別に、「背割(せわり)下水」ともいう。
むかしは武将の居城としての築城にあたっては、城下町もつくるのがセットだった。
いわゆる、「町割り」とは、現代の自治体がする、「都市計画」のことで、現代とちがって強制を伴った。
発案・実務者が誰だったのか?にはあまり注目されないが、総指揮をするのは武将本人なので、その武将がぜんぶをやったことになっている。
いま社会問題になっている、「パワハラ」も、裏をかえせば、指揮官たちによる指示・命令の「質が問われる」ということなのだが、結果としてのハラスメントだけが目立ってしまって、その「質」について議論されることがなく、犯人探しに終始するのも、「責任者」としての名前を特定したいからだ。
それで、名前が確定すると、こんどは社会から糾弾されることになる。
いまに伝わる、武将の功績や悪事でも、それぞれ伝説になって伝わっているのは、社会から、という点でもおなじなのである。
指示・命令の質とは、ざっくりふたつの側面がある。
・指示・命令そのものの是非
・指示者・命令者による被指示者・被命令者とのコミュニケーション能力
しかも、こうしたものが複合してしまうのは、さらなる上司(権限者)による了解を伴っていると解釈できるので、組織の問題になるのは当然なのである。
逆にいえば、組織管理の問題だとはじめから気がつかないひとたちが、やってしまう、という構造にもなっている。
かんたんにいえば、組織管理とはなにか?ということの訓練を組織人たち(管理職全員)が心得ていれば、十分に防止できることである。
しかし、このことができている組織はあんがいと少ない。
それを意識している総指揮者(トップ・マネジメント)がすくないからだ。
なので、問題が大きくなって、トップ・マネジメントたちが社会の目にさらされる、いまなら記者会見の場における、しどろもどろは、ふだんから組織管理とはなにか?をしらぬまま、トップ・マネジメントの職に就いた(肩書きだけが重くなった)ことの無惨なのである。
一方的な価値観で決めつけることは控えたいが、時代と価値観がいまとはぜんぜんちがう、戦国時代の戦国武将にとってみたら、組織管理の失敗は、そのまま自家の滅亡リスクを伴うから、緊張感があったのは当然だ。
そのサバイバルゲーマーとして、国家のトップに就いたのが、豊臣秀吉だった。
偏差値偏重の現代には、ぜったいに登場しない英雄である。
けれども、義務教育もない時代(明治までずっとそんなものはなかった)、ひとびとは、生きるための勉強は自分からやっていた。
秀吉は、「学」はなかったが、「教養」がなかったわけではない。
わからないことは、わかるひとにきけばよい。
それで納得したら、即実行する。
これが、このひとを天下人にしたのである。
だから、秀吉本人が納得するか?しないか?が問題になる。
そこに、秀吉のなかの価値観形成における人生経験が、育ち、として決定的になったのだとおもわれるし、その育ち方が、一般人にとっての常識でもあったから、家臣団だけでなく庶民という下からの支持を得たのだ。
秀吉の最大の武器とは、ここにあったのではないか?
そんなわけで、太閤下水である。
大阪城は、元は一向宗の拠点にして難攻不落の石山本願寺だった。
だから、信長のころから城地として目をつけられていたを、すったもんだの末に、秀吉が天下の居城として定めたものだ。
個人的には、名古屋城の本丸御殿が忠実に復元されたように、忠実なる復元を巨大な大阪城にするだけで、万博以上の価値があるものを、とおもうのである。
それもこれも、大阪人たちの劣化のなせる業であるけれど、どうしてかくも劣化したのか?をかんがえると、郷土教育をやめたことに原因がある。
江戸期を通じても、糞尿は貴重な肥料の原材料だった。
なので、「下水」といっても、いまのように生活排水に糞尿も一緒にされることはなかった。
もちろん、合成洗剤もなかった。
すると、「上水」はどうしていたのか?
「おなじ」だったのである。
当時、上水と下水の区別はなかった。
そもそも、「下水」という日本語ができたのは、明治の頃のようだ。
なので、「水道」なのだ。
江戸末期に、大阪でコレラ(「コロリ」)が流行ったのは、この水道から菌がしみだして、井戸に混じったからといい、モルタルなどで漏れないための大工事がおこなわれている。
時代があたらしくなって、汚物も排水していたということだ。
なお、「背割(せわり)」とは、この水道が街の区画堺としたためで、玄関がある表通りの背面だからだという。
いまは蓋がかかって暗渠になっているが、むかしは蓋がない。
大阪市建設局に電話して申し込むと、中央区農人橋、南大江小学校西側に唯一の見学施設があって、そこで説明をしてもらえる。
所要時間、約20分。