「国葬」でかます英国のおとぼけ

エリザベスⅡ世の「国葬」をめぐっての、手際のよさは、下準備の周到さのあらわれであることは、どんな「計画立案者」にもすぐに理解できることである。

これは、昭和天皇のときにもいえたことだから、なにもここで英国人を褒めることではない。

それよりも、「ご立派」なのは、弔問外交における「全方位」をあっさりやめて、自己主張をしっかり打ち出したことである。
つまり、英国政府がだした「招待」を、無意味にした英国議会の「特定国代表の女王棺エリアへの入場拒否」のことである。

この特定国とは、「中共」のことで、しっかり「名指しした」のだった。

つまり、政府は「どうぞ」で、議会は「拒否した」のだ。
これは当然に、「三権分立」の常識だし、権力の序列では、議会が政府の「上」にあることも、その制度上から当然である。

また、この議会の決定も、国葬参列自体を拒否してはいない、という狡猾さがあって、入れないのは「棺周辺だけ」なのである。
しかし、各国参列者が棺を廻るのに、その国の弔問者だけは遠目からみているしかないことになる。

せっかく遠方からやってくる弔問客に「礼を欠く」のはいかがか?という意見もあろうけど、「いやなものは嫌だ」と決めたのは「喪主側」だから、どうしようもない。

英国政府も、相手が議会だからどうしようもない、といっている。
まるで、この間のペロシ下院議長の台湾訪問に、議会のことだからどうしようもないといった、バイデンのホワイトハウスとおなじだ。

これはもしや、新国王の意向なのか、それとも遺言的な意趣返しなのか?はわからない。
それは、2015年10月に英国を訪問した、習近平氏一行の「不遜な態度」を指す。

女王が、「とても失礼」と発言したのを、報道される「異例」が記憶に新しい。

世界でのプロトコール上、最上位になるわが国天皇が、こんな発言をするはずもないので、序列二位の英女王がいったとは、なかなかの「ご憤慨」ぶりがわかったものである。

ただ、歴史的に、現代英王室の「あたらしさ」と、アングロサクソン元来の「野蛮さ」を加味すれば、さもありなん、ではあった。

もちろん、英国と清国はたいへんな歴史的関係にあって、なにしろ「アヘン戦争」をやらかした「カネの亡者」としての野蛮ぶりは、現代史にも影響している。

アヘン戦争による清国の疲弊が、辛亥革命となって、それがまた中共を成立せしめたからである。
わが国は、その辛亥革命の当事者たちを「匿って」なお、「支援」もしたので、あんがいと「革命の輸出」をやったのである。

いまのように、なんにもしないことが「正義」ではなかった。

それだから、「被害者」としての立場を、「対日本向け」にやったら、やたらと援助された成功体験が、習氏一行の横柄さになったのだとすれば、英国人の筋の通し方は、日本人への当てつけにもなったのである。

逆に、習氏一行の、日本への逆恨みとなったやもしれぬ。

とはいえ、当事者たる日本人が、こんなことで日本が関係しているとは微塵も思わないという、歴史的にも稀にみる「ボケ状態」だということにも気づかない深刻さがあるのだ。

ほぼ同時期に挙行される、日・英の「国葬」における、両国の「性格」がでているのは、個人各家の葬儀での「性格」の延長線なのである。
冠婚葬祭の厄介とは、その家々の性格が外に出ることにある。

そんなわけで、すでに「終身皇帝」の身分を、内輪で受けている習氏一派からしたら、おもわぬ「弾」が飛んできた。
それもそのはずで、すでに英国は、グローバリストによって完全支配されている国だからである。

すなわち、グローバリストの仲間である、江沢民派への弾圧をやめさせたい。

江沢民派こそ、欧米グローバル大企業の「権益の源泉」だった。
いったい、江氏一家は、いかほどの富を得たのか?については、2020年最後(11月)のスイスの国民投票があったときに、ほんの少しだけ情報漏洩した。

「否決」されたこのときの「選択」は、やんわりと、「スイス企業が外国で行う活動による人権侵害や環境被害に対する法的責任を企業に問うことができるようにする件」だった。

この「スイス企業」には、「銀行」も含まれる。
要は、「やばい相手の口座凍結」の可否が問われたのだった。

投票に先立ち、議会の「否決勧告」もあって、「無事否決」されたけど、もはやアメリカからの圧力で「秘密が保持されない」スイス銀行の個人中国名口座の実態が報じられたのである。

なお、この時点でアメリカは、共和党トランプ政権だった。

それで、全部で約5000口座にある残高が、日本円換算で1400兆円以上だったのである。

日本人全員の資産に匹敵する富があった。
江氏個人の口座は5つで、足せばもちろんかんたんに「兆」を超えるどころか、ゼロが二つ付くといわれたものだ。

英国の「弔問外交」の狡猾さが、だんだんと『ゴッドファーザー』の「別室」での出来事とおなじにみえてきた。

日本の「国葬」ではどうなのか?

サマルカンドの会談は怪談か?

「アジアはない」と断言したのは、文化勲章受章者にして、初代国立民族学博物館館長だった、「知の巨人」梅棹忠夫氏の言葉である。
せめて、「西洋」と「東洋」の間ということで、「中洋」という用語を提案もされている。

その「中洋」とは、いわば「中央アジア」一帯のことで、シルクロードの各地をまとめて指している。

念のため、「ユネスコ:UNESCO」という、得体の知れない組織が定めた「第一号世界遺産」が、「長安⇔天山回廊の交易路網:シルクロード」とされたけど、各国の「政治」のたまものであることに変わりはなく、インド経由の交易網、あるいは「海洋のシルクロード」は無視された。

なぜか繁盛店だったのに、横浜中華街から消えた店に、「中央アジア料理」の専門店があった。
店側は「郷土料理」をうたっていたが、エジプト暮らしをしたわたしにも、砂漠の「郷土料理」の感じが強かった。

生態学者として踏破した梅棹先生が、歩いて得たものと、わたしのような「素人」が感じたことが一致したのは、自分なりに感動的なのである。
つまるところ、かつての起点「長安」(現西安)近辺の郷土料理は、アラブ・遊牧民の料理とそっくりなのである。

この地域間の距離は、気が遠くなるほどだけど、砂漠とオアシスの波状攻撃的な繰り返しによって、実態は「おなじ」という、空前の「空白地帯」なのである。
つまり、地図を蛇腹に畳んで長安とアラブだけを見ても、生活実態に変化はないのだ、と。

それで、畳まれて見えなくなる地域にある国々が、「スタン国」なのである。
国名に「スタン」がつく。
いまは、さまざまな「事情」から、スタンをはずしている国もあるけれど。

たとえば、いま「新疆ウイグル自治区」と呼ばされている地域は、むかし「東トルキスタン」といった。
この地域が、トルコ人の「故郷」なのである。
なぜか、トルコ人は「西移動」した民族なのである。

あるいは、いまの「キルギス」は、ちょっと前まで「キルギ・スタン」だった。
それで、「スタン国」の西の果てが、「トルクメニ・スタン」と「アフガニ・スタン」なのである。

ちなみに、アフガニスタンの隣国は、西にイラン、東に「パキ・スタン」で、北は「タジキ・スタン」と「ウズベキ・スタン」なのである。

そのウズベキスタンの要衝が、サマルカンドだ。
首都は、タシュケント。

15日、そのサマルカンドで開催中の、「上海協力機構(SCO)」首脳会議という名目で、ロシアのプーチン大統領と中国の習近平氏が「会談」したことが「ニュース」になっている。

この「ニュース」には、「ふたつ」のニュースが混じっている。
ひとつは、露・中のウクライナ協力がどうなるのか?
ひとつは、習氏の「外遊」で、なんと2年8ヶ月ぶりに国外に出たことだ。

「コロナ後初」という日本語記事が目立つのは、あたかも「コロナ収束」をイメージさせるプロパガンダで、来月の「皇帝就任」が確定したことを隠す記法になっている。

つまり、「大々的に」皇帝就任記事を書きたてたい、という事前の演出だ。

もちろん、「ゼロ・コロナ」として上海市を封鎖したのは、敵対する「上海閥=江沢民派」への「大弾圧・逮捕」の方便だったことも一切書かないし、世界のグローバリストと奮闘しているのが、習氏の派閥であることも書かない。

だから、江沢民派を応援したいグローバリストにせがまれて、アメリカ連邦下院議長が「訪台」したと、このブログでは「書いた」のである。

ところで、「先遣隊」として、ロシア高官と事前会談したのは、習氏の側近中の側近といわれる人物だった。
このひとの「中国語が変」ということも、ロシア側がリークして、珍しくも「音声付き映像」を放映してしまった。

このひとの「声」を一般人が聞くのは、はじめてらしい。

なお、この「ロシア高官」とは、プーチン氏の「女房役」、メドベージェフ氏なのである。
首相と大統領を交互にやって、大統領時代には「プーチン首相」の好きにさせたひとである。

一方で、「中国語の発音が変」なひととは、「実力皇帝秘書」の素性がしれる事態になったので注目されている。
それが、典型的「農民」の言葉遣いだと。

「脅し」を商売にしてきた、旧ソ連と現役中共のつばぜり合いなのだ。

このニュースで、元NATO総司令官だった、ジェイムズ・スタヴリディスと、元米軍特殊部隊でノンフィクション作家のエリオット・アッカーマンの共著、『2034米中戦争』(2021年、二見書房)での「表記」を思い出させてくれた。

あゝ、リアルなんだ。

さてそれで、ロシアと中国の関係がより深くなるように仕向けているグローバリストたちの思惑はなんなのか?
なんだか、破滅的、なのである。

一方で、ヨーロッパは、「冬」をにらんで一般家庭での「凍死」が危惧されるようになったのは、「冗談」ではない。
それでも、「温暖化阻止・脱炭素」をやめないのは、EU委員長のフォン・デア・ライエン氏である。

EUは、加盟国民による「選挙で選ばれない」官僚トップのEU委員長が、一種の独裁的権限を有する、やばい組織なのである。
「EU議会」とか、「EU大統領」とかは、「お飾り」の建て付けになっている。

『スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲』 (1980年)にでてきた、温和な銀河共和国の元老院最高議長が、じつは最悪の「ダース・シディアス」だったのにそっくりなのだ。

それで、フォン・デア・ライエン氏は、15日、プーチン氏を「国際刑事裁判所(ICC)」に提訴すべきと発言した。
まさに、サマルカンドでの両首脳会談に当てつけている。
もう、「怪談」なのだ。

『ファイナルファンタジーⅩ』の「ザナルカンド」になっているのか?

いやいやおじさんとしては、やっぱり「ジェダイ」の登場と活躍に期待したいのであった。
しかして、もはやこれこそが「ファイナル・ファンタジー」か?

「顧客カード」を廃止して欲しい

世にいう「ポイント」や「スタンプ」のカードもおなじである。

前に、顧客カードで財布が膨らむのがいやだ、と書いた。
だから、「お得なポイント・カードをお作りしますか?」とお店のひとにいわれたら、断ることにしている。

それで次回から、「カードをお持ちですか?」とレジでいわれて「ありません」といえば、ポイントが付かないことで、妙に損をした気になるのである。

それでもこの手のカードを持ちたくない。
財布以外に、「カード入れ」を買って、そこに様々なカードを入れたら、驚くほど入りきれずに「膨らんだ」ことがある。

多分使わないだろう、と持ち歩かずにカード入れに保管していると、なぜか、財布にない状態で当該店舗にて買い物をしてしまう。
それで、「ポイント・カードをお持ちですか?」といつものように聞かれて、「忘れた」とこたえると、レシートにポイントを書いてくれる店と、その場で権利落ちの店とに分かれる。

レシートにポイントを書いてくれる店は、このレシートとポイント・カードを持ってくればポイントを付与しますというし、場合によっては2週間以内とかの条件が付くこともある。

ポイント付与しか用事がない店にわざわざ行く気がしないから、たいがいは「権利放棄」するのである。
それでまた、思い出しては「損をした気になる」のである。

つまり、「お得なポイント」とは、お店にとっての「お得」ばかりで、客にとっての「お得」はない。
いつ気分で、買い物するかわからないからといって、あのカード入れをふだんから持ち歩くのは、獲得ポイントに見合わないと思うからである。

それでも財布には何枚か入っている。
だから、当該店舗のレジ前で、トランプのカードを自分で引くようなことをするのだ。

家電量販店は、「ポイント・サービス」として、たいがいが「スマホ・アプリ」にもなっている。
それでも「カード」を持ち歩いているのは、スマホを「読み取り機」になるべくかざしたくないからである。

残念ながら、「アプリ」をダウンロードしたときに、認証しないといけない「利用規約」をしっかり読んでいないから、自分がなにを「許可した」のかが自分でわからないままなのである。

これは、「LINEの話」でも書いたけど、利用者はその「リスク」を認識してはいないから、「安心して」利用しているにちがいない。
すると、企業がさまざまなサービスを「LINE」を媒介して行うことの、「社会的責任」をどうかんがえるのか?

LINEユーザーがたくさんいるから、自社のマーケティング上、LINEを介したサービスを提供する、という発想では、「順番」がちがう。
自社の大切な顧客の個人情報が、プラットフォーム提供者にも「抜かれる」ことの重大性を鑑みれば、企業としてそのような手段を選んで、顧客に使わせていいものか?になるからである。

しかし、いまの「法務部」は、企業にしろLINE側にしろ、顧客自身が、「利用規約」を「読んで」から、「許可ボタン」をポチっていることをもって、利用者の「自己責任」としているのである。

これをまた利用者が、「しらない」という「暗黒状態」なのである。

つまるところ、やっぱりぶ厚くなる「紙のカード」同様に、たとえスマホ一台の携行で済むにせよ、客が損をする構造になっている。
支配と被支配の関係が、こんな身近なところにもあるのだけれど、被支配者の「企業への信頼」が、自身を無防備にさせているとは。

しかし、一方で、自分の個人情報なんて「どうでもいい価値なのだ」という割り切りだって、「あり」なのである。
それなので、レジでスマホをいじって「なんとかPAY」を決済手段にしているひとを、わたしは眺めているのである。

確信的か無知かのどちらかだけど、もちろんわたしには関係ない。

ところで、こうした決済手段が「増える」ことは、店舗側にも負担になる。
それでもって、対応機器を設置した店舗側に、どんな情報が提供されるか?が、なぜか無関心のばあいがある。

これは、「満願」となったスタンプ・カードを差し出せば、商品交換できるようになっている「紙のスタンプ・カード」にもいえて、ここに「個人情報の記載」を求めないことが多いのだ。

もちろん、その情報をなにに使うのか?とか、得た情報の管理とか、店側の負担になるような説明表記をしないといけないのが面倒だ、ということもあるだろう。

けれども、せっかくのスタンプ・カードが、商売にとっての「無料券」に転換される「だけ」でいいのか?という疑問もあるのだ。
たとえば、「満願」になるだけ通ってくれたお客様の、せめて「苗字だけでも」欲しくないのか?

あるいは、「市町村までだけ」の住所とか、あるいは、地方や郊外立地ほど、駐車場にとめた自動車のナンバーと「お名前」の情報連携とか。

政府は、「DX:デジタルトランスフォーメーション」なる、横文字をつかいたがって、予算をばらまいて利権化したいのだろうけど、紙のスタンプ・カードの情報利用だって、十分立派な「DX」なのである。

せめて、名前で呼ばれるとうれしい、を実現してほしいものなのだ。

英語の本を自動翻訳で読む

「機械翻訳」ともいうけれど、近年顕著な「進歩」を遂げている分野にあたる。

人類の祖先がDNAから特定されて、そのまた「血の分岐」がさかんに研究されている。
縄文人の「歯髄」が採取されたことで、とうとう「日本人の起源」も解明されるかと思いきや、まさかの闇に深入りした。

中国人と朝鮮人との「ちがい」だけがわかってしまって、これらのひとたちよりもはるか昔に日本列島に棲み着いたことが「確認」されたからである。
それで、いったいどういうひとたちが縄文人だったのか?が、わからないままなのである。

現代日本人の半数が、縄文人の子孫だと確認されているので、この「不明」の意味は、そのまま日本人のルーツに影響するのである。
しかも、日本語そのもののルーツもわからないままなのである。
世界の言語体系にまったくそぐわないからだ。

「血」と「言語」の両方共が、「謎の民族」。
これが、「日本人」なのである。

元がアフリカだとわかっているのに、「その後」がわからない。
アフリカ大陸から、世界に「拡散する」には、シナイ半島・アラビア半島を「経由」しないと、「陸路」ではユーラシア大陸に行けない。
いま、「中東」、ちょっと前なら「中近東」と言われる地域を指す。

どちらも、ヨーロッパ側を基点にした物言いである。
この場合、「東」とはインドのことで、インドとの中間だから「中東」なのだし、「中東」よりもヨーロッパに近いあたりを「中近東」と呼んだ。

ヨーロッパの真逆の位置にある日本からは、当然だがぜんぜん「東」ではないし、「近く」もない。
ただ、アフリカ大陸から、どんどん東に移動して、最後の島々に棲み着いた(この先は広大な太平洋)のが日本人の祖先たちなので、「中間分岐点」としての中東の価値は変わらない。

そこで登場したのが、ユダヤ教で、それから、キリスト教、もっと後にイスラム教が生まれた。
しかし、ユダヤ教が「最古」なのではなくて、いまのイラン北部に生まれた「ゾロアスター教」が最古なのである。

だから、ユダヤ教の聖典である『旧約聖書』には、ゾロアスター教の影響があるのは当然で、これがまた「東方の賢者」として、キリスト誕生の預言をする話の素地になっている。

祖先がおなじ人類の言葉が、どうしてかくも「乱れたのか?」(言語がたくさんできた)の答を示すのが、「バベルの塔伝説」だ。
旧約聖書「創世記11章1節~9節」にある。
「ノアの箱舟」の後の話のなかで最大イベントになっている。

ゆえに、この言語の障害を取り除くのは、欧米系人類の「夢」でもある。

それは、「労働の概念」にもあって、人類の「原罪」たる、智恵の実を食したために「労働を強いられた」から、これら宗教のひとたちは、「労働からの解放」を「夢」としている。

労働からの解放とは、働かずに遊んで暮らすこと、つまり、「エデンの園への回帰願望」のことをいう。
なので、マルクスは「アンチテーゼ」として、「働かざる者食うべからず」を共産主義の基本に据えたのだった。

しかし、「その心」は、遊んで暮らすには、「奴隷が必要」なための「方便」だから、世界的大富豪が望む「家系の未来永劫の安泰」と、共産党幹部の思惑が一致するのである。

ちなみに、カール・マルクスの家系は、完全にロスチャイルド家のなかにあって、極貧生活だった、という「美談」は嘘だ。
また、最近の話題提供者たる、グレタちゃんも、ロスチャイルド家のなかにいる(母系)から、突如無名の少女が「国連演説」したのではない。

こうして、ロシア革命の大スポンサーが、いまの世界的大富豪の先祖だったことと一致する。
ロシア・東欧の「農奴(serf)」が、完全なる「奴隷(slave)化」したのであった。

もちろん、「slave」の語源は、スラブ人の「Slav」である。

そんなわけで、「翻訳」に関する「ソフトウェア」が、日本製ではなくて「欧米系・製」なのには、「訳(わけ)」があるのだ。

「日本語を英語」にしたり、「英語を日本語」にすることの「便利さ」を、英語教師が発狂しそうな「精度」で提供していて、それをまた「私塾」の英語講師が活発な利用を受講者に促している。
「答合わせ」になるからだ。

なんだか、算数や数学の授業で、「電卓を使わせない」数学教師の状態に似ている。
先進国で、「教育用電卓」を使用しない国はわが国「だけ」なのである。
もちろん「算盤」すら教えない。

さてそれで、現在最強の翻訳サービスは、「DeepL 翻訳ツール」サイトである。
こちらは、ドイツ製で、「グーグル翻訳」との比較で圧勝している。
無料サービスには制限があるし、指定できる言語数も少ないけれど、まずはお試しを。

「OCR(optical character reader)」の技術によって、紙の本をデジタル化して認識させることができるようになったものの、その手間(「自炊」という)をかんがえると、業者に依頼できなくなった恨みがある。
「著作権」が個人の知的生産活動を阻害している、といえる。

これが、「電子書籍」だと、「スクリーンショット(いわゆる「スクショ」)で、紙の書籍の手間とは比較にならない手軽さが実現した。
そうやって、電子書籍のページをPDF化すれば、OCR機能も自動的に起動して、出来上がったPDFは、原版と見た目もおなじなのに「検索」もできるように生まれ変わるのだ。

わたしは「iPad」を愛用しているのだけれども、どんどん多機能化してレンズも増える「カメラ機能」の方向性が変なのが恨めしい。
紙の本を撮影するに特化した、うまいカメラが欲しいのである。

あとは、「iPhone」に任せればいいのだけれど、デジカメ機能が最小の機種が欲しい。
スマホでふつうに写真を撮る趣味も、関心もないからである。
ましてや、「インスタ映え」をや。

そうやって「撮影」してから、今度は翻訳ソフトやサービスを利用すれば、言語の壁を乗り越えられる時代になってきた。
さすれば、電子書籍ほど、英語だけでなく「洋書」は豊富にあるから、とりあえず「速読レベル」なら、日本語翻訳版の出版を待つまでもない。

どうせなら、一気に全部を翻訳してくれたら、範囲指定の手間も省ける。
すると今度は、「図書検索」という問題が発生するのだ。

この壁をどうやって乗り越えるのかが、ニーズになってきている。

21年目の「9.11」

光陰矢のごとし(Time flies)。

あの日のことはいまでも鮮明に覚えている。
現物の飛行機が、現物のビルに突っ込んでいく。
ありえないほど「衝撃的な映像」が、何度もテレビに映された。
そして、そのビルが「崩壊した」のである。

犠牲者は3000人。

とはいえ、「当初」から疑問が指摘され、さらに「跡地」の地面が核汚染されているという話まであったものだ。
しかしながら、ときのブッシュ(息子)政権は、「テロとの戦い」という新しい戦争を開始した。

そしてそれが、イラク戦争になって、フセイン大統領を逮捕・処刑するに及び、イラクとシリアの混乱はいまにも続いている。
もちろん、テロ組織も健在なのである。

けれども、イラク戦争の口実だった、「大量破壊兵器」は、とうとう発見されず、まっ先に加担したイギリスは、「間違いだった」と正式に認めるまでに追いつめられたが、「主催者」のアメリカ側は「だんまり」を決め込んでいる。

どうしてだんまりを通せるのか?を問えば、軍産複合体の利益に関して、文句をいえないのが、共和党主流派であり、民主党、それにマスコミだからである。
つまり、アメリカの支配層は、「利権」の集合体なのだと、自身で語っているのである。

ところが、その対抗馬が突如出現した。
それが、ドナルド・トランプ氏なのである。
彼は、歯に衣を着せぬ「テレビ・コメンテーター」で人気のひとだった。

「9.11」の直後に、トランプ氏は「爆弾によるビル解体だ」とコメントした。
「ボーイングの飛行機でビルは崩壊なんてしない」。
当時は、多くのひとが「トンデモ話」だとして無視するか嘲笑したという。

しかしながら、トランプ氏の「本業」は、不動産開発つまり、ビルを壊して新しく建てることなのである。
要は、彼はたとえ設計士でなくとも、「建築の専門家」として成功した経営者なのである。

最近になって、このトランプ氏の指摘が、「真実だと」設計士やエンジニアの団体が証明している。
それは、「鉄骨の強度」に関する科学データに基づくものだ。
これを著名な経済学者がまとめて、本にした。

日本語版が望まれるけど、勇気ある出版社があるのか?
ちなみに、電子版を日本語翻訳して読む手段は、とっくにできている。

もちろん、「建築当初から」世界貿易センタービルの設計者も、飛行機の衝突にも耐えられる強度設計をしたと述べている。
「世界一の高さ」を強調したかったのだろうけど、飛行機の衝突を想定して設計したのは事実のようである。

日本ではできない、爆発物によるビル解体は、強度設計図や構造解析から、その「逆」のポイントを編み出して、いかにして「真下」に、しかも適度な「粒度(粉砕度)」にして、後処理を楽にするかも計画される。

いかに広いアメリカとはいえ、隣のビルや道路をいためる訳にはいかないからである。
よって、爆発物によるビル解体とは、高度な科学技術を用いた、職人技なのである。

そんな目線で眺めると、「あのビルの崩壊」は、まったくもって計画的に解体されたとしかあり得ない。
そして、その証拠となる証言まで出てきている。

つまり、飛行機が衝突する前から、所々で火災があった、と。
これは鉄骨を寸断するための予備爆発だったのではないか?
しかも、鉄骨を溶かす温度を得るためには、特殊な薬剤に点火もしないといけない。

政府調査報告にある、火災による家具類の焼失とジェット燃料で、という「鉄骨熔解原因」は、ありえない、と消防や科学者は口を揃える。
これは、「陶器」や「刀剣」を作るひとならすぐにわかるはずだ。
まったくそんなものでは、鉄が溶ける温度に到達するはずがないからである。

じっさいに、倒壊後もこのビルは数週間も燃え続けて、消火作業がはかどらなかったのは、鉄骨溶解用の特殊薬剤の消火が困難だったのでは?という疑問になっている。

それでは、現場の鉄骨をサンプルにして調べればよいのだが、なぜかサッサと「スクラップ」にされて、なんと外国へ輸出されて「再生」してしまった。
この運搬が容易な自然崩壊した鉄骨の「粒度」も、疑問点になっている。

あたかも、物的証拠を隠滅するためか?

そんなわけで、この「発言」以降、トランプ氏の言動はあちら側に敵視されるに及び、いまにつづく言論弾圧の対象になっている。

ところで、ビッグテックによる昨今の「言論統制」について、連邦裁判所があらたな「命令」を司法省に出した。
それは、司法省の職員とビッグテック従業員との間の、「メール公開」だ。
原告は、二つの州の検事長である。

そこで出てきたのが、なんと司法省の意向に沿った「統制実施」のやりとりだった。

トランプ氏は大統領だったけど、自分の政権における「司法省」は、ぜんぜん大統領の意向に従わなかった。
これぞ、「官僚組織」であるけれど、日本とちがって政権交代すれば国家公務員の管理職級も総取っ替えになるはずがアメリカの制度だったはずだ。

しかし、前にも書いたように、カーター政権でつくった「終身官僚制」(モデルは日本)があって、これをオバマ氏が悪用・私物化して、「オバマ・チルドレン」の大量採用をやったのだった。

これが、「SES」である。

SESとして採用された、終身高級官僚は、各省庁の「管理職を監督する立場」に付く。
大卒初任給は、20万ドル!なので、世界大学ランキングトップクラス有名校の主に法学部卒業予定者が応募するのである。

もちろん、そっち系の教授たちも「推薦状を書く」ことで、教え子を超高級官僚として政府中枢に送り込むのである。

世界史を変えた、「9.11」と「SES」との関係が、いまも「闇」として存在している。

カナダ野党「保守党」党首選の異変

世界は「混沌」している。
これを示すのが、グローバリズムとナショナリズムの闘いで、それが「決戦」の様相を示してきている。

世界帝国のアメリカでは、11月の中間選挙における、「野党」共和党の勝利がどこまでいくのか?逆に、「与党」民主党がどこまで負けるのか?に注目が移っているほど、ナショナリズムの復権が顕著だ。

その世界帝国の座を狙うことを公言しだした中共は、10月16日からと「中国共産党第20回大会」の開催を発表した。
習氏が「終身制」になるかが注目されるところだが、あんがい早く「日程が発表された」ところから、習派の勝利が確定した可能性が高い。

習派とは、毛沢東を理想とするナショナリズムをかかげるひとたちで、対抗したのはグローバリズムの江沢民派である。
グローバリズムのアメリカ民主党は、日程が決まる前のタイミングで、ペロシ連邦下院議長を台湾に派遣して、習派を牽制させる連携を示したけれど、間に合わなかった模様である。

大陸の熾烈な権力闘争に、哀れな台湾がダシに使われている。
それでもって、台湾危機ともなれば同時に即死するわが国も、おなじくダシに使われているのに、沖縄知事選では親中政権が継続することになるちぐはぐな状態なのだ。

江沢民派の拠点でしられる、上海での強力なロックダウンは、習派によるおそるべき「逮捕劇」があったのではないかと指摘されているのは、当然でもある。

反共のロシア・プーチン氏と習氏が、あんがいと親和性に富んでいるのは、両者がナショナリストという共通で結ばれているからだ。
この意味で、本心はしらないが、安倍氏暗殺の意味は、日本からナショナリストを一掃するための「号砲」だったにちがいない。

フランスでは、「マクロン辞めろ」デモが、再び活発化しているし、エネルギー危機をきっかけに、「環境左翼=グローバリズム」への反発が強まっている。

こないだはノルウェーで、僅か17台ほどのテスラ車オーナーが集まって、10倍になった電気代で、満充電させるのにディーゼル車よりはるかに高額になったとしてのデモもあった。

わが国も、いまは「補助金」で安く購入できるけど、電気自動車が普及したら補助金なんていつでもやめるだろうから、強烈な負担を国民に強いる、グローバリズムの政権がまだ頑張っている。
ただし、野党もほぼぜんぶがグローバリズム政党なので、国民に選択の自由がない悲惨がある。

そんななか、沖縄市議会に参政党の議員が誕生したのは、焼け石に水かもしれないけれど、ひとつの小さな光明だった。

さてそれで、グローバリズムの推進母体である、「世界経済フォーラム:ダボス会議」の秘蔵っ子、カナダのトルドー自由党の支持率凋落と、保守党の復活がめざましい。

くわしくは、「カナダ人ニュース」さんが伝えている。
以下は抜粋である。

カナダの「保守党」も、アメリカの共和党に似ていて、グローバリスト=軍産複合体の代理人たちが「主流派」といった感があった。
2006年から2015年までは、政権与党だったのである。
しかし、それから凋落して、万年野党的な存在になっていた。

10日、そのカナダ保守党の新党首選挙があった。
なんと、2月に党首が「解任」されてから、「党首不在」の状態だったのである。
解任理由は、フリーダム・コンボイ弾圧への反対姿勢の腰砕けだった。

勝ったのは、Pierre Poilievre:ピエール・ポワリエーブル氏(フランス語読み)で、5人で争った一回目の投票で7割弱を獲得し、終わってみれば「圧勝」だった。
しかも、党の区割りの338地区中、330地区で勝利した。

「党内予備選挙」をもって公認候補を選ぶ仕組みが、そのまま「党首選」にも適用されるのは、まったく「近代政党」の要件なのである。
わが国の政党に、これが決定的に欠けている。

それでも驚きなのは、保守党の「党員数」の変化で、昨年比で400%増したのだ。
これは、5倍である。
いかに、一般人が党員になったのか?を示す。

では、このひとの「政見」はどうなのか?
この選挙で訴えたのは、「カナダを地球上で最も自由な国にする」であったという。

トルドー氏の与党「自由党」が、国民から自由を奪う政策ばかりなので、「対極」を示したという安易ではない。
じっさいに、若いときからバリバリの「自由主義者」なのだ。

それで打ち出した「政策」には、
・政府閣僚の世界経済フォーラムへの参加を禁止する
・世界的「農家削減政策(窒素削減)」の撤回
 ⇒オランダ農民一揆の原因のひとつだったが、真因は移民のための住宅建設だった
・炭素税廃止
などがある。

そんなわけで、ベネズエラからの貧しい移民の子が、カナダ人に里子にだされて、とうとう次期首相候補筆頭になったのである。

このダイナミックさも、いまの日本にはないものだ。

なんだか、他力本願なのであった。

「ノーパン」回帰の女性たち

「リスクがあるタイトル」であると自分ながらに思うけど、あえて書いておこうと思ったのは、それが「歴史的なこと」でもあるからだ。

わが国の歴史では、男女とも下着といえば「襦袢:じゅばん」であった。
男性は「下帯」としての「褌:ふんどし」を着用したが、女性は「腰巻き」が通常で、江戸時代前期までの「銭湯:蒸し風呂」では、男女とも「風呂褌」を着用していた。

この「褌」は、男女ともに「はきかえ」たというが、やっぱり男性は「褌」で、女性は「腰巻き(別に「湯文字」ともいう)」であったという。
なお、濡れた風呂褌を包むため、あるいは身仕舞いをするために敷いたのが、「風呂敷」である。

男性は、「褌を締めてかかる」ように、しっかりしておかないと、「(たまが)揺れて」それが続くと苦痛になってくるという事情があるのは、構造上そうなっているからである。

また、小便後に褌の前垂れで「露」を拭き取る行動は、誰かが「父の思い出」として書いている。
もちろん、これを書いたのは、幼かった女の子の目線での「思い出」なのである。

女性の方は、なにしろ「月のもの」がある。
洗ったばかりの赤い腰巻きを、何枚も戸板に貼りつけて乾かしている光景は、長屋住まいの男の子でも、顔を赤らめて通り過ぎたという。
実際問題として、再生和紙を褌に挟んでいたというから、生理の女性用の褌もあったのである。

しかしながら、それ以外の生活で女性が褌をつけることはなかった。
あくまでも、腰巻き、だったのである。
だから、日本人の歴史で、ついこないだまで、「パンツを履いたことはなかった」のである。

それに、和服でパンツを着用していると、しっかりパンティラインが出てしまうのもお困りなので、そうさせない工夫がされる。
その究極にして、昔からふつうが、ノーパンなのである。

太宰治の『斜陽』には、貴族出の「お母さま」が、公園で放尿する場面が描かれているけれど、和服だからできる「技」である。
わたしが子供だったむかしは、あんがいとお婆さんがそのへんで着物をめくって放尿していたふつうがあった。

もちろん、男性の立ちションは、あまりにもふつうだった。
それで、町内の電信柱とか板塀に、赤い鳥居の絵を描いた木札をかける家があった。
やっぱり、匂ったのだろう。

「軽犯罪」となって、立ちションが禁止されたのは、あんがいとニュースになったものである。
いまでは、「公然わいせつ罪」までにもなるから、よりいっそう「厳しく」なってきている。

そういえば、いまでは「伝説」の俳優、故萩原健一が演じた『太陽にほえろ!』での「殉職シーン」は、まさに立ちションの最中での出来事になっている。

さてそれで、「ノーパン睡眠健康法」がじんわりと流行っているとか。

日本では、丸山淳士医博がラジオを通じて1990年代あたりから提唱したというけれど、コロナ禍での自宅待機と健康ブームが重なって、女子高生にも拡がっているらしい。

その効果は、ゴムによる締め付けからリンパが解放されて、熟睡できる、というものだ。
もちろん、「睡眠」の健康効果は否定できないけれども、腹部の圧迫がなくなることで、「便秘解消」も期待できるという。

便秘といえば、むかしから女性の悩みの一つで、それがまた、「お肌」への影響となるから、まさに諸悪の根源なのである。
それに、酷暑による「蒸れ」も、ノーパンならない。

そんなこんなで、一度経験すると、適用範囲が就寝時から徐々に生活行動時間に拡大するという順をたどるのは、人間のサガである。
また、個人のプライバシーが家族内でも保たれるようになったことも、あるいは、「結婚しない」ことも、「普及条件」として重要な点である。

巷間にいわれる、「白木屋火災」(1932年12月16日)における女子従業員の大量死が、和装によるノーパン状態が窓からの飛び降り避難を阻害した、というのは、後付けの洋装下着メーカーによる「デマ」だと証明されていることは何度か書いてきた。

しかしながら、この事件以降、日本人女性はパンツを履くようになったのは、事実なのである。
つまり、昭和7年をエポックにしているのである。

これから、ちょうど90年の時を経て、日本人女性が「ノーパン回帰」しているのだ。
しかも、その理由が、わが国伝統の「健康感覚」との一致がみられることに注目したい。

すると、その次に「和装の復活」はあるのか?に興味がうつる。

いや、その前に、なぜに洋装でパンツを必要とするのか?に考えを向ければ、アウターを汚さないためであった。
しかし、それがたとえ洋装であっても腰巻き状のものであれば、その必要性は裾の長さに依存する。

ロングスカートならまったく腰巻きと形状は似ているので、ミニスカートにおける「見させない」が優先するのである。
ゆえに、「見せパン」なる「防御策」がとられている。

すると、もっと密着する「パンツ:ズボン」が、汚れ防止としての必要性において最大の問題になるのだ。
ならば、メーカーは、ノーパン用の製品を出すのだろうか?
そのための、モニター調査はもう行われているのか?

だったら旅館は、「はだけない浴衣」をもって、ノーパン睡眠を奨励するのか?

妙に、興味は尽きないのである。

いまさら『おしん』を読破した

NHK朝の連続テレビ小説で、空前のブームを巻き起こしたのが、昭和58年(1983年)4月4日から翌59年(1984年)3月31日までの放送だった『おしん』である。

そしてこのドラマは、最初TBSの昼ドラマとして持ち込まれ、NHKでも「ボツ」になったというドラマがある。
それから3年して、NHKテレビ放送30周年記念ドラマとして企画が復活したという。

作者の橋田壽賀子氏によると、シナリオを出版することの抵抗について触れている。
シナリオは本来活字にするものではない、と。
映像になってこそ生きてくる。

しかしながら、台詞を読んで自分なりのイメージをつくるのは、それなりに意味があるのかもしれない。
それで、シナリオを出版することにした、と「序」にある。

もっとも『おしん』は、別に「小説版」もある。
今回読破したのは、「シナリオ版」(全4巻)の方だ。
ちなみに、上述した「ボツ」の経緯は、『おしんの遺言』「はじめに」に橋田氏が書いている。

個人的にわたしが『おしん』を観たのは、「奉公編」だけで小林綾子ちゃんの圧倒的な演技に見とれていた。
丁度、田中裕子にバトンタッチするときに、エジプトへ赴任してしまった。

だから、『おしん』のその後をぜんぜんしらない。
でも、エジプトの空の下にいても、その「大ヒットぶり」だけはしっていた。

テレビを観ない生活をして、10年以上になる。
ニュースも天気予報も観ないで、ふつうに生活にも職業上も困らない。
BSで『おしん』が放送されていると知人から聞いても、観ることができないという事情があって、やっぱりまだ観ていない。

ならばどうして、いまさら『おしん』を「読む」ことにしたのか?ということが、拙稿のテーマである。

それは、わたしの「資本主義研究」の一環なのだ。
わたしには、いまの「資本主義社会」が、「資本主義社会ではない」のではないか?という疑問があるのだ。

このきっかけは、昭和13年(1938年)に出版された、チェスター・バーナードの名著『経営者の役割』における、経営者と労働者の関係にある。

われわれは、てっきり経営者と労働者は「対立するもの」という概念を疑わない、というマルクス主義からの「洗脳」を受けている。
しかし、バーナードはこれを、「完全否定」して、経営者と労働者は「協働する」ことで一致すると証明したのである。

その一致点が、「付加価値創造」であった。

経営者の目的は企業利潤の最大化にある一方で、労働者の目的は賃金の最大化にある。
だから、利益と経費の関係から両者は対立する、という浅はかなかんがえが生まれて、「対立構造」となるようにみえる。

しかし、これこそがマルクスが仕組んだ「破壊工作」そのものであって、付加価値を最大限に創造することに注視すれば、経営者の目的も労働者の目的も同時に達成できるのである。

なぜならば、「付加価値」には、「賃金も含まれる」からである。

わが国の「失われた30年」における、賃金低下は、他の先進国にはみられない「惨状」となっている。
それが逆に、労働者をして「付加価値創造」の意味を気づかせたのに、経営者が相変わらず「人件費削減に躍起になっている」情けない状態なのである。

これは、わが国の経営者が「社内昇格」するということから、新入社員から管理職になるまで、じつは労働組合員だったことに遡ると、「当時」の労組が「対立構造」を信じていたことの恐るべき「記憶」が、いまの経営者に残存しているからであろう。

それが、「こびりついて」はがれない。

すると、わが国の経営者は、いったいどんな研鑽を社内で積んできたのか?ということが、重大な疑念となるのである。
それが、「育ち」という問題になる。

ここに、『おしん』の「育ち」との連関が生まれるのだ。

とくに、酒田の米問屋「加賀屋」の大女将から手ほどきをうけたことが、おしんの一生を左右する「基礎」となったことは、その後の経営者としての絶対的カリスマ要素の根幹を成している。

すると、「大女将」とは、一体何者だったのか?
シナリオには一切ないけど、1900年(明治33年)生まれのおしんからしてどうかんがえても、江戸時代の生まれになって、このひとの「育ち」を想像せざるをえない。

それがまた、酒田という、東京から離れた地域における、江戸時代の残照とその繁栄を想えば、より一層の輝きをもっている。
このことと、山本七平が指摘した『日本資本主義の精神』が合致する。

すなわち、大女将の商売は、信頼を基礎に道徳的な儲けでよしとした、今様の「がめつい儲け主義」ではぜんぜんない。
むしろ、マックス・ウェーバーがいう「禁欲的」でさえある。

すると、アメリカで聖書の次に読まれた、アイン・ランドが主張した、「未完の資本主義」とは、ヨーロッパ、アメリカという「先進国」のことをいうけど、「完成された資本主義」を世界で唯一経験したのは、江戸期から第一次世界大戦の「大戦景気」前までの期間における「日本」だったのではないか?

だとしたら、わが国のいまの凋落は、首相がいう「新しい資本主義」ではなくて、かつての「資本主義」を復活させればよい、ということになる。

これこそが、アイン・ランドが理想とした、「資本主義とは道徳的である」ことの、唯一の具現化であって、それが基盤となる「道徳社会」を構築できるのは、やはり世界で日本人しかいないのである。

橋田壽賀子氏が、「明治生まれの母たちを知っている最後の世代の私たちのつとめだし、母たちへの鎮魂歌なのである」、と『おしん』を書いたことの理由が重いのだ。

そうやって「読む」と、『おしん』は、『ロビンソン・クルーソー』をはるかに凌ぐ、「経済人」なのであって、すくなくとも「ホームドラマ」ではない。

少子化は悪政の結果である

昨日の話に関連する。

あたかも幼児を守るがの「素振り」をするけれど、おそらく「緊急対策」の後に、「本格的対策」を打ち出す気は毛頭ないから、「緊急」なのだろう。
まさに、その場限り、なのである。

厚労大臣に出もどったこないだまで官房長官をやっていたひとが、外国人への生活保護支給について、「法的には間違っているが、人道的には正しい」といったことを述べて物議を醸している。

実際問題として、わが国における「外国人への生活保護支給」のはじまりは、「通達1本」だけなのである。
つまり、「法」を解釈した行政官の「裁量」が根拠になっている。

裏返せば、国会が法的根拠を明記したことが、一度もない、のである。

これは、大蔵省内でも「まじめ」で有名だったひとの、「まじめさゆえ」の発言で、その「正直さ」については、ご立派としかいえない。
しかし、もはや「官僚」ではなくて、国会議員たる政治家なのである。
その人物が、国会の役割を無視していいものか?

さらに、彼がいった「法」とは、「憲法のこと」ではないかとも解釈されて、「違憲」を承知で、「人道優先」とするならば、まったくもってなんでもできる状態で、「憲法」はあってもこれを守る精神の欠如は、完全に憲法の憲法たる根拠を失ったことまで意味するから、重大発言になったのである。

つまり、「日本国憲法は死んでいる」、と。

すなわち、護憲派だろうが改憲派だろうが、死んだものをどうする?という議論になるので、その空しさが顕在化したのである。
ここに、わが国の病根が、とうとう憲法を亡きものにしたことで、完全に「オワコン」になったことを示したのである。

すると、現在、日本国はいったい何を根拠にして運営されているのか?を問えば、「多数決の原理」と「各種法規」だということになった。
それで、これら各種法規を憲法亡きなかで「改正」するには、多数決であればなんでもできることになったのである。

ヒトラーは、「全権委任法」の可決によって独裁権を確立することに成功し、ワイマール憲法はそのまま放置した。
ワイマール憲法の主旨からしたら、全権委任法は違憲ではないか?という議論も、熱狂的な全権委任法への賛成で打ち消されたのだった。

つまり、ワイマール憲法は、とっくに死んでいた。
いや、ドイツ国民によって殺されたのである。

では、日本国憲法はどうかといえば、あたかも「自然死」したごとくにみえるのは、日本国民の「無関心」による。
結局のところ、われわれ日本人は、明治憲法にせよ日本国憲法にせよ、はたまた聖徳太子による十七条憲法にせよ、国民が憲法作成に関与したという経験をもっていない。

なので、憲法とはなにか?について、学校でも習わない。
ただ、国家の最高法規として暗記させられて、三権分立とか自由とか基本的人権とかも一緒に暗記すればそれでよい。

そうやって、憲法を守らないといけないのは「誰か?」ということを暗記させられないので、日本人は日本国民がこぞって憲法を守らないといけない、と思いこまされている。

ヨーロッパ基準になっている「近代民主主義国家の憲法」とは、国民から国家・政府に向けた「命令書」なので、国民自身は憲法を守るも何もない。
憲法を絶対に守らなければならないのは、国家・政府であるから、その中のひとたる「公務員」が、対象になるのである。

これって、行政府だけでなく、裁判所も、国会もだし、地方も同様だ。

そんなわけで、憲法を自然死させたのは、日本国民による国家・政府への監視の無関心だった。
つまり、近代民主主義国家とは、主権者たる「国民」に、相応の「負担」を強いるシステムなのである。

しかしいま、巨大ブーメランとなって国民をなぎ倒しているのは、国民からの命令書を平然と無視し、これを、「人道」だとうそぶくひとたちを「選んだ」という事実に基づいている。

まさに、主権者が主権者たる相応の負担を実質拒否した無関心が、自分たちの未来を奪うことになったのである。

だから、必然的に、国家・政府は「悪魔化」する。
あらゆる「甘言」によって、国民から自主独立の精神を奪い、国家・政府への絶対的な奴隷となす努力が、「国策」になるのである。

もう、おそらく、間に合わないだろうけど、せめてゲーテの『ファウスト』は読んでおくべき一冊なのだ。
あの、ドイツ人たちの現状をみれば、ドイツ人が自国の金字塔的文学を、またまた忘れてしまった結果が、いまだから、日本人にも「効く」ことはうけあいだ。

 

さては、「少子化問題担当相」も、その業務は「少子化促進」なのであった。

何をか言わんや。

園児置き去りの悲劇をかんがえる

まずは亡くなった子への哀悼の意を表します。

さて、話が超拡大して、とうとう総理の指示で「子供担当大臣」と「内閣府の役人」とが会議を開かされて、全国にある「送迎バスがある園」を、緊急点検することになった。
岸田氏は、まったくもって「政治家」なのである。

しかし、一方で、「大きなお世話」でもある。

すでに、全国の県や市が「総点検」モードに入っているので、「二重行政」となるし、国が乗り出せば、県や市の仕事から、「手柄だけ」を奪って、責任は押しつけることが行われるものだ。

さらにいえば、全国の園では、当然に「自主点検」も行われているはずだから、「自主」、「県・市」、「国」と、三重のチェックが入ることになる。
「二度と起こさせない」という意味での、「安全」を図るのは、もちろん結構なことだけど、送迎バスにはどんなリスクがあるのか?という「リスク管理」という視線だけの話しか出てこない不思議がある。

もちろん、直接的な原因は、「安全確保」に対する「うっかりミス」だった。
世の中の「事故」の多くが、この「うっかりミス」が原因だ。
だから、「気をつけましょう」ということになる。

すると、「何を気をつけるのか?」、「何に気をつけるのか?」ということが、本来は議論されないといけないのだけど、「気をつけましょう」で終わってしまうことが多いのである。
なにも「労災」だけが問題ではなく、ひろく心して「安全学」に取り組む必要がある。

それで、一般的に「業務の現場」では、その「チェック・ポイント」については、おおくの場合「指差点呼」が実行されていて、指差点呼をするための「訓練」が先に実施される。
また、社内の安全指導員は、これらの「指差点呼」が行われているかも、「業務点検」のなかで行うことで、「習慣化」させるのである。

ところで、今回の「悲劇」は、運転していた理事長が語った、「園児の確認は同乗の職員がするものだと思っていました」に最大の原因があったと、筆者はかんがえている。
だから、安全指導員的立場からしたら、「なっちゃいない」という感想を抱くことだろう。

そうなると、「バスの運転手」と「乗務員(車掌)」の、「職務分掌」がどうなっていたのか?という問題になって、たとえばこれが「航空機」なら、全責任は「機長が負う」ことからしたら、運転手だった理事長の責任は免れるものではない。

とはいえ、客席の第一次管理者を「乗務員」としたら、運転手は乗務員からの「報国」をさせて、さらに自ら点検することで二重チェックするという体制を構築できる。
相手が「幼児」の場合は、「おとなの常識」だけではリスクがあるという「チェック・ポイント」を設けていなかっただけでなく、職員からの意見もなかったということも、間接的な原因ともなるだろう。

これは、安全を超えた「組織論」である。

すなわち、「組織」の定義にある、「目的・目標をおなじくする」ということの根本が問われるという意味だ。
なお、わたしは、組織の定義に、チェスター・バーナードが提唱した、「二人以上の人々の、意識的に調製された活動または諸力のシステム」であるとおもっている。

目的や目標にむかって「意識的に調製された活動または諸力のシステム」が、組織なのだと。

すると、残念ながら、理事長の発言から、この「組織の定義」を基盤にして、園という組織を運営していたとはおもえないのである。
もしも、このことを深くしっていたら、組織メンバーである職員にも、思考を促すことが日常的に行われていただろうとおもうからである。

こうしたことの「訓練」が、MTP(Management Training Program)なのである。
わが国の製造業に従事するひとには、「おなじみ」だろう。
戦後、マッカーサー指令にもなって製造業界に導入された、より良い組織にするためのマネジメントについての「訓練」なのである。

しかしながら、残念なことに、就労人口がもっともおおい、サービス業に「ほとんど普及していない」のが、MTPなのである。

だから、今回の悲劇は、MTPをしらないがゆえ、ともいえる。

とうぜんだが、組織マネジメントをするには、組織の活動が、何を目的・目標としているのか?という疑問点が必ず現出する。
だから本件の場合は、「送迎バス業務」としたときの、業務フローがある、ことを前提にしないといけないのだが、それも「甘かった」となるのは、けっして「後出しじゃんけん」ではない。

これが、業務設計であり・サービス設計、ひいては「サービス品質管理」となるからだ。

メーカー業務にたとえたら、「検品業務」が穴だらけで、とうとう決定的な「不良」ができてしまって、それが最悪の「死亡事故」になってしまったと捉えるべきなのである。

そんなわけで、マネジメントからの「点検」だけでなく、防止には「訓練実施」が必要な事態に、国家行政はどうしようというのか?が問われているのに、相変わらずの上から目線で「指導してやる」という態度だから、実務を知らないひとたちがよってたかって現場の邪魔をしに行くようなものだ。

すぐさま、MTPの実施をすべきなのに、である。