数学を文系に再教育するには

「数学」と聞いて、怯むか?すぐさまその場から逃げ出すか?

文系の悲しさは、「苦手」の刷り込みが激しいために、とにかく拒絶反応を示すしか対応方法を見つけられないことにある。

中学校の数学教師に、どうして数学を習わないといけないのか?と聞けば、いまどきなら、正直に、「受験に役立つ」と答えるかもしれない。
気の利いた教師なら、「論理が身につく」とでもいうのだろうか?

すると、気の利いた生徒なら、国語における読解力と数学の論理は、どう違うのか?と質問するかもしれない。

むかし、まだ「進学塾」やら「予備校」に行くのがふつうではなかった時代、義務教育の数学教師(中学校のこと)は、ちゃんと人生に役に立つものだといっていた。
だから、義務教育期間で勉強しておかないと、人生の損になる、と。

本当は、人生の役に立つから数学を教えていたのに、受験に役立つのが優先されるようになったら、人生に役立つ教え方が優先されなくなったのである。

それで、ますます「抽象化」して、だからなんなんだ?をかんがえる子供には、この上なく退屈な時間になった。

だからこんな役に立っている、といちいち具体例を挙げて説明していると、授業時間数が足りなくなって、管理職の校長に叱られることになった。

もしも校長が数学教師だったひとで、自身の教育方針だからとこんどは頑張ったりしたら、確実に教育委員会から叱られるように、管理教育体制(官僚制)だけは完成した。
もちろん、そんな面倒な校長には、教職員組合も反旗を翻す。

それゆえに、学習指導要領というマニュアル通りが、なにがなんでも「無難」なのである。

ありがたいことに、そのマニュアル通りを貫けば、成績が悪いのは生徒の責任になるようにできている。
なので、成績を上げるために、塾通いをするのは、親と本人の専らの努めになって、それが虐待だというものはいなくなった。

むしろ、生徒の日常は、課外活動たる部活と塾の両立で、親より厳しいスケジュール管理の生活に順応しないといけなくなっている。

教師の方も、過剰な課外活動たる部活が、その勤務体系をいたずらに過酷にしているけれど、授業の充実が間に合わない、恰好の理由づけにもなっている。

だから、おそらく進学校の授業の充実は、「わかる」を優先させているに違いない。

それには、先に、これがわかるとなにに便利な応用ができるのか?を教えているはずなのだ。
それから、おもむろに、教科書にある抽象的だが基礎理論の解説を始めて、その内容と応用とを常に確認して生徒には飽きさせない工夫をしていることだろう。

進学校に行かなかったわたしでも、自分ならこうして教えるとおもうからである。

子供には、人生で初めての情報接触体験が、科目別に整理されている学校の授業となるので、だいたい小学生でも高学年になると理解に差が生じてくる。
これを、よってたかって本人にインプットを試みるから、折れた子供はアウトロー方面へ向かうしかなくなる。

しかしながら、よくよくおとなが見れば、中学校卒業までの教科書の分量は、たいしたことはないのだ。

生徒たちがこのアウトロー方面に、高校になって一斉に向かうのは、高校の学習内容が急速に高度になるからよりも、むしろ、反復の機会がずっと減るからである。
すなわち、進行度合いが早く、しかも教師はより機械的で授業構成に工夫がなくなる。

工夫をした授業をしたら、時間数が足りないからだけど、専門学部卒の高校教師は、その専門科目の教授法を大学で勉強したこともない。
教授法の素人がいきなり教壇に立って、上から目線の態度で給料がもらえるのである。

私立で、中高一貫という進学校のエンジンは、上で書いた、中学3年間で全開しているので、この分のアドバンテージがあるのだといえる。

公立で中高一貫校が鳴かず飛ばずなのは、これとは違う、慣らされた中学3年間が、ムダになっている、ともいえるだろう。
だが、公立校に、学習指導要領から外れた授業を要求するのは、その上の教育委員会が許さないという構造になっていることを思い出さないといけない。

つまり、公立の中高一貫校とは、最初からそんなもん、なのである。

すでに21世紀の後半を現役世代の社会人として生きていかないといけない、いまの子供達になにをどう教えるのか?という問題は、完全にサバイバルにおけるアドバンテージづくりを意味する。

そのために数学を基礎とした、化学や物理は、20世紀の日本が得意とした分野とはちがった分野なのか?どうなのか?をおとなが吟味しないといけない。
もはや、道具はコンピューターからA.I.に移っている。

役に立つ数学を早いうちに教えて、本人たちを納得させるのがおとなの役目になっているのだ。

逆に、間に合わなかったおとなに対しての再教育という重要な側面もある。
すると、これらは、ベストセラーの種なのである。
学校の教科書は、確実にカバーしないし、教師も教えない。
ましてや、進学校の教師も、「秘密」ゆえに公開しない。

ついでに、自習ができるように、学習用電卓の使い方とあわせて解説してあればなおよい。
それなら、まだ、社会人になっても「生涯学習」の対象になるからである。

どんな会社にも、数字はあふれているけれど、これを扱うのは経理部だけだ、というのは、とっくにナンセンスだ。
文系だからでは済まされない、数字の妙は、その応用にこそあるけれど、基礎とのセットで学ぶ機会がないのである。

破れたグランドストラテジー

もっとも基本的な国家戦略のことを、グランドストラテジーという。

世界各国は、当然にこのグランドストラテジーを描いていて、その達成に向けての努力が政治の仕事として実行されていることになっている。

よって、国民は、このグランドストラテジー策定に参画しようがしまいが、この影響から逃れることはできない。
たとえ個人が政治に関係しなくとも、その生活が政治の影響から逃れることができない、という現実のことである。

それで、民主主義の発明によって、国民参画を合法化して、グランドストラテジー形成のコンセンサスをとろうということになった。

こうして民主主義国家のグランドストラテジーが、国民の意思と合致する根拠となったから、近代民主主義国家のグランドストラテジーは、逆にかつてなく強固なものになったのである。
そうして、この「強固さ」が転じて、「国民への強制」へと変異しだしたのが、いまという時代なのである。

グランドストラテジーと言いにくければ、「国是」と言い換えてもいい。

この国是が、地方に浸透して、ある地域なりのコンセンサスともなれば、それを「郡是」(ぐんぜ)と呼んで、そのまま会社名にしたのが、「グンゼ:GUNZE」である。
具体的には、京都府何鹿郡の「郡是」を具現化するために設立された会社であった。
時は、1896年(明治29年)で、日清戦争の直後である。

ならば、三国干渉で、「臥薪嘗胆」が国是(グランドストラテジー)となった時期である。

わが国の産業は、重化学工業にほど遠く、繊維産業が全盛期となる時期だった。
その中心が、養蚕を介した「シルク」であったのだ。

わが国の養蚕の歴史は、当然に古く、弥生時代までさかのぼるという。
例によって、オリジナルは中国だとされている。

いわゆる奈良時代の、「租庸調」では、「庸」と「調」が税として絹を対象としていたから、基本物資であったのだ。

その伝統的な基本物資が、わが国の近代化の過程では重要産業となった。

これには女工の手が必須だったので、当初器用な女工には家が建つほどの高給が支給されていたし、健康管理も万全で、寄宿舎内には学校も設立された。

「哀史」になるのは、ずっと後のことである。

企業たる、グンゼのグランドストラテジーが、「郡是」からであって、その上位に「国是」があった。
これがわが国の資本主義泰明期と言われる時代における、発想と行動の順番だったのである。

それから、財閥が形成されて、国内の政商から、国際的なシンジケートへと発展すれば、「国策会社」という存在があからさまになるのである。
これを支えたのが、大銀行であった。

政府が税収によって運営されてはいないように、銀行も預金を貸し出すという仕組みになってはいない。

銀行の資金の調達は、銀行間で行われているし、これを中央銀行が円滑にしている。
銀行が破綻するのは、自身の信用創造力を上回る貸出に失敗したときで、それは貸金業として読みを外したときのペナルティにすぎない。

ただし、預金者が預けた預金が還らないと、預金者の生活が破綻するので、どうするのか?という問題がつきまとうのである。

このとき、預金とは二通りあって、ひとつは預金者が預金しか預けていない場合で、もうひとつが、預金者がその銀行から借入をして、預金(=借入金)が増えたひとをいう。
もちろん、借り入れたカネは取引先に振り込まれて、その取引先の預金が増える。
借り入れたひとの預金から、一瞬で消えても、借入残高があるというパターンである。

こうした取引が、同じ銀行内で実施されたなら、銀行自体のおカネの量はなんら変わらない。

Aさんの借り入れ1000万円が、何かの購入先B社の口座に1000万円として記入されるだけなのだ。
すると、銀行にとっては、Aさんから1000万円の返済を受けることが、商売そのものとなっている。

あたかも、銀行にAさん向けの1000万円が最初からあるかのように見えるけど、銀行はAさん、Bさんのそれぞれの通帳に「1000万円」と印字すればいいのである。

そんなわけで、個人も企業も、銀行に依存して生活していた。
「株式」や「債券」をわざわざ買う必要もなかったのである。

一方で、企業側には株式を発行する動機と、債券を発行する動機があった。
資金調達の上で、大きな金額を集めるときに、銀行からの借り入れでは煩雑だからである。
それで、持ち合いという方法なら、行って来いの関係ができて、それぞれの経営者には安定的な資金になったのである。

しかし、「株式」や「債券」に、相場というものができて、売買されるようになったら、持ち合い分の評価を帳簿に記載しないといけなくなった。
ために、株価や債券価格が気になることになったのである。

それが嵩じて、株価で換算した「企業価値」が、一人歩きするようになった。

ために、グランドストラテジーを丁寧に策定して、企業価値を高める努力ではなくて、目先の評価が重要になったのは、国家のグランドストラテジーが行き詰まったからである。

特にわが国の場合、90年代にアメリカのグランドストラテジーが、よりわが国への統制を強めると決めた(DPG:国防プラン・ガイダンス)ので、わが国は国家として身動きが取れなくなった。

それがまた、民間経営の自由度を削ぐための、「自由化」やら「改革」になって縛りつけたのである。

ならば、わが国のサバイバルとしてどうするのか?といった、別のグランドストラテジーがないと、もう存在できないほどになっているのである。

アナログ・トランスフォーメーション

DX(デジタル・トランスフォーメーション)を政府がいいだしたから、これからはDXの時代なのだ、という阿呆な民間企業経営者が存在するのに唖然とする。

政府は必ず失敗する、という法則をしらないで、民間企業の経営ができるのは、その企業の株主達もきっと阿呆にちがいない。

もっとも、わが国の上場企業株式は、すでにもう半分が日銀(ETFという投資信託)で、残りの半分も外資(外国人投資家)が所有するに至っているから、日本企業の所有者の国籍はとっくにあやしい状態にある。

日銀は「沈黙の株主」だから、「ものをいう株主」とは、外国人投資家のことになっている。

そんなわけだから、いまの日本企業の経営者たちは、外国人株主の顔色を見て経営しているし、もしも外国人投資家に何かを主張しようとしたら、日本政府の意向をいえばなんとかなると思い込んでいる。
その日本政府も、外国巨大企業に買収されてマフィア化しているのに。

だから、いまや日本政府も「逆神」になった。

もう決して、『大魔神』のように庶民(だいたい女と子供であった)を助けるようなことはない。
むしろ、子供から先に犠牲となるようにしている悪辣があるけれど、これに気づくおとなが阿呆化して皆無になったので、政府は好き放題を満喫している。

むかし、わたしが若い頃、会社の仕組みを「システム化」するように命じられたことがあった。
この「システム化」とは、コンピューターを使った自動化のことだった。
当時は格好をつけて、オフィス・オートメーション(OA)と呼んでいた。

さすがにとっくに、ガリ版印刷の時代ではなかったけれど、ガリ版印刷が廃れたといってもまだ10年経っていなかった。
専用紙に鉛筆やらシャープペンシルで書いた原稿を、特殊なドラムに巻き付けると、隣のドラムに焼き付け転写されて、印刷原板ができたものを「FAX」と呼んでいた。

この原版を謄写印刷機にかければ、ガリ版よりも楽に印刷できたのだった。

それが、一枚あたりにしたらやたら高価な、いまのコピー機全盛になった。
「ゼロックス」が名詞ではなくて、動詞の「ゼロックスする」になった。

コピー機の代金よりも、消耗品たる紙とトナーインクの方に売上の重心を置いたのは、あらゆるビジネスの基本モデルになった。
「ピカ一回いくら」という計算には、紙代とトナー代を足さないといけない。

ゼロックス社はコピー機を製造販売しているようで、じつは、紙とインクの販売商社だった。

そのゼロックスのコピー機設計部隊が、チームごと売り買いされて、ライバル会社を渡り歩いていてた。
明日はキャノンか?それともリコーか?そうやって、またゼロックスに帰ってもいた。

その都度、技術者たちの所得が上がったもので、カラー・コピー機の開発ではもっとあからさまだった。

ところが、ユーザー側の会社では、「アナログ・トランスフォーメーション」に熱心だったのである。

これはいまではあんがいと、灯台下暗し、である。
紙に書いて、うまくいかない社内情報の共有が、どうしてコンピューター化でうまくいくものか?という思想は、いまさらに正しいのである。

それだから、どういった情報の社内流通の実態があるのか?をずいぶんと調査させられた。
すると、二通りの流通経路があるのはすぐにわかる。
・組織図通りのフォーマルな流通
・組織図にない、社員やらの個人のつながりによるインフォーマルな流通

フォーマルな流通は、組織図通りなので、上意下達か下位からの報告という二通りの流れになる。
インフォーマルな流通は、組織図とは関係のない斜め横やらさまざまなな人間模様を通してできている情報網で、その都度、という形式もとる柔軟性がある。

結局、会社が予算をかけて構築するOAとは、やっとフォーマルな情報網の、上位下達でしかないことがわかった。
下位からの報告は、管理職の訓練度合いや社内派閥によって、場合によっては握り潰されることもある。

いったん握り潰された経験を下位が経験すると、もう二度と報告の対象にされないこともある。
それで、上層部に下位の底辺情報(だいたい接客情報)が、あがらない事態ができる。

よって、「飲みニケーション」という方法が、原始的でインフォーマルではあるけれど、もっとも早く正確な情報網を構築する。

ならば、外資ではどうなのか?といえば、インフォーマルな情報網の「全盛」なのである。
彼らの飲みニュケーションは、ボスの自宅で開催される週末のパーティなのである。
この結束は固く、いわば「一蓮托生」となっている。

しかし、日本的でないのは、柔軟性に欠けることであって、仲間内と外との排他的な関係にある。

これが、巨大派閥を形成して、企業そのものの経営を牛耳るのである。
よくある、外国企業の不祥事がこのパターンで現れる。

昨今、わが国の企業で、創業一族による不祥事が目立ってきたのは、一種の欧米化の悪い意味での顕在化であろう。
ただし、淘汰の対象になるのは、まだ経済原理が健全に作用しているともいえる。

デジタル・トランスフォーメーションの成功には、真っ先にアナログ・トランスフォーメーションの成功が欠かせないが、それがいまだに飲みニケーション依存だけならば、どうしてくれよう?というレベルなのである。

人類を救うWHO脱退運動

「世界政府」の危険について書いてきた。

わたしが子供のころは、「国連信仰」があって、自民党を牛耳った小沢一郎氏は、「国連第一主義」を提唱して、国家独自の外交を放棄するのが正しいと主張したものだった。
それがいつの間にか、「国民の生活が第一」となったので、腰が定まらない安っぽさだけが目立って、政治の主流から排除されたのは国民の生活にはよいことだった。

ただし、小沢氏のような政治家が夏の終わりのクラゲのように涌き出るものだから、駆除しきれない困ったがある。
これも、「公害」なのだ。

わが国の政治が完全にダメになったのは、「小選挙区比例代表並立制」という選挙制度になってからだ。
自民党に都合がいいのは、自民党がこれを廃止しようとしないことで明らかだ。

この選挙制度ができるまでの自民党は、まだ「まとも」だったけど、急速に左旋回していまのようなグローバル全体主義政党になるのは、なんでもかんでも「票」を呑み込むことだけに専念したことの結果である。

この行動に、政治信条は関係なく、票を得た者勝ち、という単純原理がすべてとなったのである。

むかしは共産党のポスターが「アンチテーゼ」になっていたから、その逆の政策をいうひとが正しいとおもえばだいたいあっていたが、いまは、共産党のポスターが正しくみえることがある。
それだけ自民党の政策がメチャクチャなので、最近では共産党にはもっと頑張ってほしいともおもうのである。

この際、共産党も戦後すぐの一大政策、「憲法9条反対」をリバイバルしたら、さぞや支持を伸ばすのだろうに、とおもうけど、できない相談だろうから残念至極なのだ。

なぜに共産党が当時、「憲法9条反対」を主張したのか?といえば、「国家の独立」をちゃんと意識していたからである。
独立国家には、国防軍が必要で、独立国には外国軍を入れてはならない、という、至極まっとうな国家観があったからだった。

これがヘンテコな変容をとげて、アメリカ軍がいなくなったあかつきには、自衛隊を国防軍にする、という騙しをもって妥協したのである。
ほんとうは、日本人民軍でないといけないはずなのに。

国防軍とは「国軍」のことで、政府軍のことをさす。
人民軍とは、「党の軍」であって、共産各国が採用し、ヒトラーのドイツも、「親衛隊」という党の軍を国軍とは別に組織していた。

この意味で、後世にいわれだした「吉田ドクトリン」とは、国防をアメリカ軍にさせて、経済発展だけを狙う、という言い分の矛盾がみえてくる。
なんのメリットがあって、外国がわが国の国防を担うのか?
しかも、わが国の製品がその外国の経済を痛めつけて、国民の失業をもたらしてまで?

答は、植民地なのである。
だから、アメリカはバブル経済を起こさせて、これを潰し、以来、わが国の衰退が止まらないのである。

ならば在日アメリカ軍とはなにか?といえば、占領軍なのである。
彼らは、日本防衛をしているふりをして、日本を占領している。
それが、ナイ教授のレポートでも明らかなのだ。

しかして、日本人のほとんどは、とっくに「国家観を喪失した」ので、独立の意味もわかっていない。

日本のパスポートが世界最強、といって自慢するのは、それがどんな意味からのことかをかんがえたら、世界最弱になる可能性に身が震えることだろう。

戦術でも戦略でもロシアに勝てっこないウクライナに、アメリカ民主党のいいなりで肩入れしてきたけれど、先にヨーロッパ諸国が息切れしてきて、もう追加援助はできないと表明する国が、ドイツを筆頭にいくつもでてきた。

国民の不満が高まって、各国の政権基盤が弛んでいるからである。
この意味で、まだ民主主義が機能している。

わが国は、ロシア(メドベージェフ元大統領)から、「第二次大戦戦勝記念日」で名指しされて突っ込まれているのに、大本営発表のようなマスコミは一切無視して、国民に情報を伝えていない。
すくなくとも、ロシアは「隣国」だということさえ、日本人は忘れたのか?

それでもって、プーチン政権が倒れればいい、なぞという、アメリカ民主党(戦争屋)がたてた、「Aプラン」をいまだに信じている。
しかし、プーチン氏はとっくに「Bプラン」にも気づいていて、長期戦を仕掛けてくることの防御を作戦の優先におきはじめたようである。

ロシア系がおおく暮らす、北部と、黒海の港町オデッサの占領をもって停戦を提案する可能性が高まっている。
ウクライナ側は、オデッサを失うと、海を喪失する。

こんな情勢を冷静に、ハンガリーのオルバン首相は分析している。

さてそれで、劣勢になった世界経済フォーラムなどのグローバル全体主義者たちは、来年の5月を目指してフル稼働している。
それが、「パンデミック条約」による、WHOの世界政府化で、各国はWHOの支配下に入るのか?が問われている。

この条約は、二重構造になっていて、「条約」と「規約」がある。
じつは、「規約」がやばいのだ。
加盟国の投票で過半数を占めたら通るのが「規約」で、3分の2以上でないと通らないのが「条約」だからである。

自民党はこんな国家主権の喪失に関する重大な議決に、国会を軽視したまま賛成票を投じるにちがいない。

ために、いま、世界でマスコミが報じないから「密かに」、WHO脱退運動がはじまっているのである。

なお、ボランティア医師たちによる、WHOに代わる自由世界のための、「ワールドカウンシルフォーヘルスジャパン(WCH-Japan)」が5月に設立されている。

「瀬戸際」という言葉がふさわしい人類の危機がそこまでやってきている。

語学としての数学

ずいぶん前に、数学を「言語」として書いたことがある。

日本人は、母語の「国語」と、外国語の「英語」を、言語(学)学習だと思いこんでいて、言語学習とは、「文系」の科目だとも思いこんでいる。
そして、「理系」の代表格といえば、「数学」で、生徒が嫌いになるように仕向けて教えるのは、「英語」もおなじ、という共通に気がつかない。

ずいぶん前に、「国語の文法(「学校文法」)」と「日本語文法」のちがいについて書いた。

小・中学校の「国語」で習うから、これを外国人に日本語を教える日本語教師は、あえて「学校文法」と呼んでいる。
「狙い」は、高等学校の「古文」を読むための下準備だという。

しかし、外国人の日本語学習者には、とりあえず「古文」は必要ないし、外国人の母語との関係をもって説明しないと、ただでさえ複雑な日本語を理解するのは困難になる。
そこで、外国人の母語と比較できるように工夫したのが、「日本語文法」なのである。

幸か不幸か、欧米の言語や中国語は、その文法が厳密であるから、これらと日本語のちがいを比較対照することは、外国人にとってわかりやすい、という効果を生む。
なので、日本人の外国語学習者は、下準備として「日本語文法」をしっておくと、外国語たとえば英語の文法とのちがいを理解しやすくなる、という事実があるという。

日本における英語教育は、この下準備を生徒にさせない無謀がある、とはベテラン日本語教師の告白である。

さてそれで、文系人間がもっとも嫌うのが、「数学」なのも、数学とはなにか?という下準備を一切教えない無謀が、妙な伝統になって、数学教師達が生徒をマウントするための十分な理由となっている。

何度か紹介している、『教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)で、数学者である著者の新井紀子氏は、「長い歴史を通して、数学は、人間の認識や、人間が認識している事象を説明する手段として、論理と確率、統計という言葉を獲得してきた、あるいは、獲得できたのはその三つだけだった」と書いている。

さらに、「論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです」として、衝撃的な一言がつづく。
「論理、確率、統計には、もう一つ決定的に欠けていることがあります。それは、「意味」を記述する方法がないということです」。

文系人間にとって、数学の冷たさとか、無機的な不気味さの理由が、この「意味を記述する方法がない」に尽きている。

「意味」は、人間が別途かんがえないといけないのだ。

逆にいえば、きっと数学にはまった「理系人間」たちは、この意味をかんがえることが楽しいにちがいない。
すると、理系人間たちのこの楽しみとは、やたら「文系」的なのである。

役人が政策立案をすることの、「とんでもない」を、だれもいわなくなったのは、民主主義の普及がされていないから、ともいえる事象だ。
本来ならば、政策立案は、「議会」と「議員」の仕事だ。

それで、議会が決議したら、行政は粛々と実行する、という手順と役目がある。

しかし、議会と議員(政党)がシンクタンクをもたない手抜きのために、役人にシンクタンクの役割を振ってしまったので、「役人天国」ができあがった。

企業の場合は、スタッフが政策立案することになっている。
そのスタッフのおおくが、「文系人間」なのである。

だから、「数字」も文系のスタッフが用意する。
社内データはもとより、各種統計データを用いるのはいうまでもない。

しかしながら、その「解釈」の訓練はどうしているのか?
あんがいと、本人任せ、なのである。

日本企業の「強み」が、ことごとく「欧米に遅れている」として、「改革」されてきたのは、文系人たちによる破壊活動であった。
これを牽引した、経済学者の肩書きをもっていたひとは、いまでは世界経済フォーラムにおける日本人唯一の理事となっている。

このひとのよくわからない論理に、おおくのひとがだまされた。
似たようによくわからない論理をかざすのは、三浦瑠麗氏である。

どうしてこのようなひとたちが跋扈できるのか?を問えば、日本国民に対しての「論理」の訓練が中途半端だからで、それが学校教育における従来型数学の限界となっている。
実用を教えないから、なんのために勉強させられているのか理解できない。

ただ、点数をとるための解法を暗記したり、手計算の方法を身体でおぼえたりしている。
つまり、おおいなるクイズ番組が数学の授業になってしまった。

しかし、もっと驚くのは、高校数学から「行列」が消えていた。
2012年からの話である。
2022年からは統計が必須化したのと交換になったのか?
しかも、「ベクトル」も文系数学から消えるという変な扱いを受けている。

天下り問題で文部次官を解雇された、前川喜平氏は、高校の中途退学者を減らすために、数学の必修をはずせばいい、と主張しているそうだが、言語道断である。
このひとには、「教育の目的」やらの「肝心」が欠落している。

わが国は、あくまで「科学技術立国」を維持しなければならない。

そのための数学を、従来の方法ではなくて生徒に理解させる工夫が必要なのである。

ナイ教授のそれはないレポート

今日2日は、わが国が連合軍へ降伏した日である。

ただし、沖縄は7日に日米両軍の将官が「無条件降伏」文書に署名している。
アメリカのプロパガンダで、日本政府も無条件降伏したかのように喧伝されているが、日本政府は降伏したが、それは条件降伏で、無条件降伏したのは日本軍であるから注意がいる。

この日以降、アメリカ政府には、「ジャパン・ハンドラー」と呼ばれる、対日政策専門の高級官僚(SES)が存在することは一般にもしられてきている。

そのなかに、ハーバード大学教授にしてケネディスクールの学長であった、ジョセフ・ナイ氏がいる。

上の一行だけで、アメリカ民主党のブレーンであることがわかるが、じっさいにカーター政権で国務副次官、クリントン政権で、国家情報会議議長と国防次官補(国際安全保障担当)を歴任している。

いまの言葉でいえば、グローバル全体主義者である。

この意味で、「ハーバード大学特別功労教授」という栄誉があるような肩書きは、ハーバード大学がかつてのモスクワ大学に匹敵する共産主義・全体主義の一大教育センター(洗脳機関)になっていることも明らかなのである。

よい子はハーバード大学にいっちゃいけないよ。

さて、ナイ氏がまとめた『対日超党派報告書』とは、2008年(ブッシュ息子・共和党政権時代)にアメリカ連邦上・下両院から、200名の議員を集めて作成した、対日戦略会議の超党派(戦争屋ネオコンたち)による報告書だ。

主なポイントは以下の6つ。

1 東シナ海・日本海近辺には未開発の石油・天然ガスがあり、その総量はサウジアラビアを凌ぐ。米国はこれをなんとしても入手しなければならない。(と勝手に決めた)

2 上記1のチャンスは、台湾と中国が軍事衝突を起こしたときだ。米・日両軍が台湾支援をするため、中国は日本の「本土攻撃」をし、逆上した日本人は本格的に日中戦争にのめりこむ。(アメリカは日本を煽るため、得意の「偽旗作戦」と日本人の似非保守をつかう)

3 米軍は徐々に引いて、日中だけを戦わせる。

4 日中戦争が激化したところで、アメリカは仲介にまわる。(「ポーツマス条約」を彷彿とさせる)この際、米軍は東シナ海・日本海でのPKO(平和維持活動)をおこなう。

5 4によって、この地域における資源開発に、圧倒的なアメリカエルギー産業が開発優先権を入手することができる。(唐突感があるがナイ氏は気にしていない)

6 以上の前提として、日本の自衛隊が海外で自由な軍事活動をできるような状況を形成しておくことが必要である。

まことに、アメリカ民主党らしい、自分たちの利益のためなら日本人や中国人(「真珠湾」で犠牲になったように、米軍の若者も消耗品として)がいくら死んでもかまわない、という見事な「戦略」なのである。
もちろん、この文章における「アメリカエルギー産業」とは、ロックフェラーやロスチャイルドの利権のことだ。

かんたんにいえば、ロックフェラーやらの利益のために、日本と台湾を見棄てる、といっている。
これが、民主党のいう、「日米同盟」なのである。

しかしながら、こんな稚拙で一方的なシナリオが現実化するのか?

このレポートから15年経ったいま、アメリカ民主党のめちゃくちゃな政策が、各地で「反米同盟」を結束させるに及んでおり、その典型がサウジアラビアのBRICs参加になって現れているのである。
しかも、アメリカの命綱「ペトロダラー」の約束が、反故になった。

ナイ教授がいう、ロックフェラーやらの利益を民主党が自分から毀損していていないか?

つまり、策士策に溺れる、になっている。

ただし、このひとたちには、成功体験がある。
それが、ウクライナでの「マイダン革命」(2014年)だった。
もっといえば、イラク戦争だったし、リビアのカダフィ殺害、あるいは「アラブの春」だった。

どれをとっても、「悪手」ばかりで、ひとつも「妙手」がない。
いかにも、囲碁・将棋を理解していないで、パワーゲームしか能がない別文化人(=野蛮人)である。

しかし、このレポートの結論は、日米同盟の終焉を意味するから、日本人にとって、あんがいとラッキーがある。

つまり、戦後から一貫してきた、「日本占領」が終わる「かも」、という意味だ。
もちろん、ナイ氏の頭の中に、「日米同盟の終焉」なんて一文字もないだろう。
あくまでも、アメリカ民主党に都合がいいことしか頭にない。

だが、アメリカのエネルギー利権のために、なぜに日本人が犠牲になることのシナリオに疑いを持たないのか?をかんがえればかんたんで、奴隷扱いだからである。
だから、ナイ氏のシナリオが現実化するのは、日本人が奴隷のまま、という条件が必要なのだ。

アメリカ民主党は、いつまでもどこまでもずっと、人種差別を是とする、とんでもない奴らだ。
この一点が壊れたら、日米同盟という名の植民地の終焉となる。

また一方で、もはやトランプ氏を司法の武器化という不正義でしか止めることができなくなったように、民主党の支配は国内各州でも終わりがみえてきた。

もしも、トランプ氏が返り咲いたら、「アメリカ・ファースト=各国ファースト」の政治理念が示されて、やっぱり日米同盟の終焉となるのだが、日本側にトランプ政権のカウンターパートがいない、という問題が浮き彫りとなる。

つまり、わが国には、「6」のさらに前提にあたる、「独立国家」としての準備がどこにもできていない、というウソのような状態がみえてくるのだ。

なんのことはない、植民国家ニッポン、なのである。

そんなわけで、やっぱりいい子はハーバード大学にいっちゃいけないよ。
バカになるから。

私説:デパート衰退のわけ

「不要産業」の代名詞が、デパートになってきた。

セブン&アイ・ホールディングスが売却を急ぐ、「そごう」と「西武百貨店」の従業員組合は、事ここに至ってストライキを実施する、としたものの、対象は西武池袋本店「だけ」という状態になったのである。

しかしながら、西武池袋本店は、新宿とはちがった地域からの客層でごった返す、「東京」のなかのひとつの中心地にある。

これがまた、「地方」との関係でいうと、田中角栄が意図した、「全国をくまなく・まんべんなく東京化する」という、あの、「日本列島改造論」に影響された、「東京の見本市」となったので、移動が困難で東京がまだ物珍しかった時代には、それでも重宝されたのである。

東海道新幹線のオリジナル計画で、「沼津駅」があったのを、ときの沼津商工会が顧客の東京への流出を懸念して、これが「大反対運動」となって、とうとう、隣の「三島駅」に決まった。
当時の孫にあたる、現商工会のメンバーは、沼津の経済衰退を、祖父達の変な努力のおかげ、と皮肉っているけれど、ほんとうか?

沼津経済は、そんな程度で興隆も衰退もするほど単純構造なのか?

わたしからみたら、この祖父があって、この孫がいる、という、「安易さ」がみごとに遺伝しているだけだとしかおもえない。
もちろん、これは、わたしの「感想」である。

その沼津に、デパートは消滅したとはいえ、大型SCは花盛りなのである。

それがまた、東京の大手不動産デベロッパーが、金太郎飴的なワンパターンでつくって、ワンパターンのテナント募集をするので、地域特性がほとんどないナショナルブランドのオンパレードになっている。

このことは、世界でも起きている。

王太子時代がえらく長かった、英国のチャールズ3世が書いた、『英国の未来像』(東京書籍、1991年)で、ヨーロッパ各地につくられているSCの貧しい建築における「思想の貧困」を批判している。

わたしは、チャールズ3世がいう貧しさを、地元横浜の「ランドマーク・プラザ」がそれだ、と勝手に特定して見物している。

この商業店舗群のつくり方とおなじものを、ルーマニアのブカレストや、ブルガリアのソフィア、ポーランドのワルシャワで観ている。
ロンドンにも、パリにも、ほぼ世界中に点在していることだろう。

そんななか、アメリカ・カリフォルニア州で160年以上の歴史をもつデパートメントストア「メイシーズ」が、とうとう閉館の苦境に立たされている。

この最大の理由が、「治安の悪化」だ。

アメリカ民主党政権(カリフォルニア州のこと)が2014年に成立・住民投票で承認された、「Proposition 47」で、950ドル以下の窃盗は「軽犯罪」となったのである。
それで警察当局は、捜査をしない、と決めたのである。

つまり、カリフォルニア州は、「万引き天国」と化した。

もっとも、カリフォルニア州は、あの有名な、歴史上もっともついていない不幸に見舞われた、ズータ氏の牧場から出た砂金が、持ち去り放題になってズダズダにした末裔が住んでいる地域だ。

血は争えない。

所有権の絶対が崩壊すれば、近代社会はたちまち無法地帯となる。
その意味で、カリフォルニア州は、「中世以前」に回帰したので、近代社会ではなくなった。
人口が他州へ流出をはじめたのは、近代社会で生活したい、ということでの引っ越しコストになっている。

さてそれで、デパートの衰退とは、徹底した「セレクト・ショップ」でもなく、なんだか漫然と商品が陳列棚にある、という景色一辺倒になったことに尽きるとおもう。
加えて、もうひとつが、買う側の無教養だ。
商品選択にあたっての「目利き」の目がないことを、ここでは無教養という。

おそらく、地方都市でも伝統文化を子供に教えないために、地元産品の目利きもいなくなってきているはずなのだ。

するとこれは、アメリカ式マーケティングリサーチでは問題解決できない。
むしろ、「生活の歴史=民俗」の問題なのである。

となると、誰がトータル・コーディネートするのか?よりも、完全なる暮らしの理想モデルはなにか?をいったん描いて、そこからの「優先順位的な提案」を観せてみたい、というのが、消費者へ教養を付与する一歩となる。

こうした「社会的使命」をすっかり失念したがゆえに、「不要産業」と評価されるに至ったのである。

アメリカナイズして、自らを鍛えたつもりの、セブン&アイ・ホールディングスの浅はかさは、コンビニで強調したい細かな気づかいの日本文化とは別のタイプの日本文化をアッピールすべきところが、その区別ができないザマに陥ったのである。

だからアメリカから輸入した経営学や経済学が通じない。
むしろ、国文学や歴史をしっかり重視していたら、とおもうと惜しい。

結局、残念な経営者が会社を潰す、の法則はなんら変わらないのであった。

人類史上初が軽すぎる日本の怖さ

フクシマの、処理水(「汚染水」となぜかいわなくなった)海洋投棄のことである。

電気事業連合会からの巨額広告料収入があるからか?また、政府広報の巨額広告料収入があるからか?むかしは、「聞屋」といって蔑まされた記者稼業が、ふたたびあやしい存在になってひさしい。

もっと政治向きに穿ってみれば、電力労連がNHKとかの労組と結託しているのか?ともおもえるのは、その報道内容のほとんどが、「ウソ」で、国民の目を事実からそらす努力をしているからである。

物質文明のひとつの極致が、原子力発電である。

二度も「核」の空中爆発をくらってえらい目にあった日本人がいう、「世界初の暴挙」があることを忘れて、今度は自ら「世界初」を決定して実行した。

あたかも、ヒロシマに刻まれている、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」に対して、被害者の日本人があやまちを冒したようで書き換えるべきではないのか?の正当な意見に、広島市は詭弁を弄しているから、参照されるといい。

こんなことがまかり通るから、フクシマの人類史上初がたいした議論にならずに、あるいは信用できないけど、マスコミが実施する社会調査で、支持者が6割もいるような恥を恥とも思えぬ国民になったのである。

広島市の見解のとおりなら、二度目となる今回の海洋投棄は、わが国の意思なのだから、攻撃された受身とはぜんぜんちがう、かえって重大な「あやまち」ではないか?と、広島市長は広島市民たる岸田首相に抗議をして当然なのに、これをしないのは、ダブルスタンダードである。

そんなわけで、中国がわが国水産物の禁輸を決めて、わが国の水産物輸出の42%を失うに至った。

この数字の中に、広島県の水産物も含まれる。
ことは、福島県の漁協だけの問題ではないのだけれど、こんな事態を日本政府と与党はほんとうに事前に予想しなかったのだろうか?

さきに「ありき」を決めてしまって、あとはひたすら実行するのみ、というのは、あまりにもストレートで単純すぎる。
単純な受験脳が仕切る、エリートの崩壊だとしかおもえない。

まずは、外交的な敗北があげられるのだ。

海産物が市場からなくなって、困るのは中国人だ!という言い分も、子供じみている。
なんであれ、外交カードを相手に渡したことにかわりはなく、今度は解禁したばかりの渡航制限復活もいいだした。

24日付、ニューズウィークによると、もしや、あちらの原潜が台湾海峡で沈没したかもしれず、その汚染はフクシマ海洋投棄の比ではない。
これを隠す、絶好の口実を相手に与えた、という意味でも、外交カードなのだ。

「廃棄物その他の物の投棄による海洋汚染の防止に関する条約」通称、ロンドン条約は、わが外務省のHPでは、「同条約は,水銀,カドミウム,放射性廃棄物などの有害廃棄物を限定的に列挙し,これらの海洋投棄のみを禁止していた。」と解説している。

つまり、条約違反が疑われるのである。

さらに、この条約の前提に、「海洋法」がある。
「海」は誰のものか?を規定しているのだけれども、「みんなのもの」と結論づけている。
世界の大陸につながっているのが海だからで、汚すな、という具体的ルールがロンドン条約だ。

政府が「お墨付きを得た」という、IAEAは、上の条約を管轄してはいない。

人類が経験した、メルトダウンを伴う原発事故は、過去3度ある。
スリーマイル島とチェルノブイリ事故につづいて、フクシマとなったが、どれもこれまでは、「陸上での処置」をしてきた。

このたびの日本政府の決定は、人類初めての海洋投棄となったのだ。

事故から12年以上が経過して、タンクが足らないというけれど、水のまま保管するだけなのはどういうことか?
コンクリートで固体化する方法がどうしてとられないのか?がわからない。

つまり、物理的方法論の前に、わが国はこの12年以上、この事故を国内問題としていたのに、今回、国際問題に拡大したのである。
しかも、自分たちの意思でだ。

さらに、あたかもトリチウムだけだ、とウソをついている。
東電の発表で、ALPSを通過した「処理水」には、セシウムやらストロンチウムやらも含まれている。

世界の原発を見渡せば、どこもかしこも、トリチウムを含んだ排水を放出しているという、無責任な報道もある。
これは、熱交換器を通じて蒸気を冷やすのにつかった水が、トリチウム化するからで、フクシマのように、デブリに直接触れた水とは意味がちがう。

だから、セシウムやらストロンチウムが入っているのである。(環境省
トリチウムの半減期は、12.3年。
セシウムは、セシウム134の半減期は約2年、セシウム137の半減期は約30年。
ストロンチウムは、28.8年だ。

ついでに書けば、デブリとは燃料棒が溶けてしまって、周りの構造物も溶かしたために溜まったもので、どんな成分なのか?はいまだにわかっていない。

どちらにしても、薄めたから大丈夫だ、という理屈は、バリバリの文系か知能が低いひとにしか通じない。
いよいよ、小学校の理科での授業が面倒になったのである。

理系脳の子供に、薄めたから大丈夫は通じっこない。

悪魔的な宣伝部隊からしたら、6割と、かくも支持者が多いことに満足していることだろう。
しかし、この愚かな支持者達は、「仕方がない」という理由のはずだから、仕方がない人生を歩むはずだといえば、他人事になってしまう。

ところが、国内問題から国際問題になったことの重大性にも気づかない阿呆だから、思いもかけない海の彼方の国から、どんなイチャモンがつけられるのかも想像できないないのだろう。

もちろん、「風評被害」を作り出しているのも、政府だ。
ぜったいに正確なデータを公表しない。
日本の漁業を潰して平気の平左なのは、もう「票田」ではないからである。

これに真っ向対抗するような外務省なら、とっくに反対表明してしかるべきなのだった。

さては、日本観光で寿司や刺身を食べることの危険を外国人観光客にも擦り込んだ政府が、インバウンド増大のためと称する観光庁予算を倍増させるのは、もう狂っている。

歴代最長の外務大臣経験者の岸田氏をして、国際問題になったことの重大性に気づかないのも不幸だが、やっぱり国民のおおくが阿呆丸出しなのが問題なのであった。

待ちぼうけになった「爆買い」

まるで「待ちぼうけ」のように、勝手にウサギがかけてきて転んでくれるような、あの「爆買い」に、相変わらず期待しているひとたちがいる。

10日、彼の国が、渡航制限を解除して団体ツアーが「解禁」になると、ニュースになった。
「待ってました!」と拍手した業界人も多かったのではないかと推察する。

それから10日ほどしたら、今度は、そんなにたくさん来ないらしい?という記事が、外国人の観光でわが国のライバル、タイからの事例として流れてきた。
ましてや、肝心の航空便数が増えない、ということも懸念材料になっているらしい。

常々不思議に思うのは、どうしてこういう記事に翻弄されるのか?ということがある。
たくさんある、「経済問題」の情報が、どういうわけか「別物」扱いになってしまうからである。

日本人だって、かつて70年代には、「農協ツアー」が世界から顰蹙を買ったことがある。
たとえば、パリの高級ブランド店に大挙して入店し、まるでバーゲン品のように爆買いする光景が、現地のひとたちから白い目でみられていたものだ。

それが、「エコノミック・アニマル」といってバカにされたのである。
かつて欧州貴族が口にした、「日本人は総じて貧しいが、高貴なる民族」の片鱗もない、という意味だ。

こんな豪勢なツアーができたのは、もちろん、農家が豊かだったからである。

とくに、都市近郊農家のそれは、作物からの収入だけでなく、宅地開発の土地売却もあった。
これらの陰に、1972年、米の小売価格の自由化がなされていたのだった。

それで、1994年に「食糧法(主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律)」ができて、翌年「食糧管理法」は廃止された。
ちなみに、食糧管理法は、昭和17年2月、東條内閣によって制定された社会主義・全体主義政策であった。

アメリカの「アンティファ:アンチ・ファシズム運動」が、じつはファシストたちであるように、東條をファシストと非難するのが「戦後サヨク」なのだ。

もちろん、農家だけが豊かになった、ということではなくて、わが国経済が全体的に高成長していたことにあったのはいうまでもない。

つまり、わずか100年ばかりで、「日本人は総じて金銭的に豊かだが、卑しい民族」に転落したのだった。

いま、これらのひとたちの「次世代」が、後期高齢者になって猛威を振るっている。
「団塊の世代」(1947年~49年生まれ)の子供たち(団塊ジュニア)ではなくて、団塊の世代の「やや下の世代」を指す。

さてそれで、中国経済の減衰は、コロナ禍の渦中から顕著になった。

問題なのは、彼の国における「統計」が、どれも信用ならないので、客観的評価が誰にもできない、ということがある。
なので、「株式市場」や「債券市場」さえも、なにが株価・債券価格(金利・利回り)を変動させる要因なのか?がよくわからない、という特徴をもっている。

また、その政治が、法治ではなく人治であることは太古からの伝統であるので、『三国志』の「梨園の誓い」にあるごとく、「義」をもって兄弟の誓いをしたら、その人脈は血脈よりも絶対になるのである。

これがわが国の任侠の世界にも伝わって、「兄弟仁義」となった。

つまるところ、ほんとうのこと、は、人脈をもってしか伝わらないから、人脈がないとなにもわからないのである。
それがまた、お礼としての賄賂になるのは当然の文化である。

だから、役職者に対して贈り物をするのはいけないのではなくて、贈り物をしないといけないのである。
日本的発想が失礼になるのは、ちがう文化圏だからだ。

したがって、事業やらなんやらで、金銭を融通してもらうのも、人脈がたよりとなる。

いわゆる、「金融機関=銀行」ではない。
もっといえば、銀行員のしりあいを紹介してもらう、というのでもない。
それでは、「銀行」からカネを融通してもらう、われわれとおなじ「ふつう」になってしまう。

そうではなくて、持てるものが紹介されれば、そのひとから融通してもらうのが、「義理」を果たすというもので、紹介者の立場や自身の立場が、融資金額や利息のたかを決めるのである。
そうやって起業して、大きく成長したら大きく返済するのも、「義理」というものだ。

「人治」とは、あらゆることが、人間関係(=人脈)で成立している社会でこそ成り立つのである。

成長して大きくなったら、銀行やらから借りるけど、それもこれも人脈なのである。
それで、もっと大きくなれば、社債・債券だって発行する。
もちろん、これも人脈でだ。

そんなわけだから、商売の取引先も人脈が頼りとなっていくので、もしもの「破綻」ともなれば、それは金銭的破綻だけではなく、人脈も破綻する。
ぜんぜん「有限」責任ではないのだ。
だから、人脈のための企業清算金は絶対に用意しないと、末代まで信用をなくしてしまう。

逆に、人脈とは関係のないひとが損失を被ることは、考慮に値しないのである。

これが、最大規模の破綻といわれている、不動産デベロッパー最大手「恒大集団」や「碧桂園」の破綻にまつわる、その創業者家族が確保しようとしている私財・資産の意味である。

超弩級の企業破綻なのに、直接世界経済に影響しないのは、世界がこれら企業に貸し付けてはいなかったからだ。
ほぼ、国内での大損失で、そのほとんどが人脈に「ない」多くのひとたちが負う。

これが、国内を循環して経済を縮小させるのは、「信用収縮」が起きると予想されているからである。

そして、この予想は、昨年の秋には欧米金融機関がレポートしている。
ために、欧米金融機関は、一切の追い貸しもしないし、得意のデリバティブ商品開発もしなかった。
大津波を喰らわないための予防措置である。

すると、この秋の団体ツアーが再び爆買いをしてくれると「待ちぼうけ」している日本の業界は、本物の「待ちぼうけ」なのである。

なんだか、業界をあげて無様にみえるのは、あまりにも情報力がないためのことで、担当者のせいにはできない深刻がある。

「経済カースト」の構造

「カースト」とは、ヒンドゥー教の社会制度で、職業、結婚、食事などの規制を指すものだが、現地では、「ヴァルナ」と「ジャーティ」という。
じつは、「カースト」とは、ポルトガル語から英語になった言い方なのだ。

「四民平等」をなし遂げたと勘違いしていた日本でも、さいきんでは「上級国民」という概念ができたが、人びとの心の中に残った身分性が、再び見えるようになってきただけの現象ともいえる。

その意味で、ヒンドゥー教におけるこの区分は、「正直」といえば正直なのである。

もちろん理想としての「平等社会」は、追求すべきものだとはおもうけれども、現実は現実としてみないといけない。
しかも、外国とはいえ、多数が信仰している宗教と結びついていることを、単純に「悪」とはいえないのも、現実なのである。

そもそもカースト制の歴史をみれば、紀元前13世紀頃からはじまったというから、いまから34世紀も前のことになる。

「神権政治」の基礎にある4つの身分が「ヴァルナ」とされた。
・バラモン(祭司)
・クシャトリア(武士)
・ヴァイシャ(平民)
・シュードラ(隷属民)、がそれだ。

それから時間が経って、「世襲の職業」が婚姻における内婚集団としての「ジャーティ」に細分化したという。
それで、親の身分が子に引き継がれることになった。

これには、前世の業の報い、という概念から、現世になっているのだとする「宿命観」が信仰の対象だという事情があるのだ。

なんだか、インドらしい。
というか、これがインドなのだ。

40年ほどまえの日本では、「卒業旅行」で海外に行くのが流行っていて、たまたまインドに行ったばかりに精神異常をきたしてしまう若者が多数でたのも、この「宿命観」にやられたのである。

そもそも、「インド」の語源は、インダス川の古名「シンド(大河)」をペルシャ人が、「ヒンドゥ」と呼んでいたのを、またまたポルトガル人が「インド」としたという。
アラビア語だと、「インド」とは発音せずに、「アル・ヒンドゥ」という。
なお、「アル」とは、英語でいう定冠詞「THE」のことだ。

インド発祥の仏教が、ヒンドゥー教に席巻されて、少数派(人口の3%程度)になったのが、いまのインドだ。
とはいえ、2023年での人口推計では、インド全部の人口は14億3千万人弱なので、3%とはいえ、4000万人は仏教徒だ。

幸か不幸か、日本には、「大乗仏教」が伝来したが、ヒンドゥー教はなぜか伝来しなかった。
しかも、インド仏教オリジナルからだいぶ変形したのが日本の仏教なので、「仏教」といっても単純比較はできない。

そんなわけで、インドが途上国のままで発展しないのは、カーストによる身分制の固定がネックになっているといわれてきたのである。

しかしながら、昨今、インド経済の発展はめざましく、日本の昭和30年代を彷彿とさせる、家電普及率となってきている。

誤解をおそれず単純化していえば、先に世界の工場となった中国から、インドへの生産シフトが起きているのである。
もちろん、東南アジア諸国やアフリカにも投資先が分散されているけど、「脱中国」という状況が生まれたのは、ある意味でその政治体制上からしたら、当然の帰結ではある。

もっとも、このことの最大の要因に、「安い人件費を求める」資本行動がある。

わるくいえば、資本行動として限りなく小さい人件費負担の、「奴隷労働を求める」ことが、「最高善」になるからだ。

けれども、これは資本行動とはいえ、資本主義といえるのか?とは別だといいたい。
本ブログでは、アイン・ランドの主張に賛同しているからだ。

それで、「経済カースト」なるものの構造はどうなっているのか?を図示しているのは、苫米地英人『経済大国なのになぜ貧しいのか?』(フォレスト出版、2012年)がある。

欧米巨大銀行オーナーをトップに、以下の構成となっている。
欧米巨大銀行頭取 ⇒ IMF・BIS等の国際金融機関 ⇒ 巨大投資銀行頭取クラス ⇒ GE・エクソンモービル 多国籍企業 ⇒ アメリカ政府 ⇒ 各国政府 ⇒ 経団連などの大企業

昨今のアメリカやヨーロッパでの事象に引きづられているわが国の事象をみると、この「経済カースト図」には、説得力がある。
ただし、アメリカ政府(バイデン民主党)やEU(フォン・デア・ライエンEU委員長)のほころびを観るにつけ、「その上」の盤石さがかえって目立つのである。

わが国政府の脆弱性は、推して知るべし。

ところで、「経団連などの大企業」から下のカーストはどうなっているのだろうか?
わたしには、コロナ禍で露呈した、「人的サービス業」が、最下位のカーストにあるとしかおもえない。

すなわち、シュードラ(隷属民)だ。

ために、全体でみたらとっくに下位のわが政府(ヴァイシャ:平民)にとって、「GOTO」なる「施し」をしてやらないと、生存が危ぶまれることを、当事者たるシュードラとして思いしらされたのである。

それで、もっとよこせと声を上げるのが、シャードラ内での細かな序列をつくっているとしかみえない。

はたして、人的サービス業は、この因果な世界から抜け出すことができるのか?
仏教ならば、億万回もの輪廻転生を経ないといけない。

つまり、はやく死んで復活せよ!という「教え」なのである。
これを企業体で実行するには、「生存理由」たる経営理念の見直しから再検討することなのである。