YouTubeに登場する、江戸期やらの「創作むかしばなし」がいい。
わざとかなにかしらないが、字幕に出る漢字表記のまちがいや、朗読音声に連動したまちがった読みをいちいち気にしてもはじまらないのは、子供向けではなくておとな向けの、総じていい話だからである。
そして、物語にあわせた絵やアニメーションの、どこか「ジャパネスク風」のトンチンカンな作風も、これまたわざとかなにかしらないが、外国製データベースとアルゴリズムのいたずらなのであろう。
あえて、「芸風」といってよい。
よって、子供向け、とすると、教育的ではなく勘違いの刷りこみとなる畏れさえある。
だが、こうした作品群の再生回数をみるにつけ、あんがいと多数視聴されているのは、通勤時間によくあった時代小説やらの読書が、スマホ動画に置き換わったからであろうか?
ようは、現代版パーソナル紙芝居、のようだとおもえるのである。
だから、ナレーション音声も、一種独特の抑揚のないデジタル音声が、かえって往年の紙芝居屋のおじさん語りをおもいださせる。
「うまい!」という気はしないが、あの独特のセリフ回しやト書きの抑揚のない雰囲気が、現代なりに再現されているといえるのだろう。
それにしても、おおよそ勧善懲悪の構成は、どのようにしてアイデア出しからしているのだろう?
出来上がった作品の「いい話」とは、総じて道徳的、なのである。
外国だと、宗教からの道徳が強調されるが、骨子の指定が日本的だといえる。
そのわが国の現在の学校では、「道徳」改め、「道徳科」として、小学校、中学校で時間割がされている。
左巻きたちの批判はむかしからあるが、これらは家庭や家族の破壊を、ついには社会の破壊をめざすための批判であった。
近代法は、道徳や倫理を土台にしているので、「法理」をいうときには、その土台もふくめる。
けれども、道徳や倫理が崩壊したのが「先進国=現代の欧・米」なので、「法」だけが「法理」となって、「法だけを守ればなにをしてもいい」という社会になったのである。
これが、明治時代でもセンシティブだった夏目漱石をして神経症に貶めたのだろう。
そもそもをたどれば、江戸幕府が推奨した「朱子学」からして、生き方の哲学であったし、幕末には、「陽明学」が流行ったのが「本家=清国、小中華=李氏朝鮮」よりもわが国だった。
江戸の町人教育としては、関ヶ原の合戦を体験した元旗本の思想家、鈴木正三がでて、それから石田梅岩が「町人道」と「道徳」からなる「商人道」を説いて一世を風靡した。
アイン・ランドがしらない、日本における「あるべき資本主義」があったことの奇跡である。
そういえば、「国民作家」が久しく不在の時代で、「大衆小説」なるジャンルすら死語になりつつある。
子供向けなら、『立川文庫』(明治44年から大正13年にかけて刊行)や『少年倶楽部』(大正3年から昭和37年)の存在自体が、もはや後期高齢者の記憶からも消えつつある。
なので、いま、YouTubeで無料視聴できる、A.I.がつくるいい話が、これらの穴埋めをしているのである。
そうやってかんがえると、「時代劇」すら消えているばかりか、地上波テレビを所有する若者世代がいない。
いまや、企業の社員寮にさえ、テレビを自室に置く者は皆無なのである。
つまり、だれもテレビを観ない時代が確実にやってくる。
テレビ局がまさかの「斜陽産業」となった。
若いから、小さな画面のスマホで動画も文章も観られるのは、まちがいなく特権ではあるが、あとわずか20年ほどで、どちらさまにも老眼の不便がやってくる。
ときに、A.I.がつくるいい話には、あんがいと「そろばん」が登場する。
いま、世界の算盤人口は1000万人といわれているが、日本国内での数は激減しているのである。
かんがえてみると、「そろばん能力」も、経済発展を支える人的インフラであった。
このことを若い世代の視聴者に意識させるのは、悪いことではない。
むろん、わが国の道徳を基にしたいい話の脳への注入は、一種の「日本人化」であるので、これを外国人が母国語にして視聴できるとなると、大袈裟にいえば「日本人化の世界普及」活動になるのである。
インバウンドが日本での「非日常」を味わうことで帰国したのちに起きる「母国の絶望」の解決策が、「日本人化しかない」となることも、大袈裟ではないのである。

