新幹線は「エコ」ではない

「エコノミー」といえば、経済性があるという意味だ。
やっかいなのが「エコロジー」で、ほんらいは「生態系」のことだった。
紀州が生んだ大天才「南方熊楠」が考案し、そのまま「英語」になったともいう。

熊楠は、明治政府による「神社合祀」への反対運動がきっかけで、いわゆる「鎮守の森」の保護を訴えた。森の保護が海の保護につながると、さいしょに主張したひとだった。
和歌山県田辺市にある無人島「神島」の自然保護に尽力したのは有名で、いまでは立ち入り禁止の島を訪問した、植物学者でもあった昭和天皇の歌碑がある。

特定の人物の名前を御製歌にこめる、ということは、「お立場上」めったにないが、昭和天皇には「熊楠」をうたったものが二首もある。
この歌碑は、そのうちのひとつが刻まれているが、立ち入り禁止だから一般人の目に触れることはない。「神島保護」の成果を褒めたものだ。

とにかく、いまだにあらわれない「大天才」だから、なにをしてもすごいひとで、森羅万象につうじたといっても大袈裟ではない。
最後に、その意味が不明な「南方曼荼羅」を書いて、壮大な宇宙空間に思考がおよんだのであった。

 

しかして、熊楠は科学者であった。
ここが彼の一大特徴なのである。
科学と民俗学、はては、、、と続くから、なに学者といえない。
それで、「知の巨人」というしかないのだ。

日本が「貧しく」なったのは、経済でいうGDPが減ったからということもあるが、精神が貧しくなってしまったのが、もっとも痛い。
経済性をこえて「コスパ」という価値観を最重視しているうちに、経済が傷んでしまったのである。

そして、「エコ」が「エコノミー」のことか、「エコロジー」のことかの区別がつかなくなったから、なんだか「環境問題」への対応が、重要な価値観に変化してしまった。
つまり、「勘違い」である。

一国の社会全体が「勘違い」を起こしても、ふつうは他国との比較から修正が効くものであるが、他国の情報を操作すれば、修正しようということにならない。
つまり、「情報鎖国」が「勘違い」を醸成するのである。

けれども、ふつうは自国の「科学者」が、科学的なアプローチからの「常識」をもって警鐘をならす。
それが「科学者の良心」というものだが、研究費を文科省が独占的に配分するために、「良心」がお金に買われてしまった。

こうして、「御用学者」があらゆる分野でほとんどになったから、多数決で対抗できない。
逆らうと「学会」から追放されて、さらなる研究費が枯渇するようになっている。

文科省の役人は、「学会」を予算配分の道具にしているからである。
そして、文科省が認定した「学会」しか、「学会」と呼称させない。
「認定」するから、わずかでも学会にだって予算が配分されるのである。

役所の縦割りは、いつだって問題になるけれど、役人は学業で優秀だったから、ここ一番になると役所を横断する「関連会議」をつくる。
そうして、関係しそうな役所の役人がぜんぶあつまって、ずる賢い相談をするのである。

なにが「ずる賢い」のかといえば、じぶんの役所の利益になる相談だからだ。
つまり、あつまったすべての役所に利益があるように「調整」するのであって、国民向けの大義も名分もあとから適当にもっともらしくつけるのである。これを「作文」という。

いまや東京から大阪にいくのに、新幹線より飛行機のほうが運賃が安い。
新幹線の料金体系で、何千キロもの距離を移動しようとしたら、とてつもない金額になる。絶対的に、飛行機のほうが安いのだ。

どうしてこうなるのか?

「活動家」の女の子や、アメリカの下院議員のこれまたなぜか女性は、飛行機は「エコじゃない」といって、「乗らない」ばかりか「廃止」をうったえている。

ハイブリッド車や電気自動車が「エコ」だというのは、「走っているときだけ」をいう。
日本の役人も、太陽光発電が「エコ」だというが、これも「発電しているときだけ」をいっているから、物理原理にしたがって、システム全体で「破たん」したのである。

完成車検査で大目玉をくらった自動車会社は、その「太陽光発電」でつくった電気を電気自動車の充電につかうから、こんな「エコ」はないというけれど、いったいいくらの投資がひつようなのか?

10万キロも乗らないで「廃車」にしようものなら、その「ムダ」は、ただ消費者が負担するので、なんのことはない「売り逃げ」だ。
これを推進すると、経済が豊かになると役人はいうが、どんな計算をしているのだろう?計算式が間違っているにちがいない。

産業優先で、売った側が豊かになっても、買った側が貧乏になれば、結局国民の購買力が衰える。
どんどん無駄遣いをしましょう、とケインズ理論を国民に押しつけるのはまともではない。

全部でどうなっているのか?を俯瞰してみれば、ダムが「エコじゃない」のと同様に、あんがい新幹線も「エコじゃない」ことがわかる。
だから、「高額」な料金になるのである。
ただし、その分の「便利さ」に利用客はお金をだしているのである。

鉄道は、「鉄の道」を「全線にわたって」つくらなければならない。
盛り土と高架だけでなく、鉄橋やトンネルがひつようで、できたらできたで「保線」をしないといけない。
これらの材料資源は、自然にあるものを加工しないとつかえない。

JRが新幹線によって、暴利ではなく「適正な利益」をあげているなら、いまの値段が飛行機よりも高いのは、当然なのである。

アメリカ大陸の、大陸横断鉄道が飛行機にとってかわられたのも、「エコノミー」だからだった。
そして、結果的に「エコロジー」でもあるのだ。

「部分だけ」でみると、おおきな間違いをする。
これをみんなで黙っているのは、役人の都合に「忖度」しているからだ。

新幹線があたかも「エコ」で、レジ袋を有料化するのも、行政指定ゴミ袋を強制するのも「エコ」じゃなく、役人の「エゴ」である。

自主的に「言論統制」がおこなわれている。

横浜市が壊れだした

国家の政府を、わが国では「日本政府」とよんでいる。
都道府県や市町村のことを、ぜんぶ「地方自治体」という習慣があるけれど、どれもみんな「地方政府」である。
地方自治法という法律がいいかげんで、都道府県と市町村という「地方政府」の役割がはっきりしていない。

この矛盾をついてきたのが、「大阪都構想」だ。
大阪府と大阪市の「二重行政」をやめさせよう、というはなしと、「都」になると、行政への負担が増していまより「非効率」になるというはなしが混じっている。

まるで、ガソリンスタンドをセルフにしたら火災が起きる、というはなしに似ているのがミソである。

ほんらいなら、「二重行政」をさせることになっている、「地方自治法」を改正すればよいのだが、「なりゆき政府」の日本政府と国会はなにもしないしなにもできない。
その「二重」さに「利権」があるからである。

ならばと、選挙をつうじて「都構想」を強行しようということは、わが国で最後にのこった「民主主義」の力である。
共産主義的中央集権国家に成り下がった東京の発想を、ぶったぎる大阪人の心意気ともいえるから、妙に「痛快」なのである。

わたしが子どものころまで、大蔵大臣がかわると、真っ先に大阪にいって、関西経済人と顔見せの挨拶をしていたのが、もう、見向きもしなくなった。

大阪や関西経済の衰退がそうさせる、というはなしができているが、順番が逆である。
日本政府の経済政策が、わざと関西経済を衰退させたのである。

残念なことに、その「政策」に、ときの関西経済人が「乗って」しまった。
まるで、「大阪冬の陣」の後における、大阪城外堀を埋めさせた徳川方の謀略にまんまとかかった豊臣方のようにだ。

「大阪都構想」と「大阪都経済特区」をセットにして、かつての「堺」のような「自由経済圏」をつくれば、あっという間に東京を追い抜くかもしれない。
その意味で、大阪都構想「だけ」なのが惜しい。

都道府県と市の「二重行政」が、ややこしいのが、市が「政令指定都市」であるばあいだ。
まるで「都道府県」のような「権限」があるようで、もちろん、「都道府県」ではない。この中途半端さがハンパない。

北関東のひとたちが、妙におじける「神奈川県」は、「南関東」ともいわれているが、神奈川県人は「南関東」ではピンとこない。
そもそも、じぶんが「神奈川県人」だという意識すらないのが「横浜市民」だ。

江戸幕府による五街道の整備で、東海道の「神奈川宿」ができた。
京浜急行の「神奈川駅」あたりが、神奈川県の由来であって、いまは横浜市神奈川区になっている。
神奈川という川がないけど、神奈川県。

広重の有名な「東海道五十三次」の絵でいう「神奈川宿」は、海沿いの絶壁横の急な坂になっている。みごとな海岸浸食で、この絵の「海」がいまの横浜駅である。

政令指定都市になったら、県から離脱するほどの覚悟があっていいものを、甘えなのか甘やかしなのか、いっしょにいるからわからなくなる。
神奈川県庁が、横浜、川崎、相模原とは別の市町村に移転すると、県の発展も見込めるかもしれない。

たんなる東京のベッドタウンになりさがった横浜市が、とうとう「指定ゴミ袋」制をはじめるとぶち上げた。
ゴミ利権の象徴をやるというのは、カジノにつぐ暴挙ではないのか?

林市長というひとは、だんだん顔が「能面」のようになってきた。
感情と顔の筋肉のうごきが分離しているのだから、気の毒なことである。

このひとは、じぶんの意志でなにかをしているのではなく、いろんなひとの意志で動いているだけだからだろう、と勝手に推測してしまうのは、自分の意志でなにかをする能力があるとはおもえないからである。

そうかんがえると、ダイエーで取締役になったのも、「女性枠」という意味不明にあたったのではないか?
なぜだかしらないが、女性の幹部登用に、「目標数」が設定されるということになっている。
こういう逆差別に、フェミニストが抗議しない不思議もある。

レジ袋が有料化されることと、ゴミ袋が指定商品になることで、いよいよレジ袋をつかう意味を喪失させて、ゴミ袋を買わせるように仕向ける。
ヤクザもうらやむ無謀である。

化学組成的にどこが「ちがう」ものか?
無料で配付するから環境にいけなくて、有料でしかも「市指定」だから環境にいいというのは、ただの宗教ではないか?
ゴミを棄てるためにひつようなゴミ袋は、さいしょから「ゴミ」なのだ。

カジノで得た収入で、まさかの「全戸無料配布」なんてことをはじめるなら、これぞ「アメとムチ」になる。
枚数制限までして、ゴミを減らそうとするなら、もうどうにもならない「不自由」な生活を強いられるだろう。

野菜を買うとプラゴミがふえるのだから、消費者には選択できない。
つまり、指定ゴミ袋とは、環境のためとか市民のためを装った、「業者のため」にほかならない。
そして、市は、指定業者から「ピンハネ」するのであるから、これは市民税の増税にひとしい。

市民を痛めつける市長とはなにものか?
科学にもとづかない、環境政策は、小学生の理科の知識でも不信をかうから、ますますヘンテコな子どもをつくる。
まことにSFのようで、おそろしい社会をつくる努力をしている。

これを「壊れた」といわないのが、もう「壊れている」ことなのだ。

だれかハイエクの『隷従への道』(タイトルとして『隷属への道』もある)をわかりやすい要約にしてくれないかとおもったら、YouTubeに「5分間」の日本語ナレーション版があった。

「香港」が、他人事ではなくなってきている。

なにもできないなりゆき政府

風まかせ、風まかせ♩♩
気ままな旅である。
人生を「旅」のようにかんがえるのは、あんがい人類共通だ。
どこからやってきて、どこへいくのか?

たった三代、親の世代をさかのぼっただけでも、じぶんの「生まれ」た源流がか細くなる。
それに、いったいどこで人生を終わるのか?は、だれにもわからない。ましてや、その先ともなると、天国なのか地獄なのか?

いちおう仏教徒としていえば、極楽なのか餓鬼道なのか?ということだ。
あちらの方では、最後の審判で神様が決定するけど、こちらでは、じぶんの「意識」が姿を変えた「閻魔」がきめる。

第三者か、自分自身か?
仏教とは、この一点で過酷な宗教である。
生きているうちに魂を浄化しておかないと、じぶんの意識が誘惑に負けてじぶんを地獄へ導くようになっている。

先月物故した中曽根康弘氏のあだ名は「風見鶏」だった。
その時その時の「風」になびくことで、悲願の「内閣総理大臣」になれたからだ。

大望を抱くからこその「忍耐」だといういう評価を、わざわざご自身でしていたのだから「自己弁護」でしかないけれど、「バカを装う」ことのメリットは十分にしっていたということだ。
つまり、ほんとうのバカは国民だと。

たまたま、やっとこさ総理になれたとき、時代は「米ソ冷戦」末期で、ソ連は最後の輝きを発していた。これは、ローソクが消える前に比喩される。
対抗するアメリカは、経済の疲弊でフラフラだったけど、重量級のボクシングのように、それでも一発かますスタミナはなんとか残っていた。

このちょっとまえ、まだまだたくわえたスタミナ十分のとき、アメリカにさからった田中角栄を、ロッキード事件で失脚させることに成功した。
中曽根氏は、この事態をしっかり学習しながら、慎重にアメリカにさからった。

国内では、アメリカに忠誠をちかった「竹下派」に衣替えした手際も観察して、「風見鶏」は、がぜん竹下派のロボットになる有利さを悟ったわけだ。
こうして、まるで「間諜」のごとく、敵の懐に飛びこむ戦法を使いこなしたのだ。

結果的に、自民党がぜんぶ「竹下派」とおなじ手法を採用したから、政策集団としての「派閥」が「派閥」でなくなって、「金権」だけがのこったのだ。

金脈と金鉱をみつけてきては山分けするビジネスが、「官界」と確立したから、完璧な「政官癒着」ができあがった。
これに、世界で仕事を失いつつある財界が、じぶんたちにもよこせとばかり「利権」にすり寄っているのが現在のありさまだ。

まさに、共産主義支配者が理想とする構造になっている。
これぞ「党」による政府と経済界の支配というものだ。
さぞや大陸のひとたちが、うらやんでいることだろう。

けれども、間抜けな日本人の支配者たちは、国内事情しかわからない。世界情勢など、とっくに興味をうしなったのは、とにかくアメリカのいうことを聞いていればいいという安心感である。
逆にいえば、さほどにロッキード事件は恐怖だった。

アメリカ人だって人間だから、全知全能の「神」ではない。
日本人の「間抜けさ」が、人類共通だと信じたら、占領下での同じ手法が「イラク」でも「シリア」にもつうじない。

戦前の日本型国家をつくった北は、中心がわからなかった日本とはちがって、はっきりとした中心がある。
これなら手なずけることができるとかんがえたのが、いまのトランプ政権である。

「ご招待」されたひとがいきなり逮捕されて収監されても、間抜けな日本政府は「拉致」同様、なにもしないし、なにもできないと判断されて、それでもなにもしないし、なにもできない日本政府とは、はたして存在意義があるものか?

こんどは、企業が「拉致」された。
「無印良品」がおこした知的財産にかんする訴訟で、あろうことか、パクった先に損害賠償責任を負わされる判決がでた。
アメリカ企業にこんな無謀はしないから、無印良品が本社をアメリカに移転すれば、最後は勝訴できるだろう。

米中経済戦争第Ⅰ幕の決着がついたタイミングでの判決だから、アメリカに産業は回帰せよという、トランプ政権と握ったはなしなのかもしれない。

いっそのこと経団連ごとアメリカに移転するときがくるかもしれない。
これがほんとうの「空洞化」である。

そんななか、医療費が値上げされる。
国内ごとの「利権」だけがテーマの話題だ。
診療報酬も薬価も、国家がきめる国に住んでいる。
増税があって、レジ袋が有料化になって、医療費があがる。

そういえば、保守党の歴史的大勝利になったイギリス総選挙で、やっとこ「ブレグジット」もこれできまる。
なんでイギリス人はEUから、かくも離脱したいのか?
その「経済的理由」は、「ゆりかごから墓場まで」とした、わが国がまねた「国民皆保険」を外国人移民が享受することへの反発だ。

仕組み上、移民を「割り当てる」EU政府にたてつけない。
だから、なりゆき政治にNOをつきつけたのがイギリス国民だ。
かれらがラッキーなのは「保守党」という、受け皿があることだ。

われらには、「保守党」にあたる政治家集団が存在しない不幸がある。

コンビニ商売禁止法

コンビニエンス・ストアは、もじどおり「便利な店」のことである。
この「業態」が日本で開業したのが、1970年代前半のことだから、なんとすでに「半世紀弱」の歴史がある。

生まれながらにしてラジオがあった世代。
テレビがあった世代。
それが、カラーになった世代。
ファミコンがある世代。
さりげないけど、コンビニがあった世代がもう「不惑の歳」をむかえるのだ。

セブンは、店名どおり、当初7時から23時の営業だったが、一号店開業後の翌年には24時間営業がはじまっている。

わが家の近所にできたときは、それはもう、おどろいたものだった。
むかし、図工の材料を買い忘れて、夜中に商店街の文房具屋のシャッターをたたいて開けてもらったことがあるから、文具の充実にはたまげたものだった。

あのせまい空間に、よくぞこれだけの種類を揃えたものだ。
「整理の技術」があるのはわかるが、どうやって「欠品させない」のか?がわからなかった。

おなじものを商店街のお店で買えば二割以上安く売っているのはしっていても、営業時間に買いにいけない。
会社のかえりに、ちょっとだけ「寄り道」すれば、高くても買わないといけないものは買ってしまう習慣ができた。

まさに、商品ではなく、「便利さ」にお金を出していたのである。

そんなこんなで、「ごまんとある」コンビニは、ほんとうに全国に5万店以上ある。
人口も減りだして「飽和」かともいわれだしたが、飽和しているのは労働時間になってしまった。

ましてや、「社会インフラ」に成長したとは聞こえがいいけど、仕事をしない役人の仕事も引き受けて、災害時に商品がなくなることさえ文句をいわれるのだから、消費者以外にも「便利な店」になっている。

利用者からはわかりにくいが、店舗のほとんどが「本部直営」のはずがない「個人商店」ということになっている。
商店主たちのおおくも、一店舗だけの個人事業主なので、消費税の軽減税率は適用されないというイジメにあった。

こういうときに、地域の役所が国家の役所に文句をいうこともしないから、もはやこの国の役人に正義はない。
利用することだけして、こまったときは自己責任になっている。

もっとも、複雑な消費税に適応した「レジ」の購入ができずに廃業した、むかしながらの個人商店が全国津々浦々にある。
ところが、もっと酷いめにあっているのが、税理士たちで、複雑な税制を見のがした先生たちが、クライアントから損害賠償責任を追求されている。

訴訟リスクがありすぎて、世の中から産婦人科や助産婦がいなくなったように、そのうち税理士がいなくなるかもしれない。
これが、ブーメランになって税務署の仕事がふえるから、シンプルな税制にしましょうとはならないから、まったく国民の怒りだけがたまるようになっている。

ドイツ人はそのむかし、あんまりローマ教会がえげつないので、プロテスタントという「新派」をつくった。
形式上、敬虔な信者を装えばよいというローマ教会に反発して、本気で祈りを捧げる信者ばかりの集団だ。

カソリックの国なら12月のこの時期は、「クリスマス」一色になるが、プロテスタントの国だと一切の派手さがない。
玄関先に質素な飾りがあれば、たいしたものだが、うっかりするとユダヤの「過越の祭」かもしれない。

なんでもありのわが国では、強力なカソリックの国のように、クリスマス・ソングが街に流れ、個人の家まで電飾でキラキラにするけれど、本物の信者などめったにいない。たんなるファッションである。
だから、ローマ法王の来日は、なにかの間違いではないか?ということはなく、なんであれそれなりに飾っていれば、いいのである。

さてそれで、ドイツには、「閉店法」という連邦法がある。
小売店の営業時間をさだめている法律だから、裏返せば「閉店」を定めているのでこういう。
ほんらいの趣旨は、家でお祈りをちゃんとするためだ。

いま、日本のコンビニ・オーナーたちは、営業時間の縮小を議論していて、「正月ぐらい休ませろ」という声をあげだしたから、やっぱりかつての「同盟国」らしく、わが国にも「閉店法」ができるのではないか?

けれども、わが国ではなにを「お祈りする」のかわからないし、対象を「小売業界全部」にしたら、産業優先の「国是」にそむくので、コンビニだけを犠牲の羊にして、「コンビニ商売禁止法」にするのではないかと予想するのである。

さて、与野党はどんな議論をするものか?

まさか、与党の一部から、むかしあった「国立戒壇」が祈りの対象だという主張がされるのだろうか?
それとも、労組が支持する野党が、ドイツでそうであったように「運動」をはじめるのだろうか?

まったくみえないのが、わが国の混沌である。

政府があんまりえげつないので、べつの政府をつくる時代がくるのだろうか?

映画『蜜蜂と遠雷』を観てきた

文学作品として、「直木賞」と「本屋大賞」のダブル受賞が話題になったけど、原作の「小説」を読まずに映画を観るというのは「無謀」だったかもしれない。
そもそも「映像化不可能」と評判の小説なのだから。

読んでもいないのに「映像化不可能」とはなにを意味するのかを「映画」から類推すれば、音楽の「イメージ」のことではないか?
これは、脳がつくりだすもので、本人の経験や記憶からだけではなく、かってに創作することがある。

すると、本人もおどろく体験をするのである。
さいきんの脳科学は、「暴走」という表現をつかうこともある。
それに、脳は脳に都合のよいことを「創作」するから、本人もだまされる。

しかし、犯人がじぶんの「脳」だから、だまされている本人はこれに気づくはずもない。
つきつきめれば、「完全犯罪」である。

これは、「脳」と「肉体」が分離しているだけでなく、じぶんの「意識」すら別物になることを意味する。
脳がだます相手が、じぶんの「意識」になるからだ。
だまされた意識は、もうだまされたことを意識できない。

まことにおそろしいことだが、「現実」である。

これをズバリ表現したのが、1999年の映画『マトリックス』だった。
もう20年も前の作品になってしまうことに、時の流れをうらむしかないが、二作目、三作目とつぎつぎに「難解」になったのは、「意識構造」の解説がどんどんデジタル技術との哲学論争になっていったからだ。

意識がプログラムされている。
では、それをプログラムしたのは誰で、そもそもプログラムをさいしょに創作したのはだれか?
これこそが「アーキテクチャ(論理的構造)」から導きだされる「神」の存在である。

「構造」というキーワードをみれば、レヴィ・ストロースの「構造主義」を連想する。
かれは「神話」における「構造」の解明をこころみた。

はたしていま、ディズニー映画『アナと雪の女王2』も上映中だ。
もはや「ディズニー映画」の制作に「構造主義的アプローチ」は欠かせない。
いかにして「あたらしい神話」を創作するのか?が作り手の「仕事」だからである。

その教科書に、『神話の法則-ライターズ・ジャーニー-(夢を語る技術シリーズ5)』(ストーリーアーツ&サイエンス研究所、2010年)がある。

オリジナルの映画をつくるはなしと、原作の小説から映画をつくるはなしは、アプローチがことなる。

ディズニー映画のリスクは、公開されない「原作」の構造を神話化する過程のなかにある。
いっぽうで、原作の小説はすでに公開されているから、原作の再現性の「忠実度」にリスクがある。

このことは、「新規事業」と「既存事業」のちがいにもなる。
新規の「事業コンセプト」のなかに、どんな神話をもりこむのか?
既存事業なら、もともとあったはずの「企業理念」や「経営ビジョン」の再現性の見直しにあたる。
見直して、「原作」に問題があるなら、書換ということができるのが「経営」で、映画とはぜんぜんちがうアドバンテージがある。

さて、本作のばあい、「原作」に問題があるのか?それとも「再現性の忠実度」に問題があるのか?
基準となる「原作」を読んでいないから、なにもいえない。
そこで、ヒントになるのが、ネット書店にある「レビュー記事」だ。

観てきた映画のイメージと合致するコメントをさがすと、けっこうな数をみつけることができた。
残念ながら「好評価」のものではない。
すると、映画作品の評価から、原作の評価に重心がうつる。

わたしの違和感は、新人の登竜門としている「ピアノ・コンテスト」にまつわる人間模様が、「薄かった」ことにある。
登場人物の薄さと、登場人物のちかくにいるひとの薄さもあるが、ライバル間の「ギドギドした」対抗意識の薄さが気になったのだ。

千住家は、日本画の長男博、作曲家の次男明、そして末子の天才バイオリニスト真理子を輩出している。

「落ちろ、落ちろ」
コンテストにでた真理子に対したライバルだけでなく、背後にいる親たちから立ち上がる「負のオーラ」がすさまじい、とは母文子の告白である。

すなわち、これぞ「コンクール」なのである。
優勝と二位とでは雲泥の差、「入賞」では自慢にもならない世界。
あらゆる「妨害」と「謀略」のなか、それでも勝ち残ることができるものに、さいしょの「資質」があたえられる。

この「資質」があるもののなかから、演奏テクニックやら表現の豊かさが評価されるのだ。
だから、演奏テクニックやら表現の豊かさをもっていても、さいしょの「資質」がなければ、けっして実力が発揮できない。

これらをトータルに評価する。
でなければ、「世界」で演奏家としての活動などできるはずもない。
これが、「厳しさ」なのだ。

そして、そのもっとも大きな原動力は、選ぶ側の権威保持、にある。
もし「資質」のないものを選んだら、選んだものたちが業界から退場をせまられてしまう「厳しさ」があるからだ。

作中、トップを目指すものたちが、全員「いいひと」なのは、違和感をこえて「ファンタジー」になった。
おそらく、原作が「ファンタジー小説」なのではなかろうか?

「いいひと」

むかしは「いいひとって寒いですね」というフレーズがあった。
「いいひと」だけではダメなのだ、という価値観があったということだ。

これが、いまの日本の「弱さ」なのだとおそわった。

空き家に住みたいけど

世帯数よりおおい新築住宅をどうして建てるのか?
ほんらいなら、単純に「儲かるから」なのだけど、人類史上例がない「マイナス金利」という初体験で、「とにかくつくってしまえ」というやけくそが本当の原因かもしれない。
発注があるからつくる、という順番をたどれば、建材屋がいちばん儲かるはずだがいかがか?

すると、発注したのに売れないということになると、たくさん売ろうとした目論見がはずれたことになって、そのうち大損するひとがでてくるはずだ。
しかし、あたらしく供給されている住宅は、あんがい都市部であって郊外ではない。
人口が減るなか、郊外から都市部への人口移動がおきているのはこのためとの指摘がある。

では、都市部と郊外の境目はどこなのか?
主要ターミナル駅から電車で20分、そこから徒歩15分内ぐらいだろうか。
ここから外が「郊外」となる。
この微妙な「エリア感」が、「過疎」をみとめないのだ。それは、都会のはずの「住所」地域があるからである。

市町村の仕事が整理されていないから、余計な商工課とか観光課があったりする。
70年代、「画期的」と賞賛された東京都中野区は、戸籍係や転入出の窓口をぜんぶ「1番」として、「1番」窓口がたくさんできた。
なぜ戸籍係がひつようなのか?なぜ転入出するのか?
「そこに住人がいるから」という結論から、窓口をまとめても手続きにくるひとが混乱しない仕組みをつくった。

全国各地の役所から見学者がたえなかったというが、中野区のやり方をマネした役所はとうとうあらわれなかった。
役人の仕事のやり方が変わるからである。
住人の利便性追求よりも、役人の仕事のやり方を変えないことを優先する。
50年前のはなしだが、今日ただいまぜんぜん変わっていない。

なんども指摘している『パーキンソンの法則』にもとづいて、わが国の役人の数も増え続けた。
「仕事量に関係なく、役人の数は増え続ける」のである。
そんなわけで、住民にとってどんな役に立つのかとは関係なく、役人の数はふえて、仕事もふえる。
ふえた仕事は、住民にとって「ムダ」だけど、「ムダ」な仕事で生活できるのは「天国」だ。

だれもが「天国」にいきたいから、いまやわが国の就職先で最高人気は「役所」になった。
これが「役人天国」の本質である。
そして、「指定管理者制度」という、役人が遊んで暮らせる「制度」もつくったから、仕事をしているふりすら忘れて、日がな一日時間つぶしに登庁している。

そんなわけだから、じぶんところの「住民の数」が、これからどうなるのか?の調査もしない。
「昭和時代」もまさかの「戦前」に策定した「都市計画」を、いまだに「基本計画」にしていることだってある。
へたに「審議会」が仕事をすると、じぶんたちに面倒がふりかかるから、お金をくばって「学会」を制御する。
こうして、研究費が喉から欲しい学者は、役人という「メフィスト・フェレス」に魂を売って、束の間の甘い夢をみるのである。

空き家は放置すれば「廃墟」になる。
住宅地に廃墟があると、路線価に悪影響するかもしれない。
さすれば「税収が減る」から慌てるかといえば、慌てるはずもない。
路線価を決めるのも役人だ。いざとなればカジノを誘致すればよい。

面倒なのは、近隣住民からの「苦情」だけだ。
たまに、仲間うちの「消防」からも文句をいわれる。
不動産屋は新築にしか興味が無い。
空き家を売って、あとからクレームをいわれるのが面倒だし、建物の専門家でもないからほんとうの価値がわからない。

過疎地なら、しかたがないので「空き家バンク」なる、ムダ仕事でお茶をにごせる。
ただし、住民間のトラブル対処はまっぴらだから、町内会や自治会の活動内容や、だれが地域のボスかは知らないふりをする。
こうして、移住者がネットに情報をばらまいて、田舎暮らしの地獄絵図が全国にひろがった。

リタイアを契機に、適当に不便かつ適度に便利な場所に移住をかんがえるひとはおおいだろう。
いまさらの「新居」に、虎の子退職金をぜんぶ使い果たすことができないからである
需要はあるけど、残念ながらほとんど情報がない。

相続が発生すれば、法務局と税務署はFAXで連携するのに、その後がない。
司法書士が遺族や家族と連携できないものかとおもう。
ほんらいなら、融資もふくめ、これぞ「地銀」のビジネスではないのか?

ついでに、リバース・モゲージ・ローンの設定でもしてくれないか?

いい空き家があれば住みたいけど、よってたかって、何だかなぁ、なのである。

技術が盗まれる促進法

もちろん、そんな「促進法」は「ない」けれど、「防止方法」も「ない」から、消極的だけど促進しているのとかわりはない。
これをふつう「未必の故意」という。

もう一年以上前になるが、日本で品種開発された人気のブドウ「シャインマスカット」が韓国の農家で堂々と栽培していて、中国に大量輸出されているとの報道があった。

ネットでは、どこかの市の農業担当課職員と農協職員とで、「無料」の技術指導までしているとある。
交通費も出してくれないなら、「持ちだし」ではないのか?ともかんがえられるが、このひとたちは「善意」でやっているのだとも推測できる。
はたして事実だろうか?

「シャインマスカット」を開発したのは、国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構、略して「農研機構」だ。
2006年に日本で品種登録を実施したが、その際、輸出を想定していなかったため、海外での品種登録を行わなかった。

つまり、韓国の農家がわるいのではなくて、なんと「鎖国」していると勘違いしたわが国の役人が、国際的な権利の登録をしない、ということでの「技術が盗まれる促進法」を実施したのである。

「植物の新品種の保護に関する国際条約(UPOV条約)」というのがあって、もちろんわが国も韓国も中国だって加盟している。
このなかで、海外での果物の品種登録は国内での登録から6年以内に行うことが定められている。
ようは、わが国の政府機関であり開発者の「農研機構」は、6年間、なにもしなかったのだ。
それで、韓国での栽培と輸出販売がはじまったのである。

こまったことは、中国での人気だ。
「オリジナル」の日本産は、価格が高くて売れない。
「中国の国内産」まで登場しているが、技術水準が低くて売れない。
そんなわけで、韓国産の一人勝ちなのである。

もちろん、「中国の国内産」だって、国際条約上「合法」だから、日本が文句をいえるものではなくなっている。
とうぜんだが、国内産地の山梨県の農家は憤慨しているけれど、どうしようもないのである。
純経済原則でいえば、むしろ、安くて品質のよい韓国産が日本で販売されないのは、日本の消費者にとって損失になっている。
「鎖国」せずに、韓国産を輸入販売すべきである。

この手のはなしになると、農家の保護がかならず話題になるが、最優先すべきは「消費者」である。
残念だが、国がやった「チョンボ」のつけが受益者である農家にくるのは仕方がない。
けれど、「農研機構」の開発費からなにからを負担したのは消費者である国民である。
だから、よいものを国民に提供するのは、なんの問題もない。

そうやって、農家が痛みを感じれば感じるほど、国家に依存することの「不利」が、骨身にしみることになる。
さすれば、こんな「機構」は完全民営化すればよく、農家は株式を大量購入して経営者になれば、さらに消費者である国民によいことになる。

つまり、農水省との縁を切ればよいのだ。
経産省はもうちょっとうまくやるが、しょせんは同じ穴のムジナである。
自己保身のかたまりで無責任ないまの経団連のじいさんたちは、かつての石坂泰三会長のやった(役所との徹底抗戦)ことをすっかりわすれて、経産省に依存するから、カネだけでなく技術まで盗まれても他人事なのだ。

これは、「要素価格均等化定理(ヘクシャー・オリーンの定理)」をそのまま現実化したはなしだ。
経済でいう要素とは、資本、土地、労働の三要素をさし、その価格(価値)を「要素価格」という。
定理は、「生産手段が同じなら要素価格は均等化する」。ようは、おんなじ生産物を同じ方法で生産するなら、資本、土地、労働の価格がおなじになる、というはなしだ。

つまり、日本の農家も、韓国の農家も、おなじシャインマスカットをおなじように生産するなら、日本の高い値段がついている例えば労働の価格が下がって、韓国の安い値段の農家の労働がたかくなって、最後にはおなじになる、という意味だ。

中国ではおなじシャインマスカットをつくっていても、つくりかたに技術がないから、この定理に乗ってこない。
すると、日本の農家がこの定理から逃れるには、韓国の農家とはちがうつくりかたをするか、シャインマスカットの生産を「やめる」しかない。

これは、「比較優位」のことで、リカードがとっくに気づいた貿易論の基礎中の基礎である。

まことに、おそろしい「定理」なのである。
それが「条約上の申請をしなかった」ことが理由とは、噴飯物のお粗末仕事ではないか。

これが、わが国の凋落を象徴している。
理系の技術でまさっても、文系が無価値に変える。

しかし、おおきな教訓は、役人が国産農産物の輸出をしない、と決めつけたことにあるのだ。
なぜ役人にこんなおおきな権限を与えているのか?ということこそがわが国の問題なのだ。
区役所の下級官吏とて、それなりの「裁量権」をもっている。
かれらは「行政官」なのだから、本来は「法」にしたがうしかなく、「裁量」があることじたいあってはならない。
「法」を定めるのは選挙でえらばれた議員だけのはずだからだ。

この根本の仕組みが機能不全になっていて、役人がつくった案を議員が決めるだけになってしまった。

こうして、たかだかとはいえ、シャインマスカットの国内での将来性がうばわれ、貿易で有利な韓国産を購入することが合理的になるのである。
しかし、たかだかといえないのは、およそ全産業に、おなじ構造がおよんでいるからである。

50年ぶりに低い失業率

1969年以来だから、ぴったり50年、半世紀ぶりに低い失業率を達成したのは、現代のローマ帝国、アメリカ合衆国である。
「栄光の60年代」をかざる数字は、どのようにしてできたのか?
それは、民主党なのに減税をやったケネディ大統領の遺産だった。

世界には「景気」にかんする二つの価値観がいまでもある。
「インフレ」対「失業」だ。

大恐慌の発信地でもあるアメリカ人には、時代をいうときに「恐慌前と後」という感覚が根強い。
これは、日本人にとっての「戦前・戦中と戦後」とでわけることに似ているが、戦勝国なのではなしが大恐慌までいくのである。

「先の大戦」といったとき、京都人が「応仁の乱」というほどの「時間感覚」ではないけれど、各国ごとの「時代感覚」はちがう。

もちろん、戦後の日本をおそった経済混乱は、戦時国債の紙切れ化にともなう一大インフレで、最高600%程度だったといわれている。
ドイツ人は、第一次大戦の敗戦で「真性ハイパーインフレ」を経験した。このときの最高は一兆倍ともいわれている。

喫茶店に入店したときのコーヒーの値段が、店をでるときに二倍になっていたなどという逸話はまだあまい。
パン一個の値段が、100マルク!でもすごいけど、これが一年後にいくらになったか?

教科書に、紙幣をリヤカーに積んで買いものにいく風景や、薪のかわりに炉にくべる写真がのっていた。
薪を買うより紙幣の方がよく燃えて、安かったからである。

そんなわけで、なぜか第二次大戦の戦勝国は「失業」を優先的に怖れて、敗戦国は「インフレ」を優先的に怖れる傾向をもっている。
戦勝国の英米で70年代におきた、「スタグフレーション」が深刻だったは、景気が悪いのにインフレになった。

国民に政府が、とにかく職をあたえようとしたら、市場に貨幣がふえてインフレになったのだ。
これを退治すべく登場したのが、サッチャーとレーガンであった。
コンビを組んで、似たような自由化を主とする経済政策を推し進めた。

真逆をいったのがフランスのミッテラン社会党政権で、どちらが優位なのかと当初は論争にもなったが、時間とともにミッテランもサッチャーとレーガンのやり方をマネしたから、もう論争にもならなかった。

世界の工場として絶好調だったわが国は、苦しむ英米を上から目線で眺めていた。
もちろん、世界の工場の役目が永遠につづくものと信じて疑わなかったからだ。これは、おなじ敗戦国のドイツもおなじだった。

そんなわけで、西側経済の牽引車は、日本とドイツという機関車の「重連運行」だったのを、まさに「自慢」していたし、国際会議でも英米が日独にけん引されることを望んだのである。
いまからすれば、機関車よりもモーター車を複数もつ電車のほうがずっと効率的だと、だれもおもわない不思議があった。

レーガン減税で息を吹き返したアメリカと、あいかわらずの強い日本に対抗するために、ヨーロッパが「徒党を組んだ」のが「EU」である。
これで、西側に三極構造ができたのは、東側の経済を無視できたからでもあった。

それで、経済の強いドイツが域内貿易で一人勝ちの大儲けをしたら、大損した南の国々が破たんしそうになった。
ドイツの凋落はここからはじまる。旧東ドイツへの負担だけではすまなくなった。

日本の凋落はもっと深刻で、頼れる者がいないからと、あろうことか政府に頼ったので、自滅の道を確実に歩んでいる。
サッチャーとレーガンが頼った「ハイエク」を、日本人はほとんど読んでいない不思議がある。

経済学部の入試に数学を要しない「文系」がふつうなのは、かつてわが国で経済学とは、「マルクス」のことだったからである。
いまでも、数学を要しないのは、教授たちが楽をするためだとうたがっている。

やたら数学ができる学生がいたら、かんたんに論破されてしまうかもしれない。
けれども、経済は、ほんとうは人間の営みだから、数学モデルの限界があるのではなかろうか?ともかんがえる。

もちろん、モデルの限界をしるための数学がひつようだ。

かつて、サミュエルソンという天才が、数学を駆使してつくったモデルに経済学者たちが驚嘆したのは、その意味で「いい時代」だったのではないか?

残念なのは「マルクス」にいったひとたちで、完全に「文学」か「宗教」の世界にはいったままでてこない。
間の「哲学」が欠如しているから、やっぱり「理屈」にならないのである。

50年ぶりの低い失業率は、こんどはトランプ減税の効果である。

いったいいつ、わが国で「減税」が議論されるものか?
「マルクス」にいったひとたちの与党いがいの党にも、ぜんぜん期待できない。

けっきょく、政治なんだなぁ。
国民の資質のちがいにちがいない。

マスクをして挨拶する感覚

「不気味なマスクの着用」について前に書いた。
顔認証の技術がすすんで、セキュリティー対策にも応用されるのは、来年の東京オリンピックでも宣伝している。

世界でもっともこの技術研究がすすんでいる国は、自由主義圏にいたらできない「テスト」が、できるからである。
かんたんにいえば、「個人情報」を保護するのではなくて「収集」するためである。

だれが、いつ、どこで、なにを、しているのか?
ついでに、なんで、がわかればもっとよい。
これを、監視カメラの画像から本人特定をすればよい。

ソ連が崩壊した理由には、国民監視のコストがかさんだことが、軍事競争の敗北に直結したからである。
外国との交渉は、外交の延長線上に軍事があるのは世界の常識だ。
けれども、その前の国内事情として、国民が政府の敵だというかんがえになったから、最優先したのであった。

いつ逮捕されるかわからない。
これは、ノーベル文学賞をとった、ソルジェニーツィンの『収容所群島』の書き出しのメッセージである。
理由は逮捕してからかんがえる。

こういう国を「全体主義」という。
それへの抵抗が、香港デモであるから、素顔のデモ参加者たちがいなくなって皆マスクで顔を隠すようにしている。
あれは、はたして日本製なのか?が気になるところだ。

アジアの国から、日本はまだ憧れをもってみられているらしく、若いひとたちのファッションに「マスクの着用」があるらしい。
女性なら、すっぴんを隠す効果もあるから、近所へのちょっとした外出なら、わざわざ化粧をせずともマスクをすればいいのは便利だ。

マスクといえば白だとおもったら、黒やその他の色もある。
乾燥注意報が連日発令される、冬の太平洋側は、喉のためにマスクをするひともおおいだろう。
就寝用のマスクさえあるから、機能分化しているのだ。

こういうわけで、日本のマスク文化は、理由はさまざまでも国内はもとより外国にも「輸出」されている。
さいきんでは「白人」でマスクをしているひとをみかけるから、このひとはきっと、母国に帰ると「変人」あつかいされるだろう。

「あちら」では、あいかわらずマスクは病院等に限定して着用するものだという「きまり」がある。
なので、この日本文化に慣れたひとは、日本への哀愁がつのるはずだ。

しかし、マナーということからすれば、人前で挨拶をするときに、マスクを着用したまま、というのはいただけない。

昨日、わたしの住む地域では、ウォーキング大会が開催された。
おもむろにスタートしないのが、わが国の文化で、大会責任者からの「挨拶」という「儀式」をする。
その後、路上での注意事項の説明があって、準備体操をしてから出発となる。

ここで、区役所の健康担当主任と、地域センターの保健士が「挨拶」をした。
ふたりとも「マスクを着用したまま」である。

これぞ「ザッツ・お役所」。
これは、個人的な感性という気がしない。
おそらく、このひとたちは「職場」においても常時マスク着用の習慣があると予想できるからだ。

むしろ、じぶんの汚れを外にださない、という意味で「丁寧なこと」という「倒錯」があるのかもしれない。

しかし、はなしを聴く側からすれば、声がこもって聞き取りにくくなるとおもわれるのは、公園でマイクがないなかの肉声によるからだ。
参加者の年齢が比較的高いことを考慮すれば、挨拶をする側から聴衆をみた瞬間に、マスクをとるのが「配慮」というものだ。

案の定、声がこもって聞き取りにくかった。
なにをいっているのかわからないが、聴く側もちゃんと聞く気がないから、おあいこか。
80歳にならんとする町内会長の挨拶は、声が通って聞きやすく、参加者への配慮に満ちていたのと対照的だ。

これはきっと、職務と権利がすでにわからない状態なのではないか?

それは、ふたりとも、急な坂道やながい階段で、マスクをはずしたからわかった。
息が苦しくなって、マスクが邪魔になったからだろう。

こうした態度を、みんながみている、みられている、という感覚も無いはずだ。
それでいて、休日出勤の手当をもらうにちがいない。
この手当の源泉が、参加者住民たちが負担する市民税や固定資産税なのに、それもわすれて、申請だけはわすれない。

衛生のプロだから、歯磨きに歯磨きペーストはひつようなくて、なにも付けずに磨けばよいと「指導」しているけれど、そんな不織布のペラペラのマスクでなにを防禦できるものかといえば、できるはずがない。

日本には医療用マスクの性能規格基準が存在しない。
これだけでも、マスク文化と相反するのだ。
ではどうなっているかといえば、ASTM(米国試験材料協会)が医療用マスクの素材条件を定めているのでこれを準用している。

すると、N95以上の機能があってはじめて「効果」があるのだ。
「99」や「100」になると、こんどは「呼気抵抗」もたかくなって、安静時でも息苦しさを感じるマスクになる。

けっきょく、たんなる「マナー違反」が、「専門家」によって、正々堂々とおこなわれているのだ。

嘆かわしい。

自動運転の前に信号を

プロのドライバーなり、プロが運転する自動車の運行をあずかる会社にどんなデータが集積されているかの詳細はしらないが、信号機と渋滞の関係をどのように分析しているのだろう?

交通管理に関する技術の研究開発を行う公益法人、日本交通管理技術協会はどうかんがえているのだろう?
システムとしての信号と、単体で独立している信号があるけど、単体独立型の信号も、交通システムの中にふくまれている。

システムとしての信号は、おもに幹線において「連動」するタイプで、道路交通情報をセンサーがキャッチして、信号機の制御をおこなっている。

赤信号がはるか向こうまでみえて、一斉に変わったり、順々に変わったりして流れをつくっている。
逆に、信号ごとに赤で停車させる「制御」もしているのは、速度をだしやすい道路の安全性を確保するためだともいう。

そうはいっても、運転手は人間だから、自分の行く手を「赤信号」で阻まれることを「避け」ようとする心理もある。
それで、昨今は「黄色」が「注意」ではなく、「突っ切れ」になっている。

だから、進むたびに「赤」制御がはたらくばあい、けっこう「イライラ」もつのることがある。
そこに、トロトロはしるクルマがいると、あおり運転さえも誘発しないかと心配になる。

それに、下手に信号機のない横断歩道で、歩行者のために停車しても、対向車が止まらないので、あんがい歩行者の危険を誘発することもあるし、後続車から追突される危険もある。

これは、クルマの性能がよくなったのに、人間の性能がそのままか低下したことによるミスマッチではないのか?

人間の性能の低下の理由に、さいきんでは「ミネラル不足」がつよく疑われている。
食品に含有されているはずのミネラルが、土壌の酷使と化学肥料の大量投入で、ちょっと以前に比較してもぜんぜんないのである。

むかしの子どもがそろって「嫌い」だった「ニンジン」も、あの「風味」がなくなって「甘み」がふえたのは、ミネラル含有量が劇的に変化したからである。

これに、ミネラル・バランスもなっちゃいない「ファストフード」を習慣的にたべていれば、しらないうちにミネラル欠乏症になる。

ミネラルは、人間の体内で合成されることがないので、食事で摂取するしかないが、「生きるため」の教育をわすれて、「机上の知識」に偏向してしまったので、男女ともに「親」になる準備ができないで社会人になる。

それが「キレル子ども」をつくっているともいわれている。
「常動障害」もおなじ、「脳」の活動に支障があるのである。
それで、小児科医のなかで「ミネラル強化療法」として、子どもにミネラルサプリメントを飲ませる「治療」をすると、かなりのスピードで改善するという。

すると、おとなだって人間だから、「ミネラル欠乏症」になれば、「キレたり」「落ち着きがなくなる」はずである。
おとなが子どもより深刻なのは、からだが大きい分、「欠乏量」も「大量」になって症状をつくるからである。

そんなわけで、信号やトロトロはしるクルマに「イラつく」なら、ミネラル不足を意識してみるのもよい。
「発症」しているかもしれない、とおもうことで、「イライラ」が改善されれば「まだ安心」だが、ノーコンならかなりあやしい。

自動運転やらAIやらと世の中はかまびすしいけど、信号機というインフラとの関係がいまひとつ明確ではない。
きっと、信号機からの信号もキャッチして、運転制御をするのだろうけど、単体独立型はどうなのか?

交通量が極端に差のある郊外の県道などと、生活道路が交差する場所には、「感応式」の信号をよくみかける。
流量がおおい道路の信号をなるべく変えずに、合流するクルマの安全をはかる優れものだ。

いったい全国の信号機は、どのくらいの電気代がかかっているのか?
例によって、トータルで資源量を観察しないで、稼働中だけをみるから、信号機にも「LED」が採用されている。
これで、「節電」しているという「非科学」がまかりとおるのも、「脳」へのミネラル不足からなのか?

ほんとうは「エコ」なレジ袋を追放して、国民に不便を強いることを「正義」だとする「環境省」には、集団でミネラル不足のうたがいがあるけれど、どうしてガソリンが無駄になっているかもしれない、信号制御が話題にならないのか?

クルマのエンジン性能における「省エネ」よりも、役人の性能がひくすぎるわが国では、ガソリンの垂れ流しが問題にならない。
もちろん、停車するとエンジンが自動的にとまる機能があると、ミネラル不足でそこしかみないから、もっとも負担になる「バッテリー」を無視できるのだ。

信号で止まるたびにエンジンも止まって、発進のたびに発動機をまわすのがほんとうに「エコ」なのか?
この機能に耐える巨大バッテリーを積んで走り、その寿命による交換コスト負担は、エコノミーでもエコロジーでもない。

不要バッテリーの後始末に、いったいどれほどの環境負荷があるものか?