国民の健康を蝕む「健康保険制度」

昨日の、「栄養学は有効か?」の続きである。

前にも書いたけど、あまりにもあんまりで、しかも、日本国民の「自慢」にすらなっているのが、「国民皆保険」という、社会主義制度だ。
これが、典型的な社会主義制度であることも、日本国民は意識していないのだ。

ただし、社会主義が「労働者の味方」だと、これも「洗脳」させられた「労働組合」も、労働者の健康を守るのが健康保険制度だと「確信」しているから、「公的年金制度」という、もう一つの社会主義制度の「制度保証」をした「消費増税」に賛成する「はめ」になったのである。

重要なのは、「選択の自由」があるか?ないか?で、公的社会保障制度に、選択の自由が「ない」ことなのである。
あたかも、病院などを自由に選んでいるように思っても、診療内容に選択の自由がないために、結果に大きな違いがないまでに標準化(=共産化)が達成されたのが、わが国の医療なのである。

共産主義の「租」といえば、カール・マルクスで、彼の論法はヘーゲル哲学の手法である「弁証法」を採用した。

「正(テーゼ)」⇔「反(アンチテーゼ)」⇒「合(ジンテーゼ)」となるとき、アンチテーゼからジンテーゼへの「⇒」を、「止揚(アウフヘーベン)」といって、一種の別次元に「論があがる」のである。

この止揚によってできた「ジンテーゼ」を「テーゼ」として、止揚を繰り返すことで「真理」にたどり着くことを意図するのが弁証法だ。

マルクスの天才は、止揚(アウフヘーベン)をかんがえついたのではなくて、「アンチテーゼ」から「テーゼ」を作り出したことにある。
このイリュージョン的トリックで、頭が良いとされた「論理を嗜好にする」暇人たちの思考回路を破壊したのである。

つまり、彼にとっての「ありき」は、共産主義・全体主義であるけども、ふつうのひとには「ありき」なんてものはない。
ふつうのひとは、「現状」こそ「あるだけ」なのだ。
この「現状」の「漫然とした継続」だけが「ある」。

それゆえに、マルクスは「現状」のことを、「反」共産主義・全体主義として、これを「テーゼ」に置いたのだ。
「彼の」テーゼは、「現状打破の革命」という真逆だけれど、わざと一般大衆の「現状」をしてトリックの「タネ」としたのである。

しつこいが、この「倒置」こそが、マルクス主義理解の「要諦」なのであって、インテリほど騙された「トリック」のタネである。

それでマルクスは、倒置した「現状」に、彼がかんがえついた「新語」を当てはめて「命名」した。
それが、「資本主義」なのである。
なぜならば、彼が「ありき」で構築したのが『資本論』であったからである。

つまるところ、マルクスが勝手に思いついた「(空想)論」の、「論より証拠」として設置した、「幻想の噛ませ犬」が「資本主義」ということだ。
この「幻想=イリュージョン」の道具に、弁証法が採用されたのである。

まったく別の思考アプローチから、「資本主義」が「幻想」だと気づいたのが、アイン・ランドだった。
実は、われわれは、われわれの祖先も含めて、誰一人として「資本主義社会」に暮らしたことはない。

マックス・ウェーバーの世界的に有名な「解説者」、大塚久雄の『社会科学における人間』で「前資本」やら、「前期資本」という、資本主義成立前の時代を解説しているけれど、それは、いまだに「現代社会」のことなのだ。

すると、現代社会は、まんまとマルクスのいう「歴史の必然」にはまり込んで、社会主義に「移行」してしまったということになる。

しかし、それは「資本主義」からの移行ではなくて、むしろ資本主義社会なんて「はじめから成立しているかどうかなんてどうでもよく」、とにかく社会主義社会になればいいという「結果論」なのである。

さすれば、いったん社会主義社会を達成すれば、今度はマルクスの論(唯物史観)に従って、必然的に共産主義・全体主義社会が到来することになって、最終目的が達成されればいいのである。

その実現者たちが、「世界経済フォーラム:ダボス会議」なのだ。

すると、1961年に「国民皆保険」という社会主義を実現した日本こそ、マルクス史観でいう「世界最先端」を実現した国家であったし、これをやった「自由民主党」こそが、日本共産党をダミーとした「本物の共産党」なのであって、ダボス会議の「本体」だ。

それゆえに、竹中平蔵氏(ダボス会議唯一の日本人理事)こそ、真の「首相」に就任した人物で、それが小泉政権をダミーとした2000年のことだったから、健康保険制度も「進化」して、保険点数の厳密化が「医療事務システム」を通じて実現した。

これで「ヤブ医者」が駆逐されたばかりか、全ての医療行為が「点数制度」下に収まったので、「完全平等な医療」が達成した。

もちろんこの「完全平等」とは、受診者=患者にとっての、「完全平均値」を意味するから、その本人の本当の症状や病状は無視され、「データの範囲」でマニュアル通りの治療と投薬が行われるだけなのである。

病院で主治医や看護師が患者の顔色を見ずに、パソコン・データばかりを観ている事情は、一人ひとりの「患者」ではなくて、一つ一つの「データ」になっているからだし、そこでの投薬指示や検温とかの医療行為が、そのまま保険点数計算データベースに照合されて、過剰と不足の判断と、請求書への自動加算がされるのである。

では、「データの範囲」を超えたらどうなるのか?

答えはかんたんで、「不明」ということになって、これ以上の手当は放棄される。

医療保険(点数表)の範囲を超えるからである。

ならば、「データの範囲内」であれば安心か?といえばそうではなくて、そのパターンで決められた治療と投薬が自動的に行われて、「それ以外」は許されず、「それ以外」の医療行為が目に余れば、「保険請求事故」扱いになって、医師は処分の対象になるのだ。

こうして、国民の健康とは「別」に、健康保険による医療行為が行われていても、もはや共産政権下の国民には文句すら言えないばかりか、「世界に冠たる国民皆保険」といって自慢するのである。

これぞ、全体主義なのだ。

栄養学は有効か?

食と健康をかんがえるときに、必須となるのが「栄養学」である。

生物は、栄養を体内に取り込んで生きているから、どんなふうに取り込んで、どんなふうに活用し、どんなふうに排出するのか?という「流れ」が必ずあるものだ。

この「栄養」を、「エネルギー」と読み替えれば、生命体とはエネルギーの流れがある状態という意味になる。
すると、「死」は、このエネルギーの流れが止まった状態になることをいう。

それでむかしから、「死」を「物故」というのは、えらく科学的ないい方なのだ。

人間も動物なので、体外から体内に食物を取り込んで生きている。
この取り込むときにしているのが、「消化」だ。
どうやって消化しているのか?といえば、「化学反応」なので分子レベルでの話になる。

だから、教科書では「分子」の説明から始めようとするけれど、その前に「原子」のことを知っていないといけないので、まずはもっとも単純な「水素原子」の「おさらい」から始めることになっている。

なお、原子を構成している「素粒子」のことまではなかなか触れない。
素粒子に言及すると、「量子物理学」の話になってしまうからだろうけど、「消化」に量子がどうかかわっているのか?についての詳しい説明は「これから」にちがいない。

化学反応を支配しているのが、量子だからである。

水素原子は中心の「原子核」が、1個の「陽子」(量子)で、その周辺に1個の「電子」(量子)が回っていると習う。
もしここで、電子が1個ふえて、2個が回るようになれば、その物質は「ヘリウム」になる。

むかしはこの電子の「軌道」を、「平面」に書いたけど、いまは「電子雲」ということになっている。

こまったことに、量子力学が進歩して、電子の位置が確率でしかなくなったから、「雲のどこか」という位置関係で表現することになったのである。
学問的に「正しい」けれど、初学者にはなんのことだかわからなくなった。

これをビジュアル的に説明する、アニメが普及しないのも不思議なのである。
教科書が「電子化」されても、紙からタブレットで読むだけのちがいなら、目を酷使するだけのちがいともいえて、進化がない。

なんだか、学者が知識を独り占めにして、他人の子供に本気で教える気があるのかを疑うのだ。

この意味で、いまみたいに学問が進んでいなかった時代の、最先端の一流学者の説明はわかりやすかった。
これは、その学者本人の「理解度」が本物だったからであろう。

とくに一流の学者ほど、小学生にでもわかるような説明をしてくれたので、「少年雑誌」に意味があったのである。

いまの「少年」がつく雑誌類は、ほとんどおとなになり損なったようなひとが対象になっている。
どうして「少年」がつく雑誌の表紙に、水着のお姉さんが笑って写っているのか?は、それこそ外国人の親には理解不能だろう。

それに、かなり「バイオレンス」なシーンが続出するのに、「年齢制限なし」のマンガも、アニメも野放しになっている。

いわゆる「偏差値教育」が問題視されてずいぶん経つ。
これは、「テストの点数中心主義」という方式なので、教育界全体が「予備校化」した。

だから、「いい学校」とは、「平均点が高得点な生徒ばかり」のことを指す。
それだから、「いい学校の卒業生」とは、テストで高得点が取れるだけの「優秀さ」が認定されている。

なので、「優秀な」ひとを集めようとすれば、「テストの点数が高いひと」だけが集まるようになっている。
ところが、テストの点数が高いひとが、「応用力があるひと」とは限らない。

むしろ、テストの点数が高いひとは、「応用力に欠ける傾向」があるのは、当然といえば当然だ。
この「風習」を、大企業ほど採用して、社員の「資格昇格試験」をさかんにやっているから、「応用力がないひと」を昇格させている。

なによりも「上司に逆らわないこと」を条件とした、応用力がない上司たちの都合が優先されたのである。

教科書の「原子核」の説明に「電子雲」を使うように指示した学者は、なんだかどんなひとかがわかるのである。
それでもって、いろんな「資格」を卒業時に取得することを目的にすると、やっぱり優秀なのは「テストの点数が高い」ひとになる。

文系ならば、司法試験とか国家公務員上級職とかで、理系ならば、医師国家試験とか管理栄養士、薬剤師に建築士など、結局のところ、ぜんぶ「正解」がはじからある「問題を解く」ことで、目的が達成されるのである。

けれども、世の中は、あらかじめ正解がある問題は「皆無」にひとしい。
実務では正解なき問題に対して、いかに正解に近づけるか?しかないし、そもそも何が正解なのかさえもわからない。

それは、「成功」していてもである。
その成功が、正解を出したゆえの成功なのかすら、わからないのである。

高い志から、管理栄養士になったひとが大病院に就職して、張り切って患者と向き合ったら、決められた「栄養指導」しかできないことに気がついた。「しかできない」とは、勝手に解釈してはならないという意味である。

つまり、「業界マニュアル=士業としてのガイドライン」を逸脱してはならないのは、「士業」ゆえの責任だということなのである。
その「ガイドライン」は、テストの点数が高かったゆえに、「いい学校」の教授になったひとが書いている。

これを包括しているのが、「公的健康保険」による、「点数表」なのだ。

そんなわけで、とある管理栄養士は、せっかく就職した病院を辞めるに至った。
このひとは、独自に調べた患者の食生活から、「業界マニュアル」が無意味ではないかとの疑問から、こっそりと独自の栄養指導をしたら、みるみるうちに患者の病状が改善したのだという。

「偶然」を疑ったけれど、症例を重ねるうちに「確信」になった。

そして、驚いたのは、その無意味の業界マニュアルが「わざと」だと気付いたという。
そうやって、患者の病状を回復させずに、薬漬けにすれば、「業界」が「発展」するという、理屈だと。

げに恐ろしきは、「テストの点数中心主義」が、国民の健康を奪っても構わないところにまでなっていることなのである。

成人としてのバイデン親子

長男が事故死してから、次男への溺愛となったのかそれとも最初からなのかはしらないけれども、バイデン氏と次男(ハンター氏)の関係は「たいへん仲の良い親子」であるようにみえる。

もちろん、わたしは日本国の一般人なので、アメリカの大統領一家の家族関係に詳しいわけではない。
しかし、「報道」されている情報を見るかぎりにおいては、上述した想像にいたるのである。

もちろん、バイデン氏とて「長く連邦上院議員」(1973年1月から2009年1月まで連続6期:36年)を務めたひとで、「政治家」だから、叩けばホコリが出るのは当然だ。
この間に、上院司法委員長や上院外交委員長などを歴任した重鎮でもだ。

もちろん、わが国と「議会」の役割がちがうアメリカでのことなので、「ちがい」についての予備知識がないと、以上の情報だけでもスルーしてしまう日本人がいるだろう。

このようなひとが日本人の「大半」なのは、学校で自国のことを詳細に教わらないから、外国との比較をするにも「基準」がないためだ。
もちろん、日本の学校の「公民」のことをいう。

むかし、日本人が教育熱心で、それがまた、いち早く近代文明国家に脱皮できた「素地」だったのは、江戸期から「読み書き算盤」ができないと、生活できなかったからである。
つまり、「就業」で支障があったのだ。

だから、6歳や7歳で出された「奉公先」でも、「大店」にもなれば、店として「読み書き算盤」を修得させたし、そんな大店へ口利きをしてもらうにも、「読み書き算盤」の素養を要求されたのだった。

この「読み書き算盤」の重要性は、どんなに子供でも「実感」できたから、およそ家業を継ぐのが義務だった農民の長男とか、職人の長男を除けば、また、都市部の町人ほど「痛感」していたのである。

それが明治期になって、学校制度ができると、地元の篤志家たちが私財を投じていまでいう「文化財級」の校舎を建てて、『坊っちゃん』のごとく、東京から優秀な教師を呼んだのだった。

だから、教育は「将来ある子供の生きるため」だったから、親たちの「義務」とした。
いまでは、「なんのため?」かが不明になって、おとなによる「管理のため」が強くなったので、「不登校」がふつうになった。

ところが、もう一つ、「親の子離れ」、「子供の親離れ」も不完全なままなので、「成人」の意味も「軽く」なったのである。
親からすればいくつになっても子供は子供、という「気持」はわかるけど、それが「社会」として「当然」になると、なんだか変になるのである。

たとえば、50歳を超えたおっさんが事件を起こして、その老いた親が健在ならば、「申し訳ない」と謝るのが親の役目になってもだれも批判しない。
しかし、「成人」したらいつまでも子供のはずはないのである。

この「区別」ができないのである。

さてそれで、バイデン氏と息子(ハンター氏)の関係が、ここで興味深いのだ。

大手マスコミも「本物」と認定した、ハンター氏が紛失したというパソコンから出てきた「犯罪」の「記録」とは別に、現職弁護士でもある彼の「犯罪」がスクープされて、いよいよ「逮捕間近?」という段階になってきた。

この期に及んでも、バイデン氏は「自身とは関係ない」として、大統領職におさまっている。
はたして、日本でこれができるのか?
たとえば、首相と息子の関係だったら?

まず、無理である。

しかも、バイデン氏自身も、副大統領時代の公務として訪問したウクライナで、ときの大統領に検事総長の解任を、米国の軍事援助と引換に要求して成就させたが、その後、ウクライナ検察から「指名手配」される顛末がある御仁なのである。

このとき、息子(ハンター氏)は、ウクライナの新興財閥(オルガルヒ)のなかで最大企業だったガス会社の取締役になっていて、当の検事総長は、この企業の「汚職」捜査指揮をとっていたのだった。

さらに、息子は、中国企業の「投資案件」にも関与していて、兆円単位の金が動いているけれど、その企業は人民解放軍のダミーで、事実上の共産党直営だということも判明している。

このときの、「手数料報酬」を、バイデン氏も得ていると、裁判での証言で登場した。

なんだかなぁ、の親子なのである。
しかし、親は親。息子は息子。という「成人」としての関係が優先されていて、この点で報道も「慎重」なのである。

ひるがえれば、なんだかなぁの親子関係を「美談」とするのは、かえって日本人の方なのに、バイデン氏とその息子の「スキャンダル」をぜんぜん報道しない。

日本人的には大好物の、格好の「えさ」となる「ニュース・ネタ」のはずなのに。
それがまた、日本における報道を信用しない理由なのである。

ただし、バイデン氏の就任日にした「大統領令」にあった、シェールオイル開発禁止やカナダからのパイプライン建設中止に端を発した、ガソリン高とインフレで、支持率の落ち込みも「歴史的」になったので、とうてい「再選」はおぼつかない。

これはこれで、自業自得であるけれど、おかげで世界が困り果てたから、その罪は日本人のわたしだって追及したくなるのである。

ソドムとゴモラ消滅の衝撃

『旧約聖書』の「創世記」にある、背徳の都市を指す。

日本人の伝統的な価値観のひとつに、「性へのおおらかさ」があることを、日本人がしらない状態になった。
歴史や民族の文化を、戦勝した外国人によって「忘却させる」というのは、あきらかに「国際法違反」であるけど、これもしらない状態にある。

この「おおらかさ」が結実したのが、『万葉集』であり、『源氏物語』ともいえるけど、「記紀」の神話にもあるから、かなり日本人の「原点」にある心情だといえる。

とくに「最古」といわれる『万葉集』の「最古」の意味は、「日本最古の和歌集」という言い方ではおさまらないと、ドナルド・キーン氏が指摘している。

キーン氏といえば、言わずとしれた日本文化研究の世界的大家で、2012年(平成24年)に帰化した、日本人だ。
わたしはキーン氏と直接の親交はなかったけれど、コロンビア大学での弟子にあたる加藤アイリーン(愛琳)女史にはずいぶんとお世話になった。

アイリーンさんはアイルランド人で、ソルボンヌ大学留学中に、外交官補だった、加藤吉彌氏とアイルランド国籍を棄てて結婚され、後のエジプト駐箚特命全権大使の夫人として外交団の間でも有名な、「日本人」であった。

夫婦間の会話は日本語を基調としていたが、折いった話になるとフランス語であった。

毛筆をとればご夫妻で、日展入賞、の「書」の達人でもあり、フランス大使に内定して検査入院した病院で、不運にも院内感染して亡くなられて「未亡人」となってからは、聖心女子大学などで、「源氏物語」の教鞭をとられていた。

なので、エジプト以来、ずっとお世話になり続けた恩人である。
そしていつも「古典を勉強なさい」と叱られていたのである。

そんなわけで、『万葉集』についてのキーン氏の話とは、「世界最古にして最大の選詩集」だと断言されていることだ。
その特徴も、世界に類例がない、天皇から庶民の歌が一緒に掲載されていて、4516首にのぼる。

この「平等性」は、いかにギリシャ・ローマ以来の伝統を誇示しようとも、欧米人がいかんともしがたい「歴史的快挙」なのであって、「恋の歌」から「生活の歌」など、その「先進性」は現代にも通じているのである。

最近では、「食生活と脳機能」とが研究されてきて、「小麦と肉食」に対する「米と魚食」のちがいが、脳への影響をさせて、強い欲求を制御できるかできないかという比較にもなっている。

それが、欧米人の貪欲さをつくりだして、ソドムとゴモラの話になったのかもしれない。
「創世記」は、「原罪」から、「カインとアベル」の殺人、「モーゼ5書」でのどんちゃん騒ぎが先にあって、何度も「過ち」が繰り返されている。

そこで、創造主たる神が、怒りの鉄拳として二つの町を「天からの硫黄と火」によって滅ぼされたという話になっている。

前にも書いたが、「聖書学」という学問があって、考古学も含めた学際的な研究がさかんにされている。
いわば、聖書の事実関係を洗い出す学問で、宗教的解釈とは一線を画している。

ほとんど40年前になるけれど、エジプトからの帰国を前にもらった休暇で、イスラエルをひとり旅した。
前半はバスで、後半はレンタカーで各地を廻ったのであるが、わたしの聖書への知識が浅かったために、聖書学的旅行とはいかなかったのが残念だ。

「死海」では、どうにも沈まない不思議な海水浴をしたけれど、舐めてみたら「しょっぱい」のではなくて、「苦かった」ことを覚えている。
それに、すぐさま真水のシャワーを浴びないと、皮膚がヒリヒリしてくるのは、表層が溶け出しているからだった。

その死海の南には、天然の凝固した「塩」が岩のようにゴロゴロしていて、柱のように立っている場所もある。
この近くに「ロトの妻」といわれる巨大な塩柱がある。
ソドムが滅亡するときに、後を見てはいけないという忠告があったのに振り向いてしまったからだと。

一方で、塩ばかりでなく、自然湧出している「アスファルト」が見られる場所もあって、それがまた、「荒野」の中なのである。
ここまでくると、放置された都市遺跡がいくつもある。
発掘調査でわかるのは、「火災」によって壊滅したらしい。

じつは、塩(塩化ナトリウム)とイオウは化学的に反応する。
そしてこのあたりは、アフリカ大陸とシナイ半島が引き裂かれている、「大断層帯」なのである。

だから、地震によって地層から噴出したイオウとアスファルトが塩と反応して大火災を起こしたとかんがえられていた。

しかし、近年になって、1600度以上の高温にさらされて溶解した陶器の破片が、死海の北の都市遺跡で発見されると、従来の説では説明がつかなくなったのである。

隕石の空中爆発。

いま、もっとも有力視されている。
すると、聖書の記述にある「天からの硫黄と火」によって滅ぼされたという話とも合致するのである。

残念ながら、小麦と肉食で脳をやられたひとたちの飽くなき欲望は、大惨事をもってしてもなくならないで今に至っている。
そうやってかんがえると、万葉集の日本文明と、いま、西洋の悪徳の文明が衝突しているように見えてくるのである。

この二つの文明を熟知していたドナルド・キーンさんは、もっと日本人にしられていい。

ロシア制裁と石炭火力

オバマ政権時代からトランプ政権中期(2014年2月~2018年2月)まで、FRB(連邦準備制度理事会)の議長だったイエレン氏が、バイデン政権の財務長官に就任して先週(12日、13日)初来日した。

なお、世界の「不思議」にある、中央銀行が「民間企業」であることの典型に、FRBの存在がある。
ふつうに存在している、わが「日銀」も、わかったようなわからないような不思議な存在の「会社」なのである。

なんのためにいらしたのか?はあんがいと単純で、「ロシア制裁」の念押しだ。
このあたりが、まるで不思議なのが、「日米合同委員会」でわが国を「占領」し続けているはずなのに、なんでわざわざ?とおもうからである。

これを、「欺瞞工作」だというと、「陰謀論だ」という「陰謀」がある。

1961年発売、ハナ肇とクレージー・キャッツ、なかでも植木等の『スーダラ節』(作詞:青島幸男)の一節、「わかっちゃいるけどやめられない」にこめられた「無常観」こそが、戦前と戦後を結ぶ「不条理への感情の爆発」だったといえよう。

これは、「開戦の詔勅」と「帝国政府声明文」(昭和16年12月9日に朝日新聞の夕刊に全文が掲載された)それと、「終戦の詔勅」(いわゆる「玉音放送」)の3本を読めばわかる、わが国の戦争目的と戦争を終える理由が書いてあるものに対する「無責任の恨み節」なのだ。

もちろん、当時の日本人が恨んだ「無責任」とは、おとなたちが上記3本をしっていることを前提にして、GHQのプロパガンダにあがなえないことへの絶望と、『三等重役』にみられる「敗戦利得者たち」への侮蔑と迎合という混沌がつくった「投げやり感」のことをいう。

なので、完璧な「軽薄さ」を演じた、植木等の『無責任男』を、幼年兵だった父は嫌っていて、両者が「晩年になって」から、植木等が真顔で語る「無責任の演技論」に、父は「そうだったのか!」と納得したのだった。

つまるところ、上記3点セットをしっていた(=戦争の意味のこと)植木等は、自分の役どころに納得できなかったと「告白」して、それが単なる視聴者を超えた、同時代人としての父との「和解」だったわけである。

そんな当事者の想いも、すっかり風化させられて、そもそも上記3点セットの「重要文」を読んだことも、存在すらしらない国民が、おそらく大半になったから、何が何だかわからなくなって、それがまた、政府に都合のいい原因になっている。

裏返せば、国民の都合は無視されるので、踏んだり蹴ったりになっているのに、ぜんぜん気がつかない脳天気さで生きている。
無責任男を演じた植木等には、自分の責任を意識する矜持があったけど、なんにもない無責任だけが世の中に蔓延したのである。

それで、どうしてイエレン氏が初来日したのか?に戻れば、それはなんで「財務長官」なのか?の疑問とおなじ意味になる。
ロシア制裁の念押しならば、「国務長官」の業務範囲ではないのか?

するとなんだか、「格落ち感」があるのである。

念のために書けば、アメリカの財務省はわが国の財務省とちがって、「予算編成権」がない。
アメリカは、連邦下院(日本の衆議院)が、強力な予算編成権を有しているから、財務省はこれを執行するだけの役所なのである。

しかも、カウンターパートになる、わが国の「財務大臣」が会談する役になって、あろうことか「円安」について話題にして、恥の上塗りとなったのである。

もう「三等大臣」というべきか?「三等政治家」というべきか?
いや、「三等役人」が言わせたにちがいないから、官僚の劣化も厳しい状況にあることがわかった。

それでも、わかっちゃいるけどやめられない、のは、「言った」というアリバイづくりだ。

円安の原因は、ドル高だし、それは、「バイデンフレ」と呼ばれる、バイデン政権がつくりだした国内エネルギー資源を絞ったあげくのウクライナで、歴史的インフレに対するための、FRBの「利上げ」である。

まさか、日本政府はFRB議長がまだイエレン氏だというのか?

それで、しっかりロシア制裁はやるけれど、わが国のエネルギーはどうするのか?がない。
これは、経産大臣の管轄だけれど、相手が財務長官なので出番がないように封印されている。

アメリカはインドを経由して、ロシア産の原油を買っている。
ならば、インドからどうやって運んでいるのか?
わが国は、シベリアの開発からも閉め出されたのだ。

オーストラリアの石炭を、習氏が買わないといってそのままなので、ここ一番、わが国が大量買い付けしますともいわないで、国民に「節電せよ」という自民党は、やっぱり終わっている。

二酸化炭素排出量が増えてしまうのが怖いという、原因は、世界でだれも守っていない「京都議定書」を、日本国だけが「石にかじりついても」遵守している愚かさに「修正」もできないからである。

世界がとっくに「コロナ」を終わらせたのに、こんどは「旅館業法の改悪」も目論んでいて、これに業界は相変わらず沈黙している体たらくだ。
「緊急事態条項」を憲法に折り込みたいという暴挙の「前哨戦」がはじまっているのに。

そんなわけで、わが国が誇る「世界一クリーン」な石炭火力発電所を輸出も画策しないのは、もう誰かに命令されている、とかんがえるほか理由がみつからない「無責任」なのである。

ケミカルな本格料理店

むかし「中華料理店での食事」での「後味」のことを、「チャイニーズ・レストラン・シンドローム(中華料理店症候群)」といって、騒ぎになったことがある。
1968年頃からのアメリカでの話で、医学論文として発表されたのがきっかけだった。

原因は、「MSG:monosodium glutamate:グルタミン酸ナトリウム」の過剰摂取による各種症状で、頭痛、顔面紅潮、発汗、疲労感、顔面や唇の圧迫感などの症状から、喉の灼熱感、胸の痛み、動悸、息切れなどが挙げられている。

軽度なものは、飲み物を摂っても口中からヌルッとした「後味」が消えないでいる気持ち悪さがある。

これがいわゆる「食と健康へのこだわり」のブームになったのである。

しかし、その後の調査と研究で、MSGによる健康への影響は「ない」とされ、FDA(Food and Drug Administration:アメリカ食品医薬品局)も、「加工食品」を管轄していることを理由として、家庭やレストランでのMSG使用については「調査外」だと発表している。

こうしたことから、MSGの使用と健康への影響については、公的に「けり」がついている。

なので、以下は「私見」である。

MSGを世界で最初に工業化したのは、1908年(明治41年)の日本で、池田菊苗理学博士が創業した「味の素株式会社」であり、現在も味の素社は世界最大のMSG製造企業である。

MSGは、別に「うまみ調味料」としてしられているのは、池田博士が昆布の「うまみ成分」を発見してこれを合成することに成功したからだった。
人間の味覚を司る、「舌」にある「味蕾」で、甘味、酸味、塩味、苦味を感知していることはしられていたが、「うまみ」については不明だった。

しかし、「味蕾」にある「細胞」にグルタミン酸「受容体」が発見されたことから本格的に「味の構成要素」と認知されることになって、世界に「UMAMI」として拡がったのである。

じっさいに、ヨーロッパのスーパーでも「UMAMI」コーナーが独立してあって、たいがいその案内板には、日本語でも「うまみコーナー」と併記してあるから、見なれたヨーロッパ人には、「うまみ」の文字を見れば「UMAMIコーナー」だということがわかるようになっている。

日本における英語の看板をみて、なんら不思議でないのと似たことになっているのだ。
ただし、50音ぜんぶの文字をしっているわけではなくて、認識しているのは「うまみ」だけだというから、「図形」でみているのだろう。

それで、このコーナーは事実上の「日本食コーナー」になっている。
この意味で、日本人としては誇るべきことだ。

わたしが子供だったむかしは、なんにでも振りかけていて、その理由が「頭が良くなる」というものがあった。
商品名として、「味の素」なのか「ハイミー」なのか?どちらがより頭が良くなるのか?という問題が母や祖母たちの話題でもあった。

これは、「頭脳パン」という、ビタミンB1を加えたパンが人気だったのと似ている。
じっさいには、アメリカ産小麦の消費(輸入)拡大という目論見があったともいわれていて、「Mutual Security Act:MSA協定:日米相互防衛援助協定」と関係がある。

この協定は、「主権回復後」の1954年(昭和29年)3月に東京で調印したもので、同5月1日に発効した。
日本語に「防衛」の文字が入っているから、軍事面のことだけだと早とちりしてはいけない。

後に続く「援助」の文字が「みそ」なのである。

とくに食糧難からの脱却という大義名分を理由に、小学校の給食にパンと脱脂粉乳が採用されたことに注目すると、前にも書いたマクドナルドの戦略にある、子供のときに味を覚えさせること、が白昼正々堂々と行われたことの、基礎となる国家間「協定」なのである。

つまり、同年にできたアメリカ国内法の「農産物貿易促進法」があってのこの「協定」なのだ。

わたしは学校に行くのは楽しみで、皆勤賞を何度ももらったけれど、給食だけは大嫌いで、そのために母が参観日でもないのに毎日のように呼び出されていた。

あのパサパサなコッペパンと、えらくまずい脱脂粉乳は、どうしても食べられなくて、毎日泣いていた。
高学年になってから、脱脂粉乳が牛乳になってようやく食べられるようになったのである。

そんなわけで、わたしの妹は脱脂粉乳をしらない世代の最初である。

「スキムミルク」も脱脂粉乳のはずなのに、どうしてかくも味がちがうのか?
あとからしった驚愕の事実は、アメリカで豚の餌用だったものを「援助」してくださったことだった。

つまり、わたしたちは、「豚扱い」されていたのである。

なお、アメリカ人の名誉のために加えれば、とっくに共産化した民主党とは別に、敬虔な清教徒系のひとたちも多数いて、「豚の餌」を大量に輸出していることに気づいた市民が、日本人は豚肉を大量に食べているのに「飢餓」とはなんぞや?と憤ったのである。

しかし、「人間の子供が食べている事実」をしって、その「飢餓」の深刻さに驚き、全米での募金活動になったという話もある。
これには、戦死した米軍兵士の親も加わったと。

それから、「米あまり」で、給食に米飯が出るようになったころには、もう高校生になっていたから、どんな味の給食なのかはしらないでいる。
しかし、よくよくかんがえれば、「米あまり」とは、小麦(パン食)シフトの「成果」なので、アメリカからは「協定」の成功になる。

さてそれで、「暑気払い」といえば「焼き肉」だという条件反射で、家内と市内有名焼き肉店に予約して行ってみたら、初めて注文した「水キムチ」の味が、異様に強い「うまみ」で変だな?と感じたのである。

これが決定的になったのは、いつもはたどり着かない「シメ」で注文した、ユッケジャンクッパが、まるでケミカルな味なのだった。
おかげで、1日経っても口中の気持ち悪さがなくならないばかりか、お腹の調子も悪い。

本当に、健康への影響について、「けり」がついていると信じていいものか?

そこで、「韓国語会話」の教科書に、以下の例文をみつけた。
이게 맛있다고?      MSG 맛     밖에      안     나는데?
イゲ マシッタゴ?     MSG マッ パッケ アン ナヌンデ?
これがおいしいって? うまみ調味料の味しかしないけど?

「本格的焼き肉店」とは、こういうことだったのか?

近くの席についた、韓国人一家には小学生もいたけれど、オレンジジュースだけを飲んでいて、ほかには一切箸をつけなかった。
おとなはさかんに「食べなさい」といっているようであったのに。

やっぱり子供は、味をしっていて防衛本能が働くのかもしれない。

老眼にやさしい腕時計がない

「クオーツ」の「原理」を発見したのは、あのキュリー夫妻で1880年のことだった。
それから、「腕時計」として世界で最初に発売したのは、セイコー社で1969年の『アストロン』(アナログ表示)だった。

家庭用ビデオで、機能に優れた『ベータマックス』が、『VHS』に完全敗北した最大の理由が、「特許の公開」であったように、セイコー社はクオーツ式の特許公開をして、スイスやアメリカの時計業界に「壊滅的打撃」を与えたのは有名な話だ。

スイスは二極化の道を選んで、「超高級機械式」と「超廉価」とで対抗した。
「超廉価」の方は、心臓部の「ムーブメント」を日本製に甘んじて、「デザイン」をスイス製としたのである。

このアイデアは、その後の世界の製造業に「画期」を与え、付加価値の源泉がデザインから商品企画にシフトしたわかりやすい「事例」になったのである。
この「権化」が、いまのアップル社であろう。

一方で、工業大国のアメリカの時計製造業は、いったん「全滅」したのだった。
どれほどセイコー社が恨まれたことか?
今でこそ、日本人が骨身に染みるほどに理解できる事態である。

それでも、アメリカの時計製造業は復活してきたから、現在の日本人はアメリカを「先進(例)国」として学ぶ価値はじゅうぶんにある。

クオーツ時計のもう一つの「画期」が、「デジタル式表示」であった。
時刻が数字で表されて、「針がない」ことは、とにかく時計の概念を変えたのである。

もちろん、「精度」は、クオーツだから、機械式とは次元がちがう。

むかし、『徹子の部屋』に出演した、超売れっ子脚本家の花登筐(はなとこばこ)氏が、腕にあるスイス製超高級腕時計が数千万円するのを自慢してから、ポケットから取り出したのが1万円のクオーツ時計で、「正確なので時間はこの時計でみている」といって笑っていた。

なので、超高級腕時計を指して「ブレスレット」というのである。
「(動く)装飾品」という意味である。

クオーツ時計は、「電池」がエネルギー源なので、その性能は電池の性能によって左右されるし、デジタル式なら「発光方法」での電池の消耗がちがう。

それで、自ら発光して目視しやすいけれど電池の消耗も激しい「LED式」が廃れて、節電型の「液晶式」が主流になったし、電池も「太陽光発電式」が採用されて、交換の手間がはぶけた。

さらに、時刻合わせの手間も、ラジオ電波の時報を受信して自動になったら、カレンダーも自動になった。
最近では、スマホ連動になって、アナログ式とデジタル式とで、あたらしい分化をはじめている。

デジタル式は、いわゆる「スマート・ウオッチ」がそれで、『ウルトラマン』の科学特捜隊が着けていたかつての少年たちが「夢」にみた無線機となる時計すら「古い」機能になっている。
まさか、電車の改札にも使えるとは、当時の発想を超えているのだ。

それに、「文字盤画面」の細密化で、あたかも「アナログ式」のような表情だって選択できる。

けれども、「スマート・ウオッチ」が気持ち悪いのは、便利とされる「ウエルネス」をうたう機能だ。
心拍計とか骨格筋量や基礎代謝量、体内の水分量、体脂肪率などが「測定可能」で、運動管理もしてくれる。

これらの「情報」が、スマホを通じてデータベースに飛んでいくのだ。

もちろん、自分のためだけでなく、「ビッグデータ」として収集されていることぐらいはしっている。
これが、「気持ち悪い」のだ。

はたしてこんな「多機能」は、「進化」なのか?

そんなわけで、「老眼にやさしい腕時計」を探しに、涼しい冷房の効いた家電量販店に行ってきた。
わたしの要望は以下の通りである。

・デジタル式であること
・数字は目視しやすいこと(大きさ、照度、夜間自動発光)
・手間なしであること(時刻合わせ、太陽光発電)
・余計な機能はいらないこと

デジタル式としたのは、アナログ式を既にいくつか持っているからであるけれど、時刻を一目でしるには、デジタル表示の方が早いという理由がある。
「老眼」がだんだんきつくなると、「針を読む」のも面倒なのである。

だから、「目視しやすい」というのは、絶対条件となる。

ここで、大型量販店の売り場を3周ほどして気づいたのは、ターゲットが「現役世代」としてディスプレイされていることである。
それと、理由はわかるが、「メーカーごと」になっていることで、売り手の都合が優先されている。

どうしてこうなっているのか?
「メーカーごと」は容易にわかる事情だが、「現役世代」中心にはやや違和感がある。
自分が外れていることもあるけれど、「人口比」と合致していない。

そんなわけで、「最大文字表示」の機種は、なんと「トレッキング用」とかの「山登り」に適した機種だった。
だからもあるが、よくある「スポーツ・タイプ」のゴツゴツした重厚なデザインだ。

それで、高度計や方位計測、気圧・温度に日の出・日の入りを示す「余計な機能」がついている。
その割に、暗所での自動点灯機能はショボくて、地面に対して60度の位置で白色LEDが2個ばかり数秒間光るだけなのだ。

文字が自動拡大するぐらいの気の利いたことはできないのか?
もっといえば、月齢や旧暦などの「陰暦表示」があってもいい。
年寄りは「風流」を好むのである。

世界に日本の風流を輸出するくらいの気概があっていい。
これが、スイスとアメリカに学ぶことではないのか?

これで3万円。
100円ショップの超単機能な300円時計が、妙に潔くみえるのである。
さては残りの人生を、どの時計で計ろうか?

あんがいと悩ましいことになったのである。

信州味噌のみそ

コロナで自粛していたからではないけれど、久しぶりに信州は松本を訪ねてみた。
松本城を数十年ぶりに見学して、むかしよりずっと「よかった」のはどうしてか?

城内天守閣にあった、火縄銃やらの銃器の展示の充実が、なんだか新鮮だったのは、45歳から夫婦ではじめた「クレー射撃」の趣味をして、若いときにはまったくなかった「銃の知識」を自然に得たからであろう。
そもそも、若いときにこんな展示があったことも記憶にないのである。

なので今回「はじめて観た」展示で、記憶に残ると感じたのは、銃の心臓部にあたる「機関部」のつくり(構造)が、現代のものと基本的におなじだったことの驚きであった。

つまり、「精密」なのである。
これをどうやって「こしらえた」のか?
組立もさることながら、その「部品」づくりにおける技術のことだ。

もちろん、「鉄砲」は、「弾」が通る「道」としての「銃身」の精度確保も、的中率ばかりか事故にもつながる大仕事である。
「まっすぐな穴」でないといけないし、強度がないなら熱と圧力で「銃身膨張」が起きて、もしや「裂け」たりしたら、射手の命にかかわる事故にだってなるからだ。

いまは、鉄の棒をくりぬいてつくるけど、むかしは鉄板を丸めて「鉄管」にしていた。
この丸める技術がすごいのである。
「刀鍛冶」の基本があっての技である。

それで、「弾づくり」は、女子が担当したという。
熱く溶けた金属を球体にするために、板の上で転がすのである。
この大きさが狂ったら、銃を破壊しかねないから、責任のある仕事である。

もっとも、なによりも「火薬」がないと話にならない。
日本にない「硝石」を得るために、「貿易」をするしかなかった。
只今現在、クレー射撃も、ヨーロッパからの輸入が絶えて、なんと「弾不足」で射撃ができない状態になっている。

わが国は、スポーツ射撃用の散弾も「国産」が絶えたのである。
これは、織田信長も仰天する事態となっている。

さてそれで、信州は広大な地域だけれど、信州といえば「味噌」である。
どうしてか?
所説あるなかでも、かつて日本経済を支えた「女工」を集めて工場内に住まわせたことでの必需品だったからという。

「絹(シルク)」と「味噌」は、つながっているのである。

けれども、味噌の産地として決定的になったのは、関東大震災による「壊滅」で、いわゆる「首都圏」の味噌屋も消失してしまった。
それで、信州の味噌が国内4割というシェアを得ることになったのである。

女工のための大量生産技術が、日本人のための大量生産になったわけだ。

信州味噌の特徴は、「米味噌」にある。
原材料は、米からつくる米麹と大豆だ。
「麹」は「麹菌」のことで、わが国の「国菌」となっている。

そこで問題になるのが、「大豆」なのである。
この「由来」が、4月から見えなくなった=見えなくした。

世界の大豆は、すでに「遺伝子組み換え作物」になっている。
それで、アメリカとかの「外国産」を買い付ける場合に、わが国の企業は「高額」の「遺伝子組み換えでない」ものを買っていた。
これが、できなくなってきたのである。

カネを出せば買えることができなくなってきたのは、農家が手間を嫌がっているからという理由が大きい。
どうして遺伝子をわざわざ組み換えたものになるのか?といえば、農薬の「耐性」があるからだ。

農薬は、農作業の手間を劇的に「改善」する。
しかし一方で、「F1:第一世代交配」のタネしか使えないので、農家は自家で収穫したものを翌年に蒔くことができない。
F2の品質が保証されないばかりか、種子メーカーとの契約違反になるからだ。

ここで注目すべきは、農薬メーカーと遺伝子組み換え種子のメーカーが「イコール」であることだ。

一度で二度美味しい。
これが、「ビッグファーマ」と呼ばれる、大化学薬品メーカーのグローバル・ビジネス・モデルなのである。

人間も動物なので、食物を外から得てこれを「消化」しないといけない。
それで、消化とはなにか?を問い詰めたら、食物を「分子化」させて体内に取り込むことを指す。
生体とは、すべからく「化学反応」を利用して生きているものをいう。

そこで、人工的に組み替えられた遺伝子が、どのように「消化」されて体内に取り込まれ、それで取り込んだ生体がどうなるのか?が問題になる。
ここが、「安全性」の「キモ」なのだけど、遺伝子組み換え物質ができて間もないから、「時間経過」による影響がわからない。

「わからない」状態にあることだけは、いまのところ確実なのである。

よって、政府が言う「安全」とはなにか?は、意識しないといけなくなっている。
政府に多額の納税と、寄付をしているのが「ビッグファーマ」だからだ。

そんなわけで、信州味噌の地元老舗直売店には、原料の出所があきらかな「味噌」があって、スーパーの信州味噌とは「価格」でも一線を画している。

それでもって、原料の出所をあきらかにさせない、というのが政府の方針になっているのが「みそ」なのである。
「楽市・楽座」をやらせた、織田信長が、弾をつくれない以上に仰天するのがこのことだ。

「国葬」反対論とその反対論

わが国戦後史で、首相経験者が「国葬」になった事例は、吉田茂氏「だけ」であることに注目すると、安倍晋三氏の「国葬」とはなにか?は、「政治」としてかんがえておく必要はある。

「国葬」には、法的根拠となる「国葬令」があった。

GHQは昭和22年に「国葬令を失効」させているために、1967年に執り行わた吉田茂元首相の国葬が「例外的」に行われたのである。
もはや「例外」も使えないから、それ以降は首相経験者の国葬は一度もない。

つまり、「国葬令」をその後のわが国でどの首相も制定していないために、「国葬」自体ができない「法」の条件があるのだ。
だから、岸田首相が「国葬をやる」と言っても、なんらかの「立法措置」がないと「法治国家」としてはできないのである。

なので、今回の安倍氏の悲劇とは別に、「国葬」についての議論は不可欠なのだということは、国民も意識しておかないといけないのである。

「感情」で国家が執り行う「国葬」は語れないからである。
しかしながら、「大衆社会は感情的になる」というオルテガの指摘通りに、エリートなき大衆社会となった「わが国」の姿が現れたのだった。

念のためつけ加えれば、ここでいう「エリート」とは、「受験(偏差値)エリート」のことではなく、「ノブレス・オブリージュ」のある、高貴にして誇り高き人物をいう。
欧州では「騎士道」、日本では「武士道」をさす。

 

吉田氏の後は、「国民葬」と「自民党・内閣合同葬」がある。
格上の「国民葬」とは、政府と自民党・それに国民有志によるもので、費用はそれぞれが「分担」する。
「自民党・内閣合同葬」も同様に費用を「分担」する。

それでも、「国民葬」は一度だけ、1975年の佐藤栄作氏(生前にノーベル平和賞受賞)の例がある。
その後は、「自民党・内閣合同葬」である。

最近のは、2020年の中曽根康弘氏(生前に大勲位菊花大綬章:わが国最高位の勲章)で、その内閣(政府)負担分が巷間の話題になったことは記憶に新しい。

ついでにいえば、外国人で大勲位菊花大綬章の受章者に、ウクライナのロシア派大統領で「マイダン革命」(2014年)によってロシアに亡命した、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ氏(2011年)がいる。

今でこそ「プーチン派の悪玉」扱いだけど、日本政府の手のひら返しの態度は、なんなのか?
日本国民から授与したはずの「大勲位が泣く」とはこのことだ。

さてそれで、安倍氏の悲劇は、「殉職扱い」だということもいえる。
参議院通常選挙の「応援演説」で、凶弾に倒れたからである。
しかしてこれは、当然に「現職首相」ということではなくて、元総理総裁とはいえ、自民党の一議員としての政治活動だった。

なので、わたしは従来通りの、「自民党・内閣合同葬」がふさわしいとかんがえている。
「国葬」をやりたいひとたちとは、安倍氏の「立場の混同」があるとおもうからである。

この点、既存野党の「反対論」に説得力がないのは、安倍氏の首相としての「業績」についての「感情的」批判に終始しているからだ。
なお、「首相現職」で死去した、宏池会の大平正芳氏も、自らの「内閣」と「自民党・合同葬」だった。

すると、じつはアメリカの「ポチ」ではあったけど、たいした業績が見当たらない吉田茂氏の国葬だって、なんなのか?になるし、アベノミクスだって、日本経済を復活させたわけでもなく、むしろその社会主義性で、既存野党を丸呑みしたという「政治戦略」であって、「経済政策」とはまるでいえない。

それを、「国葬派」といってよい「保守層」が、「国会で民主的に指名された首相だ」という、これまた意味不明の「反論」をしているのである。
なぜならば、それなら、「自民党・内閣合同葬」が当然のところになって、どうして「国民葬」も飛ばす「国葬」なのか?の反論になっていないのだ。

しかも、前述のように「国葬」のためには、「法整備が不可欠」だという肝心要の要素がすっかり抜け落ちている。
すると、「国葬派」は、自民党が単独で、さっさと法整備すれば済む、という論を張るにちがいない。

これは、たいへん危険な発想だ。

こうしたことを「前例」としたならば、議論なくして多数派がなんでも決められることになる。

感情的に「混同」して、戦後初の「元首相暗殺」に対しての過敏な反応が、政府の思惑に一致するとしたら、「嫌な予感」しかない。
それで、「殉職」なのだという「勘違い」から、二階級特進の「国葬」に、国民は素直に応じて良いものか?ということをいいたいのである。

さらに、もう一つある「国葬」の理由が、「多数の外国からの問い合わせ」があるからだ、とプロパガンダしていることだ。
つまり、「弔問外交」をやりたい、ということなのだろうけど、「自民党・内閣合同葬」でどうしてダメなのか?の理由にならない。

そんなわけで、亡くなった安倍氏に「大勲位菊花章頸飾」が贈られて、雰囲気作りが進行している。

「検討氏」の岸田首相としては、素早い反応である。

「安倍氏の意志を継ぐ」といいながら、ぜんぜん主義主張の異なる「派閥」を維持しながら、安定の政権運営を得た「自信」なのだろう。

ここで海外に目を転じると、隣の大国では、安倍氏の悲劇を「祝う」ひとたちが、「祝杯」をあげていると「ニュース」になっている。
もちろん、プロパガンダなので、あちらの「党と政府」が認定・推奨していることに注目すべきだ。

そこにあるのは、「親中派」が、日本政府の中枢を占めるに至ったことの「歓びの表現」なのである。
老子のいう、「闘わずにして勝つ」ことの近年最大の成功事例になったことの「お祝い」なのだと、感情的にならずに受けとめる必要がある。

また、「憲法改正」論議すら、「親中派」の手中にあるなかでのことだから、あの国のポチである公明党が、いつ「賛成」するかわからないし、どんな「修正要求」をするかもわからない。
多分にあちらの国の「党」が、日本の憲法改正に積極的な節がある。

このこともあわせて、日本人は冷静に「国葬」をかんがえないといけないのである。
それはまた、安倍氏を慕うひとたちにもいえて、「死人に口無し」を平然とやる「冷徹さ」を、現在の自民党に感じないことの「愚」なのである。

それにしても、「国葬令」すらない戦後の日本という国を嘆くばかりなのである。

世界は「政変」ラッシュ

さまざまな事情があるから、とくだんのつながりはない「偶然」のようにも見えるけれども、どうなのよ?という話題である。

日本では「七夕」の7月7日、英国のボリス・ジョンソン首相が辞任を表明して、大ニュースになった。
ただし、辞めるのは、秋の次期政権が決まるまで、という長丁場になった。
この間は、レームダックだという宣言だ。

その翌日、わが国では安倍元首相への銃撃があった。
参議院通常選挙期間中の惨劇は、国政レベルでの衝撃となったことは事実だ。

ところが、農民一揆が「盛り上がってきている」オランダも、ルッテ政権が今後どうなるものか?という不安定で、その「一揆」が国境を越えてドイツにも波及している。
だから、ドイツの信号機内閣だって、安泰とはぜんぜんいえない。

そんななか、14日には、イタリアのドラギ首相が辞任表明して、これをマッタレッラ大統領が「待った」をかけた。
イタリアの政界は、相変わらずの不安定なので、現政権も連立を組んでいる。

それで、連立政権内のコンテ元首相が、ドラギ政権に内部から圧力を掛けたことが辞任表明のきっかけになったという。
しかし、ドラギ氏とマッタレッラ大統領が、コンテ氏の圧力を逆に排除しようというのだから、複雑なのである。

日本に置き換えたら、安倍内閣にいた麻生元首相が仕掛けたようなものだけど、「自民党内の派閥争い」として認識されるわが国の常識とはちがって、あちらでは、「別の党」が連立している。
なので、公明党の元首相が仕掛けたという形だとおもえばよい。

その公明党にあたる、「五つ星運動」という党内抗争で、追いつめられたのがコンテ氏だったということだ。
なお、この「五つ星運動」という政党名は、「水・エネルギー・開発・環境・交通」からとられたもので、いわゆる「環境サヨク・ポピュリズム政党」である。

ついでにいえば、首相のドラギ氏は、欧州中央銀行(ECB)の前総裁だった人物である。
かんたんにいえば、「ユーロの番人」だったひとで、ウクライナに端を発するエネルギー・インフレへの経済対策が政権運営の最大事になっている。

日銀総裁が首相になったようなものなのだけど、一方で、ドラギ氏は「未接種者」に対して「社会の一部ではない」という強権的態度をとっていた。
このあたりに、元ECB総裁らしい、全体主義の匂いが醸し出される困ったちゃんだった。

国民目線からしたら、両者が共に「自滅」して欲しいところだろう。
こうしてみると、イタリアの政情を作っている、投票する側の国民性が、いまの日本人に似ているのである。

日本が先に選挙を終えたけど、大統領が命じた来週の国会でのドラギ演説で、イタリア議会も解散総選挙になるかもしれないのである。

そんなイタリア半島は「長靴」のハイヒールの対岸にある、アルバニアも、春から続くインフレへの抗議活動が万人単位になっていて、東隣国マケドニアの先にあるブルガリアでは、昨年の1年だけで解散総選挙を3回もやったけど、今年も秋口に解散総選挙になりそうな気配なのだ。

15日には、バルト三国のエストニアの女性首相が辞任した。
現在の連立を解消して、別の党と連立するためだという。
ここも、インフレ率で「ユーロ圏内最高」の年率22%になっている。
ちなみに、エストニアの「電子政府」は、日本の比ではない普及になっている。

アジアに目を向ければ、スリランカの状態は既に書いた。
4月のパキスタンでの政変は、軍が背後にいることが判明したから、もしやこれから物騒な展開になるやもしれぬ。

そんなわけで、世界のトレンドが「政変」になっている。

その「通奏低音」に、エネルギー資源確保と価格高騰の問題がある。
現代世界の「生活経済」が、エネルギー資源抜きに成立しないからだ。

こんな世界の状況のなかで、13日、東京地裁は「株主代表訴訟」での、原告側勝訴として、東京電力福島第一原子力発電所事故に関する、当時の経営者たち個人に13兆円の賠償金を会社に支払うよう命じた。

各国の政変と、一国の中の一企業とでは、比較のしようがないように見えるけれども、「相似形」なのである。

要は、政治家の責任が世界で問われ出している。
わが国では、経営者が経営責任を認定された、というレベルになった。
原発をつくったことの政治責任は、本来ならば政治家が負うべきものだ。

さて、エネルギー資源の不足と高騰の問題は、わが国ではこれからやってくるようになっている。
その「遅効」の仕組みは、政府による業界管理にある。
しかし、間もなくこれが限界点をむかえて、国民生活を襲うのだ。

すると、そもそもは、アメリカ民主党バイデン政権(国際資本擁護)による、愚策に原因がある。
これに「与した」各国で、政変が起きているのである。

本家本元は、11月の中間選挙で、「政変」が起きるから、共和党大勝利のアメリカで、どんな「修正」がされるのか?

これがまた、世界各国に「政変」を起こすにちがいない。