原点を確認する作業の重み

企業経営の原点はなにか?を問えば、それはかならず「創業の精神」にぶちあたる。

よく「精神論」をバカにするひとにであうけど、人間は言語(ふつうは母語)をもって思索し、その結果として行動することを社会的活動としている動物なので、思索の最深部にある、「精神」がこわれると、人格もこわれる。

それに、たいがいのことはひとりではできないから、分業社会になっていて、食料をつくる農業やらを専門にするひとと、鉱工業を専門にするひととかが、それぞれの分野で別々のものをつくることで、現代文明社会もできている。

そのどこかの一翼をになうのが、「会社」と呼ばれる組織で、個人事業者もこれにふくまれる。
なんにせよ、だれかと協力し合っていかないと成立しないのは、取引先も組織にふくまれるからである。

ふつう、自社の組織図をもって、自分の組織範囲とかんがえる傾向があるけれど、取引先の要望をすりあわせしてこれにあわせないと、得意先になってくれない。
だれもが、得意先をふやしたいとかんがえるのは、収入源がふえるからである。

だから、取引先とは、自社にとって組織の一部どころか、最重要な組織となっている。

このようにかんがえると、収入源がふえて利益もふえることをかんがえる「だけ」では、すまないことがわかる。
得意先が欲しがっているのは、そもそもなにか?をかんがえればわかる。

つまり、大袈裟ではなくて、自社の仕入れもしかりで、どちらさまも、「社会的価値」を欲しがっているのである。

製品やサービスとしての「商品」を買っている、というだけでは、追及があまい。
相手が自社の製品やサービスを買っているのは、自社でそれを内製するよりも、専門の他社から購入した方が「価値」があると判断しているからである。

その「価値」の測定方法が、「価格」という情報なのだ。

だから、自由競争社会での「価格」は、とてつもない情報を社会に提供している。
その「価格」をつくりだすメカニズムが、需要と供給だという原理は、なにも資本主義体制だけで機能するものではなくて、はるかむかしの物々交換の時代からあったろう。

みんなが欲しいとおもっているのに、その欲しいものが希少なら、かならず「価値」があがるばかりか、極端になれば、争奪戦がほんとうの戦争になって、なんと殺し合いになってしまう。

それが典型が、最初は「コショウ」だったし、おかげで原産地たる東南アジアは、ぜんぶ肉食の白人たちによる植民地にされた。
つぎが、「石油」で、同様にアラブやペルシャの産油国が平穏でいられなくなって、それがまたロシアになった。

いまは、「産業のコメ」といわれた、半導体もあるけれど、かつての覇者だったわが国が日米半導体協定なる罠にかかって、台湾企業の進出をしていただく状況にまで落ちぶれた。
おかげで、ひとりあたりのGDPで、とうとう台湾の後塵に拝するまでになったのである。

それで、最後の牙城が「自動車」だけど、日本の内燃機関の最高水準に対応できない欧米が、「EV」なるルール変更を仕掛けてきて、これに売国の与党が応じる展開になっている。

どこまでも、「敗戦」して衰退させたいひとたちがいる。
そんなわけだから、いまや政府のいいなりになっていると、潰される。

これに、産業界(財界)の気づきがどこまであるのかわからない、という不安がだんだん恐怖になって、子供をもつ母親世代とその予備群たる若き女性たちが「歴女(歴史ファンの女性)」になっているとおもわれる。

つまり、「原点探し」をはじめたのである。

必然的に、歴史を学べば「そもそも」をしることのおもしろさになって、それがまた「社会構造の理解」へとみちびく。
なので、そのうち歴女たちは、「神話」から、レヴィ・ストロースにたどり着くにちがいない。

この動きに、いまの浅はかで教養なき財界人は、おそらくついていけない。
政治家の絶望はいうまでもない。

『アマテラスの暗号』を書いた、伊勢谷武氏は元ゴールドマンサックスのトレーダーで、数々の社内での「世界的ルールづくり」を目撃してきた人物だ。
これをするひとたちの「頭のよさ」が、日本人の想像を超えるのは、「(ユダヤ人の)歴史の重みのちがい」だと気づいたいう。

生来から発想の鍛えられ方が、受験エリートとはぜんぜんちがう訓練なのだ、と。

さかのぼれば、明治維新の裏にある当時の外国金融機関の狙いをみたくなるし、豊臣秀吉がやったバテレン追放令の意味もしりたくなる。
わが国の戦後高度成長も、もしや奇跡ではなくて、何人かで描いた巨大な物語の一部にすぎず、なにもバブルだけで踊らされたのではないような気がする。

伊勢谷氏の次作は、聖徳太子を題材にするとの予告は、ペルシャとの関係(といってもユダヤ)が織りなすそうだから、いまから楽しみだ。
もはや、ペルシャもので古典になっているのは、松本清張の『火の路』がある。

一方で、『レイライン』三部作を書いた、榊正志氏は、いまでも現役エンジニアだ。
「草薙の剣」と「邪馬台国」のありかを、大胆にえがいている。
ところどころに、エンジニアとしての「科学的アプローチ」が見え隠れするのは、読者のわたしがエンジニアではないからわかる。

おふたりとも、よくぞここまでお調べになった、とおもうのは、戦後の歴史学会のポリコレを無視できる、部外者ゆえの功績だ。

「日本の原点」にまではなしがすすんで、これを歴女たちはしっかり受けとめるにちがいない。
それが、自身の子供の未来へとつながることを、もうしっているからである。

このことが、人間の精神をつくりだすのである。

いつまで経っても、自社の原点すら無視できることの浅はかを、主婦や若い女性に見破られることの恐怖をしらないでいることの平穏が、どれほどまずいことなのかは、経営危機におちいっても気づかないのだろう。

このおそるべき鈍感が、未来をスクラップ・アンド・ビルドするスピードを速めるのである。
もちろん、気づきのないひとはスクラップにされるのに。

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