手間を食べる

手間ひまかけたり,ひと手間くわえたり,およそ「美味しいもの」には手間がかかっているから,食べる側は食材のほかに,手間を食べている.
だから、「美味しいものを食べさせたい」となれば,手間をかけなければならない.

「働き方改革」による「生産性向上」を柱にうちたてた首相も,「美味しいもの」を食べるなら,それは手間がかかっているから,しっかりした単価のお店に行かねばならない.もちろん,一国の首相がいく店だから,相応の単価だろうが,「生産性向上」なのだから,もっと支払うことで単価をあげて,国民に範をみせなければならない.

日本料理が世界遺産になったとよろこんでいるが,職人の育て方が従来どおりのままだと,作り手が減るから,需要と供給の原則から,おそろしく高価な料理になるかもしれない.それがねらいなら,なかなか遠大な作戦である.しかし,「日本料理界」に指示命令系統はないだろうから,なんとなく上記の「目標」が達成されることだろう.
「生産性向上」に間違いなくなる原因が,「なんとなく」であることになる.

どうして,日本料理の職人のかずが減るとかんがえるかは簡単である.
もう,西洋料理では調理師学校でも若くして「オーナーシェフ」になるためのプログラムがはじまっている,ということをこのブログでも書いた.
料理人の目標は,洋の東西をとわず「一国一城の主」になることだから,文系で勤め人になって,あわよくば役員に出世できれば,というものとはまったくちがう.

たとえば,「見習い」という,文字どおり下働きをしながら先輩たちの仕事を見て習う,という期間が最低3年と聞いただけで,最初から選択肢からはずれる.
高校の「調理科」は,「工業科」や「農業科」とくらべて全国的にみても圧倒的にすくないが,大人気という理由は,料理の基礎を3年で習得できて,さらに「高校卒業」資格までもらえるからだ.しかし,あんがい注目されていないが,「調理科」では,「経営」まで教えている.もっとつっこんで,従業員のつかいかたもあればよいとおもう.ただし,それでは三年間ではたりないかもしれない.

以前,公立の高等専門学校の先生に,「専門」なのはいいが,「マネジメント教育」が抜けているのは残念だとはなしたら,「校長」に進言したいと仰った.実現していないから,まことに残念だ.
どんな分野でも,専門性を追求して成功すれば,だいたい組織の長になる.べつに「マネジメント教育」は,上司のためだけのものではないが,「人間作り」では不可欠だ.

「工業高校」や「農業高校」,「商業高校」などの実業教育でも,「マネジメント教育」が欠如してるようにみえるのは,教職員も教育委員会という役所も,実務経験者がいないからだ.
どうやったら稲や野菜が育つかは,たしかに重要だが,どうやったら「売れる」のかや,「儲かる」のかということが欠如しては,実業教育として「手抜き」である.
まるで農協依存になるようにさせているようで,始末の悪い大人たちではないか.

少子の時代,教育における重要ポイントは多様性の確保ではないか?
つまり,もっと「進学」における選択肢拡大の重要性である.
たとえば,中学校から技術系が選択できてもよいし,それでいながら高校で合流できるのもありだ.
日本人は,いちど進路を分岐させると,そのまま合流しない一直線をイメージするが,からみあって結構,という仕組みがあっていい.

まもなく,国立大学でさえも統廃合の時代がやってくる.
すでに,文科省は一校ずつだった国立大学法人の複数校化をゆるす方針をうちだしている.つまり,「国立大学」といえども単独では維持できず「事実上の倒産」を認めるようになった.

このながれは,国立高等専門学校でも避けられない.
わがくにの教育制度上,ほとんど唯一の「『天才』教育機関」だが,「理系特化」という特徴がある.

「味覚」は個人の持って生まれた感覚のひとつとしられている.十歳の男子がもつ「味覚」がもっとも敏感だということもさまざまな実験からしられている.
かつて,わがくにをを代表する料理人は,小学校時代から丁稚奉公で当時の一流料理屋に勤めていた.このときの「つまみ食い」が,生涯をもって忘れなかった「味」ではなかったかとすれば,辻褄があう.

すると,「国立『料理』高等専門学校」設立,という手間をかけることの意味はおおきい.

香の薫りのする街

パリミュゼットが商店街の有線放送で流れていたり,建築の不統一はあたりまえ,どこまでが生活で,どこまでが観光なのか境界線が不鮮明なのが「京都」である.
生活の場であったはずの錦市場も,中国語が話せる店員がいたり,片言であろうがなかろうが,生活のために英語で接客する女将さんの姿は生活そのもの,という混沌である.

アジア系のお客さんは,日本的小物の店に引きつけられ,欧米系のお客さんは,刃物や雑貨でもかなり伝統的な専門のお店に引きつけられるようである.
しかし,「乾物」では逆転し,干し貝柱や干しなまこといった「高級品」にめを向けるのは中華系の女性たちで,欧米人の興味とはことなるのがおもしろい.

縮こまってしまった貝柱も,たったこれだけ?,という数で数千円からという値段だが,この値札に敏感なのは中華系に間違いない.一晩以上かけて戻すと,どういう味と食感になるか,そもそも,それがどんな料理の食材なのかをしらないと,反応のしようがない.
だから、「乾物」というジャンルは,相応のマニアックさがなければならないものだ.

ここ数年で,ヨーロッパ人も「UMAMI(うまみ)」という味覚の発見があって,おおきなスーパーマーケットには,「UMAMI」コーナーの案内板がある.ここでの取扱は,まったくもってわれわれがしる「乾物」がならぶ.もちろん,あの「味◯素」も人気商品である.
昆布がその代表だが,鰹節は,発がん物質(いぶしたときのタールとカビ)含有という「科学的根拠」をもって,EUは輸入禁止という措置をとっている.それで,日本の鰹節業界は,フランスに鰹節工場をつくり,対抗しているから,日本もまんざらすてたものではない.

インターネットの普及というけれど,それはYouTubeのような「動画」が無料で観ることができ,投稿もかんたんだから,その情報量と説得力は書類の時代からおおきく変化して本物になった.
ここで,昆布だしのとりかたや鰹節からかつおだしのとりかたが多数あるので,あんがいインスタント慣れしてしまった日本人の方が,ちゃんとしただしのとりかたをしらないかも知れない.

鰹節削り器といえば,むかしはどの家にもあった必需品だったが,いまどのくらいの普及率なのだろうか?
朝起きたら,鰹節を削らされたのは子どもの仕事だった.その横で,母親はみそ汁の具材を切っていた.
それで,だしの薫りがしてきたら,朝ごはんのはじまりである.

こんな,暮らしの風景が,ヨーロッパで普及しているかとおもうと,湯快である.

さて,そんな国々で,香の薫りは教会での儀式を筆頭に,アロマを家で楽しむ文化はあっても,街をあるいていて,ところどころで「伽羅」や「白檀」の薫りがする街は,京都以外におもいつかない.
全国に「小京都」とか「古都」を自称する街はたくさんあれど,「薫り」をもっているところがあるのか?とかんがえると,ほかにしらない.

とかく建物をつくるのに熱心な,ふつうの「観光開発」でできないのが,街の住人の習慣として「香を焚く」,ことだろう.命令でやれるものではない.

こんなところに,京都の魅力があるのだ.
やれるものならやってみなはれ,といわれているような気がするのは,いけず,というものか.

外国進出という生存策

歴史や文化の消費は,むかしからおこなわれてきた.
ふつうの物質的商品であれば,消費は資源の減少をともなうけれど,消費の対象が歴史や文化のばあいは,かえって活性化させるから,これらを含む観光が振興するのはよいことである.

一方で,消費のしかたを誤ると,伝統的なものでもいっそうの困難を生むことがある.
たとえば,割り箸である.「箸」という食器をつかうのは,東アジア文化圏独特のものだろう.国によってさまざまな材質の「箸」がつかわれる.たいへんな贅沢品は,象牙製のものだろう.金属製のものもある.
使いやすさという点では,木製のものが軽くて持ちやすい.これに,加工をほどこして,繊細なものまで容易につかめるようにするのは職人技のたまものである.

割り箸ができたのは江戸時代のようだから,これも日本人の発明品だろう.
間伐材からつくるから,国産の割り箸は消耗品でありながら,森林資源の保全に役立っていた.これを,外国産も含めて,森林破壊,といったから,プラスチック製が主流になっただけでなく,国産割り箸も販売があやしくなった.それで,各地の林業家がさらに収入源をうしなった.

かんがえ方が違う方向にいくと,おもわぬところでとばっちりを受けることがある.

これを裏返すと,ビジネスチャンスを失ってしまうことがある.

温泉旅館の輸出

日本人ならだれでもしっている「旅館」が,どんどん減っている.
年間にして,1,000軒というペースでの減少である.
この穴を,ビジネスホテルが増えておぎなっている.今年から,民泊が加わる.

国内での成長に限界をみたら,外国に進出する,というのがだいたいのビジネスでやっている.
たとえば,自由化競争によって国内を負われたAT&Tという電話会社がある.電話を発明したグラハム・ベルゆかりの巨大会社が,アジアや南米に進出したのは,30年前になる.これにならって,NTTも東南アジアに進出して,電話局を日本方式の「規格」にした.いま,鉄道などのインフラ輸出が語られる時代になって,鉄道だけでなく私鉄が得意な沿線開発という手法も輸出している.

日本のビジネスホテルチェーンも海外進出をはじめたが,「旅館」の事例はすくない.

温浴施設なら,中国でも店舗の商標問題があるほどだが,日本からの進出ではなく,業態を真似られた事例だ.

なぜ,旅館は海外に進出しないのか?
おそらく,ビジネスモデルを説明できないことがあるのではないか?
確固たる,自社のビジネスモデルを他人,しかも外国人に説明して理解を得ることができない.この「理解」には,投資家も含む.
すると,国内の投資家は,ビジネスモデルを理解しているのだろうか?
この「投資家」とは,銀行のことである.

銀行は,みずからの生き残りをかけた大リストラに取り組まざるをえなくなった.
日銀の低(マイナス)金利政策によって,本業である貸出業務での利益がとれない.それで,このところ各種手数料の値上げがつづいている.資金はあっても,貸したい貸出先がない.貸し剥がしたい貸出先に,旅館がある.

以上をうけて,「事業継承」という名目で,旅館の売買がさかんになるだろう.
その売買方式も,不動産売買ではなく,運営権にまつわるものになる可能性がある.
つまり,家賃方式とか運営委託とかだ.
はた目には「事業継承」だから、営業はつづく.

しかし,こうした方法は,海外進出のばあいもおなじだろう.
オーナーから,旅館経営をまかせられるのだ.

では,ちがいはないか?
「事業継承」なら,他人がビジネスモデルを練り直すことだ.

自社のビジネスモデル(事業コンセプト)を,みずから語れるか,語れないかのちがいのことなのだ.

世界100カ国以上で売れている日本酒

福井県鯖江にある,「梵」という銘柄の日本酒は,ビジネスモデルとしての「味」をつくって成功している.
その「味」とは,濃厚な料理に対抗できるものだ.クリームやチーズ,オリーブオイルなど,とかく洋風料理は濃厚である.これと対等をはれる日本酒というのは,めったにないから「オリジナル」になる.

なにも,日本旅館を洋風にせよ,といいたいのではない.
どこに,「オリジナル」を求め,それを追いかけるのか?をいいたいのだ.

ドライヤーが選択基準になる

物質的な「モノ」のあるなしが競争要件になる,というのはあまり推奨していないが,ひとつ気をつけたいモノがあるとすれば,それは「ドライヤー」であるから,念のため書いておく.

女性の常識

外資系の投資会社に勤務する女性職員たちに,アンケートをしたことがある.
「あなたが気にいってリピートしたくなる宿泊施設の選択条件はなんですか?」
すると,こだわりの人的サービスをあげるのだろうという,わたしの事前期待は裏切られて,「イオンドライヤーの有無」が圧倒的な回答だった.

それで,代表者を数名えらんでもらい,インタビューした.
なぜ,ドライヤーで宿泊施設の評価が決まるのですか?
すると,全員そろって,男性にはわからないかもしれないが,イオンドライヤーを一度でも使えばわかるはず,との返答だった.
そこで,わが家にもあるから,その快適性はわかっているつもりだが,宿泊施設の「選択基準」とまではかんがえなかったことを伝えた.
だから,男性にはわからない,という.

むかしからいう「髪は女の命」のことだった.
温泉宿だと,温泉の成分によっては,相当に髪が傷むことがあるから,トリートメントはあたりまえとして,かんじんのドライヤーが陳腐だと,元の木阿弥になってしまう.そうなると,まとまるものもまとまらない.
出張も同じで,朝の準備が断然ちがうという.自宅とちがって,ホテルだからいろいろ不便もあるが,仕事の準備以前に髪の手入れが重要,とのことだった.

女性が関わってつくったのか?

さらに,彼女たちの主張はつづいた.
「女性客」にターゲットを絞っているような宿泊商品をいろいろみるが,「本物」のバロメーターになるのが「ドライヤー」だから,だという指摘には納得した.彼女らによれば,商品企画に女性が関わっていれば,ドライヤーの選択に「絶対にこだわるはず」だから,見せかけの商品との違いがわかる,はなるほどである.

「男って,食事でなんとか誤魔化そうとするのよね」,「かわいい盛り付けとか」,「悪くはないけど,ちょっと子供だまし的で,そう簡単にだまされないわよ」ときた.

女性を企画に加えない状況も分析してみせる.
「センスのない女将が仕切っているかもしれない」はドキッとさせる.
「パートの仲居さんとかに,発言権を与えていない感じの宿があるけど,そういった施設ほど,イオンドライヤーがない」と言いきるのだ.

そして,「女将というより,経営者のセンスがない」とまで言いだす.
ふつう一台15,000円はするイオンドライヤーを採用すると決めれば,大浴場の脱衣所だけで何台必要か?男女入れ替えをやるなら,脱衣所分は二倍になる.
当然,部屋にも設置しないといけないから,イオンドライヤーの購入費は,結構な額になる.
これが,ふつうのドライヤーなら,安ければ2,000円程度で買えるから,その差はおおきい.

「だから,予算がないとかいって,社長が反対するわけよ.どうせ,髪の毛が乾けばいいんだから,とか言っちゃって」「それで『女性向けプラン』とか言われてもねぇ」と,じつに手厳しい.「企画に女性がいたら,社長を言いくるめることができる」から,やっぱり導入が決まるはずだ.

女性の社会進出によって形成される視点である.

では,イオンドライヤーが設置してあるとどうなのかをきいた.
「第Ⅰ段階クリアですね」とニッコリ笑顔でこたえがあった.
そりゃそうだ.
つまり,イオンドライヤーがないと,もっともおおきな目のザルから,ふるい落とされるということだった.

女性に気に入られるのには,数々の障害をクリアしなければならない.

電池がないホテル

仕事柄,講演の現地会場ホテルでドキッとすることがある.
「電池がない」ときだ.

最近は,マウスも無線のものが増えている.
講演というと,パソコンのプレゼンテーション・ソフトをつかって,現代的な紙芝居をおこなうものになった.そのパソコンのパッドが,立ったままの講演ではつかいにくいから,マウスの出番があるし,画面送りをするための端末が,レーザーポインターと一体なっているものを愛用している.これをつかうと,講演台からはなれても解説を続けることができるからだ.

ところが,電池切れ,という事態が発生することがある.
直前に気づくと,かなり焦る.
当然,売店をさがすが,土産物ばかりで電池がない宿がある.そこで,フロントに駆け込むが,そこでの対応で唖然としたことがある.

「お客様,電池のご用意はあるのですが,売り物ではありません」

あるのならいいではないか.
しかし,「売上方法がわからない」と言われたことがある.

「それ,事務用ですよね.ならば,しばし拝借できませんか?」

こうして危機を脱したことがあるから,講演につかうマウスは有線にした.レーザーポインターは有線にできないから,電池の予備は持ち歩くことにした.

会議や講演会でこうした事態はなかったのか?

「ありがとう,助かりました」といってフロントに電池を返しに行くときに,過去にこのようなことはなかったかと聞きたくなる.それが「恩返し」だとおもうからで,イヤミではない.

「けっこうあります」と笑顔でこたえがかえってくる.それは,ちょんぼったわたしにたいする思いやりからかもしれないが,ある意味,期待通りのこたえである.

その地域ではそれなりのステータスがあるとして会場に選ばれたのだろうから,わたしなど比べものにならない有名人も,このホテルで講演をする機会もあろうし,会議需要も通常のことだろう.
そうであれば,なおさら確率的にこのような事態が発生するだろう.
だから,「けっこう」あるのだ.

なぜ対処できないのか?

状況が理解できていないばあいがある.
問題が,たかが乾電池の一個や二個,とかんがえると,そんなものは,ちょっと5分も歩くほどの近所にあるコンビニに売るほどあるから,わざわざホテルで用意するようなものではない,と勝手に判断する.くわえて,大きな問題に過去ならずに,客側がなんとかしたから,ホテル側は「問題である」と認識していないかもしれない.

さらに,「販売用の乾電池の在庫」などもちたくない,ということもあるだろう.なにしろ,「けっこうある」といっても,それは半年に一回もないだろう.

ところが,事務用の乾電池の在庫はいくらでもあることがある.

さて,この事象をどうかんがえればいいだろうか?

売上方法がわからなかった

つまり,売上方法をかんがえればよいのである.
「その他売上」という売りかたがある.

だから,その他売上伝票を作ればよい.

経理は,この伝票を,事務在庫から振り替えればよい.

とっさにこの処理ができたらたいしたものだ.
おそらくそうはいかないから,ふだんからのシミュレーションが効いてくる.

たかが電池,されど電池なのである.

割引や値引きは経費である

ちょっとした備品の買い増しには極度の抵抗をするのに,割引や値引きには寛容なことがある.
とくに,クレームが原因のばあいは,その傾向がつよまる.

ところで,宿泊業では割引や値引きをどうやって「記録」しているのであろうか?
あるいは,だれの権限で可能なのか,あらかじめ「ルール」はきめてあるのだろうか?
そして,たとえば,この一年で,値引き額の総額や割引額の「総額」がわかるしくみはあるのだろうか?

と,問えば,おおくの企業で「あれ?」にならないか?

売上になってしまう

だから、記録は「記録しよう」という意志がなければのこらない.
だれの意志かといえば,それは経営者の意志である.
法律できまっている「決算」や「納税」とはべつに,経営者のために数字をまとめるしくみがないとできない.
だから、法律は「最低限」のルールなのである.

それは,「二重帳簿」である,といった経営者がいた.
コンサルタントとして「痛い」経験だ.
どんな数字をみたい,ではなく,決められた数字があればよい,という発想だった.
それで,数字をみているのか?と質問すれば,「みている」という.
みてわかるか?と質問すれば,「わかる」という.
なにがわかるかと質問したら,「赤字だ」といった経営者がいた.

婚礼はなんのための事業か?

上記の問題を,ホテルの婚礼事業にあてはめると,そらおそろしいことになる.
ホテル自体が婚礼で売り上げる項目は,部屋代と飲食代,飲食代にまつわるサービス料だ.
神官や巫女も,牧師も,司会者も,衣装代も,写真代も,引き出物も,照明・音響も,招待状の印刷代も,おおかた外部専門業者へ業務を委託している.だから,ホテルは,これら業者から手数料を得るのだが,それは委託料の支払いとの差額のことである.

お客とのやりとりで,割引や値引きをする,というのは,いったいどこの売上対象からなのか?というと,たいがいが,「部屋代」からになる.
その「部屋」こそ,婚礼需要の競争のために,大枚はたいて改修投資したのではなかったか?

つまり,ホテルは,専門業者に軒先をかしていると上から目線でいたら,いつのまにかリスクはすべて負担しているというありさまになっている.

数字をみるのではなく経営をみる

「数字が苦手」という経営者はおおい.
従業員や部下には,「苦手を克服する努力をしなさい」といっているのに,である.
このブログでなんども指摘している(おそらくこれからも,しつこく)が,その「苦手」の原因は,わかるはずのない納税用資料の損益計算書をみるからである.
わからないものをみて,わかったふりをしなければならないから「苦手」になる.
こんなもの,役に立たない,と決めればすっきりするのにである.

お節介な税理士先生が,お茶でも飲みながら,「このところ原価が上昇してますね」とか,「いやー社長,そろそろ長期固定比率を改善した方がいいですよ」なんて言ったりする.
それでどうする?が問題なのだ.
その答は,いわゆる財務諸表にはない.

財務諸表に記載するまえの,早い時期に,どうやって問題点を発見し手当てするかが経営なのだから,こうした行動をしていれば,他人からとやかくいわれる筋合いはない.
しかし,財務諸表に記載されてから気がついたのでは,まったく後手にまわっているのだ.

値引きや割引は,あらかじめ,のルールが重要で,そのルールにおいてどんな情報を記録するかを決めればよい.
つまり,ルールづくりが経営なのだ.
あとは,その記録を追求できるようにすれば,「総額」もわかるようになるだろう.

こんな努力もしないで,最近は単価があがらない,とボヤくだけなら誰にだって経営者はつとまる.

社員教育放棄の意味するもの

大学は入学するば卒業できる,というのが日本方式だから,なにがなんでも入学しなければならない.それで,入学さえしてしまえば,適当に人生でいちばん楽しい時間をたのしめるようになったから,これを「大学のレジャーランド化」といった.
大学側も,さまざまなレジャー施設(たとえば,テニスコートや研修所という名の保養施設)をつくって,かっこよく,しかも安く遊べることを入学案内の目玉にした.もちろん,これらはすべて授業料と寄付のおかげであるから,親からして「安い」かは疑問である.

そこそこの「労働者」がほしい企業は,将来の幹部候補は別として,大量採用が大企業としてのステータスを示したから,「大卒」という肩書きさえあれば内定をだした.おおくの有名企業でも,自社の成長戦略をきちんとえがいているわけではないから,本来ストックである人的資産を,フローの経済(景気変動)によって採用数を決めた.つまり,採用年次に景気がよければ大量採用し,景気がわるければ就職氷河期がやってくるというすがたである.

「バブル入社組」というひとかたまりが,これまた日本経済の風物詩をおりなす文化形成の根拠にされるのも,採用年次(ひるがえれば,生まれた年)が,たまたま,歴史的バブル経済という好景気の残影であるからだ.しかし,じつはこの年代のひとたちは,バブル経済を社会人として謳歌した経験はない.だから,「残影」なのだ.あの時代を,社用族として謳歌したのは,いま75歳以上のひとたちだろう.

かわいそうにも「バブル入社組」と一方的によばれる,この年次のひとびとも,まもなく50歳代に突入するから,社内ではそこそこの役職者になっているだろう.すると,あと十年もたてば,この人材のかたまりが大量に定年をむかえることになる.

いつから社内教育を放棄したのか?

日本企業は,以上のようなことを底流におくから,大学での教育内容は,「無視」して,社員は会社の教育研修制度の中で育てるものとされてきた.教育される社員の方も,大学で学んだことを他人に説明できるレベルではないから,会社の教育にすんなりはまるのだった.

経験値からいうと,バブルまえの時期から社内教育はうすまっていき,バブル崩壊のショックで放棄が正当化したとかんがえている.
バブル経済のまえ,というのは,70年代からつづく日本経済の安定期で,日本が経済力で世界を席巻していたから,企業はゆっくり人材教育をするよりも,OJTをつうじて新人を戦力化しようとしていた.OJTとは,「On-the-Job Training」のことで,現場で訓練させることを主とする.

そこで,問題となるのが「現場」なのである.
「現場」の「現場」たるゆえんは,ものづくりであってもサービスであっても,「戦術的」な仕事をしている特徴から,大卒という社内キャリアとして将来確実に要求される目線とはことなる次元での育成になるのは否めない.さらに,その「現場」が,経営と直結しているという自覚があればまだしも,とかく経営とははなれた存在であると思い込みやすいものだから,唯我独尊の立場でいることがある.このような「現場」には,事故や問題が発覚してはじめてきがつく気風までついてまわるので,OJTだけでの育成にはおのずと限界があるものだ.

だから,会社としては,現場ごとスキルアップさせるためにも,Off-JT(off the job training)をおこなう必要がでてくる.ここで,重要なのは,経営との一体感を埋め込むことなのだが,これにうとい経営者がおおい.それが,結果的に,社内教育の放棄,という現象を生むのだ.
つまり,社内教育はOJTでやっているから,社内教育を放棄している,という指摘に違和感をもつ経営者を「うとい」というのである.
それは,どんな人材が自社に必要なのか?という視点の欠如なのであるけれども,もっと深入りすれば,会社を将来どうしたいか?というビジョンの欠如でもあることを意味してる.

こういう企業こそ,採用にあたって,社長が人事に丸投げしている.
採用,という会社の将来を左右する一大イベントの意味すら理解不能なのだ.
だから,新人が会社を選ぶときに,社長が採用にコミットしない企業への入社はかんがえものだ.
自分を,一人前に育ててくれる気風がこの時点でみられないからだ.

人口減少社会で,人口増加時代の権威主義的経営者が生き残っている企業が危険なのは,こういう場面でも姿を現すようになる.

経理をアウトソーシングできるわけ

英語圏では,インターネットを介して,会計士による国境をこえた経理サービスが普及している.
発注者は,北米や欧州の企業で,受注者は,インドやスリランカの会計士である.
スリランカは,人口が2000万人しかいないが,国立コロンボ大学では,経営学部会計学科において4万人の会計士をつくりだす計画だ.国内需要ではなく,外国からの受注を期待している.
もっとも,会計士や税理士は,将来AIにとってかわられる可能性がたかいから,老婆心として心配である.

コストが安いというだけか?

発注者が,インドやスリランカの会計士に依頼するのは,自国の会計士の1/3程度という「安さ」であるといわれている.しかし,それだけが理由であるか疑問である.

企業にとって経理事務が必要な理由は,おおきく分けて二つだろう.
「会社決算」と「納税」である.
「会社決算」は,株式会社ならやらなければならない.いわゆる,株主への情報公開,である.だから,上場企業なら証券取引所に提出義務がある.
「納税」も,ほとんど世界共通の義務である.世界各国の政府で,納税をもとめないのは,「タックスヘイブン」といわれる数カ所の地域だけだ.
金融機関からの融資を受けるにあたって,これらの書類をみせるのも,会社の経営内容がしれるからだ.

ところで,以上の理由には肝心なものが抜けている.
誰のためのものかを基準にすると,株主のため,政府のため,金融機関のためであって,経営者のためが抜けている.

経営者は,株主のための資料である「会社決算書」をみながら経営しているのだろうか?
経営者は,政府に支払う税額は気になるが,「納税書類」をみながら経営しているのだろうか?
これらの書類は,経営者の経営実務に役立つのだろうか?

この際だからはっきりいえば,経営者の経営実務には役に立たない,というのが結論である.
だから、アウトソーシングしているのだともいえる.
自分のためにならない書類をつくるのなら,「安い」にこしたことはない.これが,経営判断だ.

すると,「国際会計基準」や日本の会社法による「企業会計原則」の議論はなにか?という疑問になる.
簡単にいえば,「株主への情報公開」のために必要な基準はなにか?だけである.
だから,会社経営の本質ではない.
会社経営をやったことがない役人や学者(優秀な学者ほど,ビジネス経験はない)が,「株主のため」という名目で,制度をいじくっているにすぎないから,面倒になった企業は上場をやめたがる.

月次「決算」に三週間かかる

さて,残念な企業共通の特徴は,その役に立つはずもない「決算」を経営資料にしていることだ.
きびしくいえば,「ゴミ」をみながらなにかを決めようとする.
「ゴミ」からは「ゴミ」しかうまれない,という原則もわすれている.

「税理士に経理をまかせている」という中小企業経営者はおおい.
すでに,この段階で経営者として問題である.
「税理士」は「会社経理」を業務としていない.「税理士」の本分は,「税額の算出」である.
つまり,経営者なのに,「経理」と「税務」の区別がつかいないということを「独白」しているのだ.

税理士は,きっちり数字をだすのが仕事だから,月次の数値がきまるのに三週間かける.
だから,先月の結果が確定するのは,今月ものこり十日しかないところになる.
これで,今月の対策をたてよ,と部下にいっても,手遅れである.
この「手遅れ」を,あろうことか毎月くり返している.

以上が,残念な企業に共通してみられる事象である.だから,いつまでたっても残念な状態からの脱却ができない.もちろんそれは,決算に三週間かける税理士のせいでもない.

「経理」をアウトソーシングしないわけ

好調な企業の「経理」は,当然だが「税務」とは無縁である.
経営者に適確な経営情報を適確な時期に提供するのが「経理」の存在意義とこころえれば,会社決算とも無縁である.なぜなら,会社決算は公認会計士の仕事だからである.アウトソーシングすると決めている業務を二重におこなうのはムダだからだ.

「経理」はアウトソーシングできない.
自社のオリジナルだからだ.それは,経営者がもとめる情報提供を追求すれば,かならずそうなるからだ.
こういう企業は,月初に幹部会を開催する.先月(つまり昨日まで)の月次と,今月の作戦をきめるのだ.もちろん,重心は今月の作戦にある.結果をどんなに議論しても,売上が増えるわけもなく,経費が減るわけもない.残念な企業は,結果の議論に時間をついやす.今月は残り十日しかないから,材料が豊富な先月の「反省」ばかりして,出席者の時間を浪費する.こうして,なんとなく幹部会が終了するのも共通の特徴だ.

もし,自社が「残念な部類かも」と感じたら,
どうやったら月初に月次幹部会が開催できるだろうか?
をかんがえてほしい.

やればできるものである.

官民あげて,という発想が生産性を低くする

なんでも「国民運動」にしたがる気風

最近はいわなくなったが,ちょっとまえなら,すぐに「国民運動」になった.
なにも,国民体育大会やラジオ体操のことではない.
このところ,「官民あげて」といいかえたらしい.マスコミは,ことばの選択が上手だが,なんのことなはない,いいたいことはおなじである.

「エルサレムのアイヒマン」をあつかった,映画『ハンナ・アーレント』が日本でもヒットしたのは,もう5年もまえになる.NHKの「100分 de 名著」は,観なくても,テキストを買えばよい.昨年9月に『ハンナ・アーレント』がでていて,よくまとまっている.

 
  

このなかで,彼女の主著「全体主義の起源」の解説がよい.
ここで注目すべきは,全体主義とは「運動」である,という.この「運動」は,もちろん政府が旗を振る.国民をまきこんでまきこんで,をやっているうちに,二重三重のおそろしく複雑な組織ができて,だれが責任者だかもわからなくなる.こうして,組織のなかに埋没した人間が,本人の意志をはなれた仕事をするようになる.

そこで,かつての「同盟国」である,ドイツをみると,この国のひとたちも「政府依存」がいまだにすきなのだ.これは,国民性だろう.
「インダストリー4.0」という運動は,モノのインターネット(IoT)を推進するにあたって,世界ではじめて政府が主導しているものだ.これをうらやましがるのが,やはり「政府依存」の日本人である.アメリカ人は,目もくれない.

集団主義とは,他人依存のことである

成長すさまじいかつての日本は,集団主義,を自負していた.個人主義の欧米の低迷こそ,集団主義の有利さの証拠だと信じた.
集団主義で成功したのは,梅棹忠夫先生がいう「あらっぽい工業」でも成立していたからだ.粗雑な製品でも,物不足の時代には売れた.「大量消費大量生産」である.
梅棹先生はこの時代の観光業も,「あらっぽい」と指摘した.それは,あらっぽい工業の成果である大量消費大量生産のたんなる延長線上にあるからだ,と.
新興国から猛追される時代になって,かつての欧米諸国が苦しんだ体験を日本が再び体験しているのに気がつかない.かつての「英国病」もしかり.先行する欧米から学ばなかった,慢心のなせるわざである.その欧米から,「日本病」(痛い日本)といわれてずいぶんたつ.

工業の世界は,とっくに「きめの細かい工業」へと転換している.ところが,文明の終着地でもある観光業の不勉強ははなはだしく,「あらっぽいまま」で生きのこった.その生きのこったすがたが,各地に点在する山賊のような「掠奪産業」としての無残である.

なぜ,観光業でこんなことになったのか?
それは,たんに時代を見誤った,という表面上のことではなく,集団主義における他人依存ではないかと疑っている.

カネにならない仕事とカネになる仕事の区別

「生産性」をかたるとき,「働き方」ばかりに目がいって,「生産物」の話題がない不思議がおきている.

ビジネスは「成果」である.

このひとことから,「成果主義」がうまれ,これが「終身雇用」という労働慣行を破壊した,という.しかし,「終身雇用」は健在だし,「成果主義」とはいっても,その「成果」を評価するしくみがいまだに完成されていないのはどうしたことか?

「終身雇用」が健在というのは,60歳で定年しても,おおくのひとが65歳まで「再雇用」されるからだ.退職金を一度手にするものの,現役時代のほぼ半分の収入で,おなじ仕事をしろという.

政府は,「同一労働同一賃金」をいうが,正社員とそれ以外という雇用形態ばかりに重心があって,「再雇用」が軽視されていないか?
そもそも,「再雇用」が必要なのは,定年退職しても,年金受給年齢との空白ができて,退職金だけでは「ゆたかな老後」なんて実現できないからだ.「ゆたかな老後」が満喫できるのは,元公務員にあたえられた特権になっている.

問題は,「働き方」なのではなく,「働かせ方」なのだ.
「カネになる仕事とカネにならない仕事」の区別ができない経営者のもとでは,おおくの従業員が,カネにならない仕事をさせられている可能性がある.
だから、官民あげて,という「国民運動」のさきには,虚無しかない.
「民」が,自社のなかにある,カネにならない仕事を排除して,カネになる仕事のボリュームをふやすことにエネルギーをかけなければならないのだ.

なんのことはない,企業としてあたりまえのことをすることなのだ.

技術料の範囲

安い食材をつかった料理なのに,高い値段のときがある.
そこで,料理人に,「いい値段だね」というと,「技術料です」と答がかえってくることがある.

「レシピ」に著作権がない理由

料理の本は数々あるが,「レシピ」だけ,だと著作権はないから,「レシピ」以外の文章や写真などに著作権があるのだが,「作り方」にも著作権はない.

有名料理人の名前や顔をパッケージにだして売られている商品は,有名料理人に「出演料」を支払うことになっていて,商品開発にかかわった分は「技術顧問料」になっているだろう.成果物としての,食材「レシピ」と「作り方」は,この「技術顧問料」にふくまれる.

これは,料理人の「書いたもの」を評価するのではなく,料理人の「技術力」を評価することからうまれている.

たとえば,オムレツ.
といた卵を油をひいた熱したフライパンに流し込んで,菜箸などでかきまぜて,ある程度かたまったらへりに寄せ,フライパンを片手でもちあげ,あいているもう一方の手でフライパンの持ち手の端をたたくとまとまって完成する.
というのは,だれだってしっている.でも,できない.
「どうやったらできるの?」と質問されても,たいがいの料理人は笑うだけである.
こたえは簡単.練習するしかない,だ.
それで、「技術料」が発生する.

技術料は料理だけか?

オムレツの例でかんがえてみる.
「といた卵」というのは,もしかしら「漉している卵」かもしれない.
「油」というのは,バターなのか,植物油なのか?バターでも,「溶かしバター」かもしれない.
鉄の「フライパン」がこびりつかないのは,「手入れ」をしているからだ.
これだけでも,「作り方」の前にある作業の裾野がひろがっている.
それに,オムレツを盛り付ける「皿」もひつようだ.
材質に形状,それに絵柄デザインはどういうものを選ぶのか?

オムレツを注文したお客からすれば.
まず,おおくのばあい,シチュエーションは,朝食,だろう.
あなたは,どんな気分で朝食をとりたいとおもうだろうか?
はつらつとした気がみなぎるような朝食.
おもわず笑顔がこぼれるような気になる朝食.
さまざまあろうが,気分が落ち込むような朝食は,かんべんしてほしい.

すると,ひとが朝食にもとめているのは,「いい気分」であることがわかる.
つまり,「いい気分」で「空腹を満たしたい」のであって,「空腹を満たした」から「いい気分」なのではない.

だから,プロとして,お客を「いい気分」にさせるためのものが,「技術」なのである.
そうなると,朝食をとる場所はどうだろう?
薄暗い空間か,陽光がさしこむような空間か?
畳にすわるのか?椅子にすわるのか?
定食式か?ブフェスタイルか?

これは,「コンセプト」である.
どんな「コンセプト」なのか?をかんがえる技術があってはじめて,個別の技術が生きるのだ.

残念な経営にはコンセプトが希薄である

コンセプトはビジネスモデルを決める.
だから,コンセプトが希薄ではっきりしない宿や飲食店は,成功する可能性がひくい.
お客は,コンセプトにお金を払っている.
料理の技術料というのは,コンセプトとの結合なくしては,単なる職人技になってしまうのだ.