日本に反撃能力はない

このところ、敵基地への先制攻撃とか反撃能力とかがかまびすしい。
それで、防衛費をGDPの2%にするための増税「予定」が、閣議決定されたと騒ぎになっている。

むかし、防衛費をGDPの1%にするしないで大もめしたことがあって、とにかくアメリカ軍にわが国防衛を「やらせればいい」という、不思議な上から目線でもって、在日米軍の駐留費負担を、「思いやり予算」と呼ぶ事になった。

爾来、われわれ日本人は、なんだかアメリカを「下にみる」ことで、世界でいちばんえらいのは、日本人以外にいない、という、驚くほどの「高貴な民族だ」と自画自賛している。

おそらく、この発想法を真似っこしているのが火病の韓国なので、やっぱり似たもの同士なのである。

けれども、実態は、敗戦以来の占領が続いていて、在日米軍の最大任務が、日本占領の軍事的継続だということも忘れて、自分を支配するものに「思いやり予算」を供出することの「愚」にも気づかない。

すなわち、人類史レベルでの「愚か者集団」が、現代日本人なのである。

むかし、ローマに逆らった「カルタゴ」を日本にたとえる与太話が流行った事があったのも、人類史レベルの愚か者に自己満足を与えるための慰めばなしであった。
まだ、大日本帝国時代の生き証人たちがいたからの「論」で、ほとんど絶えた現代では、もっと愚劣な自慢話が慰みに代わったのである。

あの時代の「非武装中立論」とか、「フィンランド化」という言論は、まだ、正直な愚か者が論じていた分、誰にでも「愚か」だと認識できた。
これらの正直な愚か者たちが、それでも隠して守りたかったのが日本国憲法「前文」と「9条」なのである。

世界最古の王朝たるわが国からしたら、つい最近できた「英国」に、いまだに「成文憲法がない」のに、どうして憲法論議になると、「成文」になってしまうのか?ということすら、だれもいわないのだ。

明治も中期まで、わが国には「憲法がなかった」ことに注目すれば、じつは「憲法が国の根幹だ」というのは嘘である。

一方で、近代法制は、すべて憲法に源流をみる。
だから、憲法がないのは、成文であろうがなかろうが、近代法治国家として成り立たないという信仰がある。

しかし、そもそも、近代国家の憲法は、国民から国家・政府への命令書という意味の文章やら慣習をもってその根拠とするから、日本人一般が、大日本国憲法にせよ、日本国憲法にせよ、自分らでつくったという認識をもっていないことをどうするのか?こそがわが国における憲法問題の核心なのである。

なぜならば、時の国家権力に対抗して市民革命を通じて「突きつけた」(たとえば、名誉革命とかアメリカ合衆国の独立とか)ことがない、日本の幸せな歴史では、その根本の意味が不明だからである。

ゆえに、大日本国憲法にせよ日本国憲法にせよ、政府が勝手に作文して、これを政府が採用するという、見事なご都合によるために、「なんちゃって」状態を現実にした罪がまるで「原罪」となって継続しているのだ。

それで、GHQなきあとも外国からの占領を続けるための運動が、「革新勢力」によって行われてきたようにしていたけれど、自民党ができた理由を紐解けば、なんのことはない、「同じ穴のムジナ」だから、とっくに互いに握っていて、いまや自民党が「革新勢力」のリーダーになったのである。

わたしは、故安倍晋三氏を「保守」とも「自由主義者」ともおもっていないけど、彼が選挙で勝ち続けてもできなかった「憲法改正」とは、なにがしたくて、なにが理由でできなかったのか?

結局、「9条」に変な文章を追記する案しかなく、「専守防衛」という意味不明に縛られた。
だれも大黒柱にあたる「第13条」のことをいわない。

外国からの占領を続けさせることが、オリジナルの存在理由としてあるマスコミが、防衛費の増額に反対するのは、その「保守性」からすれば驚くにあたいしない。

しかし、これまでの外国とはちがう外国に占領される事が「狙い」に変化したとすれば、日本人にはかなりダメージが大きい。
それは、現世だけでなく、「未来永劫」の意味になるからだ。

この意味で、与党を形成している一方の、公明党と創価学会の思惑が、結成以来の亀裂となる大問題になるはずだけど、共産党とおなじ組織構造のこれらからは、なにが起きているのか外部にはわからない。

サウジアラビア王国とおなじで、宗教を否定する国家とは本質的な一致があるはずがないからである。
すると、公明党はいつ創価学会が離反するのか?という存亡の危機にあることがわかる。

しかし、軍事的な敵基地への反撃能力があっても、法的にこれを執行できないという根本の解決なくしての予算拡大は、いったいどんな意味があって、増税なのか?にはなしが戻る。

すると、わが国を支配するのが外国ならどこでもいい、ということの表明にほかならず、もはや「いつ?」になってきている、台湾有事に、期限を決めない「予定」としての閣議決定をしたことの、外国向けメッセージにこそ意味がある。

後から前から、あるいは横から、どうぞ、という売国と亡国のメッセージなのだ。

なぜなら、亡国すれば増税もなにも関係ない、からである。
いよいよ来年が、わが国滅亡の年として世界史年表に残るのか?

そのとき、何を唱えるのか?

「南無妙法蓮華経」?
あるいは「南無阿弥陀仏」?
それとも、「毛沢東語録」?

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