伝統の「黒」への染めなおし

この夏は、島根の足立美術館に行ってきたと書いた。
じつは、途中、祇園まつりのさいちゅうの京都に立ち寄った。

お恥ずかしながら、わが家北側の窓際に掛けっぱなしにしたジャケットたちが、紫外線で無惨にも日焼けしてしまったのである。
しまったと気づいてももうおそく、この損害はおおきい。
「あゝなんてことだ!」
直射日光ではないからと「たか」をくくっていた自分がくやしい。

呆然としながらも、なんとかならないものかと思案していて、そうだ!とひらめいたのが「染めなおし」であった。

「黒紋付」といえば、わが国の民族衣装でも「正装」にあたる。
もちろん、格付けは「第一礼装」であるから、文句のいわれようがない。
こないだ、ブータン王国を訪問した悠仁親王がお召しになっていたことでも記憶にあたらしい。ただし、紋付き袴は、武士の正装なのではたして朝廷側として?というひともいる。

民族の「色」で、「黒一色」しかも、「限界まで黒」にこだわる、というのは、あんがい特殊な嗜好である。
そもそも「染める」という行為は、かなり科学的(化学反応)なのであって、どうして繊維が「染まるのか?」をかんがえだすと、きっと夜も眠れなくなるだろう。

日本で明治以降、たまたま人類はその時期に「化学(合成)染料」を開発したので、それまでの「伝統的」な植物などから抽出した染料のうち、とくに「藍」が駆逐されてしまう。
「藍染め」を専業とする「紺屋(こんや)」のおおくが、さまざまな「染物屋」に変身を強いられたのが大正期だという。

東京神田にも現存する、「紺屋町」(こんやちょう、こんやまち、こうやまち)という地名は、読み方をかえて全国各地に残っている。
「残っている」のは、おおくが地名「だけ」になってしまった。

その理由が、合成染料によるとおもえば、「近代」がなしえた「功罪」のひとつである。
安価でカラフルな衣料品を着れるのは、合成染料のおかげである。

人間は衣をまとわないと生活できないから、繊維を撚って糸をつくり、それを織り上げて布にしなければならない。
そのままでは味気ないから、色をつけた。
結局のところ、手にはいる材料と好みで、民族の「色」ができる。

このあたりの詳細な説明は、名古屋駅から歩いてもいける「トヨタ産業技術記念館」で、たっぷりと味わえる。
名古屋いがいの中高生の、「修学」旅行にぴったりの博物館だ。
もちろん、おとなが楽しめないはずもない。

なるほど、わが国の近代化と「自動織機」の発明がセットになって画期的なのは、人類がもとめてやまない必需品である「布」を、おそるべき精度とスピードで織り上げることに成功したからで、当時の「先進国」がこぞって購入した意味がわかるというものだ。

敗戦しても、「繊維産業」がこの国を支えた事実にかわりはない。
いまはわが国を代表する総合商社だって、そのルーツは「糸偏」がつくことが多々あるのである。

陶磁器が「チャイナ」とよばれるように、「ジャパン」とは「漆器」のことをいう。
最高の「漆器」こそ、「漆黒」なのである。
その「黒さ」は、よくみれば驚嘆にあたいする美しさで、そのようなものを一般人が持つことなどなかったろう。

いつのころからかはるかむかしから、わが国では「養蚕」がおこなわれ、絹製品の光沢はあいかわらず雅である。
製糸工場の女工たちによる「生糸」が、最初の工業製品になるのは、歴史的な突飛さがなかったからだ。

かってな推測だが、絹の布こそが「黒」に染まったとき、「漆黒」のような輝く黒になったのではないか?
また、そうさせようと染め物職人たちが追究した。
そうであったから、「第一礼装」になりえたのだろう。

そんなわけで、藍染めの紺屋が、黒染めに転じて生き残りをはかったから、いよいよ、その「黒」が「黒さ」を増したのだ。
合成染料にだせない「色」なのである。

「伝統技法」として圧倒的な生き残りを果たしたのが、京都だった。

むろん、各地の藍染めの紺屋が、各地で黒染めに転じてもいるから、京都「だけ」というわけではない。
しかし、おおくが「黒紋付」という「一点」にこだわっているという特徴がある。

そこへいくと、京都では、本業の「黒紋付」にくわえて、洋装も「染め直す」という技法を開発している。
ここが、だてに「千年の都」ではない、あたらしい商品化、をもって生きのこる「都の伝統」があるのである。

日焼けしたのは、秋冬物のジャケットだったから、この夏場に注文すればちょうどいい、とおもいついたのである。
幸いなるかな、ウールやカシミヤ混という「天然素材」であったので、「うまく染まるはず」と案内された。

そして、先日、届いたのである。

さっそく羽織ってみれば、事前の説明どおりソフトな風合いになってはいるものの、みごとな「黒」で、しかも「喪服」ではない。

今シーズンは、ちょっとおしゃれな感じになれるかもしれない。

スマホで「数学する」アプリ

スマートフォンというのはちゃっかりコンピューターである。
人類は、自覚なしにコンピューターを持ち歩く時代に突入しているのだが、「自覚なし」だから、うっかりゲーム機として時間つぶしにつかってしまっている。

人生の時間は「有限」であることに気づくのは、ひとそれぞれであろうけど、なるべくはやく気づいたひとの方が自分の人生をたいせつに生きることができるだろう。

若いときは、時間は永遠にあるものだとおもっているものだから、ようやくさいきんになって「有限」だと気づいたのは、若くないという意味でもある。

ところが、「有限」だと思うと、こんどは妙になにかを学びたくなるもので、「識らぬで死ねるか」という感覚がふつふつとわいてくるから不思議である。
もしやこれが「年寄りの冷や水」ではないか?

まだ還暦になってはいないが、江戸末期=明治初期の日本人の平均寿命が50歳ほどであったことをおもえば、もはや「老人」になっている自分がいる。

そうはいってもいまさら「学者」を目指すべくもなく、うすい「趣味」の一環として「こんなもの」「あんなもの」をみつけると、それはそれで十分にたのしい。

スマホにはいろんなアプリが用意されているのは各人には承知のことだが、無料なのにあなどれないどころか有料アプリをしのぐような「傑作」がまぎれこんでいる。

「原子の周期表」関連では選ぶのが大変だし、「ベンゼン環」を手軽に描けるアプリもある。
「数学」では、「Maxima」という「公開アプリ」があって、無料関数電卓とは別の世界を提供している。

このアプリの前身にあたる「Macsymaシステム」は、MITで1968年から82年にかけて開発されたもので、完成後MITは「Macsymaソースコード」のコピーをエネルギー省に引き渡し、その後「公開」されていまに至っている。

つまり、個人のボランティアが製作したアプリではないし、ソースコードが「公開」されているので、世界中の研究者たちがいまも「改善」している「プロジェクト」になっているのだ。
これが、無料でつかえる理由である。

前も書いたが、わが国政府は政府が公開する各種資料に「著作権」をつける国だ。
この「成果物」の原資は、税金である。
すなわち、商用の「著作物」ではないばかりか、政府著作物は「国民資産」であるという感覚すらない。

アメリカ合衆国は、機密文書の公開には別のルールがあるが、一般公開の対象となる政府著作物に「著作権」をつける、という習慣が「ない」のは、「国民資産」であるとはっきり認識しているからである。
つまり、国民資産なのだから「コピー・フリー」なのだ。むしろ、どんどんコピーして国民のみなさんは「識ってください」という態度だ。

「資本と資産」を記述する複式簿記の概念は、資本主義発達の前提である。
株主の所有物である「資本」をつかって、いかにこれを「増やすか」を委託されたのが経営者たちだ。

だから、経営者が判断する会社の「お金のつかいかた」とは、株主のお金を委託された経営者が適切に「配分している」にすぎない。
「所有者は株主」で、これを委託されて「経営者が占有」しているのである。

わが国は、資本主義が「未発達」の不思議な状態のままでいるから、「所有」と「占有」の垣根があいまいで、占有者が所有者になってしまうのである。
民間でもこんな状態だから、国家権力を簒奪した役人たちは、出資者が国民であることを忘却して、なんでも自分たちのものだと思いこむのは、御成敗式目以前の中世時代の発想がいきている証拠なのだ。

日本国憲法29条には、財産権の絶対が明記されているけれども、民法162条では、20年占有した者に所有権が移転する「取得時効」があって、これの歴史的根拠が鎌倉時代の「御成敗式目」なのである。

つまり、わが国は「近代私法」が未整備の「未近代国家」あるいは「えせ近代国家」なのである。
とすればこそ、役所の著作物に「著作権」が主張されるナンセンスがはびこるのだ。

そんなわけで日本人でも何人でも世界中で、「Maxima」をつかえるのは、アメリカ合衆国が正真正銘の資本主義の国で、政府がただしき「著作権」の運用をしているからである。
これこそが、「繁栄」の根拠なのだし、わが国「衰退」の根拠でもある。

それでも、日本語でちゃんとした解説本があるから、民間を信じてよい。

おとなむけに、中学あたりからのやり直し数学の「Maxima」をつかった「授業」の本があれば、もっとうれしい。
「グラフ電卓の教科書がない」で書いたとおりである。

横浜市長の「衰退」危機感

「突然」といえば、「突然」だった横浜市長のカジノ立候補表明は、「反対」の波紋をよんでいる。
その反対のひとたちは、市長が「白紙」だとして二期目の選挙をしたから、「突然」にくわえて「裏切られた」がかさなっているのである。

市長のことばによる表明理由は、横浜市衰退の危機感、ということが一番で二番がないから、ここからふたつのことがわかる。

ひとつは、人口減少、である。
前にも書いたが、横浜市は「世界最大の港湾都市」だったころ、あぐらをかいて、開港以来の優良企業本社があることを当然として法人住民税を上げたらこぞって東京に本社移転され、ただの東京のベッドタウンと化した。

東京の「一極集中」は、東京の磁力が強かっただけでなく、東京にむかわせる「努力」をした、横浜市のような自治体もあってできたのだ。

これは、あんがいいまの日韓関係と似ていて、神奈川県警の警視庁に対するライバル意識が強烈なのに対し、警視庁からとくだん相手にされていないことにも象徴される。

むかしの「ハマっ子」は、伊勢佐木町と元町商店街をもって、東京銀座に負けやしないと信じ、多摩川をこえて買い物にいく習慣がなかったが、いまでは鶴見川をこえて川崎に買い物にいくようになった。

かんたんにいえば、全市が巨大な「多摩ニュータウン化」したのである。
それで、伝統的な輸出産業であった絹製品(とくに「横浜スカーフ」)から衰退がはじまり、世界の産業構造の変化から工業の衰退もいちじるしい。要は、これといった産業がない、という危機感だ。

もうひとつは、カジノが産業になる、とかんがえていることだ。
サービス業で一カ所に「一兆円」も投資する、という前例がこの国にはないし、そんな巨大なプロジェクトは民間でもめったにない。
つまり、公共事業の「ようにみえる」という「錯覚」が、横浜経済人にあるのだろう。

なぜかしらないが「ギャンブル依存症」が、カジノ反対の最大かつ唯一の根拠になっているのは、推進したいひとたちのいう「危機感」という根拠とちがう次元のはなしになるから「かみ合わない」のだ。

誤解をおそれずにいえば、わたしは「ギャンブル依存症」には興味がない。
単純に「自己責任」であるからだ。

ただし、不思議な傾向があって、人間は自分が負けたギャンブルで取り戻したくなるという習性があることは「事前」にしっていたい。
これが嵩じて「依存症」という「疾患」になるからだ。

競馬で負けたひとが、その負けを競輪やパチンコという別の賭け事で取り返そうとはしないのだ。
多重債務者がおおいというパチンコもおなじで、パチンコで負けたひとは、パチンコで勝とうとするものなのだ。

これは、その「単純さ」に秘密がある。
世の中には、複雑な仕組みのギャンブルは存在しない。
「あたり」か「はずれ」という単純さの繰返しが、精神的なマヒを誘発するのである。

十八才が成人あつかいになったのだから、義務教育の中学の最後か、高校で「生きるため」の科目として、ギャンブルについての授業があっていい。

さて、そうこうしているうちに、昨日、こんどは横浜市庁舎の再開発が決まったというニュースが「突然」配信された。
JR桜木町駅ちかくに建設中の新庁舎ができれば、となりの関内駅前にある現庁舎が不要になる。

現庁舎は、わが国を代表する建築家、村野藤吾の「作品」だから保存がきまっている。完成は1959(昭和34)年である。
1960年の横浜市の人口は137万人だった。現在の横浜市は380万人の人口で当時から約三倍、日本一人口のおおい「市」なのである。

終戦後から一貫して増加しているので、現庁舎が完成した当時、どんな「予測」に基づいて庁舎の面積要件がきまっていたのか?
もっとも、この建物は本庁舎なので、行政事務のおおくは「区役所」に割り振れるから、想定した「容積」は十分だったはずである。
その「区」は、5区からはじまっていまは18区になった。

巨大な本庁舎が必要だということは、人口増加よりも行政の「肥大化」が問われることになる。
いったん「肥大化」した行政を「縮小化」できないことでの、「衰退の危機」ということなら、現行行政を維持する立場の市長の理屈としてはただしいし、維持を支持する商工会の意向でもあろう。

すると、現行行政を維持しないという立場になれば、べつの結論になるが、いまの商工会の支持は得られない。

そんなわけで、カジノなのだ。

横浜市民としては、国の法律とのかねあいとこれまでの条例から、いったいどの程度の行政規模が適当なのか?という研究をしてもらいたいものだ。

市役所の衰退と市の衰退は別だし、すくなくても市の衰退と市役所の衰退は同期をとってもらいたい。
そうでなければ、市役所栄えて市は衰退する、ということになる。
そこに、カジノという変数が加わるのではないか?

人口減少が確実なわが国では、どちらさまの自治体でも、カジノをのぞいた「基礎研究」をしないと、余計な法律と余計な条例で、役所だけが栄えるという本末転倒が発生する。
これこそが、商工会としてもっとも危惧すべき危機ではないのか。

衰退するから「行政依存」なのだという発想が、衰退を加速させるのだ。

「危機」をいうなら、民間企業出身のいまの横浜市長には、このくらいの仕事をしてほしいものだ。

大学の科学講座

有名難関大学が、一般向けや高校生向けの「科学講座」をやっている。
宇宙論であったり素粒子論であったりと、メニューは豊富にある。
難しいことを易しく説明することの難しさ。

こないだは、「磁石」のはなしに感心した。
原子核の構造説明で、電子雲の拡大傾向を電荷(陽子と電子)の引きつける力でバランスするという図式はたいへんわかりやすかった。
もし、電子雲の拡大傾向がなかったら、原子はいまよりずっと縮小して、われわれは小人どころか目に見えないほどちいさな存在になってしまうという。

つまり、なるべくしてなっている「サイズ」であるということだ。
巨人に変身するなら、電子雲の拡大傾向をさまたげないようにするひつようがあるし、極小化に変身するならこの逆ができないといけないが、そんなことが人工的にできるのか?

それに、電子が回転(スピン)する方向が、上と下の二方向しかないという不思議があって、おなじ方向で回転する独楽同士がはじきあうように、電子もはじきあうが、上と下の方向の電子同士は「おなじ場所でくっつく」という性質が磁石をつくっているはなしは、アニメ化されていた。

こんな講座を無料で受講できるのは、無料で配信しているYouTubeのおかげである。
公共放送の価値が減る、最大の原因だろう。
しかし、いまの公共放送がその番組をネット配信しても、放送の価値が上がるはずがないのはコンテンツの貧弱にある。

巨大な予算を番組づくりにあてているはずなのだが、価値がみえないのは、投入するお金の価値が、アウトプットとして減ってしまうからである。
これを経済学では正確に「不効率」という。

すなわち、公共放送は公共放送という「安泰の立場」からかならずうまれる「不効率」を、公式どおりに実施する機関となった。
経済学の「政府の失敗」におけるすぐれた事例であって、国民にはこれ以外の価値を提供していない。

さて、それで、大学の「科学講座」である。
説明者として登壇するのは、おそらくその学科や研究所のホープだろう。もっといえば、本邦における特定分野の最前線で活躍中の人物であることが想像できる。

なぜなら、そうじて「若い」からで、ノーベル賞をとるようなご老体ではない。
ノーベル賞をとるご老体も、受賞理由は若いときの研究成果なのだから、年齢を云々したいのではない。

つまりは、とびきり優秀なひとが説明者なのだ。
しかしながら、なぜかどのひとも「プレゼン」としてはヘタクソである。
この「ヘタクソ」加減が、観るものをたのしませてくれるのは、そこに人間味を感じるからである。

どんな人間味かというと、どうしたら自分の最先端の研究を「素人」にわかってもらえるのか?という、おそらく初めてにちかい「テーマ」をあたえられて、これに真剣になやんでつくったパワーポイントの「紙芝居」が、手作り感満載であることからもにじみ出ているのだ。

それに、じぶんが中学生や高校生のときに、経験した「わかった」を、聴衆のおおくが「わからなかったかもしれない」という前提にたったとき、どこから説明すればよいのかが見当もつかなくなるという「戸惑い」すら感じとれ、優秀ゆえの「かもしれない地獄」におちて論理が混乱する場面が多々あることである。

この生真面目な説明が、ときに本題から大きくズレて、なんのはなしだったかがわからなくなるのは、聞き手以上に話し手の方なので、うまい「プレゼンテーション」とは、どこかイリュージョンの香りがあるものだとも気づかされる。

大学は研究活動の場でありながら、教育の場でもあって、全体でおおくを占める学部学生にとっては、とうぜんに学びの場であるから、教師の教育力が問われることになる。
すなわち、「伝える力」のことなのだが、研究活動に重心がある研究者にとって、「伝える力」を発揮すべきは論文になるから、どうしてもズレるのである。

そんなわけで、どういう経緯でこうした講座の講師になったのかはわからないけど、指導教授というえらいひとが、説明能力の訓練のために指名しているのかもしれない。
いまや、学会も、プレゼンテーション勝負になっていることだし。

あるひとは、「昨晩眠れないほどだった」というほどの「緊張」を強いられるようだが、じっさいにやればその難しさに震えるほどの恥ずかしさがくわわった経験になろうが、じつはじぶんの不得意分野や先の研究テーマがはっきりみえてくるという効果に驚くはずだ。

観る側は、そんな生真面目な研究者の研究への情熱に拍手したい気になる。
受験のための講座ではない、こうした講座がふえるのは、社会にとっていいことだ。

学生でないお気軽だから気づくことでもある。

娯楽化した公共放送を観る時間を、こうした動画にあてたいものだ。

今月はお買い物

夏休みもおわって、とうとう9月になった。
ほんとうに消費税が増税されるらしいから、今月はお買い物の月になる。
個人のお買い物よりも、企業のお買い物で優先されるものがある。

「政府広報」といえば耳ざわりがいいが、増税するから「軽減税率」に対応したレジスターを買え、と企業に命じるのは「プロパガンダ」である。
それに、補助金をくれてやる、というオマケまでつけて正当化をはかっているのは、企業を乞食扱いしている。
さらに、10%と軽減税率の8%の両方が印字できるレシートがでないと、お客が困ると脅すのは、制度設計上の大問題を国民に押しつけるものだから、主張が倒錯しているのである。

なにがなんでも電子マネーの「普及率」をあげたい経産省は、クレジットカードで買うと2%分をポイント還元してくれると言い出した。
だったら、なんで増税するのか?
しかも、支払手段のちがい、というだけで、政府から補助金が交付されるという制度は、自由経済の原則に反しないのか?

前に、『「2円」のために失う「自由」』を書いた。
レジを通過した食品を、店内のイートインで食べれば10%、店内から出れば8%という課税ルールは、所有権の侵害ではないかという疑問である。

こうしたことに日本の税理士や弁護士が文句をいわないのはどういうことか?
税理士が税務署の岡っ引きになっているからか?
それでは弁護士は?

わが国の裁判所は、とっくに行政府にかしずいている。

原発「以前に」、三権分立なんて絵に描いた餅どころか幻になっている。
この意味で、わが国は近代国家「ではない」。

しかし、たとえば、原発の批判をするマスコミだって、その昔は「近代科学の勝利」として、原子力をもちあげなかったか?
核燃料でうごく『鉄腕アトム』は、10万馬力の「科学の子」なのであって、血縁関係のはずがない妹の「ウランちゃん」を忘れてはいけない。

「ポスト・モダン」は、そのとおり科学万能の時代の終焉であることが実証された。
これを「多様性」とか「ダイバーシティ」と呼んでいるだけだ。
科学万能を信じるひとたちがいまでもいるからである。
それと同様に、法律が万能であると信じるひとたちが「法治主義」といっている。

官僚を「依法官僚」と「家産官僚」に区分したのは、マックス・ウェーバーの『官僚制』だ。

わが国の官僚制は、あたかも「依法官僚」であるとみせかけて、じつは「家産官僚」であって、さらに始末が悪いのは、かしずくはずは「王家」であるはずなのに、これをまったくないがしろしにして、自分たちの王国をつくってしまった。
「官僚」という立場なら、なんでもできる状態で、あたかも政治家にかしずく振りをするから、中華王朝の「宦官」に似ている。

ひとりではないから、中心がない。
ここに、無間地獄的な闇がうまれる。

白人社会では「中心がない組織」は定義できないからありえない。
それで、GHQが血まなこで犯人捜しをしたが、とうとう「責任者」はいなかった。
仕方がないので東條英機が頭目だったということにした。
これに気づいた東條は十字架のイエスのごとく、日本の罪をぜんぶ背負って処刑されることをよろこんだのだ。

東條のおかげで、官僚機構は無傷で生き残った。

だから、国民は東條を別の意味で非難しなければならないのだが、あいかわらず「悪の権化」なのは、単純すぎる。

その官僚機構が、増税する。
政治家の無力は戦前以下になりさがった。
香港のデモを「支援する」発言を、日本の政治家はだれもいわない。

アジアにおいて、日本の発言力がまた一段とさがること確実である。

さて、そんななか、富豪ジム・ロジャーズが、日本人は出国せよとメッセージを発した。
本人はアメリカからシンガポールに移住する。
日本の没落は「確実」だから、はやく出るべきだという。

しかし、すでにわが国には「出国税」がある。
飛行場で1000円の出国税のことではない。
海外移住者にかかるのだ。

あゝ鎖国のニッポン。

仕方がないので、なにを買おうか?をせめてかんがえるか。

議事録がない

「仕事」には二種類あるとはよくいわれることだ。
「定型業務」と「非定型業務」という分けがある。
現場において、定型業務は「作業」ともいう。その作業をさまたげるトラブル発生時には、非定型業務が発生する。

世の中がサービス業化してきたのは、なにもサービス業がさかんになっただけでなく、工業も農業もサービス業的な要素が販売に重きをなすようになったからである。

それは、仕事の入口と出口にみられる。
入口は、「製品企画」や「製品設計」のことで、農業なら「品種改良」にあたる部分だ。
出口は、「アフターサービス」のことで、売りっぱなしは通用せず、むしろ評価や感想をきいて、つぎの製品企画にやくだてる。いまや、米農家すら通販での販売先にはがきをくれる時代になっている。

これらの仕事は、おおむね室内で、机に向かう時間がおおくなる。
あるいは、さまざまな打ち合わせも必要になったのは、関係者との間がデリケートになったからで、作れば売れる、というかんがえはもうとっくにない。

だから、だれになにを言ったのか?ということも、うっかりはゆるされず、一歩まちがうと修復不能な状態におちいるから、わすれないようにする工夫がどうしても必要になる。
それで登場するのが「議事録」である。

ところが、これは書けばいいというものではないから、面倒になる。
それで、もっとも経験の薄い若手が書記役になるのだが、内輪ならまだしも、他者どおしが集まるときは、さらなる面倒な事態となる。

そもそも、どこの会社が書記役を引き受けるのか?ということがはじめに発生する。
金融機関が間にはいる事業であれば、金融機関の出席者が議事録を担当したものだ。

それで出来上がって回覧したらおしまいではない。
一回目の回覧は、議事録に間違いがないかを確認するためで、たいがい「赤(修正)」がはいる。
これを修正して、当事者全員が承諾してはじめて「議事録」として保管されるのだ。

国会の議事録のように、誰がなにを言ったのか?を言葉どおりに記録する、という方法もあるが、これでは遠大になるので、エッセンスを記録する。
なので、記録係の能力が問われるのである。

しかしながら、こうした手間をかけてつくった議事録が、長期にわたる事業であるほど重要さを増すのは、かかわっている担当者たちが人事異動したりして抜けてしまうことがあるばかりか、うっかり勘違いして記憶していることの修正もできるからである。

つまり、言った言わないだけでなく、思い込みという人間ならではのヒューマンエラーにも対応するから、きちんと作成するのである。

ところが、なぜか「外資系」には、議事録をきちんと残すという習慣がないことがおおい。
外国人だからではなく、日本人従業員も議事録をとらないことに慣れている。

外資どおし、日本人どおしのミーティングで、議事録をとることをしないから、言った言わない、になるのだ。
そんなわけで、外資企業のトップによる「朝令暮改」は日常茶飯事で、権力で押し切るという解決法がとられている。

なので、外資系どうしで言った言わない、になると、理屈で解決するという理屈がでてくる。
たとえば、そんなことを言っていない、なぜなら当社の立場は最初からこうだから、とかである。

くわえて、詫びない、という条件も付随する。

ならばどうしているのか?
社内でも、社外とのやり取りでも、基本は電子メールをつかう。
こうすれば、ログが全部記録されているから、「証拠」になるのだ。
何のことはない、議事録を日常的に残している。

そんなわけで、社内でとなりのひとにでも電子メールをつかう。
ましてや、口頭でということはほとんどないので電話もつかわない。
なるほど、執務時間中の静けさは、キーボードを叩く音だけになる理由である。

サービス化は、目に見えない成果物、という意味でもあるから、記録方法が問題になるのだ。

さいきんは日本企業でも、議事録を書く能力が低減してしまっているのは、書かなくてもよい会議がふえたか、書かなくてもよいとやさしい上司がいうから、結果的に鍛えられないのかのどちらかだろう。

推測だが、議事録を書かなくてもいいような「会議」がやたらにおおいとおもわれる。
議事録を書かなくてはならない会議しかしない、というルールがあっていい。

また、議事録を書かなくていいというやさしさは、やさしさではないとそのまた上司が指摘すべきだから、管理職層の劣化、という問題が見えかくれする。

すると、そんな社風を見て見ぬ振りをする経営者層こそ、じつは大変な劣化をしているのだ。

反体制雑誌

この国の「体制」とは、いったいどうなっているのか?
表面上は、自由で民主主義で資本主義ということになっている。
もっとも、自由だからそのうえに民主主義と資本主義が乗っかれるのだから、自由主義という基盤こそが「体制」の本質をなすはずだ。

しかし、あんがい「自由主義」の「自由」がブレるのは、自分勝手に好きなことができるのを「自由」とするからである。
フリーダム(Freedom)の「自由」と、リバティ(Liberty)の「自由」は、「自由」を区別しているから単語がことなる。

日本語にはこの区別がないから、ぜんぶ「自由」というしかない。
これが、政治的にあたまのよいひとたちに利用されて、フリーダムとリバティの概念を「わざと」混乱させるようにしてきた。
それで、とうとう「区別」ができなくなってしまった国民は、野党もふくめ為政者に御しやすいようになったのである。

もちろん、フリーダムもリバティも、開国してから輸入したから、もともと「自由」とは外来語の翻訳である。
四民平等になる前は、ずっと身分社会だったから、身分の中での「自由」しかなく、それを「分際」とか「分をわきまえる」といった。

だから、農民が人口の8割もいた日本人にとって、圧倒的な「ふつう」が「分をわきまえる」というなかにあった「フリーダム(もともとある自由)」でしかなく、みずから勝ち取る「リバティ」という概念すら、戦後のGHQから与えられた自由であったため、こんにちにいたるもピンとこないのである。

したがって、なにが体制でなにが反体制なのか?という区別すら曖昧になったのは、戦前・戦中の「反省」という「大否定」からである。
しかして、この「大否定」すら、政治的にあたまのよいひとたちが仕掛けたものではなかったか?

2009年5月(6月号)で廃刊になった、文藝春秋からでていた『諸君!』というオピニオン誌は、かつて「反体制雑誌」というほどの「保守」色が強い雑誌だった。

しかし、「保守」を独占していたはずの自民党は、とっくに官僚に乗っ取られて、現状維持をもって「保守」という変節をしていたから、本来的な保守すなわち英国保守党がいう「保守」にちかい『諸君!』には、立派な「反体制」の立場があった。

ところが、その「変節」が『諸君!』にも起きて、いつの間にか「立場」が揺らいだのは、販売のためなのか「日和った」のである。
わたしがこれに気づいたのは、廃刊の数年前のことである。じぶんで「諸君!がおかしい」というメモを書いている。
それで、定期購読をやめて、とうとうそれから一度も手に取らなかった。

マーケティング的に、『諸君!』と真っ向勝負したのは『Will』で、こちらはいまでも販売されている。
初代編集長は話題のおおい「花田 紀凱」で、その後曲折あって『月刊Hanada』にうつっている。

『Will』をしばらく定期購読していたが、なんだか『諸君!』とにている匂いがしてやめた。
2016年に創刊された『月刊Hanada』は、表紙デザインが『Will』に似ているので、その筋では批判があったというが、個人的に購読したことはない。

そういえば、わが国を代表するはずの『文藝春秋』は、高校の同級生が熱心な読者で授業中に回し読みしたこともあって、ずいぶん長く購読していたが、この二十年ばかり手も触れていない。

国の衰退は、総合雑誌の記事内容の衰退と比例する。
はたしてどちらが「たまご」と「にわとり」なのか?

大学時代は『世界』や『前衛』という本来の反体制雑誌も読んだものだが、一度も「納得」できなかったのは我ながら不思議でもある。

そういう意味でかんがえると、執筆陣がお決まりで、つまらない、のである。
これをマンネリというのかはしらないが、小粒かつ稚拙という記事が数ヶ月つづくと、やっぱり買う気がうせるものだ。

電車の中吊り広告をみて、これは!とおもう記事が見あたらない。

ただし、左派の論客はなかなか立場を変えない(いつもおなじ)場合がほとんどで新味がぜんぜんないのだが、あんがい「保守」の論客は左傾して、そちらに引き寄せられることがある。
そんな記事が、まじめゆえにそうなるから面白おかしいという読後感が得られることもある。

めったにないけど「元党員」だったひとが「完全変節」したばあい、なかなか知り得ないその方面の情報が飛び出してくる。
これが、的をついていて、そのへんの保守や左派の論客がこねくる理屈を吹き飛ばすことがあるから、一種の「痛快」がある。

先日発売された『月刊Hanada 10月号』は、みごとな「スクープ記事」があって、気になるから書店にいったら、すでに欠品になっていた。
アマゾンでも、すでに新品はなく、定価の倍の値段がついている。

こんなこともあるのだと、久しぶりに驚いている。

電子版なら入手できるが、雑誌の電子版ほど読みにくいものはない。
さてどうしたものか?と思案してもはじまらない。
ところで、そんな状況の『月刊Hanada』が、他の媒体でぜんぜん話題にならないことも、この国の姿であるから、ある意味「痛快」である。

そういうわけで、本号も購入しないで「よし」ということにした。