強風を止められない

地球環境問題というまじめな問題にたいして,不謹慎の誹りを免れないかもしれないが,ほんとうにそうなのか?と疑ってしまう.
たしかに「環境ホルモン」なぞという物質は,人類がつくった困りものであるから,これを阻止しようということに反対はしないし賛成である.しかし,環境ホルモン摂取のリスクは強くかたられるのに,食品添加物の議論は弱くないか?とおもうのだ.

都会ではあまり目立たないが,地方にでかけると巨大なソーラー発電施設をめにすることがおおい.畑の一面全部だったり,山肌全体だったりするから,ものすごく「不自然」をかんじるのだ.
これらの発電は,およそ「売電」のためのもので,自家用とはおもえない.
すると,国(経産省)がさだめた,きわめて恣意的な「公定価格」によるしかないから,おそらく現在は,かなりの「赤字」になっているのではないか.

あらぬ争いごとをあおるつもりは毛頭ないが,アメリカだったらとっくに政府がうったえられているだろうにとおもうことしばしばである.
鳴り物入りではじまったソーラー発電事業は,ことごとく不採算事業になった.
設置費用に多額の補助金を得たのに当初の売電価格が,大幅に「値下がり」したからである.
その値段が「公定」なのだから,損をしたひとがなぜうったえ出ないのか?

政府が市場に命令するとどうなるのか?の典型ではあるが,「市場」そのものが「公定」だから,事実上存在しない.これは,旧ソ連の経済体制とおなじである.
だから,こんな制度の事業に投資した者が愚かである.
なぜなら,ふつう詐欺というものは,だまされてからでないとわからないが,政府の詐欺は「市場がない」という制度設計でかんたんに見抜けるからだ.

だから,裁判をしても勝てない.
裁判所は政府の一部であるけれど,「詐欺の仕組み」からすれば,ソーラー事業は「詐欺ではない」と判断するだろうからだ.
なぜなら,最初の制度設計を読めばだれにだって「詐欺」だとわかる.詐欺師が詐欺だといっているのに,「だまされた」といったら,それは愚かである.

わたしたちは,大陸中国のひとたちをバカにする傾向があるが,かれらの政府への不信,は学んでいい.
全国に広がったソーラー発電施設は,詐欺とはいえない詐欺にかかった愚か者が,全国に存在する証拠をみせてくれる.

こうした政府への依存体質が,戦争を呼ぶのだ.
昭和10年代,対英米戦争を望んだのは国民だったという事実を,知らないふりをしていたら,とうとうしらないと思い込むようになった.
いやがる軍に「腰抜け」だ「弱虫」といってなじったのも国民を代表する新聞だった.
そうして「世論」をつくった.
その臭いが,「環境問題」にもあるのではないか?

太陽光だけが太陽エネルギーの利用ではない.
風力も,太陽の熱が地球に届いて,温度差から空気の圧力が変化してできる「風」を利用する.
ひいてはこれが,天候になるから,地球は太陽におおきく支配されている.
それを,ひとの活動の影響だけで,地球環境問題,というのは,太陽をバカにした態度ではないかとうたがうのだ.地球はどこまでひとに依存しているのだろうか?

その太陽が,数百年ぶりに活動を弱めているという.
それで,このところ「地球寒冷化」が話題になりはじめた.
17世紀から18世紀,ロンドンを流れるテムズ川は冬に氷結していた.川でスケートを楽しむ人々を描いた絵ものこっている.

さいきんでは,昨年の寒波で,ドナウ川が氷結した.
ドナウ川は,中欧諸国の流通の大動脈であるから,航行できなくなると生活に直結する問題になる.

春は風のシーズンである.
冬と夏のせめぎあいが,強い風になって吹きまくる.

21世紀になって,自然を支配したと傲慢にもおもいこんでいるわれわれの頭上を,帽子をふきとばすほどの強風がすぎていく.
この風をだれにも止められない.
止めるすべをわれわれはしらないということを,たまには思いだしてよい.

子どもの国

おとなと子どものちがいが,年齢だけ,になってしまってどのくらいたつのだろう?
二十歳で「成人」だったものを,十八で「成人」だというから,おとなが若返るようにみえる.
「元服式」がいつ途絶えたのか?とかんがえると,それはやはり武士社会が崩壊したときにさかのぼるのだろうが,ずいぶん頑張った家もあるだろう.

幕末の「隠れた英傑」といえば,なんといっても橋本左内である.
彼が元服した十五のときに,有名な『啓発録』を書いている.
これは,「本日,『こどもを捨てる』元服式をしたものの,『子どもの良さは純粋な心にある』から,今日からおとなになれば,いつか自分も『純粋な心』をわすれたおとなになるかもしれい.自らそれをいさめるために書いておく」といった内容から書き出している.

十五歳といえば,いまでは高校受験をひかえた中学生である.
かつての「教育」が,いかに優れていたかをしる材料でもあるし,現代教育の「退化」をしる材料でもある.
しかし,優れた教育は学校だけでおこなうものではなく,家や社会がちゃんとしていることが条件だと教えてくれる.

越前福井藩の藩医の子息だったが,当時,「藩医」の身分はけっして高くない.
しかし,この時代の特徴で,家老がその才能を見ぬき,藩主松平春嶽の秘書役に抜擢する.
コンサルタントの神様,二宮尊徳も,小田原藩家老家の財政再建に成功して,この家老が藩主に藩の財政再建を担うようはかり成功させた.

家老から紹介され,はじめて左内を見た松平春嶽とて一瞬ひるんだという逸話がある.
名君にして英邁な春嶽すら,「子どもじゃないか」と.
ところが,名君の名君たるところ,左内の才能を見ぬくと江戸に帯同させ,徳川将軍に紹介するという,当時としては「暴挙」を敢行する.いかにご親戚筋とはいえ,家臣を「献上」したのだが,なんと将軍もこれを受けた.春嶽を信用してのことだという.

幕閣になった左内が書いた建白書に,「内閣」の概念があった.
それで,首相に相当する「大老」が首班として,各担当老中をチームで率いることを提案し,さらに,「大老」には井伊直弼がふさわしいと「推薦」している.

現実に大老となった井伊直弼の,「安政の大獄」で,左内は逮捕される.
獄中,「啓発録」を取り寄せ,自ら「朱」を入れることを所望しゆるされた.
最後のページに「コレデヨシ」が,残った.
納得の人生は,享年二十五歳.

人生における子どもの時代がどんどん長くなって,とうとうおとなとの区別がよくわからなくなった.
おとなは子どもを「子ども」としてみる目をうしない,「指導」をやめた.
とうとう,かわいい「ワンちゃん」とおなじになった.
「かわいい」「かわいい」で,いいのである.

ましてや他人の子どもなら,どんな悪さをしても見なかったことにする.
いちいち小言をいうのも面倒だが,もっと面倒なのが親だからだ.
どんな文句をいわれるか,よかれがあだとなって返ってくるなら,こんなばかばかしいことはない.
「どうせコイツの人生なんて知ったこっちゃない」のである.

こうして,「要求の自我」という本能がのびのびと育成される.
要求の自我の「自己抑制」ができるひとを,おとなというから,おとなにならないように育てるという滑稽が,日常になった.

これらの根拠はどこにあるのか?
もしかしたら,ジャン・ジャック・ルソーの「エミール」や「人間不平等起源論」かもしれない.
ルイセンコ化した教育学者たちが,狂人ルソーのお先棒をかついでひさしいのがわが国である.
教職につくものに「必読」としてエミールを「強要」させるのは,世界でわが国ぐらいだろうし,ルソーを「偉人」として見るのもわが国ぐらいだろう.

しかし,わが子を厳冬の屋外に放置して,死亡すると「生きる力が弱い」などといってはばからず,5人が犠牲になっている.
この「厳しさ」は,さすがに実行するものはいない.

どんな状態に「なる」とおとななのか?
どんな状態の「まま」だと子どもなのか?
明日は「こどもの日」.
もはや「全」国民の祝日なのかもしれない.

おめでたいことである.

「平成バブル出版フェア」開催希望

バブル時代の功罪はいろいろあるが,「功」といえば「本」である.

「活字離れ」が本格化したら,やっぱり「出版不況」になるものだ.
もはや出版業界は「構造不況業種」にあたるのだろうが,日本人の人口が減れば,それは確実に日本語の本もなくなることを意味する.
数百年後に,日本語の本は遺跡の発掘のように「解読」の対象になる可能性すらある.

お金がたくさん使われれば,それは「景気がいい」という.
もっとたくさん使われると,お金どうしがこすれあって熱をもつように「過熱」する.
いまではとうてい企画さえされないような本でも,当時はスポンサーがついたのだろう.
バブル期には,おもしろい本がたくさんある.

昔ながらの古本屋さんは,ずいぶんと減ったもののまだやっている.
店内をのぞくと,なんとなく分野別にコーナーになっている.
この売りたいのかどうなのかがわからないところが,古本屋の真骨頂であって,いかめし顔の主人がマニアックな本を読みつつ,ちらちらとした目つきで客をみるのである.
まるで落語の世界だから期待はしないのだが,「バブル期出版コーナー」があっていいとおもう.

文庫本や新書が,パラフィン紙に包まれていたころ,出版社はいまではかんがえられないほど強気だったのだろう.
それは,物資がなかった時代のなごりであり,知識への渇望があったのかもしれないが,どこにも「買ってください」と媚びを売るつらがまえではない.中身の活字もちいさくて潰れてしまっていたりするから,読みにくい.
しかし,肝心の内容は,新書だって,当代一流が書き下ろしているから,いまどきの数時間で読了するような「やわな」ものではなく,たっぷりの分量と学術の質,それに良心があった.

そんな時代の最後にあたったわたしは,生まれてはじめての文庫本として「ルパンの奇巌城」を買った.学校図書館にある,子ども名作シリーズとは,まるでちがうルパンがいた.
それからしばらくして,文庫本はパラフィン紙からきれいな表紙になって,紙も活字も断然よくなった.すると,皮肉なことに「世の中は活字離れ」となっていった.

本棚を整理するのはたいへんである.
自宅でも気が折れるから,古本屋さんはなにもしない.
だから期待しないのだが,バブル時に咲いた出版の華をみてみたいのだ.
そうとうに手間をかけたまじめな本が,経済崩壊とともに絶版となって散ってしまった.

そういえば,バブル発生前に「リストラ」という言葉は使われていた.
ちゃんと「リストラクチャリング」と表現されているまじめさで,意味も「事業再構築」だった.
これは,プラザ合意を受けての大変革時代を背景に,将来の企業経営のありかたを「根本から問う」ていたのだ.

いま思えば,これは,「世界史的に成功した経済人としての日本人最後の自問だった」ろう.
それが,日銀の余計な介入でバブルをつくりだしたから,現状の延長線でなにも問題がないばかりか,空前の景気に沸いてしまった.この時点で,「経済人としての日本人は絶滅した」とおもう.
あとは,「Money」に目がくらんだ亡者ばかりとなっていまに至る.

あまりの「過熱・沸騰」に,これはいかんと,政府が「総量規制」というほとんど「憲法違反」の政策で介入したら,泡の積み木が根底にあった「自由経済」という基礎から吹き飛ばしてしまった.
われわれは,「9条の憲法違反」には敏感だが,「経済と自由の憲法違反」にはおそろしく鈍感な国民である.こうして,どっぷりと「政府依存」という「無責任」体質に変様した.
これは,陶器の世界では珍重されるが,社会としては重大な「窯変」ともいえよう.

過熱から一気に転じた,急速冷凍状態の経済で,人員削減に血まなこをあげた企業は,「合理化」だとまずいので「新語」をさがした.
「合理化」は,70年代の「合理化反対闘争」が記憶にあるからだ.いまさら労組と蒸し返しになる面倒な交渉はしたくない.とにかくはやく人員を削減しないと,経営者が責任を負わされる.そんな責任はぜったいにいやだ.だって,ひとつも悪いことなどしていない.

それで白羽の矢が立ったのが「リストラ」だった.
こうして,わが国経済用語から,「リストラクチャリング:事業再構築」が削除され,「リストラ:人員削減,肩たたき,会社都合退職」などという用法が定着したのだ.

経済史としても,バブル期のゆたかな,そして二度とこないだろう出版の花盛りは貴重である.
しかし,だからこそ,生活文化としてとらえれば,けっして侮れない内容なのだ.
今週は「メーデー」,「憲法記念日」があるゴールデンウィークである.
それは,「平成時代最後の」がつく重みがあるはずなのだが,どなたも遊興にいそがしく,こんなことに興味はないだろう.

国会図書館ではなく,殊勝な古書店に,平成バブル出版フェア,を是非開催していただきたいというのが,せめてもの希望である.

自動精算機で買いものができない

さいきんのスーパーマーケットには,「セルフレジ」が導入されてきているが,レジ担当者が商品を読み込ませ,支払だけを「自動精算機」にするという,「セミ・セルフレジ」の店もある.
もちろん,従来型のレジもあるから,利用者はすいている方を選べばよいのだが,そうなると「セルフレジ系」になるのは当然である.

セルフレジは,列に並んだとしても四台ほどのかたまりで設置されているし,セミ・セルフレジの自動精算機は,二台セットで設置されていることがおおいから,従来型のレジとは「処理能力」がちがう.
つまり,これは,「待ち行列の理論」そのものの応用である.

「待ち行列の理論」というのは,1917年(大正6年)にアメリカでの自動電話交換機の開発から「考案され」,第二次大戦中に「完成された」といわれる「理論」だ.さいきんでは「渋滞学」ともいわれるそうだ.
ずいぶん前から,といってもここ二三十年のことだが,日本でも「公衆電話の並び方」や,「銀行ATMでの並び方」で導入されたから,気がついたひともおおいだろう.

一台ずつの機械の前に並ぶより,一箇所にまとまって並んで空いたらそこへいくという並び方のほうが早く順番がくる.
また,並んでいる途中で,窓口が一箇所でもふえると,急速に列に並ぶひとの数が減ることも,体験的にしっている.
これらは,すべて「待ち行列の理論」で解けるのだ.

そんな「理論」もふくまれた,最新の買いもの精算機ではあるが,お年寄り層には不人気である.
タッチパネル式の画面に違和感があって,同時に音声ガイドがまくしたてるから,「ちょいパニック」になるのだろう.それは,目からはいる情報と耳から入る情報から,同時に処理を強要されているように感じるからだとおもう.このあたりは,「ユニバーサルデザイン」の問題だ.

自動精算機を嫌う,あるいは戸惑いながらつかっている姿をみると,あとどのくらいしたら,自分もああなるのか?とかんがえるのだが,そのときはどんな精算方式なのか?見当がつかない.
たぶん,方向として「キャッシュレス」なのだろうが,どんな意味での「キャッシュレス」なのかがわからないのだ.

銀行員をして大量リストラの対象にする「自動化技術」は,お金というものがもつ「情報」に対しての「自動化」だから、これはかなり生活に身近なことまで影響するだろう.
すでに,家庭用として「スマートスピーカー」という便利グッズが人気になっている.要はコンピュータ(人工頭脳)と,会話ができてやりたいことを命令できるものだ.

家庭内のさまざまな「モノ」が,ホームネットワークで連結されれば,「スマートスピーカー」を介して「自動化」ができる.すでに,カーテンの開閉や,ルームランプの点灯や消灯はお手のものになっているし,生活用品の「発注」もできる.
「発注」ができるのは,支払方法がきまっているからで,「自動決済」が現実になった.しかし,ここでは,おおくのばあいクレジットカードのことをいうだろう.

「デビットカード」が普及する文化と普及しない文化がある.
欧米は普及する文化で,わが国は普及しない文化だ.
このちがいは,「銀行口座」と「資産」のかんがえかたがちがうからだとおもう.

それは「小切手」でわかる.
わが国で,小切手を個人が生活上ふつうに利用するという文化はないし,過去もなかった.
ところが,ヨーロッパはふつうだった.むしろ,自国通貨をもつより小切手の方が便利だった.
せまい地域におおくの国がひしめくから,しぜんと為替のかんがえかたが発達したのだろう.

日本は,「天下の台所」だった大阪圏では「銀」,政治の中心江戸では「金」が流通の基本だった.それで,大阪と江戸の商取引は,銀貨と金貨の交換が必要となって,相場とともに為替ができた.この相場に幕府が介入して失敗し続けたのが,江戸時代の経済政策である.ちなみに,東京の「銀座」は,大阪の「銀貨」を江戸でつくらせたことが発祥である.

だから,日本の為替の大元には,現物の貨幣交換があった.
これを明治に「円」で統一した.すごい政策である.しかし,まだ銀行が一般的でない.
それで,一般には現金が重要で,送金のための為替が必要となったから,郵便為替は画期的だったろう.それから銀行が普及すると,現金を預ける「普通預金」がふつうになった.

つまり,ヨーロッパでは,資産を管理する口座と,普段使いの小切手(当座預金)口座との二つがあるのがふつうだという日本との決定的ちがいがある.それで,クレジットカードが世にでたとき,かれらは小切手のかわりとしたから,クレジットカードをつかうと伝票にサインする.まさに,小切手文化の継承である.だから,手段としてのクレジットカードが普及しても,引落口座は当座預金のままだったのである.

ところが,クレジットカードの引落には月単位の時間差がある.これは,当座預金の管理をかんがえると面倒だ.それで,直接つかった時点で引き落とされるデビットカードは,かつてなく便利な「電子小切手」なのである.
このかんがえが,日本にはない.

さいきんなにかと話題の「仮想通貨」も,以上から感覚のちがいがわかる.
デビットカードでは,送金ができないから「電子小切手」としては機能がたらない.それで,「仮想通貨」が,次世代の「未来型小切手」であると感じるのだ.だから,仮想通貨は当座預金から発行(振り出し)されればよく,仮想通貨じたいを預金するという発想が希薄である.
一方,わが国では,「相場モノ」になってしまった.

わが国では,「普通預金」の概念をかんたんにかえることはできないだろう.
すると,当面は,クレジットカードが主流にならざるをえないのだが,加入には「審査」がいる.
年金世帯では,これもハードルがたかいだろうから,デビットカードの普及がスーパーマーケット決済の合理化に寄与することはまちがいない.

すると,通帳のページ数が足らないのではないか?
毎日の買いものの決済が,通帳に記載されるのは年金世代には便利なはずだが,すぐに通帳があふれるだろう.
おそらく,これがスーパーマーケット決済のキモになるはずである.

デビットカードが普及すると,あらゆる商売に影響する.
日本には,仮想通貨革命のまえに,デビットカード革命が必要だ.

カリスマ講師は文科省のおかげ

わが国の省庁は,明治以来かわらずに一貫して現在までも,「産業優先」を政策コンセプトにしている.これは,本ブログでもくり返している.

このところ,大手予備校が中学・高校での出前授業を請け負っているというニュースを目にして,さもありなん,とおもったので書いておこうとおもう.

わが国には二種類の教育機関がある.
文科省の支配下にある教育機関と,そうでない教育機関である.
憲法89条は,私学助成金にかんする議論をよんでひさしいが,国の支配下であれば助成金の支出は合憲と解釈することを根拠に,いわゆる「学制」がさだめる「学校」は,「私立」であれ助成金を受けられるようになっている.

つまり,「私学」ゆえの特徴ある「建学の精神」も,国家から助成金を受領するという「アメ」をもって,学習指導要領などもふくめた,文科行政の支配下にはいるという「ムチ」でからめとられているのがわが国教育機関の現状なのである.
だから、国公立の大学と私大がおなじ土俵で評価されることに不思議はない.

ところが,アメリカでは,連邦を「国立」とすれば,12の「大学校」しかなく,7校が軍事,5校が非軍事とはいえ外交官養成,法施行養成,鉱山安全,FBI,消防という特殊性のある教育機関でしかない.それで,「州立」ということになるが,こちらもおおくが「職業訓練」を趣旨にしているから,日本の公立大学とは様相がちがう.

逆に,英国はほとんどの大学が「公立」なのが特徴だろう.しかし,「公立」といっても,日本のような形態ではなく,「基金」をもとにしているから,運営形態はまったくちがう.公的資金を一切得ず授業料だけで運営する大学を「私立」とするなら,1976年開学(マーガレット・サッチャー教育相)のバッキンガム大学が初になる.なお,女史は後にこの大学の総長もつとめている.

旧社会主義国ではどうか?ポーランドでは,すべての大学は国立で,私大はない.また,大学入学は基本的に「高校卒業資格」のうちの優秀者にあたえる「大学入学資格」によるから,学校間での「格差はない」という.それで,おおくが地元の大学に進学するが,なかには首都での生活をしてみたいという贅沢な希望で,ワルシャワ大学に入学するものもいる.教授陣も分散しているというから,教授が転勤すると,学生も住居移動することがある.国家の頭脳を育成しているという原則から,授業料は「無料」.そのかわり,1単位でも落とすと「放校処分」という厳しさであるから,そもそも「卒業」できる割合が極端にすくない.それに,どこの大学を出たか?という大学名における帰属意識が「まったくない」ので,貴重な「大卒という学歴だけ」で社会に通用するという.

さて,わが国の事情にもどると,文科省の教育行政のトンチンカンはむかしからではあるが,教育内容までの「指示・命令」は,国家主義の残滓ともいえるだろう.
さまざまな規制(物理的なものだけでも敷地面積・建物・教室空間の規定などなど)から,助成金なくしては運営が不可能なほどにしばりがあるので,江戸時代のような「寺子屋」を設立しても,「卒業資格」や「学位」を得ることはできない.もちろん,江戸時代には「学位」などなかったが,これは,むしろ,文科省支配下にするための規制であるとかんがえればわかりやすい.
ならば,ポーランド方式がなじむのでは?ともおもうが,「東大卒」をはじめとした「学校名」に強いこだわりと帰属意識があるし,単位をおとして「放校」ともなれば,「学生ストライキ」になると「教授陣」がおそれているらしいから,何をか言わんやである.

その文科省が打ち出したのが,小学校からの英語教育導入である.
すでに導入されてはいるが,2020年から「義務化」されることがきまっている.
それで,昨年17年度から,大学の教育課程の学生に「英検2級」(高校卒業レベル)取得を要請しているというトンチンカンぶりだ.
現状の日本の小学校教諭のほとんどが「英語ができない」ので,せめて新任教師はという窮余の策であるらしい.

こんな実態があるのに,なぜだか親からの不安の声が聞こえてこない.
国会をゆるがすべき問題は,「忖度」がどうのではなく,ほんとうに小学校から全国一律で英語教育ができるのか?というリアルな問題なのではないか?(英語教育の賛否ではなく,できるのか?という方法論だ)
中学入学前に「英語嫌い」をわざと量産する意図がある政策ではないか?つまり,鎖国化をうたがう.

小学生が相手なのだから,英検2級もあればダイジョウブ.
これに,英語が母国語の外国人の「補助員」を採用させれば,「生きた英語」をまなばせられる,と.
本気でかんがえているのだろうか?
これに,わが議員たちはみな賛同しているのだろう.

外国人に日本語を教える「日本語教師」には,「日本語教育メソッド」がある.
ただ日本人だというだけで,外国人に日本語を「プロ」として教えることはできない.だから,「日本語教育メソッド」を学んだひとが日本語教師になる.
これは,おもに「日本語文法」を,外国語の文法と比較して教えるという方法なのだ.
すると,英語を母国語とする外国人といえども,「日本語文法」を知らずして,ただ英語を話しても生徒には理解できないし,なぜ生徒が理解できないかを理解できないだろう.

注意したいのは,小学校・中学校の「国語」で習う「文法」(「学校文法」という)と,「日本語文法」は別物であることだ.
学校文法は,将来=高校での「古文」を習う準備としての「文法」なのだ.
しかも,学校文法を教える教師は「国文科卒」のはずだし,一方の「日本語文法」も「英文科」で主に教えているわけではないから,英語教師にもなじみがあやしい「教育の谷間」になっている.
この「違い」を知らないで,外国語である英語を子どもに教えるとどうなるのか?

外国人への日本語教育で著名な先生にうかがったはなしでは,日本人が外国語を不得意とする理由に,「日本語文法」をしらない,という問題があると指摘されたことだ.
日本語をあたかも外国語としてみる「日本語文法」を理解すれば,文法が厳密なおおくの欧米語の習得が楽になる,ともいわれる.

「不安」はつのるばかりだが,どうしたらよいかがわからなくなれば,だれかに「依存」したくなるのは人情である.
それで,文科省の教育行政支配の外にある「予備校」に目が行くのは自然のなりゆきだろう.
もはや「現場」からの要請で,予備校講師が教壇にたつのが常識になりつつある.

文科省は,はからずも少子で苦しむ「予備校業界」活性化の救世主になった.
すると,本業の「教諭」は,いったいなにをするひとになるのだろう?
まさか,講師選定の「入札条件」を書く「役人」になるしかないなら,銀行のリストラにつづく,教師の大量失業時代があんがいはやくやってくるのかもしれない.

ならば,予備校講師が学校を乗っ取れば,自治体に家賃をはらうことで,完全授業料運営の学校に変身できるかもしれない.
地域のおとながその気になれば,学校から文科省の影響を排除できる可能性がでてきた.
その原因を,文科省がつくったのだから,これを自業自得というのだろう.
しかし,これが学校間の「競争」になるから,いまより悪いことはないはずだ.

「英語」という「アリの一穴」が,文科行政ひいては教師の特殊な身分という岩盤を突き崩す破壊力をもっている.
「その他の教科」にもかならず波及するはずだから,これは「見もの」なのだが,その間の犠牲者は「子どもたち」である.なんとも切ないはなしだ.

経営が下手だという自覚

「経営者」という職業は,創業者とそうでないひとからなっている.
そうでないひとは,たいていサラリーマン経験者である.
それは,創業者の子孫でもそうであるが,ただし同期入社のひとたちよりもずっと速いスピードで「経営者」になる傾向がある.

経営は,神ならぬ人間のおこないだから,どこかで間違える可能性がある.だから,おおかたの組織は,間違えても修正できるようにつくられる.
ところが,経営が下手なひとがやると,間違いだらけなのに間違えていることに気がつかないようにしてしまう.
そして,ここが肝なのだが,自分が経営が下手だという自覚もない.

ブレーンを作る

経営がうまいひとには,たいていブレーンがいる.いなければ,座右の書がある.
これは,ナンバーツー「二番手」が要であることを意味する.
豊臣秀吉の出世物語は,初々しくも華やかであるが,晩年の悲惨は,弟秀長をうしなってからである.

中小企業だから,社内にひとがいない,と嘆く社長はおおい.
手前味噌だが,ならば外部コンサルを上手に使う手がある.
「外部」のメリットは,「内部」のひとには新鮮で,かつ,「他人」だからその分軽い.
「重い」はなしが軽くなるのだ.

予算制度を利用する

いま話題の「財務省」,かつての大蔵省が,「最強の官庁」といわれてきた理由は,「政府予算の編成権」にある.これは,いまでもおなじである.
役所は自分で稼ぐことがないから,予算の配分を得なければなにもできない.それで,大蔵省の予算担当(主計)官には,各省庁の局長級も頭が上がらないばかりか,「事業」の評価までされてしまう.そもそも,主計官は課長級だが,課長補佐級の主計官輔すら,担当省庁の活動を熟知しているのは,お金のうごきでなにをしているかがわかるからだ.

この制度を民間会社も真似て,企業内の「予算制度」ができた.
だから,企業内官僚には,最強の「予算担当者」が存在する.
かれらは,各部署のお金の使い方をしっているから,もっとも強力な牽制機関になりうる.
つまり,経営者には,みずからすすんで「予算策定に参画する」ことで,かなり正確な社内の状況を把握できるチャンスがあるのだが,「大臣」になってしまうことまで真似て,官僚丸投げを平気でするから,自社内でどんなことがおこなわれていて,どんな方向が望ましいのかも不明になるのだ.

読書が趣味という経営者が読む本

有名な企業の有名な経営者にはたいがい「座右の書」というものがある.
さいきんは,有名だが無能な経営者と,有名で有能な経営者の区別ができるようになってきた.
有名な経営者には,取材をつうじて「語録」というものが残るから,その後その会社がどうなったか?によっては,たいへん無意味な「語録」もある.これを反面教師にするというのは,あんがい有効だから,それはそれで後世の役に立っている.

座右の書のおおくが,有名な本であることがおおいし,また,難解でしられる本もある.
わたしは,名著とは,「むずかしいことをやさしく書いてある本」だと定義している.
その道をきわめた「当代一流」ほど,専門をやさしく解説できる技量をもっている.だから,エセ一流を見ぬくには,当人の代表的著作で判断できる.むずかしいことをむずかしく書くのは,だれにでもできるからだ.

経営の見通しをイメージできる良書

日本が世界に恥じるものはどんなものだろう?とかんがえたら,「英語」にいきついた.
かくも不得意な分野はほかにあるだろうか?
だれもが,あきらかに学校の英語教育は「失敗」あるいは「効果なし」とおもっているだろう.
外国人が,ほんの数年でかなりの日本語力を得るのに,われわれは,何年やっても成果がでない.
それで,おおくのできないひとは,すくないできるひとをみて,「語学の才能」がある,という.

まるで,ダメな会社がなにをやってもダメなようではないか?
ということは,どこかがおかしいのである.
どこかが間違っている,とかんがえるのがふつうだろう.
すくなくても,わたしたちは「日本語ができる」から,言語能力がゼロなのではない.

さいきんの「学習参考書」に良書がある.
たとえば中学英語の解説書のなかには,はるか遠くの大学受験もとおりすぎて,社会人になって英語を駆使できる状態から演繹して書かれているものがあるのだ.
だから,これまで教えてもらった説明とずいぶんちがうことが書いてある.しかも腑におちる.

「基礎は大切」だとだれもがいうが,「基礎」とはなにかを深くかんがえないと,あんがいと「歪んだ基礎をしっかりつくる」というおどろくべきムダな努力を強要されることになる.
まちがった基礎のうえに建てた建造物は,ざんねんながら価値がない.だから、取り壊しの対象になる.
建築の基礎は,完成から演繹してつくるものだということをわすれてはならない.

つまり,経営者は,将来像のイメージから演繹して現在の状態を改善することが仕事なのだ.
そのイメージができない,不得意だ,というひとは,わかりやすいと話題の中学英語の参考書をご覧になるとよいだろう.

悔しかったらがんばりなさい

英国元首相故マーガレット・サッチャー女史の発言として,いまだに賛否がいりまじっている「名言」である.
とくに,日本では,「冷酷だ」と不評である.

わたしの記憶では,首相就任後数々の政策(アンチ社会主義)を矢継ぎ早に打ち出しているなか,地方都市を訪問したさい,失業に苦しむ若者たちのデモ隊にむかって,「悔しかったら『勉強』しなさい」と言ったイメージがのこっている.「がんばりなさい」ではないのだ.
母親が息子を諭すという感覚と,首相になるまえの彼女の経歴が「教育相」だけだった,というふたつがかさなって記憶しているのだが,「記事」としての証拠がみつからないから不思議だ.

当時のイギリス経済は「英国病」とよばれ,西側先進国の「お荷物」になっていた.もちろん,「優等生」は,不思議と敗戦国の日本と西ドイツだった.
かつての「大英帝国」は,第一次大戦ごろにはすっかり老衰の域にあったから,第二次大戦ではもう瀕死の状態であるにもかかわらず,「チャーチルのはったり」が戦後あたかも影響力を発揮したように見せている.
子分のはずのアメリカから,戦費の借金返済を督促されると,もはやこれまで,というありさまだった.

ふりかえると,衰退がとまらない英国は,第一次大戦後からだんだんと「平等」という意識がたかくなって,「国家が富を配分する」という「本来の社会主義」を追求するようになる.これは,資本主義社会から社会主義社会に「発展する」とした,マルクスたちの「理論」がただしい,というふうにもみえたから,労働党だけでなく保守党も競って「社会主義政策」を打ち出した.
それが,「ゆりかごから墓場まで」といって有名になった.

そんな風潮にがまんできなくなったロンドン大のハイエクが,ヒトラーとの死闘中に書いたのが「隷従への道」(「隷属への道」もある)であった.

  

この本は,アメリカでリーダーズダイジェストの要約記事になって,爆発的に読まれた.もちろん,わが国では「敵国」でのはなしだから,この本の存在を一般人はしらなかった.
「アメリカ人」に大受けしたというリーダーズダイジェストの「隷従への道」を読んでみたいものだが,手にはいらない.

ところで,もう10年も前になるが,エコノミスト誌に「JAPAIN」という特集記事がでたのを覚えておられるだろうか?
「JAPAN」のあいだに「I」をいれて,「痛いニッポン」とした造語である.
当時,民主党の岩國哲人国際局長が,この記事に抗議し,「公式に謝罪を要求」したことも話題になった.英国側は,この抗議を「Joke」と受けとめたという噂もある.

政治家が外国(出版社)に,「公式に謝罪を要求する」という文化は,なにもわが国周辺国から,わが国がいつも言われているということではなさそうだ.
この「抗議」の根拠については,ご興味のある方はお調べになるもよろしいかとおもう.

わたしの興味は,かつて「英国病」と揶揄されたお国を代表する経済誌から,「日本病」と揶揄されてしまったことである.しかも,きっかり10年前だ.
ちなみに,日本ではマイナーだが,欧米ビジネス界では知らないものはいない「パーキンソンの法則」は,1958年に「ロンドン・エコノミスト誌」に発表された.ここでいう,「ロンドン・エコノミスト誌」とは,「JAPAIN」のエコノミスト誌(英字)のことである.

状況はかわったか?
たしかに変わった.10年前より,確実に悪化している.
もはや「JAPAIN」は,一般名詞化しているのではないか?

さいきんの日本の親は子どもに,「勉強しなさい」とはいわないそうだ.むしろ,「言ってはならない」らしい.
本人の「気づき」が大切だという.
「気づいた」ら,だまっていても勉強に励むようになって,難関校に合格できるそうだ.
結構なことである.

どうやったら「気づく」のだろうか?
まさか,それも本人任せなら,一生気づかないでおわってしまうかもしれない.
たしかに,子といえども他人の人生だから,親として子の人生に100%関与できないが,それはふつう「放置」といわないか.

日本はもっと「英国病」に学ぶべきである.
サッチャー女史が逝去したとき,英国でもサッチャー政策の後遺症による「恨み節のデモ」があったと報道された.
しかし,真っ向から対抗するはずの,労働党首でときの首相トニー・ブレア氏は,「サッチャー革命の基盤の上に現在の英国がある」と発言したのは注目であった.
国家負担で「ゆりかごから墓場まで」を追求しているのは,いまは日本だけだ.

やっぱり,「がんばりなさい」ではなく,「悔しかったら勉強しなさい」と言ったとおもう.

教師は競争にさらされるか?

医療の世界では,もうすっかりわすれさられようとしているのが,「パターナリズム」である.
つまり,医師が患者を上から目線で見下げ,患者はそんな医師に全幅の信頼をよせて不思議とおもわないことである.
「せんせい,おねげーしますだ.なんとか治してやっておくんなせー」
と,懇願する場面がそれだ.

もちろん,重篤な患者をかかえた家族からすれば,なんとかしてほしいと願うことにかわりはないが,きっちり病状の説明と治療方針についての説明がなされるから,納得できなければ「セカンドオピニオン」を求めることもいまではあたりまえである.
それだから,医師と患者の関係は,それぞれの「役割」がはっきりする時代になった.とくに,患者側においての「病人役割」ということも重視されている.

つまり,患者側に「降りたってきた」医師に対して,患者も,「自分の役割を果たす」ということだ.説明に納得すれば,きちんと投薬を飲むことからはじまって,まさに二人三脚での治療に応じる,ということでもある.

これにたいして,「学校現場」ではどうだろうか?
いまだに,教師の「パターナリズム」は健在ではないかとうたがう.
勉強がわからない生徒は,わからない本人がわるい.
おなじ授業をうけていて,できるものはちゃんとしているから,自分の授業方法は正しいのだ,と.

先週の4月17日,3年ぶりに文部科学省がおこなう全国学力テストが実施された.
この「テスト」の結果は,なぜか「生徒」の「学力の実態」だけの話題がおおい.どうして,「教師」の「成果」という目線がないのか?

進学のための「受験」というプロセスが,学校側による「選択」すなわち,生徒を選ぶのは学校側である,という基本的態度があるが,これをうたがう親もすくない.
しかし,「少子」という時代になって,この基本的態度のままでよいのだろうか?と,どこまで学校関係者はみているのだろうか?

じつは,親や本人から選ばれているのだ.
つまり、行動の順番は,その学校への入学を「志望」したから「受験」するのであって,そもそも「志望動機」が希薄になれば,だれも「受験」などしない.
すると,従来の,「いい学校」ということの定義「だけ」で,これからも大丈夫なのか?ということになる.

では,「受験」がない,いわゆる義務教育における公立学校はどうなるのか?
一部の自治体で,住居地域をこえて希望する学校への入学をみとめているところはあるものの,おおくのばあい,「選択の余地がない」のがふつうだろう.
つまり,これは「無競争」状態なのだといえる.

「学校」という単位で無競争であれば,さらにちいさい「校内」という単位での競争もあろうはずがない.
ここでいう「競争」の主語は,「教師側」のことであるから念のため.つまり,生徒本人や親から「教師が」選ばれるための「競争」がないということだ.だから,「テスト」は生徒を評価するもの「だけ」としかみなくてよい.教える側の能力は問われない.

これは,「予備校」や「学習塾」といった「民間」では,とっくに「ありえない」ことである.
すなわち,これら「民間」では,いかにして「成績」にたいして「成果」をだすか?がストレートに問われるから,「密度の濃い授業」でさえ,もはや「売り」にはならない.なぜなら,過当競争のなかで,「密度の濃い授業」は,あたりまえになってしまったからだ.
いまでは,「カリスマ講師」のライバル塾からの引き抜きにともなう高額取引が常識だが,公立学校における教師の引き抜きなどきいたことがない.

それで,できる子にとっては,「塾」が勉強の場所になり,「学校」は勉強の合間のレジャーランドになった.これを,競争がないことであぐらをかいた「関係者」というおとなたちが,かってに「ゆとり」重視としてしまった.
その結果が,「教育格差」である.

だから,ほんらいは,いかにして「学校」を競争させ,校内でも教師間でその「腕」を競わせるか?がテーマになるべきなのに,どういう論理か「教育の無償化」という,おどろくべきトンチンカンな議論をして,教育格差が生んだ「できない子ども」だったおとなをだまそうとしている.
しかし,これは教師の側にも都合がいいから,「教育関係者」で反対するものはいない.

これにたいして,この国の「財界」は,さらにおっとりしていて,「大学教育を充実させろ」と文科大臣に言ったというから,その鈍感ぶりにあきれる.
どういう人財がほしいのか?という,「企業は人なり」の構成要素にたいして,まったくの無頓着ではないか?
おそらく,このじいさんたちは,自社の採用を担当者に丸投げしているにちがいない.

企業も,採用にあたって「選ばれている」ということをわすれてしまったのだ.
すでに,労働条件の「事前提示」(採用にあたっての事前情報)が,1月からの改正職業安定法施行で実態として義務化されている.これで,応募者は事前に会社に問い合わせができるし,会社は答えなければならないから,ここで会社のほうが労働者からの選択の対象になるのだ.

おそらく,こんごは,この提示内容の充実がはかられるにちがいない.
金融商品を購入するとき,不動産は賃貸契約でも,たっぷりと「重要事項説明」をきかされる.それが,携帯電話の契約にまで拡大したのだ.
トンチンカンな「働きかた改革」という議論をしているが,「雇用契約」において,放置されることはないだろう.

もうはじまって,だれにも止められない人口減少時代,労働者から選ばれなければ企業は存続できず,生徒から選ばれなければ学校も存続できない.
地域に子どもがいないから廃校にする,ではなく,あの学校に行きたい,あの先生に教わりたい,にするのが,おとなのやるべきことだろう.

温泉の化学

「温泉宿の温泉知らず」
むかしからいわれているフレーズである.
現代において,これは「自社商品」にたいする決定的な「理解不足」になるから,経営に致命的なダメージをあたえて不思議ではない.

「温泉宿」や「天然温泉温浴施設」の業界団体が,スポンサーになってその「効果」にたいする「研究を支える」ほどの支援をしているはなしを聞かない.
また,「温泉税」を徴収する「自治体」という「地方政府」も,そのような研究にいかほどの支援をしているのだろうか?

たとえば,少子で生徒募集に窮した昨今の私大を,自治体が「公立大学」に経営変換させて生き残りをはかる事例がみられるが,「コンセプト」に乏しければ,自治体の財政負担が重くなるばかりで,経営変換の目的合理性を失うことは確実だろう.
本来,文科省の役割がどうあるべきかの議論が必要だが,文系ではなく理系重視,という方針からすれば,地方の元私大で理系のなかに,「温泉研究」があっていい.

テーマは,「温泉と健康」がのぞましいから,理系でも医系である.
西洋医学という主流医学は,「温泉療法」をどうみているのか?
ヨーロッパでは,入浴よりも「飲泉」が重要視されているらしいが,日本での伝わりかたはゆるやかな気がする.

温泉がややこしいのは,地下から湧いてくるからだ.
残念ながら,いまこの瞬間に地表にでた「温泉の湯」が,どのような経路でやってきたかを知る方法がない.
だから、基盤として地質学の知見が必要となるだろう.
これはある程度素人でも想像がつく.

たとえば,わたしの住む神奈川県には丹沢山があって,そのふもとには「強アルカリ性」の湯がでる温泉地がある一方,箱根には硫黄分が強い「火山性温泉」がある.丹沢山系を八王子当たりで地図を対象に折り込むと,笹子トンネルを抜けたあたりにある,山梨県の笛吹川沿いにも「強アルカリ性」の温泉郡がつづく.

伊豆半島を代表する,三島の「三嶋大社」は,そのむかし,「伊豆島」が本州と衝突してできた山々をまつっている.さらにそのまえには,「丹沢島」が衝突したというから,あんがい神奈川県の丹沢温泉と笛吹川温泉は兄弟筋にあたるのではないか?
じっさいに入浴すると,その類似性に気がつくし,温泉成分表の中身も似ているようにおもえる.

このブログでも書いたが,「ミネラル」とは,元素のなかから「水素」「酸素」「炭素」「窒素」の四元素を除いたものすべて,にあたる.
「温泉成分表」の「陽イオン」と「陰イオン」の表示から,温泉の効能も導き出すことができるから,中高の「化学」の授業で是非あつかってほしいものだ.

それで,大学では,造山運動と地質を背景にして,温泉成分の知見を健康に応用してもらいたい.
とくに,温泉のミネラルについては個人的にも興味がある.
入浴による皮膚からの吸収,飲泉による経口からの吸収が,どのような作用をするのか?
それが,健康医学的にどういう効果なのか?の実証研究である.

「ミネラル不足」という「現代の栄養失調」につて本ブログで書いたが,「キレる子ども」や「引きこもり」などの原因として,臨床から指摘されてきている.
また,外国の研究では,「認知症」「自閉症」への効果もあるという.

すると,「温泉」をたのしむ,というのは「レジャー」として捉えがちであるが,そうではなく,かなり「湯治」のイメージへとシフトするから,経営にこまった温泉宿などの,あらたな「本業」がみえてくる可能性があるとかんがえる.

現代の静かな「労働争議」

東京駅の自販機に「売切」ランプが続出している.その理由は,「労働争議」だ,という記事がある.
ツイッターでも,たくさんのリツイートがある(数日前で述べ800万人がみているという)から,そちらからご存じのかたもおおかろう.

いまどきの「労働争議」は,静かである.
むかしのは,「派手」だった.
しかし,上述のようにむかしにはなかったバーチャルな手段で,むかしとはちがう影響力を発揮している.
これを,会社側はどうみているのだろうか?と興味がわくが,あんがい「むかしながら」な反応らしい.

朝倉克己「近江絹糸『人権争議』はなぜ起きたか」(サンライズ出版,2012)という,当事者(新組合の組合長:当時)が書いた本をながめて,その会社側の対応ぶりを,冒頭の事例とくらべると,「進化」というイメージとはほどとおく,むしろ「退化」すらかんじてしまう.

ちなみに,近江絹糸の労働争議は,当時の「財界」も「恥じ」て,財界としても会社経営陣への圧力をかけたという事情まであるのだ.
三島由紀夫が,小説「絹と明察」に仕上げた,じつにおおきな「社会的事件」だった.

東京駅での労働争議は,ネット社会でのおおきな反応とはべつに,実社会での反応はおおきいといえるのだろうか?
記事は,実社会のひとたち向けだろうから,これから,というところなのだろう.
だが,伝える記事の内容は,おだやかではない会社側のかずかずの妨害行為である.

気になったのは,残業代の代わりなのか?面談を実施して根拠不明の金額が提示され,同意書をとるというが,「社長からの厚意」という説明もつくという点だ.
そもそも,会社から支給されるべきもので残業代などをふくむ「給与」は,「社長の厚意」で支払われるものではない.

この会社は,大手飲料メーカーの子会社とのことだから,きっと,「社長」は親会社からの出向者かなにかなのだろう.まず,「オーナー」ではなかろうから,サラリーマン社長であると想像できる.
すると,このひとは,親会社にもどると,またサラリーマンになるはずだ.しかし,そのまえに,これまでのサラリーマン人生で,給与は社長からもらっていると信じていたということになる.また,この会社の社長をとりまく幹部も,きっとそれをうたがわないひとたちなのだろう.

まったくのナンセンス集団が,経営幹部として存在していたものだ.
かれらは,近代資本主義社会に存在してはならない「中世封建社会」から,時空をこえて,まちがって今にやってきたひとたちである.
それは,「所有」と「占有」の区別ができない,ということで証明できる.

近代資本主義社会の根本をなす絶体のルールが,「所有権」は不可侵である,ということだ.
かんたんにいえば,自分のものと他人のものとの「区別ができる」ことである.
ここで,「占有」とは,他人のものをあたかも自分のもののように使っている状態をいう.しかし,いかに「占有」していても,それが「他人のもの」であることが変更される,つまり,自分のものになってしまう,ということはない.

ところが,中世封建社会では,この区別が曖昧なのだ.
武士に「本領安堵」のお墨付きをあたえるのが,武士政権たる「幕府」の存在意義である.
鎌倉幕府は,「貞永(御成敗)式目」において,所有権があるはずの土地を他人に二十年間以上占有されたら,所有権が移転する,ときめた.このルールは,いまだわが国の民法にて健在なのだ.
だから、わが国は,はたして近代資本主義社会なのかという疑問をはさむ余地がある.

しかし,たとえば「鑑定団」で,ただでもらったものに高額評価が出て,それを持主が売却し現金を得たところで,だれからも文句をいわれない.(税務は別だ)
これが,近世といわれる江戸時代でも,「殿から拝領した壺」を子孫が勝手に売却していたのがバレたら,もしかしたらおとがめになって,最悪,家が断絶させられるかもしれない.

もし,レンタカーを借りて,それがずっと借りっぱなしになっても,「借りている」のであって,「自分のもの」になったわけではない.
むかし,レンタルビデオを借りたものの,返却するのをすっかりわすれ,数十万円の請求を泣く泣く支払ったという事例がけっこうあった.

さて,本件にもどると,会社はだれのものか?という根幹に触れるのが,給与を「社長の厚意」とする発想にある.これでは,殿と家臣の関係になる.
近代資本主義社会での会社は,株主のもの(所有)である.
経営者は,株主から,経営という業務を託されているにすぎない.

だから,社長には会社の全資産を配分する権限があるようにみえるが,そうではない.社長は,会社を「占有」しているにすぎないから,もしおおきな資産配分の事案があれば,それは株主総会にはからなければならない.

労働者は,労働という商品を会社に売っていて,会社は,自社と雇用契約がある労働者から,労働という商品を買っている.このとき,「未払い」があるとしたら,それは会社の負債になる.
もちろん,労働という商品は,時間と質からできているから,あらかじめその料金はきまっている.

だから,労働者が「先に納品」してしまっも,成果とともに月末に給与が支払われるのはあっていい.つまり,前払いでなくてもよいのだ.
この論でいけば,「残業代」も,「先に納品」した,労働という商品になる.
だから,会社には支払義務が生じるのである.

もし,会社が残業代を支払いたくない,とするなら,「残業を発生させない」という指示をしなければならず,もちろん,それが合理的な指示であることが条件になる.つまり,働きかたと働かせ方の合理的な方法の提示である.
この事例の会社は,労働者の要求をみとめた労基署と,「見解がちがう」そうだから,まずは,業務上残業を合理的になくす方法を提示しなければならない.

戦後の(日本が途上国だった)高度成長期に「労働争議」となった経営者とおなじ発想で,今日もかくなる恥知らずな会社=経営者が存在することが,珍しいではすまされない「闇」である.
それにしても,「働きかた改革」が社会の話題になっているのに,「財界」の反応がみえてこない.
せめて,近江絹糸のときのようなリーダーシップを,財界もとるべきではないか.

一方で,こないだJR発足以来の「労使協調」がこわれた,JR東日本労組は,本件にどのような対応をしているのだろうか?
残念ながら,「記事」からはみえてこない.
鉄道の駅,というだけでなく,起きている現場が「東京駅」という「顔」なのだから,巨大労組が支援しないのか?という疑問である.

財界も,労働界も,この問題をどうするのか?
他人事でとおる話ではないはずだ.
また,労基署と「見解がちがう」で世の中とおるものなのか?もし,それが「とおる」なら,わが国は本格的に,「あたらしい中世」という時代区分で,世界経済から異質の存在になるだろう.