犬とA.I.と人間と

人間の子供の数より、ペット(愛玩目的)の犬の方が多数になった我が国が、動物虐待先進国であるという不名誉な状態が続いている。

これは、なぜか決まっている法改正のための「期間」があって、2005年の改正で「5年ごと」と決めた。
だからかなぜか国会議員もこの決まりに従っていて、5年ごとに悔しい思いをしている人たちがいる。

必要とあらば、いつでも悪法を正すのが国会議員のはずなのに、「だって5年に一回の改正だもん」といって逃げるのである。

もちろん、「法改正の条文起案事務」を全面的に取り扱っているのが、担当する官僚だから、その官僚たちのスケジュールに、国会議員が依存していることの問題がここにもある、にすぎない。

わが国国会は、ぜんぜん立法機関ではなくて、たんなる「承認機関」になっている。
この縮小版が、民間の「株主総会」になって、みごとな形骸化をしているのである。

「法体系」を重視すれば、たとえ少しの改正であっても他の法律に影響しないかを調べて、関連法の全部を改正しないといけないと考えるのが日本の優秀な役人の習性になっている。

一方で、ヨーロッパの「法治」から発生したアメリカ合衆国では、新しくできた法が優先するという原則ができている。
これは現状に迅速に対応するメリットは大きいが、「法体系」としての整合性にはどうしても劣る。

それでもって、どっちなの?という解釈が自然に裁判依存の国になる元となっている。

だからむかしの日本人は、そんな様を野蛮だとして馬鹿にしていたものだった。
ただし、このアメリカのやり方は、必然的に「歴史」を意識しないといけない。
なので、突如、「埋没していた法律」が、現代に蘇って(忘れられていた法が発掘される)、その後の改正がないならば、それがそのまま適用される。

新しくて歴史がない国だ、といっても建国から250年弱。
一方、わが国は、軍事占領が終了(被征服は継続中だが)して、たかが71年しかない、あたらしい国なのに、都合によっては、2000年の歴史をいって自己満足している。

なので、「主権回復」から幾星霜、たかが20年もしない70年代までに、すっかりアメリカナイズされたものが、前世紀末からのもっと激しいグローバル化で、日本人もすっかり野蛮に劣化した。

いまさら三島由紀夫が見直されるのは、いまの若い世代に意味があることとはいえ、あのとき三島を嘲笑った人たちは今、後期高齢者という世代のことである。
この意味で、さいきん人気の成田悠輔氏が発言した、「高齢者の集団自決」が物議を醸すのは、三島からのブーメランなのだと思えば、説得力があるものだ。

三島は見るに耐えない日本の将来を見たくないと自決したが、その予言通りに見るに耐えない日本にしたのは、この世代、なのである。
故に、「敬老」の概念すら陳腐化する。
いわゆる、日本版の紅衛兵がこの世代なのだった。

いま、犬に散歩に連れて行ってもらっている高齢者がそれだ。
犬を犬として扱えない。
この精神の貧困(脆弱化)は、とにかく好きなように漫然として生きてきたゆえの姿だ。

それでもって、犬にまじめに幼児語で話しかける。

日本経済を高度成長に導いたのは、明治中期以降に生まれたひとたちで、不思議と大正世代ではない。
むしろ、大正世代こそ戦争に駆り出されて名誉の戦死を遂げたのである。
その大正世代を冷ややかに嗤ったのが、いまの後期高齢者たちだった。

つまり、明治の反骨(じつは「真理は自然科学にあって、社会科学にはない」という精神」)がつくった繁栄に、「ただ乗り」してきたのだ。

これをむかしは、「薩摩守」といっていた。
『平家物語』にある、「忠度(ただのり)の都落ち」でいう、平清盛の異母弟が薩摩守だったことの、雅な隠語を庶民がふつうにつかっていた。

その「(薩摩守)ただ乗り」の安易が、犬を犬として扱えない無惨な姿になっている。

なので、どんな小型犬でも扱いに辟易すると、すぐさま飼育放棄をする人が絶えない。
扱いに辟易するのは、犬のストレス=心理を理解しようともしないでいた結果に過ぎない。
けれども、可愛くなくなったならば、愛玩の目的を果たさないので、自分でなくて犬を処分するのである。

こうした人たちが選挙権を持っているので、5年に一回の法改正でもぜんぜん改善しない。
こんなことだけに、民主主義が機能して、ポピュリズムをつくっている。
一度でも飼育放棄したひとには、生体を飼育させてはならない。

先進国のアメリカでは、政治問題の上位に必ず、「中絶問題」が挙がる。

これが彼の国の大問題なのは、正規の夫婦間に生まれる子供よりも、非正規で生まれる子供の数が多いからだ。
つまるところ、「夫婦制度=婚姻」というものが崩壊しているばかりか、暴行による妊娠も無視できない。

それで、人権を強調する民主党は、中絶を認めてこれを女性の権利というけれど、中絶に失敗して誕生した子供を医師が処分することも認めようとしている。
共和党は、これを殺人だとして、法改正による医師への処分を提案した。
アメリカでは、人間が犬扱いされている。

さてそれで、A.I.である。

バーチャル世界だけでなく、ふつうにスマホを使っていても、A.I.がコントロールしていることに気づく。
思わず、機械の優秀性を褒めたくなるが、絶対に忘れてはならないのは、A.I.とはプログラムだということだ。

かならずそのプログラムを書いたのは、人間なのである。

犬を犬として認識できない後期高齢者たちの絶望とは、A.I.がプログラムだということすら気づかない(かんがえを及ぼさない)。
なので、それを書いた人間の存在もわからないから、ぜんぶ機械の進歩だと信じるのだ。

そうやって、個人情報を抜き取られても、5%の還元が「お得」ということに疑いも持たず、プログラムを書いた人間の支配下に喜んで与する。

犬の悲劇が、全人類の悲惨になるといわれても、残りの自分の人生では関係ないと思うのは、すでに孫やもっと後の自分の血統さえ知ったこっちゃない、という安易なのである。
だからか、さいきんでは犬すらも、血統を重視せず、「ミックス」といいだして、「雑種」をよろこんでいるのは、人間である自分の子孫を意識しないことのあらわれなのである。

これは、個人主義ではなく、ただの自己中で、今だけ、カネだけ、自分だけ、という堕落した価値観に感染したことの結果だ。

成田氏の言い方は直接的であったけど、もはや笑えない真実になっている。

ただ一つ、いまの後期高齢者たちを弁護すれば、戦後教育の犠牲者たちだという、これまた悲惨な事実なのである。
動物に育てられた人間は、動物になる。
人間は、人間に育てられないといけない。

すると、ちゃんとした人間にプログラミングをされた教育ロボットに育てられたら?と思うのは、やっぱり安易なのである。

なにをもって「ちゃんと」しているのか?の見分けがつかない時代になったからである。

「事件」を勝手に妄想する

19日に報じられた、著名な国際政治学者の三浦瑠麗女史の夫である、三浦清志氏が代表を務める投資会社「トライベイキャピタル」の本社と自宅が、東京地検特捜部に家宅捜査されたことが話題になっている。

詳細は、あんまり役に立たないといつも書いている報道機関の記事やらをご覧になれば、ゴシップ的に楽しめるとして、勝手ながら妄想を巡らしたので、超臆測のテキトーな思い込みをここでは書いておこうとおもう。

そもそも、捜査を仕切っている、東京地検特捜部とはなにか?といえば、占領(被征服)時に、アメリカの意向で組織された捜査機関であった。
アメリカ側の担当は、CIAである。

それまで、特別高等警察(いわゆる「特高」)と、陸軍には、憲兵隊があったけど、「民主化」という美辞麗句で、国家警察を廃止したし、「軍」も廃止させられる、人類史上初の命令がくだった。
もちろん、廃止命令を出したのは、GHQ(=アメリカ軍)だったけど、後から気づけば国家警察がなにもないことの「不便」となったのである。

「特高」の総元締めは、内務省警保局保安課だったから、内務省が「キング・オブ・役所」という理由もよくわかる。
なにせ、「課」レベルで、国家警察を管理していたのだ。

なお、正力松太郎が特高の大幹部だったことはしられていることだ。

そんなわけで、東京地検特捜部が動く、ということの意味には、いまでも背後にあるはずの、CIAを意識しないといけないのではないか?から妄想したのである。
この意味で、あたかも「正義の砦」のごとく描かれる、「検事ものドラマ」も、プロパガンダである。

日本を独立させない決意は、いまもアメリカの「国是」だからである。

ところが、これを破ったのが、トランプ氏だった。
戦後の大統領でただひとり、このひとが「日本独立=ジャパン・ファースト」を、勝手に「盟友」とした、安倍氏に勧めている。

安倍首相は、ヒラリー・クリントンの勝利を確信し(外務省の妄想)て、アメリカ国内法を破って、大統領選挙期間中にヒラリー氏だけに直接面談までした、トランプ氏にとっては「ゲスなやつ」のはずなのに、だ。

後に、トランプ氏が政権移行前に指名した、「次期」国家安全保障問題担当大統領補佐官だった、マイケル・フリン元陸軍中将が、着任前にロシア大使と「外交」をしたとして、大騒ぎになった(結局辞任させられた)のに、ヒラリー氏には「おとがめなし」だった。

これはさておき、トランプ氏が自らいう、「アメリカ・ファースト」とは、正統なる個人主義の結論なのだ。

個人主義は、個人ファーストであっても、決して自己中心主義ではない。
これを、日本のマスコミは「自己中」だと宣伝するから、悪質なのである。
個人ファーストであるとは、他人の「個」も尊重する、「紳士・淑女」をさす。
この国家版、アメリカ・ファーストとは、それぞれの他国へも、紳士的に自国ファーストを認めるということだ。

トランプ氏が、自己中のアメリカ中心主義(一国覇権主義=「米帝」ともいう)の、いわゆる東海岸の「エスタブリッシュメント=民主党=RINO=軍産複合体」から、徹底的に嫌われて排除の目にあうのは、他国の自主独立、なかんづく日本の自主独立を促して、国是を破るからだ。

つまり、トランプ氏は、アメリカ人にとってではなくて、戦後に奴隷化された日本人にとって、理想的で、一種ありえないほど、つまり、「奇跡的」な、奴隷解放のチャンスをもたらしてくれたのに、肝心の日本人の大多数が、プロパガンダによって、彼を憎むようにコントロールされている、「あほちゃうねん?」状態になっている。

そのトランプ叩きが、トランプ政権内部でも行われていたことが、「Twitter File」や、いろんな裁判、とくに「ロシア疑惑」という、もはや民主党がしかけたでっち上げに関する裁判で、宣誓供述をもって明らかになってきた。

これをやらかしていた、「DS:ディープステート:闇の政府」の一部がその姿を現した。
それが、司法省(内部にFBIがある)と、国家情報を司る機関(CIAや、NSA:National Security Agency、など)だ。

そのアメリカで、いま起きている、不可思議が、バイデン氏の機密文書問題で、ほとんど身内からのリークが原因なのである。
つまり、アメリカでは、「バイデン降ろし」がはじまっている。

それで、日本でもバイデン一家の悪辣さが、これからどんどん報道されることだろうし、ようやく息子のPC問題が話題になってきた。
ただし、今度は「バイデン叩き」というプロパガンダがはじまるのである。

端的にかつ、日本的にいえば、民主党が分裂したのだ。

しかして、司法省本部とFBIやら、CIAとかのトップ官僚は、全員、オバマ時代に大量採用(1000人以上)された「超高級官僚:SES」なのである。
このひとたちは、日本との貿易摩擦時代、つまりカーター政権がつくった、日本の官僚制をもっと強力にした、終身制の超高級官僚でアメリカ連邦政府中枢を牛耳っている。

なので、トランプ氏もいまでは正式に、「敵認定」しているのである。

予算を司る、アメリカ下院議会を支配することに成功した、共和党は、トランプ派が多数でもあるので、すでに司法省やらへの厳しい「報復」をしているはずだ。
つまりこうした圧力から、SESはどうやって逃れようとするのか?という事態になったのである。

なぜなら、古今東西、官僚は個人の責任を徹底回避する、という習性があるからだ。
これは、なにも現役だけのことではなくて、身に染みついた習性なので一生消えない。
たとえば、高橋洋一氏の言動に、これを垣間見ることができる。

そんなこんなの、「余波」が、太平洋を渡っているうちに、「大津波」になった可能性がある。

すでに、本命のターゲットとして「大物政治家」の名前が噂されているけれど、「これだけか?」という期待もなきにしもあらず。

「大疑獄事件」になるかもしれないので、ついでに「小物」や「雑魚」も処分の対象になってもらいたいものだ。

かつて、「ロッキード事件」なる、アメリカ発の妙な事件で、田中角栄が逮捕・起訴・有罪判決にされたけど、よくよく、今回と似た構図なのである。
ただ、田中角栄はなにをもってアメリカから嫌われたのか?あるいは、そのアメリカとは誰のことか?を吟味しないといけない。

さてそれで、ロッキード事件は、アメリカ上院チャーチ委員会(正式には「上院外交委員会の多国籍企業小委員会」という)が暴いた(1976年2月)けれど、チャーチ氏はその前年の75年には、ウォーターゲート事件を受けて、「諜報活動に関する政府活動調査特別委員会」を率いていた。

なんと、今年、あの議長選びでさんざんもめた連邦下院が、ささっと、「FBI・CIA調査特別委員会」という、後者の75年チャーチ委員会とおなじのを、48年ぶりに設置したのである。

つまるところ、SESたちの「逃げ足の速さ」が、東京地検特捜部を動かしている、と妄想すれば、それはなにも、太陽光発電汚職とかのチンケではなくて、もしや、「偽薬」コロナ・ワクチン購入の贈収賄にまでも拡大する、一大汚職・薬害事件にだってなるやもしれぬ。

欧米の科学者たちの一部は、公然とこの薬品を、「兵器」だと認定しだしている。

自分たちさえ逃れ切れれば、SDGsやWHOすら関係ないと言ってのけるひとたちが、いる、という「架空」の前提ではあるけれど、恐るべき「責任回避」が大疑獄を暴いて、とかげの尻尾切りをしているのである、と妄想した。

デフォルトしそうなアメリカ政府

「オオカミ少年の物語」を思い出させるのが、忘れた頃にやってくる、アメリカ政府のデフォルト問題である。

19日、イエレン財務長官が、政府債務が「目一杯になった」と発表して、まずは軍人年金などの支払い停止を決めた。
ウクライナ支援どころではなくなったのだ。

わが国の「政府財政」とちがって、アメリカは議会制民主主義の国だから、行政府が勝手に財政拡大策を実施することは、法的にできない、という、これまた、わが国とはちがって「法治国家」なのである。

そんなはずはない、わが国こそが戦後になってからの民主主義の実践における、世界に誇る議会制民主主義国で、ずっとむかしから法治国家だった、といいたいひとたちがたくさんいるのは承知している。

残念ながら、それはみな、戦後のプロパガンダによる、刷りこみ、つまりは、一方的に思いこまされているだけのことである。
いわゆる、情報鎖国に国民を置くことで、世界のことを「しっているつもり」にした、イリュージョン世界に住まわされている。

そのために、国民には「必修」といいながら、ぜったいに修得できないように設計したのが、「英語」という科目であった。
おそろしく意味のないことに時間をかけて、ぜったいに英語を理解させない努力が功を奏したし、たまたま、できるひとを特別扱いにして、できない大多数と切り離すのである。

さらに、自国の歴史も教えないことで、外国の歴史も理解できないようにした。
だから、通訳レベルの話者が、しれっと外国情報の窓口として「解説」するから、受け手の国民はどんな薄っぺらさでも満足できたのである。

この意味で、ぜんぶがぜんぶを肯定できない当たり前を横に置いても、戦前の高等教育におけるレベルは現代の比ではなく、ゆえに、対象人数も少なくて済んだ。
この最後にあたるひとたちが世を去ったのが、だいたい昭和の終わり頃だったために、その後の世代になってからの衰退は、そのまま「所期の計画どおり」となっている。

なので、この期に及んでなお、戦後教育を強化する方針のままでいることは、すなわち、亡国を目指すという、やっぱり「所期の目的達成」に向けて邁進している健気さに、アメリカ民主党幹部は満足におもっているはずである。

アメリカ合衆国は、政府債務に議会が上限を「法」として定めるものだから、これを超えることが、行政府(大統領が管轄)にはできない仕組みになっている。
まず、わが国の国会と政府の双方にない概念だけど、どうせ自民党が国会で過半数を維持しているから、いまさらにどうでもいいことではある。

アメリカでは、予算決定権限が下院ほどない上院(100議席)も、下院を通過した予算案の承認には60票の賛成票がいる。
なので、民主党の大統領(行政府の長)にあって、下院を野党の共和党に奪われたことは、政府債務の上限変更に反対される危険が高まっているし、上院の有利も、60票となると厳しいのである。

さらに、年初からどうしたことか潮目が変わってきて、バイデン政権に見切りをつけたのが民主党の方にみえるから、過去にこれまで何度もあったこの件で、与野党が最後に妥協するはずの楽観論が、妙な緊張に包まれている。

すると、民主党はどういうシナリオを2年前の大統領選挙時から描いていたのか?ということになる。

党内予備選で優勢だった、党員でないバーニー・サンダース上院議員を強引に「選挙から辞退」させて、あれよという間に他の候補より劣勢だったバイデン氏を党代表候補者に選んだのだ。

この点で、民主党は、党内選挙でも不正をかます。

不肖の息子、ハンター氏のパソコン問題が発覚したのも、大統領選挙投票日直前のことで、これを一部の新聞がすっぱ抜いても、メインストリームやSNSは、一斉に「検閲」して、徹底的に隠す努力をした。

しかし、もう限界を超えて、バイデン一家の大スキャンダルが、前代未聞の「国家反逆罪」の適用になりかねない様相になってきたのである。

この罪状は戦後日本の法体系では、「刑法81条外患誘致罪」しかないけど、刑罰は死刑のみだ。

なので一概に比較できない。
アメリカにおいて「国家反逆罪」の管轄は、刑法犯としてではなく「軍事法廷(いわゆる「軍法会議」)」にあって、連邦最高裁判所までの体系ではないし、検察官も弁護士も、当然に裁判官も、ぜんぶが軍の法務職が担当する。

歴史・伝統的に、どこまでもあくどいのが、民主党の支配者たちだ。
アメリカの政党には、「党首」がいない特徴がある。
民主、共和、の両党共に、「幹部たち」が治めている。

それで、いまの民主党の大幹部は、オバマ家であり、クリントン家だ。

このひとたちは、大統領職にあって、個人資産を増大させたから、いまの共和党の下院は「捜査」すると明言している。
つまるところ、バイデン一家を巨大な「国家反逆罪」の生け贄にして、逃げ切ろうという「動機」は十分にあるとみてよい。

ついでに国家財政まで破綻させた、という罪もきせれば、完璧なのである。

しかしながら、それがどんな厄災を世界にもたらして、まさかの「ドル暴落」ともなれば、連鎖倒産ならぬ、「世界連鎖デフォルト」になりかねない。
オバマやクリントン家は、それでも逃げ切りのために仕掛けるのか?

とくに、アメリカ国債をたんまり購入しているわが国(1兆2300億ドル)や中国(9700億ドル)も、まさかの紙クズになったなら、なかよく地獄行きである。

ただし、中国はすでにあからさまな「売り」をはじめているけど、どこまでも「ポチ(じつは「家畜」)」の日本は、まさか追加で無理やり購入させられる?

それがまたダボス会議が、「世界恐慌」をやるのだといっているから正直なのだ。
なるほど、自民党政権が忠実なのは、アメリカではなく「こっち」だった。

それはもう『すばらしい新世界』そのもののはじまりとなる。
いまのうちに、読んでおくべし。

なお、作者のオルダス・ハクスリー氏にインタビューした、「ABC」の貴重な動画が、ユーチューブに「Eden Media」さんが日本語字幕付きであげてくれている。
タイトルは、『全体主義への予言 』で、放送は1958年、約25分にわたってその「慧眼」があますことなく語られている。

インタビューアーは、2020年に、トランプ・バイデンのテレビ討論会の司会をやった、クリス・ウォラス氏(フォックス・ニュース司会者)の父、マイク・ウォラス氏である。

ときのABCの、いまでは懐かしいほどの、「まともさ」が目立つけど、まさか司会者も38年後の1996年に、ディズニーに買収されて、極左メディアに変貌するとは、想像もつかなかったことだろうし、ハクスリー氏が語ったことが、見事に的中していることも「まさか」の敏感すぎる大袈裟であったにちがいない。

世界経済フォーラムは、この『すばらしい新世界』を、最終モデルにしているのではないか?とわかるし、読後に、「そんなに悪くない世界」という、驚きの感想を動画でいうひとまでいる驚きがある。

反理性主義とかなんとか

人間には理性があるから、理性をもってことにあたればいい、という話がドンドン拡大したら、地球温暖化も理性のなかに入り込んで、科学が追い出された。

それで、先進国の英国は、風力発電にシフトして、これぞクリーン・エネルギーだと自慢しようとしたら、風が止んでエネルギー危機になった。

対岸のオランダは、むかしから風車が名物で「粉を挽いていた」けど、やっぱり発電につかったら、周辺の住民が風切り音の低周波で体調不良になった。

人間の健康よりも地球があってこそなので、最初は無視していたけれど、とうとう洋上にまで展開して設置した。
その海域は立ち入り禁止にして、漁業も釣りも禁じられた。

まことに、欧米人のおつむの傾きは極端なのである。

そんなわけで、こないだ「大光明」だと書いた、量子論の続きである。

ふつうに西洋が相手なら、「知的伝統」というものを追いかけると、古代ギリシャ哲学の「原子」にまでさかのぼることになる。
けれども、アラビアを抜いて「科学」を求めざるをえなくなった、ヨーロッパ人たちは、デカルトの登場で知的絶壁を経験する。

いわゆる、「機械論」という話になって、デカルトによる「物質」と「精神」の完全分離こそ、のちの「唯物論」につながる革命思想の根源なのである。

しかして、それが、「量子もつれ」の実験による確認で、「機械論」が根本から廃棄される事態となった。

つまり、唯物論の完全否定が量子物理学から結論づけられる、「反革命」的大事件となったのである。

ところが、ノーベル物理学賞に興味すら示さない「大衆」が多数になったので、この反革命の大事件にぜんぜん気づいていない。
むしろ、「物質」と「精神」の統合が、量子論から発生することの確実を、「宗教的で気持ち悪い」という評価になっている。

これぞ、テレビ脳、なのだ。

だれが実行犯なのか?ということも、詳しい検証もないままに、「なんとなく」あのひと、になっていて、起訴されたら99.6%が有罪判決がくだされるわが国刑事裁判にあって、とうとう起訴されてしまった。

だから、もう決まったも同然で、背景にある悪い教団こそが、「憎き敵」という刷りこみが完成している。
そこに、個々人が「明日は我が身」という想像力を奪われたことの重大事すらない。

この恐るべき、伝統的プロパガンダで、先手を打たれたがために、量子論による反革命が霞んでしまった。
はたして、ノーベル物理学賞を予想しての先回りだったのか?たんなる偶然なのかはもうわからない。

わかっているのは、「大衆社会」の、どうにもならない怠惰な態度だけだ。

量子論から派生する、「パラレル・ワールド」という現実も、そんなものは完全無視して、無事にことしもダボス会議は終了したようだ。
しかし、この世界経済フォーラムという存在が、すでにパラレル・ワールドを形成していて、支配者と被支配者との二分世界をつくっている。

それでもって、世界経済フォーラムは、ちゃんとなにを討議して、なにを決めたかも発表している。
にもかかわらず、被支配者の「大衆」は、そんな発表にも、ぜんぜん興味がないのである。

もちろん、テレビはこの発表を、きっちり放送せずに、あたかも「美辞麗句」をもってニュースにするのは、支配者が所有する媒体だからというわかりやすさまである。

それでも、大衆は、面白ければいいし、面白くなければ観ないだけでなく、ネット・ゲームに興じて、支配者にまたチャリンと課金されている。

こんな状況を見ていると、だんだんとこちらが「虚無」になるから、始末が悪い。

個人へのみえない追い込み猟を仕掛けられているのだとおもうのだけど、どこかで一線を越えると、常軌を逸した精神になるのかもしれないとおもっている自分がいる。

いやむしろ、大衆が向こうの世界に行きすぎて、こちらとの相対距離が離れたら、それだけで常軌を逸したと評価されるのがオチなのである。

それにしても、こんなことをあれこれかんがえているひとが、他にあんまり見あたらないのはどういうことか?

それとも、わたしが発見能力に乏しいのか?
あるいは、量子論からの哲学を、まだ誰もかんがえついていないのか?いや、そんなはずはない。

それに、「電子工学」はあっても、「量子工学」をきかない。

おそらく、量子コンピューターとかと、あんがいと個別の研究が先行していることで、「工学」のいうかたまりになっていないのかもしれない。
すると、「量子哲学」が生まれるのは、もっと先なのか?

量子論は、既存の学問体系(大系)を破壊する。
アインシュタインの相対論を乗り越えてしまったことの衝撃が、これから十分に大きな破壊力をもつこと確実だから、楽しみなのである。

その意味で、既存の宗教(学)も、吹っ飛ぶのである。

ただし、仏陀が描いた世界が、なんだか近しい気がする。
「色即是空、空即是色」が、あたかも量子的で重い意味をもっているからだ。

葬式仏教に甘んじてきた、わが国仏教界は、これにどう答えるのか?
わたしは、「理性」で答えてはならないとかんがえている。
なぜなら、宗教は、「信仰」が重要だからである。

とはいえ、今年のダボス会議に主宰者のシュワブ氏が、「病欠」して、子飼いのニュージーランド首相が辞任を表明したこととか、おなじく子飼いのマクロンのフランスで年金改革反対を掲げながら、じつは「反マクロン」大デモが発生していることが、目に見える「光明」になっている。

「ポスト資本主義」とは資本主義である

資本主義の成立が、どんな「条件」だったのか?
じつは、いまだに「わかっていない」不思議なのだと前にも書いた。
資本主義ではなかった人類社会は、どうやって資本主義になったのか?
この肝心なことが、うそみたいだが「わからない」のだ。

ただし、「人類史上」で、「1回だけ」資本主義の発生が起きたことは、「間違いない」から今の人類社会がある、ことになっている。

しかしながら、資本主義にならない社会もいまだにあるし、明治期の日本がアジアで唯一、資本主義社会になったのも、まことに不思議なことなのである。

それで、資本主義が爛熟した社会では、「ポスト・資本主義」が言われて久しい。
また、「ポスト・資本主義」をいうひとたちの特徴に、「資本主義を憎む」という信条が見てとれる。

一般に、「資本主義を批判」して、「否定」したのは、共産主義を発明したひとたちだった。
もちろんこのひとたちにとって、共産主義社会は理想社会なのである。
これを、「ユートピア」(「この世にない社会」という意味の造語から)ともいう。

しかし、「ユートピア」の言いだしっぺ、トマス・モアの小説『ユートピア』は、ぜんぜん「理想社会」なんてことはなくて、暗黒の地下に住むしかないひとたちと、明るい地上に住む人たちの「おぞましい」社会を描いている。

だからよくいう、「ディストピア小説」が、『ユートピア』なので、話が面倒になるのである。
ほんとうは、「ユートピア小説」といいたいけれど、「この世にありそう」という逆の意味なら、「ディストピア」の意味がある。

それでできたのが、「ディストピア小説」というジャンルである。

  

ジャンルとしていえば、最初の作品が、『すばらしい新世界』(1932年)だ。
ここに登場する、「ソーマ」という飲料は、戦後日本文学の金字塔と三島由紀夫が絶賛した、『家畜人ヤプー』(1956年)でも採用されている。

どちらも、いまでは、「古典」だ。
なお、『家畜人ヤプー』には、巨匠、石ノ森章太郎が描いたマンガが復刻されている。

次が、いわずとしれた作品で、本ブログでも何度も書いた、『1984年』(1949年)である。
そして、エヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』(1920年、1988年)がある。

『われら』は、『すばらしい新世界』より10年以上早くに書かれた作品だけど、ディストピアが現実化した「本場」のソ連で、焚書にされた経緯があるため、世界で存在がわかったのが、ゴルバチョフによるペレストロイカでの「デビュー」となったのである。

このジャンルには、もっとたくさんの作品群があるけれど、共通しているのは、「未来社会」であることと、「全体主義」によって極度に弾圧される人類の悲惨なのである。

だから、これらの作品に共通する価値観は、自由、である。

人間は、失ったものの価値は認識できるが、いつでもどこでもふつうにあると、その価値を認識することが甘くなる。
宇宙や水中での空気とか、砂漠での水とか。

何度も書くが、「自由」の重要な価値、でいう、「自由」とは、好き勝手な意味での自由ではなく、欧米人には「信教の自由」が初めにある。
神を信じることが、ふつうにできたことが、だんだんと、神を信じることが為政者から許されるようになった歴史があって、とうとう禁止されたからだ。

ここから、「だれにも命令されない自由」とか、「自分で決める自由」がうまれた。
なので、自己中で好き勝手が「自由」の正しい意味ではない。

この感覚が、古来、神を信じることがふつうのままである日本人にはわかりにくい。
むしろ、武将たちでさえ、「南無八幡大菩薩」とか、いざというときに「神・仏」という「なんでもあり」に無節操にも頼ったのが、日本人なのだ。

それがどうしたことか、明治初期に、「廃仏毀釈」なる激烈をやった。
おもに、神社の神官たちがやったとある。

もっとも日本的なひとたちが、もっとも欧米人的な行動をしたといえるけど、「打ち壊し」は、むかしの日本人たちの得意技なのである。
大正時代の「米騒動」もおなじで、われわれの3~4代前の日本人は、荒っぽいのである。

そんなわけで、ほんとうは「わからない」けど、「わかったことにした」のが、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』による、資本主義成立の条件の発見、である。

けれども、わたしにはこの主張より、『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(羽入辰郎、2002年)の方がより刺激的であった。

著者によれば、まったく信用ならないことになって、世界の名著の落とし所がないことに驚くばかりか、資本主義の成立そのものが怪しいことになっている。

つまるところ、巷間いわれている「資本主義」は、じつは存在していない。

なので、われわれが信じて疑わない、「資本主義」なる幻想の次にやってくるのは、マルクスの催眠術にかかったかのような、共産主義・全体主義ではなくて、あくまでも、「自由主義経済社会」なのである。

これを、資本主義というとややこしい。
しかしながら、ふつうは、「自由主義経済社会」のことを資本主義という。

いま、世界で「自由主義経済」を「統制」しようとしていることこそ、「反動」なのである。

目先の損得勘定はさいごに損をする

むかしからいわれてきた言葉が、本当の意味を発揮するのが現代の「情報化社会」なのである。
それは、ひとつの情報が「拡散」される、スピードと広さや深さが、「口コミ時代」とは、格段にちがう「別世界」だからだ。

しかも、「近代人=経済人」だという定義が、あやしくなってきたのも最新の分析で、ちょっと前までの、「合理的」な人間なんて存在しないことは、もう、マーケティングの常識にもなっている。

そもそもが、「経済人(経済的人間)」とは、『ロビンソン・クルーソー』を典型としたものだ。
この作家がつくった架空の人物は、絶海の孤島での暮らしに、「貸借対照表」を用いて、合理的でムダのない行動をもって生きのびようとする。

わたしは、このエピソードで彼の行動に感心するのは、「貸借対照表」を書くことではなくて、忘れないように、あるいは、後から確かめることができるように、「書くこと」をちゃんとやったことにあるとおもっている。

企業再生の現場にいて、企業再生(倒産)に至ってしまった経営者たちを観察すると、おおくが、書かないで記憶に頼っていることを発見したし、書いたとしても、それは自分のためではなくて、だれかに指示をあたえるためという、目的のちがいをみつけたからである。

しかして、ロビンソン・クルーソーは、島から救出された後、さまざまな事業を成功させる。
そのなかに、当時の英国人たちが「常識」としていた、「阿片貿易」もあって、やっぱり作家はこの人物を大成功させる物語を書いた。

ゆえに、わたしは、経済学者がいう、経済人としての、『ロビンソン・クルーソー』を「必読書」ということに、おおいなる疑問を抱いている。
詰まるところ、どうしてもこの架空の人物を、「経済人=近代人」としたいとする、経済学者がほんとうに経済をしっているのか?とおもうからだ。

もちろん、経済学者がいる「業界」では、学部1年生の必読書としている優秀校はいまでもあるかとおもうのは、その「業界内」での常識とされているからで、この意味で、あんがいと「惰性=慣性の法則」がはたらいているとかんがえる。

「まとも」に、阿片貿易とそれがもたらす厄災をかんがえたら、これを正統な経済行為と呼んでいいのか?という、「倫理」の問題を無視することの「必読書」であると位置付けるならば、相当にトンチンカンだと思わざるをえないからである。

あえて、英国をほんの少し擁護すれば、アヘン戦争を議会で議決するにあたって、過半数のわずか数票差だったことと、反対派が敗北した後に出した、「後世の赤っ恥になる」という声明の健全性だけはあったとつけ加えるべきものだとはおもう。

まぁ、英国にも「良心」はあったのだけれど、アヘン戦争を敢行した歴史的事実が変わるものではない。

また、重大な決議をする場合は、アメリカ連邦上院議会にある、単純過半数という方法ではなく、60%にあたる「賛成60票」がないといけないことがあるという工夫も、英国議会は採用しなかった。

もちろん、わが国も、「憲法発議と参議院否決の再可決以外」はぜんぶ単純過半数だ。
いまの自民党は、「絶対安定多数」(全常任委員会で委員を過半数確保したから委員長を独占する)になっているけど、2/3ではない。

そんなわけで、予言通り、「後世の赤っ恥になった」のであるけれど、それで奪った「香港」の返還にあたって、これを中共政権に返した、という、これまた「後世の赤っ恥になる」ことを、サッチャーをしてやらかしたのを「律儀」と呼んでいいものか?

話を整理すると、ロビンソン・クルーソーが典型的な経済人だというのは、狭い意味ではそうだけど、広い意味ではぜんぜん「資本主義的経済人ではない」ということだ。

ならばなにかといえば、「前資本的経済人」なのであって、これは人類史における、中世までの大金持ちとなんらかわらない価値観なのである。
するとまた、強い倫理や道徳社会にしか登場できない、「資本主義」は、英国で成立したのか?という大問題にたどり着くのである。

もしも、英国において資本主義は成立なんてぜんぜんしていないのに、ただ現象としての「産業革命」をもって、これを、かっこつけて「資本主義」と呼んでいるだけになるし、「共産主義から勝手に演繹した」つまり、共産主義を説明するだけのために、つくりだした架空の概念が、「資本主義」ではないのか?

これを、わが国の歴史にふってみれば、だれも江戸時代が資本主義社会だと認識していないだろうに、なぜかいまでも、江戸時代の「経済感覚の格言」に意味があってしかも「深い」ことをどうするのか?になる。

たとえば、「安物買いの銭失い」とか。

それでもむかしの方が、「損が限定的」だったのは、安物を好んで買う人「だけ」が損をしたからだった。
いまは、QRコードとかで電子決済をすると、数パーセントの割引になる、という方法での「安物買い」になっている。

しかし、この方法が普及すると、決済方法のシステム提供者に支配される、という「超恐怖社会」に近づくことを、まったく警戒していないから、警戒している「他人」も、最後には「社会制度」として巻きこまれてしまうのである。

たかが数パーセントの割引になる、とはいえ、どうして安くなるのか?をかんがえないで、まるで「写真を撮られると魂が盗られる」とした、原始人を嗤うがごとくのひとたちが多数になっているけれど、こと電子決済の恐ろしさは、この真逆なのである。

たかが自分の個人データなんて、大したことはない、のは、個別にみたらその通りかもしれないが、スマホにあるぜんぶの個人データが抜き取られていて、それが「ビッグデータ」になった途端に、威力を発揮する。

システム管理者に「気に入らない」と指定されたら最後、決済不能にされたら、それはほんとうに「死」を意味することになる。
自分の口座に入金しないばかりか、「現金が廃止」されたら引き出すこともできないし、なにもかも消費することができないのだ。

目先の損得勘定はさいごに損をするのだが、だれもこんな重大なことをいわないのが、もう「はじまっている」証拠なのかもしれない。

郷愁の「肉野菜炒め定食」

日本における「中華料理」のおおくが、「町中華」という進化をとげて、いかにも和食化したのは、外来文化を消化・吸収してしまう、おそるべき日本文化のなせる技でもある。

これは当然に、「洋食」というジャンルでもおなじで、「本場」にない料理があたかも外国発祥として扱われながら、じっさいは和食化しているのである。

たとえば、スパゲッティ・ナポリタンは、来日したイタリア人には「初見」となる料理で、ケチャップでパスタを炒めることの無謀に、最初は愕然としながらも、一口ほおばれば、その味の虜になりながらも脳内では混乱がしばし続くようである。

ぜったいにイタリア料理ではない、と。

これは、海外の日本料理店でも、あるある話になっているけど、たいがいの日本人は、それをけっして「うまい」とは感じないことに特徴がある。
「やっぱりちがう」ということに、妙に安心感をえるのだ。

しかも、海外で成功している日本料理店は、どういうわけか中国人とか朝鮮人の創業オーナーで、ほとんど日本人オーナーがいないのも、「テキトー」な料理を提供することに躊躇する、日本人の律儀さだと分析されている。

その原因の最たるものが、食材になる。

流通の発達が、昭和50年代程度でとまっているのがあたりまえの外国では、ということもあるけど、まず不可欠な新鮮な魚介類の入手が困難だし、鰹節や昆布といった日本料理の命となるダシの材料もない。
厳密には、「硬水」がふつうの外国でダシもうまくとれない。

ようは、食文化の素地がぜんぜんちがうので、ダシにいたっては、カツオ風味とかいう化学調味料を用いるしかないという妥協すら、日本人の料理人には許しがたいことなのである。

ところが、日本食の料理人の需要が高まって、賃金水準が格段にちがうようになったので、和食料理人の海外流出(出稼ぎ)が話題になっている。
年収にして5倍はちがうとなれば、たしかに、となる。

あたかも「出稼ぎ」といえば、短期のイメージだけど、あまりの賃金格差から、いったん出たら、めったに帰国できないことになる。
おなじ仕事をしても、日本では「喰えない」からだ。

ために、職人ほど英語やらの外国語習得が必要になっていて、文学や論文を読むのとはちがう、現場会話力の語学力なのである。
この需要に、わが国の学校教育は応じるはずがない、というへんな義務教育になっているし、「TOEIC」にはまるサービス企業も気づかないのは間抜けなだけか?

ときに、外国人富裕層が、健康によろしい日本食マニアの傾向があるから、お抱え料理人としての需要もある。
すると、あんがいと栄養学の知識が、料理人に求められるのは、外国人の合理主義が前提にあるからだ。

もちろん栄養学の基礎には、化学がある。

原子の組成から、電子の振る舞いを理解して、化学反応こそが料理の根本をなす。
どうやってダシをとるか?とか、包丁の技、はこれらの応用となるのだ。
すなわち、21世紀の職人とは、じつは化学や物理を基礎とする、「理系人」でないと務まらない。

そこにまた、食材という材料を供給する、第一次産業(農林水産業)の存在が必須なのである。

しかし、困ったことが二つある。

日本における第一次産業の衰退に、歯止めがかからないばかりか、促進させているのが政府だからだし、栄養学への疑問が存在する。
既存の栄養学のいう、食事療法がほとんど効かないのに、既存の栄養学を後生大事にした資格制度を維持しているのである。

これに、政治がからむのは当然で、学者のなかでの政治もふくまれる。

既存の栄養学が、既得権になれば、なにを好んで変える必要があろうか?
このとき、栄養学をべつの分野に置換すれば、たとえば、医学とか、がすぐ浮かぶのは、「公的健康保険点数制度」という共通にたどり着くからである。

ようは、料金体系が決まっているだけでなく、治療方法も決められているから、ここから逸脱することは、たとえ名医でも不可能なのだ。

それでもって、農林水産業も、先進国最低の自給率にするという政治だけでなく、肥料や農薬の原材料も外国から調達するしかないなかで、最大の供給国のロシアから敵国認定されて、行き詰まってしまった。

すると、「肉野菜炒め定食」が、食べられない、という状況になる可能性が高まっている。
定食の基本構成要素である、ご飯とみそ汁も同様だ。

価格が高騰するならまだしも、メニューから消えるどころか、町から食堂が消えるかもしれない。
原材料の入手困難と、ガスなどの不足がそうさせる。

人手を吸収している産業としてみたら、こうした政策は、底辺の劇的拡大という事態になって、世の中を不穏にするけど、それがまた、狙い、なのだ。

人間は、寝だめも食いだめもできないけれど、いまのうちに肉野菜炒め定食を気軽に食べられる幸せをかみしめておいた方がよいから、できれば小学生に教えておきたい。

しかも、栄養学的にバランスがとれた、いわば完全食なのだ。

いまの小学生に肉野菜炒め定食の記憶を焼き込めば、あと60年とか70年ぐらいは、「郷愁」として、語り継がれることだろう。
ただし、聴く側のひとたちが、それはどんな料理で、どんな味だったかを想像することもできなくなっているやもしれぬから「古代食」になるかもしれない。

使い捨ての政治家たち

世界最大の権力者は、現代のローマ帝国である、アメリカ合衆国大統領だとおもわせられてきたけれど、じつは「使い捨てカイロ」のような存在だった。

「ディープステート(DS):闇の政府」を、はっきり口にしたのは、アイゼンハワー大統領が退任するときの記者会見が最初だった。
このひとは、アメリカ陸軍の元帥にして、戦時中はヨーロッパを担当した「連合国遠征軍最高司令官」だった。

おなじ「元帥」でも、マッカーサーが語ったのは米軍から授与されたものではなく、「フィリピン軍元帥」のことなので、ぜんぜん格がちがって、大統領を目指して頓挫したから、一枚も二枚も上手なのは、アイゼンハワーの方である。

それに、アイゼンハワーが「アイク」と愛称で呼ばれた、「陽」であったのに、マッカーサーは典型的俺様型の、「陰」キャラであった。

今年の正月3日に召集された、アメリカ合衆国連邦下院議会は、中間選挙の後を受けた新議会で、その議長選びについては前に書いた
この一連の出来事で、トランプ派から委員長になった議員が「DS」に言及したことがニュースになった。

バイデン政権と闘う、ということはすでに議会共和党(トランプ派)の目的ではなく、DSを壊滅させることだと示唆し、それからトランプ氏自身もこれに直接に言及して、正式に「敵認定」したのである。

そんな経緯があったなか、バイデン氏にも機密文書問題が発覚した。

トランプ氏の機密文書問題は、当局に協力的であったのに、作夏に突如、前代未聞のトランプ氏別荘(前大統領宅)への強制捜査をしたことで、おおくのアメリカ人が憤慨したが、これを「トランプ悪人説」で徹底的に煽ったのがバイデン氏本人だったから、まったく始末に負えない事態になっている。

けれども、今回のバイデン氏がやった機密文書問題は、敵対する共和党側が動いたことを発端とせず、「身内」である弁護士が見つけたと発表しているからへんなのである。

なんで、バイデン氏の弁護士が、バイデン氏を貶めることをするのか?

まことに理解に苦しむことになっている。
それに、最初にリーク情報を報道したのが、いわゆるメインストリームの左派メディアだったので、わが国でも同様の左派メディアが、手のひら返しでやっぱり報じている。

どうして、隠蔽しようとしないのか?という、わけのわからなさがあるのは、これらのメディアが民主党を支持して、欺瞞だらけの報道をトランプ氏に対して徹底してきたからである。

それで、民主党は、「バイデン降ろし」を開始した、という憶測が流れ出した。

本人は、2024年の次期選挙に意欲をみせて、2期をやるつもりらしいが、どうやら民主党が見限りだした、というのである。

アメリカ議会は、上院が「人事」を管轄するので、この度の中間選挙で上院の主導権を維持した民主党は、下院でバイデン氏を弾劾起訴されても上院の弾劾裁判所は否決できるから、これもトランプ時代と似ている。

しかしどうやら、狙いは「辞任」させたいのではないか?

それはメインストリームも「本物」と認定した、息子ハンター氏のパソコンから発覚した恐るべき情報が、民主党を壊滅させるほどの内容だからだともいわれるのは、下院議会共和党がこれを調査すると明言したからでもある。

それで、既定のシナリオ通り、無能なカマラ・ハリスを大統領に据えれば、よりコントロールしやすいと考えているのかもしれない。
2年前からくすぶっている副大統領に、ヒラリー・クリントンを選んで、2024には再びヒラリー対トランプの闘いにするのか?と。

しかし、おかしいのは、今回の騒動が、機密文書問題を発端にしたおかげで、ヒラリー氏には国務長官時代の機密文書問題が再燃すること確実だから、そんな強引なシナリオが現実にありうるのかが疑われる。

もっとも、共和党下院では、「政治とカネ」の関係を調べることも表明していて、クリントン大統領、オバマ大統領たちが、大統領時代に「蓄財した」ことを名指しして調査対象としている。

トランプ氏のばあいは、大統領時代に、大幅に個人資産を「減らしていた」ことが、建国以来の異常ともいえることになって、納税情報まで裁判所から公開命令させられる前代未聞にもなった。

もちろん、トランプ氏サイドも当初は抵抗をみせたが、連邦地裁判決を受けてあっさりと公開に及んだ(控訴しなかった)のは、これが将来、バイデン氏やクリントン氏、オバマ氏にもブーメランになると見込んだからだと解釈されている。

肉を切らせて骨を断つ、という戦略だ。

トランプ氏は、大統領報酬を全額ボランティア活動に寄付していたことが噂と本人の話だけでなく、納税情報から明らかになって、そんなバカなやつはいないと信じた民主党に衝撃となったのである。

いまだけ、カネだけ、自分だけ、の価値観しかない民主党にとって、トランプ氏の価値観は、ありえないファンタジーだったものが、本気の人物だった。

こんななか、突如ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相(42歳)が、19日、突如、首相辞任を表明した。
ダボス会議の最中だから、様々な憶測を呼んでいるけど、次期選挙にも出ないことも明らかにした。

どうしてここで「ダボス会議」がでてくるのかといえば、世界経済フォーラムの主宰者、クラウス・シュワブ氏が組織している、若手政治家育成プログラム(ヤング・グローバル・リーダーズ)のメンバーだったからだ。

このなかに、フランス大統領のマクロン氏や、カナダのトルドー首相もいる。
日本人の名前が見あたらないのは、DS支配が完結しているからだろう。

アーダーン氏は、厳しいロックダウン政策で、一躍ときのひとになったけど、その素性が「極左活動家(全体主義者)」だったことがバレて、国民の支持を急速に失ったのである。
似たような現象が、カナダやフランスでも起きている。

すると、やっぱり焦っているのは、クラウス・シュワブ氏そのひとで、とかげの尻尾切りをやっているのかもしれない。

DSは、複雑な連絡体系をもっているから、ひとつの組織だけを指すことができない(「世界経済フォーラム」や、「SES」など)けれど、世界の認識は、与太話から「現実」に確実に変化しているのである。

地上の支配者は植物である

夢とロマンで、宇宙探査をやっている、とは本当か?

なんとなく「おおらか」でよいのだけれど、夢とロマンだけでなにかができるのは、人類でも希少種の日本人(大和民族)だけではないかと、さいきんとみに思うようになってきた。

人類を相変わらず支配しつづけようとして、いまや汲汲としている白人種は、そんな「やわ」な発想はしないからである。
でないと、税金を湯水のように宇宙開発に投じて、うつつをぬかす者たちに配分なぞしない。

それが具体的な目標になったのが、「火星移住計画」だし、太陽系以外にも移住できる星はないかと探す、「惑星探査計画」なのである。
日本の「JAXA(宇宙航空研究開発機構)」がいう、宇宙の謎を解くための「夢とロマン」が異様にみえる理由なのだ。

要は、あくまでも「実利がある」としてしか、税金投入の口実ができないのが、白人社会(民主主義)なのである。
「そこにロマンがある」で通じるのは、日本人だけだ。
この「おおらかさ」が、唯一白人社会に対峙できた理由ではないかと思う。

だから国民もそのロマンのために、税金が使われることに異存はなかったけど、だんだんと資材調達が利権化してしまった。

いざ探査の対象となる惑星をみつけたとしたら、まず調べるのが、気温や気圧、それに大気組成と水の存在だ。
火星でも、いまのところ微生物らしき痕跡があるようだけど、もしも、生命体がみつかったら、なにを調べるか?をかんがえると、量と種類になるだろう。

これを、異星人からの「地球の発見」にあてはめると、どう見えるのか?

地球のばあい、総重量で最大の生物はなにかといえば、圧倒的に植物だし、その種類も豊富だ。
次が、総重量なのに微生物になる。

シェアがない動物のなかで、さらにシェアがないのが人間なのである。
もちろん、希少動物は人間の他にたくさんあるけど。

この実態を、発見者たる異星人がどう評価するのかは、あんがいと簡単で、植物におおわれた惑星だと定義するはずだ。
それから人類の存在に気がついて、どんな生物なのかを調べたら、植物をいじめる者たちだと定義される。

植物が必須の餌とする、二酸化炭素濃度を減らそうと画策する、へんな行動をしているからだ。

もちろん、異星人は、地上の生物の生存条件を探るにちがいない。

その全ての栄養素が、植物由来だと気づけばなおさらである。
それに、元素や素粒子からなるのは地上の生物も、異星人もおなじはずなので、二酸化炭素濃度を減らす努力とは、自殺行為だと判断するにちがいない。

となると、異星人たちは、人間の精神鑑定をやりたくなるだろう。
それで、自殺願望がある人類と、そんなことはない人類と、なんだかかんがえがまとまっていない人類とに3分類できたら、なにを意図するのであろうか?

どこか人類にはわからない星からやってくる、はるか先の科学力をもっているはずの、この異星人は、そもそもどうして地球を探査するのか?という動機をかんがえないといけないけれど、人智を超える可能性もある。

その理由が、ロマンだから、だったら、なんとなく気持ち悪い。

そうすると、あの大戦争で日本を征服した白人たちが、二度と逆らわないようにする、と決めたことの意味は、真剣でかつ永遠のテーマなのだとわかるのである。
一時の気まぐれや思いつきではない。

これが、いまだに「征服が解除されない」ことの理由だけど、日本人本人たちにはこれを隠して、独立していると思いこませている邪悪がある。

しかしどうしたことか、異星人も気づくように、これら地球の白人たちが自殺願望をもって弱りはじめている。
今年も、世界経済フォーラムがスイスのダボスではじまった。

ときを同じくして、アメリカでは「ガスコンロ使用禁止」の政治キャンペーンがはじまって、それが、コロナ・パンデミックと同様の、「恐怖感」を煽る手法なもんだから、さすがに「おかしい」という声で内輪もめになっている。

なんでも、アメリカでの小児ぜんそくの原因がガスコンロらしい。

こんな「屁理屈」をいうのは、もう、黙っていられなくなったのが、支配する方になったからだろう。
これに黙っていられなくなったひとたちが、多数、訴訟で対抗している。

焦っているのは、世界経済フォーラム側なのである。

そんな空気も読めない、神奈川県民の生き恥さらしのお二人が、大臣の肩書きでスイスに出かけた。
横須賀の小泉進次郎氏と、平塚・茅ヶ崎の河野太郎氏だ。
このひとたちは、金の匂いに釣られるだけの愚か者である。

もちろん、ワシントンで機密文書問題から逃げたいバイデン氏を、みごとに庇った、同盟者の岸田総理大臣は、この二人の出張許可を悦んで出したにちがいない。
すると、公費での外国旅行だから、国民はロマンがあるとして許してくれるばかりか、当然だと思っているのかしらん?

「アイヌ新法」という分断と、「ふるさと納税」という自治の財源破壊をやって、全国最高額の市民税流出となった横浜市にした元凶を、横浜市西区、南区、港南区のひとたちは、ウルトラ小さな白人化を遂げて、菅義偉氏を落選させず、自殺願望の成就こそが「生きる道」だと信じているのか?

そんなことはなく、政治家本人たちも、これに疑いなく投票するひとたちも、みな、思考することをやめた「大衆」のなれの果てなのである。

異星人は、ここまで探査して、絶望したのかもしれないし、あくまでも、植物が支配する星だと結論づけたかもしれない。

だがもっと科学が進んでいるならば、5億光年先の宇宙の壁にあるという、量子で書かれた宇宙の全情報をとっくに把握しているかもしれない。
だとしたら、現場の地球とこの情報を突き合わせて、地球の未来を確信して立ち去ったのだとすれば、取り残されたのは我々の方なのである。

バカは相手にしたら損だと。
そうして、人類亡き後の地球に移住するチャンスを待っているかもしれない。

そうそう、ダボス会議でEUのフォン・デア・ライエン委員長とフィンランドの首相は共に(たまたまふたりとも女性だ)、「ウクライナをロシアが負けるまで、永久戦争とする」ことを表明して、本格的に第三次世界大戦にしたいようだ。

遠くで、異星人がニヤニヤしながら観ていることだろう。

言葉の乱れは社会の乱れ

日本語を母語にしているから、日本人は日本語の達人か?といわれれば、困ってしまう。
わたしが使っている日本語は、正しい日本語なのか?を確かめる術が生活の周辺にないからである。

むかしは、NHKのアナウンサーが話す日本語が、正しい日本語だと習ったし、信じていたけど、それは、明治期につくられたあたらしい「標準語」なるものを起点にしていた。

そのNHKが、1985年(昭和60年)に、『ドラマ人間模様 「國語元年」』(井上ひさし原作)として放送したのを思い出した。

横浜には、ラッキーなことに全国でここだけの「放送ライブラリー」があるので、久しぶりに足を運んできた。
本作は5回シリーズであったけど、残念ながら初回分しか登録がなかった。

しかし、その出演者たちの多くがすでに鬼籍にあるかと思うと、時間の経過とこの作品の現在的価値の高さが身に沁みたのである。

まさにアーカイブの価値を発揮している。

放送ライブラリーでは、鑑賞のためブースを指定されて、その利用時間は2時間まで/回/日となっている。

自席で検索して視聴する番組などを選ぶのだが、同時に1983年(昭和58年)3月7日に教育テレビで放送された、『日本語を決めたのは誰だ(1)「戦後国語改革」』がヒットした。
これも全2回のうちの初回放送分だけが視聴できる。

これら2本を合わせても、既定の2時間に収まるのでついでだから両方とも観てきた。

ハッキリ言って、みるべき観光地なんてめったにない横浜で、この「放送ライブラリー」は、全国的に稀有な施設だから、たまに横浜を観光したいという向きには、お勧めなのである。

もちろん、入場も何もぜんぶ無料である。
放送文化に浸った後は、徒歩で中華街にも行けるけど、いまやお勧めできるお店が限られるのが難なのだ。

なお、『國語元年』は、放送後に舞台用としてシナリオが出版されている。

なので、続きはシナリオで確認したい。

蛇足になるが、このドラマは一応事実から書き起こしている。
江戸時代の中央集権はかなり緩くて、全国に「お国言葉」が蔓延っていたから、地方出身者が集まると言葉が通じないのは、コメディーではない。

最大のネックは、「富国強兵」のための国軍の指揮命令に、上官(薩摩、長州、土佐とか)の発する言葉がその他からの兵に通じない深刻だった。
それで、「話し言葉の統一」という、かつての天下人も成し得なかった偉業をやれと命じられた、上級役人を主人公にする人間模様なのである。

新政府を仕切った「薩・長」間で仲が悪かった理由に、薩摩弁と長州弁の互いの言葉が通じない、という基礎的な指摘は納得以外にない。

為政者にしてこれだから、日本語の統一は、フランス革命で「唯一の成果」といわれる、「フランス語統一」に匹敵するか、それ以上の難易度だった。

それでも、日本語統一が深刻な政治課題であったことと、「言文一致運動」とが結託して、いまに続く日本語になったわけではない。
それが、「戦後日本語改革」という、巨大な日本文化への破壊工作だったのである。

たまたまヒットしたことで、理解が深まったのはたいへんありがたいことだ。
もちろん、NHKの意図は、この逆だろうけど。

日本人は、「敗戦」を「終戦」といったり、「征服」を「占領」と言い換えたりして、自己欺瞞をしている。

8月15日は、確かに「終戦=停戦」と「武装解除命令」が出た日ではあるけれど、9月2日にちゃんと「敗戦」している。
『降伏文書』に調印したからだ。

しかし、我が国が降伏した理由は、『ポツダム宣言』の「受諾」を根拠としているから、降伏もポツダム宣言に基づくことに同意したという意味なのである。

何度も書くが、我が国が「無条件降伏」したのは、陸海軍という「戦闘組織」だけであって、日本国政府は、ポツダム宣言の範囲で、という、「条件降伏」をしたのである。

にもかかわらず、マスコミは「無条件降伏」としかいわないで、政府なのか軍なのかをはっきりいわない欺瞞を国民になすりつけているし、学校でも戦争前までしか教えない欺瞞をやっているので、直近の近代史をしらされないで、しらないままに成人するというおぞましき事態になっても、これに気づかせないから気づかない。

「条件降伏」だったものを天皇を人質にして大っぴらに破って、日本を「征服にやってきた」GHQは、早速に日本語を「ローマ字表記」させようと画策する。

これに呼応した日本人学者は多数いたし、いまもいる。
わたしが尊敬している、梅棹忠夫先生が、どういうわけかローマ字表記論者だったのは、いまだに理解できない。

けれども、この解説番組を観て、一つのことがわかった。
それは、知識人たちによる上から目線の、一般人に対する「憐憫(あわれみ)の情」なのだ。

かんたんにいえば、バカにしているのだけれども、それを「民主主義」とか、「庶民の文化向上」と甘言をいっている。

漢字の数を減らして、簡略化もし、やさしい表記にさえすれば、国民文化は発展向上するのだ、という。
それが証拠に、世界に誇る新聞の普及や出版文化がかくも花開いたではないか、と。

共同通信のえらいひとが、活字の種類が減ったのが、出版社の発展に寄与したという、知能を疑う「珍説」を真面目に語るのを初めて聞いた。
それでいまの共同通信があるのだと納得できた。

これら「表音派」に対して、「表意派」は、何をバカなことをといいながら、これがGHQの企図した「愚民化工作」なのだということに、どこまで気づいていたものか?までには及んでいない。

あえていえば、「表音派」は、損益計算のごとく「フロー」を主張し、「表意派」は、文化の「ストック(資産価値:貸借対照表)」を掲げての対立という不毛が、政治利用されたのだった。

しかし直感的に怪しんだその代表者は、やっぱり、福田恒存氏であった。
氏の生前の映像と音声が聴けただけでも、価値がある。

いま、言葉の乱れを超えて、文化の劣化をどうみるのか?を問えば、まさに福田氏のいう通りの事態(「もうどうにもならない」)となって、出版文化の向上どころか無様こそ物的証拠にもなっている。

もう、いまでは、珍説を述べて政治力を行使した人たちの責任を問うひとも絶えてしまった。

一度破壊された文化は二度と元には戻らない、は、近代日本人が世界に示した「実例」として、歴史に刻まれたのである。

まぁ、お隣の大国も、「文化大革命」をやって修復不可能にしたし、半島の南側も、「ハングル文字だけ」にして、もう漢字を使うこともできなくなったから、なんだか東アジアという地域は、歴史や文化の破壊がお好きな共通があるのであるけれど。