いまさら『おしん』を読破した

NHK朝の連続テレビ小説で、空前のブームを巻き起こしたのが、昭和58年(1983年)4月4日から翌59年(1984年)3月31日までの放送だった『おしん』である。

そしてこのドラマは、最初TBSの昼ドラマとして持ち込まれ、NHKでも「ボツ」になったというドラマがある。
それから3年して、NHKテレビ放送30周年記念ドラマとして企画が復活したという。

作者の橋田壽賀子氏によると、シナリオを出版することの抵抗について触れている。
シナリオは本来活字にするものではない、と。
映像になってこそ生きてくる。

しかしながら、台詞を読んで自分なりのイメージをつくるのは、それなりに意味があるのかもしれない。
それで、シナリオを出版することにした、と「序」にある。

もっとも『おしん』は、別に「小説版」もある。
今回読破したのは、「シナリオ版」(全4巻)の方だ。
ちなみに、上述した「ボツ」の経緯は、『おしんの遺言』「はじめに」に橋田氏が書いている。

個人的にわたしが『おしん』を観たのは、「奉公編」だけで小林綾子ちゃんの圧倒的な演技に見とれていた。
丁度、田中裕子にバトンタッチするときに、エジプトへ赴任してしまった。

だから、『おしん』のその後をぜんぜんしらない。
でも、エジプトの空の下にいても、その「大ヒットぶり」だけはしっていた。

テレビを観ない生活をして、10年以上になる。
ニュースも天気予報も観ないで、ふつうに生活にも職業上も困らない。
BSで『おしん』が放送されていると知人から聞いても、観ることができないという事情があって、やっぱりまだ観ていない。

ならばどうして、いまさら『おしん』を「読む」ことにしたのか?ということが、拙稿のテーマである。

それは、わたしの「資本主義研究」の一環なのだ。
わたしには、いまの「資本主義社会」が、「資本主義社会ではない」のではないか?という疑問があるのだ。

このきっかけは、昭和13年(1938年)に出版された、チェスター・バーナードの名著『経営者の役割』における、経営者と労働者の関係にある。

われわれは、てっきり経営者と労働者は「対立するもの」という概念を疑わない、というマルクス主義からの「洗脳」を受けている。
しかし、バーナードはこれを、「完全否定」して、経営者と労働者は「協働する」ことで一致すると証明したのである。

その一致点が、「付加価値創造」であった。

経営者の目的は企業利潤の最大化にある一方で、労働者の目的は賃金の最大化にある。
だから、利益と経費の関係から両者は対立する、という浅はかなかんがえが生まれて、「対立構造」となるようにみえる。

しかし、これこそがマルクスが仕組んだ「破壊工作」そのものであって、付加価値を最大限に創造することに注視すれば、経営者の目的も労働者の目的も同時に達成できるのである。

なぜならば、「付加価値」には、「賃金も含まれる」からである。

わが国の「失われた30年」における、賃金低下は、他の先進国にはみられない「惨状」となっている。
それが逆に、労働者をして「付加価値創造」の意味を気づかせたのに、経営者が相変わらず「人件費削減に躍起になっている」情けない状態なのである。

これは、わが国の経営者が「社内昇格」するということから、新入社員から管理職になるまで、じつは労働組合員だったことに遡ると、「当時」の労組が「対立構造」を信じていたことの恐るべき「記憶」が、いまの経営者に残存しているからであろう。

それが、「こびりついて」はがれない。

すると、わが国の経営者は、いったいどんな研鑽を社内で積んできたのか?ということが、重大な疑念となるのである。
それが、「育ち」という問題になる。

ここに、『おしん』の「育ち」との連関が生まれるのだ。

とくに、酒田の米問屋「加賀屋」の大女将から手ほどきをうけたことが、おしんの一生を左右する「基礎」となったことは、その後の経営者としての絶対的カリスマ要素の根幹を成している。

すると、「大女将」とは、一体何者だったのか?
シナリオには一切ないけど、1900年(明治33年)生まれのおしんからしてどうかんがえても、江戸時代の生まれになって、このひとの「育ち」を想像せざるをえない。

それがまた、酒田という、東京から離れた地域における、江戸時代の残照とその繁栄を想えば、より一層の輝きをもっている。
このことと、山本七平が指摘した『日本資本主義の精神』が合致する。

すなわち、大女将の商売は、信頼を基礎に道徳的な儲けでよしとした、今様の「がめつい儲け主義」ではぜんぜんない。
むしろ、マックス・ウェーバーがいう「禁欲的」でさえある。

すると、アメリカで聖書の次に読まれた、アイン・ランドが主張した、「未完の資本主義」とは、ヨーロッパ、アメリカという「先進国」のことをいうけど、「完成された資本主義」を世界で唯一経験したのは、江戸期から第一次世界大戦の「大戦景気」前までの期間における「日本」だったのではないか?

だとしたら、わが国のいまの凋落は、首相がいう「新しい資本主義」ではなくて、かつての「資本主義」を復活させればよい、ということになる。

これこそが、アイン・ランドが理想とした、「資本主義とは道徳的である」ことの、唯一の具現化であって、それが基盤となる「道徳社会」を構築できるのは、やはり世界で日本人しかいないのである。

橋田壽賀子氏が、「明治生まれの母たちを知っている最後の世代の私たちのつとめだし、母たちへの鎮魂歌なのである」、と『おしん』を書いたことの理由が重いのだ。

そうやって「読む」と、『おしん』は、『ロビンソン・クルーソー』をはるかに凌ぐ、「経済人」なのであって、すくなくとも「ホームドラマ」ではない。

少子化は悪政の結果である

昨日の話に関連する。

あたかも幼児を守るがの「素振り」をするけれど、おそらく「緊急対策」の後に、「本格的対策」を打ち出す気は毛頭ないから、「緊急」なのだろう。
まさに、その場限り、なのである。

厚労大臣に出もどったこないだまで官房長官をやっていたひとが、外国人への生活保護支給について、「法的には間違っているが、人道的には正しい」といったことを述べて物議を醸している。

実際問題として、わが国における「外国人への生活保護支給」のはじまりは、「通達1本」だけなのである。
つまり、「法」を解釈した行政官の「裁量」が根拠になっている。

裏返せば、国会が法的根拠を明記したことが、一度もない、のである。

これは、大蔵省内でも「まじめ」で有名だったひとの、「まじめさゆえ」の発言で、その「正直さ」については、ご立派としかいえない。
しかし、もはや「官僚」ではなくて、国会議員たる政治家なのである。
その人物が、国会の役割を無視していいものか?

さらに、彼がいった「法」とは、「憲法のこと」ではないかとも解釈されて、「違憲」を承知で、「人道優先」とするならば、まったくもってなんでもできる状態で、「憲法」はあってもこれを守る精神の欠如は、完全に憲法の憲法たる根拠を失ったことまで意味するから、重大発言になったのである。

つまり、「日本国憲法は死んでいる」、と。

すなわち、護憲派だろうが改憲派だろうが、死んだものをどうする?という議論になるので、その空しさが顕在化したのである。
ここに、わが国の病根が、とうとう憲法を亡きものにしたことで、完全に「オワコン」になったことを示したのである。

すると、現在、日本国はいったい何を根拠にして運営されているのか?を問えば、「多数決の原理」と「各種法規」だということになった。
それで、これら各種法規を憲法亡きなかで「改正」するには、多数決であればなんでもできることになったのである。

ヒトラーは、「全権委任法」の可決によって独裁権を確立することに成功し、ワイマール憲法はそのまま放置した。
ワイマール憲法の主旨からしたら、全権委任法は違憲ではないか?という議論も、熱狂的な全権委任法への賛成で打ち消されたのだった。

つまり、ワイマール憲法は、とっくに死んでいた。
いや、ドイツ国民によって殺されたのである。

では、日本国憲法はどうかといえば、あたかも「自然死」したごとくにみえるのは、日本国民の「無関心」による。
結局のところ、われわれ日本人は、明治憲法にせよ日本国憲法にせよ、はたまた聖徳太子による十七条憲法にせよ、国民が憲法作成に関与したという経験をもっていない。

なので、憲法とはなにか?について、学校でも習わない。
ただ、国家の最高法規として暗記させられて、三権分立とか自由とか基本的人権とかも一緒に暗記すればそれでよい。

そうやって、憲法を守らないといけないのは「誰か?」ということを暗記させられないので、日本人は日本国民がこぞって憲法を守らないといけない、と思いこまされている。

ヨーロッパ基準になっている「近代民主主義国家の憲法」とは、国民から国家・政府に向けた「命令書」なので、国民自身は憲法を守るも何もない。
憲法を絶対に守らなければならないのは、国家・政府であるから、その中のひとたる「公務員」が、対象になるのである。

これって、行政府だけでなく、裁判所も、国会もだし、地方も同様だ。

そんなわけで、憲法を自然死させたのは、日本国民による国家・政府への監視の無関心だった。
つまり、近代民主主義国家とは、主権者たる「国民」に、相応の「負担」を強いるシステムなのである。

しかしいま、巨大ブーメランとなって国民をなぎ倒しているのは、国民からの命令書を平然と無視し、これを、「人道」だとうそぶくひとたちを「選んだ」という事実に基づいている。

まさに、主権者が主権者たる相応の負担を実質拒否した無関心が、自分たちの未来を奪うことになったのである。

だから、必然的に、国家・政府は「悪魔化」する。
あらゆる「甘言」によって、国民から自主独立の精神を奪い、国家・政府への絶対的な奴隷となす努力が、「国策」になるのである。

もう、おそらく、間に合わないだろうけど、せめてゲーテの『ファウスト』は読んでおくべき一冊なのだ。
あの、ドイツ人たちの現状をみれば、ドイツ人が自国の金字塔的文学を、またまた忘れてしまった結果が、いまだから、日本人にも「効く」ことはうけあいだ。

 

さては、「少子化問題担当相」も、その業務は「少子化促進」なのであった。

何をか言わんや。

園児置き去りの悲劇をかんがえる

まずは亡くなった子への哀悼の意を表します。

さて、話が超拡大して、とうとう総理の指示で「子供担当大臣」と「内閣府の役人」とが会議を開かされて、全国にある「送迎バスがある園」を、緊急点検することになった。
岸田氏は、まったくもって「政治家」なのである。

しかし、一方で、「大きなお世話」でもある。

すでに、全国の県や市が「総点検」モードに入っているので、「二重行政」となるし、国が乗り出せば、県や市の仕事から、「手柄だけ」を奪って、責任は押しつけることが行われるものだ。

さらにいえば、全国の園では、当然に「自主点検」も行われているはずだから、「自主」、「県・市」、「国」と、三重のチェックが入ることになる。
「二度と起こさせない」という意味での、「安全」を図るのは、もちろん結構なことだけど、送迎バスにはどんなリスクがあるのか?という「リスク管理」という視線だけの話しか出てこない不思議がある。

もちろん、直接的な原因は、「安全確保」に対する「うっかりミス」だった。
世の中の「事故」の多くが、この「うっかりミス」が原因だ。
だから、「気をつけましょう」ということになる。

すると、「何を気をつけるのか?」、「何に気をつけるのか?」ということが、本来は議論されないといけないのだけど、「気をつけましょう」で終わってしまうことが多いのである。
なにも「労災」だけが問題ではなく、ひろく心して「安全学」に取り組む必要がある。

それで、一般的に「業務の現場」では、その「チェック・ポイント」については、おおくの場合「指差点呼」が実行されていて、指差点呼をするための「訓練」が先に実施される。
また、社内の安全指導員は、これらの「指差点呼」が行われているかも、「業務点検」のなかで行うことで、「習慣化」させるのである。

ところで、今回の「悲劇」は、運転していた理事長が語った、「園児の確認は同乗の職員がするものだと思っていました」に最大の原因があったと、筆者はかんがえている。
だから、安全指導員的立場からしたら、「なっちゃいない」という感想を抱くことだろう。

そうなると、「バスの運転手」と「乗務員(車掌)」の、「職務分掌」がどうなっていたのか?という問題になって、たとえばこれが「航空機」なら、全責任は「機長が負う」ことからしたら、運転手だった理事長の責任は免れるものではない。

とはいえ、客席の第一次管理者を「乗務員」としたら、運転手は乗務員からの「報国」をさせて、さらに自ら点検することで二重チェックするという体制を構築できる。
相手が「幼児」の場合は、「おとなの常識」だけではリスクがあるという「チェック・ポイント」を設けていなかっただけでなく、職員からの意見もなかったということも、間接的な原因ともなるだろう。

これは、安全を超えた「組織論」である。

すなわち、「組織」の定義にある、「目的・目標をおなじくする」ということの根本が問われるという意味だ。
なお、わたしは、組織の定義に、チェスター・バーナードが提唱した、「二人以上の人々の、意識的に調製された活動または諸力のシステム」であるとおもっている。

目的や目標にむかって「意識的に調製された活動または諸力のシステム」が、組織なのだと。

すると、残念ながら、理事長の発言から、この「組織の定義」を基盤にして、園という組織を運営していたとはおもえないのである。
もしも、このことを深くしっていたら、組織メンバーである職員にも、思考を促すことが日常的に行われていただろうとおもうからである。

こうしたことの「訓練」が、MTP(Management Training Program)なのである。
わが国の製造業に従事するひとには、「おなじみ」だろう。
戦後、マッカーサー指令にもなって製造業界に導入された、より良い組織にするためのマネジメントについての「訓練」なのである。

しかしながら、残念なことに、就労人口がもっともおおい、サービス業に「ほとんど普及していない」のが、MTPなのである。

だから、今回の悲劇は、MTPをしらないがゆえ、ともいえる。

とうぜんだが、組織マネジメントをするには、組織の活動が、何を目的・目標としているのか?という疑問点が必ず現出する。
だから本件の場合は、「送迎バス業務」としたときの、業務フローがある、ことを前提にしないといけないのだが、それも「甘かった」となるのは、けっして「後出しじゃんけん」ではない。

これが、業務設計であり・サービス設計、ひいては「サービス品質管理」となるからだ。

メーカー業務にたとえたら、「検品業務」が穴だらけで、とうとう決定的な「不良」ができてしまって、それが最悪の「死亡事故」になってしまったと捉えるべきなのである。

そんなわけで、マネジメントからの「点検」だけでなく、防止には「訓練実施」が必要な事態に、国家行政はどうしようというのか?が問われているのに、相変わらずの上から目線で「指導してやる」という態度だから、実務を知らないひとたちがよってたかって現場の邪魔をしに行くようなものだ。

すぐさま、MTPの実施をすべきなのに、である。

「ヤミ市場」登場の健全

ヤミ市場(black market)が発生する要因は、政府による「価格統制」によるものだと「相場」はきまっている。

ときの政府が徴収する税の高さに悲鳴を上げて、あるいは、その徴収方法の理不尽に悲鳴を上げて、やられる側の庶民の防衛策は、「移動」であった時代があった。
それで、理不尽なことがない場所をみつけて商売することが、庶民の願いになったのである。

これを、思い切って「自由化」したのが、織田信長の「楽市・楽座」だった。

じつは、我々日本人の「成功体験」に、この「自由化」の威力があったのである。
そして、楽市・楽座の「負の側面」だった、権力者と商人が結託した場合の「独占の弊害」も、おなじく民族の記憶に残っていたはずだった。

しかも、そんな理不尽には「暴動」である、「打ち壊し」で対抗したのだった。

もちろんここで、暴動を美化したいのではない。
そうではなくて、緊張感を持って生活をしていた、ということを強調したいのである。

その緊張感とは、力のあるものがその力を正しく用いる事への強い期待であり、裏切った場合の報復は受けるべきだ、という感覚である。

それがまた、「修身」の成果でもあったから、政府は国民に政府にとって厄介なことをちゃんと教えていたのである。
そうやって観ると、「楽市・楽座」も暗記問題になって、日本史のみならず世界史的重要性を教えないし、修身もないから、政府は政府にとって恭順な国民を「栽培」していることになった。

こないだの「G7」で、ロシアの石油に価格上限を設けた話の続きとして、わが国財務大臣があっさり「OK」したのを、財務省事務方が「サハリン2は別です」といって逃げ道をつくったのは、バイデン大統領の発言を即座に取り消すホワイトハウスの態度に似ている。

されど、「続報」から、この「噴飯もの」の言いだしっぺがアメリカのイエレン財務長官(元FRB議長)だったことが判明して、この御仁の化けの皮が剥がれたのは、あんがいと「幸い」だ。
もう、このひとの発言に、「知性」を感じることはなくなったからだ。

経済学を修めたとかなんとかではなく、売り手の意向を無視した「案」が、国際会議で「案」になって通ることの「テキトーさ」こそ、各国民は唖然としながら眺めている「図」になった。

40年近く前のエジプトは、「ヤミドル」が「流通」していて、「正規」と「ヤミ」の二重経済になっていた。
アラブの英雄とされたナセル大統領時代の「親ソ」が、慣性の法則となって残存し、「親米」になっても克服できないでいた。

これを、突如として一気に解決したのがムバラク政権で、1.5倍以上もあった「ヤミドルと正規の差」を、正規をヤミ相場とおなじに切り下げることで雲散霧消にさせた。

もちろん、これには物価上昇という痛みをともなったけれど、二重経済がなくなったメリットは計り知れない。
それで、外資を導入して国営事業を民営化したら、なんとエジプト人が時間を守るようになったのである。

さてそれで、「売り手」のプーチン氏が7日、北海道の対岸のウラジオストックにやってきての演説で、G7の決定について、「契約違反」ときっぱり認定した。
よって、販売停止する、と。

石油、石炭、天然ガスがその対象だと明言し、この冬、西側諸国は凍り付く恐れがあると警告もした。
その警告とは、国民から乖離した各国指導者の「正気」を取り戻すためだとも発言している。

時系列はさかのぼって、7月25日にネオコン(軍産複合体=戦争屋)の代弁者を代表する「終身高級官僚(SES)」のなかの「最高位」、アメリカ国務次官(政務担当)のビクトリア・ヌーランド女史が初来日している。

なにをしにきたのか?詳細は不明だ。
おそらく、ロシア制裁の抜け駆け防止の釘を刺しにきたのだろうけど。

イエレン氏にしろ、ヌーランド氏にしろ、アメリカの邪悪な女が目立つけど、これらをひっくるめて牛耳っているのがアメリカ民主党にほかならない。

かくも「優秀」なひとたちの、狙いはなにか?

もちろん、長期的にはロシア潰し(資源強奪)にちがいないけど、短期的にはドイツ潰し=EUイジメなのだろう。
だから、とっくに気がついたドイツ人たちが、「ガスよこせ」と大規模抗議デモを繰り広げている。

これに、ありもしない地球温暖化防止を政治信条とするひとたちが立ちはだかっていて、「信号機内閣」が立ち往生してしまった。
それで、フランス・マクロン政権批判にも飛び火して、アメリカ民主党の目論見通りの混乱がおきている。

7日付け「日経」は、地中海ギリシャ沖でのロシア産石油のヤミ取引があると「すっぱ抜いて」ちょっと鼻高々だけれども、ロシア産は「陸路」が主流(8割ほど)の輸送になっていて、それがインドと中国向けなのである。

もちろん、この二国はG7の決定に従わないので、「ヤミ取引同然」なのである。
そんなわけで、「石油ロンダリング」で、インドと中国が儲かる仕組みをつくってあげたのは、やっぱりアメリカ民主党の「政策」なのだ。

さては、苦しむのは一般国民だといい切るプーチン氏の「まとも」が、もっとも健全なものなのだった。

「職業連鎖」の頂点

「食物連鎖」の頂点に君臨する、のは百獣の王「ライオン(肉食動物)」だと習う。

むかし、テレビで散々やっていた「大自然もの」(もちろん今でもやっているらしいけど)は、各社が独自製作のものと外国から買ってくるものと、いろいろあった。

その中で、重要なフレーズが、「人間が食物連鎖を壊している=自然破壊」だった。

悪いのはぜんぶ「人間」だから、これが嵩じて「機械に人間が殺される」というSF作品がたくさんできた。
子供には「害悪」だとして、日本にも「映倫」があるけれど、ゲームは対象にしていないから、かぶれたひとが犯罪を起こす。

それでか知らないけれど、ウィルスを利用して人間の虐殺を実行する人間が出てきたのは、ただの「金持ち」ではなくて、「良心」だということに「リアル」でなったのである。

悪いのは、人類の存在そのものだ、と考える人間が、自分の「良心」に従って、人間を虐殺することの正義を主張する、という倒錯である。
まぁ、とりあえずこないだ書いた、英国の弁護士が、首相以下をICC(国際刑事裁判所)に提訴して、受理された件がそれである。

今回の話は、「観光立国はあり得ない」ことの補足だ。
「産業連鎖」の頂点に君臨するのが、「観光業=人的サービス業」である、からだ。

ライオンをはじめとする、肉食動物「しか」いない状態になったら、野生の動物界は成り立たない。
これと同じで、すべての産業からの恩恵を受ける、「観光業=人的サービス業」だけでは、産業界が成り立たないのである。

だから、結論をはじめに言えば、重要なのは「産業の裾野」だと言いたいのである。

これは、「六次産業」という概念を意味する。
「産業分類」のことである。
食糧や食料に深く関するのは、第一次産業たる「農林水産業」である。
文明の利器を生産しているのは、第二次産業の「鉱工業」だ。

「鉱工業」に「鉱」の字があるのは、材料を「鉱山」とかの「資源」に求めるからである。
また、その「資源」を採取するにも、「工業力」の賜物である機器がないといけない。

我が国は、明治のむかしから資源がない国とされてきたけど、たとえば、世界最大だった「佐渡金山」を江戸時代だけで掘り尽くしてしまった。
これを「黄金の国:ジパング」として、狙ったのが英・蘭などの欧州列強で、幕末の超インフレは金・銀の流出による。

現在の世界の金の3分の2が、日本産出だという理由だ。

それにわが国は、「国際海洋法」ができて、「領海」と「排他的経済水域」を足せば、極東の小国どころか、世界6位の面積となるのである。
もっと言えば、メルカトル図法の「歪み」を修正するソフトを用いて、たとえばヨーロッパ大陸に日本地図を移動させたら、実は我が国の「巨大さ」、逆に言えばヨーロッパ(旧大陸)の「狭さ」が確認できるというものだ。

つまり、「小さい」「狭い」国土だという思い込みを、子供のときから刷り込まれている。
これは、一種の「危機感」を煽って、「努力せよ」というポジティブな発想ならまだ良いけれど、自身を卑下するようなことになったら現実逃避になってしまう。

小さくて狭い、という思い込みが、海洋資源を放置して、本来の国際取り決めである、「資源管理義務」まで放ったらかしにしているのである。

それで、思い出したように「南鳥島の水没阻止」とか、外国船による勝手な資源採取を問題にする。
前提となる常識がズレているから、そのときそのときの「都度、都度」になるのは、「法治」の概念からしたら異常なのである。

そんなわけで、一次産業と二次産業は、分かりやすい「分類」となっている。
逆に、第三次産業が分かりにくいのは、第一次産業と第二次産業「以外」という、荒っぽい分類だから、第三次産業「自体」のせいではない。

どうしてこうなったかは簡単で、今でこそ「三次産業」と言われる「産業」が、産業分類を作るときに「産業」とは言えないレベルだったから、「その他」になっただけである。

ところが、今や「先進国」の産業構造は、就労者の6割、産出価値の「7割」を、第三次産業が担っている。
それで、もっとも効率よく稼いでいる「金融」と「IT」を除いて、「人的サービス産業」と再分類している。

そして我が国では、国際比較でのその生産性の低さ、が問題視されているのであるけれど、なにせ稼ぎ頭のはずの「金融」の生産性が低いのである。

しかし、よくよく考えれば、食物連鎖の頂点に君臨する肉食動物の生産性は「高い」のか?

草食動物の数を適正化させる、という意味での「生産性」という意味だ。
基本的に「大自然」というときの「自然」は「放置」の意味だから、人間の価値観である「生産性」はあてはまらないけど、「かわいそう」だからと言って草食動物しかいないのも、「自然破壊」になるだろう。

雑草取りを「山羊」にやらせるのを「自然農法」とはいうけれど。

すると、ライオンのような観光産業を持ち上げるのは、「百獣の王」と同じで、「産業の王」といえばそれでいい、としか意味はない。
けだし、ライオン自身がそんなことを「思考する」能力を持ち合わせてはいないだろうけど。

結果的に、「票が欲しい」というだけになるのは、就業者がたくさんいるからだ。
観光業を「補助金漬け」にするのは、公的「買収」だといえるし、業界ごと網掛けされた「奴隷化」ともいえる。

これが、「観光立国」の正体なのである。

消えるソウル・フード

商店街が消える。
ずいぶん前からの「問題」だ。
しかし、これはもっと「ミクロ」でいえば、「お店=個人経営」が消えてなくなっているのである。

商店街の商店には、いろんなお店があるけれど、どこに行っても目立つのは「八百屋」や「魚屋」だった。
そして、「肉屋」といえば、「惣菜」も定番の一つである。
もちろん、「惣菜専門店」もあった。

ランダムに、衣料品店と電気屋、酒屋にお菓子屋が並ぶのも、商店街ならではだった。
小学生がお世話になったのは、文房具屋で、小さな書店も成り立っていたのは、定期刊行物の予約販売があったからだ。

いまのように「おしゃれ」とはいえない、質素なパン屋では、質素なパンを売っていた。
自宅兼用の豆腐屋もなくなって、作りたての豆乳を空瓶を持って行って買っていたのは遠い昔のことである。

靴を売るだけの靴屋ではなくて、修理を前面に出しながら売っている店もあった。
修理といえば、時計屋とか仕立ての洋服屋でも扱っていたし、クリーニング屋も染み抜きをしてくれた。

大物では、家具屋があったし、カーテン屋とか布団屋もあった。
洋品店だって、竹の定規を手早く使っていた生地屋もふつうであったのは、「洋裁」ができるひとがたくさんいたからである。

だから、毛糸やボタンの専門店もあった。
足踏みミシンだけでなく、「編み機」もふつうに家にあったのは、主婦の内職ではなくて、趣味と実益だったのである。

そうやって考えると、あんがいふつうの家庭も、家内工業のまねごとをしていて生産的だった。
毎日同じセーターを着ているから、肘の毛糸が細くなってほつれたのを、「アップリケ」でカバーしていた。

それがなんだか羨ましくて、自分のセーターにもつけて欲しいと母にねだったら、穴が空いていないからいらない、と言われてガッカリしたことがある。

高学年になったら、学校で使う「雑巾」を自分でミシンで縫っていた。
「買うもの」になったのが、驚きでもある。
ミシンがある家の方が珍しいのかもしれない。
すると、ミシンがふつうに家にあった時代とは、凄いことなのだ。

国内であろうが海外であろうが、商店街を歩くのは楽しい。

手軽なのはスーパーマーケットだけれども、何をどんなふうに売っているのか?というのは、十分な「観光」になるのである。
その意味で、海外の方は、ヨーロッパでもむかしの「市場(marché)」が残っていて、見て歩くだけでも楽しい。

日本にもなくはないけど、なんだか「観光名所」になっていて、肝心の「生活臭」が乏しいのである。

国民皆兵で、核シェルターの設置義務があるスイスでは、景観のために窓辺に花を飾らないといけないし、洗濯物を外に干してもいけないから、どこを歩いていても生活臭がない、という「問題」がある。

ターミナル駅の裏側地域は、その例外だけれども、今度は「身の危険」という問題がある。
国土全部を「公園」として、料金をとって「見せる=魅せる」ことをやったから、外国人や一見さんの観光客に、スイス人の素顔は見えないようになっている。

この点、まったく「無防備」で、料金をとって「見せる」ことすら考えないのは日本人の良いところでもある。
他人に見せるためでなく、自分の快適のための清潔が、欧米からの訪問客を驚嘆させた。

しかして、あまりにも日本人の当たり前だったので、これを「観光資源」だと、いまでも考えることができない。
観光大国になれない理由である。

だから、観光立国なんて絵に描いた餅よりひどい。

なぜなら、どんな状態が「観光立国」ということかも「描いていない」からである。
だが、このことは「悲観」にも値しない。
最初から、なかったことだからである。

それよりも、「日常」が消えていくことの方がよほど問題なのだ。

その典型が、商店街にあった「定番の惣菜」と、それを提供していた「お店の廃業」なのである。
理由の多くが、「後継者不足」だ。
血縁者であろうが、他人であろうが、商売を継いでくれない。

その理由は何か?
「多様性」を口角泡を飛ばして騒ぐようになったけど、それは、「一元化」を隠すための方便だからだ。

つまり、「就職せよ」と。
どこに?
エリートこそ、大企業に、という具合である。

その「エリート」とは、ぜんぜん「選民」なんかではなくて、ただテストの成績優秀者で、言われたことや書いてあることに「忠実」なる訓練を、歯を食いしばって頑張った者、という意味になった。

だから、これはこれで、たしかに「たいしたもの」なのだけど、結局は大企業に就職して「安定」を得ることが「人生目標」になってしまった。
それで、民間の大企業すら安定が不安定になったから、公務員という安定に喜ぶのが「親」なのである。

そして、その親の典型が、商店主なのだ。

ところが一方で、政府も、「生産性向上」のため、という余計なお世話で、企業群の「業界」に命令する。
これが、「効率的」だと信じて疑わないのは、個人商店を政府が管理できないからである。

そうやって、ソウル・フードも消えて、「工業的規格品」をスーパーマーケットの惣菜コーナーで買うしかなくなって、「フード」はあっても「ソウル」がなくなった時代を生きるしかなくなったのである。

だから、ひとは、他地域のものでも残っているソウル・フードを探す旅をしている。
けれども、「観光関係者」という俗物たちは、これに気づかないのであった。

深刻な日野自動車の不祥事

2003年からのエンジン燃費試験についての不正が発覚した。

原因として、「特別調査委員会 調査報告書」で専門家はつぎのような指摘をした。
目標を達成しようという強い指示:調査委員長
企業風土化して下から上にものがいえない:同委員

具体的には、小木曽社長が自ら以下に指摘している。

・内向きで保守的な組織風土
・一人ひとりが当事者意識と一体感を持って仕事に取り組むことができない状態
・会社組織として業務マネジメントの意識・仕組みも不十分

これは一体どういうことか?
しかも、「業界トップ企業」でのことなのだ。

「業界」とは、「トラック・バスの製造業界」という意味だ。
日野自動車は、いすゞ自動車を販売台数で逆転して、「トップ・シェア」に君臨していたのだ。
しかも、バス製造事業については、いすゞ自動車と「統合」している。

今回の事態で、国は日野自動車の「全車種」について、「出荷停止命令」を発したから、1台も市場に供給されない状態になった。

なのでいま、「バスが足りない」事態が起きている。
従来からの運転手が足りない、のではなくて、「機材」としての話になったのは、高度成長期以降で「初」なのである。

もちろん、トラック運送業界にも「衝撃」が走っていて、「保障問題」になるのは確実だし、とっくにアメリカでは「訴訟」が起きている。
これは、「バス運送業界」もおなじだ。

出荷停止だから、当然に日野自動車には、「売上」がない。
長引けば、「倒産」の危機なのである。

一方、別の専門家からは、上記の「特別調査委員会 調査報告書」について、5ヶ月もかけてこの内容、といった批判がでている。
こちらは、調査委員会の報告書は、「本質を見誤っている」と手厳しいのである。

真因は、「エンジン設計部」の「技術力不足」だと断じている。
※出典は、8月5日、日経クロステック『設計の技術力不足を見抜けぬ甘い分析、日野エンジン不正の調査報告』

ちなみに、日野自動車は、トヨタ自動車の50%「子会社」だ。
それで、トヨタ自動車から相当数の「出向者」もいたし、「役員クラス」だって派遣されていたろう。

ただし、世界のトヨタも、大型トラックなどで主流のディーゼル・エンジンに関しては、残念ながら、「歯が立たない」という事情があるらしい。
そのために、「吸収」せずに、「子会社」としていたというのは、自然にみえる。

技術論は、専門家に任せて、ここでは「経営=マネジメント」の観点からの「危機」を論じたい。

第一に挙げられるのは、製業界で「常識」のはずの、「MTP(Management Training Program)」の「危機」である。
MTPは、戦後「マッカーサー指令」として、わが国製造業に「強制的」ともいえる形で普及した、「より良いマネジメント」をするための「体系」である。

そのきっかけは、当時、「極東空軍基地」になった東京・立川基地における日本人従業員の「烏合の衆状態」を正すために導入されたという。
「組織だった行動」の訓練である。

「集団主義」の日本人が、「組織だった行動ができない」とは、どういうことか?
それは、「体系」としての「組織」についての認識不足と、アメリカ空軍の軍人に結論づけられた、ということだ。

強制的な命令一下による、機械的な行動ではなくて、自主的な、もっといえば「自分で考え」て、それをもとに「自らに命じる」ということを、人間として追及すべし、という発想からできた「マネジメント体系」なのである。

立川基地に部品を納入する日本企業との「取引」に、MTPの導入を「条件」としたら、「功を奏し」たので、マッカーサー指令になったという経緯なのだ。

残念ながら、製造業以外の業界は「無視」されて今日に至るので、一次産業や最大の三次産業では、いまだに認知されていない。

こうやってみると、じつは、世界最大の自動車会社となったトヨタ自動車は、MTPの「権化」のような企業だ。
日産自動車が、ゴーン氏の社長就任から、MTPを導入したのとはまったくちがう「歴史」がある。

経営層と管理職層の、「マネジメント層」が、MTPを常識とする企業体といえる。
これが、「組織力」の決定的なちがいを生む。

しかし、今回の日野自動車の件や、おなじく「不正」をやらかした、東レも、MTPの権化企業だったから、なんだか、経営層と管理職層の、「分離」という状態にみえる。

これが、「最大の危機」ではなかろうか?

ガルブレイスが、半世紀前に書いた日本企業研究、『新しい産業国家』の話はずいぶん前に書いた。

ここでは、社員たち「テクノストラクチャー」が、みえない社内組織を形成して、経営を乗っ取る、という指摘がされている。
しかしいま起きている、「経営層」と、MTPをしっている社員層の「乖離」は、(外国人)株主からの圧力ではないかと疑っている。

かつて、「株式持ち合い」の時代の、経営の安定は、MTPをしっている経営層と社員層が「合体」していたからである。

こうしたことをかんがえると、労働組合はどうしていたのか?という疑問がのこるのである。
これら製造企業の労働組合幹部も、MTPをしっている社員層にあたるからである。

果たして、社内情報網をもつ、労働組合も「不正」を知っていて、これを、「容認」あるいは、「見すごしていた」とすれば、こと「会社倒産=失業の危機」になった事態の責任は免れない。

逆に、いまようの「短期利益」にものをいう株主に屈している経営層の暴走を阻止できるのは、もはや労働組合「しかない」ものを。
完全にかつての「イデオロギー対立」としての、「労使」ではなくて、「まったくあたらしい産業国家」を支えるのが、じつは労働組合になっている。

このことは、労組幹部だけでなく、なによりも組合員、あるいは、組合にそっぽを向く従業員が、「自己防衛」として、もっと「自分事」としてかんがえる時代になったといえるのではないか?

それがまた、MTPがおしえてくれる「自己統制」の原理・原則なのである。

ガソリンが「20円」ちがう

わが家の愛車は、年に1回のガラスコーティングを施工している。
洗車をかねて近所のガソリンスタンドに依頼するけれど、「お礼に」と、1年間有効の「ガソリン5円引き券」がもらえる。

それで、長距離ドライブの前にはかならずこのスタンドで満タンにする。

こないだの八百津・中央構造線博物館の旅では、152円/Lで給油した。
神奈川県もだんだん山間部に近づくと値が変わるけど、県境を越えて山梨県に入った途端に、「別料金」になる。
それがまた、長野県に入るとさらに高くなる。

結局、20円/Lちがう。

タンク容量が60Lとすれば、カツカツからの満タンで、1200円ちがうのは大きい。
雪や凍結が日常になる地方ほど自動車だけでなく灯油がないと暮らせない。

ために、空き家日本一の山梨県移住を断念したのだった。

もちろん、地方は駐車代が安いから、これは考慮にいれないといけないけれど、ガソリン代の差額は地方住まいの「罰金」のようにもおもえるのである。

ロシアからヨーロッパへの原油・天然ガス輸送は、基本的にパイプラインだ。
大陸ゆえに地震がないこともあろうけど、なぜに日本の技術をもって、内陸部の県にパイプラインを敷設しないのか?

どなたかご存じのむきには、是非ともご教示頂きたい疑問点なのである。

たとえば、東京湾千葉港は、近くの製油所からパイプラインで船舶用の燃料補給所に供給されているために、開港以来の歴史では圧倒的に古い横浜港が、なぜか製油所もあったのにタンクローリーで運送しているから、何十円単位かで、千葉港の重油の方が安いのである。

また、おなじく千葉の製油所と成田空港はパイプラインがあるけど、羽田にはない。

それもこれも、行政と運送利権とのかねあいだとしたら、やっぱりなんだかなぁ、になる。
まさに、政治の貧困で、その政治がパイプラインに否定的なら、何をか言わんやなのだ。

歴代の山梨県知事と長野県知事にも聞いてみたい。

ところで、エネルギーの話で気になるのは、石油と電気のちがいについての区分けが、あまりされないことである。
電気は、いろんな方法で「発電」される。
しかし、石油は、燃やすだけでなくプラスチックの材料にもなる。

だから、「脱炭素」とはなにをいっているのか、変な用語なのである。

地下から産出するのは、「原油」なので、人間は「石油」にしないと利用できない。
そのために「製油所」が必要なのである。

しかし、経産省という日本経済を破壊するためにあるような変な役所は、人口減少社会になるという理由から、全国の製油所の「統廃合」をやっている。

全国の製油所は、国営企業でもないのに、なんの権限で経営に口出しするのか?
国が介在しないと、製油所の統廃合はできない、とお役人様は仰るけれど、民間なら「採算」の計算は自分でやって、自分の判断で決めるものだ。

それで、ムダな製油所が赤字になっても、その責任は経営者と株主がとるものだから、お国の出番はどこにもないし、株主の権利侵害をどうしてお役人様ができるのかがわからない。

株主が国を相手に、損害賠償請求をしないのも変な話なのである。

さてそれで、もっと変なのが、人口が減るからといってガソリンの精製量を減らしたい、としても、プラスチックの材料としての石油をかんがえたら、とにかく「原油を精製」しないといけないのである。

すると、「原油」の「成分」として、ガソリンがあるので、もしガソリンが必要ない成分になったら、燃やすしかない、ということになる。
なぜならば、「原油を精製」したら、自動的にでてくるのがガソリンだからである。

それだから、プラスチックの需要を減らそうとして、コンビニ弁当とかにつけるスプーンやフォークを有料にしたり、ストローを紙にしたりしているけれど、たとえば、電気自動車のボディーとか、住宅資材のプラスチックは、どのくらいの量になるのか?

これらは必要だから、その分の原油を精製しても、やっぱりガソリンがでてくる。

つまるところ、「ばかじゃないのか?」ということになっている。

庶民としては、おなじパフォーマンスなら安いに越したことはない。
それで、あたかも電気自動車の電気代が、ガソリン車より安いとか宣伝されているけれど、ほんとうなのか?

この秋から、3割増しになるという電気代で比較しているのか?
あるいは、「車検」の費用はどうなのか?
少なくとも、ハイブリッド車はその複雑機構のため、整備費は相応にかかるのはわかっている。

ならば、電気自動車でもっとも高価な、バッテリー交換の費用も含めての比較でないと、ガソリン車と対等な比較にならない。

そんなわけで、全国にドライブ旅行をするなら、なんだか「いまのうち」なのである。
ましてや、住民でない分「20円の差額」は、通行料だと割り切ればよい。

ガソリン代が高い地方のみなさん、これで許してください。

大爆笑「ロシア産石油に価格上限!」

3日の新聞記事が悪いのではなくて、これを、「真顔」で決めた「G7:主要7カ国財務相会議」が、発狂したのか?あるいは、とてつもない「冗談」か?

持たざる者たちが、持っている者からの購入物の、価格上限を勝手にきめることが、どういう意味なのか?

一般的には、「ムダな抵抗」なのだ。

これを、国家財政の責任者たちが集まって、よってたかって「決めました」といって発表し、報道させられた、という構図だ。
ゆえに、報道させられる側が、報道機関を自称するなら、自分の持ち物の販売価格上限を決められた側にもインタビューなりして感想でも聞くのが「筋」というものだ。

結局のところ、ロシア側の「裏」がとれていないから、記事では「有効かどうかは不明」として逃げた。

どうして、ロシア産石油の購入価格上限を、財務相の会合できめることができたのかといえば、その「手段」が、「船舶の荷にかける保険」による締付けだからである。

要は、限度額よりも高い値段で購入した原油の運搬に、保険が適用されない、ということだ。
これで、米英の作戦がバレバレになった。
世界の損保は、英国の「ロイズ」が「再保険」としてほとんどを抑えているからだ。

再保険とは、保険の保険である。
各国の損害保険会社は、自社が売った保険が保険事故によって支払が発生するけど、受けとった保険料からそのまま支払っていたら会社がもたない。
それで、「再保険にかける」のである。

これが結局、なんでも保険対象にする損害保険とは体のいい博打といわれるゆえんで、「ロイズ」が胴元なのである。

わが国は、「特例」で、「サハリン2」の場合は、上限を超えてもいいことになったのは、ロシアのいいなり価格で買え、という意味だし、中国やインドがこれに従う気配はない。

そのインドは、ロシアから低価格の原油を輸入して、これをなんとアメリカに転売して、「転売ヤー」で儲けている。
なので、アメリカだけは抜け駆けを予定している「決定」なのだ。

さて、ウクライナ侵攻から半年あまりが過ぎたけど、それから、がみえてこない。
そもそも、ロシアの狙い=目的の、達成度はどうなったのか?

プーチン氏が侵攻時に述べた、「特別軍事作戦」の目的は、
・ウクライナ国内ナチス勢力の排除=親ロ政権の樹立
・東部ドンバス地方の独立及び防衛支援
・後に判明した、生物科学研究所の破壊 などだった。

西側は、最初に手を出したのはロシアだからロシアが一方的に悪い、という主張をして、主体性のないわが国もこれに与した。
それをいいことに、ゼレンスキー氏のアメリカ議会での演説に、「真珠湾」を持ちだしたのだった。

いまや、真珠湾攻撃でさえ「奇襲ではなかった」ことが証明されている。
つまり単なる「通説」とか「俗説」なのに、反論できない日本政府は、反論できないようにされている。

それが、在日米軍(いまだ占領軍)による命令で、それを大元から発令しているのが民主党政権だ。

世界は、真実や真の目的を隠すものだ。

そんなわけで、今回の決定も、侵攻から半年にして「12月から」という悠長さに怪しさを感じるし、その対象が「石油」ということも怪しい。
特に、ヨーロッパがエネルギー危機になったのは、ロシアからの「天然ガス」供給が不安定になったことにある。

日本でまず報じられもしない、ヨーロッパの侵攻前からの「論説」に、「ノードストリーム2」にまつわる、アメリカ側の反発を解説したものがあって、最近になって、同様の論調が目立ってくるようになった。

「ノードストリーム」とは、ロシアとドイツをバルト海の海底に敷設した「天然ガス・パイプライン」の名称で、とっくに稼働している「1」と、新設された「2」がある。

メルケル政権が心血を注いだ、この2本のパイプラインこそ、歴史的な「独露の蜜月」になり得るもので、アメリカの歴史・戦略研究家は、20世紀のアメリカの戦争目的を覆しかねない、と警告している。

つまり、独露が結託した場合、巨大なユーラシア経済圏が誕生して、アメリカのヨーロッパ利権が大西洋に突き落とされる、というものだ。
これに、極東の日本が加わると、アメリカの覇権(パクスアメリカーナ)は崩壊する、と。

ソ連が崩壊したときに、日本円経済圏をシベリアに拡張すれば、ウラル山脈の西側が、ドイツマルク経済圏になるとした、小室直樹氏の大戦略と合致する。

そして、インドを加えた「クアッド」で、中国封じ込めが完成したものを。

とはいえ、ガス供給が命綱だったドイツは、この冬を超えられるのか?の恐怖におののく状態になって、ドイツ経済の生産力は壊滅的になるだろう。
すると、EUを支えるのはフランス一国になって、ヨーロッパの統合は分裂に展開するはずだ。

この状態は、わが国にとってのチャンスにちがいないけれど、これを活かす政治が、わが国にはできない。
11月、アメリカの中間選挙が、唯一の他人頼みだけれど、その直前、10月には北京で歴史的な会議もある。

結局のところ、アメリカ民主党政権の狙いは、ドイツの追い落としだったのである。

これでドイツは、3度目の大敗北となった。

ただいまスタグフレーション準備中

不景気(recession)というほどではないけれど、景気後退(Stagnation)しているのに、インフレーション(inflation)が起きることを、スタグフレーション(造語:stag+flation)といって、70年代の石油ショックを背景にした米英で「景気停滞中の物価高」というあたらしい経済用語になった。

これが、「あたらしい」のは、古典派経済学では、起こりえない、という学問的常識があったからだ。
そんなわけで、音楽でいう「新古典派」と同様に、経済学にも「新古典派」が頑張ることになった。

当時は、米ソ冷戦時だったので、新古典派は反マルクス主義だったけど、ソ連の情報統制と宣伝が効をなして、あたかも「5ヵ年計画」がなんとかうまくいっているようにもみえた。

もちろん、そんなはずはない、ソ連経済は破綻の危機にある、という主張もないではなかったけれど、人間の「希望的観測」が、そのまま理論化されて、ポール・サミュエルソンの数理モデルをして、「新古典派統合」が一世を風靡した。

一般に、新古典派とケインズ理論の「統合」と、いまだにオブラートに包んだいいかたをしているけれど、ケインズ理論とは「政府が分配する」社会主義経済のことなので、「マルクス経済学」というありもしない欺瞞との親和性どころか、マルクス経済学を数理モデル化したともいえるものだ。

これがあの有名な、『サミュエルソン 経済学』(都留重人訳、1974年(原書第9版)、岩波書店)となって、アメリカもしかり、わが国の大学での「標準的教科書」といわれていた。

  

つまり、日米ともに、有名大学の経済学徒は、サミュエルソンを通じてマルクス経済学を学んでいた、ということになる。
その成果が、いま、日米それぞれの政府・官僚を、なにかに取り憑かれたような社会主義化に邁進させているとおもわれる。

また、これを強力に支援・推進しているのが、アメリカでは民主党左派だ。
日本では自民党・公明党だけでなく、ほぼ全野党も同類なので、アメリカを基準にすれば、「急進左派=共産主義右派」の体制になった。

なお、公職選挙法でいう「国政政党」でこれから距離を置くのは、参議院に1議席をおく参政党だけになっている。
つまり、わが国の「真の野党勢力」は、参議院に1人だけ、というおぞましい大政翼賛状態にある。

わが国の民主主義は、瀕死の危篤状態なのだ。

それが証拠に、いっさい懲りないマスコミは、なにかを隠すために連日特定宗教団体の話題をあげて、とうとう内閣もこれに迎合し、この特定宗教と「自民党として手を切る」などという世迷い言から、内閣改造も実行した。

しからば、政権与党のもう一つの政党の、特定宗教団体との関係をどうするのか?は、ぜんぜん「別」なのである。
これには、憲法で保障された、「信教の自由」があるからなので、立場的に公明党の言い分の方が正しい。

逆に、自民党は、他の仏教系とか、神道系の宗教団体とどうしようというのか?は、完全に頬っ被りなのだから、まるで下手な「安来節」を観させられている気になるのだ。

しかし、これら一連の「報道」を、いつもの「出来レース」としてみれば、着々と政府が用意している「炭素税」を隠すための方便だとわかるのである。

それが、6月7日に閣議決定された、『新しい資本主義グランドデザイン』である。

この中で、償還財源不明の「GX経済移行債」という名の国債が、発行準備されている。
「GX」とは、政府の「DX(デジタル・トランフォーメーション)」からの「派生形」で、「グリーン・トランスフォーメーション」のことをいう。

横文字で「なんとなく」を醸し出す、小池百合子都知事の言語用法をパクったにちがいない。
おそらく、財源は、すっとぼけた大臣やらに発言させて、これまた「カーボンニュートラル」とかの横文字で、しらっと「炭素税を創設=増税」するのだろう。

秋には電気代の値上げがスケジュール化されているので、国民負担はグッと重くなること確実なのに。
こうして、エネルギー政策で自滅したドイツの後を追う。

これぞ、「敗戦国の悲哀」だ。
それもこれも、世界経済フォーラム:ダボス会議の決定に従っている「国連」を、相変わらず「敵」だと忘れた結果なのである。

そんなわけで、昨年の衆議院選挙でも、こないだの参議院選挙でも、一切口外しなかった「新税創設」という大政治課題を、しらっとやってのけようという魂胆は、国民不在をこえた「奴隷扱い」にほかならない。

ひるがえって、日銀がなにをやっても達成できなかった、「インフレ・ターゲット2%」が、原油高だけでない資源不足と円安で、あっという間に実現した。

おそらく、日銀はあたかも自分たちの金融政策の成果だと言い張るだろうけど、こんなうそは小学生だって見抜ける。
逆に、だからといって金利を上げることもできないから、円安どころか暴落にもなりかねない。

つまり、ノーコンのインフレで、50年の「遅れ」をもって、70年代のスタグフレーションに苦しんだ米英経済に「追いつく」ことになった。
彼らは、「自由主義」をもって痛みを伴いながらも克服したけど、わが国は「新しい資本主義=ダボス会議がいう共産主義」をもって対処すると、これだけは「公言」している翼賛会が仕切っている。

要は、わが国は「自滅」のスタグフレーションへ向けて絶賛準備中なのである。