バイデンと岸田政権の崩壊競争

どっちの政権が先に崩壊するのか?

8日、パーソナルメディア『substack(サブスタック)』に驚愕の記事が載って、世界のネット界隈は大騒ぎになっている。
出したのは、1970年のピューリッツァー賞(国際報道部門:ベトナム戦争における「ソンミ村虐殺事件の暴露」)受賞の、シーモア・ハーシュ氏(86歳)である。

8日付けの記事は、12日現在で、807万回のアクセスがカウントされていて、さまざまなひとたちが、関連記事を発して大拡散している。

中身は、ロシアとドイツを結ぶ天然ガスパイプライン、「ノルドストリーム」(2本全部)と、「ノルドストリーム2」(2本のうち1本)を、昨年9月に「爆破」したのが、バイデンの命令による米海軍だという曝露である。
さらに協力者はノルウェーだ、と。

しかも、計画に9ヶ月かけていて、実行もバルト海での例年に実施する軍事演習の時期としていたものを、それでは犯行が米軍だとすぐさましれることを畏れ、起爆剤を遠隔操作できるように再設定して、3ヶ月後の9月に起爆したという手順も曝露している。

この記事の信憑性が議論になるのは当然として、あるいは、各国政府が否定に躍起になろうが、ことの責任(犯人追及)が放置されてきたことが問題になるのはまちがいなく、もはや「ロシアの仕業」で逃げることもできない。

当初より、ロシアの犯行とする説があったものの、ガス輸出による収入減少とヨーロッパへのコミットメントの喪失を、なぜにロシアが自ら好んでするのか?という話の辻褄が、これでようやくあうようになるからだ。

この自虐的な行いこそ、ロシアが犯人だというのも、余りにも高い建設コスト(数兆円規模)を犠牲にするほどの「狂言」といえるのか?
少なくとも、ロシアにとっては、採算がとれないのだ。

昨年1月に政権発足後初訪米した、ドイツのシュルツ首相は、これら一連の「攻撃計画」についてどこまで知っていたのか?ということも、疑惑の対象になっている。
もしも、バイデンとの協議で同意していようものなら、ドイツ国民への明確な裏切り行為となる。
自国のエネルギー危機を自分で招いたことになるからだ。

しかし、バイデンが首脳会談後の共同記者会見でほのめかした(「もしもロシアがウクライナに侵攻したら、ノルドストリームを失うことになる」、と記者から質問もないのに突如発言した)のが、予定外、であったなら、アメリカは同盟国ドイツのみならず、全ヨーロッパ(EU)にエネルギー危機を起こす、「戦争行為」をやったことになって、その責任をロシアになすりつけたことになるのだ。

つまり、史上最大の裏切りはアメリカ・バイデン・民主党政権だと、世界に知れ渡ったことになる。

ドイツのシュルツ首相が初訪米したとき、わが岸田首相も初訪米の希望を示し、ドイツに先を越されたことが、国内問題になっていた。
日米同盟の重要性に鑑み、戦後の常識として、日本の新首相がまず訪米して、まっ先に大統領と懇親するのが常だった慣例が、ドイツに破られたのである。

しかし、バイデン政権の興味はとっくに落ち目の日本にはなく、ウクライナを利用した、ドイツの封じ込め(アメリカのヨーロッパ支配の安定的継続)と、あわよくばロシアを解体して、その資源を強奪するという意味での「二正面作戦」の正念場だったのである。

じつは、この戦略目的と構造は、二度の世界大戦で、あたかもドイツを敵に回したのと、ぜんぜん変わっていない。
日本はGHQの「ヘタレ戦略」が大成功したけど、ドイツ魂はぜんぜんヘタレないから、主犯のアメリカ民主党にとっては、常に敵、なのである。

しかしそんな事情は置いて、これに嫉妬した岸田氏は、台湾有事にことかいて、バイデン(背後の軍産複合体)に媚びを売るため、アメリカ製高単価兵器の購入をしに出かけるという、芸者をやって、その費用を「増税」で賄うと表明した。

日本国を防衛したいのではなくて、自身を保身したいの一心からの行動だとわかれば、これはこれで「哀れ」ではあるけれど、国民にとっては「泣きっ面に蜂」なのだ。

そんなわけで、議会共和党からの攻勢、自らの機密文書と子息のスキャンダルにまみれたバイデン政権は、今回の記事で撃沈されるのではないか?

すでに民主党は、年初より「バイデン降ろし」をはじめたきらいもあった。
なんだか、民主党によるバイデン降ろしの「決定打」にもみえるのだ。

それが、70年以降も何度かピューリッツァー賞候補になりながら、これを逃し続けたシーモア・ハーシュ氏の「起用」であって、「この時期」、「このタイミング」なのではないか?と疑う。

すると、この「政変」はかならず日本に飛び火する。
支持率が浮上しない岸田氏は、5月に地元広島で開催のサミットを花道に辞任する説は以前からあった。

いきなり辞任するのか?それとも総選挙を打つのか?

いまの野党の体たらくなら、岸田氏のもとでの総選挙だって、自民党が負ける要素がない。
ならば、辞任ではなく選挙に打って出る方が得なのだ。

ただ、アメリカがどうなるのか?
岸田では共和党と折り合いがつかないから、頸のすげ替えでなんとかしてきたのが、「派閥政治」の本質だけど、いまやどの派閥にも、トランプ派が牛耳る共和党と折り合いをつけることができる人物がいない。

安倍氏暗殺の「狙い」は、ここにあるとみる。

だが、ほんとうは、安倍氏だってトランプと馬が合ったわけではなく、むしろ大統領選挙中に「当選確実」なヒラリー・クリントンと会談する、米国選挙法違反をしでかして、まさかの当選をしたトランプにどう媚びるのか?が本音だったはずである。

この裏をかかれて、トランプに「一目惚れ」されたことになっている。
このストーリーを書いた、トランプ政権のスタッフとは、どれほどの日本通なのか?

虎視眈々と、台湾を狙う、国家存亡の危機に、共和党トランプ派しか頼りはないのに。
もちろん、ヨーロッパは大混乱になる。

今回バレたアメリカの敵対行為で、ウクライナは終息するしかないけど、それだけ?ではすまない。
EUの結束が維持できないからだ。

どちらにしても、バイデン政権の終わりが見えてきた。

問題は、その次、になったのである。

口火を切ったアメリカ下院

アメリカで「政府の武器化」という、日本人には馴染みのない言葉が使われたのは、昨年の中間選挙で当選した議員でなる新議会が1月3日に召集されたことからはじまる。

下院を制したのは、民主党大統領からみて野党・共和党であったけど、共和党内に残存するRINO(Republican In Name Only:名ばかり共和党:軍産複合体)が疑われるのに、ずっと「小数派院内総務:議会少数派リーダー」だった、ケビン・マッカーシー議員を、議長に据えるための、共和党内における条件闘争があったのだった。

「議長が決まらない」ことについては、トランプ派が多数になった共和党内での内部対立を嗤う記事が、民主党を応援するメインストリーム(主要マスコミ)が連発したけど、一般のアメリカ人はあんがいと冷静だった。

なぜなら、すでに何度か別々に実施された、有権者アンケート調査で、アメリカ人の半数以上が、メインストリーム・メディアの報道を「信じない」と回答しているからである。
また、この中の多数が、「DS:ディープステート:闇の政府」の存在を、「信じている」のだ。

もちろん、ついこの間までだったら、「DS」といったり書いたりしたら、「陰謀論」だとしてまともなひとにまともに相手にされないことになる、「常識」があったけど、過ぎたれば及ばざるが如しで、やり過ぎたメインストリーム・メディアの方が、いまや「陰謀論の発信源」となってしまった。

アメリカの極左メディアを、「中立の位置」に設定している、わが国メディアは、アメリカでは「過激極左」扱いとなるはずの、自民党や公明党を、「保守」としていまだに定義している。
ゆえに、自民党や公明党を「右」とする、「超極左」の新聞社やらの経営が成り立たなくなったのは、国民にとっては「慶事」なのである。

アメリカ国会の議長権限は、凄まじく、各委員会の委員長から、委員までを指名する。
昨年までの議長だった、民主党のペロシ女史は、2021年1月6日に起きた、連邦議会議事堂襲撃事件を調査するための、「1月6日委員会」を設置した。

この「政治:トランプ氏の有罪ありき」に、共和党側が選出した委員を、議長権限で拒否した「歴史初」が起きたから、これも将来、いまの議会で責任が追及されるのは必定だ。
ただし、この委員会がまとめた「報告書」は、おどろくほどの欺瞞に満ちていて、まったくの失敗に終わったのは幸いであった。

そんなわけで、書面にサインをさせられる屈辱があっても、議長に選ばれることに執念を燃やしたのが、マッカーシー氏という人物だ。
もうがんじがらめで、党内「契約」を破れないから、特に連邦捜査局(FBI)の武器化に関する議会公聴会(証人は宣誓するから、偽証したら即有罪:懲役となる)が、さっそく、8日に開催された。

呼ばれたのは、「検閲」をしていた、Twitter社で実行した元役員たちだ。

これを、世界ニュース系ユーチューバーでしられる、及川幸久氏が解説しているので、詳細は動画をご覧いただきたい。

ここで注目されるのは、共和党若手議員たちの、おそるべき追及なのである。
シラを切る証人が追いつめられて、とうとう、検閲の事実を「認める」さまは、下手な法廷ドラマよりも緊迫した迫力がある。
しかも、それは、2020年の大統領選挙中、民主党からの要請がはじまりだったのだ!

これで、バイデン政権の正当性までが、崩れだした。

まるで、ドラマと実写記録映像を組み合わせた、『ハンナ・アーレント』(2012年)での、「アイヒマン裁判」における、記録映像のようだ。
ユダヤ人大虐殺を取り仕切った、ナチス親衛隊中佐の実像は、小心で(ドイツ人らしい)律儀に命令に忠実な小役人としての、「ただのおっさん」だった。

これを、アーレントは、「悪の凡庸さ」として、誰でも状況によってアイヒマンになってしまうことの、「人間の性:保身」という恐ろしさを説いたのだった。

さらに、昨年初当選した、新人議員(アンナ・パウリナ・ルナ:フロリダ州選出:初のメキシコ系女性)の厳しい追及は、いったいどんな訓練を受けたらできるものなのか?
元空軍の女性兵士にして、33歳。
このひとが受けた教育訓練は、その良し悪しにかかわらず、決して日本的な教育にはない。

だから、このような議員が誕生することも、日本では期待できない。

しかしながら、すっかりグローバリズム全体主義に染まってしまったわが国の政官界を、今後どうするのか?といった場合、このような人物がでてこないと、国民は確実に不幸になるとおもわれる。

そのルナ議員は、Twitter社などの民間企業と、FBIや国家安全保障省などの政府機関が、「JIRA」という、サーバー・システムによって「連携」していることを曝露した。

なんだか、話がドンドン、社会派ドラマ、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998年)のようになっているけど、現代の「事実」は、こんなもんじゃない。

さては、この政府が国民に対して牙をむく「武器化」の実態は、今後どこまで暴かれて、責任者の追及となるのか?
そしてこれが、どのようにわが国に飛び火するのか?

アメリカ議会の動きに、目が離せない。

紀元節と建国記念の日の区別

昭和41年(1966年)の国内政治のエポックにあたる大仕事とは、「建国記念の日」を国民の祝日に定めたこと、だといえる。

もちろん、「紀元節」を定めたのは明治政府による明治6年(1873年)だったのが、GHQによって廃止されてからの、「復活」という意味でのことだ。
ならば、どうして「紀元節」にせず、「建国記念の日」としたのか?という、「配慮」だか「遠慮」についても議論があってしかるべきだけれども、相手にされる話でもなくなった。

おそらくだけれども、高度経済成長での上り調子を背景に、さらに、昭和39年の東京オリンピックの成功体験も踏まえて、明治生まれのひとたちが「生きているうちに」、形の上での「独立」をしておかないと、チャンスは二度と来ない、という焦りもあったのではないか?

しかしながら、戦後のわが国は、もちろんいまでもおなじだが、アメリカの意向を無視はできない。
当時は「経済」でもちゃんと、「アメリカがクシャミをしたら、日本は風邪をひく」とは、子供でもしっていたことだ。

それなのに、妙な上から目線があって、在日米軍(事実上の占領軍・征服軍)の駐留経費の日本側拠出を、「思いやり予算」と呼ぶ、論理の「倒錯」があった。
自分が支配される武力の経費を、負担させられることに、「思いやり」というのはどうかしている。

それでもって、いまだに、アメリカ軍への駐留費負担の方が、ぜんぶ自国で防衛するより、「安くつく」という「倒錯」にも変化はない。
独立国の自衛が、万国共通の価値観なのは、「独立」だからで、これを放棄することの「損得勘定」とは、最初から意味不明なのだ。

そんなわけでこの時代、焦っていたのは、アメリカの方だった。

ケネディが世界初の宇宙「生」中継放送で、暗殺されて、日本の茶の間は大騒ぎになり、リンドン・ジョンソン副大統領が大統領に昇格した時期という、「間隙」をついてできたのが、「建国記念の日」なのである。

ケネディの「アポロ計画」だって、そもそもは、宇宙開発でソ連の後塵を拝したことが原因だった。
これはまた、ナチス・ドイツで、ロンドン空襲に使われた「V2ロケット」の開発技術者たちを、ベルリン占領と同時にいち早く確保して、モスクワに連れ帰った成果でもあった。

この意味で、ソ連共産党の「計画性」は、アメリカをも凌いだ。

ナチスと組んだわが国の「無計画=その場の対応=臨機応変」は、およそ「人類への罪」を問われるほどのものではなかった。

ただし、日本人が驚くべき点は、昭和16年11月の日本政府・軍の合同決定としてあった、「対英戦争」が、その翌月の真珠湾攻撃で、「対米戦争」になった不思議があることだ。
「対英戦争」の決定の意味は、「アメリカとは戦わない」という意味だからだ。

暴走したのは、陸軍ではなくて海軍だった。

権威主義的でダメな陸軍という戦後の常識に対してある、優秀な海軍という刷りこみも、プロパガンダなのである。
これを、海上自衛隊はいまでも「利用」している。

ただし、国家から与えられた超高額な艦船とか、航空自衛隊の戦闘機パイロットが意識する、国家からの「借り物」を操艦したり、操縦することの歓びは、いまどきの企業経営者よりも、まともだ。

社内昇格する企業経営者たちの意識に、会社の全資産(従業員も)は、株主からの「借り物」という意識がないことでわかる。
元従業員の経営者たちが、役員という「安全地帯」から、従業員を支配する身分になったことを「歓ぶ」ので、これがまた、社内で「遺伝」する。

つまり、「所有」と「占有」の区別がつかない、という日本人の民族的特徴が生きている。
もちろん、民間ばかりか、その「手本」にある、国家機構たる高級官僚には、新政府成立の最初からこの区別がない。

それは、「長州藩」の「撫育資金」なる、「裏金」を、きっちり伊藤博文が新政府にも導入して、高級官僚たちの好きにできるようにしたものが、どういうわけかGHQも放置して現在に至っていることが証拠なのだ。

これは、一般人にも伝染していて、たとえば、図書館で借りた書籍に、平気で書き込みをする輩が絶えないことでもわかる。
自分のものと他人のものとの、区別がつかないのである。

昨今、スーパーで精算前に子供が勝手に袋菓子を開けてしまうのとおなじだ。

さてそれで、「建国記念の日」を祝うことの否定が、いまや消極的否定にまで進化して、何の日だかも意識しないで、ただの「祝日=休日」になっている。

自分が何者なのか?がわからなくなったことを意味するから、自分のものと他人のものとの区別ができないことよりも、はるかに深刻な精神状態といえる。
「自分探し」とは、この完全なる喪失感が基板にある、精神病理なのだ。

ずっと前から、「歴史論争」というカモフラージュで、「事実」と「神話」の区別がつかないのである。

人工的に建国されたアメリカ人や、フランスからやってきたウィリアム征服王(William the Conqueror)によって、いまだに征服されたままの英国人からしたら、「神話」に建国の物語があるとは、地団駄踏んで悔しがっても、どうにもならないほどに「羨ましい」ことだと、日本人にしらさないのである。

もっとも、「建国記念の日」とは、いまだ征服者アメリカへの「政治テロ」だったのだけれども。

溶け行く国家をみながらに。

文春砲・新『疑惑の銃弾』

9日発売の週刊文春が、とうとう表のメディアとして、「初」となる、安倍元首相暗殺に関する疑惑を「特集」した。

新年から、新聞の購読をやめたけど、雑誌類の購読は何年かぶりで、しかも「週刊誌」となったら、駅の売店でも買った記憶がまずない。
いま、税込み460円もすることに違和感すらあるけれど、せっかくなので買ってみることにした。

わたしの世代だと、「疑惑の銃弾」といえば、三浦和義氏による「ロス疑惑」事件を思い出す。
このときも、メインは週刊文春だった。

三浦氏は、13年間も拘置所にいて、それから収監されたのは3年で、通算して16年間も身柄を拘束されていた。

それで、最高裁では、2003年3月に「無罪」が確定した。

事件発生の1981年8月31日からすると、21年以上も経過した後のことだ。
しかも、日本では無罪になったけど、アメリカで逮捕されて、留置所で自殺した。

なんとも、人生としてどうなのか?を思うと、世にいう、「推定無罪の原則」はないことがわかる。
一般人にも重大な「刑事事件」なのは、いつ自分もこうなるか?があるからだ。

そしてこの事件は、犯行の科学的捜査なりを根拠にしたのではなくて、三浦氏の素性とか態度や言動とかに、まったくもって興味本位で伝えられるという、「今様」の最初ともいえる。

いつでも興味本位という薄くて軽いことが、週刊誌なのだけど、少しは反省したのか?を含めて、今度はどうなのか?と、興味深いのだ。

それで、記事の内容は?というと、特段の「新味」はなかった。

けれども、この「新味」とは、例によってテレビ脳のひとには「新鮮すぎるほど新鮮」かもしれない。
冒頭の通り、大手メディアが伝える疑惑の「初」だからである。

それも、警察庁やら奈良県警やら、あるいは、奈良県議会での証言やらと、根拠にしているのが、ぜんぶ「政府」や「議会」の、「公式見解」ばかりで、その「矛盾」を突いていることが重要なのである。

一体、これら「公式」での発言は、辻褄があわなくてまったく何のことだかわからなくなるから、山上容疑者が自白したということも、事件直後に、「犯行を認めた」ことも含めて、混乱の極みになるのである。

とにかく、安倍氏に「致命傷」を与えた「銃創」が、安倍氏本人からすると、「左右から」飛翔した銃弾によることになってしまうのだ。

つまり、たとえ山上容疑者が撃った弾が命中していたとしても、万人が納得できる物理現象ではない。

もちろん、山上容疑者は「殺意があった」と供述しているらしいが、だからといって犯罪が成立する、ということにはならない。
なのに起訴されて、容疑者から刑事被告人になった。

本人の希望とは別に、手製の銃が、ただの空砲だった可能性まであると前に書いた通りになるからだ。

ここからは、記事から離れるけど、文春砲の何回目かできっと話題になるにちがいない、と期待する。

なにせ、彼の銃は、「先ごめ式」という、およそ火縄銃と同じ構造だけれども、火縄銃が1個の弾を撃つために作られた「玉」を用いるのに、彼の銃は「数個同時に発射する散弾」だったのだ。

しかも、市販の猟銃(もちろん「所持許可免許」がないと購入できない)には、口径の「規格」があって、これに合わせた「規格の装弾」を用いる。
この「規格」は、世界共通だから、オリンピックの「クレー射撃」という競技が成立している。

銃器のメーカーも、散弾のメーカーも、「規格」のなかでの「精度」を追及して、選手たちに自社の製品を使わせるのは、陸上競技のシューズ提供に似ている。
ただし、装弾には、事前に「公式認定」を競技主催者から受けないと、試合で使用できないのも「規格」のうちなのだ。

いまの装弾は、プラスチック・ケースの中のプラスチック・カップに散弾(複数の玉)を収めているから、一回の激発で全弾がカップごと銃口から飛び出す仕組みになっている。
だから、現場には、弾だけでなく「カップ」も落下して、証拠となるはずなのに、これがないのは、山上容疑者が使用した「弾も手製」だからだ。

彼の銃の銃身は、市販の鉄パイプを利用したというけど、そんな口径に適合する「散弾規格」はない。
もちろん、市販の鉄パイプの強度で、殺傷力がある弾を射手にも安全に撃てるのか?という疑問もある。

戦国時代の火縄銃だって、日本刀をつくる刀鍛冶の技術がないと製造できないのだ。
それが、市販の鉄パイプで作れるなら、警察は鉄パイプの販売も許可制にしないといけなくなる。

さらに山上容疑者は、6個の散弾をどうやって1発にまとめたのか?という疑問になって、考えられる方法は、口径にあわせた「蝋」とかによる「塊」としないといけない。

しかし、火薬の激発のショックに耐えてなお、火薬の爆発エネルギーとなる燃焼ガスの圧力が銃身内で維持されないで、蝋が溶けたり弾がバラけてしまったら、たちまち銃身内がスカスカになって散弾が発射される圧力が得られるはずがないということになる。

ましてや、彼の銃は「2連銃」だったために、二発目は、一発目の衝撃と熱に耐えられたのか?という問題になる。

これが、火縄銃で2連がなかった原因なのである。

鉄砲隊は、一発撃ったら次の射手に交代して、その間に次の装填をしないといけない。
それでも、弾数をたくさん撃つと、銃身が熱くなって、焼けてくるものだ。

それで、バケツを用意して、これに漬けて冷まさないと、熱くて銃を持っていられないばかりか、熱で柔らかくなった銃身が発射の衝撃で銃身がラッパのように裂けてしまうこともある。

この時、射手の命も危険になるのだ。

そんなわけで、殺意があっても殺傷能力がはじめから期待できない銃を用いたのなら、山上容疑者の容疑は、明らかにぜんぜん別の「軽い」容疑になって、「真犯人」(おそらくライフル銃を用いた)が別に存在しないといけなくなるのは、議論の余地すらない。

あたかも、本人による自白と、おかしな公式見解だけで、マスコミはろくな検証もせずに、まったくもって三浦正義氏と同じ状態を作り出し、これに国民も踊らされる「愚」になっている。

まだまだ、文春砲は続くのだろう。

パッヘルベルのカノン専門

一発屋ではないはずなのに、一発屋扱いされてしまっているのが、生涯で一曲だけ書いた『カノン(形式の曲)』が大当たりしたパッヘルベルである。
このひとの他の作品を聴きたくても、なかなか見つけられない商業主義がある。

大バッハには、生涯で一曲だけの『パッサカリア』があるけど、その他の有名作品で、この曲は無名ではないけどその他大勢に入ってしまう。
そのバッハに、「大」がつくのは、「フーガ(形式の曲)」の大家であったことも、作品の多くが傑作であったことと併せてのことだ。

いわゆる主題が「繰り返す」ことでは、「カノン」と「フーガ」は似たようなものだけど、カノンが「連続して繰り返す」のに対して、フーガは「変幻自在の変奏」をする違いがある。
このことが、圧倒的にフーガの作曲難易度を高めて、その構造は、ひとつのバロック建築物のような複雑さで構築される。

なので、聞き手にも、音で構造が「見える」ような荘厳さとなる。

バッハ以降で、フーガの大家といえば、ヴェートーベンの『第九』が思い出される。
有名な第4楽章の合唱の合間にある、器楽フーガの完成度は素晴らしいに尽きる。
これを、映像と合わせたのが、『不滅の恋 ヴェートーベン』(1994年)だ。

残念ながら、この映画における「設定」は、いまでは学術的に否定されている。
ついでに書くと、ヴェートーベンの交響曲の頂点は、無題の「7番」だとおもっている。
とくに、第1楽章の終わりが、9番にも引用されている手法だからだ。

パーソナルな生活になったからだか、どうだか、気づけばステレオ・コンポがないのがわが家である。
サウンドバーを設置したけど、すっかりレンタルビデオも観なくなったので、音響設備があってない状態になっている。

ブルートゥース・イヤホンをつかって、スマホやipadにダウンロードした曲を聴くことさえも、「たまに」になっている。
歩きながら両耳をふさいでいられる鈍感さはないし、やっぱり危ない。
せいぜい電車の中だけのことになっているけど、その電車にまとまった時間をかけて乗らなくなった。

ただ、ノイズキャンセリング機能があるイヤホンだと、無演奏・無音状態でも耳栓の効果は期待できるから、公共の場所で読書などをするときには重宝する。

子供の時分から、「ながら勉強」とかという、「ながら聞き」が流行って、なんだか社会問題になっていた。
受験生が、深夜のラジオ放送を聞きながら勉強している、というのが、わたしはぜんぜん理解できなくて、同級生が「ふつうだよ」といっていたのを、すごい能力だとおもっていた。

プチ・聖徳太子のような気がしたのである。

教科書を見ながら、ラジオの話や音楽を聞くというのは、漢字で書けば「聴く」ではない「聞く」の方なのだろうけど、どういう技を駆使したらできるのか?いまだにわからない。
当然だが、テレビを観ながら本を読むこともできない。

なので、喫茶店とかのBGMならまだしも、同時に両立させることをどうしているのか?とおもうのである。
その意味で、「イージーリスニング」だって、集中して聴くことはあっても、「ながら」は困難だ。

一世を風靡した、ポール・モーリアとかも、ちゃんとした大ホールでの来日公演に、観客は行儀よく聴き入っていたものだ。
ラフな格好のひとはわずかで、せめてスーツを着て会場に足を運んだものだった。

「夜会服」(タキシードやイブニングドレス)を着る機会は、すっかり消滅した。

どんなに高級といわれるホテルにだって、もうドレスコードがない国になって久しい。

「平等」が行き着いた先なのである。

だから、ドレスコードがある国やらのホテルで、夕食をとろうものなら入店を断られるふつうがあるのだけど、これに立腹する日本人観光客がいるから、現地の日本人にも嫌われる。
ふだんから着用しないので、いざというとき着こなしもできずに、却って貧相になる。

そんな世相のなかで、パッヘルベルのカノン専門サイト見つけた。

たいてい「長尺」で、1時間以上、延々と「カノン」が演奏されている。
器楽のオーソドックスから、ハードロックまで、さまざまな「カノン」が、選べるのだ。

おそらく、「聴き入る」のではなく、「ながら」のためにあるのか?
歩きながら、電車に乗りながら、も含まれる。

それはそれで、脳波が「安らぎモード」になれば、御の字である。
すると、これは一種の「聴く薬」という意味になる。

論文として、『音楽刺激による生体反応に関する生理・心理学的研究』をみつけた。

この論文では、さまざまな曲での研究にも言及している。
すると、「雅楽」や「民謡」ではどうなのか?
あるいは、どうして「カノン」なのか?といったことも気になる。

さらにいえば、日本人はどうしてバイオリンや二胡のような、弓でこすって音を出す楽器を発明しないで、連続音が出せない琴や三味線に留まったのか?

そういえば、むかし『キンカン素人民謡名人戦』(フジテレビ、1961年~93年)があって、祖父が必ず観ていたので一緒に観ていた。
おかげで、あのCM、「キンカン塗ってまた塗って」の歌の方がかえって耳について離れないし、必ず収録会場にいた、民謡好きのキンカン堂創業者の嬉しそうな姿が忘れられない。

もう民謡を耳にする機会も減った。
もしや、民族に心地よい音を消すための、「カノン」ということもあるやもしれぬ。

あゝあ、しかない「MSJ」中止

名称でいえば、「MJ:三菱ジェット」から、「MRJ:三菱リージョナルジェット」となって、最後に「MSJ:三菱スペースジェット」に変名して、とうとう放棄された。

一体全体、なにが敗因であったのか?は、これから専門家による解説がかまびすしいことになるかとおもうけど、研究開発やらなにやらの予算を国家に依存する体制ができあがっているから、じつは専門家の「公式見解」ほど信用できないのは、流行病とその対策とされた注射薬にまつわる話と構造的にはおなじなのである。

そんなわけで、文系素人目線からの敗因を探っておきたい。
なお、MRJについての批判的な邪推は、ずいぶん前にも書いたから、今回はそのことの続編でもある。

まっ先に重要なのは、日本経済の発展に何の役にも立たないばかりか、邪魔ばかりする「経済産業省」が、本プロジェクトの言いだしっぺであったことだ。

それでまた、邪悪なNHKが放送していた、『プロジェクトX~挑戦者たち~』という、プロパガンダ番組が、「YS11」をテーマに前後編の2本を放送したのが、2000年(平成12年)7月11日、18日のことだった。

ここでは、当時の通産省の赤澤璋一課長が旗振り役を頑張ったことを「前提」とした、ストーリーになっていたことに注目したい。
赤澤氏は、1941年(昭和16年)に、東京帝大法学部から商工省に入省し、すぐに海軍経理学校に入って、その後、戦艦比叡に主計将校として乗艦した経歴のひとだ。

いわば、商工省⇒通産省⇒経産省の有力OBとして、輝かしい業績を残した人物として、放送された。

この人気番組が、その後の国産ジェット旅客機開発プロジェクトになった、というと、邪推が過ぎるかもしれないが、俗人しかいないのが官僚の世界だとすれば、あんがいと無視できない。

なにしろ、経産省が国産ジェット旅客機開発プロジェクトを言い出したのが、2002年のことなのだ。
なので、放送後になにか企んだ可能性があると、邪推するのである。

それでもって、国家予算をつけて、事業者を募集したけど、手を挙げたのは三菱重工「だけ」だという、根回しのよさもある。
もう、YS11(赤澤氏)のパターンの、いつもの焼き直しなのである。

この点で、東大(文系)は「コピー化:ワンパターン化」に優れた人材を輩出する、専門校なのである。

わが国のジェット機開発プロジェクトで対比をなすのが、「ホンダジェット」だ。
「開発の歩み」をみれば、こちらは1986年からの取り組みとなっている。

ただし、ホンダには、自動車製造分野の進出で有名な、通産省からの嫌がらせを受けた歴史がある。
「狭い日本に自動車メーカーが多すぎる」と、何様なのか?文系の役人が、二輪車のメーカーだった本田技研がやりたがった、自動車開発を邪魔したのだ。

民間事業を支援するつもりは毛頭もなく、自分たちの思うように経済運営させたい、という、「致命的な思い上がり」が、この役所の伝統的な思想であって、これはいまも変わらないばかりか強化されている。

世界で最低の成長率となった、日本経済低迷の犯人のひとりだ。

そんなわけで、ホンダは、ジェット機開発にあたって、拠点を最初からアメリカに置いた。
これを、日経クロステックにて、ホンダ エアクラフト カンパニー社長兼CEOの藤野道格氏が、2021年1月20日付け記事に、「日本にいたら成功しなかった可能性もある」と告白している。

直接役所を批判する愚は犯していないけど、やんわりと語っているのである。

三菱が失敗した要因には、カネも出すけど口もだす、しかも技官ではない事務官がしゃしゃり出るから、どんなに三菱側に迷惑だったかは、今後も三菱からは漏れてこないだろう。
天下の三菱をして、防衛分野でも国家予算がほしい乞食に落ちたからである。

しかしながら、直接的なネックになったのは、アメリカ連邦航空局(FAA)が発効する、「耐空証明取得」つまり、「型式証明」が獲れなかったことにある。
これがないと、事実上世界で販売できない。

YS11がぜんぜん売れないで失敗したのは、「売ること」を役人が考えるのを忘れていたからだったけど、今度は、型式証明がなくとも、どんどん販売した。
結局ぜんぶの契約が破棄されて、航空会社から損害賠償まで請求されるマヌケになった。

たぶん、経産省の文系が、「何でもいいから売れ」と三菱に命じたのだろう。

しかし、もっと悲惨なのは、国土交通省なのだ。
この役所は、飛行機事故があると「事故原因の調査」はするけど、世界に通用する「型式証明」を出すことができない。

自動車までの「型式証明」しか、技術対応できないのである。
けれども、自動車なら世界に通じる。
それで、電気自動車(EV)だというトンチンカンは、また別次元なのである。

三菱の悲劇は、わが国の役所の無能の結果なのだ。

ところで、三菱重工の株主は、経産省や国交省に、損害賠償を求めないのか?
この二つの役人たちは、きっと「三菱重工がバカだから」と高をくくっているにちがいないほどの「バカ」なのだと、証明されたのに。

味な自宅レストランの精神

オーベルジュ(Auberge:旅籠)のことである。

いまは、「旅館」とかというけれど、国による歴史の違いは、この分野でも侮れない。

日本の場合、徳川家康から整備をはじめた、「五街道」(完成順に、東海道、日光街道、奥州街道、中仙道、甲州街道)には、その前の織田信長による「関所撤廃」による物流整備の実績がある。

たとえば、後世の『水戸黄門漫遊記』のネタにもなっている、鎌倉幕府の第五代執権、北條時頼をモデルにした観阿弥・世阿弥作といわれる能の名作、『鉢木(はちのき)』では、宿がないので通りがかった家に世話になったときのエピソードとして有名だ。

この家は、とくだん料理を提供するものでもないし、ひとを泊めるのを生業にしているのでもない。
しかし、「おもてなし」の精神があった。
人を見たら強盗と思えという、ヨーロッパ人の精神とは別次元なのである。

実際、はるか昔は、ほぼ全員が農民とその関連の職にあったから、土地から移動しない。
縄文時代の遺跡からずっと、わが国では「虐殺」をやった痕跡が一カ所でもみつかっていない。

移動を要したのは、「防人」とかの軍事と、「納税」のための荷車だったし、都からの連絡と役人の着任・離任だった。
ただし、縄文人はとてつもない距離を移動して、南米大陸の遺跡でも縄文土器が発見されている。
土の成分分析から、日本製だと判明した。

それでもって、後世、豪族(暴れ者)上がりの大名などが勝手に関所をもうけて通行税を徴収したし、山の峠道には山賊がいた。
貨幣経済の発達で様相が変わったのである。

日本よりはるかに進んでいると信じられている、ヨーロッパは、もっと苛酷な旅行移動であった。
小国がひしめいていたからだ。

ヨーロッパ大陸は、あんがいと狭いのだ。

逆にいうと、島国日本の大きさが、あんがいと巨大で、緯度の違いがメルカトル図法で勘違いを生んでいる。

そんなヨーロッパのフランスで、先進国イタリア(フィレンツェの大富豪メディチ家)から王家に嫁入りしたときに、はじめて、フォークやナイフ・スプーンといったカトラリーを持ち込んだ。
それまでは、「手づかみ」であったのだ。

ちなみに、英国王家にカトラリーが伝わるのは、もっと後のことだ。
なので、シェイクスピア劇の食事のシーンにおける時代考証では、王家の皆さんも豪快に手づかみで食べている。

手づかみで食べるインド人をバカにしたひとたちだけど、ほんのすこし前までは、英国人といえども手づかみで、しかも、インド人のように左手を使わないということもなかった。

それでもって、風呂にも入らないし、トイレもないから、街中が臭かった。
ゆえに、香水に需要が生まれた。

人間の三大欲求のひとつ、「食欲」には、生理的なものと、味覚的なものがある。

生理的な食欲は、必要栄養素が不足したときに現れるし、そうでないと、身体に不調という状態が現れて、周辺が病状に気づくものだ。
現代人の栄養失調として、ミネラル不足があって、これが脳の活動を異常にしている。

老若男女を問わず、「キレる」ことの原因のひとつだ、と。
脳内物質の制御をしているのが、ミネラルだからである。
「バカッター」とかの遠因ともかんがえられる。

味覚的なものは、当然に、「美味い、不味い」となる。

「嗅覚」は当然として、「視覚」からの見た目、とか、「触覚」からの口当たりや温度という要素もあるから、あんがいと「美味い、不味い」は複雑で、調理の難しさになっている。

わが家から電車で行けるけど、ふつうの住宅街にあるオーベルジュを友人らと訪れた。
もう20年以上もやっている、というご主人は、元インターハイのテニス選手だったという。
しかし、料理が大好きで、ために、テニスを辞めたという。

いまは、自宅で昼・夜、それぞれ1組限定で食事を提供している。

そのボリュームと高品質に、久しぶりに「舌鼓を打」ってきた。
しかも、「茶の湯」の精神にあふれているから、様々なもてなしの工夫があって、とても気持いい。

子供時分からの夢だった、ひとに自分の料理を提供して、おカネを得るということの喜びは、人生の充実なのがよくわかる。
それは、起業して生業にした「出版業」にはない、直接購入者の反応が確認できることの喜びなのだという。

まるで、「日高屋」でしられる、ハイディ日高の創業者、神田正氏の言葉とそっくりだ。
様々な職業に就いたけど、納得できない理由を、中華料理店で発見した。
自分が頑張った分が、そのままおカネになることの納得感。

こんなプリミティブな感覚を持っているひとが、いまさらに羨ましい。
そして、自分にだけでなく他人にも幸せを分けたいという精神は、まったくもって茶の湯なのだ。

戦闘を生業とする、戦国大名たちが、茶の湯にはまり込んだのは、一体全体、ヨーロッパ人には理解できないだろうけど、いまの日本人にも理解が困難になっているかもしれない。

夜はエンドレス営業なので、帰れなくなった県外・市外からのお客様に、泊っていただくために民泊の許可も得たというから、オーベルジュの誕生そのものだ。

わたしたちは、県外・市外のお客にあたらないので、宿泊はできないうらみがあるけど、常連になりたい「お店」であった。

帰ってこられない産業用電気代

誰のため?、なんのため?がすっかり狂って、政府の自己目的化が進んだら、なにをやっているのかさえもわからなくなって、側近の秘書官を更迭したりして話題をまいている。

まことに「末期症状」を露呈しつづけていて、終わりの見えない終わりになっている。

国民は、そんな「終わり」でも、「安定は希望です」という連立与党のキャッチフレーズ通りに、「末期」の安定を希望しているから、阿片中毒者のように静かな廃人状態に陥った。

どこまで落ちるぬかるみぞ。

40年前に、「40年で石油がなくなる」といっていたけど、40年経ったいまも「40年後に石油は枯渇する」という話をしている。
これが、有限資源であるという根拠になって、サステイナブル(持続可能性)をなんだか優先することが正義になった。

けれども、「世界最大級」の油田やガス田の発見があいついで、有限であってもどうなっているのか?がわからなくなった。

「石油は地球の汗」という説も出てきて、内部から沸いて出てくるほぼ無尽蔵だというひともいる。
それでも、なくなったときのリスクがあるから、サステイナブルの方が優勢で、再生可能エネルギーなる、ちょっとなにをいっているのかわからない方法が、なんとなく、地球に優しいからと支持されている。

何度も書くが、「エネルギー保存の法則」を無視しているのが、サステイナブルだというから、笑っちゃうのである。

そんなわけで、石油はふつうにまだある、のに、採掘しちゃいけないとか、使っちゃいけないとかを、「人為」でやったら、電気代が高騰した。

地球に優しいと、人間の財布には厳しいのである。

生活費を圧迫しても、インフレ目標を達成したい金融当局は、なんのためになにをやっているのか?が、やっぱりわからなくなって、国民生活を苦しめている。

電気代やら、ガス代には、家庭用と産業用の料金体系がある。
電気もガスも、いちおう、民間事業となっているので、大口客には、「割引」制度がある。
これが、公共事業の水道だと、大口客には、「割増」制度が適用されるのだ。

なので、家庭の電気代が高騰したからといって、産業用がどうなっているのか?は、別に調べないとわからない。
もちろん、世界比較もできる。

わが国の電気代は家庭用も産業用も、韓国・中国と比べて「割高」である。
これが、帰国できない理由なのだ。

ヨーロッパは、総じてわが国よりも、もっと割高だけれども、4月からの大幅値上げがあるから、大急ぎでヨーロッパに追いつこうと「努力」している。
なかでも、ドイツの産業用電気代に注目すると、じつは政府が大幅な補助金を出しているから、すでにわが国よりも半額ほどで「安い」のである。

これが、ドイツ車の競争力になっている。
つまるところ、政府が産業のための「環境」をつくっている。

そんなわけで、自公政権の無茶苦茶は、産業破壊にも熱心なのである。

一事が万事これだから、電気代だけが理由ではない。
もちろん、「ものづくり」だけでいいのか?という議論はある。
しかしながら、強みと基幹産業をどうするか?は重要なのはいうまでもない。

なにしろ、何度も書くが、観光業は基幹産業にはならない、からだ。
もし、梅棹忠夫先生がいう、産業連鎖のなかで「全産業の頂点」にまで洗煉された産業になっても、だ。

むしろ、そのように進化を遂げるほど、観光業は基幹産業から遠のく。
なぜならば、食物連鎖のごとく、すそ野を必要とするから頂点に君臨できるものが、観光産業にすそ野がないからである。
部品の調達が必須の、自動車産業や、住宅産業のような「すそ野」のことである。

だから、「観光立国」という政府方針は、「ムダ遣い」なのだ。

すると、肥大化した政府(地方も)による活動の、ムダの削減とは、一種のアナーキズムに向かう。
いわゆる「小さな政府」のことだ。

日本人は「大きな政府」を嗜好するから、どんどんと政府の肥大化が進行して、国民には制御不能になった。
ゆえに、国会も無力になった。

「大きな政府」とは、「福祉国家」のことである。
そして、福祉国家とは、社会主義のことだ。

社会主義は、あらゆる国民活動に政府が介入してくる「主義」なので、いまの日本のようになった。
理論的大矛盾の、「一国二制度」をはじめた、中国共産党の賢さは、おそらく「日本モデル」のいいとこ取りをやった成果なのだ。

この成功モデルを、逆輸入したい、という「倒錯」から、おそらく親中派が生まれたのではないか?
利権やハニー・トラップは、あとからついてきたのではないかと疑う。
それが、とうとう「パブロフ型条件づけ」に進化したのではないか?

「福祉の追求」を、公的健康保険制度からはじめて、老人福祉になった。
公的年金の破綻はいうに及ばず、これを支える、日本国債も、「ネズミ講」に陥った。
そもそも、「賦課方式」という日本の公的年金制度は、最初からネズミ講なのだ。

大元の日本国債には、「格付け」があって、いまは、「A+」(シングルAプラス)だ。
あと何段階で、ジャンク債扱いとなる「BB」になるのか?ではなくて、いつ?「BB]になるのか?が話題になってきて、とうとう、1月末に政府新規発行国債の買い手がいなくなって、全部を日銀が購入した。

これが、帰国できないばかりか、海外流出する日本企業の行動原理を決めている。

気球の移動コース

空を見あげて、ひとびとが叫ぶ。

「見ろ!あれはなんだ?」
「鳥か?」
「飛行機か?」
「スーパーマンだ!」

この気球を見あげたひとたちが、大騒ぎしているのは、まったく『スーパーマン』の登場と一緒なのだ。
「発見」されたのは、アメリカ・モンタナ州上空だという。

ここはどこだ?
モンタナ州は、北西部にあって、北はカナダと接していて、西となりはアイダホ州で、そのまた西がワシントン州、そして、太平洋となっている。

面積は、全米で4番目に大きく、陸地面積ではわが国とほぼおなじ、ただし人口は約100万人でしかなく、全米で少ない方から7番目、人口密度も少ない方から3番目という、「過疎地」である。

この気球がどんな機能をもっていたのか?は、今後米軍が分析して発表されることになる。

中国側が、あっさりと、「気象観測用でコントロール不能になったわが国のもの」と認めたので、その用途はどうであれ、まずは中国のものだということは確定した。

しかしながら、その用途がほんとうに「気象観測用」かどうかは、わかっていないし、信じるものがいないのも、ふだんからの言動でそうなっている。

それに、「ニュースピーク」という、「反語」を多用するのも、全体主義者の常套手段だから、「コントロール不能」ということは、コントロール「可能」な飛行体の意味となる。

上空18,300mの高度を飛行しているものが、地上から見えるのは、それが大型バス3台分ほどの大きさだからという。
なかなか撃墜できないのは、残骸が地上に落下しての被害もあるけど、もしや気球内部に、パンデミックの素があるやもしれぬ、という懸念まで指摘された。

それでも、最新ニュースは戦闘機による「撃墜」を伝えたけれど、どういうわけか?それは大西洋上でのことで、残骸は海上に落ちた、という。

東南に向かっていたはずなのに、どうして「瞬間」移動したのか?
中国はぜんぶが怪しいが、アメリカ軍も怪しい。

怪しさでいえば、有名なのが、「エリア51」である。
イチローのことではなくて、ネバダ州レイチェルにある、アメリカ空軍基地の周辺立ち入り禁止エリアのことで、「ロズウェル事件」の舞台でもある。

この基地での「最新鋭航空機の飛行実験」が、「最高機密」のために、アメリカ国民もその実態を知ることはできないし、ここに勤務していたひとたちにも、厳しい機密保持が義務づけられている。

それで、ナショナルジオグラフィックが、特集番組を製作したけど、やっぱり実態は不明です、という内容になっている。

ちなみに、人口が少ないモンタナ州には、米軍の核ミサイル基地がある。
当然に、最高機密扱いだから、偶然にもこの地域の上空を通過しようとした気球が、なにをしようとしたかを憶測して、それが「観測記事」になっている。

予定されていたブリンケン国務長官の、中国初訪問が中止になって、たぶん、共産党の上層部は慌てているのだろうけど、しれっとこんな「のぞき見」を一方で仕込んでいたことは、だれが責任者だったのか?

それよりも、アメリカ側は、中共にとって厄介な、「議会」が緊張してしまった。
共和党はもちろん、民主党の議員も、対中強硬発言をはじめている。
バイデン政権を御しやすいとみたことの、反動が起きたけど、どこまで織り込み済みだったのか?

なお、同時期、オースティン国防長官はフィリピン訪問中で、南シナ海防衛力強化のための協定をした。

権威主義的な組織にどっぷりと浸かっていると、ときたま、相手もおなじ価値観だと勘違いして、初歩的なミスを犯すものだ。
それでも、権威主義的な組織のトップは、ぜったいに自身のミスを認めないのは、認めた途端に権力闘争が勃発する緊張が常にあるからだ。

さてそれで、この「事件」は、カナダも揺るがしている。

モンタナ州に侵入する「前」には、カナダ領内を通過しているのである。
それで、カナダ軍と政府は、なにをやっていたか?の厳しい追及になっているのだ。

地球という惑星は、自転をしている。
それがまた、結構な「高速」だ。
なにしろ、24時間で1周する。

赤道の周囲は、約4万㎞だから、時速で1,700㎞、秒速で約460m。
音速は、秒速340mだから、なんと、マッハ1.35となる。
わが国はだいたい北緯35度に位置しているので、これで換算すると、時速1374㎞だ。
秒速で約382mとなって、マッハ1.2となる。

地上のわれわれがふつうに生活できるのは、自転速度にあわせて動いているからだけど、上空ではついていけない抵抗が、ジェット気流になって、それを「偏西風」という。
だから、気球の運行がコントロール可能でも、かならず偏西風の影響を加味しないといけない。

すると、中国のどこかから飛ばされた気球は、日本上空を通過しないと、カナダに到達しない。

これを、自衛隊や在日米軍、あるいは日本政府は、どうしていたのか?
東北地方を通過して、仙台で騒ぎになったり、九州でも同様の「事件」があったけど、「県」の公式見解は「不明(UFO扱い)」で、国は無反応であった。

国が、県に「不明」とする、反応をしたとかんがえられるけど、領空の防衛に穴が開いていることでいいのか?どうなのか?が、大騒ぎにならないのである。

ランド研究所の「負け方の研究」

「ランド研究所」は、世界的に有名な「戦争研究所」だけれども、どうしてここが、戦争の研究を専門にしているかといえば、アメリカ国防総省の研究所だからである。

わが国には、防衛省のなかに、「防衛研究所」があるのと似ているけれど、単独行動が出来る独立国のアメリカの戦争研究と、アメリカの属国の研究とは、残念ながら、比較しようがない。

もちろん、クラウゼビッツがいったように、戦争とは外交の延長線上にあるものだから、戦争を研究することの範囲には、外交戦略も含まれる。
わが国に、一応、戦争という概念を禁止した憲法がある、といわれているから、大っぴらに戦争が外交の延長線上にあるとはいえない。

だから、話し合いで全てを解決せよ、という至上命令になって、外交の最終手段が外交なのである。

こんな理屈は、人類史上の屁理屈であるけれど、屁理屈を屁理屈だというと、政治的に抹殺されることになっているので、なにもいわないことが利口な政治家の生きる道となった。

もちろん、まともな憲法学者なら、日本国憲法第13条が第9条よりもずっと上位の概念にあたるといいたくとも、やっぱり、これをいうと、東大が仕切る学会から抹殺されるのでぜったいにいえない。
一般国民にではなく、こうしたエリート層のひとたちが、完璧な言論統制下にあるのだ。

ちなみに、日本国憲法の「大黒柱」といえる、第13条の条文は以下のとおり。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。

欧米人には、外交も戦争のうちだから、なんのための外交か?となれば、自国有利、という結論につきる。
それは、自国民の、「自由及び幸福の追求」を国家が守ろうとするからだ。

この世界の常識を、自国不利にして成功としたのが、戦後の日本という「不思議国家」なのであった。
この「伝統」は根強くて、自国産業を衰退させるだけに役立つ、SDGsやらを、政府は血まなこになってでも推進するのは、日本の滅亡こそが、アメリカの大戦略にあるからだ。

こうして、政府栄えて国民滅ぶ、という、珍奇な事態になろうとしているのに、だれも憲法違反だともいわないのである。

そんなわけだから、アメリカの戦略とは、絶対的有利をいかにアメリカ合衆国「だけ」にもたらすか?にある。
この「絶対的有利」とは、アメリカ人による世界支配をいう。
なにがあっても、アメリカは世界に君臨しつづける、という覚悟が、そのまま文字面になるのが、「ランド研究所の研究成果」なのだ。

さてそれで、今回発表(1月27日)された論文のタイトルは、『Avoiding a Long War:長期戦争の回避』だ。
上記リンクをクリックするか、英文の方で検索されたし。

ここで指す戦争とは、もちろん、ウクライナ戦争のことだ。

そこで、4つの提言をたてているけど。後半の二つには目を疑う。
なぜなら、それこそ、プーチン氏の主張していること、つまり、ロシアのウクライナ侵攻目的そのものだからである。

この提言と、プーチン氏の言い分とを書くと、
・ウクライナの中立に関する保証(NATO東方拡大の停止と同義)
・ロシアに対する制裁緩和(プーチン氏は「制裁解除」)

すなわち、とうとう、「けんかはやめて」が出てきたけれど、それがまた、米軍の頭脳からだったということになる。

これより前の1月20日、マイク・ミリー統合参謀本部議長が、今年中にウクライナからロシア軍を追い出すのは困難と発言してニュースになった。
つまるところ、ウクライナ軍有利という西側メディア(プロパガンダ機関)は、ぜんぶウソで、軍事的にロシアの有利は変わらないことを、アメリカ軍のトップが示したのである。

はたして、ミリー氏の発言を受けて、このランド研究所のレポートには、つづけてあからさまに、「支配のために」とはじめて、「敵の中国に集中せよ」と書いている。
それでもって、「損切りした方がいい」とも。

投資の「いろは」にある、サンクコスト:逸失原価が飛び出した。

どうしてこれが、「いろは」なのか?
それは、あくまでキャッシュ:現金でかんがえないといけないことを教えているからである。

投資行動の判断において、ついやってしまうのが、「いまやめたらこれまでの投資がパーになる」と、過去のキャッシュの流出をあきらめきれずに、追い銭して、もっと大きな損をする教訓をいう。
それで、過去に出たキャッシュは、もう二度と帰らない、逸失原価なのだとかんがえ直すことで、投資のポジションを再構築するのである。

ウクライナを捨てて、中国との決戦に備えよ、という発想は、軍産複合体からしたら、儲けは十分に得ただろうから、これ以上欲張るなという意味にもとれる。
それよりも、グローバリズムの江沢民派(彼らの仲間)を一掃して、権力を固めようとするナショナリストの習政権が、よほど軍産複合体には目障りだということだ。

すると、「戦後」はどういうことになるのか?といえば、いきなり、「米・ロの蜜月」がはじまるかもしれない。
すでに、何を察知したのかしらないが、当の中国メディアという、これまた正真正銘のプロパガンダ機関が、「狂人」だと決めつけた反プーチンキャンペーンを開始した。

ただし、EUのヨーロッパは、アメリカ離れをするのか?どうなのか?

はしごを外された、フォン・デア・ライエンは、生き残れるか?ということになって、ロシアが敵国認定したままでの、エネルギー危機は、恒常化するかもしれない。
しかし、それがまた、EU解体を目論むプーチン氏からしたら、大成功になる可能性がある。

統一通貨ユーロを維持できなくなるからだ。

コウモリ君のわが国は、股裂きになるどころか、米・中・露による分断統治になるかもしれない、建国以来2000年にして最大の危機が「いま」なのである。

北海道はロシア、本州はフォッサマグナの西側(富士川と糸魚川)で分断され、東日本がアメリカ、その他は中国になって、大阪は、「日本維新の会」がいう通り、西日本人民共和国の「大阪都」になるのだろう。