お彼岸のトランプ逮捕

ニューヨーク州検察当局は、トランプ氏の逮捕について週明けに動きだすと表明して、トランプ氏本人は、自身から「逮捕は21日だ」(日本時間だと明日)と発表した。

国際刑事裁判所が、プーチン氏への逮捕状を出すとした18日のタイミングと奇しくも一致している。

ただし、国際刑事裁判所には、逮捕状の執行機関がないし、ロシアは中国、アメリカとともに、国際刑事裁判所条約に加盟していない。
加盟国の中で、もっとも予算供出をしているのが、またまた、気前のよいわが国なのである。

とっくに経済でも三流国に成り下がったわが国は、いったいいつまで「一流国」の体面を維持し続けるのか?
あたかも、江戸時代の「上杉・米沢藩」のごとくであるけど、上杉鷹山を輩出したのとちがって、衰退のブレーキをかける者がだれもいない。

アメリカという国が、「民主党」というネーミングの共産党に盗まれて、スターリン時代のソ連のような国になってきた。
「逮捕は突然やってくる」と書いたのは、1970年のノーベル文学賞、ソルジェニーツィン著『収容所群島』の冒頭である。

トランプ氏は、いかなる容疑で逮捕されるのか?が、じつはよくわかっておらず、この点だけでも司法(検察と裁判所)への不信が高まっている。

その背後には、選挙で選ぶ地方検事の選挙資金を出したジョージ・ソロスの政治的影が見え隠れし、起訴を審査する大陪審での陪審員の選定さえも、政治的なフィルターがあれば、なんでもできるのだ。

それでも、「逮捕!」のニュースだけは流れて、反トランプの感情はピークにまで煽られることだろう。
まったく、『収容所群島』とおなじ世界が、アメリカで実現されることの恐ろしさは、安全地帯にいると信じている一般人から、思考能力を奪うのである。

国家は、いつでも誰でも、どんな理由であれ逮捕できる。

まったく、他人事ではないのであるけど、他人事だと信じて自身の身にふりかかる可能性を一切疑わない(かんがえない)のが、大衆というものだ。

さいきん、「イワシは生物なのか?」という議論があるのは、彼らが選んだ、「群れ」という生存方法が、個体として生物なのか?という疑問を生んでいることにある。

我々が一匹の魚として食べることでみたら、イワシは一匹の魚という生命体である。

しかし、映画でもあるように、その群れは、あたかも巨大生命体のような「形:フォーメーション」をとって、捕食者たる敵を威嚇してそれらからの攻撃を回避するのは、まったくもって、一匹をして生物とはいえないのである。

すると、思考停止状態にある人間も、群れとしての行動と個体としてを見比べれば、ほとんどイワシと大差ない。
むしろ、支配者の視線からしたら、こうした「習性」を利用しない手はなく、思考停止にさせることがどんなに都合のよいことか。

ゆえに、心理学の応用を超えた悪用が跋扈する。

消費者に買わせるためや、従業員支配など、ビジネス世界だけでなく、暴動を煽ったりする反政府的な活動もしかりだし、政府自身もこれを利用している。

それで、個体ごとに適度な自由を与えてストレスからの解放をしてやれば、その個体は人生にさえ疑問を抱くことはなくなるのである。
これを若いうちから習慣づけることで、一生どころか末代までを支配できる。

明治から150年、これをやってきた日本人の多数が、マスクを外せない理由がこれだ。

しかし、幸か不幸か、元来野蛮なアメリカ人(おおくはヨーロッパ起源)は、群れることをよしとしない傾向がDNAにある生き物なので、イワシを軽蔑するのである。

そんなわけで、トランプ氏の逮捕理由はなんでもいい。
むしろ、「このタイミング」が重要なのである。

それは、もはや否定できなくなったバイデン一家の深刻な汚職汚染や、前議会での「1月6日委員会の欺瞞」が明らかになったことなど、民主党の悪辣が事実として晒されたので、その最後のあがきが、トランプ逮捕という目くらましなのである。
もちろん、バイデンがコケたら民主党が根幹からコケることを意味する。

それはもう、ダムの決壊のような状態になるだろう。

とにかくやれと命ぜられた、ニューヨーク検察当局は、元ニューヨーク市警にいたジャーナリストによって、その職場内部における「混沌」を報告している。
7割方の職員が、「関わりたくない」とかんがえているというから、内部告発も時間の問題かもしれない。

ここで思い出しておかないと話が混乱するのは、検察がたとえ逮捕して、起訴したとしても、「有罪判決」となるとは限らない、という前提がアメリカにはあることだ。
日本において、いったん刑事で起訴されたら、99%が有罪になるのとはぜんぜんちがう。

しかしながら、もっとちがうのは、群れを嫌うアメリカ人一般が、かような恣意的な逮捕あるいは起訴を、許さない、ことにある。
もちろん、検察も地裁裁判官も、あるいは、陪審員も、ぜんぶが民主党支持者で固める用意周到があっても、アメリカ人は許さないのである。

トランプ氏の意に沿わず、解任となって敵認定された、ボルトン元国家安全保障担当大統領補佐官すら、トランプ逮捕という「悪手」で、24年大統領選挙ではトランプ氏の地滑り的圧勝になると発言した。

もっとも、民主党の狙いが、大統領候補者としてのトランプ氏から被選挙権を剥奪することにあることは、誰の目にも明らかだ。

にもかかわらず、このような暴挙を民主党が企むのは、最後の手段だからである。

態度のデカさで誤魔化してはいるけれど、「窮鼠猫をかむ」状態の窮鼠が民主党なのだと、世界が注目している。

追いつめられた当事者は、もはやこんなことにも気が回らないのだ。

日本で日付が変わった頃に、ほんとうに「大ニュース」がやってくるのか?
今日は夜更かしの日になる。

オランダ地方選挙の「BBB」勝利

昨日の、「人類の運命は時間との競争に」の続きである。

先ずは、15日に参議院を除名された、ガーシー(東谷義和氏)のことについてコメントしておく。
彼の比例での得票数は、 1,253,872票(2.4%)で、記名では、287,714票だった。

ちなみに、懲罰委員会の委員長をつとめた、「日本維新の会」の鈴木宗男氏の2019年参議院通常選挙での得票は、220,742票である。
「1票の重み」という問題をとりあえず無視したら、獲得票数が少ないひとに多いひとが除名の引導を渡された、ともいえる。

とはいえ、「本会議」においては、同党同僚の反対1票のみで、棄権2票(うち1票は尾辻議長)、他は全員が「賛成」したから、全会一致に限りなく近かった。

これは、議会政治の自殺行為として、後世に残る。

NHK党(いまは党名が変わった)からの執拗な妨害行為に悩む、参政党が「賛成」したのは理解できないことではないが、「いまだけ」を批判するいつもとちがって、あんがいと重大な投票行動であった。
これも、党員の意見を優先させたのなら、党員のレベルがしれることになる。

「敵に塩を送る」という意味でもなくて、「議員資格とはなんぞ?」を問えば、かえって、ガーシー氏本人がいう、「前例」となることのブーメランは、決して脅しではない。

わたしがいいたいのは、この一点で、ガーシー氏の行為と行動を支持しているわけではないので念のため。

そんな稚拙なわが国会を横目に、15日、オランダで起きたことは、残念ながら、現代日本人には異次元どころの事態ではない。

オランダ史上最長の政権(2010年10月~)となっている、マルク・ルッテ氏率いる連立政権は、地方選挙に歴史的敗北し、2019年に発足し下院議員が1名だけだった、「農民・市民・ムーブメント党」(The BoerBurgerBeweging :Farmer-Citizen Movement:BBB)が、歴史的勝利をおさめた。

世界的な潮流として、「保守政党」を自認する政党の、「極左化」が激しく起きていて、オランダしかり、英国しかり、日本しかりなのである。
英国は、「保守党」、日本は、「自由民主党」、オランダは、「自由民主国民党」という。

昨年からの、「オランダ農民一揆」が、今回の「BBB」勝利の原動力になっている。

ルッテ政権が強力というよりも、意味不明なまでの強権での「農業衰退策」が、一般国民の投票行動にもなったのである。
もちろん、政権側にはわかりやすい事情(=理由)があって、それが、世界経済フォーラムからの命令なのだ。

若きルッテ氏も、世界経済フォーラムが推す、世界リーダーのひとりだ。

農業生産をやめさせるとは、食糧危機をつくりだす、という意味で、日本における世界経済フォーラムに忠実なルッテ氏同様の犬、河野太郎氏がいうところの、「昆虫食推進」が経済界をも支配していることの証左なのである。

なお、ワクチン強要と昆虫食推進の共通性は、どちらも世界経済フォーラムのアジェンダだから、偶然ではない。

オランダ地方選挙の重要性は、「民主主義の学校」だからという基本の意味も当然にあるけれど、日本とちがって、オランダ国会の上院が、地方議員で成り立っている制度設計にある。
わが国にもこの方式の案があったけど、放置されている。

残念ながら、いまのわが国では、このようなことになると、国民意識が低すぎて与党の独裁が実現する可能性が高まるので、どうすべきかはよほど慎重にかんがえないといけないから、放置もやむなしになっている。

それでもって、オランダはどうなるのか?

少なくとも、強力な野党が出現したことはまちがいない。
ただし、政権与党は連立状態なので、BBBは単独で上院を支配したのでもなんでもない。

問題は、地方が中央政府の意向に従わないという、「一揆」状態が生まれたことの、これから、なのである。

われわれ日本人の生活とは一見関係のないように見えるけど、オランダはアメリカに次ぐ、世界第二の農産物輸出国だ。
直接日本に輸入される分もあるけれど、世界を回り回って、日本の食卓にも多大な影響があるのはまちがいのないことだ。

だから、世界経済フォーラムは、オランダの農業を潰しにかかったのである。
もちろん、世界最大の農産物輸出国であるアメリカの農場は、おもに共和党が支配している地域だから、民主党だけを一方的に支援する世界経済フォーラムの動きは、わかりやすいのである。

情報が遮断され、鎖国になっているのに気づかないで脳天気に生きている日本人には、対岸の火事ほども話題にさせないのは、統一地方選挙での既存政党にマスコミが肩を持つからだ。
できれば、いまのままで、オランダ政府のような「これ見よがし」をやらなくとも、日本の農業は自滅して、世界政府の意のままにしたいのである。

胃袋を外国に依存することの危険は、軍事よりも重いのである。

人類の運命は時間との競争に

バイデン政権はいつまでもつのか?という時間との競争が起きている。

もちろん、バイデン政権が1日でも、1時間でも、1秒でも早く終わってほしいと「願う」ものではあるけれど、この「ヒール:Heal」役の存在には、もちろん意味があると前に書いた。

けれども、囲碁や将棋のように、相手があるゲームをやって、相手もそれなりの実力者だと、なかなか思うように行かないのが現実の厳しさなのである。

もちろん、バイデン民主党にとっての、手ごわい相手とは、共和党トランプ派(長老派キリスト教徒)のことで、もはや両者は政治的「死闘」の様相を示している。

シリーズ第一局は、ヒラリー・クリントンを打ち負かして大統領になった、トランプが勝利したまさかがあった。
第二局目は、これもまさかの選挙不正で、トランプはバイデン民主党に組織で敗退した。
いま、第三局が佳境を迎えている。

バイデン一家の、とてつもない「汚職」、場合によっては、「国家反逆罪」が露わになってきたからだ。

これをやっているのは、中間選挙で連邦下院を制した、「野党」共和党トランプ派だ。
アメリカ議会には、「捜査権」があって、厳しく政権を監視している。
与党民主党の敗北は、議会運営上も、政権監視の目も、ままならないことになって、第3局目を創出させることに成功した。

それでもって、バイデン一家への「カネの流れ」を議会権限で捜査したら、あれよあれよと、外国からの巨額な入金がみつかった。
ただし、その全容はまだ明らかになっていない。

あたかも、バイデン・民主党を「不沈空母」にたとえたら、魚雷を喰らってもバラストタンクに海水を入れて、なんとか体制を持ちこたえているかのごとくだ。
しかし、船足は落ちて、もはや「時間の問題」になっている。

退艦命令も出ないうちから、逃げ出しているのが、日本の官僚制を真似て強化した、超高級官僚のSESメンバーがいて、これらが太平洋を渡って、東京地検特捜部の行動に影響を与えているのである。

しかしながら、最後の最後まで、徹底破壊を図るのが、アメリカ民主党に与えられたミッションだから、「徹底抗戦」を決め込んでいるはずだ。
このミッションを与えているのが、「ビルダバーグ倶楽部」で、その配下の、「世界経済フォーラム」である。

なんだか、敵味方に分かれている、「勧善懲悪」のことを、「二分化」とか「二極化」といっていて、「勝ち組」とか「負け組」とかという決めつけも、これにならっているだけの陳腐な用語なのである。
なので、「第三極」という、どっちつかずの用語が消えた。

結局のところ、人類は、ゾロアスター教の二元論(明と暗、善と悪)に舞い戻っている。

それで、追いつめられているのは、当然に「悪」の方で、余裕をなくしたこの集団は、あからさまな手段を執りだして、一層強権的になったのである。
真綿で首を締めるような、ジンワリ攻め付けるようなことができなくなった。

しかして、17日、連邦下院議会のさまざまな捜査が進展する中、民主党ペロシ議長がまる2年をかけた、「1月6日委員会」も対象になって、あの大事件がペロシ議長の「演出」だったことの全容が見えてきたことで、トランプ氏のFacebookとYouTubeのアカウントが、それぞれ凍結解除になった。

抵抗と妥協がうずまくなか、どんな判断のもとで、「凍結」され、このたびの、「解除」になったのか?そのうち判明することになる。
イーロン・マスク氏が買収して、「Twitter File」が公開され、さらに宣誓付議会証言ともなって、FBIの指示、つまり憲法違反だったことが明白になったからである。

いま、議会が犯人探しに動いていることが、とにかく原因だとわかる。

民主党は、この件でも、自ら発出した魚雷が自らに戻ってきてしまった。
なのに、そんな味方の惨状にも、お構いなしなのがわが国の自公政権なのである。

もう、止まらない、止められない。

それでも、野党にも尾てい骨のごとく存在する、「良心的」一部議員は、重要質問を政府に投げて、重要な答弁を引きだしている。

たとえば、政党でいえばぜんぜん支持できない、「日本維新の会」ではあるけれど、柳ヶ瀬裕文氏は、「コロナワクチンの情報公開(効力とメーカーとの契約内容)を要求し、政府はこれを、「契約に基づいて」拒否するという、答弁を引き出したのである。
これを受けて、京都大学名誉教授で医師の、福島雅典博士が情報公開を求めて国を提訴している。

けれども、不可思議なのは、衆議院でこんな動きがない、のだ。

今年は、春の統一地方選挙がある。
どこまで、既存政党が負けるのか?が話題にもならないのは、すっかり飼い慣らされた国民に発憤するエネルギーもないからだ。

悪い意味で、鎖国になっている。

驚きの結果がでた、オランダ地方選挙の結果は、明日の話題にしたい。

わざと?間違いに気づかないふり

10日、「シリコンバレー銀行」(資産規模で全米16位)の破綻から、すぐさまの12日、「シグネチャー銀行」(同全米26位)の破綻が続いて、浮き足立っているひとたちがいる。
それで、ヨーロッパに飛んで、「クレディスイス」が危ないといいだした。

もちろん、クレディスイスは、ずいぶん前から「危ない銀行」で、わが国の支店でも、数々の不祥事を起こしているから、その悪辣さは本社仕込みなのだ。
とにかくいろんな不祥事がある銀行で、今年になって株価が31%も下落した(いまやたったの2スイスフラン)けど、預金も急速に失っていて、スポンサーのサウジ政府系ファンドも追い銭はしないと言い出した。

そのサウジは、アメリカと冷たい関係にあるし、アメリカ・バイデン政権が即決めした、シリコンバレー銀行の預金者救済は、民主党支持者たちだからという、おぞましい理由がある。

こんな状況をもって、国際金融危機というならそれはそれで、「自由」だけれども、それぞれの残念がたまたま時期を同じくしているとかんがえた方がいい。

ただし、そもそも「銀行とはなにか?」をかんがえたら、その「インチキさ」は、誕生の歴史にさかのぼって、あんがいとこれを学校で教えない。
科目にしたら、小学校なら「社会」になるけど、中学なら「歴史」なのか?「公民」なのか?が悩ましい。

大学だったら、「経済史」になるのだろうけど、理系・文系の境なく全員の必修とはならないだろうから、やっぱり教わらないといえるし、銀行の歴史だけを「経済史」ではやらないから、教授次第になるのである。

それに、「経済学史」ともなれば、また別物だ。

そんなわけで、社会生活をするときに、誰でもぜったいにお世話になる銀行が、どんなものかをしらないで、新社会人になったら、会社のメインバンクの「口座開設」をさせられて、それが一生のおつき合いになるのだ。

個人の給与振り込み口座は、ほとんどそのまま、公共料金の引き落とし口座になって、多くの勤め人にとっての巨大な取り引きとなれば、たいがいが「住宅ローン」ということになっている。
だから、銀行取引といっても、個人のレベルだと、「お財布代わり」になるのは、入金元が給与とボーナスしかなくて、あとは支払いばかりとなるからだ。

あくまで「勤め人として生きる」なら、銀行のそもそもなんかどうでもいいとなってしまう。

しかし、近代の経済構造は、銀行なくして存在も発展もできないようになっている。
なぜならば、企業社会では、資金調達に銀行は不可欠だし、銀行だけが貸し出し行為で創出する、「信用創造」の大本だからである。

ここで、ちょっと待った!企業の資本調達なら、「株式発行」という手があるではないか、というひとがいるのは当然で、おそらくそれが、「資本主義」と結びついた発想なのは理解できる。
ただ、資本主義とはなにか?とか、資本主義の成立経緯とかになると、じつはよくわかっていないという、驚くべき現実がある。

いま、信じられている、「資本主義の定義」とは、マルクスが書いたものなのだ。

つまり、われわれは、結局、孫悟空が釈迦如来の手のひらの上にだけいたように、マルクス理論の上にある資本主義を信じているという孫悟空のような状態なのである。

それはさておき、銀行とは、ヨーロッパ発祥のものだった。

そもそもは、「金細工職人」がはじめた、「顧客が持ち込んだ細工の材料としての金などの金属の預かり証の発行」だったのである。
それで、顧客は「装飾品の作成を依頼」した。

職人は、預かった金の重さを顧客に確認させて、加工手間賃をとったのである。

けれども、このやり方が普及すると、職人同士で預かり証のやり取りをして仕事を融通するようになり、さらにそれが普及すると、預かり証そのものに金と同様の価値ができた。
いつでも、そこに記載されている金の現物と交換できたからである。

すると、資産をもつ依頼者の王侯貴族たちは、重い金属を持ち運ぶことの面倒と、保管の危険に気づく。

なので、預かり証そのものを保有することになった。
そこで、金細工職人たちは、細工をする仕事よりも、預かり証を発行することでの「利益」が莫大になることに気づいた。

簡単にいえば、預かっていないけど、預かったことにした。
つまり、インチキである。

しかし、どうしたことか、王侯貴族たちは、このインチキに気づかないで、自分がもっている預かり証に書いてある分量の金が、発行者の金細工職人のもとにある現物とが、つねに一致していると信じたのだ。

それでこれを、「信用創造」というのである。

だから、現代の銀行も、預金者から預かっただけの「額」のおカネを、そのまま横に流して他人に融資しているのではなくて、ざっと預金の50倍~200倍を貸し出している。
これを逆から表現して、だいたい2%~0.05%の間をもって、「預金準備率」というのである。

つまり、銀行にはあるはずのおカネはない。

それで、中央銀行が「あるはず」として、システム全体の信用を保持しているのだ。
これがゆえに、いったん「取付け騒ぎ」となれば、どんな銀行も経営破綻するから、危なくなったら中央銀行が資金介入するようになっている。

それでも銀行が破綻するのは、貸したおカネの使い途がメチャクチャで、ぜんぜん社会に利益をもたらさないときに、借り手が利息も払えなくなるからである。
この視点から、シリコンバレー銀行とかを眺めれば、おそろしく限定された、経営の失敗だけの「危機」なのである。

そんなわけで、誰にどんな目的でおカネを貸し出すのか?という「審査」が、銀行のなかでもっとも重要な業務になるし、社会も経済発展する。

すると今度は、わが国経済の衰退とは?をかんがえれば、誰にどんな目的でおカネを貸し出すのか?が機能していないことにこそ原因があって、異次元の金融緩和とか、政府予算のバラマキが効果あるというのは、「欺し」でしかない。

しかして、銀行システムとは、そもそもがインチキからはじまっているのであるけれど、そのインチキから出た、あたかもひょうたんから駒のごとき仕組みが、経済を発展させるもっとも重要な役割なのである。

この役割を機能させない努力を、日本政府と日銀がつるんでやっているから始末が悪いのだ。

サウジとイランの国交正常化だってさ

「合従・連衡(がっしょう・れんこう)」は、くっついたり離れたりすることを繰り返す、政治的策略をさす言葉である。
元は、『戦国策』(春秋・戦国時代:紀元前770年~紀元前221年)という、「史書」のなかにある。

中国(大陸のあの国は、世界の中心を自負していたので、近代まで「国名」がなかった)の古典は、わが国を含めた東アジアや東南アジアに多大な影響を及ぼしたのは、影響を受けた側からの話である。

残念ながら、現代の彼の国の政治体制における、教育、では、ほとんどカリキュラムのなかに、「古典」はないために、意図的に古典をしらないひとたちの国にしている。

これには、「簡体字」(1964年から採用)にしたこともその意図がある。

漢字のオリジナル文字が、「読めない・書けない」状態をつくったのだ。
韓国では、「ハングルだけで漢字廃止」(1968年)した決定の引き金だ。

これで、両国は、専門の学者以外で、漢字を読み書きできる人物がいなくなったので、過去の書籍が読めないから、自動的に「焚書」したも同然になった。
わが国でも、GHQによって、漢字の簡略化と使う文字数の制限(「当用漢字」は1964年)それに文章表現として、旧仮名遣いを改めて、現代仮名遣いにしたのと、その目的はおなじなのである。

簡単にいえば、これら三国には、国民の「愚民化」という共通の政治目的があるのだ。

それで、あたかも、「受験戦争(科挙)」を演出して、教育に熱心な様相を作り出して、さらなる「愚民化」をカムフラージュしている巧妙がある。

もちろん、これら三国の、「表向き」の理由に、本音の愚民化をいうはずもなく、逆に、国民負担の軽減、という、便利な言葉で誘惑して、平然と文化破壊をするのである。

歴代王朝が採用した「科挙」は、この点で、「古典」に知識を求めていたから、いまの浅はかな教育内容とは、雲泥の差なのであるし、科挙を明治まで採用しなかったわが国では、「生きるための教育」をしっかりやって、それがまた近代国家の素地になったのである。

教えるべきを教えず、習うべきを習わせないで、余計な知識だけを詰め込めば、それが社会的地位を得る近道だと仕向けることの悪意は、まったくもって悪魔の所業なのである。

ただし、その「愚民化」のなかから、受験エリートを採用するしかなくなったので、社会のあらゆる面で、劣化が止まらない。
こうして、為政者も愚民になったので、そのむき出しの欲望を国民にみせても動じない厚顔無恥になったのである。

そんなわけだから、革命世代から3代目・4代目ともなれば、指導者層も古典をしらないものを、あたかも「本家・本元」だと信じて疑わないのは、江戸の儒者たちが「唐(から)・天竺(てんじく)」に憧れたのとおなじなのである。

昨年の大晦日をもって、わが家では学生時代からとっていた新聞購読契約を終了したのは、前に書いた通りである。
そんなわけで、大々的な一面トップニュースだった、「イランとサウジアラビア、外交正常化で合意 中国が仲介」(11日付け)に気づくのが遅れた。

この手の扇動的な記事は、その見出しだけで読む気がしなくなるものだから、購読をやめたのだけど、チラリズム的に無料で読める電子版の範囲をみても、やっぱり読むに値しないのを確認して、この新聞を通勤電車の中で熱心に読んでいるサラリーマンには酷だけど、脳が破壊されるぞと注意を喚起したくなる。

13日付けの、「JETROビジネス短信」が参考になるかとおもったが、さすがJETROという、無能の機構に、国民が役立つ情報はあまりない。
注目すべきは、冒頭の、「7年ぶりに外交関係を正常化させる」という点にある。

あたかも、「国交の正常化=中東の緊張緩和」としたい、新聞記事よりは「まし」ではある。

つまり、この両国は、7年前まで国交は「あった」のである。
だからといって、7年前までの中東は、緊張緩和の状態だったのか?といえば、ぜんぜんそんなことはない。

むしろ、その後のトランプ政権がやった、アラブ諸国とイスラエルの平和条約締結が、よほどこの地域、ひいては世界の安定に貢献した。
これを再びオバマ時代のごとき混迷の状況に戻したのが、まさにオバマ政権で副大統領だったバイデンの仕事になったのである。

いま、サウジを率いているのは、バイデンがいじめ抜いていた、若き王子、ムハンマド・ビン・サルマーン王太子殿下だ。
彼を、「皇太子」という、用語の濫用も注意したい。

英国のチャールズ3世を、「皇太子」といっていたのも、用語の濫用で、なぜに放送コードに触れないのか?
サウジは帝国ではないし、英王室もローマ帝国につながる血筋ではないから、あくまでも「王国」なのだ。

そのサウジは、バイデンのアメリカを嫌って、ウクライナ問題ではロシアについた。
石油の取り引き決済には、これまで「米ドルだけ」に限定していたが、どういうわけかバイデンのアメリカとEUが、ロシア制裁と称して、ドル決済システムの「SWIFT」からロシアを締め出した。

資源がある側を、資源がない側が制裁するというトンチンカンをやって、ロシアはルーブル決済を決めて、サウジは人民元決済を許したのである。

アメリカ・バイデン政権の自虐は、ドルの独占を壊してしまったので、わが国がせっせと貯め込んだ、アメリカ国債保有の意味が、薄れるというコペルニクス的転換がおきている。

ならば仲介した中国に有利なことはなにか?を問えば、イランとサウジの石油を得るということに尽きるけど、どちらも強烈な「宗教国家」で、無神論の共産主義・全体主義とは、絶対的な「水と油」なのである。

すると、いまアメリカ議会でも落ち目の激しいバイデン一家に対する、退場勧告がその意味するところだとかんがえるのが妥当なのである。

「政党」がつくる民主主義

政治のあるべき目的は、憲法第13条にあるように、住民や国民の生活安定と向上にある。

それゆえに、どんな「政治形態」が望ましいのか?という問題は、上記の「目的」が達成されるなら、なんでもいい、という結論になる。
つまり、「王政」だろうが、「独裁」だろうが、その形態はどうであれ、目的が達成できるのであれば、住民や国民から文句をいうはなしはない。

しかし、「王政」や「独裁」という「形態」には、どうしても「個人依存」という「偶然」が発生源となって、善政を敷いた王や独裁者の「後任」がまた善政を敷くとは限らない。
この不安定さをどうするのか?

それで考案されたのが、近代デモクラシーだった。

住民や国民のなかから、これは、という人物を選んで、その人物に「目的達成」を委託する、という方式だから、ダメだとなれば、別のひとに交代させる、あんがいと冷徹な仕組みだ。

これに、行政の方は、住民や国民のなかから、事務員に就職してもらって、生活の安定と向上のための各種手続き事務をするひとを雇うことにした。
それで、烏合の衆になっては困るので、首長とか首相あるいは大統領を別に選んで、組織の管理監督をさせることにしたのである。

また、悪さやトラブルが起きたときの裁定のために、裁判所というものをつくって、双方の言い分を聞きながら裁定するけど、それにはあらかじめ決められたルールがないといけないので、住民や国民のなかから選んだひとたちにルールを決めてもらうことをした。

そうやって、裁判所では、訴える側と弁護する側双方が、あらかじめ決められたルールをもって主張して、裁定をするひとは、これらの言い分をルールに照らして裁定することにした。

世の中が複雑になって、ルールもたくさん作られてそれでまた複雑になったから、たっぷり勉強してルールを知っていると認定されたひとだけが裁判にかかわることになったのである。

狭い地域に国がたくさんあって、共通の価値観がキリスト教だった(すでに過去形)ヨーロッパでは、高緯度で寒く食糧栽培ができないため、狩猟・肉食という基礎文化からどうしても人間が野蛮になるので、他人から掠奪やら強奪することを生活の基盤にしたし、征服者だったモンゴルやらの騎馬民族の血も引くので、その野蛮さは原始の動物的なのである。

とりあえず、ローマ帝国の歴史をみれば、いまなら精神異常者かとおもわれるような人物が、どういうわけか「皇帝」になって君臨し、おどろくほど野蛮な行為が記録されているけれど、かれらは「記録される」ということすら気にした節もない野蛮さを発揮している。

これは、「後世に残る」とか、もっと高尚にいえば「歴史になる」ということも意識しない、つまり、「恥を恥とも思わない」という態度で、ときたま「賢帝」があらわれる程度なのだ。

たとえば、キリスト教の結婚式で、「二人を死が分かつまで」と、結婚契約に「終わり」の規定があるのに、神道の誓詞だと、「永久(とわ)」で、両者には決定的違いがある。
なのでキリスト教文化では、本人の死後にはプライバシーが存在せず、有名人ほど、生前の恥ずかしいことも、個人的な手紙も、みんな公表されてしまう。

日本人に、この感覚はなく、欧米から輸入した、プライバシー保護も「永久」になるのである。

すなわち、ヨーロッパ人とは、日本人がかんがえる「道徳」のかけらもない、という意味の野蛮人なので、こんな歴史的人物たちを祖先にするヨーロッパ人は、日本人の「潔癖症的な道徳」とは別の、「もっと緩い道徳」しか意識できないのも無理はない。

そうかと思えば、ローマ皇帝に「ポッと出」のまともな「賢帝」もでてくるから、目くらましのように惑わされるのである。

それで、「人類は皆兄弟」という錯覚に陥るのだ。

結局のところ、自然に地球が寒冷化して、北方のゲルマン人が寒さによって南下して、ローマ帝国は滅亡した。
食い物がある土地を「奪う」ための死闘があって、持てる者が待たざる者たちに負けたのだ。

これと似たひとたちが、俗にいう漢民族だし、南北アメリカ大陸での原住民虐殺の結果が、現在のアメリカ大陸だ。
もちろん、ウラル山脈の西側にいたロシア人も、シベリア征服をおなじ方法でやったから、広大な領土をもつロシアになった(ロシア国内にはいまも約200言語の少数民族がいる)のである。

人類史ではより決定的なのは、モンゴル帝国だったのはいうまでもない。

こうやってみれば、日本はとんでもない野蛮な民族に囲まれて生き残ってきたといえる。
島国だったことが幸いしたのは、大袈裟ではない。

けれども、明治のグローバリズムによって、日本人の高潔な道徳に対する破壊活動が恒常化して、ついに78年前の敗戦で、決定的な破壊が加速・進行した。

明治には、個人の高潔さを訴えれば、それでよかった(選挙権も限定された)から、当選した個人が集まってそれを「政党」ということができたのは、まだ「目的」に対して機能していたからでもあった。

戦前は、民主主義ではなかったような錯覚があるのは、「大正デモクラシー」を横に置くからだ。
結局、自民党は、大正デモクラシーの「あだ花」だとかんがえた方が妥当なのだ。

その自民党で、党本部が機能するのは「選挙対策」だけで、その選挙は、候補者が自分で組織した「後援会」でやるしかないから、「自分党」という性格をもっている。
つまり、「自分党」の集合体が「自民党ブランド」なのである。

けれども、すっかり破壊が進んだので、欧米人が発明した「近代政党制」を導入するしかなくなった。
それでできたのが、「参政党」だ。

この苦し紛れが、日本人の「希望」になっている。

残念ながら、わが国はむかしのような「個人依存」がとうとうできなくなったのだ。
この「堕落」こそ、掃き溜めに鶴を呼ぶ。
それが、「不死鳥」となって復活のしるしとせよと叫んだのが、坂口安吾の『堕落論』だった。

小中学生に響く政治演説

参政党は、国民に意見を聞かない。
党員の意見や異見を聞く。
よって、国民は党員になって議論するべし。

果たしてその目的は明確で、生活の安定と向上、なのであるけど、経済政策の稚拙さは否めない。

不満があったら、党員になって意見を出せという、仕組みはよくできている。
それで、外部のシンクタンクにも課題分析を依頼している。
自・公も、大失敗した民主党も、官僚組織をシンクタンクにするしかなかったのも、近代政党ではないからだ。

欧米人がかんがえついた、民主主義の実行には、欧米方式のやり方しかないのだ。

これが、わが国における政治のグローバル化であって、その実現者に自民党や公明党、既存野党は適さないことが判明したのだった。

社会改造に成功して80~年♬

端的にいえば、「近衛新体制」のことである。
この体制がいまも継続しているために、「13日は奴隷解放にならなかった」のである。

どういうわけか?学校の教科書では、陸軍青年将校たちが起こした、「2.26事件(昭和11年、1936年)」をもって、「ファスズム化」したということになっている。
その前の、海軍青年将校たちが起こした、「5.15事件(昭和7年、1932年)」は、どういうわけか除外されている。

「2.26」の後始末でもって、軍部にあった3派閥(皇道派、統制派、ノンポリ)のうち、皇道派が壊滅して、多数のノンポリが少数の統制派(左翼全体主義*赤い軍隊)に支配されることとなる。

最前線の指揮官たる将校たちや、特攻兵の多くはノンポリで、統制派は戦後のことをかんがえて、「銃後」にいて、ノンポリの数を意図的に減らしたのである。
そうやって、戦後、統制派に都合のいい、「戦史」が作られた。

この構造には、「幼年学校」の存在があって、満13歳から満15歳までの子供時分から、「将官」になるべくエリート教育されたひとたちの「同窓会」の存在があった。
一般校から、士官学校を経て選抜されて陸軍大学や海軍大学にすすむのが「エリートではない」のである。

旧軍人の略歴に、あんがいと「幼年学校卒」の記述が、ほんとうに「略」されていて、その凄さを隠匿しているから注意がいる。

それで、いわゆる「軍部」を形成したのが、事実上、幼年学校同窓会だったし、これらが真の「軍事官僚」だった。
高等文官試験を通った、高級官僚と、軍事官僚が手を握ったのが、「新体制」で、その中心人物が、「五摂家筆頭」の近衛文麿公爵だったのである。

彼らが日本改造計画を練ったのが、「昭和研究会」だった。

当然ながら、思想的に親和性がある、ヒトラーのナチスとスターリンのソ連共産党の政策を研究した。
「ファシズム」の語源になった、ムッソリーニのファシスト党も当然に含まれる。

わかりやすい具体例が、昭和16年4月からの「国民学校」で、8年制としたものだった。
明治からの、尋常小学校と、尋常高等小学校は廃止された。
なぜに、「国民学校」と命名したかは、ヒトラーが作った、「Volksschule(Volks(フォルクス)が「国民・民族」、schule(シューレ)が「学校」)」だったからである。

ちなみに、「フォルクスワーゲン: Volkswagen」は、1937年(昭和12年)に、「ドイツ労働戦線(ナチスの労働組織で既存労組を排撃した)」によって設立された、「国民自動車」という名の会社だ。

あのテントウムシのような「ビートル」は、画家だったヒトラーのデザインを基にしている。
それで、戦後は、ニーダーザクセン州の公営企業になったのを、1960年に民営化されたが、実質オーナーのポルシェとの関係は長くなるので割愛する。

さてそれで、日本改造の趣旨とは、戦時経済体制の確立であって、その本質は、国家総動員体制であった。
総ての国民の生産活動(生活全部)を、軍事にいかに振り向けて、効率的な軍需生産に特化させることができるかが、喫緊の大問題であった。

この司令塔が、近衛文麿を中心に、「新体制」といった、官僚組織で、これに与する官僚を、「革新官僚」と呼んだのである。

このときの、「革新」とは、戦後でもいう、「革新」と同義の、左翼である。

国家総動員体制は、あんがいとつまみ食い的な説明がされて、体系的に教えてくれないのは、「戦後」も継続して今に至るから、戦争は悪だったとしたい戦後派に都合が悪いのである。

国民生活の最末端には、「五人組:隣組」があった。
これで、互いが互いを監視するシステムを完成させて、「貯蓄」を奨励した。
軍需とは、基本的に、「消耗品」の生産だから、その財源を国民資産に求めたのであった。

このときに擦り込まれたのが、消費を我慢してでも、「貯蓄」を優先すること、であった。

国民貯蓄を原資とした大生産体制が、ケインズのいう、「有効需要」を喚起して、わが国は戦時中に実質25%も経済成長しているのである。
このことが、当時の人々が戦争遂行を支持した理由なのである。

当然ながら、管理・指令する官僚(役所)からしたら、窓口は少ない方がいい。
それが、大企業のグループ化(財閥優遇)となったし、業界団体による、「自主管理」だった。
労働力の分散もマイナスになるから、企業一家として企業内組合制を奨励したのだ。

当時最大の産業だった、農業では、大地主と農民の分断を促進して、大地主は農産物生産と切り離されただけでなく、安い地代だけの収入に転落させた。
GHQによる、「農地解放」は、その「仕上げ」に過ぎなかったので、すぐさま効力が発揮されたのである。

これで、水呑百姓も、「先祖代々の耕作地」と、堂々といえるようになったけど、農村の歴史をしるものには。そのことの本質が語り継がれているから、いまでも農村には「むかしの風習」がたくさんあって、新規移住民には理解できないトラブルになる原因なのだ。

しかして、なんと、敗戦後のGHQによる日本支配は、より総動員体制を強固にした。

冷戦による日本の役割に気づいたGHQと、戦後復興という名目での戦時経済体制を維持することが、経済官僚支配の完成となるからだ。

敗戦は、軍事官僚と、内務官僚を自動的に排除して、経済官僚たちの天下になったのである。
もちろん、戦前には発言の重みがあった、外務官僚も御殿女中のごときになった。
なお、国民監視を担当した内務官僚は、その職場を文部省に移したのである。

そんなわけで、わが国の経済体制は、戦前から軍需消耗品の生産に特化していたし、その産業管理方針(品質管理も含む)が、「儲けてはいけない」と発想する赤い役人によったから、日本企業の行動原理は、「シェア」になって、「採算を度外視する」順番にさせられた。

これがいま、わが国が、「SDGs」を世界でもっとも推進していることの、原因であり結果なのだ。

10日に破綻した、「シリコンバレー銀行」は、預金の運用で、「ESG投資」に特化していた。
「ESG投資」とは、「SDGs」への投資のことだ。

欧米人は、とにかく「利益」をゴールだとする価値観のひとたちで、「シェア」を最優先にはさせない。

この銀行の破綻が意味するものは、「SDGs」に投資してもぜんぜん儲からない、という大問題を欧米左翼に突きつけたのである。

しかし、世界の左翼の皆さんは、利益よりもシェアを優先させる、戦時経済体制のままにある、特異体質の日本が希望の星なのだと認識したにちがいない。

日本の衰退が止まらない、日本人には悲劇的な状態が、国家総動員体制になって80年たっても、終われないのである。

13日は奴隷解放にならなかった

2023年3月13日は、ひとつの「記念日」になった。
奴隷「未」解放記念日として後世に伝わる。

「日本人は、まじめだからみんなマスクを着けている」と、確定申告を提出すべく並んだ地元税務署で背後からの声が聞こえたので振り向いたら、そのひとは「鼻出し」マスクをしていた。
しかし、その発言は間違いだ。

政府がいう、「自由化」もおかしいのは、最初からマスク着用は強制されたものではない。

しかしながら、あたかも、強制されているように仕向けたので、その犯人たる政府を代表して現職首相が、「自由化」を言い出したのである。

しかも、税務署の入口ガラス扉には、「3月13日以降もマスクの着用をお願いします」との注意書きが大書して掲示してあった。

税務署は財務省の直轄である。

とうとうわが国の行政は、首相の指示を現場で正々堂々と無視できるまで堕落した。
なんだか、荘園制が完全に崩れだした、室町時代末期を彷彿とさせるのは、栄華の後の没落とも似ている。

これはこれで、「いい意味」で、古い統制の時代が終わったともいえるのだが、一方で、あたらしい統制と強制の時代がはじまった。

並んでいるひとたちの面々をみれば、一番の年長で「国民学校」世代だと思われる。
さすれば、昭和10年(1935年)生まれとして、ざっと今年88歳の米寿だ。
あとは、皆、戦後教育世代なのである。

征服にやってきた外国軍を、「占領軍」といったり、「進駐軍」といったりして、用語のごまかしがあったけど、正確には、「征服軍」だ。

正式国名だった、「大日本帝国」の国名までも変更させられたのは、帝国が「征服された」からである。
なお、「帝国」の定義には、「他民族国家」とか、「皇帝を擁する」とかがある。

後者だけで、わたしはこの国は「帝国」だと認識しているが、あろうことか左翼たちが、アイヌ新法やら沖縄で、「先住民族」という「別物」を発明した。

これに極左で革命的破壊を推進する菅義偉氏が乗っかって、「新法」となったのである。

菅氏が総務大臣のとき、「ふるさと納税制度」なる地方自治の破壊を税収面からやって、お膝元の横浜市は、市民税収入の流出が全国一になって、「カジノ誘致」にまで追いつめられた。
そんな菅氏を当選させ続ける、横浜市の選挙区(西区、南区、港南区)住民の低能は、それなりに突き抜けている。

ただし、神奈川県には、平塚・茅ヶ崎に河野太郎がいるし、横須賀には小泉進次郎という、「大物」がなぜか君臨している。

さて、日本人共通の縄文人を先祖に持つのはおなじなのに、日本を多民族国家にして、かえって「帝国」の定義にはまるよう仕立て上げたのを何だとおもっているのだろうか?

「大日本帝国」といえば、狂わんばかりに抵抗するくせに、自ら帝国にしたいというダブルスタンダードが、やっぱり共産主義・全体主義者の低能なのである。

さて征服者のGHQは、すぐさま、わが国の「教育改革」に着手する。
それが、「墨塗りの教科書」で有名なエピソードとなる。

これは、1946年(昭和21年)1月6日に承認されたという、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム:WGIP:War Guilt Information Program)」によるとされているが、それでは、終戦直後に教科書を墨塗りにしたのと時系列があわない。

日本国憲法すら、ヤルタ会談(1945年2月)で話があったというから、「戦後」のことは、「戦争中」に計画されている。
なので、わが国の教育改革も、かなり早い段階から計画されたものだった。

ちなみに、「教育委員会」は、1947年(昭和22年)の、「地方自治法第180条8」によって定められ、日教組も同年に設立されている。
要は、GHQが定めた(主権回復は、1952年(昭和27年)4月28日)のである。

それで、本国アメリカの政権を握っていた、民主党は、わが国の完全解体を目論んだのだが、時を同じくして、ソ連との冷戦がはじまって、方針転換を余儀なくされる。
それが、同年の、「トルーマン・ドクトリン」の発表だった。

そんなわけで、わが国は、「戦時総動員体制」が維持されることになったのである。

これが、学校教育、特に小中学校の義務教育期間における、「集団主義」の維持であったのだ。
間接統治として「軍政」を敷かなかったマッカーサーの巧妙にして狡獪な日本統治は、軍政を敷くしかなった朝鮮の激烈とはちがった高度さで一見マイルドに実施されたのである。

ゆえに、日本政府は存続した。
つまり、ポツダム宣言の通り、わが国は、軍隊が無条件降伏したけど、政府は降伏していない。
ただ、天皇を人質にとられることで、事実上の全面屈服を強いられ、天皇に代わってマッカーサーが「皇帝」として君臨したのだった。

トルーマンによって解任され、離日するマッカーサーを、わが国マスコミは、「ありがとう」といって別れを惜しむ、世界史的にも嘆かわしい奴隷状態をトップニュースとした。
しかも、連邦上院公聴会で戦争理由を問われたマッカーサーは、日本は自衛のためにわが国と戦った、と爆弾発言したが、政権を担う民主党とすでに宣伝機関のマスコミはこの模様を隠蔽した。

それで、このときの最後の発言、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」だけが、日本でも有名になったのである。
マッカーサーには、日本の征服者として自分がつくった制度で、自分の発言が封殺された哀れがある。

そんなわけで、江戸期の武士の機構とその朱子学による思想、および、明治期の白人列強からの独立維持を旨とする、「富国強兵」の生き残り戦略で、全国民が上(政府)からの命令に従う「軍事訓練」を、小中学校でたたき込まれる日本人には、ほとんどもう抵抗する発想が残っていない。

日本人の、自分でかんがえない、不真面目さの発露が、マスクを外せない行動になっているのである。

不遜ながら、わたしには、「羊の群れ」にしか見えないのであった。

電気代が「一揆」を呼び込む

自公政権の悪政は、あまりにもあんまりだった民主党政権の「悪夢を超えて」きて、「厄災」の様相をみせてきた。

もちろん、民主党政権の悪夢は悪夢でいまでも変わらないけど、その後の自公政権の悪政に、なにも期待できるものがないどころか、終わりが見えない恐怖となっている。
そもそもなんで、国民が民主党にいったん政権を任せたのか?といえば、その前から自公政権の悪政に心底嫌気をさしたからである。

相対評価として、つまり、よりまとも、という評価だけで政権奪取したものを、いつしか「君臨」するようになったのは、見事に「対抗要件となる選択肢の皆無」の結果なのである。

そこで出てきたのが、「参政党」であった。

何度も書くが、この政党は、わが国で唯一の、「近代政党」の要件を満たしている。
これまでは、共産党と公明党という、犬猿の仲の政党が、「微妙に」近代政党的要素をもっていたけど、党内での人事や政策決定に民主主義(投票)がない絶対的欠格がある。

今年、年明け早々に、共産党で「反乱」があって、すぐさま「鎮圧」されたのは記憶にあたらしいところである。
この事件は、党員が「党員の直接投票による党首公選制の導入を求めた」ことに、党本部は、「党への攻撃と見なす」として、この党員を即刻除名したことを指す。

共産党や全体主義者の「ダブルスタンダード(「二重思考」ともいう)」は、とっくにジョージ・オーウェルが指摘しているから、特に新味はないけれど、党執行部が上から決めて組織に命じるやり方を、「民主集中制」というから、笑っちゃうのである。

「民主」と「集中(独裁)」という、相矛盾した用語をくっつけて、それっぽくするのが、ダブルスタンダードのもっとも基本的でバカげたことだけど、これに批判をしようものなら、「処分」されるのが、全体主義の恐ろしさなのだ。

極右とされているヒトラーも、極左のスターリンも、「同じ穴のムジナ」なのは、どちらも、自らを「民主主義」だといって譲らない共通があって、支持者(お客さん)層も共通だった。
ワイマール憲法の本質を理解している、多数だった「自由主義者」たちは、彼らを無視して、政権をとった彼らは自由主義者たちを「処分」したのだった。

なぜに、こんな全体主義者が、政権をとれたのか?

ロシア革命のスポンサーが、ロスチャイルドやロックフェラーだったことは、もう資料でも確定している。
ヒトラーは、「自由主義者たち」が呆れて棄権し、投票率が落ちた選挙を制したのである。

たとえば、2月5日が投開票日だった、愛知県知事選挙の投票率は、過去5番目の「低さ」で、36.43%だった。
当選した大村知事の得票率は、67.5%で圧勝のように見えるけど、投票率から計算すれば、有権者の24.57%しか支持していないことがわかる。

つまるところ、愛知県民のたった4人に1人の得票で知事になれて、フルで知事権限を行使できるのだ。

為政者にとって、こんな笑いが止まらない話はない。

別段、神奈川県民のわたしが、大村知事のことを云々いうことではないし、たとえ話が極端の誹りを免れないとしても、ヒトラーの笑いとおなじ現象が起きている。

ちなみに、前回2019年の神奈川県知事選挙の投票率は、40.28%だった。
これでも6割の県民は、棄権しているので、愛知県を嗤えない。

しかしながら、「痛み」が伴うとまた違った様相になるものだ。

それが、大阪ではコロナ禍による全国1位になった、死亡者数と死亡率の両方の高さに現れて、維新政権と維新が制した各議会による保健系の役所(たとえば保健所の廃統合)や公共病院への補助金削減が、「功を奏した」のであった。

一般的に、世界標準だと、「大量殺人」として認識されるほどの責任問題になるけれど、それはこれら地域での歴史に不幸な「虐殺」があったからである。

いい意味で、わが国ではそんな理不尽は歴史にないから、まさか自分が投票した政党によって、自分が殺されるという発想がない。

しかしながら、悪い意味でグローバル化が進んで、とうとうわが国の政治も、政治家のための政治という世界標準に堕ちてしまった。

このメカニズムの原因は、有権者が投票権をかんたんに放棄してしまうことの結果なのである。
確率統計の世界には、「大数の法則」があって、サイコロを振る回数が増えれば増えるほど、各目が出る確率は、6分の1に近づく。

選挙という、自由な各自の投票行動も、まとめてみれば巨大な一定傾向を示すのだ。
これを多数が放棄した結果が、投票しなかったひとたちを中心に襲いかかって、「痛み」となる。

それが、電気代になって、家計を直撃するのだ。

北海道では、この冬、一般家庭のうち「オール家電」にしたひとに、月額10万円のヨーロッパ並み電気代(それでもまだ安い)が襲った。
関東以南では、この夏、おそるべき電気代の請求がやってくることは確実なのだ。

すると、暑くならない、国民が痛みに気づかないうちに、衆議院解散総選挙があるのではないか?
そうやって、投票率が低いままでいることが、政権与党を安定の勝利に導くからである。

とはいえ、春の統一地方選挙は、この意味でギリギリのタイミングである。
4月に3割の値上げが決まっているから、国民は5月の電気代請求で気づく。

なので、電気代への反乱が「一揆」になって、「令和デモクラシー」のはじまりとなる可能性が出てきたのである。

欺瞞と邪悪の観光立国推進基本計画

ソ連が、共産国ソ連としてやった、「計画経済」の、行政での具体的推進は、「ゴスプラン(ソ連国家計画委員会)」が管轄していた。

スターリン時代のあの有名な、「5ヵ年計画」の計画策定者にして、実行者だった。

企業で「予算屋」だったからわかるのは、「おカネの動き」を追いかけると、いろんなものが見えてくることだ。
いわゆる、「経営資源」という、ひと、モノ、カネ、情報、などが、カネに連なって芋づる式にわかるのである。

このときの、「カネ」とは、「費用」とか「投資」のことで、「売上」ではない。

おおくのひとが、損益計算書に誤魔化されて、売上から発想するけど、費用を投じた結果が売上にすぎないから、とにかくカネの使い途を追いかければ、因果関係がわかるものだ。

余談だが、予算屋には、電卓が必携のアイテムだ。
しかし、「加算機」が欲しいのにない。
前にも書いた、名機「カシオJS-25」という、手のひらサイズの加算機が製造中止になったのが、日本経済をダメにさせている意外な原因のひとつだとおもうのだ。

実務の計算では、ほとんどが「足し算」で、あんがいと同じ数字が連続することがある。

これをふつうの電卓で、いちいちぜんぶを入力するのが面倒なのは人情だ。
加算機(置数式)なら、「+=」キーをただ押した回数だけ足し算できる。
この便利さになれると、ふつうの電卓にイラついて、数字を押し間違えるからイライラのループに陥るのである。

いまの日本で購入できる、電源コードなし加算機は、大型卓上電卓タイプで、カシオとシャープからしか出ていない。
スコスコと快適な、静電無接点式のキー入力をしたいなら、電源コード付きというのも、いまどき能がなさすぎる。

乾電池でもいいから電源としたものを出してくれないものか?

それに、予算屋でない素人さんは、電卓なんか使わないで、表計算かスマホで十分と思うのだろう。
そこんところが、ぜんぜんちがうから、「素人さん」といいたくなるのだ。

さてそれで、計画は実績値をみてから作るという常識がある。
いわゆる、経営サイクルの、PLAN ⇒ DO ⇒ SEE という訳にはいかない。
実務ではあくまで、SEE ⇒ PLAN ⇒ DO なのだ。

この「SEE」とは、各種データのことをいう。
別にいえば、「統計データ」とか、「統計集計」のことである。

ソ連が失敗したのは、この「統計」がぜんぜん役に立たなかったから、計画が必然的にメチャクチャになって、実務もメチャクチャになったのを、どうにも修正が効かなくなったからである。

それは、真実の数字を責任逃れをしたい担当者レベルから隠したからだ。

だから、ゴルバチョフは、ソ連経済立て直しにあたって、最初に「グラスノスチ(情報公開)」をいったのである。
「ペレストロイカ(改革)」は、グラスノスチなくして成り立たない。

つまり、ウソではない真実の数字を出せ、と共産党書記長が叫んだのだ。

これは、中共にもいえて、事実上失脚した李克強首相が、「電力消費」と「鉄道貨物輸送量」それに、「銀行融資残高」しか、信用できないと発言した衝撃があった。
人口統計も、もちろんGDP統計も、ぜんぶウソだから、なにがなんだかわからない。

これがまた、中国経済を発展させた皮肉がある。
政府の関与が、できる部分とそうでない部分ができて、そうでない部分が大発展したのだ。

さて、日本で「観光庁」が発足したのは、2008年10月1日である。
設立目的は、観光立国の実現、であって、国土交通省の外局になった。

この前は、国際運輸・観光局であったのが、2007年(平成19年)1月1日に「観光立国推進基本法」が施行された。
この法律の怪しさは、衆参両院とも、「全会一致」の決議だったことによる。

なんでも反対で、「逆神」の、共産党も賛成しているから、すでに邪悪がみてとれる。

それから10年以上が経過して、観光産業はどうなったのか?をみれば、コロナ禍を挟んで、衰退どころの騒ぎではない。
その「コロナ禍」も、仕組まれたカネまみれと経済弱体化を目論んだ「計画」だったことが判明してきている。

「コロナ禍」で、多くの政府統計が政府によって破壊され、将来の役にたたなくなった。
これを、「統計法違反」だと、社会学やら経済学の研究者もいわない。
わが国の「ソ連化」が進行して、アカデミズムが「ルイセンコ状態」になっているのだ。

どうして、観光業が狙われるのか?
それは、業界人がいう、自分たちは主要産業ではないからだ、というのはぜんぜん理解が足らない。
国は、とっくに「主要産業にする」といっている。

ならば、これが欺瞞のウソなのか?

もっと酷いのである。
観光産業とは、誤解をおそれずにいえば、残念ながら社会の底辺も含むのである。
ゆえに、この産業をいじめることは、日本経済の発展で「底上げ」された底辺のひとたちを、より悲惨な元の木阿弥状態に転落させて、共産主義・全体主義の支持者を増やす目論見があるのである。

これが、共産党が賛成した理由だ。
ゆえに、マッチポンプをやる。

ただしく分析すれば、観光業界は観光行政の撤廃と観光庁の廃止を要求してこそ、産業として認められるというものだ。
政府に依存して、産業ごと乞食になって、共産主義・全体主義の罠にはまるのは、知的にも劣悪な業界の証明になっている。