地元の作家を「所蔵する」郷土愛

地方の図書館がとんがって充実すると、観光資源になる。
これに気づかない、観光資源開発の浅はかさとは、なんなのか?

「秋の遠足」と称して、水元公園を目指して出かけてきた。

お弁当をどうするのか?という問題に、
⑴ 横浜で「シウマイ弁当」を買って持ち歩く
⑵ 上野で駅弁を買って持ち歩く
⑶ 南千住の「アオキヤ」で、ジャンボパン・サンドを買って持ち歩く

ということで、アオキヤのジャンボなコッペパン・サンドに決めた。

購入したのは、メンチパン:300円、ハムカツパン:250円の2個で550円。
コロッケ・パン(270円)は揚げるのが間に合わず、断念してメンチにした。
あとは、トンカツ・パン(300円)という、4択のメニュー構成である。

1個に、それぞれメンチカツ2枚、ハムカツ2枚というボリュームなので、家内とふたりでも、これで十分な「お弁当」になるのだ。
あとは、どこかのスーパーの生鮮コーナーで、千切りキャベツとかを買って、これまた挟んでしまえば、贅沢な逸品となる。

ここのパンは、ヨーロッパでうけると思うが、おそらく店主はかんがえていないだろうけど、これを実現する投資の仕組みがわが国にはない。

贅沢といえば、少し歩いたところにある、わが国喫茶店の最高峰、「カフェ・バッハ」のコーヒーをポットで購入して、水筒に入れて持ち歩くという、究極もある。

すると、東京駅八重洲口とか上野駅から都バスに乗って、まずはコーヒーを仕入れる、というコース設定がよさげである。

荒川区といえば、東京でもマイナーなイメージがつきまとうが、そこは、「とうきょう」なので、贅沢な公共施設がちゃんとある。
なかでも、荒川区立図書館がある「ゆいの森あらかわ」がひときわ贅沢だ。

どうして、「ゆいの森」なのか?については、荒川区公式HPに、「人と人、本と人、文化と人が結びつき、楽しみ・学び・安らげる、豊かな森のような施設となるよう名づけました」とある。

へぇー。

わたしは、「ふれあい」とか、「草の根」とかといういい方が好きではない。
情緒は大切にしたいが、情緒を政治利用するのはいかがか?とおもうからである。

よくある、「ふれあい広場」とか、「ふれあい公園」とかというと、戦後日本の、皇居前広場とか、日比谷公園を代表に、横浜だと、横浜公園とか山下公園の植栽が、夜になるとカップルの巣窟だったことを思い出すのである。

この意味に近い、「ゆいの森」だが、全国的にマネはされていないようだ。

ここに、地元が誇る大作家、「吉村昭記念文学館」がある。
書斎をそのまま再現するなどの、入れ込みようで、たしかに吉村昭の作品を深く読んでみたくなった。

再現された書斎には、蔵書も揃っていた。
目についたのは、『慈恵医科大学100年史』で、作品、『白い航跡』を思い出した。
また、『富士市史』があったのを何故かと思ったが、ウィキペディアに、曾祖母から祖母、実母までが、いまの富士市出身だったからだろう。

始祖が、福島正則の家臣で、改易後に富士に移転したという家歴が富士市の歴史を調べることにしたにちがいない。
おそらく、「女大学」などの教養にあふれた、これらの「女たち」が、吉村の人格形成を決定づけたのではないか?

ただの、「おばあちゃん子」とはわけがちがう。

とはいえ、些末かもしれないが、吉村氏の自宅は、井の頭公園近くにあって、三鷹市に寄贈されていて、これを移築・公開するための寄付募集でクラウドファンディングが行われている。
財源の正当性でいえば、三鷹市に分があるのだ。

そんなわけで、三鷹市と荒川区が、「書斎」をめぐって競争しているのである。

ところで、荒川区西日暮里に昭和2年に生まれた吉村氏は、空襲で焼け出されるまでここに居住していた、というから、作家になる前の人生を荒川区で過ごした「だけ」といえば、せんない話となる。

このところ、図書館にまつわる話を書いているので、これを拡大すれば、自治体として「地元の作家や著作」にこだわるのならば、たとえ無名な作家でも、無名な作品でも、「ゆかり」があればしっかりコレクションすべきではないのか?

「有名だから」だけがコレクションの理由であるのなら、それは、過去のコレクションになる。
つまり、博物館化する。
その意味で、『吉村昭記念文学館』も、博物館化しているのである。

しかし、図書館というものの役割は、「記録」というものに特化した文化施設なので、いま、無名だとかという理由は、関係ない。

もしや、百年とか後に、「発掘」されることだって十分にありえるのである。

つまり、未来も見据えた活動ができるのが、図書館なのだ。
ここに、「郷土」という意味が付加されると、がぜん「観光資源」へと変貌する可能性がある。

だから、ちょっとでも居住していたとか、ちょっとでも言及されているとかで、十分な、「資料」となる。

すると、著者の経歴や、その著作にある中身を誰がどうやってリサーチするのか?という、「書誌」の重要性がクローズアップされる必然がある。
もう、これだけで、十分な知的職業人を採用しないとできないのである。

そして、その作業の記録もまた、後世へ引き継がれる。

つまるところ、図書館の重要性とは、ただ蔵書があって、これを読むことができる、ことだけでなく、「書誌を作り出す」ということの重要性こそが設置者や運営者側が意識すべきこととなる。

すると、わたしの著作も、神奈川県立図書館や横浜市立図書館の蔵書になるだけでなく、どんな「いわれ」や「ゆかり」があるのかもセットになって、市民に紹介されないといけないことになる。

それを期待して、寄贈してみてようか。

ちなみに、毎年1回は知人を訪ねていく、富士市だが、その富士市中央図書館には、「郷土出身の作家たち」というコーナーがあって、当然そこに、吉村昭も含まれていることがわかった。

来年は、図書館にも寄ってみたい。

自由な旅行ができなくなる

旅館業法が変えられて、宿泊業者に「宿泊拒否ができる」ようになった。
これまでは、原則「宿泊拒否はできない」のだから、真逆になったのである。

その理由が、「パンデミック対策」という意味不明からのものなのである。

なぜに意味不明かといえば、そもそも「旅館業法(昭和23年)」の主旨が、伝染病予防だからで、ために、主管が厚生省だったのである。

だから、宿泊施設での手続きに、「宿帳記入」があるのは、もしや保菌者とか、感染者の移動を把握するためが理由だ。

つまり、「屋上屋を架す」状態の議論がなされた、という意味での法律改定なのである。

当然だが、公開されている公的かつ国際的スケジュールに、来年5月のWHO総会がある。
ここで予定されている「決議」は、2本あって、ひとつは過半数の賛成で成立する、「規約」だ。
そして、もう1本が、3分の2の賛成を要する、いわゆる「パンデミック条約案」ということになっている。

ところが、ここに大きな欺瞞があって、WHOが「人類初の」世界政府になる、各国への強制力を伴うから、「命令」を受け入れる取り決めは、この2本ともに含まれている。

つまり、可決のハードルが高い、「パンデミック条約」はあたかも「囮」で、「規約」だけでも可決されれば、晴れてWHOは世界政府へと変身することができるのである。

これは、EUの世界版で、選挙を通じない国際公務員たちによる、独裁がはじまることを意味する。

すなわち、WHOが、とある病気を、「パンデミック認定」するだけで、世界各国の政府へ、その対処法が命令されて、加盟各国政府はこれを受け入れる義務が生じるのである。

ここで想定されるのは、ワクチン類の「強制接種」だ。

新型コロナに対応するための、「メッセンジャーRNAワクチン」の開発に貢献したとして、今年のノーベル生理学・医学賞が授与された。

しかしながら、わが国でもあからさまな、「ワクチン被害」という「薬害」が拡大していて、死亡者は1万人にならんとしている。
後遺症に悩むひとがどれほどかすら、よくわからないのは、厚生労働省が把握に努めない、という「省庁設置法違反」までを犯しても、国民への接種を推進したいという意志があるからだ。

京都大学の名誉教授にして、一般社団法人ワクチン問題研究会代表の、福島雅典医師は、「ノーベル賞を取っても被害がなかったとするわけにはいかない」との名言を発している。

また、同医師は、厚生労働省に対し、ワクチンの購入契約書や有害事象の全てのデータを開示するよう求めたが、購入契約書の「不開示決定」がなされたために、これを取り消すよう民事訴訟を起こす予定だとも公表している。

けしからん、ではすまない国民の健康にとって、重大な問題が提起されているのである。

しかし、このような活動に対して、大手メディアはほとんど報じていない。
かつての「大本営発表」を批判し続けてきたこれらの「二枚舌:ダブルスタンダード」は、もはや犯罪に匹敵する。

あたかも、厚生労働省という役所が悪者にみえるけど、やらせているのは政権与党なのだということを、国民は再認識しないといけない。

実質共産化したアメリカ民主党のいいなりと化した、わが国の政権与党は、おそるべき全体主義政党に変貌しているのである。
この背後に、ネオコン(戦争屋とかビッグファーマ)がいるのは、公然のことになっている。

もちろん、WHOが国際機関であるというのも、今は昔のことだ。

いつのまにか、こうした「国際機関」の予算に、民間からの寄付依存ができあがって、国家の負担を超える多額のカネで支配する手法が一般化した。
もはや、WHOは、ビル・ゲイツ財団なくして存続できない。

コロナ禍なのに、「GOTO」を強行的にやったのはなぜか?
そしてそれは、「ワクチン接種者へのご褒美」という意味あいだった。

これは、WHOが世界政府になることを前提とした、国民への「躾」だったのである。
こんどは、「ワクチン接種者しか宿泊できない」ことにするのだろう。

抵抗者は、「車中泊」しかできないけれど、それもできない規制をかけるのだろう。
これらは、「正義」とか、「公共の福祉」の大義のもとに行われるのである。
その価値観は、「利他主義」だ。

着々と、全体主義の決定に従わない者は、生活の自由を奪われるのである。

「緊急事態」が用意されているヨーロッパでは、ワクチン接種者でないと、劇場やレストランにも入れなかった。

わが国は、アメリカがつくった憲法に緊急事態条項がないという皮肉で、自由が確保されたが、それがどんどん狭まっていくのである。

生きているうちに、こんなことになるとは想像もしなかったけれど、本物の『一九八四年』がやってきている。

 

伊豆半島の図書館巡り

静岡県の伊豆半島には、7市、6町の13自治体がある。
内訳は、熱海市、伊東市、東伊豆町、三島市、函南町、伊豆市、伊豆の国市、沼津市、西伊豆町、松崎町、下田市、南伊豆町、河津町である。

このうち、公共図書館があるのは、「市」では、熱海市、伊東市、下田市、伊豆市4カ所(修善寺、中伊豆、天城、土肥)、伊豆の国市2カ所(市中央、韮山)、三島市2カ所(市立、中郷分館)、沼津市2カ所(市立、戸田)、「町」では、東伊豆、河津(文化の家)、南伊豆、松崎、西伊豆、函南、と全部で、7市13館、6町6館、あわせて19館がある。

それでもって、『銭の花』の全巻揃いがどれほどで、保存状態や貸し出しの可否を探ってみるのはどうか?と思いついたのである。

全巻とは、ハードカバー版で7巻、ソフトカバー版で10巻となっている。

ちなみに、花登筺は、土肥の宿に籠もって執筆したというから、伊豆市の土肥図書館が、もっとも興味と期待が高まるし、物語の舞台がほぼ、熱川温泉だったので、東伊豆町と近隣の河津町や下田市がどうなのか?も興味深い。

もちろん、大温泉地の、熱海や伊東、あるいは修善寺がある伊豆市とかも、「業界人」が多いだろうから、どのような状況なのか?に興味が、温泉のごとく涌くのである。

いまは便利なネット検索がある。

そこで調べたら、結果は以下のとおり。
熱海市:ゼロ、伊東市:ゼロ、下田市:7冊/10、伊豆市:ゼロ、伊豆の国市:ゼロ、三島市:7冊/10、沼津市:ゼロ、東伊豆町:9冊/10(9巻欠、8巻・10巻は貸出不可)、河津町:ゼロ、南伊豆町:ゼロ、松崎町:ゼロ、西伊豆町:ゼロ、函南町:ゼロ。

以上から、全巻揃えの図書館は、全滅。
13市町のうち、蔵書ゼロは、10市町と、なかなかの無関心ぶりなのである。

さすがに舞台となった、熱川温泉がある東伊豆町は9冊と健闘したが、画竜点睛に欠けて残念である。
また、舞台にもなったが、作者の花登筺がこもって執筆したという、土肥温泉のある伊豆市が蔵書ゼロなのは、まことに残念としかいいようがない。

わたしは、自治体図書館で日本最大の蔵書数、150万冊を誇る、横浜市立図書館で、ハードカバー版全7巻のうち、5、6、7巻を読んだ(1,2,4巻が欠本)ので、前半部分がある、三島市図書館が読破にはもっとも便利そうである。
もちろん、貸出を受ける居住者の資格はないから、館内での閲覧となるので、何日か滞在する必要を覚悟してのことだ。

ところで、『銭の花』は、いまとなっては伝説のテレビドラマ、『細うで繁盛記』の原作であるわけだが、ここで描かれた地元のひとたちの姿は、お世辞にも「いいひとたちばかり」とはいえないし、むしろ「抵抗勢力」として、主人公がすすめる諸処の改革にあからさまな邪魔をする。
しかし、それがまた、全国どこにもある「リアル」だったのである。

滋賀県大津市出身の作家が、どうして伊豆の熱川を舞台にした話をつくったのか?についての詳細をわたしはしらない。
関西でも有馬やらなにやらと温泉地に事欠かないのに。

むしろ、東京の奥座敷的でいて、まだ電車も開通していない時代の熱川の孤立した土地が、ひとつの長旅や湯治の適地であったからかもしれない。
旅人は、どうやって熱川を目指したのか?を想像するに、大変だったことは間違いないからだ。

そもそも、伊豆島だったいまの伊豆半島が、本州に衝突したのは、50万年前だとされている。
フィリピン・プレートの上を移動してきて、いまも、本州を押しつけている。
ために、「日本アルプス」と呼ぶ、三つの皺(シワ)ができた。
もっとも伊豆に近い、南アルプスは、現代の地球上で最高度の隆起(年間4ミリ)をしているのである。

その衝突点に、どうしたことか、三嶋大社が鎮座している。

沼津商工会が新幹線駅の開業に大反対して、三島に駅ができたら、三島市の発展著しく、対して沼津の衰退も著しいという。
この両市の不仲は、江戸時代以前からだろうけど、なんだか熱川の田舎人(びと)を嗤えないのである。

それにしても、温泉が出ることと漁業のおかげで、観光地として発展したのは、伊豆半島の特徴にみえるけど、天城のワサビのごとく山の幸も豊富なのではあるのだが、観光では全員が食っていけない、という原則がこの半島にも適用されているのである。

観光産業とは、あくまでも産業連鎖の頂点にあるはずの高度な産業なので、それを支える様々な産業が裾野にないと、成り立たないからである。

地元を取り上げてなお、旅館経営の真髄と裾野の解説までしてくれた、当代一流の人気作家の作品が、かくも無惨な扱いを受けているとしれば、この半島の文化性の低さを露呈しているといえないか?

人間は、衣食が足りると、文化を求める生き物なのである。

自治体が存在する意義のひとつに、住民への文化の提供があるのであって、ヘンテコな役人が予算を振りかざしてやる、諸政策よりもよほど重要なのである。

これを忘れた、半島自治体の姿は、あの「正子」のキャラクターそのものではあるまいか?

好演した冨士眞奈美の素顔は、文化人そのものだけど、土地柄は変わっていない。
とはいえ、そんな土地を観光する価値が出てきたのは、現代の皮肉だろう。

大衆はコントロールされるべきである

「大衆酒場」とか「大衆演劇」、「大衆小説」とかにつきまとう、「大衆」とは何者か?

産業革命によってヨーロッパで発生したのが、「労働者階級」というひとたちだった。
とくに、本家本元の英国では、ハッキリと位置付けられて今にいたっている。
その支持基盤が、「労働党」というわけだ。

これより少し前に、あたらしく「ジェントルマン」という階級が生まれた。
新興の、富裕層という意味である。

いつでもどこでも、金持ちにはひとが群がる。
気分によってはあわよくば、何かにありつけるかもしれないからである。
その中には、当然ながら、貧乏貴族も仲間入りして、自分の地位をジェントルマンの財力をもって、よりよくしたいと目論むからである。
もちろん、ジェントルマンからしたら、貴族の家名を継ぐひとと懇意になれば、それだけ箔がつくというものだ。

英国の富裕層が、どうしたことか「登山」を趣味にしたのは、そんな淡い期待を抱きながら、パーティを組んだのかもしれない。

そんなわけで、狭い英国から飛び出せたのは、世界を支配した大英帝国の威信をかけた旅でもあった。

そうして、目指したのが、ヨーロッパ・アルプスの中心地、スイスであった。
主たる産業が、「傭兵」という当時のヨーロッパ最貧国とも考えられるスイスに、金持ちたちが道楽で登山に来たのである。

これが、スイスにおける山岳地方の観光開発のはじまりだ。

山と景色しかないど田舎でも、威信を背負い込んだ英国紳士たちはロンドンの邸宅と同様の快適さを要求した。
ただし、見返りは、当時の泣く子も黙る、スターリング・ポンドの金貨であった。

あくせく働いても、滅多にお目にかかれない金貨が、容易に手に入る。
これで、スイスは、ヨーロッパの金持ち御用達の観光地となり、貧乏人は相手にしなかったのである。

しかしながら、同時期に一方で、労働者階級という巨大な集団も生まれていた。
これが、「大衆」なのである。
よって、給与所得者となった大衆が息抜きをすると、それは「団体観光旅行」となったのである。

『細うで繁盛期』に登場する、二つのタイプの旅館は、保守的な「福原屋」と、近代的で革新的な「大西館」という対比設定だったけど、福原屋の顧客イメージは、「富裕層」であったのに対して、大西館は、「大衆」であった。

川端康成の、『伊豆の踊り子』とは、本宮ひろ志の『俺の空』の主人公、安田財閥の御曹司、安田一平バリの書生が一人旅の中で知り合った、自分の意思とも家族の事情ともしれぬ、踊り子との、身分を超えた淡い話なのである。
当時の日本は、まだ身分社会であった。

つまり、書生が定宿にしたのは、福原屋の方で、大西館ではない。

 

しかして、戦後のわが国は、財閥解体と農地解放で、書生のような生活ができるものは滅亡させられたのである。
これが、大西館の成功理由だし、細うで一本で衰退の一途だった山水館経営を再生・復興させることができたことの時代背景なのである。

つまり、わが国の戦後観光地には、消滅した富裕層は来なかった。
これが、大衆迎合型でしかない、わが国観光地の誕生物語なのだ。

すると、昨今いわれ出した、「格差社会」とは、もしやラッキーなのではないか?
棲み分けがハッキリするからであるし、福原屋タイプの復権ともいえる。

ところが、わが国におけるいまの富裕層とは、大衆の中で育ったひとたちばかりだから、安田一平の感覚を若い時分に経験していない。

これが致命的なのである。

さらに致命的なのは、原作中でも福原屋に跡取りがなく、細うでの人物を評価された主人公・加代が跡を継いだものの、その加代の後継がどうしたかはわからないで物語は終わった。
おそらく、時代の流れとともに、大衆化の道を歩くしかなかったと想像できるのだ。

つまり、客だけでなく、提供者にも、富裕層の扱いがわからない、ということになっている。

そうなると、正しいコントロールを誰がするのか?となって、残念ながら、欧米人に分があるのである。

その欧米人は、プロパガンダの名人だ。

彼らはいまでも身分社会に生きていて、支配者たるものとはなにかを自覚している。

それゆえに、大衆をコントロールするのは当然であり、それを支配層が行う義務があるとかんがえている。
なぜならば、自分でかんがえることをやめた集団が、大衆だからである。

だから、「大衆」のことを「マス」と呼んだものが、いつの間に、「マス・コミ」とか、「マス・メディア」というようになった。

そして、これらが仕掛けるのは、言葉を変えて、「PR」とかともいったけど、少しはかんがえる大衆が、その腐臭を嗅ぎ取った。

それだから、もっと上手になさい、となったのである。

大衆を騙して儲けるのが過去の歴史だったけど、大衆を正しく導いて、生活を向上させるなら、大衆はコントロールされるべきである。

だから、あくまでも、「倫理」が問われるのである。

失敗ができない悲惨

「失敗は許されない」

むかし観ていた、『科学忍者隊ガッチャマン』とか、『仮面ライダー』とかで、悪の親分が手下の怪物に、ヒーローたちを倒せと命じるときの常套句だった。
あるいは、外国のスパイ物とかでも、同じように命じて、失敗したら仲間内で厳しいリンチ処刑が実行されるものだった。

これらの共通に、「硬直した組織」という状態がある。

あるいは、上からの命令は絶対、とか、最近では、ミッション、とかとも言っている。
それで、命じる側もたいていが、組織内昇格したひとの場合がおおい。

では、「失敗」の定義とはなにか?

万事を尽くしても、所期の目的を達成できなかったときのことだ。
だから、評価者が問うのは、「万事を尽くしたのか?」となる当然がある。

しかしながら、そんな中身の評価はそっちのけで、表面上の「結果」しかみないのである。

たとえば、「結果こそがすべてだ」と、言葉にできる人物がトップだと、組織は硬直化をはじめる。
ビジネスの場なら、「結果こそすべてだ」はあり得ず、「プロセス管理こそがすべて」なのである。

そうでなければ、「改善:カイゼン」すべき仕事のやり方も発見できない。

ところが、どんなにプロセス管理に気を配っても、未知への挑戦ならば、結果の「失敗」はあり得る。
ここで、「表面しかみない」か、「中身をしっかりみようとする」かで、大違いとなるのだ。

プロセス管理に問題がないのに所期の目的を達成できなかったとき、というものには、中身に新しいノウハウが修得できた、「経験値」という、金銭では買えないような価値が形成されているものだ。

つまり、組織活性化のタネができている。

よって、再挑戦ができるのである。
これが、進歩のメカニズムの基本なのだ。
なぜなら、科学がそれなりに発達した現代では、たとえ紙一重でも、ひとりの天才ではなく、組織としての「経験値修得」がえらく重要になってくるからである。

世にある失敗の9分9厘が、「手抜き」によるもので、定義にある、万事を尽くしていないから、それは失敗ではなくて、サボタージュというのが本当なのだ。
プロセス管理の中身をみれば、すぐにわかるものを、みない上司も手抜きに加担しているのである。

「これは最新技術」だと消費者にアピールする宣伝はまだしも、技術の現場の本音では、この30年、新しい画期的な技術は誕生していない。
この「殻」を破った者が、次世代の成功者となる。

この意味で、「失敗」を認めるか、認めないかという「方針」のちがいが、分かれ道となるのである。

許されない、ではなくて、もっと厳しい、「失敗を許さない」世界の典型が、「官需」にある。
例えば、「原子力ムラ」とか、「宇宙ムラ」とかとよぶ、「ムラ(村)社会」がそれだ。

どうしてそうなるのかは、簡単にして明瞭で、「税金」という名目の、「公金」が投じられるためだ。

しかし、公金の所有権は、広く国民にあることになっているので、じっさいは誰のものかがわからなくなって、これらの事業に関わるひとたちは、みな、「自分のカネ」ではないために、「占有権」を行使している。

それだから、余計に、「公平性」だとかいう、綺麗事を先にたてて、そのえらくテキトーな運用を誤魔化すのである。

この誤魔化しのプロフェッショナルが、たいがい東大法学部を優秀な成績で卒業して、国家公務員総合職試験を優秀な成績でパスした高級官僚たちなのである。

小学校からとにかく勉強づけで生きてきただけの生物だ。

文部省が定めたカリキュラム(「学習指導要領」)の範囲内だけが、このひとたちの優秀さの根源であって、この範囲を超えることは、思考もできない。
なぜなら、思考せずに(疑問をもたずに)、ひたすら決まった範囲内での正答率を高める訓練しか受けてこなかったからである。

戦後日本人の、致命的な勘違いによる悲喜劇は、こんなひとたちを、「優秀」とか、「頭がいい」とかとプロパガンダされて思い込まされてきたことにある。

それでもってこれまた、役所に就職したら、「行政法」という巨大法典の範囲「だけ」で生きていくことになっている。

いつも、「範囲」があって、これを超えることがはじめから想定外なのだ。

しかし、チェックすべき国会が機能しないように、「小選挙区・比例代表制」なるインチキに選挙制度を変えたから、以来、明治期よりも酷い国家資産の私物化・簒奪・窃盗を白昼堂々行っても、一切お咎めなしの役人天国になったのだった。

それゆえに、学校の成績が一生の財産であると、こんどはウソのような思い違いをして、「官尊民卑」を貫こうとするのだ。

残念ながら、「官需」という世界だけに、カネを出すのも「官」なので、「民」は奴隷のような扱いとなる。
しかし、そこは悪代官と御用商人の結託で、おおいに「手抜き」が容認されるのである。

「官需」では、一般人には知る由もない、高度な技術だからだといって、「一品もの」の部品を特注する。
しかし、どうして汎用製品ではダメなのか?についての証明は無視される。

これで、万倍もの単価になっても許されるのだ。

その理由は、これまで問題なかったから、とか、無事故だったから、ということでの「信頼」なのである。

なんと、技術の話が、「有職故実」になっている。

 

もっといえば、汎用品を試すのが面倒だし、一品ものだから得られる利益にならない。
役人の方は、「大型プロジェクト」から、「大型」がとれたら、手柄にならないのだ。

国民が参加しない民主主義体制なので、役人は経費削減を要求しない。
まったくもって、サボタージュで潰れた「ソ連型共産主義」をわが国は採用している。

国民は失敗の原因すら正確には知らされない(たとえば、ロケットの打ち上げ失敗原因とか、フクシマの事故原因がいまだに「津波」だと誤魔化す)で、また、「失敗」ではなく「手抜き」だったとしてもなにも知らないままでいさせられるので、適当にガス抜きができたら元の木阿弥の繰り返しなのである。

そうやって、後術開発をしている風情で、技術の化石化(有職故実化)がはじまる。

旧東ドイツが90年代まで製造していた、「迷車」とは、「トラバント(Trabant)」だ。
東ドイツは、技術開発予算を投入していたのに、製品までいかないのは、「官需」に吸い取られたのである。

そんな風習が、民間の深いところにまで拡散して、格好良く、「失敗は許されない」という阿呆経営者が後を絶たないでいるのは、日本経済の悲惨にまでなっているのである。

旧「芝浦見番」に行ってきた

港区の公式HPによると、いまは、「伝統文化交流館」という無粋な名称が先で、あとから、『港区指定有形文化財「旧協働会館」』という、教育的な表記になっている。
説明文に、ようやく、「昭和11年に芝浦花柳界の見番として建設された、都内に現存する唯一の木造見番建造物です」と、その正体を明らかにしている。

「見番」とは、花街にあった3業態の、「置屋」「料亭」「待合」(これらは「水平分業」だった)を取りまとめ、芸者の取次や遊興費の清算をする施設のことで、花街機能の司令塔をいう。

場所は、芝一丁目。

町内でかつての花街を彷彿とさせる建物があるのは、この建物だけで、駐車場やら土地の区割りが、昔をほんのりイメージさせるだけだ。
近所の置屋だった「割烹い奈本」は、マンションビルになって、ポツンと一軒、住宅街で営業を継続している。

もちろん、そうやって意識して眺めてみてのはなしで、なんとなく歩いていたら気づかないだろう。

日本橋からの東海道=国道1号線と、JR線のルートをみると、元から陸だった東海道に対して、明治5年に開通した、「陸蒸気」は、『千と千尋の神隠し』のシーンのように、あんがいと「海上」を走っていた。
「盛り土」ならぬ、埋めたてで、線路だけを通したのである。

だから、鉄道ができる前のこの辺りは、ぜんぶが海だった。

たとえば、JR田町駅の新橋よりにある、本芝公園からJR線路をこぐって、「港区立芝浜小学校」方面に抜ける通路の坂は、むかしの浜を下る坂なのである。
高輪ゲートウェイ駅ができるまであった、泉岳寺から同様にJR線路をこぐる、やたら高さがなくて首をすくめるようにして歩いた通路も、かつては小舟が通るためにあったのだ。

地形としてわかりやすいのは、京浜急行「北品川駅」周辺の、旧東海道から海側にむかう道が、ぜんぶゆるやかな降りの坂道なのも、その先が海だったからである。
京浜急行に、「大森海岸」という駅があるのも、まさに、「海岸」だったからついた駅名だ。

なお、いま「北品川」というのは、日本橋から最初の、「品川宿」のことだ。
旅に出る知人・友人の「お見送り」、あるいは、「今上の別れ」と称して、ここでどんちゃん騒ぎをやっていたのが、江戸っ子だった。

余談だが、そんな昔を守る京浜急行が、さいきん「仲木戸駅」を改め、「京急東神奈川」として、あたかもJRに媚びたのは、たいへん残念なことであった。
東海道「神奈川宿」の由緒からしたら、JRの「東神奈川」という呼び方が、歴史破壊だからである。

そんな地名は、どこにもなかった。

江戸時代、この宿場内に将軍の宿泊施設、「神奈川御殿」があって、その門があった一帯を「仲木戸」と呼んでいたのである。
大名向けの「本陣」が、宿場毎の最高格式というのは、ふつう、だけど、神奈川宿の格式は、ふつうではなかった。

明治政府が江戸幕府の実績を消そうとした、国策が、鉄道省 ⇒ 国鉄 ⇒ JR の文化破壊の使命でもあるのを、いまどき私鉄が迎合するのはいかがなものか?

もちろん、京浜急行の、「神奈川」駅が、神奈川県の由来となる由緒正しきものだから、国鉄は困って、「東」をつけて誤魔化したのであった。

そんなわけで、文化財には、地名なる「無形」も含まれる。

極左、美濃部都政がやった、江戸の地名廃統合という、文化革命も、その理由は、3ケタの郵便番号では届きにくいからという、屁理屈で、7ケタ郵便番号ができたときに、旧町名をぜんぶ復活させていたら、たいしたものだったのにとおもう。

歴代都知事、なかでも、保守といわれた石原慎太郎だって、なにもしなかったのである。
皇室に尊敬の念を1ミリも抱いていなかった、石原慎太郎の長男が、強制引退させられた伸晃である。

こんなあれこれを、下地にして、芝浦の町を歩くと、東京モノレールの無粋から、「東芝」がなくなることの栄枯盛衰も、まさに、「うたかたの夢のごとき」なのである。

この手の木造文化財は、もう、おなじに再建できない。

だから貴重なのであるが、使われた部材だけでなく、職人すらいないだろうし、手間をかんがえたら、とうてい往年の細かい仕事は、資金があっても割に合わないことになる。

こうした再現建築の最高峰は、名古屋城「本丸御殿」になるのだろう。
全国の自治体は、余計な経済施策をただちにやめて、各地毎の歴史から、ここぞの「再現」をまともにやった方が、はるかに効率よく後世に価値を残せる。

まぁ、「現世利益」を謳う邪宗が政治権力をもっているから、むりかもしれないが、それがそのまんま、「なんとか割」とかの、刹那的な消費につかわれて、なにも残さない。

だがこれぞ、「現世利益」の具現化策なのである。

この「見番」近くに、港区の近代的無機質な公共施設が鎮座している。
予算が尽きたとき、この施設がどれほど荒廃するのか?は、たとえば、ヨーロッパの首都(EU本部がある)、ベルギーはブリュッセルの中央駅をはさんである、南駅と北駅のホームに立てば実感できる。

エスカレーターはひしゃげて、エレベーターはとっくに動かない。

さては、見番の二階で、艶やかな「をどり」でも観てみたいが、いまは自由に休憩できる場所だった。

大成功しているバイデン政権の中東外交

世界秩序を破壊する。
これがアメリカ民主党・バイデン政権(「オバマ3期目」ともいう)の政策目標だ。

ならば、「目的はなにか?」を問い詰めたら、世界経済フォーラムがいう、全体主義による独裁と一般人類の奴隷化である。

もちろん、アメリカ人もずっと欺されつづけて、レーガン大統領への敬愛は近代ナンバーワンの状態だけど、その後の政権全部をみたら、トランプ氏の4年間以外は、「世界秩序の破壊」という一貫性が途絶えたことはない。

何度もそもそも論をいえば、アメリカ民主党は、スターリンとの政争に敗れた、トロツキーがアメリカに亡命してから、見事に乗っ取りに成功したので、戦争をしてでも「(アメリカ型)民主主義」を輸出したいという表面の下には、「革命の輸出」という本音が隠されている。

スターリンがやったロシア国民やその衛星国に対する、非人間的な仕打ちが、ヒトラーと並んで悪の権化になっているけど、しょせん「全体主義者」のなかでの政争だから、トロツキーの危なさも推して知るべしなのである。

このところ、ウクライナのハシゴを外す指示が、どこからか出ているようで、徹底的な支援を支持してきた大手マスコミが、得意の手のひら返しを開始している。

この「さぞなかったようにする」のも、伝統的なプロパガンダの練られた手法をもってすれば、なんとかなるとかんがえているようだけど、世の中はデジタル・タトゥーの時代になって、だれでも簡単に検証ができるようになったのである。

そんなわけで、ゼレンスキー氏の与党が、ナチスである、というこれまでのタブーを、西側メディアがとうとう「解禁」した。

これまでは、ユダヤ人であるゼレンスキー氏が、ユダヤ人を絶滅させようとしたナチスのはずがない、という弁護論が主流であったけど、彼を大統領の地位に引き立てた、ウクライナの大富豪、コロモイスキー氏も、ユダヤ人なのに正真正銘のナチスで、ゼレンスキー氏との内紛によって、ウクライナ国籍が剥奪され、なんと二重国籍で残った一方の、いまはイスラエル国籍のひとになっているのである。

イスラエルは、このナチスの人物をどうするのか?

ゼレンスキー氏もそうだが、自分の立場に都合があえば、ナチスにも反ナチスにも加担する、元俳優ゆえの演技力があるだけの、単なる「風見鶏政治家」なのである。

そのイスラエルは、宿敵イランの核開発(ウラン濃縮)が、いよいよ佳境にあるために、イランの核開発施設の空爆を狙っているはずで、それがまた、ウクライナ後の中東戦争を予想させている。

これが、石油価格の高騰をよぶのは当然だけど、ペルシャ湾が航行不能ともなれば、石油が来ない、という世界の死活問題となるし、わが国の破滅になりかねない。

あとは、ロシア産原油に頼るのか?

これも前に書いた、アメリカ軍の二方面展開が、オバマ時代に完全不可能になるほどの、兵員削減で、わが国周辺の危機となるからである。

現実に、沖縄の米軍(海兵隊)は、とっくにグアム島に退去していて、最新鋭戦闘機も、アラスカに引いてしまった。
辺野古への移転工事で、なにが移転するのか?という問題になっている。

この点で、売国とされる沖縄県知事は、その発信の方向をまちがえている。
米軍のこのあからさまな、撤退で困るのは、「保守」と呼ばれる情弱ばかりになっていないか?といいたいが、日本国民全員が、国家安全保障における危機に晒されていても気づかない情弱にされた。

こうした事態を、「バイデン政権の中東外交大失敗」とかというひとがいるけれど、目的合理性からしたら、大成功しているのである。

なにしろ、世界全体主義の達成で、全ての国を「国連」やらの国際機構が支配するという、これぞ世界史の終わり、なのだからである。

日系三世のフランシス・フクヤマの呆れるほどの歴史的な駄作、『歴史の終わり』とは意味がちがう、リアルな「終わり=永遠の全体主義支配」なのである。
なお、このひとは、博士課程の指導教授、サミュエル・ハンチントンからなにを学んだのか?もわからない、支離滅裂ぶりを晒して、師匠の名をも汚したのだった。

情弱な日本人ビジネス保守たちは、日系人だから、という理由だけで、内容を読まずに礼賛する癖がある。

 

 

そんなわけで、ウクライナへの追加支援に、なんと腹黒い欧・米(EUとアメリカ)から「連帯保証」を求められて、あろうことか、岸田首相は、これにわが国一国だけでサインして、その気前のよさに拍手喝采を浴びて嬉しそうにしているから、ほとんど知能を疑うレベルである。

どこまでも、アメリカ民主党の奴隷でいたい。
これが、わが国の、グランドストラテジー(国是)なのである。

2000年の歴史ある日本が、その独立を失ったのは、1945年のことだと、やっと80年あまりが経過して、一般人にもみえてきた。

アメリカのわざと破壊している中東外交をみれば、こんどは、「お前らは奴隷だ」というご主人様の怒声でもって、なんだ奴隷だったのか?と他人事にしかおもえない日本人が、本物の奴隷としての売買の対象になるはずなのである。

バイデン一家の犯罪が、アメリカ連邦下院で次々に暴かれているうちに、「人身売買ビジネス」だってあることをおもえば、これもまた、日本人にとっての悲惨なリアルなのである。

古典「ホーソン実験」をしらない罪

「ホーソン実験」について、少し触れたので、改めて書いてみようとおもう。

もう100年前の1924年から32年にかけて、アメリカのウエスタンエレクトリック社の「ホーソン工場」で、行われた、「生産性向上」に関する実験のことをいう。
1929年の「大恐慌」発生時期をまたいでいることに注目したい。

なお、念のため、「生産性」とは、「産出(output)÷ 投入(input)」の式で表せるもので、何となく文学的なものではない。
また、一口に、「生産性」といったら、ふつうそれは、「付加価値生産性」あるいは、「労働生産性」の略語である。

一般に、「経済活動」とは、付加価値を増やすことができなくては成立しない。
付加価値には、利益も、人件費も含まれるからだ。
それで、「付加価値÷労働者数」が労働生産性になって、「付加価値÷総労働時間」を、人時生産性というのである。

だから、自社の付加価値を増やすことの意味がわかっている経営者は、人件費を減らして利益を増やしたようにみせても、付加価値「自体」はなにも変わらないことをしっている。

むしろ、従業員の生活を含めて、いかに人件費を増額できるか?をかんがえるものだ。

それがまた、少子化時代の企業経営にとって、採用確保や中途退社防止に有利となるひとつの条件だと心得ていることの証となって、学生や従業員から選ばれる企業になる、という意味に直結する。

人件費をとにかく減らしたいとかんがえる企業経営のもとに、自らすすんで就業したいとかんがえる者がいかほどいるかを思えば、話は簡単なのである。

ところが、こんな簡単な話に、偏差値エリートの経営者達が気がつかない。

どこか、あるいは、権威あるひとが書いた本でも読んで、それを丸暗記しただけにちがいない。
または、学生時代に成績でかなわなかった同輩が、高級官僚にでもなっていて、同窓会かなんかのおりに、人件費が高いとぼやいたら「下げる努力がたりない」とでもいわれたのを鵜呑みにしたのか?

役人という生き物には、はなから「付加価値生産性」という概念がない。

だから、民間の指定管理者に公共施設の管理をまかせても、役人側に「コストパフォーマンス」の概念がないので、なにがなんだかわからなくなるのだと書いた。

その結果、指定管理者がくる前の業務をやっていた役人が、クビにはできないから配置転換するだけで、役所内の「人余り」をつくり、民間の「人手不足」になるのであった。

ホーソン実験をやった歴史背景に、当時のアメリカは慢性的な「人手不足」であったことがある。

それに、民主主義が広がって、ひとびとの「権利意識」も拡大し、さまざまな「権利の法制化」があったし、もうこの時期から、「資本と経営の分離」が盛んで、株主と労働者の保護が求められていたのである。

この実験で、「経済人」という概念が否定されて、「人間は感情ある動物だ」という当たり前が確認され、それが「新しい労務管理の手法」となったのである。

逆に、まだ100年前のわが国は、農村からの労働力供給に余裕があったので、慢性的「人余り」であったから、労務管理については、「温情主義」を前提とした、「封建的家長が仕切る家族主義」が企業には根深かった。

欧米の価値観をそのまま鵜呑みにすれば、「新しい労務管理の手法」へと移行したアメリカの「先進性」にため息がでるけれど、「温情主義」を真っ向否定できるのか?という問題がある。

それよりも、かんがえるべきは、この上に乗っていた、「封建的家長が仕切る家族主義」が、それなりに厄介であることだ。
家長たる経営者が優秀だと、とくだん問題ないが、そのひとの後継者が凡庸だと問題になるのは、「絶対王政」や「独裁(たいていが「一代限り)」のように不安定だということである。

あたかも、『銭の花』における、大阪商人の権化、「糸商の旦さん」のごとく。
そして、作家は、「大阪商人の唯一の武器である信用という暖簾への尊重が、死してもなお、残っている」と書いた。

「死してもなお」を残すために、加代は、後継者たる義娘、志津江に子供時分から女将教育し、中高生となったら社会常識へと切り替えて幅をもたせ、とうとう、ハワイのリゾートホテルへ研修に出すのである。

ちなみに、作家は、リゾートの温泉旅館・観光ホテルと、街中の旅館・ビジネスホテルをちゃんと「需要:利用目的」で区別した記述をして、しっかり読者を教育している。

これが、大阪商人をよくしる作家が表現した、個人経営としての理想といえるのである。
とはいえ、「暖簾」に象徴されるのは、「ブランド」であると解すれば、規模の大小を問わない。

しかして、ホーソン実験は?となれば、そんなものは、わが国の伝統社会では当たり前のことだった。
人間を使うことが競争だった、戦国大名で、天下取りを争うような人物たちは、経験値から人間の本性とは感情なのだということをしっていたし、そうでなければ「下剋上」されてしまうのである。

しかも、戦が絶えない時代に、次の戦で命を落とす可能性は、戦国武士にとっては常識の日常だった。

ゆえに、あのひとのためなら死んでもいい、という感情の高ぶりなくして、戦国大名はやってられない。
もしも、ホーソン実験をしらない日本人経営者がいたら、それは、歴史をしらない人物という評価になるのである。

組織のトップたる経営者が歴史をしらない人物だというなら、それは「罪」である。
いま、日本企業の悲惨は、株主(過半が外国資本)も歴史をしらない人物たちになっているからだ。

残念ながら、一般人の個人株主ではなくて、機関投資家やらの大株主のことである。
多数を占める株式による企業の意思決定に関与して、なにを経営者にさせたいのか?

将来価値の増大ではなくて、支配を楽しむのは、根深く深刻な「罪」なのである。

花登筺の『銭の花』をつまみ読み

原作は、花登 筺(はなと こばこ)『銭の花』(静岡新聞夕刊に連載)だったけど、主たるテレビ視聴者が関東だったために、番組名は、『細うで繁盛記』になった。

ドラマは、製作:よみうりテレビ、放送:日本テレビ系列、第一期:1970年1月8日から翌71年4月1日まで、第二期:1972年1月6日~翌73年3月29日である。

関東では、「銭(ぜに)」といういい方が馴染まない、という判断があったからのタイトル変更だという。

群馬の山奥出身の祖父は、「おカネ」とはいわずに、「おあし」といっていた。
なんで「おカネ」のことを「おあし」っていうの?と聞いたら、「足がついたようになくなるからだ」と返事があって、へぇと納得したのを覚えている。

当時、10円玉を一枚もらえば、好きなものがなんでも買えたのだったけど、手に握りしめて駄菓子屋へ行くので、小銭入れさえもつ必要がなく、そのまま駄菓子屋のお婆さんに渡してすぐになくなってしまうものだった。

自分の足が、「おあし」そのものだったのである。

関西弁は、テレビの演芸番組でしか耳にしなかった。
小6のとき、別のクラスに大阪から転校してきた男子が、本物の関西弁であったのが珍しかった。
もちろん、彼の関西弁が、さらに細かく何弁だったのかはしらなかった。

ロクに話したこともなく、そのまま別々の中学校に入学したので、以来、お目にかかったことはない薄い縁になっている。

そんなわけで、まだリアルで関西弁を耳にするのが珍しかった時代に、このドラマは夜8時の寝る時間を超えている9時半からだったのに家族で毎週観ていて、主人公「加代」(役は新珠三千代)の差配に感心していたのである。

いま思い出すと、よくできたドラマであった。

脚本は、原作とおなじ花登筺。
白眉は、「配役」の仕事にあったかと思う。
役柄設定にドンピシャな役者たちが、演出を支えたのが遠い記憶ながらにもわかる作品である。

半世紀前の小説だし、きっと図書館にはあるだろう、と思ったら、あまりの貸し出し人気だったのか?3,5、6、7巻しかなく、1,2,4巻は欠如している。
ちなみに、神奈川県立図書館には、全巻所蔵となっているが、全巻貸し出し不可となっていた。

そこで、5から最後の7までを、つまみ読みしてみた。

舞台は、戦中からはじまって、場所は、被災した加代が嫁いだ伊豆熱川(東伊豆町)の温泉街である。
小説中、熱川に電車を通す話が具体化されて出てくるのは、昭和30年前のことになっていて、本物の電車が開業した、昭和36年のことも書いてあるが、それは、最終第七巻でのエピソードとなっている。

伊豆半島の先端は、相変わらずの交通網(「伊豆縦貫道」はブツブツ状態)なので、横浜からだとなかなか「遠い」(時間距離で渋滞に巻きこまれる)イメージがつきまとう。
それで、どうしても避けたくて、御殿場の山側に目がいくのである。

しかし、改めて、東伊豆町立図書館の蔵書に本作があるのなら、何日か滞在して、「全巻読破」も悪くないと思った。

ドラマの記憶が多少あるので、文章を読んでいても映像的にイメージできるのが、わたしにとって楽な読書にしている。

大阪船場のバリバリの「あきんど(商人)」で、加代の恩人、「糸商」の旦さんは、大友柳太朗だった。
加代の師匠でもあったのが、祖母ゆうで、浪花千栄子が演じていた。

このひとたちの集団が、「大阪経済界」だったのだから、なぜに大阪経済圏の衰退となったのか?は、個人的に興味の中心になるのである。
本作中にも随所にみられる、「あきんどの発想法」は、いわゆる東京の「経済人のもの」とはことなる。

「あきんどの発想法」は、ずっと「人情」と「数式」でできていて、「経済人」のドライさとはちがって、「ウェット」なのだ。

しかし、「経済人」という、『ロビンソン・クルーソー』ゆずりの発想は、1924年から32年にかけて実施された、「ホーソン実験」で、否定されてしまっている。
「損得だけ」の経済人ではなく、人間は感情の動物だという、「あきんどの発想法」の当たり前が証明されたのである。

これが、いまだに世界経済の「誤解」のもとになっている。
現代の、「儲け主義」や「拝金主義」が「資本主義」だと信じる(あえて「マネー資本主義」とも表現する理由)、経済人を肯定している発想からのものだからである。

この意味で、加代の成功譚である本作が示す「あきんどの発想法」は、あんがいと「ホーソン実験」を根拠とした「正統」なものなのである。

それと、加代は、「旅館方式」の限界から、「ホテル形式」へと転換させるエピソードが、やはり最終巻に登場する。

戦後の日本人の発想法が、悪い意味でアメリカナイズされたことの限界、という意味だ。
なので、東京を中心とした、「ホーソン実験」を無視した、「経済人」がはびこるのである

すると、この小説は、温泉旅館とホテル(温泉ホテル・観光ホテル)の、一種の「経営読本」なのであるが、当事者たちは「定本」として意識しているのだろうか?との疑問がおきる。

東伊豆町立図書館で借りられる、本作シリーズの状態が、ひとつの回答になるのではないか?

ちょっと熱川に行って確かめてみたくなった。

気の毒で語れない、のも狙い

世界から情報隔離されて、なんでも「オミクロン株(XBB.1.5)対応ワクチン」と自称する得体のしれない注射を、まだまだ打つと国も、横浜市(20日から、あろうことか生後6カ月以上の全員が対象)も張り切っている。

その横浜市は、市長選挙で圧勝した現職の主張こそ、「候補者で唯一の専門家」であった。

なにせ、横浜市立大学医学部教授であったのだけど、ずっこけたのは専門が、「医学」でも、「遺伝子工学」でも、もっといえば「医師」でもなくて、「統計学」だったことだ。
しかも、立憲民主からの推薦だったので、自民とちがう、ことも「売り」だったのである。

それが、世界から情報隔離されていることにも気づかない、阿呆だったのである。

12日、サウスカロライナ州議会で、超重要証言があった。
それは、注射液にDNAの混在が見つかったことで、人間への遺伝子操作が疑われるから、ただちに接種者の「幹細胞遺伝子」を調べるべきだ、とのことだった。

「遺伝子」だから、本人には一生だが、これが遺伝すれば世代を超えて自己免疫疾患を、自分のDNAが引き起こしかねない、という恐るべき警告だった。
旧ツイッター、「エックス」を検索されるべし。(日本語も可)

この情報をしれば、地方自治体の長として、「まった」をかけるのが当然だろう。

人の口に戸は立てられぬ、とは、どんな内緒(機密)話でも、たいがいが漏れ伝わるのが、人間の習性に由来するものだからである。

なので、「黙して語らず」に、「墓場まで持ち込む」のは、よほどの固い決意があってのことになる。

その典型が、山崎豊子の小説で、これも作り話と現実を混同させる、『沈まぬ太陽』(『週刊新潮』1995年~99年までの連載)であった。

現実との混同は、このひとの得意技で、『不毛地帯』(『サンデー毎日』1973年~78年までの連載)がその先鞭をつける作品である。

   

小説家は、あくまでも「作り話」を創作しているのだと主張するのだろうから、読者が勝手に物語と現実の出来事とを連動・関連づけさせるのは、小説家の責任ではないといいたいのだろう。
ただ、なぜにこの両者を酷似させるのか?に、悪意さえ感じるのはわたしだけなのだろうか?

ただし、日本人読者・視聴者の、簡単に騙される気質を利用して、ヒット作になるように書いているのだといわれれば、それはそれで、プロの「売文商売」としての立場は理解できるものだ。

だから、現実の瀬島龍三氏とか、このひとを政権ブレーンにした中曽根康弘氏が指揮した、JAL123便の悲劇とかは、わたしには、『皇帝のいない八月』(松竹、1978年)という荒唐無稽となぜか結びつくのである。

 

ちなみに、JAL123便の件は、いまでも「大疑問」がある、「事故ではない重大事件」とみるひとが絶えない。

この根底に、わが国政府の「棄民」の歴史が横たわっている。
「棄民」とは、ときの政権なりが、自国民を「棄てる」という意味だ。

明治新政府の原初にあった、日本人奴隷貿易の明治新政府による放置こそが、「原初」だった。
明治政府(薩・長)が憎んだ、徳川幕府は、豊臣家を滅亡はさせたが、豊臣秀吉がやった「バテレン追放令」は、幕府の「国是」(グランドストラテジー)として、開国まで続いたのに、なのである。

秀吉の「バテレン追放令」こそ、キリシタン大名たちが信仰心を理由にやった、自国領民の宣教師による「組織的奴隷貿易」の根を断つためだったからである。

なので、象徴的な「からゆきさん」のことは、政府として触れたくないのも、道理となる。

 

つまるところ、政府の無謬性へのこだわりが、政府をして国民と乖離させ、政府自体がマフィア化する原動力となるのであった。

この、「政府の無謬性」とは、圧倒的な難易度に設定した、受験エリートたちのつくる、人為的な、奢りの意識が、組織としての常識に変容したときに、永遠性をもって国民を支配する階級であると自己認識することで、どんどん強固になるようになっていて、個人では太刀打ちできない官僚内での生活習慣になるのである。

だから、「心ある官僚」は、ぜったいに現れない。

自称であっても、「心ある官僚」を演じて売名したいなら、「元」となるしかないのである。
ただし、国民は、「元」であっても、騙されてはいけない。

いったん、「無謬性」という伝染病に染まったものは、よほどの自己免疫がないと、まともには戻れないし、そもそもが、受験エリートでしかない。
だから、その学歴にだって、だまされてはいけないのである。

国民の8割が、「お注射」を何度も接種したので、わたしにとっての確信犯的お仲間は、2割の小数派でしかない。
なので、もう、めったなことはいえなくなったのである。

5回という経験者の友人は、2度目か3度目の直後に、右腕にしびれを感じるようになって、いまではたまに麻痺した感覚が出現するという。
本人も、自分から思い当たる節は、お注射しかない、というけれど、外国出張のために仕方なく接種し続けたのがいけなかった、と語っている。

こうなると、もう、気の毒でこちらから語れない。

せいぜい、「ワクチン問題研究会」の記者会見を観るように勧めるまでが限度なのである。

けれども、アメリカで続々と内部告発やらが発表されて、「注射薬」の開発元がわかった。
それは、保健省でも、民間の各製薬会社でもなく、なんと、国防総省(しっかり「特許」もあった)だったのである。

だから、製薬会社は、EU議会でも正直に、「感染予防を確認するための実験はしていない」と証言したのだだろう。

では、「なんの薬」なのか?

少なくとも、国防総省による「生物化学兵器としての開発」だったものを、アメリカ国民のみならず、世界中の一般人に民間製薬会社の「大儲け」を通じて使用したのである。
なお、この開発過程で、ファウチ氏の年収は6割以上引き上げられて、アメリカの国家公務員で大統領も及ばない最高額に達したのだった。

そんな人事・行政権は誰がもっているのか?
それが、SESの終身雇用高級官僚たちなのだ。

わが国政府も、民間製薬会社との「密約」を国会にも秘密にする、トンデモが、自・公政権によって平然と行われていて、これさえも情報隔離されている国民はしらないのである。

あまりにもあんまりな話なので、気の毒で語れない、のも政府の狙いだとすれば、将来どこかの時点で、わが国も「民主政府」になったあかつきには、関係者全員逮捕 ⇒ 有罪とならないといけないほどの組織犯罪である。

しかし、自・公政権は、そんな「民主政府」になるはずはなく、急いで全体主義化を講じているのであった。