9条」なのである。

世界最古の王朝たるわが国からしたら、つい最近できた「英国」に、いまだに「成文憲法がない」のに、どうして憲法論議になると、「成文」になってしまうのか?ということすら、だれもいわないのだ。

明治も中期まで、わが国には「憲法がなかった」ことに注目すれば、じつは「憲法が国の根幹だ」というのは嘘である。

一方で、近代法制は、すべて憲法に源流をみる。
だから、憲法がないのは、成文であろうがなかろうが、近代法治国家として成り立たないという信仰がある。

しかし、そもそも、近代国家の憲法は、国民から国家・政府への命令書という意味の文章やら慣習をもってその根拠とするから、日本人一般が、大日本国憲法にせよ、日本国憲法にせよ、自分らでつくったという認識をもっていないことをどうするのか?こそがわが国における憲法問題の核心なのである。

なぜならば、時の国家権力に対抗して市民革命を通じて「突きつけた」(たとえば、名誉革命とかアメリカ合衆国の独立とか)ことがない、日本の幸せな歴史では、その根本の意味が不明だからである。

ゆえに、大日本国憲法にせよ日本国憲法にせよ、政府が勝手に作文して、これを政府が採用するという、見事なご都合によるために、「なんちゃって」状態を現実にした罪がまるで「原罪」となって継続しているのだ。

それで、GHQなきあとも外国からの占領を続けるための運動が、「革新勢力」によって行われてきたようにしていたけれど、自民党ができた理由を紐解けば、なんのことはない、「同じ穴のムジナ」だから、とっくに互いに握っていて、いまや自民党が「革新勢力」のリーダーになったのである。

わたしは、故安倍晋三氏を「保守」とも「自由主義者」ともおもっていないけど、彼が選挙で勝ち続けてもできなかった「憲法改正」とは、なにがしたくて、なにが理由でできなかったのか?

結局、「9条」に変な文章を追記する案しかなく、「専守防衛」という意味不明に縛られた。
だれも大黒柱にあたる「第13条」のことをいわない。

外国からの占領を続けさせることが、オリジナルの存在理由としてあるマスコミが、防衛費の増額に反対するのは、その「保守性」からすれば驚くにあたいしない。

しかし、これまでの外国とはちがう外国に占領される事が「狙い」に変化したとすれば、日本人にはかなりダメージが大きい。
それは、現世だけでなく、「未来永劫」の意味になるからだ。

この意味で、与党を形成している一方の、公明党と創価学会の思惑が、結成以来の亀裂となる大問題になるはずだけど、共産党とおなじ組織構造のこれらからは、なにが起きているのか外部にはわからない。

サウジアラビア王国とおなじで、宗教を否定する国家とは本質的な一致があるはずがないからである。
すると、公明党はいつ創価学会が離反するのか?という存亡の危機にあることがわかる。

しかし、軍事的な敵基地への反撃能力があっても、法的にこれを執行できないという根本の解決なくしての予算拡大は、いったいどんな意味があって、増税なのか?にはなしが戻る。

すると、わが国を支配するのが外国ならどこでもいい、ということの表明にほかならず、もはや「いつ?」になってきている、台湾有事に、期限を決めない「予定」としての閣議決定をしたことの、外国向けメッセージにこそ意味がある。

後から前から、あるいは横から、どうぞ、という売国と亡国のメッセージなのだ。

なぜなら、亡国すれば増税もなにも関係ない、からである。
いよいよ来年が、わが国滅亡の年として世界史年表に残るのか?

そのとき、何を唱えるのか?

「南無妙法蓮華経」?
あるいは「南無阿弥陀仏」?
それとも、「毛沢東語録」?

財政破綻待望論

あまりにも「しがらみ」が、垢となってへばりついてしまったので、この際、財政破綻してクリアできないかとおもうのである。

この点で、アメリカはまだ健全なところがあって、議会で予算審議がスタックすると、連邦官庁の閉鎖がおきる。
建物の維持費、たとえば、電気や水道代も払えないし、もちろん役人の給料も払えない。

そうなると、無給でも職務を遂行する道理がないので、役所に出勤するものはいないし、電気がとまった職場ならパソコンもうごかない。
よしんば、パソコンが単独でうごいても、政府システムにアクセスできなければ仕事にならないのが現代のお役所仕事だから、だれもガソリン代を負担して出勤しない。

これは大変だ!国民生活はどうなる?

とならないのは、国民がこうなった事態の様子をみているからで、役所機能が停止しても困らないことがわかるメリットがあるからだ。
そうなると、次の予算審議で、その困らなかった機能についての予算が削られる。

アメリカの政治の仕組みは、地方選挙区ごとにある議員事務所への電話による陳情がふつうで、日本の「目安箱」のような上から目線ではない。
市町村議会ですら、議員の紹介がないと、議会事務局への陳情書が受理されないのとはちがうのである。

それでもって、予算編成権はあくまでも「議会」にある。
なので、議会予算局が事務を取り仕切っている。
連邦国家たるアメリカ合衆国では、日本の衆議院にあたる連邦下院の予算局が、国家予算の編成事務をしている。

それで決まった予算の執行だけを、財務省が行うのである。
もちろん、地方もおなじで、それが地方議会の存在意義だけど、日本の地方議会も役人に依存していて、議員は予算についてあくまで「受け身」なのである。

どこでどうやってGHQと握ったのかしらないが、はるか前の明治新政府に持ち込んだ「萩藩(俗に長州藩という)」の、裏金制度たる「撫育予算」を、「特別会計」と言い換えて、財務官僚がほしいままにした。

明治の元勲たちが残した、数々の「別荘」における豪奢な建築は、いったいどこからカネがでたかの説明がないけれど、おそらく国庫から出させたふつうがあったにちがいない。

なので、いまでも「特別会計」は、「一般会計」と分けて、国会にての審議も報告もひつようのない、なんでもあり、になっている。

そもそもGHQの日本占領目的は、日本を二度とアメリカと英仏蘭に逆らえない国にすること(永久属国化)なので、彼らが命じて、やめさせた事とはじめさせた事をみれば、ちゃんと目的合理性での一貫性がある。

この点で、内務省は解体したが自治省にして本質を残し、大蔵省には指一本触れなかったのは、それが将来わが国の衰退原因となるからで、大蔵官僚が優秀だからという神話は、目的に合致した嘘である。

その嘘を強固にするために、偏差値教育をもって官吏養成校の東京大学を頂点に置く、実態として国民のためになんにもならない教育制度として権威づけまでして「神話化」したのである。

GHQがいなくなって、主権を回復したことになってはいるけど、結局のところ「占領軍」は残って、「在日米軍」になった。
この軍隊の駐在目的の第一は、日本防衛ではなくて、日本占領の継続にある。
ゆえに、日米合同委員会の米国側は、在日米軍の軍人たちしか出席しない。

「55年体制」という仕掛けが、自民党と社会党の役割分担として成立し、以来、一般会計さえもろくな議論をしない、という慣習をつくってきた。

それが、予算をぜんぜん審議しない「衆議院予算委員会」になった。

だから、目くらましの「爆弾質問」やらで、社会党の存在をアッピールしたけれど、予算案自体はほとんどそのまま国会を通過する。
社会党が自民党と政権をつくった、「本音」の村山内閣で、とうとう爆弾質問すらない、政権与党の好き放題が実現したのである。

もちろん、予算編成権を死守しているのは財務省主計局だ。
おなじ財務省に、国税庁があるから、議員は国税調査権の発動が怖くて、財務省のいいなりになっている。

国税調査権とは、『マルサの女』で暴かれたとおり、脱税について一種の「逮捕権」をもっている。
ゆえに、わが国は、財務省・国税による「警察国家」なのである。

なんでもいいから増税をしたいのは、岸田氏だからではない。

岸田氏の個人パーソナリティーを責めても、なんの意味もないけど、なんも意味がないからマスコミが彼への憎悪を煽るのである。
岸田氏は、「組織」のひとなのだ。

トップだからなんでもやっていいという、元中小企業庁の長官がいるけれど、このひとの個人攻撃をするマスコミの意図もおなじで、民間企業のばあいなら、まずは「株主」がこれをチェックしないといけない。
次が、労働組合だ。

それを、ガバナンスの問題としているのは、マスコミ自身の経営にも問題があるからで、わかりやすい例がNHKとかフジテレビになっている。

とくに、NHKは株式会社でもないから、株主はおらず、労働組合は「左巻き」ときているから、そっち思想のプロパガンダ機関になってもだれにも制御できなくなったのは、民営から公共放送にさせたGHQの意図通りなのである。

話題の、東海ホールディングスは、いわゆる一部上場企業だけれど、株式会社としての監視機能が観られないということか不祥事なのだ。

同様に、岸田政権の増税路線とは、岸田氏の問題ではなくて、与党の問題でしかない。
その与党に、絶対多数の議席を与えているのが国民だから、なによりも国民が気づかない事にはどうにもならない。

その意味で、財政破綻はよい薬(良薬は口に苦し)になるのである。

原点を確認する作業の重み

企業経営の原点はなにか?を問えば、それはかならず「創業の精神」にぶちあたる。

よく「精神論」をバカにするひとにであうけど、人間は言語(ふつうは母語)をもって思索し、その結果として行動することを社会的活動としている動物なので、思索の最深部にある、「精神」がこわれると、人格もこわれる。

それに、たいがいのことはひとりではできないから、分業社会になっていて、食料をつくる農業やらを専門にするひとと、鉱工業を専門にするひととかが、それぞれの分野で別々のものをつくることで、現代文明社会もできている。

そのどこかの一翼をになうのが、「会社」と呼ばれる組織で、個人事業者もこれにふくまれる。
なんにせよ、だれかと協力し合っていかないと成立しないのは、取引先も組織にふくまれるからである。

ふつう、自社の組織図をもって、自分の組織範囲とかんがえる傾向があるけれど、取引先の要望をすりあわせしてこれにあわせないと、得意先になってくれない。
だれもが、得意先をふやしたいとかんがえるのは、収入源がふえるからである。

だから、取引先とは、自社にとって組織の一部どころか、最重要な組織となっている。

このようにかんがえると、収入源がふえて利益もふえることをかんがえる「だけ」では、すまないことがわかる。
得意先が欲しがっているのは、そもそもなにか?をかんがえればわかる。

つまり、大袈裟ではなくて、自社の仕入れもしかりで、どちらさまも、「社会的価値」を欲しがっているのである。

製品やサービスとしての「商品」を買っている、というだけでは、追及があまい。
相手が自社の製品やサービスを買っているのは、自社でそれを内製するよりも、専門の他社から購入した方が「価値」があると判断しているからである。

その「価値」の測定方法が、「価格」という情報なのだ。

だから、自由競争社会での「価格」は、とてつもない情報を社会に提供している。
その「価格」をつくりだすメカニズムが、需要と供給だという原理は、なにも資本主義体制だけで機能するものではなくて、はるかむかしの物々交換の時代からあったろう。

みんなが欲しいとおもっているのに、その欲しいものが希少なら、かならず「価値」があがるばかりか、極端になれば、争奪戦がほんとうの戦争になって、なんと殺し合いになってしまう。

それが典型が、最初は「コショウ」だったし、おかげで原産地たる東南アジアは、ぜんぶ肉食の白人たちによる植民地にされた。
つぎが、「石油」で、同様にアラブやペルシャの産油国が平穏でいられなくなって、それがまたロシアになった。

いまは、「産業のコメ」といわれた、半導体もあるけれど、かつての覇者だったわが国が日米半導体協定なる罠にかかって、台湾企業の進出をしていただく状況にまで落ちぶれた。
おかげで、ひとりあたりのGDPで、とうとう台湾の後塵に拝するまでになったのである。

それで、最後の牙城が「自動車」だけど、日本の内燃機関の最高水準に対応できない欧米が、「EV」なるルール変更を仕掛けてきて、これに売国の与党が応じる展開になっている。

どこまでも、「敗戦」して衰退させたいひとたちがいる。
そんなわけだから、いまや政府のいいなりになっていると、潰される。

これに、産業界(財界)の気づきがどこまであるのかわからない、という不安がだんだん恐怖になって、子供をもつ母親世代とその予備群たる若き女性たちが「歴女(歴史ファンの女性)」になっているとおもわれる。

つまり、「原点探し」をはじめたのである。

必然的に、歴史を学べば「そもそも」をしることのおもしろさになって、それがまた「社会構造の理解」へとみちびく。
なので、そのうち歴女たちは、「神話」から、レヴィ・ストロースにたどり着くにちがいない。

この動きに、いまの浅はかで教養なき財界人は、おそらくついていけない。
政治家の絶望はいうまでもない。

『アマテラスの暗号』を書いた、伊勢谷武氏は元ゴールドマンサックスのトレーダーで、数々の社内での「世界的ルールづくり」を目撃してきた人物だ。
これをするひとたちの「頭のよさ」が、日本人の想像を超えるのは、「(ユダヤ人の)歴史の重みのちがい」だと気づいたいう。

生来から発想の鍛えられ方が、受験エリートとはぜんぜんちがう訓練なのだ、と。

さかのぼれば、明治維新の裏にある当時の外国金融機関の狙いをみたくなるし、豊臣秀吉がやったバテレン追放令の意味もしりたくなる。
わが国の戦後高度成長も、もしや奇跡ではなくて、何人かで描いた巨大な物語の一部にすぎず、なにもバブルだけで踊らされたのではないような気がする。

伊勢谷氏の次作は、聖徳太子を題材にするとの予告は、ペルシャとの関係(といってもユダヤ)が織りなすそうだから、いまから楽しみだ。
もはや、ペルシャもので古典になっているのは、松本清張の『火の路』がある。

一方で、『レイライン』三部作を書いた、榊正志氏は、いまでも現役エンジニアだ。
「草薙の剣」と「邪馬台国」のありかを、大胆にえがいている。
ところどころに、エンジニアとしての「科学的アプローチ」が見え隠れするのは、読者のわたしがエンジニアではないからわかる。

おふたりとも、よくぞここまでお調べになった、とおもうのは、戦後の歴史学会のポリコレを無視できる、部外者ゆえの功績だ。

「日本の原点」にまではなしがすすんで、これを歴女たちはしっかり受けとめるにちがいない。
それが、自身の子供の未来へとつながることを、もうしっているからである。

このことが、人間の精神をつくりだすのである。

いつまで経っても、自社の原点すら無視できることの浅はかを、主婦や若い女性に見破られることの恐怖をしらないでいることの平穏が、どれほどまずいことなのかは、経営危機におちいっても気づかないのだろう。

このおそるべき鈍感が、未来をスクラップ・アンド・ビルドするスピードを速めるのである。
もちろん、気づきのないひとはスクラップにされるのに。

トランプの「憲法停止」発言

2020年11月の大統領選挙から、翌年1月の議事堂事件を経てホワイトハウスを去るまでの期間、どんなに側近から進言されてもやろうとしなかった「戒厳令:憲法停止」を、とうとう本人が口にした。

当時の、大統領だったトランプ氏は、「護憲」を公約にしていたことを、なによりも根拠にして、戒厳令の発動に同意しなかったのである。
じつは、かなりの支持者たちは、こんなトランプ氏に、歯がゆい想いをつのらせた。

邪悪な極左民主党から、アメリカ合衆国(=建国の精神)を守る、最後のたのみがトランプ氏だったから、建国の精神が書いてある憲法を守ろうとしないばかりか、アメリカ社会の破壊をものともしないものたちを、武力で排除する事にためらってはならないとかんがえたからである。

しかし、トランプ氏は、大統領権限にある戒厳令の発動をしなかった。

これには、もしやアメリカ軍を統率する、統合参謀本部議長たる、ミリー陸軍大将とソリが合わないばかりか、ミリー氏が民主党支持ということから、へたに軍を動かすと、クーデターを起こされる危険性に気づいたからかもしれない。

この意味で、将来、トランプ政権の内情が何らかの「手記」とか、「回顧録」で、「翼を失ったエンジェル状態の悲惨」があきらかになるのだろう。
その傍証として、Twitter社から出ている曝露が、トランプ政権の司法省やFBIが、トランプ降ろしをやっていたことだ。

民間人になったトランプ氏は、影の大統領府たる自身の別荘で、さまざまな過去分析をやっていたにちがいない。
それゆえに、この夏の、FBIによる家宅捜索になったとすれば、辻褄があうのである。

精力的で富豪でもあるトランプ氏は、優秀なスタッフを自費で雇い、さらに自身は各州の知事選挙を応援したのは、足元を固めないと頂点たる大統領選挙に勝てないからだ。
しかも、二度と不正をやらせないための準備も怠らないのは、当然である。

にもかかわらず、この11月の中間選挙では、またもや、が起きた。
共和党楽勝が、辛勝になって、上院では勝ったとはならなかった。
いま、アリゾナ州知事選の選挙に関する裁判では、どうしてこうなるかがわからないほどのズダズダが、証拠として提出されている。

もちろん、勝者を宣言した民主党候補は、選挙を取り仕切る州務長官のまま立候補したという「州法違反」すら問われない無法が通っている。
日本でいえば、選挙管理委員長がそのままの立場で立候補して勝った、というはなしである。

勝者として、自分の選挙管理について「公平だった」といえる神経も、日本人にはかんがえられないだろうけど、ならば、どんな指示を選挙管理上の実務でやったのかについては、「秘密」としたままなのである。

こんな一連の出来事を確認して、トランプ氏は、「憲法停止」を発言している。

すこしばかり、今さら感があるのだけれど、彼の本業が、不動産開発業だから、スクラップ・アンド・ビルドをやりたいのは理解できるところだ。
しかし、日本とちがって軍隊があるアメリカで、憲法停止とは軍を動かす戒厳令を布告することになるので、誰が対象なのか?という問題になる。

すなわち、バイデン氏とその政府機構にいる人物たちの「逮捕」を示唆していることになるのだ。
とうぜんに、軍が逮捕権を発動したら、裁判は軍法会議となる。

こんなことは、逮捕される側のバイデン氏からしたら、一応現職の大統領として看過できない。
そうなると、先手を打って、念願のトランプ逮捕をやりたいバイデン氏からしたら、よくぞいった、ということにならないか?

悪くすると、内戦になる。
そうでないなら、アメリカは「南北朝」のような、大統領が二人いることになる。
それは、わが国の南北朝のように、「正統性」の問題なのだ。

トランプ氏は、自身の「正統性」をいうだろうけど、形式上の見た目では、バイデン氏に分がある。
残念だけど、民主主義とは、手続き、をもって正統とする主義なのだ。

せっかくTwitter社から、邪悪な実態が暴露されているのに、トランプ氏の発言の真意がわからない。
この邪悪な実態の広がり、つまり、Twitter社だけの問題だったのか?それとも他社はどうしていたのか?を、拡大追求すべきなのに。

影響力としては、「他社」の方がはるかにあるとかんがえられる。

ついでにいえば、「TikTok」を、州レベルで禁止する動きが出てきていて、これには民主党の州も含まれるから、超党派の運きになっている。
そのプロパガンダの手口と、利用者情報(もちろん個人情報)の取得方法が、用意周到だからだ。

これを、わが国では、デジタル庁が「利用促進」させるという真逆をやって、「LINE」と同様に、行政が関与して、国民の個人情報を外国に引き渡しているともいえる。

軍隊ではない、自衛隊は、なんのために存在しているのかも根本から見直すと、単なる「ジェスチャー」だということになって、なんだか邪悪な憲法の停止もできない罠にはまっていることだけがわかるのである。

サウジは大丈夫なのか?

3期目という掟破りをやったばかりの習近平氏が、飛行機に乗って、サウジアラビアを訪問して、「最高級の国賓」として大歓迎を受けたことがニュースになっている。

トップが飛行機に乗ることの意味は、あんがい深い。

それでもって、「包括的戦略協定」を両国間で締結して、サウジアラビアは、一気に中共圏に加わったように報道されている。

事実上の「国王」にして、現首相の王太子(日本では王太子を皇太子と書くプロパガンダが横行している)は、いったいなにをかんがえているのか?
わからないけど、勝手に邪推してみたい。

なお、外交儀礼としての「国際プロトコール」では、席次を「古さ」ではかることになっている。
たとえば、東京駐在の外交団(特命全権大使)の席次も、着任順になっているから、着任が古い公使級では大使とはちがう序列ができる。

それで、国の席次も「国家元首」の古さ順になるので、世界最古の「王朝」として、わが国皇族が席次の筆頭に「かならず」なるのである。
これが、うそみたいに歴史が浅い英国王朝の、エリザベス二世女王の葬儀でも行われたが、日本のメディアは、例によってこれをいわない。

だれが何といおうと、わが国で消費している石油の最大の供給国は、サウジアラビアで、これに隣国のアラブ首長国連邦(UAE)を足せば、7割というシェアになって、さらに湾岸産油国を加えれば9割になる。

つまり、われわれ日本人のふつうすぎる文明的生活は、アラブの石油の上に成っているのは、いまさらいうまでもない事だけど、これを意識しないで生きているから、あんがいとピンとこないピントズレのひとが多数いる。

地中から出てきた石油(原油)を、タンカーに乗せて日本まで運ぶので、まずはペルシャ湾の入り口にある、ホルムズ海峡の安全(たとえばソマリアの海賊や対岸のイランの動向)が保てないとたちまち大騒ぎになるのである。

それから、インド洋を越えて、つぎの難関がマラッカ海峡で、そのつぎが台湾海峡となっている。
これは、中国と韓国もおなじことだ。

わが国を「(仮想)敵国」としている、中国や韓国、なかでも中国は、マラッカ海峡を自国でコントロールするべく、南の島を埋めたてて要塞化した。

当時のアメリカ・オバマ政権は、「よしておくれよう」というだけで、なにもしなかったから、そのツケをトランプ政権が払わされることなったけど、どういうわけか、わが国のマスコミはこの功績を「戦争を煽る」といって煽るのである。

オバマとトランプのどちらが、わが国の国民生活のためになったかは、かんがえるまでもないけど、かんがえさせない戦略にはまって、オバマやバイデンに好意的な日本人がたくさんいるのである。

これを、情報弱者というけれど、ワイドショーの芸人MCが自らしたり顔で情弱を演じて、一般人を洗脳させる役をしれっとやっているのを、毎日観ていたらこれが「伝染」するから、コロナよりおそろしい。

それで、当時、わが国最初の女性総理を目指すと公言してはばからなかったひとが、島の要塞化を質問されて、「わが国からはるかに遠い島のことだから関係ない」という、驚きの見解を述べて、「ダメ出し」されたのであった。

こんな人物でも、与党の政調会長とか総務会長をやって、政界でのキャリア構築ができること自体が絶望的なのであるけど、岐阜のひとは落選させない。
まぁ、それをいったら、菅氏とか、小泉氏とか、河野氏とか甘利氏がいる、わが神奈川県民のお粗末も、全国民に謝罪すべきはなしになる。

さてそれで、サウジアラビアである。
この国は、サウド王家という一族が支配しているけれど、最初の建国は1744年で、いまの英国の王朝(ウインザー朝)よりぜんぜん古い(格上)のだ。
なお、英国は女系相続したので、女王の死去によってウインザー朝は滅亡した。

国名の「サウジ」とは、「サウド家の」という意味だから、わかりやすい。

王国として権力を掌握した背景に、イスラム教があって、いわゆるスンニ派のなかのワッハーブ派という宗派を「庇護する」ことを条件に「世俗的権力」を得たという事情がある。

日本人は敗戦後、宗教を「理性でかんがえる」ことを強要された(啓蒙主義にはじまる革命思想による)ので、神道も理解できないように改造人間にされたから、イスラム教も理性で解説したがる。

しかし、このひとたちは「信仰」をしているという、「感性」のはなしなので、理解に苦しむようになった。
『旧約聖書』を根源にする、ユダヤ・キリスト・イスラム教徒は世界人口の半分以上になるので、理性派が小数派だと認識しないとはなしが通じないのである。

そんなわけで、平然と宗教弾圧が立法によってできる国にするという、特定宗教の被害者「救済」をしようという、人類史に逆らうことをやるのは、憲法違反以前の問題だけど、だれも気づいていないのか?こわくていえないのか?

信者が自己の「救済」を完全「世俗」の近代国家の法に求める本末転倒に、日本が宗教否定の思想になったことの根源的重要性があるのに。
つまり、中共チームに精神的加盟をしたことになったのである。

いろいろあって、いまの「サウジアラビア」になったのは、1932年のことだった。
だから正規には、まだ90年の「王国」なのである。
ただし、王家がワッハーブ派を「主宰する」ことでの「政教一致」を看板にしたことがあたらしい。

建国時の宗教と世俗のベクトルが、もっと宗教に寄ったのではなくて、一体化したのが、いまのサウジアラビア王国の根源にある。

実質的に最高指導者となった、若きムハンマド・ビン・サルマン王太子兼首相の生い立ち(1985年生まれ)は、例によってよくわからない。
サウジアラビアのキング・サウード大学法学部卒で、神経言語プログラミングの学位を取得し、卒業後は民間企業に就職したとある。

じっさいに、彼の思想がどこにあるのかはわからないけど、サウド家としての立ち位置(じつはこの国の「王族」は1万人:人口二千七百人にひとりいる)からすれば、王族だけでも統率するのに宗教がひつようになる。

この原因は、初代、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの子供が、200人いるともいわれて、五世代目が生まれてきている事情による。

なので、中国との蜜月といっても、宗教を否定する共産主義の中国(日本も含む)とは、水と油以上に交わる可能性はない。
すると、包括的戦略協定とは、完全に「世俗的」なのであって、ワッハーブ派の斎主としては、「悪魔との提携」となる。

これを、伝統的サウド家のひとたちは、一致団結して支持しているかどうかも疑問がある。

むしろ、伝統的イスラムの保守を標榜せざるをえないサウジからしたら、欧米的(キリスト教)グローバル全体主義に対抗する意味が強いはずだ。
すなわち、敵の敵は味方、とする「治乱興亡」の立ち位置からの蜜月なのだろう。

そんなふうに妄想すれば、アラブ的で予想が困難な「ちゃぶ台返し」を、いつ、どのような方法で行うのか?があるだろうし、中共的な「倫理なき裏切り」が先なのか?の順番もふくめて、「離別」についての興味が深まるのである。

ただ、石油産油国の盟主として「SDGs」を気にしているのが、わたし的には気に入らない。
もっと石油を使うキャンペーンを徹底的にやって、国連にカネを出さないといった方が、人類のためになる。

日本にも、SDGsを推進するなら石油を売ってあげない、というだけで目が覚めるのに。

どちらにせよ、自分だけ、しかかんがえないひとたちの「強い握手」は、やっぱり、自分だけのためにある。
そこに、「神の御意思」が登場したり、中共の内部事情たる権力闘争があるだけという、単純さが隠されている。

本当は、日本の立ち位置が一番危ういことがわかった「会談」だったのである。

国際スタンダードの偽善

世の中おかしな事ばかりが起きている。

日本政府のおかしな事は、ずいぶん書いてきたけれど、これは「自公政権」であろうが、「民主党政権」であろうが、大差なかったことへの国民の反省がぜんぜんないことに原因がある。

さらに、仕組みが巨大すぎて、なかなか全体像が見えない、ということも遠因にある。
その仕組みとは、人間の脳内にある「思想」を源泉にしてつくられるのもだから、目に見える事と、見えない事が混在するので、大きさだけでなくもっと見えにくい。

それが、何度もいう「グローバル全体主義=世界共産化」という思想で、むかしは貧乏を嫌った、でも自分で労働しない知識人たちが勝手に自己洗脳して、革命を夢見たものだけど、この中に、とんでもない大富豪たちがいたのである。

そのひとたちが、革命家に資金を提供したことが、眉唾でも陰謀論でもなく、証拠文書がでてきた。
なので、いまでは、ただ革命家というのではなくて、「職業人」としての革命家を指す。

すなわち、自身の思想はもとより、これで生活の糧を得るので、確実に「保守化する」というメカニズムが働く。
これをふつう、「保身」という。

なので、革命が成就しない状態が望ましいことになる。

しかし、それでは納得できないのが、資金だけなく組織やらも提供する、スポンサーとしての大富豪たちだ。
その「富豪」度合いが、グローバル化した世の中になって、過去にない巨大な資産と化した。

その中で、表に現れるのが「年収」という基準である。

日本で起きたバブル経済とその崩壊も、いまでは「シナリオ」を指摘するひともいて、それがまた、まんざら嘘とは思えない節がある。
一方それとは別に、世界の「富裕層」には、いつの間にか基準ができていて、それが「年収30億円以上」というものになった。

失われた30年を過ごしてきた日本人一般には、想像もできない金額だけど、このレベルのひとは、世界に万人単位で存在するのは、とっくに知られていたことだ。

それで、だれに言われたのかしらないが、日本政府も気がついたらしく、年収30億円を基準に所得税増税をすると決めた。
対象者は、たったの三ケタで、200~300人しかいない。
かつての実力からすれば、2万人ぐらいても不思議はないのに。

問題なのは、「増税」というペナルティーをかけることが、一般人への金持ちに対する「憎悪を煽る」ことをやって、その感情がどれほど卑しく、共産主義的かを隠すのである。

つまるところ、ジャパニーズ・ドリームは「悪」とする教育を行うのである。
だから、アメリカン・ドリームをいうトランプ氏が憎しみの対象になっている。

イーロン・マスク氏が解放した、Twitter社がやってきた情報操作のやり口が、つぎつぎと公表されて、とうとう、FBIとか、その上の司法省との結託が暴かれて、言論の自由を保障した憲法違反の事態だったことがアメリカ人に衝撃を与えている。

何度も書くが、憲法が規定するのは、「国家が対象」だから、FBIとか司法省の関与が、違憲となるのである。
これが、トランプ政権下でも実施されていたことに、驚きを禁じ得ない。

つまり、「政権を無視」する、官僚群の存在も確認されることになった。
この官僚群とは、日本の官僚制を手本にしてつくった「終身制のSES」のことをいう。
政権交代で数千人が入れ替わる政府職員を監督する立場の、超高級官僚群である。

もちろん、EUも、日本の官僚制を真似たし、中共も同様である。

歴史的には、「科挙」がオリジナルだけど、江戸期まで科挙を一度も採用しなかった歴史のあるわが国で、「近代化」の名の下に「高等文官試験」という科挙制度を導入し、これを常態化させた。

しかしながら、科挙に合格した超高級官僚群は、「国際機関」という名の「役所」にも入り込んで、国家群を支配するのである。

これが典型は、EUだけれど、すべての国際機関がこれにあたる。

たとえば、IATA(International Air Transport Association:国際航空運送協会)は、「One ID」なる、デジタル統一書類を導入して、搭乗の便を図るとしたけれど、一方で個人情報の統一管理につながる重大事にもみえる。

これが、デジタル・ワクチン・パスポートと連携して、さらに、本物のパスポートもつながれば、はたして「旅行の自由:移動の自由」を制限できるようにも応用できる。

そして、究極が、デジタル・通過だ。
国家などによる個人の生殺与奪が、うそみたいに容易になるのだ。

そんななか、ノー天気なわが国財界は、二度目の「酒屋」をトップにするという人材不足に苛まれている。

最初は、アサヒビールの樋口氏だった。
けだし、世界的に有名なシェア奪回の立役者は、樋口氏の前任だった村井勉氏だと、ハーバード大学ビジネス・スクールの有名な教科書「ケース・スタディ」にある。

樋口氏や村井氏を、あるいは新浪氏を云々したいのではなくて、どうして財界代表が「酒屋」なのか?をもっとかんがえたほうがいいといいたいのだ。
この人事をよろこぶひとは、たぶん「偽善者」なのである。

日本経済は大丈夫なのか?
いまの子供は、遠くない将来、どんな就職をするのか?

辞世を残す人生がない

ついこの前までのむかしのひとは、「辞世」を残して死んでいた。

「辞世」を残さないのが、主流になった感があるけれど、その理由をかんがえると、なんだか辞世を詠みたくなるのである。
しかし、自分にそんな教養がないことに愕然とする。

歌を詠んでたしなむのは、カラオケに興じることではない、完全なるクリエイティブな行為だけれど、その大元になるのはなにも「語彙の豊富さ」だけでなく、最大の問題が「感性の貧弱」なのだと自覚するしかないのである。

当然だけど、辞世とは自分の人生の最期に残す言葉なので、死期を覚悟したら筆をとって書いておかないと、辞世にならない。
これが、いまでは「遺言書」になって、なんだか事務的なのである。

それでは「いつ」、自分の死期を覚悟するのか?という問題が、辞世を残す教養の有無の前に立ちはだかる。
この意味で、「余命宣告」というものは、ありがたいことになるのだけれど、それが、本人の頭脳を明晰なままで、という条件と必ずしも一致しないうらみがある。

いわゆる、痛み止め、ということでのモルヒネの使用がはじまれば、適度な麻薬中毒にさせられることもかんがえておかないといけないからである。
すると、第3ステージとかの宣告を受けた時点で、辞世の準備をしないといけない。

まだ、癌のばあいはいいけれど、脳卒中とか、不慮の事故となれば、絶望的だ。

もっと絶望的なのは、病院は病気を治すところだという、暗黙の了解ができてしまったので、辞世をかんがえたいといっても、嫌なかおをされるにちがいない。
すこし前の世代のひとは、畳の上で死ぬことにこだわっていたけれど、いまは、帰宅させない家族の事情もふえた。

いまどきはいわなくなった「完全看護」というものが、病人の病院への預け入れ、となったからである。

その前は、「いざ」ともなれば家族が病室に寝泊まりもできた。
身の回りの世話を、家族がやって看護師(婦)は、専門の医療行為に特化していたからである。

例によって、穿った見方をすれば、公的健康保険によって、病人の物質化が推進された、ともいえる。
つまり、すべての病人は、「保険点数」によってコントロールされるので、病院は「保険点数表」に記載された「医療行為」をもって営業している。

この点数があれば、「完全看護」という名の下に、看護師の職務としないと点数加算できないから、請求(保険と患者負担の両方)ができない。
売上をたてるにあたって、料金が国家によって制限されるのは、バスやタクシーの料金とおなじ仕組みなのである。

これを、新聞などのマスコミは、「医療産業」とか「ヘルスケア事業」といって、調子にのった政府は、将来の「成長産業だ」とうそぶいている。

すると、意図的に国民を不健康にしないと、成長しない産業になる。
もちろん、将来は、確実に人口が減少するからだ。
だから、人口が減る分も加味して、国民を不健康にさせないと「医療産業」は成長しないという、驚くべきメカニズムに気づくのである。

そこででてくるのが、「不老不死の実現」を擦り込む宣伝(プロパガンダ)なのである。
これがいわゆる、つくられた「健康ブーム」であって、その結果として脳を冒されたひとは、「健康のためなら死んでもいい」とかんがえるようになる。

その浅はかさが、たとえば、居酒屋にある「メガ・ジョッキ」なる商品で、むかしの中ジョッキほどの容器に、緑茶とかトマトジュースで割った「甲類焼酎飲料」ではないのか?

工業的に製造されるアルコールを「甲類焼酎」としていることも意識せず、ただ、緑茶が健康にいいとか、トマトジュースで「正当性」を担保するのである。
その緑茶やジュースに、どれほどの残留農薬があるかも気にしない。

そんなわけで、過去のひとたちの「辞世」を、文学として読んでみることに、それなりの価値があるのは確かだろう。
そこには、確実に本人の生き様が表現されている。

すると、「命は大切」といういまのご時世ほど、個人の人生はないがしろにされていて、「寿命」も「医療」も、比較にならなかったむかしのひとの生き様が、かえって神々しかったことがわかる。

校長先生が自分で出した本だけど、本文の前からすでに一読の価値がある。

それにしても、「辞世」を残すのは、なかなかの日本文化なのだ。
だから、民族の文化破壊をしたいひとたちは、日本人に辞世を残させない努力をしているとかんがえると、妙にスッキリするのである。

『万葉集』が世界に冠たる「詩集」になっているのは、ヨーロッパでもかんがえられない、8世紀にして、天皇や貴族ばかりか庶民が歌を詠んでこれを国家が、一緒に残したことの意味だ。

政府に依存することをいいたくはないけれど、庶民の辞世を集めるくらいの事業をやった方がいい。
国家存亡の危機にあって、はるか将来の人類に、価値あるものになるにちがいないからである。

残念ながら、「歌」にすることができないならば、せめて「作文」でも残しておきたい。