アラブ人がもとめているもの

わたしがはじめて海外旅行をした先は、エジプトであった。
帰国後、ゆえあってそのエジプトで二年間ほど暮らすことになったのも、さいしょの旅行経験があってのことだったとおもう。
当時のカイロの喧噪が、急に懐かしくなった。

ときは、サダト大統領暗殺のあとで、ムバラク政権初期の「安定」した時代だった。

いまからすれば「観光立国」として絶対的人気がそれを裏づけていたから、外国人観光客が巻きこまれる「事件」といえば、スリか置き引きがほとんどだったが、たまに肌を露出した女性が襲われた。
しかし、「テロ」の恐怖は、この時期にはなかった。

日本をはじめとした「先進国」が、極度の「管理社会」ではないかとうたがうほどの「無秩序」にみえる「テキトーさ」がどこからくるのか?と問えば、かならずイスラム教のおしえにいきつくから、それはそれで筋がとおっていた。

なにしろ、憲法第一条でイスラム教を「国教」にさだめている国だ。
なので、役所の役人もイスラム教にしたがうのは当然だから、アラブの「I、B、M」の実用例をもっとも見聞きすることができるのが役所の窓口だった。

I:インシャラー:アッラーのおぼしめし⇒人間のせいではない
B:ボクラ:また明日⇒明日になればなんとかなる
M:マレーシュ:マ・アッラーフ・シュ⇒マ+~+シュで否定⇒ここにアッラーがいない⇒気にするな

外国人登録を自分でしに役所にいった。
職場ではエジプト人ボーイに代行させたらいいといわれたが、なにごとも経験が大切だ。

整列することができない国民性なので、窓口の人だかりが解消されることがない。
これは、映画にもなった1980年の大ベストセラー・サスペンス小説『針の目』で、作者の英国人ケン・フォレットが物語中「英国が支配したのにバスに乗るのにも列べない」と嘆いている。

 

待っていてもなんにもならないから、ひとを押しのけて役人に書類を提出し、受け取ればこっちのものである。どんなに時間がかかっても、順番どおりに処理してくれるはずだ。

ところが、3時の閉庁時間間近になっても呼ばれない。
どうしたかと、やっと人だかりが解消された窓口にいけば、「ボクラ」といわれた。ああそうですかとはいかないのは、ほんとうに明日の処理に回されるのではなく、「完全リセット」で申請からはじめないといけないからだ。

今日の未処理分の申請書類は廃棄される。
その理由は、「インシャラー」であり「マレーシュ」なのだ。
まことに便利な概念で、当人だけに都合がいいが、全員がこれをやるから「混沌」となる。
とはいえ、「郷に入っては郷に従う」のがルールだ。

しかたがないので、大声でさけびながら身もだえしたら、なんとかなった。こんなこと、日本の小劇団だってやらない演技だ。
まったくもって、「インシャラー」なのだ。
登録ができたと職場に帰って報告したら「まさか?たいしたもんだ」と、同僚のエジプト人にほめられた。

サダト暗殺の理由は、急速な「親米政策」だといわれている。
けれども、あとをついだムバラク政権も「親米」を貫いたのは、「親ソ」では国民が食えないからである。いま「親中」が進化しているのはこの点だからあなどれない。
それで、宿敵イスラエルと和平を結んだのが、のどに刺さった魚の骨のようなものだった。

ポーランドといえば「アウシュビッツ」が日本人観光客には目玉といわれていて、「人気」どころか「目的地」にもなっている。
ポーランド航空は、ワルシャワ=テルアビブ便をはじめとするイスラエル線を、地方空港からも飛ばしているのは、いまでもユダヤ人つながりが太いからである。

アウシュビッツに涙する日本人だが、これが「イスラエル」となると突如と無関心になる不思議があって、パレスチナの悲惨には反応しないのはどうしたわけか。

もしかしたら「複雑」をかんがえたくない、ということなのか?

あいかわらずアラブ人は「反米」をつらぬいているし、アラブと対峙するイランだって「反米」の権化となっている。
これに、敵の敵は味方という原理が作用するけど、「反米」で結束することがないのは、決定的に「宗教がちがう」からだ。

「スンニ派」と「シーア派」は、別の宗教だ。
日本の仏教における「派」とは、存立のレベルがことなる。

そんなわけで、われわれとも価値観がちがうのである。

戦後の日本人は、人類普遍の価値観を喪失し、経済的価値観だけで生きてきた。
アラブ人は、いまだに経済的価値観は二の次三の次なのである。

では、第一はなにかといえば、「自尊心」だ。
アラブ人の「自尊心」に、アメリカは無神経なちょっかいを出すからきらわれるのである。
それは、アメリカにも「自尊心」があるからである。

前にも書いた、アラブ人の自尊心がわかる映画『砂漠のライオン』の精神は、「実話」だからというだけでなく、本来は普遍的なものなのだ。

自尊心をなくせば、自由と民主主義も価値がなくなる。
自由と民主主義がなければ、経済的繁栄の価値どころか意味もなくなるのである。

こういう哲学を、アラブ人は一般人でももっていることを、われわれ日本人はしっていていい。

国民が望む「国に」わるいこと

今日は、78年前の大戦争開戦の一ヶ月前にあたる。

国民が望むことのなかに「国にとって」わるいことがある。
へたをすれば「滅亡」するかもしれないが、それでも国民が望めば、民主主義国家はイチかバチかの勝負をやらざるをえない。

これが、「大東亜戦争」であった。
もちろん、「大義」も「名分」もある。
「大義」とは、白人支配からのアジアの解放であり、「名分」は白人が構築したブロック経済に仲間はずれにされたことの自衛である。

大義もあって名分もあるのだから、われこそが「正義」となる。
後先かんがえずに、「正義」で猛進できる精神は、儒教からくる。
これぞ、徳川幕藩体制の亡霊であって、下級といえども「武士」によってできた明治政府にだって引き継がれたDNAである。

幕末の志士たちが読みふけった、会沢正志斎『新論』こそが、儒教(朱子学)からうまれたイデオロギーである。
そして、かれらは、じっさいに行動した実行者たちだった。
このひとたちがつくったのが、新政府である。

文明開化ばかりに目がいくけれど、ひとびとが新政府に違和感をおぼえつつしたがったのは、朱子学という地下水による。
初期の旧武士階級の「反乱」で、政府は朱子学を地下にながすが、幕藩体制下より飲み続けた一般人には、とっくに普及していた。

商家にみる階級(番頭、手代、丁稚、小僧など)は、身分制のように機能したし、もちろん主人は絶対である。
じっさいに、いまでも日本企業にはこの「伝統」がはびこっていて、小僧から番頭に昇格するばかりではなく、主人にもなれるけど、主人になってこの体制を破壊するのでなく維持につとめるという特性がある。

絶対支配の「特権階級」に昇格するための「努力」こそが、社内競争における唯一のインセンティブだからである。
すなわち、「経営者」になりたい、ことの意味が、矮小化してしまうのであって、経営したい、ではなく支配の特権階級になりたいのだ。

そんなわけで、朱子学の無意味を明治政府は大学教授にいわせることで、その価値を隠匿したが、民間にはしっかりと浸透していたから、「民主主義」が採用されると、朱子学による行動原理が社会を支配したのである。

だから、過去の経験をもって、戦後は朱子学による国民の行動を隠匿するために、「軍部」という「国民の敵」をつくりだしたのは、天才的な「すり替え」だ。

国民が敗戦までにあじわった悲惨をガマンできたのは、じぶんたちが望んだ戦争だったことをちゃんと記憶していたからだが、GHQによる「すり替え」をもっけの幸いとしたことで、責任をほおかむりできるラッキーとなったのだ。

国民はわるくない。
わるいのは戦争をあおった軍部のエリート軍人たちである。
だから、おなじ軍にいても、わるいのは兵隊ではない。

このことばの居心地のよさ。
おおくのひとが、居心地のよさの誘惑に「負け」てしまった。
じつは、このことこそがほんとうの「敗戦」なのである。

その証拠に、敗戦直後の論調には、国民努力が足りなかった、というものがある。
うらがえせば、言いだしっぺは「国民」だということだ。

しかし、あとだしじゃんけんならぬ、物量でかなうわけがない、とか、科学技術の彼我の差が大きすぎるとかが敗戦理由となって、こんな戦争をはじめたのは軍人があまりに愚かだったからだ、という「甘言」がでてくる。

国民は「知らされていなかった」という暴言すらあるのは、国民を徹底的にバカにしているのだけれど、居心地のよさをもとめる国民にとっては、悪魔ではなく天使のことばに聞こえるのだ。

たとえば、いまにつづく企業で、戦前にニューヨークに支店をもった中小企業がどれほどあったかすら無視しているし、そもそもアメリカへの日系移民12万人が強制収容所にいれられている。
平時、このひとたちからの情報が実家や友人になかったはずがない。

しかも、当時の日本には民主主義はなかった、という愚論がもっともらしく吹聴された。

斉藤隆夫による衆議院本会議における「反軍演説」は昭和15年。
これをもって議員除名処分をしたのも、議会の決定、すなわち国民が望んだのである。
齋藤の除名について、国民は反対の声をあげてはいない。

こうして、わが日本国民は、重大な自己責任から逃げたのである。

それが、なにがあっても戦争だけはいけない、という人類社会ではありえない価値観が「絶対」になってしまった理由である。

さらに、国民と政府が分断されたから、ひどいことを国民に強いた軍部の政府への意趣返しで、国からもらえるものは「奪う」まで自己のものにすることが「正義」になった。

年金をいつ、どのように「もらう」のかが、もっとも「得」で、それいがいは「損」になる、という概念も、民間の積立なら当然でも、賦課制の公的年金にあっては、個人の損得だけでいいのか?という問題が内在している。

けれども、「権利行使」なのだから、わかい現役世代の負担がどうなろうと知ったこっちゃないので、選挙のたびに「年金の充実」がもっとも重視される選択要件になってしまった。

つまり、国民が望んでいるのである。

軍部だからしっている彼我の差だから、ほんとうはやりたくない戦争を国民から無理強いされてしたように、ほんとうは「破たん」しているといえなくて、「安心」をいっていたら、千万単位で生活に足りないとわかったら、国民から「詐欺」とよばれるのである。

けっきょくのところ、「ポピュリズム」のいきつく先というのが結論なのか?
すると、もはや民主主義が「機能しない」国になったのではなく、民主主義を機能させてはいけない国になったのだ。

共産主義犠牲者のための国家の日

今日、11月7日の「この日」は、ドナルド・トランプ アメリカ合衆国大統領が定めた。
つまり、2017年の1月にトランプ政権が発足して10ヶ月にしてこの「国家の日」を制定したのである。

アジアの覇権どころか世界覇権をねらう国が標榜する「思想」に対して、強烈なアッピールをしたのである。
だから、さいきんの米中関係、ひいては米中経済戦争は、トランプ政権の発足で開始がきまっていたようなものだ。

この日の存在を地域分析者として、わが国で最初に気づいたのは河添恵子氏だというが、本人はそのまえに、ホワイトハウスのHPに掲示されているのを「観ただけ」だといっている。

ちなみに、いまも掲示されているのは、毎年この日がくるからである。
インターネットの技術のおかげで、われわれも自動翻訳の「日本語」で趣旨を読むことができる。

さてそれで、どうして11月7日なのか?といえば、1917年11月7日のロシア革命100周年に「ぶち当てる」ためである。

すなわち、ロシア革命への賛辞をおくるのではなく、人類における「暗黒時代の到来」を記念し、二度とこのような人的厄災を起こさせないという「自由」と「民主主義」の「日」としたのである。

これは、トランプ政権ましてや「共和党」としても、存続の意味そのものであって、もちろん、アメリカ合衆国の建国理由でもある価値観だ。

だから、旧西側陣営にしてアメリカの同盟国であるわが国政府がこの日を定めない理由を聞いてみたい。
旧東側陣営にして、いまはEU加盟、NATO加盟各国は、それぞれに同趣旨の記念日をもっている。

昨日書いたように、歴史は回転して繰り返す。

まさか、アメリカの民主党が「社会主義をめざす」ということが、どれほどの破壊力をもたらすものか?

社会主義とは、富の分配を「国家」が決める思想であり体制である。

社会主義者が資本主義をにくむのは、資本主義が自由主義とセットだからで、ほんとうは「自由主義をきらっている」のである。
ところが、「自由主義がいやだ」というと変なひとだとおもわれるから、「資本主義はいけない」ということにしている。

すると、なんだが「インテリ」にみえるから、これをパロって芸人が発言していたら、本人が「パロっている」のか「本気」なのかがわからなくってしまった。
こうして「お笑いなのにインテリ」というキャラができた。

「笑い」を哲学すれば、アリストテレスにたどりつく。
すると、「インテリ」でないと「笑い」はつくれないし、これを商売にできないのだとわかる。
中世の「道化」における「阿呆」は「演技」なのである。

官僚支配だからだれがやってもおなじ。
こうした風土が、お笑いタレントをふくめた芸能界からの「政治家」を産む。
経済成長著しく、ノー天気でいられた70年代に、知名度だけで議員にさせた無責任政党は、いまも政権与党である。

ただし、瓢箪から駒ということもある。
ドナルド・トランプ氏も、一時はテレビタレントだったし、相手のウクライナ大統領は、あまりの政治家による汚職蔓延をきらった国民が、ならばとコメディアンから選んだひとだ。

報道では、トランプ氏がウクライナ大統領を脅したことになっているが、ウクライナ大統領はトランプ・ファンだと告白し、プーチン氏に対抗している。

そんなわけで、てきとうな政治家をよいしょしたり、じぶんたちが気にくわないひとをこき下ろしたりしたりするのが、マスコミの「本分」になってしまった。

それでもアメリカのマスコミは、立ち位置を表明する。
にもかかわらず、大統領が名指しでマスコミを批判し、とうとう名指ししてホワイトハウスで購読契約をしている新聞社の契約解除を指示した理由は「フェイク(うそ)生産会社」だと断定したからだ。

こうした「ドタバタ」をやれるのがアメリカだ。

日本では、まずありえない。
首相官邸で購読している新聞を、首相が「とらない」と表明したら、大騒ぎになること確実だし、「独裁者」だと最大限の表現をして国民をあおるだろう。

放送局も、公共放送の民営化をもっともおそれるのが既存民放各社である。さほどに巨大化してしまった。
それでなお、すきなように放送できるのが「表現の自由」なのだから、国民はすきなように「洗脳」される。

その「洗脳」には、情報の「遮断」という方法がつかわれている。
かれらに「幸い」なるかな、日本人を日本語しかできないようにすることで、外国の情報を遮断できるのである。

だから、すこしでも日本人の英語力がたかまる可能性があれば、どんな難癖をつけてでも葬ることにいそしむ。
その犠牲者は、「受験生」という若年層である。
ましてや日本語表記の情報に、外国の事情をいれなければなおよい。

情報の「鎖国」である。

しかし、ネットをつかうとこれに穴があく。
そんなわけで、情報弱者を「いかに保持するか」が既存利得者たちの重要な戦略になる。

「情報リテラシー」は、じぶんでみがくしかないようにできているのは、このためである。

だから、そうさせないように「娯楽」をあたえる。
国家が国民に「パンとサーカス」をあたえれば、国民はたちまち「愚民化」し、国家がすきなようにコントロールできるようになる。

現代における「パン」とは、年金や社会保障、ばあいによっては職場まで与えられるし、「サーカス」とは、カジノをふくめた数々のギャンブルやビデオゲームなどの新種、それにテレビや映画などを主体にした旧式の「娯楽」の数々である。

もしや、わたしたちは危険にさらされていないか?をかんがえるのがわが国における「共産主義犠牲者のための国家の日」の意義だろう。

分裂するアメリカの恐怖

アメリカが「思想」で分断されてきている。
もはや「民主党」は社会主義をむきだしにして、かつてソ連と対峙した時代にはかんがえられない、自身の「ソ連化」を批判する者はいない。

一方の「共和党」は、「反グローバリズム」のトランプ政権によって、「金融資本主義」が押さえつけられ、製造業への回帰という一見「古風」な政策が推進されている。

どちらの側も、少数の富豪による「国富」をこえた「独占的支配」に対抗しているのである。
つまり、アメリカの矛盾は、あきらかに「富の分配」における不公平感是正に対する「手段」になって表面化している。

しかし、「手段の選択」には「思想」という要素が不可欠だから、「資本主義の必然的矛盾」だという、典型的かつ古典的な社会主義・共産主義思想にたてば、民主党の主張になることも「必然」なので、目指すは「ソ連化」になる。

対して、共和党は「資本主義」自体の問題ではなくて、「資本主義の運用の問題」という枠を設けているのである。
なかでも、金融資本家による支配について、つまり端的にいえば「ウォール街つぶし」こそが手段となっている。

この思想対立が、来年の大統領選挙にむけて熾烈化するのは必至だ。

かつて、「ソ連」を誕生させたのは、じつは金融資本家たちによる「支援」だったことは、歴史的事実としてしられている。
見返りは「隠れ蓑」という「場の提供」だった。

歴史は繰り返す。

いま、トランプ政権つぶしに奔走しているのは、弾圧の対象になっている金融資本家たちなのはあきらかで、かれらが民主党にかけより、アメリカの「ソ連化」を推進しているのである。
これを隠蔽するための「手段」が、民主党の中国批判なのである。

すると、かつての「中ソ対立」が、民主党によってすでにおこなわれていることになる。

さらに、不可思議なのがいま渦中の「トランプ弾劾」だ。
いわゆる「ウクライナ疑惑」のことだが、そもそも論でいえば、いちばんあやしいのは「バイデン元副大統領とその息子」による「ウクライナ『利権』」である。

民主党の次期大統領候補として、世論で最有力視されているのが「バイデン元副大統領」なのだから、問題をトランプにすり替えているようにみせながら、じつは民主党内における「バイデン失脚工作」ではないのか?ともかんがえられる。

候補者を選ぶという、わが国には存在しない方法の「予備選挙」で、党の代表者を決めるのだから、「本戦」まではえらく長丁場なのがアメリカ大統領選挙だ。
今回は、民主党内に「極左」の立候補予定者がいることに注目したい。

つまり、世論におもねることなく、党の思想によって候補者を選ぶなら、とっくに「バイデン」は本命ではない、ともいえる。
だから、ウクライナ疑惑は、バイデン降ろしの役に立つし、トランプ批判の世論も期待できるから、一石二鳥なのだ。

この「弾劾問題」は、以上のようにみれば、アメリカの分裂の深刻さが鮮明になることから、どんな結論になるのかによって、今後の世界史がきまるほどの威力がある。

われわれにとっても、「対岸の火事」ではすまされない。
おそらく、来年のアメリカ大統領選挙は、かつてないアメリカ社会の決定的分裂を世界にさらしながら、その余波が、われわれにとっては、「余波」どころではない「強烈な圧力」となってくるにちがいない。

それは、社会主義を達成したがゆえに「衰退確実」なわが国が、社会主義を棄ててプリミティブな資本主義を追求しながら、政治的には「帝国主義」むきだしの中国陣営に向かうのか?それとも、本家「ソ連」をめざす民主党政権のアメリカか、あるいは、古風な資本主義の共和党政権のアメリカかの選択を迫られるからである。

これは、どれをとっても「ベストがない」から、悪魔の選択にならざるをえない。

すくなくても、自民党安倍政権は、中国陣営に向かう選択を、現時点でしているから、アメリカ大統領選挙による「強烈な圧力」がくるまえに決着させておこうという魂胆なのだろう。

経済は中国に、防衛はアメリカにという「コウモリ君」になると決めた、という意味である。
なるほど、それで、香港問題にも台湾問題にも一切の発言をしない「無関心」でいられるのだ。

衰退がとまらないわが国は、どうやら世界第三位の地位から不況のドイツに抜かれて第四位になったようだ。
たった1ランクのダウンではない、とまらない落ち込みのスピードアップのはじまりにすぎない。

「コウモリ君」がどんな運命になるのかは、児童のほうがしっている。

トランプ政権は、中国と経済戦争をおこなっているというけれど、これには上述のように民主党も乗っているから事実上の「新冷戦」だ。
なのに、同盟国のわが国が「裏切っている」けどなにもいわないのはなぜか?

ふつうにかんがえれば「泳がしている」のか、あるいは、「呆れている」のかのどちらかで、「泳がしている」のなら「鉄槌」が、「呆れている」なら「絶交」がやってくる。

このままでは、どうにもならない不幸がわが国にやってくる。
最悪をかんがえないわるい癖がわが国エリートの伝統だから、そのときにどんな「パニック」を見せつけられても、国民の不幸が改善されることはない。

戦争の世紀だった20世紀よりも、真綿でくびをしめられる悲惨な世紀になりそうな気配がぷんぷんしている。

うまいバゲットをたべたい

「棒」のことである。
いまさらだが、食べられる「棒」とは、フランスパンのバゲット(60~80㎝)のことである。

生地に切れ目をいれて、焼き上がると堅く盛り上がるところを「クープ」という。
ものすごく堅いことがあって、歯が欠けそうになるし、ばあいによっては口内の薄皮がむける。

それで、「フランスパン」なのにやわらかい「ソフト・フランス」という名前の商品まである。
ただし、これはたいがい「ボソボソ」していて、あまり「うまい!」ということがない「もどき」である。

焼きたてを買ってきたのに、パン自体の水分でビニールの袋にいれたままだと湿気てしまって、やわらくなることがあるが、これは火で炙るともとにもどる。
紙袋がいちばんいいのに。

パン表面の皮のパリパリを「クラスト(甲羅)」といって、たべるときにはポロポロ落ちる。
木綿のテーブル・クロスがちゃんと敷いてある店なら、そのまま放置すべし。手でなでで、床下に落とすのはエチケットに反するからだ。

だから、食事がおわるとそれなりの店ならちりとり(「ラマス・ミエット」)ですくい取ってくれる。
ちゃんとしたパンなら、かならず「クラスト」が落ちるので、デザート前にテーブルの掃除をすることになっている。

むしろパンくずがテーブルに落ちる食べ方が正解であるし、たくさん落ちていればパンの焼き上がりがよかった証拠でもある。
サービス側は、そんなところも観察している。

ところで、フランスパンの代名詞といえば、「バゲット」のほかに「バタール(中間)」がある。
なにとの中間かといえば、「バゲット」と「ドゥ・リーブル」だ。

あたかも「バゲット」のほうが大きいとおもいきや、「ドゥ・リーブル」の「ドゥ」は「2」のことで、「リーブル」とは、重さの単位「ポンド(約500g)」のフランス語だから、なんと「1㎏」のパンになる。

さて、長い棒状のバゲットから、バタール、ドゥ・リーブルとすすむと、なにがどうちがうのか?

まずは、材料だが、これはぜんぶ一緒である。
なにをかくそう、「フランスパン」の王道であるこれらのパンは、「かたちがちがう」だけなのである。

「バタール」には「バター」がはいっているように勘違いしがちだけれど、フランスパンの生地にはバターも砂糖もいれない。
材料の多い順から、小麦粉、水、塩、イーストだけなのである。
このシンプルさが、かたちを変えるととてつもない難しさに変化する。

これは、なぜか木管楽器の「ファゴット」と「バソン」に似ている。
ドイツの合理性がつくる「ファゴット」は、その複雑な機構が演奏の困難さを解決すべく工夫した成果であるのに対して、「バソン」の単純な機構は、演奏者に高度な「技」を要求する。

音色もおおきくことなるが、カバーする音域がおなじだから、現代的な「ファゴット」が席巻し、もはや「バソン」は小数派になっている。
しかし、伝統的なフランス音楽には、「バソン」の低音が欠かせないという「こだわり」のファンがたくさんいる。

パリ・オペラ座の首席奏者がバソンからファゴットに鞍替えしたら、これが「センセーション」を巻きおこしたくらいの話題となった。
「オペラ座よおまえもか」。

そんなわけで、フランスパンの職人は、おなじ材料からいろんなかたちのパンを、おどろくほどの「技を駆使」して焼いている。

バゲットの形状は、じつは「皮」をたべるために細く長いのである。
だから、カリカリの香ばしさがもっとも重要な要素になる。
中間のバタールは、「皮」と「中身」の両方をたのしむためで、ドゥ・リーブルは、かなり「中身」が重視される。

日本人は、やわらかいパンがすきだ。
トーストした「食パン」の耳すらたべないひとがいる。

しかし、食パンの材料にはバターと砂糖が欠かせないので、フランスパンとは別物である。
さいきんはやりの「生食パン」というジャンルは、きわめて日本的だとおもわれる。

そもそも「トースト」してたべることが前提だったから、食パンの焼きたては水分がおおすぎて、「トースト」するとベシャベシャになるから、焼いた翌日のものがちょうどよかったし、パン職人はそうなるように焼いている。

これに対して、フランスパンは焼きたてでないとパリパリがなくなってしまうので、毎朝近所のパン屋に買いにいくひつようがある。
だから、「食パン」を「生」でたべるから「生食パン」といって、焼きたてを求めるのは、きわめて日本的だとおもわれるのだ。

ところで、パンも小麦粉が主たる材料だから、「粉もん」である。
麺類も「粉もん」なので、広い意味では仲間である。
日本蕎麦も中華麺も、うどんだって、打ち方よりもはるかに「粉の品質」で味がきまる。

さいきんは「国産小麦使用」という表示が目にはいるようになったが、誤解をおそれずにいえば「やる気のない農家」の典型的作物が「小麦」だったから、これはどうしたことかといぶかっている。

とつぜん、国産小麦の品質が外国産にくらべて「最高」になったとは、とうていおもえないからだ。
これはどこかの団体がやっている「キャンペーン」なのか?それとも、生産時と流通の「安全」をいいたいだけなのか?

売り切ればかりでなかなか購入できないけれど、徒歩でいける距離の住宅地に忽然としてパン屋があるのを発見した。
ここの「バゲット」の香ばしさは、そんじょそこらのものとはちがうとおもったら「フランス産小麦使用」とあって納得した。

やっぱり「国産小麦使用」という店はあやしいのである。
わざわざ、不味い小麦使用と書く店主の味覚をうたがうからである。

もちろん、品質と安全にこだわっている小数派の農家がいることを無視しているわけではないので、念のため。
こうした農家の並々ならぬ努力が、ただ「国産」ではわからないのである。

まさかの電波障害か相性か?

講演につかうプレゼンテーション用品として、主たる必需品はもはやパソコンという時代になったが、そのパソコンでつくったプレゼン画像の強調をする「指示棒」も、ずいぶん前からレーザー光線ポインターになってきてもいる。

ポインターには赤色レーザーと緑色レーザーの二種類が主流で、くわえて青色もあるけど、見やすい緑色レーザーが人気である。
ただし、発光機構が複雑になるため、緑色レーザーのポインターは高価で、かつ電池の消耗がはやいのが玉に瑕である。

とはいえ、やはり参加者にみやすいことが重要だから、わたしは緑色レーザーのポインターを愛用している。
なかでも、パソコンのプレゼンテーション・ソフトのページ送りなどを、ポインターで操作できる機能つきのものは、パソコンのボタン操作などを必要としないので重宝してきた。

先日、あたらしいパソコンのデビューもかねた講演で、このレーザーポインターが作動しないで困った。
自宅で実験したときにはいつものように作動したので安心したが、本番での突然の不調は、かつて電池切れの一回ぐらいで経験がない。

乾電池を買いに走ったことは前に書いた。
以来、乾電池の予備はカバンにかならず常備しているのだが、今回の不調は乾電池ではない。
新品だし、本体の電池表示も正常レベルだからだ。

どうしても作動しないので、この講演ではレーザー光線ポインター単体の機能だけで乗り切った。
「故障」の文字が頭をよぎるが、どうにも割り切れず帰宅した。

それで、これまでの古いパソコンで操作をこころみると、なんの問題もなく従来どおり作動する。
つまり、「故障」ではない。
ではなんなのか?

いろいろ調べたら、あたらしいパソコンにはUSB端子が3カ所あって、ぜんぶ「3.1規格」であり、左側が「タイプA」ひとつ、右側が「タイプC(サンダーボルト対応)」が二つとなっていて、もしかするとこれら端子からの「電波障害」ではないのか?という疑いがあることがわかった。

ネットでの対処方法に、ズバリ決定打がないのも不思議だが、さいしょに自宅で実験したときに作動した理由も不明だ。
しかし、この「事件」のあと、自宅でも作動しなくなった。

デジタル製品だから、条件がおなじならおなじことがおきるものだとかんがえると、さいしょに自宅で作動したことがとにかく腑に落ちない。

それにしても、ネットでこんなに「USB3.0」端子の電波障害が話題になっていることをしらなかった。
普及はしているが、旧「USB2.0」規格の端子と新「USB3.0」端子が混在したパソコンがいまでも販売されているのは、データ通信速度をひつようとしない、レーザー光線ポインターなどの機器に影響をあたえないためのメーカー「配慮」だとすれば腑に落ちる。

ポインターで操作できる機能は、2.4MHzの電波をつかってポインター端末とパソコンをつないでいる。
ところが、「USB3.0」端子や、この端子に接続した機器から、2.4MHzの電波帯にちかい有害電波(ノイズ)が発生しているのだと解説されているのだ。

さいきんのレーザー光線ポインターで、パソコンを操作できる機能つきでは、本体収納のUSBアンテナをつかわなくても、ブルートゥース接続もできる「デュアル接続」をうたう機種もあるが、ブルートゥースだって2.4MHzの電波帯なのだから意味があるのか?

ならばメーカーは「USB3.0」端子からのノイズについて明示すべきだし、対処法についての情報も事前に公開しなければ、消費者への「配慮」とはいえないのではないか?

そんなわけで、わたしのあたらしいパソコンには「USB3.1」のタイプA端子はひとつしかなく、レーザー光線ポインターもUSBのタイプA型になるから、直接端子に接続するのではなく、有害電波をシールドするケーブルの先に接続するのが「対処法」のようである。

しかも、そのケーブル長は有害電波の出力と距離との関係から、1m以上が推奨との情報をえたので、まずはケーブルを購入することにした。
電波の減衰は、距離の2乗に反比例するからである。

すると、こんどはシールドされたケーブルの選定が必要になる。
これだって目視してわかるものではないから、それとなく説明を読まなければならないし、残念ながら、100均で購入できるものではなく、ちゃんと電気屋さんにいかないと売っていないのだ。

それは、いわゆる「USB3.0対応(準拠)標準延長ケーブル」と商品表示されているものだった。
今回のトラブル一連の調査で、この表示の意味が理解できた。

ノイズが出る「USB3.0」のために、ケーブルの両端子とケーブル自体にも電波シールドをほどこした延長ケーブル、という商品である。

ここまでやっても「作動しない」から、とうとうメーカーに問い合わせれば、「パソコンとの相性です」が回答であった。

ウィンドウズ・パソコンなんてどれもおなじ、なのではない。

膨大な「組合せ」になると、その違いが不明になるということだ。

これこそ「AIの出番」かとおもうが、どうやって「学習」させるのかをかんがえたら、やっぱり「不可能」だろうから、「AI社会の怪しさ」しかみえてこないという顛末である。

「大局」をみずに「戦略」とは?

「軍事用語」をこの国ではどう扱うのか?
といえば、そもそも「軍事」をおしえる一般大学での授業がないし、「情報学科」はあっても「インテリジェンス」をおしえる学科もない。

「情報」といえばなぜか「コンピューター」や「IT系」ということになっている。
つまり、「ミクロ」のはなしばかりなのである。

ところが、「経済学部」や「経済学科」になると、「マクロ」が先行して「ミクロ」が軽視される傾向がある。
「マクロ経済」とは、国家単位で経済をみる学問で、「ミクロ経済」とは、一企業単位で経済をみる学問だ。

しかし、学問分野という「ミクロ」をやめてしまえば、学生がとる授業の幅はあんがいひろく、「歴史」だってある。
しかしながら、「俯瞰する」という態度がないから、専門となるとたちまち「ミクロ」になるのである。

「囲碁」や「将棋」というゲームは、ちいさな盤面内ではあるが、勝利のために「俯瞰する」という態度をひつようとするので、教養人や指導者にこのまれる。
「頭の体操」になるからだ。

ここでいう「頭の体操」とは、細かい手をかんがえること「ではなく」大局を思考する、すなわち「戦略」をかんがえることを意味する。

ビジネスにおいても「戦略」ということばは多用されるけれど、「戦略」とはなにか?を定義づけてつかっているひとはすくないものだ。
それで、「戦術」との区別が混乱するのである。

「戦」という字が共通なので、「戦略」も「戦術」も、どちらも元は「軍事用語」であるし、軍事用語として当然ながら「現役」である。

「戦略:strategy」、「戦術:tactics」。

物騒だが「戦略核兵器」と「戦術核兵器」のちがいに鈍感なのは、日本人いがいは未開人かもしれない。
すくなくても「核兵器」はいけないもの、という「観念」のもと、「戦略」だろうが「戦術」だろうがおなじく「いけない」という「条件反射」になってしまう。

問いの、「戦略核兵器」と「戦術核兵器」のちがいなにか?にこたえずに、「いけないもの」というのでは、採点すらできない。

ソ連がバンザイして終結した冷戦は、アメリカが仕掛けた「宇宙兵器」ともいわれているが、西ヨーロッパに配備した「中距離弾道ミサイル」が、じっさいにトドメを刺したのである。

これはなにか?をしらないヨーロッパ人はいないが、「中距離弾道ミサイル」とは「戦術核兵器」のことである。
これらのミサイルを、大量に配置するという「戦略」を、「ヨーロッパ核戦略」という。

有史以来、人類は「パワー」をもって相手を凌駕してきた。
だから、「パワーポリティクス」というのは、「本音」のことをいうのだが、あまりにも「露骨」なので、さいきんは「きれい事」を表明することで「本音」をかくすことが「常識」になっている。

だから、相手の「きれい事」を聴いて、それを信じるということほど「危険」で「愚か」なことはない。

たとえば、昨日は、東京オリンピックのマラソンや競歩の競技が札幌開催にきまった、というニュースがあった。
このニュースは、酷暑の中東でのレースが失敗におわったことで準備されていたことではないのか?
すなわち、「最悪」をかんがえるということの「戦略思考の放棄」が、現代日本人の指導層に「ふつう」にあることが、露骨にあらわれた「ニュース」なのであって、開催地の変更が「ニュース」なのではない。

また、米国在住の国際政治アナリスト伊藤貫氏による、オバマ大統領の氷のような思考と態度だって、日本人がしらないことだらけだ。
オバマ氏は、核兵器の1兆ドルをこえる大増産を指示しながら来日し、広島であろうことか「核廃絶」を訴えた。
これに日本人はこぞって「感動」したのである。
こんな茶番があるものか。「ナイーブな日本人」ではすまないバカにされようなのだ。

世界の大局をみる習慣がないことで、国民が「大恥」をかかされていることすら気づかない。
また、わが国マスコミは、視聴者に世界の大局を報じる気がない。
島国のなかで、ちまちま幸せにいればそれでいい。

これは、ヘンテコな一国平和主義である。

国籍が何人であろうが、腹黒いのが世界の常識であることを前提にすれば、「大局観」を得るための情報のとり方がある。
戦略は、その結果えられる思考展開のことだ。

腹黒い世の中で、戦略がなければ滅亡する。
個人も、企業も、国家も、これから逃れることはできない。

さぁどうする?が突きつけられている。