「仕組み」で病気にさせられている

国民と政府が乖離して、政府は国民を支配してときには命も奪う恐ろしい存在になる、なんてことはソ連とかの全体主義国家でしかあり得ない、とおもって生きてきた。

ある意味、指導力がない政治家が、「国民のみなさん!」といったり「国民のために」ということを半分バカにしながら信じ、「優秀な官僚」が支えているから大丈夫だともおもっていたから、ろくにかんがえることもしないで済んだ。

しかし、どうもおかしい、ということに気がつきだしたのである。

ある程度の「訓練」とか、じぶんで「やってみる」ことを繰り返しているとできてくるのが「思考実験」だ。
これは、「習慣化」するので、いったんできるようになると、こんどは「やめられない」ということになる。

「実験」というと堅苦しいから、もっといえば「妄想を膨らます」のである。
「妄想」なので、ばかばかしいというひとがいる。
しかしそうではない。

逆に、もしそんな発想があるなら、ためしに「妄想」してみたらいい。
「妄想もできない」自分にもっと驚くはずである。
これを、「頭が硬い」とか、むかしは「トンカチ」といったのだ。

頭の中の「思考」は、どんどん膨らむけど、そのうちなにがどうなっているのかに自分の頭がついていけなくなる。
それが面倒くさいようにおもうので、思考をやめる。
これが、「思考停止」なのだ。

デジタル機器が進化して、自分の思考を描いて記録するツールとして、「マインド・マップ」ができた。
紙に手書きでもいいけれど、圧倒的に便利なのがデジタル・ツールだ。

スマホでできるから、電車の中で時間つぶしのゲームに興じるより、よほど自分のためになる。
これを、「妄想ゲーム」といってもいい。

書きとめる必要は、浮かんだ発想が次から次へと連続したり、飛んだりして複雑化するからである。
それで人間の脳は、興味の強さや実現可能性を優先するので、書きとめないとこれらの優先順位から漏れた発想が「消滅」してしまうのだ。

つまり、マインド・マップの重要な機能は、漏れをなくすばかりか、あんがいと後からみたら、その「漏れ」のなかに「ひらめき」があったりすることを発見できることにある。

常識を超えることができるのである。

さてそれで、「国民皆保険」という「(社会主義)制度」があるから、たいがいの日本国民は病気になると「保険証」をもって医療機関に受診する。
なので、この「医療機関」とは、「保険医療機関」のことをさす。
保険医療機関は、厚生労働大臣の「指定」機関のことでもある。

それがどうした?ふつうじゃないか?

ところが、すべての保険医療機関では、すべての医療行為を「保険点数」で計算し、それをもって「保険請求」することになっている。
この「請求」のうち、「本人負担割合」だけを患者が請求されて負担するけど、「それ以外」は、医療保険に請求して、保険から支払われるのだ。

いやいやそれで?

つまり、わが国の保険医療機関にいる、医師・歯科医師、薬剤師は、「保険点数表」にある業務が「すべて」なのである。
これをプラスの意味でも、マイナスの意味でも逸脱したら、たちまち「不正請求」になるからである。

そしてこの「保険点数」は、全国一律という社会主義に基づくので、地域差も医療機関の設備差も無視される。
だから医師は、「データ」しか観ない。
「データ」とは客観情報なので、それが「保険点数」による診療根拠だからだ。

これが、わが国から「名医」が消えた理由でもある。

となると、わが国の「医学部」や「歯学部」「薬学部」は、ぜんぶ「保険点数」の支配下になる人材を教育していることになって、たとえば、「最高峰」の東京大学医学部とは、保険点数の「設定」に重要な職務があるという意味になる。

患者からすれば、自分の病状がどの「点数表」に適合するかの「診断」がされて、その「点数表」にあるとおりの医療行為と薬の処方を購入している「だけ」となっているのだ。

これは、「完全マニュアル化」だ。

「あなただけ」の医療とは、絶対にならない「仕組み」なのである。
「症状の組合」せが、「個人別」というだけだからだ。
つまり、「症状」が細かくユニット化されていて、あとは「足し算」なのである。

すると、もうひとつ重要なことに気づくのは、症状がないと保険点数の計算ができないから、「予防」ができないのである。
逆に、症状をつくると保険点数が増えるから、医療機関は収入が増える。

そんなわけで、どこにも「引き算」が入り込む余地がないので、わが国の国家予算の半分が医療費になったのである。
しかし、だからといって、誰も困らない、のは、社会全体で負担するという社会主義そのものだからだ。

国民からしたら、「五公五民」どころか、「六公四民」状態までに負担させられているのを、「源泉徴収」されるので気づかない勤め人もおおい。
江戸時代なら一揆が頻発しそうなのに、それもないのは、江戸時代より「愚民化」も成功しているからである。

世界一緩い食品添加物や農薬が認可されているわが国の「食」が、国民の健康を蝕んでいても、「国産信仰」を宣伝している。
これも「仕組み」のなかに含まれているのである。

与党は「予備選挙」をしていない

なんでも「アメリカナイズ」されるのはいいことではないけれど、外国から輸入せずにはおけなかった「民主主義」という「制度」では、その「本家」の真似をするのは「理」にかなっている。

戦前に民主主義はなかったという「主張」が、なんとなく通っているけど、なにかの話題で「大正デモクラシー」が出てくると、「いかがわしい」とか「ニセモノ」とかのイメージが先行するのも、「洗脳」の効果なのである。

ならば、「戦後」アメリカが直接教えてくれた「はず」の民主主義なのに、どうして政党は「予備選挙」をしないのか?ということをあんまりいわない。

むしろこれは、「党員」という組織構成員の存在理由にまでなってしまう、重大な欠陥なのである。
逆にいえば、予備選挙をしないで公認候補を決める政党は、党員の意見を聴く場がない、ということだから、なぜに党員になるのかが不明となる。

そこを誤魔化している典型例が、自由民主党の党員に与えられた、「総裁選挙」への「選挙権」なのだ。
公式HPには、以下の記述がある。

「入党すると、あなたも自民党総裁選で投票することができます。
総裁選挙の前2年継続して党費を納めた党員の方は、総裁選挙の有権者になります。」

党員として「他にできること」の記載がない。

よくわからないのが、「党費を納めた党員」とあって、「党費」については、

「一般党員 年額4,000円、家族党員 年額2,000円、特別党員 年額20,000円以上」

としか記述がない。
すると、「党費を納めた党員」とわざわざ書くことの意味が、「党費を納めない党員」がいると白状しているようにも読める。

たしかにわたしも知人に頼まれて、「名簿」に署名したことがあって、それだけで「党員」になったようなのである。
「ようなの」は、党費を負担するのは立候補予定がある政治家が、「党費を負担する」からであった。

どうやら、どんな方法でも「新規入党者」を多数獲得したら、それが立候補するにあたっての「業績」になるらしいのである。
なので、政治家が「自腹」で党費を払って、あたかも「署名活動」のようにして、誰でもいいから党員を集めたことにする。

それで、署名をした側は、党員になった「ようなの」だけれど、それっきり「何もない」という、「ようなの」である。
つまり、「党員になった」はずなのに、党からパンフレットの一枚も送られてこないし、選挙のための電話すらない。

これはこれで、「個人情報保護」に合致しているのだけれども、形式主義がここまでだと、この活動の生産性は皆無である。
むしろそのバカバカしさを、一般人に啓発するようなものだから、政党活動としてはマイナスにならないか?

それでもって、入党には条件を課している。

「お申込みには、紹介党員が必要です。お知り合いに党員がいない場合、ご地元の支部にご相談ください。」

紹介者がいないといけない、という理由がまた不明だけど、いなければ地元の支部に聴けという。
これも、穿った見方をすれば、「党費を払って」くれるような殊勝なひとなんていないからだと思えば、「もったいぶり」も理解できる。

しかも、唯一の権利たる「総裁選挙」だって、その都度ルールが変わるので、「一票の価値」すら「党員本人」にはわからないのだ。
もちろん、総裁選挙のルールについて党員が意見をいう場はない。

こんな組織のどこが「民主主義」なのか?
アメリカ人は、どんな立場からこれを「戦後・民主主義」といったのか?

政権を担ってきた自民党でさえ「これ」だから、野党はこの都合がいい仕組みをそっくりそのまま「コピー」しても、国民から批判される筋合いはない。
責任を自民党に転嫁できるからである。

そんなわけで、わが国の政党で、党員が「民主的」に、党運営にかかわるような仕組みになっている政党が皆無のままでやってきたのである。
しかしながら、アメリカの選挙制度についてわかってきたら、「予備選挙」のあたりまえに、ようやく日本人も気づきはじめた。

たとえば、RINO(Republican in name only:名ばかりの共和党員)として、「地元の党組織」から「拒否」されたのが、元副大統領の娘である、リズ・チェイニー連邦下院議員(ワイオミング州)だ。

とはいえ、彼女は空前の選挙資金を集めていて、「除名」されても8月に行われる予備選挙に出馬することを表明している。
共和党も民主党も、「党員以外」の人物ですら予備選挙に立候補できて、党員候補と「ガチ」で闘う。

この「敷居の低さ」が、「本家」のやり方なのである。

なぜならば、投票するのが党員だからで、もしも党員以外の候補が予備選挙を制したら、それはもう「正規の候補者」として本戦に臨むことをだれも拒否できないばかりか、党組織をあげて当選を目指す。

もっとも、州によってはもっと敷居が低くて、民主党員が共和党予備選挙に投票できる「ローカル・ルール」を定めた地域もある。
なんだかよくわからないけど。

できるだけ、「適材」を発掘することを優先させるのが「前提とする建前」なのである。
なかなかに、「進化論」的なのである。

これが、わが国に全くない。
むしろ、「進化を止めて」環境適合を拒否しながら、集団で絶滅してしまうことを望んでいるのか?ともおもえる。

「リスク」に対する、「勇気のなさ」なのである。
アメリカ人は、リスクをコントールしようと努力する。
日本人は、とにかくリスクを回避する。

じつはリスクは利益の源泉だから、リスクを回避することは、みすみす利益を失うことなのである。

それがまた、失われた30年の原因にもなっている。

「鬼退治」の鬼

「鬼」は、意外にも「日本だけ」のものなので、外国人にはわからない。
一応「demon」と英訳するけど、どうしても「悪魔」という概念に変化してしまうのだ。

善と悪、明と暗との「二元論」は、人類最古のゾロアスター教の教義だから、キリスト教にも影響したし、仏教にも影響した。
けれども、長い年月と地理的隔絶の間に、それぞれがそれぞれに発展して、別の概念になったのである。

ことに、日本の場合、最新のDNA分析から、縄文人の再評価が著しくて、その「古さ」と「独自性」が維持されたことの「特別」が、人類史の書き直しにまで議論がすすんでいる。

ざっくり、3万5千年ほどの「血の連続性」が、現代日本人にまで絶えることなく続くことが確認されてきたのだ。
すると、「皇紀2600年」というレベルすらはるかに超える。

それで、「ホツマツタヱ」にある、「皇祖」が1万年前に存在したという「お話し」も、眉唾ではなくて科学的分析の対象になりだしたのである。
だとすると、人類最古の文明は、なんと「日本文明=縄文」ということになるため、世界の研究者が大注目しているのだ。

もちろん、人類の発祥が、「アフリカ」を起点とすることに変わりがないので、どうなっているのか?という大問題はある。
それがまた、議論を呼んでいる。

さてそれで、「鬼」である。
「鬼」とは何者なのか?
当然ながら「所説」あるけど、「説」だけでなく、「鬼」自体もたくさんの種類が「いた」ようだ。

この「いた」には、物理的・物質的な「存在」の意味もあるが、精神的・宗教的な意味もある。
なので、「demon」とイコールにはならない、日本だけの「鬼」になるのである。

昨年4月に95歳で亡くなった橋田壽賀子氏といえば、『渡る世間は鬼ばかり』(1990年~2019年まで通産511回)の作者だった。
もっといえば、『おしん』(1983年~84年)という「お化け」もある。

その橋田さんが書き下ろした『おしんの遺言』(2010年)に、「鬼」についての記述がある。
「鬼が住むか蛇が住むか」「鬼に金棒」「鬼の目にも涙」「鬼のいぬ間に洗濯」「鬼も十八、番茶も出花」「渡る世間に鬼はない」。

それで、『渡る世間は鬼ばかり』とした理由を、「鬼ばかり」と思わないと何事にも鈍感になって、ついつい、いい加減な暮らし方をしてしまう、というメッセージを込めた、と。

つまり、「緊張感」のある生活のため、ということだろう。

しかし、「よく考えてみると、鬼というのは、自分の心のなかにもいると思うのです。」として、「相手を鬼と思ってしまえば、自分も鬼になってしまいます。」と綴っている。

身近な例を挙げて、「鬼の夫」の世話に追われて時間がない。どうしたら時間を無駄にしないで、限られた時間のなかで効率よく脚本を書くという仕事ができるのか、その方法を会得しました。
鬼の主人のおかげで、私はずいぶん得をしました。

心持ち次第、ということなのだ。

昨日の15日、ユーチューブ番組で「新党討論SPECIAL」として、「新党くにもり」と「参政党」の2名ずつ4名での約2時間にわたる討論がライブ配信されて話題になっている。
好評の司会は、情報戦略アナリストの山岡鉄秀氏だった。

いわゆる「保守新党」どうしなので、立ち位置がそもそも似ている。
この意味でいえば、自民党内の各派閥の立ち位置とか、政権与党である自民党と公明党のそれぞれの立ち位置と比べて、ずっと「近い」のである。

だから、「討論」なのに、互いに「補完・捕捉」しあった議論になったことが、これまでの党派による「対立構造」と違うのである。
この点が、「新しかった」といえるだろう。

しかも、その近さゆえに、政権与党への「ダメ出し」について、一致しているのだけれども、これまでの「左」からのダメ出しではないことが、また「新鮮」なのである。

参政党は、街頭演説でも明言しているように、「鬼」が誰だか特定している。
それは、各国政府を超越した存在の「グローバル全体主義」を標榜する人物や団体(たとえば、「ダボス会議」や「国連」)だ。

この点で、与党にターゲットを絞っているのが「新党くにもり」だという「違い」がわかる。
つまり、「鬼退治」の相手(このばあい「次元」)が違う。

意見のすれ違いは、ここに絞られた。

すると、「鬼」になっている与党とか、その上位概念を相手にするから、「既存野党」は全部が議論の対象にもならないのである。

つまり、これは、「自民党が既存野党を飲み込んだ」という構図の現れなのである。
ゆえに、いよいよはじまった参議院選挙で、自民党やらの「街頭演説」や「宣伝カー」による「街宣」が、やけに「陳腐」に聞こえるのである。

こんな国に誰がした?
それは、「われわれ国民だ」という「本音」をはっきりいうのは、かつてタブー視されてきた。

「鬼」は、国民の「心」に宿っているのである。
それが、「今だけ」「自分だけ」「おカネだけ」だと。

政権選択ではなくて、「良識の府=参議院」にふさわしく、「道徳観」が争点になっている。
このばあい「心を鬼にして」かかってほしいものである。

「食糧危機」からの飢餓懸念

あまりにも大きな「危機」なので、かんがえたくなくなる。
しかし、「最悪」を「想定」することは、リスク管理のセオリーなのだ。

まず目に見えている「異変」は、家庭常備野菜の定番である「タマネギ」の品不足と高騰だ。
「引き金を引いた」のは、昨年夏の北海道での猛暑による「不作」だ。
続いて、各地の天候不順で、たとえば、生産2位の佐賀県では冷夏だ。

北海道は国内の7割が生産されていて、その半分がダメになった。
つまり、3割から4割の供給がなくなった。
しかし、「価格」はもっと敏感に反応して、全国平均で昨年比2.1倍、場所によっては3倍以上にもなっている。

日本人はタマネギ消費世界一という国民で、その理由は「ソース」に加工するためだ。
ウスターソースやらトンカツソースだけで、大量のタマネギを使用している。

なので、これらも「値上がり」するようになっている。

これに、「輸入」のタマネギが補完するというのも、コロナによる世界流通の滞りが加わったし、厳しい「ロックダウン」をやったハブ港の上海が事実上の「業務停止」で、中国産も不足した。

そんなわけで、タマネギが貴重品になっているから、西村康稔前コロナ対策大臣の地元、淡路島産タマネギを与野党の議員にお中元として送ったことが、公職選挙法うんぬんという批判になっている。

どこまでも、トンチンカンな御仁なのだ。

さてそれで、ことがタマネギだけならしばらくの我慢だともいえるけど、もっとおぞましいデータが発表された。
それが、農業人口の劇的な減少なのである。
過去5年で、わが国の農業者は「25%」も減ってしまった。

この減少曲線を放置すれば、向こう5年後には「半減」することになる。

しかも、「従来通り」を連綿とやっている政府の「無策」があるので、実質的に「放置が政策」だから、ほぼ確実に「半減」することが必定なのだ。

もちろん、農業者の平均寿命はとっくに70歳を上回っているから、この「激減」も、「想定内」のことである。
つまり、若年層を農業者にしようとする「政策」が皆無だということなのである。

自由経済での政府の「計画」とは、「計画経済」とはちがう。
政府は、民間の経済活力を「じゃましないこと」を計画する。
しかし、なんどもいうように、日本政府=自民党は、とっくに共産主義・全体主義を志向しているので、「計画経済」を画策するのである。

その具現化に活躍したのが、西村康稔氏であった。

世界の流通が滞ったことの大問題が、「肥料」の不足と価格高騰になって、わが国の農業者の「離農」を促進させている。
「肥料の三要素」とは、学校で習うとおり、窒素、リン酸、カリウムである。

問題は、これらの「原材料」が、「輸入依存品」であることだ。

もちろん、食糧となる植物だって、生き物だから、三要素「だけ」でいいはずもない。
「中量要素」として、カルシウム、マグネシウム、イオウがあるし、「微量要素」としては、鉄、マンガン、銅、ホウ酸、亜鉛、モリブデン、塩素などがある。

「農業は土作り」という理由が、しっかりと育って収穫できる環境としての「土壌」がないといけないからである。

そんなわけで、不足と価格高騰は、一般消費者がかんがえる「物価」とはぜんぜん次元がちがう大問題なのである。
この1年で、「三要素」の肥料が、なんと97%も高騰した。
つまり、「倍」である。

しかしカネを出せば買える、ということでもなく、それが「不足」となっている。
ダブルパンチなのだ。

くわえて、この「農産物原価の負担増」が、直接「出荷価格」に転嫁できないので、トリプルパンチどころか、「赤字」という現実を強いている。

農家が農産物をつくると「赤字になる」というのは、完全に政治的「失策」だ。

政治的にわが国の食料自給率が話題になるけど、「計算方法」によっては「かさ増し」できる。
根本的に、必須の肥料原料の自給率を算出基準にしたら、なんと「0%」という結果になる。

これは国民が飢餓に陥る、というレベルでもない。
「全滅」なのだ。

いま、われわれは、食料品があふれていて世界的にもっとも贅沢な暮らしをしている。
食料廃棄率で、わが国は世界一だ。

しかし、食料自給率実質ゼロという世界一と「表裏をなす」という、おどろくほど不安定な国に生きている。
さらにいえば、政府認可の「食品添加物」も、世界一の種類で約1500もあるのだ。

これらの人工的物質が、人体にどのように影響するのか?
「単体」で安全だといっても、「複数」でどんな「化学反応」が起こるのかについての追及はされていない。

いったん許可した「認可を取り消す」という行政処分が、面倒くさいし、もっといえば「利権」があるからである。

需給バランスが「ちょっとでも」崩れると、タマネギのようになるけれど、単品どころの話ではない「谷間の1本橋」を命綱なしで目隠しで渡っているのである。

政治家も日本人だから、この危機の被害者になるのだけど、自分たちには「特権」あるという「幻想」を信じているのは、添加物で脳が冒されているからとしか思えないのである。

生命と魂と人生

よくよくかんがえると、「世の中」は、たまたまそのときに生きている人々の「集合体」である、ように見える。

自分が生まれたときに70歳のひとがいれば、年齢差は70年ということになるけど、子供が社会を認識するようになるのに10年かかれば、おなじ年齢差でも80歳になっているひとの人生は70歳のときからさらなる経験を積んだことになる。

むかしは寿命がいまよりもずっと短かったので、「同時代人」の「幅」も少なかった。
しかし、人間という生き物は、社会の中で生きるしかないので、その社会の成り立ちに影響されるのは当然だ。

すると、いまの社会を生きている、といっても、いまの社会がいつから「いま」なのかをかんがえたら、おそろしくゆっくりに見えながら、じつは確実に変化していることに気づくのである。

たとえば、60歳になって、5歳のときやら10歳のときの記憶をたどれば、それはもう「別世界」だったことがわかるし、当時のおとなはすでにほとんど物故していて、この世にいない。

それは、自分がおとなになって就職したときの記憶もおなじで、おなじ会社とはおもえない「変化」を確認することができる。

およそ人間は、自分のことを変わらない自分だと思いこむ習性がある。
しかし、全身の細胞が半年あまりで全部入れ替わることがわかってきて、1年前の自分とは「別」の状態になっている。

このとき、遺伝子の僅かなコピーミスがあることもわかっているので、入れ替わりを何度もやっているうちに、ちがう自分になっているのに、それを本人が自覚しないで生きていることもわかっている。

こんな状態を「生命」といっているのである。

細胞の入れ替わりには、脳細胞も含まれるから、コピーミスは人格への影響も無視できない。
これに、社会自体の状況と変化が加わって、「意識」が形成される。

そしてこの「意識」の深層に、「民族の記憶」という歴史の織りなす感覚があるから、これを、「魂」というのである。
この「魂」を、「霊魂」としたときには、まったく別の最新研究があって、それが「量子力学」の分野での議論になっている。

ニュートン力学やアインシュタインの相対性理論も超越している量子力学では、物質の成り立ちである「素粒子」の振る舞いが、生活感とはぜんぜんちがう。
それで、脳とは量子コンピュータであるとして、「霊魂」の研究になっている。

人間は臨終の際、脳から量子が飛び出して、宇宙へと放出される。
それが、エネルギー体として宇宙空間をさ迷うというのだ。
このエネルギー体を、ふつう「意識」と呼んでいる。

大ベストセラーになった、分子生物学の福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』(2007年)で、生命の定義がされている。
それが、「エネルギーの流れ」であったから、「意識」が生命体として宇宙にあるというのは、奇天烈なことではない。

すると、エネルギー体としての「意識」の、過去から未来への「蓄積」が、「魂」になるとかんがえられているのは、宗教を超越した最新科学が導いた仮説になっていて、一部の科学者はこの研究に没頭している。

先日、小惑星探査機「はやぶさ」が採取した「砂」から、「アミノ酸」が検出されたことがニュースになった。
生命宇宙起源説の証拠として論じられているけれど、意識が宇宙にあるとすれば、「唯物論」として騒ぐ意味もないのである。

個体としての人間には、個体としての人生がある。

しかしそれは、個体として「だけ」ではない「社会」となるから、個体が物質的に社会を造っているのではなくて、「意識」もそこになければならない。

すると、「意識」の集合体ができるはずで、これが、「普遍的価値」をつくりだすのだとかんがえられる。
大正の世に、内村鑑三は『後世への最大遺物』として講演し、これを弟子たちが書きとめて今でも読めるようにした。

この弟子たちの「想い」も、いまでは「遺物」になっている。
テープレコーダーもなかった時代の、一言も漏らすまいと必死に書きとめた気持があふれ出ているからである。

「いまの社会」にある、「気分」がその一つで、ずっと前からある「民族特性」に吸収されるのだろう。
だから、ずっと前からあるのが先にくるのは当然だ。

そしてこれを、「意識的」に「破壊しよう」とする者たちがいる。

本来これを「新人類」と呼ぶべきなのだ。
しかして、多数の「普遍的価値」からしたら「敵」となる。
それがいま「勝負」を仕掛けてきた、「グローバル全体主義」で、あらゆる分野で野心をむき出しにしている。

わかりやすいのが「国連」であり、「WHO」だ。
なんと、ジュネーブ本部にある、「(核)軍縮会議」の議長に、北朝鮮が就任した。
おなじく、「人権委員会」の理事国に中国がなっている。

わが国では、国連憲章に「敵国条項」があるままで、「安保理常任理事国」を目指すという「世迷い言」に、多額の国家予算をつけている。
むしろ、おなじ「敵国」のドイツや意識がある国とはかって、「第二国連」を創設するくらいの意地があっていい。

いまを生きる人生で、そんな「遺産」を残したいものである。

最悪の日露関係で漁業協定停止

「敵国認定」という事態の具体的内容が7日にロシア外務省が発表した、日露漁業協定の「停止」だ。
ロシア側は、わが国が「入漁料などの支払不履行」だとしているから、まだ「穏便」に見える。

また別途、北方領土での軍事訓練が行われていて、釧路市でも「砲弾の音」が聞こえる状態にあるという。
無論、わが国政府は、戦争の反省をしていないので、「大本営発表」状態と同様に、「箝口令をしく」ごとく国民にはなんの説明もない。

それで、官房長官は、指摘された「支払不履行」を認めている。

ロシアへの「制裁」を課したつもりが、逆に制裁されてしまった。
もちろん、わが国の「制裁」は、アメリカ民主党からの指図だろうから、外務省の幹部はエマニュエル大使に泣きついているにちがいない。

泣きつかれた大使とて、「日本の問題」ということで逃げたいだろうけど、それではあんまりだから「本国に打診する」とかなんとか適当に時間稼ぎをしているにちがいない。

困るのは根室の漁民で、「拿捕」なんかされたら大変だけど、『蟹工船』を守ってくれた帝国海軍艦艇は存在しない。
「ことなかれ」が最優先なので、海上保安庁はもちろん、自衛艦もでるはずがなく、ましてや第七艦隊をや。

この無様が、わが国のほんとうの姿なのである。

それでもって、アメリカ民主党のいうとおり、ウクライナ支援したじゃないか?と右往左往している「おじさんたち」が官邸くんだりにたむろしているはずなのである。

外交現場として時系列をたどれば、「ブチャ虐殺」という怪しい「衛星写真」が発表されて、西側各国が足並みを揃えて4月8日に「ロシア外交官を国外退去処分」にしたことが、「応酬」のトリガーであった。
それで、ロシア側もわが国外交官を「同人数国外退去」とした。

これには、「相互主義」という、外交儀礼(「外交官の地位を定めたウィーン条約」)が守られたのだが、ソ連時代を含めて、わが国が「国外退去」をロシアに要求したことはなかった。
スパイ容疑があろうが、「公式措置」する前に自主的に国外退去したからである。

なので、今回の措置は、日露戦争以来の「強硬策」なのだ。

おそらく「有職故実」に通じた外務官僚は、「そんなばかな」という話をしただろう。
なので、外務報道官の対応に手際の悪さまでつつかれることにもなった。

もちろん駐日ロシア大使が弁明した、「フェイクニュース」との主張に、聞き耳を持たない対応をしたのは、わが国の側なのである。
これをやった役回りは、外務次官直々だった。

「法」の執行官としていえば、「根拠」を明確にするのが、国と国との間では当然だけど、「報道」によるしかないのと、アメリカ民主党からの命令ということをもってすれば、日本の正義もないも同然だ。

素人がかんがえても、あんなふうに(民間人の)遺体を放置したままで、正規軍が撤退をしたら、「虐殺」の疑いをかけられてしまうことぐらい、ロシア軍がしらないはずはないと思う。
それに、「衛星写真」であって、いまどきの「動画」ではない。

とっくに、アメリカはホワイトハウスのオフィスでもどこでも、「中継」で観られる状態にあるはずだ。

そんなわけで、ぜんぜん「わからない」状態をもって決めつけたのは、およそ日本人の感性とはちがうものだから、アメリカ民主党からの命令としか思えないのである。

そうやって、一方的にウクライナに肩入れさせられて、とうとうロシアから正式に「敵国認定される」という事態となった。

すなわち、わが国はいま、ロシアと戦争状態にあるのだ。

こんなことがなくても、平和条約がない状態だから、より厳しい現実がそこにある。
つまり、「漁業協定」を云々するような「平時」ではない。

けれども、「平時」を装わないといけないのは、日本政府の勝手な都合なので、国民は唖然とするしかないのである。
ところが、その肝心な国民が、まさかいま、ロシアと戦争状態にあるとは思ってもいない、という暢気さなのである。

まるで、『のんき節』の一節、「ははのんきだね」をそのままいく。

プーチン氏は、アメリカが長距離ミサイルをウクライナに供与したら、「新たな標的を攻撃する」と、6日に表明している。
その「新たな標的」とはどこなのか?
いきなり「わが国」だってありうるのである。

それがもし、このところ頻繁な「北のミサイル発射」をもって、「警告」としている可能性だってある。
なにしろ、北のミサイルとは、ロシア製だからである。

なんだか、「代理戦争」で追いつめられているのは、わが国なのではないのか?

するともう、現政府では日本が危ない。

5月23日付け長周新聞に、日露戦争の「構図」を風刺した絵をもって、ウクライナを解説している記事がある。

確かになんだか「そっくり」なのである。
それで、わが国は英国とアメリカに借金して「戦費」を捻出し、この「返済」に行き詰まって大東亜戦争に突入した。

ちなみに、「相続税」ができたのは、涙ぐましくもこの戦費返済の財源だったのである。

「借金」が、わが国の「英米隷従」を決定づけたのであって、この方法をいま、中国が世界でやっている。

役に立たない「国連安保理」

そもそもが、第二次世界大戦における「戦勝国組合」が「国際連合」という看板をかけているだけのことだから、その「中核」である、安全保障理事会の「常任理事国5ヵ国」こそが、永遠なる勝者としての立ち位置を確保する、という目的で成っている。

この「体制」が、ずっと続いているのは、もう一方の「敗者」の側の都合も合致する皮肉があるからだ。
すなわちそれが、「敗戦利得者」という、ローカルな国内事情で発生した、戦後支配層に都合がいいからである。

敗者とは、ドイツと日本の2ヵ国のことをいう。
三国同盟のひとつだったイタリアは、戦争終結直前の政変で、ドイツに宣戦布告したから、これが功を奏して「戦勝国組合」に参加した。

ちなみに、ドイツとの同盟が残っていたわが国は、「味方の敵」にあたる国々が「自動的に全部敵」になるので、サンフランシスコ講和会議での「敵国」は、ほぼ「当時の」世界中であったのだ。

なお、このときのアジアで「独立国」といえたのは、タイとサウジアラビアだけだったし、ドイツは「滅亡認定」されているから、今のドイツとナチスドイツは「別の国」だ。

これとおなじ仕組みが、「NATO」にある。
加盟国の1ヵ国でも、どこかと戦争をはじめたら、相手国はNATO加盟国全部を敵に回すのである。

プーチンとメドベージェフの両氏は、合計3回、NATO加盟を申請したけど、絶対に加盟させない、という決定を3度も受けた。
しかしながら、一度も「合理的理由説明」は、なかったのである。

それでもって、欧州安全保障協力機構(Organization for Security and Co-operation in Europe:OSCE)が1972年に発足していて、「ソ連」も1973年に「加盟」して今に至っている。
なお、わが国も「協力国」として加盟しているのだ。

現状で、世界最大57ヵ国が加盟する「地域安全保障機構」だから、国際連合総会オブザーバー資格もある。
ちなみに本部はウィーンにある。

ウクライナについて、スイス軍人でOSCE幹部だった元大佐が、ウクライナによる自国民抑圧がロシアの介入を招いた、と「自著」で解説しているので、この情報はOSCE加盟国ならしらないはずはない。

さてそれで、国連の安保理には、常任理事国だけが持つ「特権」の「拒否権」がある。
この「濫用」をさせないため、という「国連の根幹」に触れる「拒否権発動の理由説明」を4月の総会で「決めた」のだった。

「決めた」けれども、「決議」でないのは、各国が一票を投じる方式ではなくて、議場の総意による「採決」だった。

したがって、これに「法的拘束力」はない。

とはいえ、8日に「はじめて」拒否権を発動した常任理事国に対しての説明を求める会合が開かれた。
それが、「北朝鮮のミサイル発射に関する制裁決議」についての、ロシアと中国の拒否権発動についてだった。

つまるところ、わが国にとっての「軍事的やばさ」について、国連は「役に立たない」ことが証明されたのである。

しかも、「ウクライナ」への「軍事的肩入れ」をした、わが国は、ロシアから「敵国認定される」という、戦後初の事態になっているので、この「拒否権発動」のロシア側の意図に、わが国への「攻撃的当てつけ」があるのは明らかである。

対するわが国は、「あくまでも北朝鮮のミサイル発射」に話題を絞っているのは、国家安全保障ではなくて、「外務省の省益優先」が見え見えなのである。

わが国の「ツートップ」である、首相と与党幹事長が、それぞれ直近の「外務大臣」だったことを思えば、ほとんど犯罪的ともいえる「売国行為」なのである。

わが国には最も重い刑罰として、「外患誘致罪」(刑法第81条)があるけれど、これは外国が実際に武力行使したときに適用される。
だから、いまのところ問題ない、といえるのか?

司法の腐敗が、裁判所だけでなく行政としての検察にも及んでいないか?

むかし、自民党の幹事長として権勢を誇った小沢一郎氏は、「国連第一主義」を唱えて、自国の安全を全面的に国連へ委任するかの論を張っていたことがあった。

まったくもって、売国そのものであったのに、岩手県の有権者はいまだにこのひとを国会に送り込んでいる。
似たような主張をしていた、元外務官僚だった故加藤紘一氏も、山形県で圧倒的な安定支持を得ていたものだ。

結局のところ、他人依存ではどうにもならないことが、だんだんわかってきた。

「非武装中立」なる世迷い言が、教師の労働組合を中心に真顔で語られたことの滑稽は、米ソ冷戦の「安定」が、思考停止を誘発してもこれを多数のひとが支持できたのは、それなりに「幸せな時代」だったからでもある。

それゆえに、加藤周一の『フィンランド化』も、強いものには巻かれるのが一番「利口」なのだという、おどろくほどの無責任と無邪気さが、よくも外患誘致罪に問われなかったものだと、感心するのである。
フィンランド人が聞いたら、「侮辱」だと言い張るだろうに。

拒否権の説明義務は、5大国が世界を治めることの「無理」がさせたものだということだから、世界秩序は「不安定化」しているのは明らかで、「従来からのやり方」が通用しないということだ。

もちろん、わが国にとって役に立たないなら、「脱退」をかんがえてもそれが「国益に適う」ことになる状況だ。

否が応でも思考のスイッチを入れ替えないと、「生存」がままならない時代になっている。

ピカソ『ゲルニカ』と日本

349.3x776.6cmもある、巨大な壁画である。

いまはマドリードの「ソフィア王妃芸術センター」に所蔵されているけれど、紆余曲折があっていまの場所に落ち着いた。
「レプリカ」は、徳島県鳴門市の大塚国際美術館にあるし、東京駅丸の内オアゾ1階には、陶板製のものがある。

ずいぶん前だが、マドリードで実物を観た。
遠目からでないと、大きすぎてなにが描いてあるのか、「ピカソ」ゆえになおさらなのだ。

「この一枚」のために、ずいぶんな数のひとたちがいたけれど、その鑑賞には時間をかけていて、なかに、「涙する老婆」がいたことが印象的だった。
おそらく、バスク地方から観に来たか、姻戚関係者だったのかもしれない。

芸術鑑賞の奥深さは、作家の意志や意図をどこまで理解しているかという「予備知識」にかかってくる。
だから、インスピレーションだけに頼るものでもない。
といって、個々人それぞれに「好み」があるから、難しいのである。

1937年(昭和12年)年4月26日は、あんがいと日本人にはノーマークになっている「記念日」である。

この年の出来事一覧を見ると、わが国では悲喜こもごもが混在している。

2月に林銑十郎内閣が成立したかと思えば、6月に近衛文磨内閣が成立して、その中間にあたる4月に、ヘレン・ケラーが来日している。
5月に双葉山が横綱になって、7月には、浅草国際劇場ができて4日後、盧溝橋事件があって、9月に後楽園球場が開場した。

1914年から4年もやった、第一次世界大戦の「大戦景気」を知っている日本人は、いまなら「平成バブル」を思い出すまでの時間とおなじで、「戦争は儲かる」と擦り込まれていた。
これが、国民こぞって「戦争を望んだ」ことの背景である。

しかして、「第一次」世界大戦を「欧州大戦」といったのは、まだ「第二次」大戦が起きる「前」だったからで、はるか世界の裏側でやっている戦に、ほとんど他人事でいられたこともあって、この当時の「スペイン内戦」のことも、日本人が意識するまでもないことだった。

この4月26日が、「記念日」なのは、人類史上初となる「無差別攻撃(爆撃)」が行われた日として、その後の日本人にも多大なる影響があることになったからである。

すなわち、この日を境にして、軍人同士の戦いであるはずの戦争が、一般市民を犠牲にする「虐殺」を内包する事態になったのである。

この「ゲルニカ爆撃」の悲惨を描いたのが、ピカソ渾身の「ゲルニカ」なのだ。

この「空爆」をやったのは、反乱軍のフランコを支援した、ヒトラーのドイツ空軍であった。
これより、後の連合軍は、敵地の無差別攻撃を「戦略爆撃」と名前を変えた。

戦略爆撃とは、地上軍を支援するものでもない。
むしろ、一般人を大量殺戮することで、敵の「戦意喪失させる」ことを目的とする。
要は、「虐殺の方便」なのである。

そしてそれが、行き着いた「究極」が、「核」なのである。

「核」とって「核兵器」とはいわないのは、「兵器」とは「兵」を相手にする「武器」を指すからだ。
この意味でいえば、「戦術核」がギリギリで「兵器」の概念にとどまる。

この意味で、わが国はまさに「無差別攻撃」の前に屈したことになる。
そしてその「被害」の「甚大さ」が、戦争反対の重要な根拠になったのである。

一方で、日本帝国陸海軍による、「重慶爆撃」は、やった側の問題となっている。
当初は、無差別攻撃を避けるための「ピンポイント」を厳命していたものの、爆撃精度が伴わない技術的問題から、一般人に犠牲を出した。

そしてそれが、「絨毯爆撃」へと変容したことは、わが国側の汚点となっている。

そんなわけで、戦時国際法という戦争のルールは、無差別攻撃を禁止できない点で、無力化してしまった。
それはまた、世界が民主主義ではないことを示してもいるし、もし民主主義ならば、国民道徳の堕落が民主主義を無意味にすることの証左となる。

一般人への無差別攻撃こそが、邪悪な態度なのである。

ただし、技術をいったん得た人類は、これを放棄することができないという宿命も持っている。
なので、「核廃絶」とは、不可能なスローガンになることも認めないといけない。

すると、いかに「使わせないか」ということに絞られるのだ。

広島・長崎以来、実戦で使われなかった理由が、フクシマで確認できたのは、「核汚染」の意味を、核のボタンを押す権利をもったひとが理解したからだろう。

いったん核汚染をしたならば、その地を占領しても、なんの価値もないことになるし、それがどんな形で自国への世界からの報復となるかを「計算」すれば、「無価値」という結論に至るからだ。

ゆえに、「脅迫の手段」としてしか機能しない。

さてそれで、ピカソは「鳩」の絵をサイン代わりにしていた。
オリーブの葉を加えた、シンプルそのものの「絵」は、誰にでも描けそうなデザインだ。

ノアの箱舟伝説をモチーフにしたこの「絵」は、みごとなデッサン力を示したピカソらしく、真似して描いたらわかる難しさがある。
ちょっとやそっとの技倆では、決して描けない。
ピカソをして、万回単位の繰り返しの結果なのだ。

そうやって、『ゲルニカ』を眺めたら、涙がこみ上げてくるのである。

骨粗鬆症の「骨太方針」

6日、「経済財政運営と改革の基本方針2022 新しい資本主義へ~課題解決を成長のエンジンに変え、持続可能な経済を実現~」(骨太方針2022)が閣議決定された。

小泉政権時の2001年度にはじまったので、もう22回目となった。

政権の重要課題や翌年度予算編成の方向性を示す「方針」のことで、「官邸主導」だということが、「あたしかった」けど、どこが「骨太」なのか?は、国民にはよくわからないという、特徴もある。

言いだしっぺは、「ダボス会議」で日本人理事である、当時の竹中平蔵慶応義塾大学教授だった。
このひとは、TBSテレビの日曜定番の「政治ショー番組」でレギュラーとなって、「平蔵」ではなく「構造改革」だけを訴えていた。

その舌鋒は鋭くも意味不明という、煙に巻かれたごとくの「後味」の悪さはあったけど、視聴者に出演者の人事権はないから、番組を観るものは彼の論を聞かざるを得ないように仕向けられた。

いまからすれば、典型的プロパガンダであった。

それでか忘れたが、「この手」の番組を視聴することをやめた。
ただ、彼のような経済学者がペテン師だというイメージを、日本でも一般人に植え付けた「功績」だけはあった。

彼以来、「まとも」に経済を語るひとが増えて人気を得たのは、騙されない日本人の視聴者がたくさんいたからでもあった。
その中でも、「的確な解説」をしていた、たとえば植草一秀氏の「冤罪」も、本人がいうまでもなく「怪しい事件」であった。

ちなみに、わが国のテレビ局(戦後すぐのラジオ局も)は、基本的にGHQとその配下にあったCIAのプロパガンダ機関だということは、知っていていい。
もちろん、「親会社」である新聞社は、戦後に「改造」された。

世界に類をみない、新聞社とテレビ・ラジオの「系列化」は、田中角栄がやった「政策」であった。
彼が伸してきたのと失脚したのとの間に、CIAが存在することは陰謀論ではない。

もちろん、A級戦犯で死刑を免れた「岸信介」とは、「コードネーム」があった最高ランクの「要員」だったことは、公開されている「事実」であるし、対するソ連側の最高級「要員」は、瀬島龍三氏で中曽根康弘氏のブレーンでもあった。

さてそれで、先月行われた「ダボス会議」では、「一波乱」があった。

それは、「ウクライナ」をめぐる、ジョージ・ソロス氏の主張とキッシンジャー氏の主張が、「真っ向対立」したことにある。
加えて、ビル・ゲイツ氏の「WHO条約」に関しても「なにかあった」模様だ。

このような、世界との関係から、わが国の「骨太方針」との関連はどうなっているのか?に注目すると、このような「政権と政府運営のやり方」が、とっくに「制度疲労」していることがわかるのである。

「骨太方針」の「骨太」たるゆえんは、「複数年」にわたるものだからだ。
いわゆる、「単年度主義」の転換のことを「骨太」と言い換えたのである。

このこと自体は、政策の連続性という意味で合理的ではあるけれど、政府の予算制度そのものが「単年度主義」だから、わかりにくいし、トップの内閣が交代したら、「複数年」の意味も失せるのである。

すると、ずっと「複数年」にわたって「計画」を「管理」して「実行」するのは、「官僚だけ」になる。
ここに、「与党」が影響力を行使できない構造ができている。

すなわち、竹中氏が小泉政権で導入させた「骨太方針」とは、将来の歴代内閣を縛る「絆(ほだ)し」の機能を持つだけの、官邸ではなく官僚主導の「計画経済」を具現化させる、みごとな「制度設計」であったといえる。

つまるところ、「骨太」とはいいながら、さいしょから「骨粗鬆症」を抱え込んだ、ダブルスタンダードの「ニュースピーク」だったのである。

それでもって、「今年」のは、「増税」を折り込んだことが「骨太」になっている。
財務省の頭文字「Z」をもって、「Z会内閣」といわれるゆえんだ。

自民党も一応「政党政治」をやっている風情を醸し出したい意図はあるから、「政策」については、「政務調査会:略して政調会」での「決定」がないと、「党」としての政策にはならないというルールがある。

だから、政府よりも党が「優先」されるので、絶対安定多数を衆議院(下院)で保持する自民党の決定こそが、政府を動かすことになっている。
それが、「党総裁=首相」としての「立場」をつくる構造だけど、党総裁の意向とは異なる「政策」が党内で決まれば、これを実施せざるをえないのが「首相」の立場になってしまうのだ。

そんなわけで、「Z会」に真っ向対立する「政調会長」を、党総裁が指名して「党内体制」としたから、いまの首相はさいしょから「片肺飛行」を余儀なくされることになった。

こうして、「国民不在」のままで「政策決定」されることも含め、「非近代政党」に政権を委ねること自体が、もはや国民の「不幸の種」どころか、「不幸の果実」になっている。

だから、政府の骨太方針が骨粗鬆症であることは、実行に困難を伴うので、国民の不幸を和らげる効果があるのだ。

この「機能不全」が、戦後政治の「制度疲労」であって、いったん「ご破算」にしたい要望が国民に湧いてきた。
初の国政選挙に臨む、「参政党」が全国45選挙区に候補者を立てるまでの資金を、「個人からの寄付だけ」でやり遂げたエネルギーが「これ」なのだ。

骨太もなにも吹っ飛ばす、マグマが噴火するかもしれない。

中間管理職の悲惨

誰が「中間管理職」なのか?といえば、あんがいと「幅広い層」を指すのだ。

それは、「肩書き」だけで判断する場合もあれば、組織上での「部下」あるいは「下部組織」の有無を問うこともある。
けれども、一般化していえば、経営層以外で「長」などの役職あるいは資格があって、できれば部下がいるひと、のことをいう。

わたしが勤務していた会社の場合、長くその制度上、係長までは労働組合員という位置づけであったために、「新任係長研修」の場で、「管理職昇格おめでとう」と講師がいってもピンとこなかった。

けれども、わが国の「労働組合」が発足した「終戦直後=占領中」の歴史をみれば、「課長級」も労働組合を組織したかあるいは一般組合員になったという事実がある。

このことと、「公職追放」との関係は密接で、国家総動員体制で民間企業もお国に奉仕した「報国思想」から、「職域奉公」というかんがえ方が常識になっていた。
これを、「悪く言う」のは簡単だけど、あえて「良く言えば」、「企業は一家」だったのである。

このとき、経営者は「家長」として振る舞うのが常識でもあったから、奉公先・勤務先の、「職場環境」は、家長の家長たる資質に左右されるのは当然で、それをまたテクノクラートたる「番頭」が支えたのであった。
だから、パターナリズムによる「人治」が優先されていた。

それゆえに、「手に職がある=職人」は、自身の技術力に自信ができる「熟練工」ほど、独立心が強く、勤務先の企業への忠誠心は薄くなるので、気に入らなければ何度でも「転職」したのがふつうであった。

それが、「変化」したのは、経営者の力量が高まったから「ではなく」て、工業機械の性能向上による、「非熟練工」でも十分な時代になったことによる。

それで、職場の原始性が残った「庖丁人=板前」は、ずっと後になっても「包丁1本」あれば、職に困ることがなく、「流れ板」になっても生活ができたのだった。

そんなわけで、大企業の課長職が労働組合員になる、という事態の根源に、公職追放で家長がいなくなって跡をついだ「三等重役=同僚」たちが、大混乱の戦後社会でのビジネスが満足にできないというハンデもあったけど、急速なインフレで「喰えない」という現実を盾に、そのお粗末さに反抗したという意味があった。

その「表層」が、「生活給」という概念として、わが国の賃金制度のもとになったのである。
したがって、戦前の「労働争議」と、戦後の「労働争議」とは、下地となる問題の意味がぜんぜんちがう。

とくに戦後の「労働争議」を、政治思想的に煽ったのはGHQの「本音=日本弱体化」でもあったので、その「サヨク性」が長く日本社会の基礎をなす、いわば「底流:通奏低音」に仕向けて成功したのである。

それが証拠は、1938年(昭和13年)に、アメリカで出版されて、「近代経営学の祖」といわれる、チェスター・バーナードの名著『経営社の役割』における、「付加価値創造」の説明にある。

経営者も労働者も、それぞれ「別の目的」があって企業にある。
しかし、マルクスが「宣伝」したように、これら両者は「対立」するのではなくて、「協働」によって付加価値を高めれば、それぞれの「目的達成が可能になる」と論じたのである。

経営者は企業利潤の最大化が目的で、労働者は賃金取得の最大化が目的だ。
この「別々の目的」が、「付加価値創造」という「一点」だけで「合致する」ということの意味は、あまりにも重要な「発見」だった。

なお、付加価値の計算には、「賃金=人件費」が、「含まれる」ので念のため。

さてそれで、わが国企業の特徴に、「社内昇格」という経営者になるための「制度」がある。
よほどの場合でないと、企業外部から経営の専門家を呼んできて、トップに据えるという「習慣がない」のだ。

ゆえに、将来の経営者層は、いまの労働組合員の中にいる。
すると、労働組合は、付加価値創造についての強い意志を、組織内で浸透させなければならないはずだ。

さすれば、バーナード理論の実現が可能になる。

アメリカの優良企業が、あんがいと(かつての)日本企業の真似をしているのは、労使対決では企業活動が活性化しないから、だけでなくバーナード理論の追及のためである。
それが、「日本的経営システム」の強みだと知っている。

だから、ライバルの日本企業に、ぜんぜんちがう「経営システム」を輸入・導入させたのである。
こうして、日本企業は見事に「弱体化」した。

すると、やっぱり「経営者」の不勉強が目立つだけでなく、その「家長」としての「資質」もないのは、進化の必要がない、という「経営層=勝ち組」の側の「絶望的」な精神の貧困があるからである。

となれば、現場と経営層の「中間」にある、「管理職」の「悲惨」は、まるでかつての「小作人」のような「制度」によると理解できる。

しかして、徳川時代から敗戦まであった、「五公五民」の収奪制度が、いまや「国民負担率」に言葉を変えて、実質「六公四民」の、江戸期なら一揆が起きておかしくないまでになっている。

この「従順さ」こそが、「奴隷化」の国的達成を意味するのである。