犬とA.I.と人間と

人間の子供の数より、ペット(愛玩目的)の犬の方が多数になった我が国が、動物虐待先進国であるという不名誉な状態が続いている。

これは、なぜか決まっている法改正のための「期間」があって、2005年の改正で「5年ごと」と決めた。
だからかなぜか国会議員もこの決まりに従っていて、5年ごとに悔しい思いをしている人たちがいる。

必要とあらば、いつでも悪法を正すのが国会議員のはずなのに、「だって5年に一回の改正だもん」といって逃げるのである。

もちろん、「法改正の条文起案事務」を全面的に取り扱っているのが、担当する官僚だから、その官僚たちのスケジュールに、国会議員が依存していることの問題がここにもある、にすぎない。

わが国国会は、ぜんぜん立法機関ではなくて、たんなる「承認機関」になっている。
この縮小版が、民間の「株主総会」になって、みごとな形骸化をしているのである。

「法体系」を重視すれば、たとえ少しの改正であっても他の法律に影響しないかを調べて、関連法の全部を改正しないといけないと考えるのが日本の優秀な役人の習性になっている。

一方で、ヨーロッパの「法治」から発生したアメリカ合衆国では、新しくできた法が優先するという原則ができている。
これは現状に迅速に対応するメリットは大きいが、「法体系」としての整合性にはどうしても劣る。

それでもって、どっちなの?という解釈が自然に裁判依存の国になる元となっている。

だからむかしの日本人は、そんな様を野蛮だとして馬鹿にしていたものだった。
ただし、このアメリカのやり方は、必然的に「歴史」を意識しないといけない。
なので、突如、「埋没していた法律」が、現代に蘇って(忘れられていた法が発掘される)、その後の改正がないならば、それがそのまま適用される。

新しくて歴史がない国だ、といっても建国から250年弱。
一方、わが国は、軍事占領が終了(被征服は継続中だが)して、たかが71年しかない、あたらしい国なのに、都合によっては、2000年の歴史をいって自己満足している。

なので、「主権回復」から幾星霜、たかが20年もしない70年代までに、すっかりアメリカナイズされたものが、前世紀末からのもっと激しいグローバル化で、日本人もすっかり野蛮に劣化した。

いまさら三島由紀夫が見直されるのは、いまの若い世代に意味があることとはいえ、あのとき三島を嘲笑った人たちは今、後期高齢者という世代のことである。
この意味で、さいきん人気の成田悠輔氏が発言した、「高齢者の集団自決」が物議を醸すのは、三島からのブーメランなのだと思えば、説得力があるものだ。

三島は見るに耐えない日本の将来を見たくないと自決したが、その予言通りに見るに耐えない日本にしたのは、この世代、なのである。
故に、「敬老」の概念すら陳腐化する。
いわゆる、日本版の紅衛兵がこの世代なのだった。

いま、犬に散歩に連れて行ってもらっている高齢者がそれだ。
犬を犬として扱えない。
この精神の貧困(脆弱化)は、とにかく好きなように漫然として生きてきたゆえの姿だ。

それでもって、犬にまじめに幼児語で話しかける。

日本経済を高度成長に導いたのは、明治中期以降に生まれたひとたちで、不思議と大正世代ではない。
むしろ、大正世代こそ戦争に駆り出されて名誉の戦死を遂げたのである。
その大正世代を冷ややかに嗤ったのが、いまの後期高齢者たちだった。

つまり、明治の反骨(じつは「真理は自然科学にあって、社会科学にはない」という精神」)がつくった繁栄に、「ただ乗り」してきたのだ。

これをむかしは、「薩摩守」といっていた。
『平家物語』にある、「忠度(ただのり)の都落ち」でいう、平清盛の異母弟が薩摩守だったことの、雅な隠語を庶民がふつうにつかっていた。

その「(薩摩守)ただ乗り」の安易が、犬を犬として扱えない無惨な姿になっている。

なので、どんな小型犬でも扱いに辟易すると、すぐさま飼育放棄をする人が絶えない。
扱いに辟易するのは、犬のストレス=心理を理解しようともしないでいた結果に過ぎない。
けれども、可愛くなくなったならば、愛玩の目的を果たさないので、自分でなくて犬を処分するのである。

こうした人たちが選挙権を持っているので、5年に一回の法改正でもぜんぜん改善しない。
こんなことだけに、民主主義が機能して、ポピュリズムをつくっている。
一度でも飼育放棄したひとには、生体を飼育させてはならない。

先進国のアメリカでは、政治問題の上位に必ず、「中絶問題」が挙がる。

これが彼の国の大問題なのは、正規の夫婦間に生まれる子供よりも、非正規で生まれる子供の数が多いからだ。
つまるところ、「夫婦制度=婚姻」というものが崩壊しているばかりか、暴行による妊娠も無視できない。

それで、人権を強調する民主党は、中絶を認めてこれを女性の権利というけれど、中絶に失敗して誕生した子供を医師が処分することも認めようとしている。
共和党は、これを殺人だとして、法改正による医師への処分を提案した。
アメリカでは、人間が犬扱いされている。

さてそれで、A.I.である。

バーチャル世界だけでなく、ふつうにスマホを使っていても、A.I.がコントロールしていることに気づく。
思わず、機械の優秀性を褒めたくなるが、絶対に忘れてはならないのは、A.I.とはプログラムだということだ。

かならずそのプログラムを書いたのは、人間なのである。

犬を犬として認識できない後期高齢者たちの絶望とは、A.I.がプログラムだということすら気づかない(かんがえを及ぼさない)。
なので、それを書いた人間の存在もわからないから、ぜんぶ機械の進歩だと信じるのだ。

そうやって、個人情報を抜き取られても、5%の還元が「お得」ということに疑いも持たず、プログラムを書いた人間の支配下に喜んで与する。

犬の悲劇が、全人類の悲惨になるといわれても、残りの自分の人生では関係ないと思うのは、すでに孫やもっと後の自分の血統さえ知ったこっちゃない、という安易なのである。
だからか、さいきんでは犬すらも、血統を重視せず、「ミックス」といいだして、「雑種」をよろこんでいるのは、人間である自分の子孫を意識しないことのあらわれなのである。

これは、個人主義ではなく、ただの自己中で、今だけ、カネだけ、自分だけ、という堕落した価値観に感染したことの結果だ。

成田氏の言い方は直接的であったけど、もはや笑えない真実になっている。

ただ一つ、いまの後期高齢者たちを弁護すれば、戦後教育の犠牲者たちだという、これまた悲惨な事実なのである。
動物に育てられた人間は、動物になる。
人間は、人間に育てられないといけない。

すると、ちゃんとした人間にプログラミングをされた教育ロボットに育てられたら?と思うのは、やっぱり安易なのである。

なにをもって「ちゃんと」しているのか?の見分けがつかない時代になったからである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください