ガソリンが「20円」ちがう

わが家の愛車は、年に1回のガラスコーティングを施工している。
洗車をかねて近所のガソリンスタンドに依頼するけれど、「お礼に」と、1年間有効の「ガソリン5円引き券」がもらえる。

それで、長距離ドライブの前にはかならずこのスタンドで満タンにする。

こないだの八百津・中央構造線博物館の旅では、152円/Lで給油した。
神奈川県もだんだん山間部に近づくと値が変わるけど、県境を越えて山梨県に入った途端に、「別料金」になる。
それがまた、長野県に入るとさらに高くなる。

結局、20円/Lちがう。

タンク容量が60Lとすれば、カツカツからの満タンで、1200円ちがうのは大きい。
雪や凍結が日常になる地方ほど自動車だけでなく灯油がないと暮らせない。

ために、空き家日本一の山梨県移住を断念したのだった。

もちろん、地方は駐車代が安いから、これは考慮にいれないといけないけれど、ガソリン代の差額は地方住まいの「罰金」のようにもおもえるのである。

ロシアからヨーロッパへの原油・天然ガス輸送は、基本的にパイプラインだ。
大陸ゆえに地震がないこともあろうけど、なぜに日本の技術をもって、内陸部の県にパイプラインを敷設しないのか?

どなたかご存じのむきには、是非ともご教示頂きたい疑問点なのである。

たとえば、東京湾千葉港は、近くの製油所からパイプラインで船舶用の燃料補給所に供給されているために、開港以来の歴史では圧倒的に古い横浜港が、なぜか製油所もあったのにタンクローリーで運送しているから、何十円単位かで、千葉港の重油の方が安いのである。

また、おなじく千葉の製油所と成田空港はパイプラインがあるけど、羽田にはない。

それもこれも、行政と運送利権とのかねあいだとしたら、やっぱりなんだかなぁ、になる。
まさに、政治の貧困で、その政治がパイプラインに否定的なら、何をか言わんやなのだ。

歴代の山梨県知事と長野県知事にも聞いてみたい。

ところで、エネルギーの話で気になるのは、石油と電気のちがいについての区分けが、あまりされないことである。
電気は、いろんな方法で「発電」される。
しかし、石油は、燃やすだけでなくプラスチックの材料にもなる。

だから、「脱炭素」とはなにをいっているのか、変な用語なのである。

地下から産出するのは、「原油」なので、人間は「石油」にしないと利用できない。
そのために「製油所」が必要なのである。

しかし、経産省という日本経済を破壊するためにあるような変な役所は、人口減少社会になるという理由から、全国の製油所の「統廃合」をやっている。

全国の製油所は、国営企業でもないのに、なんの権限で経営に口出しするのか?
国が介在しないと、製油所の統廃合はできない、とお役人様は仰るけれど、民間なら「採算」の計算は自分でやって、自分の判断で決めるものだ。

それで、ムダな製油所が赤字になっても、その責任は経営者と株主がとるものだから、お国の出番はどこにもないし、株主の権利侵害をどうしてお役人様ができるのかがわからない。

株主が国を相手に、損害賠償請求をしないのも変な話なのである。

さてそれで、もっと変なのが、人口が減るからといってガソリンの精製量を減らしたい、としても、プラスチックの材料としての石油をかんがえたら、とにかく「原油を精製」しないといけないのである。

すると、「原油」の「成分」として、ガソリンがあるので、もしガソリンが必要ない成分になったら、燃やすしかない、ということになる。
なぜならば、「原油を精製」したら、自動的にでてくるのがガソリンだからである。

それだから、プラスチックの需要を減らそうとして、コンビニ弁当とかにつけるスプーンやフォークを有料にしたり、ストローを紙にしたりしているけれど、たとえば、電気自動車のボディーとか、住宅資材のプラスチックは、どのくらいの量になるのか?

これらは必要だから、その分の原油を精製しても、やっぱりガソリンがでてくる。

つまるところ、「ばかじゃないのか?」ということになっている。

庶民としては、おなじパフォーマンスなら安いに越したことはない。
それで、あたかも電気自動車の電気代が、ガソリン車より安いとか宣伝されているけれど、ほんとうなのか?

この秋から、3割増しになるという電気代で比較しているのか?
あるいは、「車検」の費用はどうなのか?
少なくとも、ハイブリッド車はその複雑機構のため、整備費は相応にかかるのはわかっている。

ならば、電気自動車でもっとも高価な、バッテリー交換の費用も含めての比較でないと、ガソリン車と対等な比較にならない。

そんなわけで、全国にドライブ旅行をするなら、なんだか「いまのうち」なのである。
ましてや、住民でない分「20円の差額」は、通行料だと割り切ればよい。

ガソリン代が高い地方のみなさん、これで許してください。

大爆笑「ロシア産石油に価格上限!」

3日の新聞記事が悪いのではなくて、これを、「真顔」で決めた「G7:主要7カ国財務相会議」が、発狂したのか?あるいは、とてつもない「冗談」か?

持たざる者たちが、持っている者からの購入物の、価格上限を勝手にきめることが、どういう意味なのか?

一般的には、「ムダな抵抗」なのだ。

これを、国家財政の責任者たちが集まって、よってたかって「決めました」といって発表し、報道させられた、という構図だ。
ゆえに、報道させられる側が、報道機関を自称するなら、自分の持ち物の販売価格上限を決められた側にもインタビューなりして感想でも聞くのが「筋」というものだ。

結局のところ、ロシア側の「裏」がとれていないから、記事では「有効かどうかは不明」として逃げた。

どうして、ロシア産石油の購入価格上限を、財務相の会合できめることができたのかといえば、その「手段」が、「船舶の荷にかける保険」による締付けだからである。

要は、限度額よりも高い値段で購入した原油の運搬に、保険が適用されない、ということだ。
これで、米英の作戦がバレバレになった。
世界の損保は、英国の「ロイズ」が「再保険」としてほとんどを抑えているからだ。

再保険とは、保険の保険である。
各国の損害保険会社は、自社が売った保険が保険事故によって支払が発生するけど、受けとった保険料からそのまま支払っていたら会社がもたない。
それで、「再保険にかける」のである。

これが結局、なんでも保険対象にする損害保険とは体のいい博打といわれるゆえんで、「ロイズ」が胴元なのである。

わが国は、「特例」で、「サハリン2」の場合は、上限を超えてもいいことになったのは、ロシアのいいなり価格で買え、という意味だし、中国やインドがこれに従う気配はない。

そのインドは、ロシアから低価格の原油を輸入して、これをなんとアメリカに転売して、「転売ヤー」で儲けている。
なので、アメリカだけは抜け駆けを予定している「決定」なのだ。

さて、ウクライナ侵攻から半年あまりが過ぎたけど、それから、がみえてこない。
そもそも、ロシアの狙い=目的の、達成度はどうなったのか?

プーチン氏が侵攻時に述べた、「特別軍事作戦」の目的は、
・ウクライナ国内ナチス勢力の排除=親ロ政権の樹立
・東部ドンバス地方の独立及び防衛支援
・後に判明した、生物科学研究所の破壊 などだった。

西側は、最初に手を出したのはロシアだからロシアが一方的に悪い、という主張をして、主体性のないわが国もこれに与した。
それをいいことに、ゼレンスキー氏のアメリカ議会での演説に、「真珠湾」を持ちだしたのだった。

いまや、真珠湾攻撃でさえ「奇襲ではなかった」ことが証明されている。
つまり単なる「通説」とか「俗説」なのに、反論できない日本政府は、反論できないようにされている。

それが、在日米軍(いまだ占領軍)による命令で、それを大元から発令しているのが民主党政権だ。

世界は、真実や真の目的を隠すものだ。

そんなわけで、今回の決定も、侵攻から半年にして「12月から」という悠長さに怪しさを感じるし、その対象が「石油」ということも怪しい。
特に、ヨーロッパがエネルギー危機になったのは、ロシアからの「天然ガス」供給が不安定になったことにある。

日本でまず報じられもしない、ヨーロッパの侵攻前からの「論説」に、「ノードストリーム2」にまつわる、アメリカ側の反発を解説したものがあって、最近になって、同様の論調が目立ってくるようになった。

「ノードストリーム」とは、ロシアとドイツをバルト海の海底に敷設した「天然ガス・パイプライン」の名称で、とっくに稼働している「1」と、新設された「2」がある。

メルケル政権が心血を注いだ、この2本のパイプラインこそ、歴史的な「独露の蜜月」になり得るもので、アメリカの歴史・戦略研究家は、20世紀のアメリカの戦争目的を覆しかねない、と警告している。

つまり、独露が結託した場合、巨大なユーラシア経済圏が誕生して、アメリカのヨーロッパ利権が大西洋に突き落とされる、というものだ。
これに、極東の日本が加わると、アメリカの覇権(パクスアメリカーナ)は崩壊する、と。

ソ連が崩壊したときに、日本円経済圏をシベリアに拡張すれば、ウラル山脈の西側が、ドイツマルク経済圏になるとした、小室直樹氏の大戦略と合致する。

そして、インドを加えた「クアッド」で、中国封じ込めが完成したものを。

とはいえ、ガス供給が命綱だったドイツは、この冬を超えられるのか?の恐怖におののく状態になって、ドイツ経済の生産力は壊滅的になるだろう。
すると、EUを支えるのはフランス一国になって、ヨーロッパの統合は分裂に展開するはずだ。

この状態は、わが国にとってのチャンスにちがいないけれど、これを活かす政治が、わが国にはできない。
11月、アメリカの中間選挙が、唯一の他人頼みだけれど、その直前、10月には北京で歴史的な会議もある。

結局のところ、アメリカ民主党政権の狙いは、ドイツの追い落としだったのである。

これでドイツは、3度目の大敗北となった。

ただいまスタグフレーション準備中

不景気(recession)というほどではないけれど、景気後退(Stagnation)しているのに、インフレーション(inflation)が起きることを、スタグフレーション(造語:stag+flation)といって、70年代の石油ショックを背景にした米英で「景気停滞中の物価高」というあたらしい経済用語になった。

これが、「あたらしい」のは、古典派経済学では、起こりえない、という学問的常識があったからだ。
そんなわけで、音楽でいう「新古典派」と同様に、経済学にも「新古典派」が頑張ることになった。

当時は、米ソ冷戦時だったので、新古典派は反マルクス主義だったけど、ソ連の情報統制と宣伝が効をなして、あたかも「5ヵ年計画」がなんとかうまくいっているようにもみえた。

もちろん、そんなはずはない、ソ連経済は破綻の危機にある、という主張もないではなかったけれど、人間の「希望的観測」が、そのまま理論化されて、ポール・サミュエルソンの数理モデルをして、「新古典派統合」が一世を風靡した。

一般に、新古典派とケインズ理論の「統合」と、いまだにオブラートに包んだいいかたをしているけれど、ケインズ理論とは「政府が分配する」社会主義経済のことなので、「マルクス経済学」というありもしない欺瞞との親和性どころか、マルクス経済学を数理モデル化したともいえるものだ。

これがあの有名な、『サミュエルソン 経済学』(都留重人訳、1974年(原書第9版)、岩波書店)となって、アメリカもしかり、わが国の大学での「標準的教科書」といわれていた。

  

つまり、日米ともに、有名大学の経済学徒は、サミュエルソンを通じてマルクス経済学を学んでいた、ということになる。
その成果が、いま、日米それぞれの政府・官僚を、なにかに取り憑かれたような社会主義化に邁進させているとおもわれる。

また、これを強力に支援・推進しているのが、アメリカでは民主党左派だ。
日本では自民党・公明党だけでなく、ほぼ全野党も同類なので、アメリカを基準にすれば、「急進左派=共産主義右派」の体制になった。

なお、公職選挙法でいう「国政政党」でこれから距離を置くのは、参議院に1議席をおく参政党だけになっている。
つまり、わが国の「真の野党勢力」は、参議院に1人だけ、というおぞましい大政翼賛状態にある。

わが国の民主主義は、瀕死の危篤状態なのだ。

それが証拠に、いっさい懲りないマスコミは、なにかを隠すために連日特定宗教団体の話題をあげて、とうとう内閣もこれに迎合し、この特定宗教と「自民党として手を切る」などという世迷い言から、内閣改造も実行した。

しからば、政権与党のもう一つの政党の、特定宗教団体との関係をどうするのか?は、ぜんぜん「別」なのである。
これには、憲法で保障された、「信教の自由」があるからなので、立場的に公明党の言い分の方が正しい。

逆に、自民党は、他の仏教系とか、神道系の宗教団体とどうしようというのか?は、完全に頬っ被りなのだから、まるで下手な「安来節」を観させられている気になるのだ。

しかし、これら一連の「報道」を、いつもの「出来レース」としてみれば、着々と政府が用意している「炭素税」を隠すための方便だとわかるのである。

それが、6月7日に閣議決定された、『新しい資本主義グランドデザイン』である。

この中で、償還財源不明の「GX経済移行債」という名の国債が、発行準備されている。
「GX」とは、政府の「DX(デジタル・トランフォーメーション)」からの「派生形」で、「グリーン・トランスフォーメーション」のことをいう。

横文字で「なんとなく」を醸し出す、小池百合子都知事の言語用法をパクったにちがいない。
おそらく、財源は、すっとぼけた大臣やらに発言させて、これまた「カーボンニュートラル」とかの横文字で、しらっと「炭素税を創設=増税」するのだろう。

秋には電気代の値上げがスケジュール化されているので、国民負担はグッと重くなること確実なのに。
こうして、エネルギー政策で自滅したドイツの後を追う。

これぞ、「敗戦国の悲哀」だ。
それもこれも、世界経済フォーラム:ダボス会議の決定に従っている「国連」を、相変わらず「敵」だと忘れた結果なのである。

そんなわけで、昨年の衆議院選挙でも、こないだの参議院選挙でも、一切口外しなかった「新税創設」という大政治課題を、しらっとやってのけようという魂胆は、国民不在をこえた「奴隷扱い」にほかならない。

ひるがえって、日銀がなにをやっても達成できなかった、「インフレ・ターゲット2%」が、原油高だけでない資源不足と円安で、あっという間に実現した。

おそらく、日銀はあたかも自分たちの金融政策の成果だと言い張るだろうけど、こんなうそは小学生だって見抜ける。
逆に、だからといって金利を上げることもできないから、円安どころか暴落にもなりかねない。

つまり、ノーコンのインフレで、50年の「遅れ」をもって、70年代のスタグフレーションに苦しんだ米英経済に「追いつく」ことになった。
彼らは、「自由主義」をもって痛みを伴いながらも克服したけど、わが国は「新しい資本主義=ダボス会議がいう共産主義」をもって対処すると、これだけは「公言」している翼賛会が仕切っている。

要は、わが国は「自滅」のスタグフレーションへ向けて絶賛準備中なのである。

なんで「LINE」なのか?

SNSの「便利さ」は承知しているけれども、「無料」なのが気にさわる。
いまや「無料の天下」になってしまった。

むかしの日本人は、「無料を怪しむ」精神の健全性があった。
「ただ?」そんなはずはないだろう。
どうして「ただなの?」なにかいかがわしいことがあるのか?と。

それでやっぱり騙されたり、へんに相手に気を遣うことになって、結局は損をする。
だから、ただほど高いものはない、といったのである。

価格に見合う対価は払う。
じつは、これが、経済学が前提に置く「経済人」の経済感覚なのだ。

もう30年前にもなろうむかし、とある地方のスーパーマーケットが、顧客カードを利用客に登録させて、レジでの提示で購入額に見合ったポイントを付与するサービスをはじめた。

いまでは、どこもかしこもポイントサービスをやっているから、財布がぶ厚くなる困ったになって、なるべく新規の店ではこれを拒否している。
数円のためにぶ厚い財布を持ち歩きたくないからだけど、ポイントが付かない当たり前に、なんだか損をした気にもなる。

さてそれで、最初のポイントサービスの意味とは、顧客の買い物情報を店が買った、ということだった。
つまり、顧客は自分の購買履歴を、レジで店に売っている、と。

これは、「ただ」で情報をいただくわけにはいかない、という経営者の精神が決めさせたことだった。
こういう経営者が経営している店なので、しっかり分析をしてより顧客サービスを充実させて、双方の「Win-Win」にしたから、繁盛店になったのである。

けれども、そんな「精神」を意識もしない経営者にも、「ポイント管理システム」という商品ができれば、おなじサービスがかんたんに実現できる。
それで、猫も杓子もとなったのである。

しかしながら、アメリカからやってきたSNSを提供する会社は、もっと貪欲で、自分たちの「Win」しかかんがえていないことがわかった。
それでも、「便利さ」という「誘惑」に駆られて、使わざるを得ない状態に置かれたのが、いまの「庶民」の立場なのである。

ここに、欧米的な「支配と被支配」ができあがって、それが「勝ち組・負け組」という言い方でわが国に伝播した。
「被支配者」の代表が、現職の大統領だったのに、SNSから永久追放されたトランプ氏なのである。

彼の政治的立場は、あくまでも「被支配者の側」にあるのに、日本では「憎悪」の対象としてプロパガンダされるのは、わが国マスコミが「支配者の側」に立脚しているからである。

しかし、こんな「単純な構図」すら理解できないのが、日本人の大半になったので、支配者からコケにされたりイジメの対象になっているトランプ氏を笑いながらバカにすることができるようになっている。

だから、アメリカでのトランプ支持の盛り上がりを「赤いビッグウエーブ」と呼ばれていることの意味が、まったくわからない状態になるのだ。
つまり、日本人は唯一の「同盟国」の実情を、ぜんぜん理解していない。

トランプ氏の政治的「復活」は、SNS企業には非常に都合の悪いことになるのは明白で、その「自由裁量」にきっぱりとメスが入るのは、彼自身の報復なのではなくて、現職大統領さえも言論の場を失うことの、アメリカ人一般がかんがえる「自分もやられる」ことへの共感があるからだ。

現に、「ダボス会議」は、世界的な言論統制を行うべきと提言した。
その手段は、A.I.による、という他人事としている。
これに、フロリダ州知事は、だれがそのプログラムを書くのか?として、反ダボス会議を明確にした。

そんなわけで、アメリカは一般人に主権があるという憲法に従った「反撃」が用意されてきているのだが、わが国は、ぜんぜん脳天気なままにいて平然と生活できるのは、幸福なのか不幸なのか?

韓国と中国に個人情報がダダ漏れだと指摘された、「LINE」が、相変わらずの猛威を振るっている。
これに、支払決済の「pay」機能が、さらなる個人情報抜き取り手段になっているとの指摘も無視できる状態なのである。

「LINE」の危険性が社会を騒がせていたときに、神奈川県は県民サービスとしての「LINE」を開始するという「快挙」を遂げた。
行政への批判だけでなく、県議会議員の質が低すぎるか、行政とグルなのかのどちらかだ。

いまや、日本郵政の再配達も、二次元バーコードからなら「LINE」に接続されるから、電話の自動音声で申し込んでいる。

そんななか、岐阜県八百津町は、SNSからの町指定ハッシュタグをつけて発信したら、町内宿泊施設の料金を2000円補助するという「観光政策」をやっている。
夫婦二人でやれば、4000円の補助になる。

こんな補助がありますと教えてくれた宿の女将さんに文句をいってもはじまらない。
とにかく、行政と議会が、あまりにも無防備なばかりか、自分たちの提案がどれほどの利益をSNSに与えるのかも、ノーマークにちがいない。

ただし、この制度では、「LINE」は排除されていた。
知らないひとへの「伝播力が弱い」、という理由だった。

なんにせよ、おそらく国やら県を通じて降ってくるおカネ(予算)だから、四の五といわずに「やっちまった勝ち」で決まったのだろう。

わが家はこれを「拒否」して、支払を済ませたのだった。
ことは、4000円の問題ではないのである。

生活をよくする政策がない

日本人の不幸のひとつが、「政治の貧困」だったけど、「米ソ冷戦」という、かえって「安定」の世界秩序があったおかげで発展してきたから、「政治の貧困」はあるけれど、それが「決定的なことではない」という、世にも珍しい国民性が完成した。

しかし、日本経済の衰退で、国民生活がその所得の低下から貧困化している現実を無視した、なんだか「金満」なままにいられる「政治の貧困」が、いよいよ「痛みを伴う」状態になってきた。

これは、碩学故小室直樹氏が指摘した、日本復活の条件にもなっていることで、日本国民は政治=政府によって痛めつけられるほどに、「目が覚める」だろう、と。

もちろん、なかには「別」なひともいて、それがまた伝統的な「共産主義・全体主義」のいう「甘言」なのである。

日本に伝わった「大乗仏教」は、アジアの「小乗仏教」をバカにする傾向があるけれど、「お経」そのものが、「漢字表記」されたサンスクリット語のままなので、なにをいっているのかわからない。

チベット仏教では、『死者の書』を葬儀に使うことになっていて、これが、チベット語だから、それこそ死者に呼びかけて「人間への生まれ変わり」を補助する宗教的合理性がある。

けっして「畜生」やらにまちがって生まれ変わってはいけない信仰から、僧侶がきちんと人間になるための「手引き」をしてくれることがありがたいのである。

つまり、日本だと死者はいきなりサンスクリット語を理解するように扱われるけど、チベットでは自国語で説明・援助をしてくれる。

これが、宗教を否定し禁止もする「共産主義・全体主義」の宗教利用に応用されて、「甘言」となり、ひとびとを共産主義・全体主義の親派にさせて、革命を成し遂げようとする大目的のための巨大な「方便」になったのである。

方法論として、宗教を真似た、というわけである。

けれども、日本人が厄介なのは、徳川家康がつくらせた「檀家制度」が、明治になっても続いていまに至っている。
なので、自家の菩提寺がどんな宗派なのか?とか、どんな「教え」なのか?とかを詳細にしる必要がなくなった。

葬式で聞くお経の意味すら、遺族はしらない。

「一向宗(真宗)」があまりにも強い抵抗(一向一揆)をしたので、いかに封じ込めるか?の為政者にとって最善の策が、檀家制度だった。
つまるところ、これで日本人の宗教心を封じ込めたのだったが、封じ込められ続けているうちに、それが「ふつう」になったのである。

一向宗ですら、東西の「本願寺」に分裂して、それが「ふつう」になったのだから、ほかは推して知るべしなのだ。

さては、明治の大発明は、「日本教」だった。

うっかり忘れてしまうけど、「明治時代」の国家大目標は、なんといっても「不平等条約撤廃」という「悲願」であった。
ために、「近代国家の建設」が「文明開化」にもなったのである。

ヨーロッパの文明を近代文明と規定して、ヨーロッパ型国家体制を近代国家と規定した。
その矛盾は、わが国の相対的にも絶対的にもあった「文明的高度さ」を、自ら投げ捨てる必要があったことにある。

高みにあった文明を、低みにある文明にあわせるという悲劇的努力のはじまりだ。

しかかしてその理由は、圧倒的な科学技術の差だったし、ヨーロッパの植民地支配による富の蓄積だった。
「歯が立たない」の一言である。

ゆえに、わが国だけがヨーロッパ植民地にならずに、「独立」していた、というのは「方便」で、実質的に「不平等条約」によって、宗主国が特定できない「集団支配地」としての立場に置かれたのである。

この意味で、「日英同盟」とは、集団支配者の「筆頭」が英国だと特定された、という意味になるし、「不平等条約撤廃」とは、その方がヨーロッパ集団支配の「役に立つ」という意味でもある。

そんなこんなで、わが国がなんとかなったのは、周辺のアジア諸国がどこもかしこも「途上国」だったから、日本はすごいの自家撞着的方便、が国民に通じたことだった。

しかしながら、とうとう水戸黄門の歌のように、「後から来たのに追いつかれ」て、抜きさられてしまったいまがある。
もはや、わが国の現状は、「中進国」なのだ。

これは、バブル経済の発生と崩壊以降、政府がその無能ぶりを発揮して、「金満大国」が前提になっていることにある。
リーマン・ショックのあかつきには、ときの麻生太郎氏が、なんとアメリカに「日本方式の金融政策を教えてあげる」といって、胸を張ったものだった。

このことの「噴飯」は、日本の金融システムが誰によってコントロールされているかもしらない「阿呆」が、堂々と言い放つ絶望だったのである。

さてそれで、「盛夏」が終わり、電気代の請求書が届いた。

アッと驚くその額は、エネルギー不足を自作自演したヨーロッパの悲惨ほどではないけれど、昨年比ざっと5割増しという目も醒める表示であった。

昨今、「電力ひっ迫」という、「恐怖政治」が行われた。
東日本大震災後にやった、「計画停電」の「無意味」すら報道されないので、自分で調べない国民は欺されつづけている。
事実は、ぜんぜん「停電」の要はなく、恐怖政治のための「計画」だけはあったのだ。

さては今夏の電力ひっ迫も、IAEAからしたらまったく「?」の国内政策なのだった。

わが国の電力需要が、工場の外国移転と衰退で、2010年と2020年の比較では、なんと12%も減っているのである。
これを「埋める」べく、電気自動車への転換をいっているなら、余計なお世話なのだ。

いかに国民生活を楽にさせるか?ではなくて、政府の都合だけの政策になっていることに、「痛み」を実感するようになったのである。

トランプ氏の追い込み猟は成功するか?

8月も終わって、世界が注目するアメリカ「中間選挙2022」まで、2ヶ月あまりとなった。
民主党・共和党ともに予備選挙を終えて、「いよいよ本選」となっている。

2020年のアメリカ大統領選挙に「負けた」トランプ氏にとっては、当初「臥薪嘗胆」の喩えが当てはまったかに見えた。
しかしながら、間もなく2年となる現状を鑑みれば、むしろ「絶好の下野」だったように思えてきた。

逆に、「作戦どおり」トランプ氏を落選させた民主党の「驕り」は、バイデン氏という人形を利用すればするほど馬脚を現すという無様で、歴代最高得票「8000万票の大台」を超えたとは思えない、歴史的な支持率低下に見舞われて、応援団のはずの左派マスコミすら「中間選挙の大敗北」を想定して疑わない状況になってきている。

それは、トランプ氏のビジネスマンとして成功をおさめた「マネジメント能力」の発揮になって、とうとう「共和党」から軍産複合体と共存共栄してきた勢力すら壊滅状態になって、党内予備選でのトランプ派の勝率は驚異的な9割越えを達成している。

時ここに至って、とうとう宿痾の政敵、共和党上院リーダーのミッチ・マコーネル氏とその妻(トランプ政権での運輸長官を務めたイレーン・チャオ女史)への「引導を渡す」声明発表になった。

すなわち、中間選挙後の政治日程において、トランプ派が圧倒的となる共和党は、彼らを「追放すると宣言」したのである。
4年前の中間選挙では、トランプ氏の支持表明を欲して、ギリギリ当選したマコーネル氏だが、自ら命運を尽きさせた感がある。

それにしても、どうしてトランプ氏は、イレーン・チャオ氏を自身の政権で運輸長官に指名したのだろうか?
彼女の実父は、中共の関連企業となった海運会社を経営して、米中貿易の一画を担っているし、実妹はこの会社のアメリカ法人社長である。

こんな「身体検査」は、ちょっと調べればわかることだから、もしや「泳がせた?」というトランプ流の「追い込み漁」だったのかもしれない。
なにしろ、長官自らの指示で、政府補助金すら実妹の会社に交付していたのだ。

これらの「やりたい放題」行為は、政府高官の親族に対する連邦法違反は明確なので、政権与党の民主党は「追求しない」ことを条件に、夫婦共々取り込んだとの噂もある。

それは、今般のトランプ邸へのFBI捜査における「不公正」によってもわかることなので、中間選挙における共和党トランプ派の勝利は、民主党利権にしがみついた連邦職員を恐怖のどん底に追いやる意味も生まれてきた。

ここでいう、民主党利権とは、民主党支持を表明しているGAFAに代表される巨大企業群への「天下り利権」のことだ。
日本の高級官僚やらの「天下り」とは、スケールがちがうのはあまりにも優遇された「年収」にも象徴される。

じっさい、トランプ氏を嫌うひとたちの共通は、「利権確保」にある。

トランンプ氏が最初の選挙から掲げた「ワシントンの沼の水抜き」の意味が、歴史的「利権構造の破壊」にあったからである。
このことはとっくに、「民主党対共和党」という伝統的で表面的になっていた対立構造を破壊して、党派を超えた「運動」に発展した。

しかして、トランプ氏をして共和党を飛び出すことを躊躇させたのは、「二大政党制」の巨大な選挙戦構造なのだ。
だから彼は、徹底的に党内基盤を「スクラップ&ビルド」した。

まさに、不動産屋の成功の法則を当てはめたのである。
けれども、もし彼が現職大統領だったら、ここまで成すことはできなかったろう。

つまり、民主党は、トランプ氏を2期目の大統領に据えて日常業務に忙殺させながら、ワシントン沼の水抜きをさせない、という高等作戦を取るべきだったともいえる。

そうすれば、ここまで共和党もトランプ氏支持派によって圧倒されることもなく、民主党左派も破壊されることもなかったろう。
東洋的にいえば、「天に逆らってまで政権を奪った」ことのバチが当たったともいえる。

とはいえ、窮鼠となった民主党が何をしでかすかわからない。

2020年の選挙は、事実上の民主党による無血クーデターだったから、「元に戻す」意味でのアンシャンレジームを許すはずがない。
しかし、下野したトランプ氏は「時間の使い方」を心得ている本物のビジネスマンだった。

バイデン人形政権が、さまざまな社会破壊工作(=共産化)を実施している、おなじ時間で、トランプ氏は民衆を結束させてアメリカを蘇らせる活動に専念した。

キーワードは、「アンチ・グローバリズム=ナショナリズム」なのである。

まったく残念ながら、日本人も、ヨーロッパ人も、どこの人でも、アメリカの政権と議会の勢力図に逆らうことができない世界に生きている。
こうなったのも、グローバリズムという共産思想の蔓延による、自国政権と議会の堕落のためである。

だから、幸いにもトランプ氏の運動が、世界を救うのである。

つまり、ナショナリズムのグローバル化が、究極の「追い込み漁」なのである。

横浜にうまいものなし?

「手土産」を何にしようか?とかんがえだすと、素直に決まらないのが横浜の弱みなのである。

ふだん観ないテレビだけれど、食堂とかでつけっぱなしにしていることがあって、観たくなくとも聞こえてくる、ということはある。
今回の旅では、関東ではやっていない関西の番組が流しっぱなしにされていて、たまたま視聴者からのお困り相談コーナーをやっていた。

お盆で実家に帰るのに、手土産を持っていく必要があるものか?と、娘からの「お困り相談」が採りあげられていた。
これに、「マナー専門家」が回答して曰く、「必要です」。

目もくらむような、愚問に、目もくらむような直球の回答だ。

これだから、節電要請を受けるなら、まっ先にテレビを消せと皮肉られるのは、ぜんぜん皮肉ではなくて、正しい判断だし、そのまま一生消していていい。

むかしは、実家であろうがどこであろうが、ひとの家を訪問するなら、かならず手土産を用意したものだ。
なので、何にするのか?は、TPO(T:Time:時間、P:Place:場所、O:Occasion:場合)によって使い分けた。

娘がお盆で実家に帰るのに、手土産が必要か?をテレビ局に問い合わせたという話の真偽はしらないけれど、これはもう「育ち」の問題で、親がどこかの家を訪問するときに、「手土産」を持参する習慣がなかった、ということを示唆するものだ。

こんな嫁をもらった家は、どんな家庭なのか?の方がよほど気になる。
夫や姑にきけないから、テレビ局に問い合わせたのか?それとも、テレビ局の作りばなしなのか?

後者の方だと思えてならない。

すると、テレビ局のひとの「育ち」の問題になって、この愚問を採用した理由が、当該番組の視聴者は愚民だという確信があるにちがいない。
その愚民への回答を要求された専門家先生は、もっともわかりやすい直球の回答をしたのだろう。

まったくどうでもいい話を耳にしたばかりに、どうでもいいことをかんがえるはめになった。

そこで、横浜の手土産をどうしようか?に戻ると、スッキリしないのである。
なぜならば、まっ先に浮かぶのが「中華系」で、「肉まん」とか「シウマイ」なれど、「日持ち」の問題がある。

シウマイには、真空パックという技がある。
しかし、これを買って食べてみたら、ふつうのと味がちがうという不満がある。
「月餅」とかの中華菓子は、こんどは好き嫌いが分かれるので、あんがい万人受けしない。

すると、「洋菓子」となるのだが、「横浜」とか、「横濱」が入ると今度は「高単価」になる。
「気持」だけを伝えるためのものだから、高いからよい、とか、安いからよい、という単純さではない。

むかし、高級ホテルの売店商品を「見直し」したとき、どうしてこうなったのか不思議だったのが、商品別販売単価と販売数のチグハグだった。
単純化していえば、「売り手の都合」で構成されていただけだったのである。

売り手の都合とは、仕入れからの販売価格設定をする、という意味で、販売価格設定から仕入れ値や商品内容の工夫がなかったことをいう。
これが結果的に、買い手のTPOと一致しないので、チグハグになるとおもわれたのだ。

すると、売り手が先に買い手の手土産としてのTPOをさまざまな角度から検討して、商品構成を決定するという手順が必要になる。
「見直し」をせよという責任者に、以上のことを伝えたら、「そんな面倒くさいことはしない」というので、なんのための見直しかがわからなかった。

こうした目線からみると、「横濱」がついた商品が、買い手のTPOをどこまで意識しているのか微妙なのである。
それに、市内のひとにわざわざ「横濱」がついたものは渡さないので、「市外」か「県外」向きの意味合いがある。

今回の需要は、旅先の旅館やら案内をお願いした方への「気持」なので、完全に「県外」だ。
しかも、あまりに高価やボリューミーだと、かえって気をつかわせてしまう。

だから、なるべく「軽い」ものがいい。
ならばせいぜい1000円が目安になる。
そんなこんなで、観光地として横浜よりも一歩上をいく「鎌倉」で物色することにしたのである。

この手の商品開発に、なにかと行政が介入して、あたらしい名物誕生とかいうキャンペーンをやれば、観光政策の実施をしている、というアリバイになる便利さがあるから、全国どこでも行政の役人が民間人を叱咤しながらアリバイ工作をやっている。

そんな「名物」が大ヒットした実績を聞いたことがないのは、作り手だけの自己満足だからである。
なので、有名デザイナーの包装紙が、内容物と一致しないで予算消化の対象になるのである。

ようやく選んだ商品を、久しぶりにデパートで購入したら、その店オリジナルの紙袋は、1000円単位の買い上げで一枚という「規定」になっているけど、デパートの紙袋なら無料ですといわれた。

800円の商品2個を入れるオリジナル紙袋に、デパートの紙袋を2枚つけてくれた。

なるほど、デパートが儲からないわけである。

中央構造線をみてきた

長野県南部の大鹿村にある、村立の『中央構造線博物館』は、知的好奇心にあふれたひとがやってくる場所のひとつにちがいない。
たまたま同時間をすごした見学者は、石川県の金沢と群馬県からのひとだった。

大鹿村を縦断して南下する、「国道152号線」は、「酷道」としても有名だったが、ちょうど中央構造線が露呈している「安康露呈」で通行止めとなって、ここから南下して静岡県浜松市に至るルートは寸断されたままになっている。

この道は、南アルプスの西側を走るけど、まさに中央構造線上にある。
なので、北に向かって山を登ると、途中の「ゼロ磁場」で有名な「分杭峠(ぶんぐいとうげ):標高1424m」手前に「北川露頭」もある。

「分杭峠」がゼロ磁場なのは、中央構造線を形成している大断層が強烈な力で押し合いながら横ずれしているために発生したのだろう。
つまり、「電子のスピン方向」が一致してできる「磁場」がないのは、電子レベルでスピン方向がバラバラになった証拠だ。

あらためて「中央構造線」とは、日本列島の「構造」が激変している巨大な「大断層」が線上に連なっている地球規模でも珍しい部分を指す。
つまり、「地質の境界線」なのだ。

中央構造線を境に、旧大陸(ユーラシア大陸の端)と、太平洋プレートやフィリピン海プレートが沈み込むときに、大陸側のエッジで削り取ったプレート上にあった土砂や岩石が盛り上がって、新しい地面を造った部分とに分かれているのである。

おなじ「地面」に見えて、実はぜんぜん「素性」も「組成」もちがうのが、地下深くおよそ30キロメートル下から別れているのである。

その境目は「谷」になっているので、雨水が青木川となって、国道152号線が、ほぼそれにあたっている。
すると、南アルプスはこの線より南の太平洋側になるから、プレートの上にあった部分が隆起してできている山地で、中央アルプス、北アルプスとは組成がちがう。

逆に、北側のは、硬い大陸の岩石(主に花崗岩:墓石でいう「御影石」)でできている。
それで、この「露頭」の河原には、両方の岩石が混じってころがっている。

青木川には、採石場もあるし、下流の「小柴川」に名前を変えた小柴ダムの上流部では、ダムに溜まった土砂を除く、端からみたら「涙ぐましい」努力が延々とされている。

さらに、青木川を横断するトンネル工事は、リニア新幹線のものなので、とにかくダンプカーがよく走っている地域なのである。
もちろん、トンネル工事によって排出される岩石も、その「捨て場」が決まっていないとのことで、河原の横に仮設の用地が用意されていた。

また、南アルプス側には、「鹿塩温泉」があって、「塩畑」まであった。
塩化ナトリウムが豊富だけど、よくあるマグネシウムが少ないという特徴から、よく温まり、苦味がない塩として「幻の塩」といわれている。

これも、中央構造線付近という場所柄らしく、おそらく海洋プレートが沈み込むときに、海水を含んだ岩石が強烈な圧力で搾られて出てきた「水」に、どういうわけかわからないけど、マグネシウムを地下に置いてきて、塩化ナトリウムを主に含んだ水になっているらしい。

なので、このあたりの地下には、置き去りにされた大量のマグネシウムが眠っているはずである。

村立の「中央構造線博物館」展示室にある、立体パノラマ模型は、30年前の開館時に製作されたというけれど、ボタン一つで周辺を点滅させるだけでなく、大胆にも南アルプスから日本海側の「断面」も、ちゃんと「沈下」させて表現してくれる優れものなのである。

それはまるで、ケーキのスポンジとクリームの断面のようでもあるし、ガラス瓶でつくる砂模様のようでもある。

その「露頭」に元博物館学芸員でいまは博物館顧問の河本和朗氏に案内をお願いして行ってみたら、昨年の台風で流された状態そのままの、素人には一見してもわからない場所だった。

しかし、丁寧な説明で対岸の露頭とこちら側が「おなじ」なことを確認したら、この「岩石がつくる模様」が、地下深くまでつながっているばかりか、1000キロメートルに及ぶ長大な「境界線」だとわかると、地球活動の人智を超えたダイナミックさがわかるのである。

そして、「それ」を触ってみれば、粉々に砕けた状態である。
圧力とズレの摩擦力で、岩石が砕けたのである。
よって、トンネル工事でよく聞く、高難易度と緊張の「破砕帯」の大親分がこの地下にある。

河原だからといって、石を拾うことは許されない。
ここは、立派な「天然記念物」だからである。

あと4、50mも下ったら、ご自由に、と教えられた。
その場所は、今度は日本海側になるので、ぜんぜん岩の形も表情もちがう。
数トンもありそうな平らな巨石が横たわっていたけれど、それは、奈良県明日香村にある「石舞台」とおなじ組成のものだという。

じっさいに、石舞台の「材料」は、あんがいと「近場」から移動させたらしい。
ただし、近距離でもどうやって?は残る疑問だ。
とはいえ、この山中と明日香村は、おなじ構造の地面なのである。

関東では、筑波山がそれにあたる。
それにしても、もっと不思議なのは、中央構造線上には、わが国を代表する「神社」があるのだ。

茨城県:鹿島神宮、千葉県:香取神宮、埼玉県:氷川神社、長野県:諏訪大社(上社)、愛知県:豊川稲荷、三重県:伊勢神宮(外宮)、徳島県:剣山、愛媛県:石鎚山、宮崎県:高千穂。

古代日本人の自然観察力が優れていた、としかおもえない。

「最新」の旅館だった

3年ぶりの八百津の三勝屋に二晩行きたくて、同町内にある宿に予約した。

評判は良さげだけれど、今どきとくだんHPがあるわけでもないので、予約は電話でした。
女将さんが出て、朝食付だけを伝えたら、夕食はどちらで?というから「三勝屋さんが目的」だと申し出た。

すると、日付の曜日から、「大丈夫、定休日ではないですよ」と教えてくれた。
こうしてわたしの中にある、旅館の女将の第一条件である、「地元情報通」にあっさり合格したのであった。

以前泊まった「妻籠」の宿も、居心地の良いところに「当たって」、一晩目の翌日に「宿場」にあった「本日の空室」看板には、当該の宿が「満室」だったので、その気になって帰館したら、我々夫婦だけの貸切状態になっていた。

「満室」と表示されていたことを女将さんに伝えたら、お客さんたちが気に入ったから他の客を取らないようにした、と。
どうやら「合格」したのは、我々の方だったのである。

それに、妻籠の「昔の面影保存」に尽力したのが、この宿の主人だったこともあってか、宿場内の居酒屋で宿の名前を答えたら一目置かれたことを思い出した。
あそこのお客じゃ安心だ、と。

食い逃げの心配ではなさそうだ。

そんなこんなで、三勝屋さんでは二晩連続でお邪魔すると、こちらも名物女将に伝えたら今度は、どちらにお泊まりで?と聞かれた。
「まつや旅館さん」というと、いい宿にお泊まりで、と返されて、「女将さんがちゃんとしているひとだから」と。

ご近所同士で仲がいいのは、どちらも贔屓したくなるポイントだ。

さて、その旅館は、さいきん私が気にしている分野での「最新」だったので、書いておこうとおもう。
それは、「食」にまつわる「安全性」のことである。

ちょうど1年経ったと話題のパラリンピック報道はあるけれど、オリンピック・パラリンピックでの「食」についての特集報道は地味だった。
「世界基準」を満たしていない、我が国の「食品」は、見事な「ガラパゴス状態」をその後もキープしている。

もちろんこのブログの読者ならお気づきだろうけど、わたしは「世界基準」が「正義」になっている状況も、「完全」とはおもっていない。
もっといえば、「食品」も、実体は、「デファクトスタンダード」なのである。

それは、世界大手といわれている、巨大流通企業たちによるものだ。

すなわち、パソコンのOS同様に、民間企業がつくるスタンダードで、パソコンのOSが「一社で支配した」のに対して、「食品」は複数社による「連合」となっている違いがある。

それがまさに「グローバル」な「仕入れ調達」のために、一国政府も及ばない状況なのである。
この意味で、ドンキホーテのような日本政府(とくに農水省)は、一国政府として挑んだものの、ものの見事に「世界から」相手にされなかったのだった。

この「世界」とは、各国選手団を統括したというよりも、種目別の世界団体が、「ドーピング」同様に「食材の安全」を要求したからである。
そして、それに、たとえば「JAS規格」が通用しない、という事態になったのである。

これは、日本人として由々しきことで、我々が食べている基準の大元が、世界から否定されたことでもあった。

じっさいに、我が国の食品安全基準としての「食品添加物認可」は、世界一「緩い」と指摘されており、それは、農薬の安全基準にも及んでいる。
なので、「日本製食品」あるいは「農産物」の多くが、ヨーロッパで「輸入禁止」措置が取られている。

この点で欧米基準は、過剰なるセンシティブだという意見もあろうが、これらの地域で「ガン発症率の減少」が見られる中、我が国だけが増加している現状をどのように解釈すべきか?という議論は、「速やか」に必要だろう。

そんなわけで、わたしがいいたい「最新」とは、食の安全についての見識だけでなく、じっさいの提供に及ぶことはいうまでもない。
すなわち、「ポスト・コロナ」としての、インバウンドに対するための「重要戦略」なのである。

このことは、何もセンシティブな欧米人(彼らは一般に高単価だ)ばかりをターゲットとしていない。
なぜなら、習政権が推進(強制)した、「自然農法」での作物が、アジアの富裕層にも浸透したからである。

むしろ、親中のスリランカ政権が失敗した「自然農法の強制」こそ、アジア諸国への輸出を睨んだことが原因だった。

すると、インバウンドの対応に、「食」の分野で追いつかない状況にあるのが、我が国の宿泊・外食業界なのである。

この度お世話になったこの宿は、ほぼすべての食材が「自家製自然農法」のものだった。
それは、米であり、野菜のことだ。
自家の田と畑を、ご主人が管理しているのは、客用ではなくてあくまでも自家用の延長なのである。

肉と魚、あるいは鶏卵などをどうするか?はある。
けれども、本格的な「和食」でみれば、これら動物タンパク質の比重は軽いという幸がある。

ホッとする食事の提供は、もっとも重要な宿の機能だ。
それは、たとえ「木賃宿」でもそうだった。
煮炊き用の「木賃」を払って、客が自炊したことをはじまりとする。

自然農法の宿は、だから「あたらしい」のである。

丸山ダムと大衆食堂再び

3年ぶりの再訪である。
既存のダムのわずか47.5m下流に新たに造る「新丸山ダム」の工事がはじまって、旧ダムの展望台を兼ねた「ダム事務所」も山上に移転した。

この「山」には、地元が生んだ「日本のシンドラー」といわれている「杉原千畝記念館」もできたので、「人道の丘」と名付けられた。
そこには、「新ダム」が約20m「嵩上げ」されるので、それによって水没する30数世帯の方々もここに移転したという。

なので、「人道の丘」という命名には、二重の意味がある。

杉原千畝記念館は丘の頂上付近にあるので、そのやや下にあたらしいダム事務所と展示室ができた。
前回訪問したときとちがって、新調されたロビーが展示室を兼ねていたけれど、なんとなくその「やる気のなさ」が感じられたのは残念だった。

前にあった折りたたみ式の椅子がまだ立派にみえたのは、キャンプ用の簡易ベンチが一脚だけあって、その前に「DVDプレーヤー」と接続された小型テレビがポツンとあった。

これらには、あらたな予算がつかなかったらしく、前回とおなじものが運ばれたようだ。

DVD側に問題があるのか、それともプレーヤー側の老朽化なのかはわからないけど、映像がときたま止まって再開すると「針飛び」のように、場面も飛んでしまって、記録映画としては「傑作」と思われる2枚のDVDの映像価値が、ずいぶんと減価されてしまっていた。

なにしろ、この映像の「別れのシーン」が、これ以上ない切なさを表現していたからである。

それで、新ダムによる水没を、二十一世紀になって経験するひとたちの集落を見学しようとしたのだけれども、上に書いたようにとっくに移転は終わっていて、元の集落へと続く道も、工事用道路して一般には閉鎖されていた。
3年前に見ておくべきだったか、それでも遅かったかもしれない。

旧ダムの着工は、1943年(昭和18年)で、竣工は1956年(昭和31年)だった。
戦時中から戦後になって、より逼迫した電力事情のため、という「国策」が強力に遂行されたわけだけど、しっかりした「反対運動」があったとDVDの記録は冷静だ。

このときの人びとの「顔」は、いまのようなヘラヘラした日本人の顔ではない。
これだけでも、このDVDを観る価値はあるが、いかんせん質の劣化は否めない。

これを、「サービス品質」という目線で見れば、「神は細部に宿る」のごとく、豊富な予算がおおいに漏れている理由としての欠如は、官民を問わない現代日本人の特性になったともいえる。

そんなわけで、国道418号線に続く県道353号線で、恵那までドライブすることにした。
木曽川沿いの道が、閉鎖されているためである。

では、どうして「恵那」なのかといえば、前夜の「三勝屋」での食事時に、隣り合ったお客さんに「恵那の名店」を教わったからである。
ちなみに、三勝屋は、地元八百津町製作のグルメガイドに「筆頭」の名店だ。

恵那は、駅前の「ひかり食堂」だという。

国道は「バイパス」と名がつく新道だけど、県道との接合地で「工事中」になっている。
その工事案内板には、完成時に恵那までの驚くほどの「時短」が実現するとある。

これも、「ダム相乗効果」で、「地元保障」ということだろう。
原発城下町も、戦争は儲かるという発想も、天から金が涌いてくるようにして、骨抜きにする古い手法なのである。

既存の県道を行く。
すると、いきなり対向車とすれ違うのが困難な道幅、かつ、起伏のある山道のワインディングになった。

周辺は、鬱蒼とした杉の森しかない、と思いきや、ところどころに集落があって、どちらにも洗濯物が干してある。
どうやってこんな山中に暮らしているのか?と訝しい思いになる。
しかし、よくみると棚田は雑草ばかりになっていた。

100年後にこれらの集落はどうなっているのか?
こんな県道に国道のバイパスが本当に必要なのかも評価できない、外様の自分がいる。

木曽川の右岸が、こんな「高原の秘境」だったとは、走ってみないとわからない。
有名な、馬籠も妻籠宿も、「左岸」にある。

そして、恵那市街に近づいたら、「古墳群」を見つけた。
いったい、いつから日本人は、こんな山奥に暮らしていたのか?
なんだか気が遠くなる。

やっとこついた、「ひかり食堂」は、地元の名店の風格があってなお、和洋中なんでもありの豊富なメニューに気分は昂る。
出てきた料理の味は当然として、そのボリュームにひさしぶりに苦戦した。

美味しいのに、というのは、ベルギー以来のことである。

八百津の宿に戻るのに、恵那から土岐まで中央道を利用した。
途中の「秋雷」の土砂降りに、もしや県道で帰路についたら途中で雨量閉鎖の憂き目にあったかもしれない。

ものの1時間で戻ってみれば、まるで『高野聖』のような体験であった。

名優、故佐藤慶の朗読CDは、いま入手困難になっている。

さては、今夜も三勝屋で舌鼓を打つことにしよう。