自民党は分裂すべき

竹下派が分裂して小沢一郎が飛び出して以来、「キングメーカー」がいなくなったのが自民党の「変化」であった。
それから、なにを改革するのかわからない「党改革」が言われ続けたけど、やっぱりなにを改革するのかわからないから、そのままになっている。

「掛け算」だと順番は気にしなくてもいいけれど、「掛け算と足し算」が一緒の「式」にあったら、順番を間違えると答が変わる。
2+3×4=14

これが20になったら、間違いだ。
「先に掛け算」をするのが、計算のルールになっている。
もしも答を20にしたいなら、(2+3)×4、という式を書かないといけない。

「カッコの中を先に計算する」というルールがあるからである。

つまり、同じルールでも、基本的なルールとサブ的なルールがある、ということを学ぶのが、この「算数」で学ぶ目的なのである。
これが、「論理」でいう「分岐」のかんがえ方だ。
それが、「Excel」などでいう「if文」という、「論理関数」になっている。

「もしA」ならこの計算、そうでないならこの計算という命令となる。

これが、「機械的」なのは、単にルールだけがあるからだ。
人間の行動には、目的が伴うのであるけれど、目的達成のための「やり方」は、人それぞれだ。
登山道に違うルートがあるけれど、頂上を目指すのは同じだ。

しかしながら、頂上を見失うとどうなるか?
「目的」や「目標」がなんだかわからなくなった状態になると、たちまちどうしたらよいかがわからなくなる。

これが、いまの「自民党の状態」だと想像できる。

ただし、「政権党で居続ける」という、一段低い「目標」はある。
国民にも、おそらく党員にもわからないのは、自民党が存在する理由、すなわち「目的」が不明な政党になっている、という病的状態なのだ。

今回の総裁選挙で国民に見えてきたのは、「ブレ幅の大きさ」だった。
アメリカ民主党的な高市氏を「極右」というわるい冗談はさておき、候補者の中に限れば、高市氏は「一方の端」に位置した。
対する、河野氏は中共でいう「右派」であった。

共産党右派とは、「極左」のことをいう。
数式で言う「マイナス」が常に付くのが共産党だから、「極右」というマイナスで掛け算するから「符号が逆になる」のだ。

実際に、「河野家」がどういう生業の家かが、赤裸々にリークされてしまったから、河野氏にとって総裁選はマイナスが足し算された。
地元の、神奈川県平塚市と茅ヶ崎市や藤沢市民は、次期総選挙でどうするのか?

「小選挙区」になったら、平塚だけでなく茅ヶ崎と藤沢に範囲が「広がって」、平塚での不人気を取り返している。
平塚市民は、洋平氏の時代から「飽きている」けど、新しい地域では「強い」という。

そんな河野氏とほとんど同じか、中身のなさで相手にならなかった野田氏は、総裁候補というよりも、裁判所で「反社認定」された夫の前職をもって、公職にいること自体が問題になった。
やっぱり次期総選挙で、岐阜県民はどうするのか?に注目したい。

そこで、「無難」という候補の岸田氏が当選したという。
何に対して、「無難」なのか?を考えると、いろんな意味があぶり出される。

まさに、優柔不断のわが国家にふさわしい、優柔不断をもって首相になる、ということだ。
これをきっと、「自然体」というのだろう。

通称「岸田派」とは、「宏池会(こうちかい)」のことだ。
吉田茂を源流とする、グローバリストの集団である。
吉田茂の孫である、麻生太郎も宏池会にいたけれど、加藤紘一がこれを継いだのをきっかけに、河野洋平と一緒に脱会した。

その河野洋平の長男が太郎だから、麻生派に太郎がいる。
マンガしか読めない麻生の方は、吉田茂の業績をどう考えているのかよくわからない。
あたかも、「足し算のルール」をごちゃ混ぜにする御仁だ。

吉田茂と争った、岸信介の孫の安倍晋三と「蜜月」だったからである。
こうした「現象」を見れば、自民党の歴史的崩壊がよくわかる。
つまり、わるい意味で過去を引き摺っていないのだ。

それで、「現世利益」だけを目的とする、公明党と組める理由が成立する。
「選挙」だけが公明党と組む理由ではないのだ。

さてそれで、高市氏の「躍進」とは、いわゆる「保守層」からの期待を一身に背負ったことが理由だろう。
わたしには彼女が「保守」には到底見えないけれど、自民党は保守政党なのだ、という過去の記憶を呼び覚ましたことは、たとえ勘違いだとしても事実だろう。

しかし、もはや自民党はとっくに保守政党ではなくて、かつての社会党を飲み込んだ挙げ句の、「社会主義政党」である。
そんなわけで、優柔不断の岸田氏が決断することは、既定の社会主義路線を走ること「だけ」になる。

ところが、アメリカの様相が変わってきて、トランプ氏の影響力が強くなること必定なのだ。

これが、河野家の生業をリークしたのが在日のCIAだとすれば、次はCIAの手先機関である、東京地検特捜部が「河野逮捕」に動くやもしれぬ。
自民党広報本部を「閑職」というけれど、「かくまってくれる」岸田氏は、宏池会の本質を熟知していると思われる。

これが、「党内融和」なのだ。

そんなわけで、岸信介(CIAエージェント)の流れをくむ「細田派(実質安倍派)」が、保守合同ならぬ「分裂」をして、「真正保守党」を立ち上げるべきなのである。
いまなら、麻生太郎と国民民主がついてくるかもしれない。

残った自民党グローバリストは、立憲民主党と合同する可能性もある。
これぞ、国民にわかりやすい日本の未来形なのだ。

アリゾナ州議会の奮闘

アメリカの商業マスコミがフェイクニュースばかりを報道する機関になったので、横文字を縦にする「だけ」のわが国も同じことになった。
なんのために「特派員」を駐在させるのか?という意味も、「アリバイ」が「見栄」になったので、現地特派員のやることはほとんどなくなった。

人間という生き物は、自分にやることがないことを嫌がる傾向があるから、現地の特派員は、きっと大量の文章を書いて本社に送信しているはずである。
けれども、東京がこれを採用して掲載することはないので、掲載されるような記事しか書かなくなる。

そんな記事に読者は価値を見出していないので、新聞やテレビ離れということになる。
それに、10代の若者のほとんどが「テレビを観ていない」というのは、ネット・ゲームに忙しいからで、知的水準の上昇があってのことではない。

この意味でも、アメリカ人の「おとな」は頑張っている。
日本とは「仕組みがちがう」とはいえ、州議会が踏ん張って、とうとう昨年の大統領選挙(実は地方議会も含めた「総選挙」)での、「選挙不正」についての報告書をまとめて、これを先週の金曜日に発表した。

発表を前に、報告書の一部がわざと「リーク」されて、商業マスコミは例によって、「手集計の結果だけ」を報道し、「何も問題はない」としたどころか、トランプ氏の票が減ってバイデン氏の票が増えた、とまで報じた。

ところが、「本文」における指摘の「凄まじき不正の実態」は、「犯罪的」ということになって、「州議会上院議長」が「州検察」にもこれを報告し、検察は「調査開始」を宣言したのだった。
つまり、「事件」になった。

マスコミがいう「手集計」には、万票単位(5万票以上)の不正票が含まれている。
よって、これらの不正票を「取り除く必要」があるのは当然だ。
すると、アリゾナ州におけるバイデン氏の勝利とは、1万票ちょっと、という僅差だったから、数万票の引き算が意味するところは?火を見るよりも明らかになってきた。

それに、「民間人」が行動を開始していて、地区開票結果に疑問を抱いた地元で長く商売をする不動産屋の女性社長が、任意で「戸別訪問調査」も実施した。
ここ数十年、共和党が不敗の地域で、しかも彼女の不動産情報では、住民の新規流入も少ないのに、民主党が大差で勝利したことになっていたからである。

そこで、顔見知りを訪問して投票について質問すると、奇妙な回答が多かったのだ。
「わたしは投票していない」と。
けれども、地区選管のデータでは投票したことになっている。

一念発起、近隣の住民に声かけして、「ボランティアを募集」した。
誰もが、「顔見知り」の隣近所を訪問して質問することにした。
ただし、「誰に投票したか?」ではセンシティブなので、「そもそも選挙投票をしたのか?」、それは「投票所か?郵便か?」だけに質問を絞ったのであった。

対象エリアも、不動産情報で使う住宅地図をつかって、無理なくムラなく地区をカバーした。
すると、ボランティア参加者が唖然とする結果となったのである。
もちろん、ボランティアに応募したのも、「おかしい」という疑問があったからだった。

その「疑問」の集合体が、顔見知りを戸別訪問するという手法だから、庭先で追い返されるということは少なかったようである。
しかも、単純な質問だけなことに却って不満をいうひとがいたという。
「もっと聞いてよ」と。

こうした「民間調査」が、選挙結果をどうこうできるものではない。
しかしながら、住民の皮膚感覚が起こした行動によって、その皮膚感覚の正しさと選挙への疑問が、とうとう「証明」されてしまった。
このことも、州議会を「その気にさせた」原動力なのである。

もちろん、「商業マスコミ」は、こうした活動のことも一切報じていない。
しかし、ボランティア参加者と質問に答えたひとたちは、却ってマスコミを信用してはいけないことを実感し、逆に「敵視」するようになった。

何故なら、この調査活動はちゃんとしていて、回答に協力してくれた家に、「結果報告」を「配布」していたからである。
これによって、「唖然」とする基盤ができたのだった。

独立心が強くて、他人に依存することを嫌がる傾向があるアメリカ人は、地区選管にどういうことかを求める行動をはじめる。
個別に撃破できると高をくくっていた選管の態度に変化が生まれたのは、選管のひとたちも地区住民だからである。

そんなわけで、議会の議員たちにも住民からの苦情が殺到して、議員たちは「戦闘モード」になった。
共和党・主流派の知事は相変わらず他人ごとだけど、選挙に関しては知事権限はないという「ごもっとも」を貫いている。

それで、来年の中間選挙におけるアリゾナ州知事選での、共和党予備選挙には、対抗馬としてトランプ氏(共和党・保守派)が推す候補が既に名乗りをあげている。

さて、商業マスコミがぜんぜん報じないもう一つは、アリゾナ州の「衝撃」が、「全米」に広がっていることである。
各州の議員たちが、一斉に「50州で選挙の法科学的監査実施」を訴えだした。
これには、トランプ氏が勝った州も含まれている。

「前代未聞」が、(やっぱり報道しない)日本からみても静かに始まっている。
バイデン政権崩壊の前兆なのであるから、わが国の「新政権」にも多大なる影響があることは当然だ。

優柔不断な新首相の命運も、これで決まるからである。

富士山の水道水

富士山には、「川」がない。
自ら噴出させた、「溶岩」や「火山灰」で覆っているので、雨が降っても雪融け水でも、「地下水」になってしまうからだ。
イメージとしとはスポンジのような山なのである。

「貯水量」はというと、およそ「琵琶湖ほど」という研究がある。

なので、重力でスポンジの水が湧き出るように、富士山の山腹から涌き出る水を水源として、この山の周辺都市の「水道」になっている。
もちろん、瓶詰めすれば「ミネラルウォーター」として販売できるので、山梨県と静岡県は、あわせて全国シェアの半分を超える「二大産地」となっている。

都道府県別で水道料金をランキングにすると、最安は神奈川県になるけれども、市町村別にすると様相が変わる。
トップ10に、静岡県(長泉町、小山町)と山梨県(忍野村、富士河口湖町)それぞれ2町村がランクインしているけれど、神奈川県の市町村はひとつもない。

統計における「平均」の妙である。

富士河口湖町と忍野村との間には、富士吉田市があって、「吉田のうどん」が名物とされている。
「腰がある」というよりも、かなり「堅い」うどんだけれども、「水のよさ」あっての名物にちがいない。

忍野村には有名な「忍野八海」がある。
富士山の伏流水の湧水池が並んでいる。
この地の奥と山中湖を水源にする「桂川」は、富士吉田市の溶岩流脇を下って、大月市で大きく曲がって相模湖に向かう。

山中湖の反対側、道志山塊を水源にする道志川も、山を夾んで桂川と並行しながら相模湖に向かう。
道志村の村域の8割が、横浜市水道局の水源管理山林として、横浜市が所有している。

山中湖から篭坂峠を越えれば、御殿場市で、途中、小山町を横切る。
御殿場から国道246号線を下って裾野市の隣が長泉町。
それから、うなぎと柿田川湧水群で有名な三島に至る。
西となりの沼津の先は富士市で、豊富な水をつかった製紙業が栄えた。

富士市から北上すれば、焼きそばで有名な富士宮市。
さらに北上すれば、本栖湖で山梨県に戻る。

これらの町の水道は、ぜんぶ富士山の水なのだ。

ときに、「静岡ラーメン」というローカルなジャンルがあるけれど、「水」に注目すると納得できる。
麺をこねる水と、スープも水から作るものだ。

地元のひとたちの「当たり前」は、水道による。
だから、水道料金が安いことも「当たり前」になっている。
すると、いつの間にか「当たり前」は意識しないレベルでの「当たり前」になるので、その「恩恵」も意識しないで生活している。

この人たちが、「当たり前の恩恵」に気づくのは、富士山から離れた地域に移動したときに気がつくのだ。
それは、「旅行」レベルになったとき、なのである。
案外と、生活圏としてみれば、富士山の周辺にまとわりついているからだ。

ところで、富士山の水とは、「軟水」なのである。
「軟水」と「硬水」のちがいは、ミネラル成分(主にカルシウムとマグネシウム)の含有量のことで、「軟水」にはミネラル成分がほとんどない。
逆に、ヨーロッパの水の多くは「硬水」だ。

有名な銘柄の「ミネラルウォーター」を、テフロン加工などがされた内側が黒い鍋に入れて煮立てると、鍋の周辺に白い物質がこびりつく。
これが、「ミネラル」だ。

日本の水は、ほとんどが「軟水」なので、「硬水」のミネラルウォーターだけを飲み続けると、日本人はお腹をこわしたり、「石」ができる。
ところが、肉食の人たちには、「硬水」が料理を美味しくさせる秘訣になっている。

典型的なのは、「煮込み料理」で、肉に含まれる各種ミネラルが、硬水のミネラルウォーターで煮込むことで、軟水よりも多く「しみ出る」のである。
これは、イタリア料理でも同じ。
石灰質の土地から涌き出る水には、たっぷり「カルシウム」が入っている。

パスタを茹でるときにも、「硬水」は具合がいい。
日本では、たっぷりの「塩(ナトリウムと塩素というミネラル)」を鍋に入れるのは、軟水を硬水のようにさせるためでもある。

そんなわけで、富士山の水は、フランス料理には向かない。
蕎麦やうどん、ラーメンが「名物」になるのは、「軟水」のおいしさが原因なのである。
もちろん、「うなぎ」もだ。

日本食が富士山には向いているとは、痛快だ。
忍野村には豆腐屋が2軒隣り合わせているけれど、近くに行けば必ず購入する、と地元人に語ったら不思議そうな顔をした。
「そんなに特別ですかね?」

ふだんから飲んでいる水と、豆腐を作るときの水が「同じ」だから、特段美味いとは感じないそうである。
ほとんど「水」でできている豆腐は、実は「水を食べている」ようなものだから、水の味で豆腐の味もきまる。

そこで、どこかへ旅行して豆腐を食べたら違いが分かると思う、と返したら、はたと気がついたようであった。

うらやましいほどの日常を富士山は提供してくれている。
それが「ふつう」すぎて、商売人も気がつかない。
「日常」とは、そんなものなのである。

民間企業の核融合発電

「人工太陽」といわれて、「核分裂」を利用した「原子力」とは別格の「夢の技術」を、「核融合」という。

実際に太陽も多くの恒星も、水素の原子核が融合してヘリウムを作ることでの「燃焼」をしている。
最も軽くて小さい原子の水素は、地球のような小さな惑星の重力では留めることができない。

なので、水素ガスを使う水素自動車とかは、容器の壁から水素が漏れるけど、そのまま宇宙空間にまで飛んで行って、二度と地球に戻ることはなく、宇宙にさ迷うことになる。

核融合の「燃焼」とは、石炭や石油を燃やすのとはちがう。
融合するときに原子核から飛び出す、中性子のエネルギーが強烈なのである。
その余波が、太陽風という放射線となって地球にも飛んでくる。

地磁気がつくる、「バンアレン帯」によってこれらが直接地上に届かないように保護しているから、我々は地上で生活ができるのだし、日光浴もできる。

ついでにいえば、太陽風の放射線が雲にあたって、「雨」の核をつくらないと雨すら降らない。
雨がなければ、植物が枯れるので、食糧もなくなる。
まことに、太陽がなければ生命は存在できないのである。

そんなわけで、「人工太陽」の技術は、国際協力という名の下に、各国政府が拠出した「巨大研究施設」を建設して、実験から実用へのステップを踏んできている。

わが国が進める実験施設も、最新のものに600億円を超える建設費を投じているし、EUもこれに3分の1の200億円以上を拠出している。
ところが、これが実験中に壊れてしまった。
それで、大幅に予算超過しながら、数年間をかけての「修理」が行われている。

よって、この間は、なにも研究は進んでいない。

そこで、はたと気がついたことは、「旧型」の施設を取り壊してしまったことだった。
壊れたところをどうしていたのか?が設計図だけでなく、運用としてもどうしていたかがわからなくなっていたからである。

どうしてわからなくなったかといえば、「旧型」で実験をしていた研究者たちが、とっくに定年退職しているし、物故されてもいるのだ。
つまり、「実際の運転ノウハウ」が、消失したという「間抜けな話」になっている。

これの意味するところは、研究者の研究課題ということではなくて、施設の維持管理という、研究者の「補助」となる現場技術者たちの「ノウハウ」のことだといえる。
つまり、一種の「職人技」だ。

前に書いた「ジェットフォイル」の話が思い出される。
川崎重工が、4半世紀ぶりに建造したジェットフォイルの建造目的は、「ノウハウの維持」だったのである。

だから、この「新造船」に、新しい技術は導入されていない。
むしろ、4半世紀経っても「新しい」のである。
しかしながら、それゆえの独自技術が使われていて、以前に建造した経験がある従業員の定年・引退を放置しては、会社としての建造技術が失われてしまうリスクが問題になったのだった。

これは、「民間企業」ゆえの「損得勘定」が働いた事例だ。
発注がないのに建造するのは、一見どうかしている。
しかし、ひとたび発注を受けて、これを受注したくとも、「造れない」となったら、元の木阿弥になってしまう。

中小企業のカリスマといわれた、岡野工業社長の岡野雅行氏は、「設計図通りに作れたら倒産する会社はない」と言っていた。
図面に描けても、その通り指定された材料で指定された強度を維持して製品にすることの難しさを一言で表現した発言である。

デジタルで図面を描くのは簡単になったけど、それを試作品からアナログで作らないといけない。
「試行錯誤」が当たり前の世界なのだ。

岡野工業が作った「画期」はたくさんあるけど、携帯電話やスマホなどの電池が小型化したのも岡野雅行氏の発明だ。
医療注射における「痛くない針」だって、岡野雅行氏の試行錯誤が作りだした。

依頼者には図面はあるよ。
だけどさ、それをどうやって作るのか?が誰にもわからないんだよ。
1個じゃないよ、大量生産だよ。それを考えだすのさ。
俺が。

まず、うちにやって来るのは「大企業」だよ。
大企業にはできないんだよ。
だってさ、責任取らないといけないでしょ。
それが嫌で、うちに持ち込むんだよ。

この話がそのまま当てはまるのが、国がやる研究開発なのである。

YS11も、三菱ジェットも、国が関与してダメになった。
カナダのボンバルディア・エアロスペースも、ブラジルのエンブラエル も、民営化されてから世界市場を席巻している。
なぜに民営化されたかは、国営で経営破たんしたからだ。

そんなわけで、核融合発電も、アメリカの民間企業が参入して、「もしや?」の成功を目指している。
国家が投じる規模の投資額を、市場からしっかり調達もしているのである。

ところで、全部をユニット化してしまう、超小型原子炉も実用化のめどがついてきた。
2007年に起業した、アメリカ、ニュースケール・パワー社は昨年8月に米国での「設計承認」を取得して、建設計画が進行している。

これらが、「脱炭素」の欺瞞に汚れるのは、技術の問題ではなく「文系」の「偽善」によるし、政府補助金という魔の手が伸びたら、やっぱりダメになるだろう。

ならば、わが国の企業は、アメリカに本社を移転すべきなのではないか?
それが、「人類社会」の役に立つ。

「国富」が炭素に溶け出していく

高等学校がとっくに「全入」となったから、全ての学科で共通の「読本」として、アダム・スミス『国富論』を否が応でも読ませるべきではなかろうか?

わが国が、「自由経済社会」を今後もずっと堅持する、なら、自由経済社会の基本原則を若き国民の脳にたたき込むのは当然にあたるからである。
それこそが、アダム・スミスの価値である。

逆に、どうして今までも、アダム・スミスを「必修」としてこなかったのか?といえば、本音では、資本主義が嫌いで、社会主義が大好きだからだ。
それで、世界で通用している「新自由主義」を、グローバリズムにすり替えて、ぜんぜん別の概念を「新自由主義」として国内ローカル定義をした。

バリバリの財務官僚だった、今の官房長官のいう「自由経済社会」とは、西側の常識である「自由経済社会」のことではなくて、「政府が主導する自由経済社会」のことである。
つまり、「自由経済社会」ではなくて、「社会主義経済社会」の「隠語」なのだ。

だから、きっとアダム・スミスの『道徳感情論』も知らないはずだ。
「自由」と「自由放任」の違いについてわざと混同させる、社会主義者は、「新自由主義」を「自由放任」と理解するのも、自分のわざとした混同が、とうとう本当の混同になるからである。

 

しかしながら、本人たちが悪いばかりではなくて、官吏養成校たる東京大学の「学風」が、社会主義者たちの牙城になってしまったからで、この学校でまじめに勉強すると、ちゃんとした社会主義者に育成されるのである。
だから、北京大学と提携していることをまったく恥じないばかりか、自慢できるのだ。

こうした現象は、なんとアメリカの有名大学でも常識化されたので、人類の未来が暗くなってしまった。

ソ連に憧れて、モスクワ大学に留学した若き石井紘基氏は、卒業論文で「社会主義の優位性」を書かないと落第することを知って、「絶望」したのだった。
それで、卒業のために「嘘」を書くしかなかったから、自分の学業は曲がったと信じた。

しかしながら、帰国してみれば「モスクワ大学卒」のエリートとして一目置かれたことに、さらなる絶望を抱いたのだと告白している。
そして彼は、日本がソ連のように見えた唯一の日本人になっていた。

この背骨が捻れた日本を少しでも治療したい、という政治的整体師を志望して、国会議員になったけれども、自宅駐車場で暴漢に刺されて亡くなってしまった。
彼の無念は、一人娘に引き継がれたけど、その後、が見えてこない。

「ダイオキシン」からはじまって、コロナに至るも、なお、「脱炭素」というエセ科学をもって、社会制度をねじ曲げようとする勢力が存在し、それが、国際的に「主流派」を形成するという悪夢の時代がやってきている。

ポスト資本主義の時代は、「新しい中世」がやって来るという「予想」は、もっと個人が豊かになるという論点があったけど、「脱炭素」という知の分裂主義で、ヨーロッパ中世におけるローマ教会支配と同等の、強制が現実になってきた。

すなわち、「奴隷化」である。

わが国政府も、『ムーンショット目標』なる、SF小説的な「アバダー」のいる社会を目標とすると明言して、本人は家から出る生活を想定していない。
つまり、「檻の中」での生活が、「安全」と「快適」なのだという。

これを、「まじめ」に目指しているのだ。

これ以外の計画は全部が「擬装」なのである。
「脱炭素」とは、その「擬装」の最たるもので、ポスト・コロナとは、コロナが収束するのではなく、人口を削減した後の社会を指す。
その意味で、「ワクチン」という名の「注射」は、即効・遅効を織り交ぜた「毒薬」なのである。

目標削減率は70%。
生き残って奴隷にする率は30%。

こんな目標からしたら、国富を「脱炭素」で無駄にすることは、どうでもいい。
いやむしろ、そうやって別のことをやっているのが「擬装」だから、派手に「脱炭素」をやらないといけない。

ばれてしまうからである。

なんだか、「人類の最終戦争」という、わかりやすいアクション映画のようなことになってきた。
現実のシナリオも、映画のシナリオ・ライターたちが協力させられて書いている可能性がある。

さてそれで、政府が明記している目標は、2050年までに、とある。

わたしなら、90歳にあたるから、たぶん生きていない。
あなたなら、何歳だろうか?

沼津市役所の設計思想

旅人は、旅先の役場を訪ねる目的をもっているわけではないけれど、街の中心部にあるのが「役所」なので、観光の便利さから駐車場やトイレのために寄ることはある。

なにも新幹線だけが原因ではないだろうけど、「駅建設」に大反対して隣町の三島に新幹線は停車することになったのだった。
前は「こだま」しか停まらなかったけど、「のぞみ」ができて「ひかり」が急行扱いになった三島には、たまに「ひかり」も停まるようになった。

それに、三島には新幹線の車両基地もできた(開業当初は静岡)から、「終電」は三島止まりになるのである。
名古屋と東京の中間地なので、企業が三島に注目したのは工場だけでなく、「研修所」の設置であった。

そんなわけで、北口にはご本家JR東海の研修所があり、その先にはホテルと見間違えるほどの、東レの研修所がある。
ここで、五日間×2回の「公認MTPインストラクター研修」を受講した。
当然だが、東レは会社ぐるみでMTPインストラクターを自社養成するにも、この施設を使っている。

三島と沼津は近接している街ではあるけど、それゆえに歴史的にも「仲が悪い」ので、平成の大合併で一緒になることはなかった。
ついでに、警察も、三島署と沼津署は別々である。

数年前に、沼津商工会は、かつての「新幹線駅反対運動」を反省して「詫びた」ことがニュースになった。
詫びたのは、反対運動に熱心だった経営者たちの「孫」である。
隣の三島の発展に対して、沼津の衰退が止まらないことが背景にある。

たとえば、「駅前デパート」の経営者は、新幹線ができたらみんな東京のデパートへ買い物に行ってしまう、と本気で心配したようだ。
たしかにご心配ごもっとも、と言いたいけれど、停車する電車の本数や料金を「コスト」としたら、そう易々と沼津市民が東京にお買い物に行けたはずもない。

だから、「杞憂」だったのではあるが、市内の産業が三島にシフトして、購買力を失う問題になってしまった。
それに、自動車の普及があるし、高速道路もある。
残念ながら、この反対運動は、市民のため、にはならなかった、ということだ。

暴れ川として有名な、狩野川の河口に位置する沼津市は、大堤防に守られている「要塞都市」でもある。
この地形を利用したのが、沼津城であったけど、反幕府の明治政府によって無価値とされて、「競売」に出されるという事態となった。

それから、東海道線の駅と駅前大通りになって、城地はかつての見る影もない、という「観光」ができる。
『荒城の月』よりも、はるかに悲惨な近代の「遺産」なのだ。
これは、「平和」がなしたものだという意味で重要だ。

そんなわけで、城を背に狩野川を渡れば、現代の沼津城としての市役所がある。
こぢんまりとした建物は、好感が涌き出るけれど、なんだか様子がおかしいのだ。

以下は、全部「見た目」であって、しかも、「観光客目線」だから、役所を利用する住民目線ではない。
なお、新築された横浜市役所を自慢する気は毛頭ない。

さてそれで、どこが「変」かといえば、正面の車寄せを含めた広場が、広さの割に閑散としているのである。
看板をみたら、公用車などの関係者以外は入るべからず的な内容であった。

はは~ん。

「秘書課」が頑張って、市民を追い出したのか?それとも、現職以前からの市長か議長かはわからないけど誰かが命じたのか?それとも、議員にへつらう「議会事務局」なのか?
要は、市民を追い出したことは間違いない。

市のHPにある市の歴史で、「新庁舎が完成」をみると、
「人口30万人を想定して昭和41年(1966年)に建設された。この建物は、狭い敷地を有効に利用するため、高層建築(8階)とし、市民広場の性格をもったピロティ(基礎杭)を議場棟の下に設け、前庭的なゆとりをもたせている。

またその内部は、市民の生活に一番関係の深い戸籍・住民登録・証明・小中学校の転出入・保険年金などを取り扱う市民課や国民年金課などの窓口部門を1・2階に集約するなど、市民へのサービスを重視したものとなっている。」

とある。
だから、当初設計の「市民広場」から、市民を追い出したことがはっきりわかるのだ。
「市民へのサービス重視」という文言が、「軽い」のである。

なお、「人口30万人を想定」とあるけど、沼津市の人口は平成7年に21.7万人をピークとして減少し続け既に20万人を割り込んでいる。
イケイケの高度成長期の予想だったのであるから、新幹線駅反対運動との理論的「連携」があったと推測できる。

当時も今も、御用学者が建設委員会にいて、「人口推計」を都合よく書いたことがよくわかる。

ところで、自動車でここを訪問したら、道路を夾んで向こう側の自走式立体駐車場へ行かないといけないのだが、この駐車場の入口と出口は、同じ路面1カ所だけで、入庫・出庫方向も1方向しかない。
これは、「どんな設計」なのか?

しかも、沼津市を歩いていて気づいたのは、歩道橋のある交差点に横断歩道が「ない」のだ。
よって、この立体駐車場は、2階と歩道橋が直結しているので、市民はここを通るしか市役所に行けないが、エレベーター等の設置はない。

どこまでも、市民は横に置く、「新・沼津城」なのであった。

妄想の「自民党改革」

「できっこない」ので、「妄想」である。

総裁候補が「改革」をうたうのを、企業に例えたらどうなのか?
企業なら、従業員がいきなり「社長」になることは少ない。
だいたい、既に取締役になっていて、そこから選ばれる、という段取りが日本企業の「ふつう」だ。

昔の自民党は、一応「党三役(幹事長、総務会長、政調会長)」という役職を経験したか、「大蔵(財務)大臣」を経験しないと、その「実力」が認められなかったものだから、民間企業の役員と似ていた。

しかしながら、民間企業で「役職」があって、自分がトップになるかならないかのときに、「改革の構想」を言うようでは、ぜんぜん「遅い」のである。
それなら、今の立場(既に重職)で改革を考えも、やりもしなかったのか?と言われてしまう。

だから、民間企業でも、トップ交代時に、引退して会長になる人物を横に、「これから改革をします」という新社長の体制で、その改革をまっとうできたひとがいないのも、「なってから考える」という他人ごとでやってきたひとに、たまたま社内のパワーバランスから選ばれたしまった不幸なのである。

民間企業ならほとんどが、その影響力の範囲は一国の政府ほどではない。
なので、その不幸は、その企業のステークホルダーには及ぶけど、それ以外では何もない。
けれども、これが、「政権党」ともなれば話は別である。

すると、「筋論」からしたら、現職の政調会長だったひとが最も後継者として相応しいはずだけど、なにせ候補者の全員が「党改革」を言い出したから、話の筋が通らなくなった。
役職があるときに言わないで、候補となったら言うのでは遅い。

それに、役職経験がないひとが候補になっているけど、このひとたちも「ふだんから」党改革の必要性を唱えていたわけでもない。
さらに、総務会長とかを経験はしたけれど、結局は実力がなくて交替させられたひとは、その後もこの経験を活かして、党改革に何等かのイニシアチブをとってきたわけでもなく、「実力者の腰巾着」になってしまった。

さて、わたしの妄想である。
最大の改革ポイントは、「近代政党になる」ことだ。
何度も書いたが、近代政党の条件とは、
・綱領
・議員
・組織 の三条件が全部あることだ。

自民党改革の最大の問題点でかつ、実現不可能なのは「組織」とそれに連なる「議員」が、ない、ことと、いない、ことだ。
組織が「ない」とは、第一に「全国組織」のことで、いまの「議員の後援会組織」のことではない。

第二は、「党独自のシンクタンク」という組織を持つことだけど、伝統的にこれを「官僚組織」が引き受けている。
なので、政治が「官僚のいうがまま」になるのだ。

もちろん、派生的に、地方組織でも「予備選挙」がふつうに実施されないといけない。
選挙区ごとに、党内予備選挙での勝者が「本選挙」に出馬する方式だ。

よって、党員には党費納入の義務だけでなく、予備選挙での投票義務と、他の選挙区における「お手伝い」の義務も生じる。
本選挙における投票の義務は言うまでもない。

こうなると、都道府県・市町村議会議員選挙から、市町村・都道府県首長選挙、国会議員選挙に至まで、全部の候補が予備選挙の勝者で行うことになる。

面倒なようだけど、欧米式の「近代」選挙とは、こうした方法がくまなく実施されている現実をみれば、面倒ではない。
逆に、これを、「面倒だから実行不可能」というなら、わが国は絶対に「近代民主主義・政党政治」が不可能だというに等しい。

つまり、「妄想」になるのである。

不可思議なのは、「啓蒙主義」がだいすきな、わが国の大手マスコミが、この「妄想」の実現を推進しないことだ。
その何故?を考えるという「妄想」もある。

おそらく、野党がついてこられないのだ。

その野党の最大のスポンサーは、いつでも「労働組合」であったし、おそらくこれからも変わらないだろう。
けれども、労働組合という組織では、ちゃんと「選挙」をやっているはずである。

そうやって、選ばれたはずのひとたちが、どういうわけか「近代政党」としての選挙ができない政党を支持している。
むしろ、近代的な政党よりも、ただの「社会主義者」を選べば、労働組合員という「管理職以外のひとたち」の生活が向上すると、伝統的な骨髄反射をしていないか?

すると、わが国の「保守本流」とは、このような発想をする「左翼の皆さん」のことを指すことになる。
それがまた、吉田茂という「グローバリスト」の流れをくむ集団を、自民党内で「保守本流」と言ったから、意味が合致する。

本当は、岸信介が満州国で成功させた社会主義の筋からしたら、よほど吉田と張り合ったかがわかるのだが、巣鴨での「取り引き」で、サラリとアメリカ民主党(CIA)の手先になった。
そんなわけで、「清和会」も、見た目でわかるグズグズになったのを、一刀両断で両派を破壊しつくしたのが、田中角栄の天才だった。

死せる孔明、生ける仲達を走らすのごとく、角栄の「困った思想」が、いまだに、いや、永遠に自民党を近代政党にさせることはなく、どんな「改革」も無意味にするのである。

しからば、最後の「妄想」とは、自民党が、「超新星爆発」のように解党するしかないのである。
これがタイミングは、外国からの侵略が決定的となる「前」でなければ意味がなく、アメリカが安定の共和党政権でなければならなかった。

すると、手遅れ、かもしれないのである。

みずほ銀行の国営化

渋沢栄一が設立した、「第一国立銀行」は、明治の「国立銀行条例」によっていた。
だからきっと、この条例をつくるときに本物の銀行も作ってくれといわれて作った銀行だ。

それが、「第一銀行」になって、「勧業銀行」と合併して「第一勧業銀行」になった。
バブルの後始末から、「富士銀行」と合併したけど、これに、まさかの「興銀(日本興業銀行)」という異質がくっついてきた。

そんなわけで、三行の社内システムがバラバラだったけど、リテール・バンク事業をやったことがない興銀が大いばりして、システムの統合がうまくいかないので、2回も「業務改善命令」をくらってしまった。

ならば、仕方がないから全部を最初から作り直す、という「決断」をした。
ちなみに、最初のシステム障害に遭遇したときのトップは、現NHK会長の前田晃伸氏で、富士銀行出身のトップである。

全部を最初から作り直すのに大変な時間と労力(つまりはおカネ)をかけたもので、総額は4000億円ともいわれている。
このプロジェクトは、結局19年を要し、システム開発に関わった企業は、1000社以上だ。

できたシステム名は「MINORI]という。
みずほ⇒瑞穂⇒新米⇒実り、ということだろうけど、この秋の「実り」は、やっぱり「システム障害」となって、3度目の「業務改善命令」をくらうはめになった。

そこで、「異例」の金融庁と「共同」で、システム管理をすることになったという。
銀行のシステムを金融庁という役所にいる役人が、管理するというのは「異例」を通り越して、「違法」ではないか?

事実上の「国営化」を意味するからである。

なんだか、福島原発の事故を、作業服は着ていたけれど、本当は(保安院といっても)「事務官」が仕切ったことの再現ではないのか?と思えるのだ。

中学校の数学で習った「相似形」は、「幾何」の話ではなくて、論理的な思考をすれば、役人の「やり方」に見られる特徴なのである。
一見して「違う」ようにみえるけど、本質的は「同じ」という意味である。

そんなわけで、みずほ銀行は、金融庁に「システム」を仕切られるという方法で乗っ取られたことは間違いない。
しかして、今後、金融庁様が乗り出したのに、再度システム障害が発生したら、お役人様方はどういう言い訳をするのだろうか?

いや、こんな「リスク」を背負ったからには、よほどの「危機感」がお役人様にあるに相違ない。
とにかく、上から目線で命じることはしても、絶対に責任をとることになる方法は採らないのが常だからである。

すると、一体全体、何がその「危機感」の根源にある危機なのか?

実は、「2025年の崖」という問題がある。
これは、世界の金融機関が「デジタル・トランスフォーメーション」にシフトしているなかで、旧態依然としたシステム環境に依存している、わが国の金融機関に総じていえる隠れた大問題なのである。

つまり、稼働後初めて障害を発生したものの、「MINORI]は、まだ「まとも」ともいえる。
障害なく稼働している、「他行」の(旧)システムの方が、よほど「やばい」のだ。

これが、「地銀統合」の大きな理由にもなっている。
「MINORI」の4000億円とまではいわなくとも、「それなり」の大金を投じなければならない「宿命」に、体力的に一行独自で対応できる地銀はもう存在しない。

今年5月の「銀行法改正」で、ゴールドマンサックスが日本国内で「銀行免許」を取得した意味は、銀行システムに踏み込んだ銀行営業をするのか?という疑問がある。
彼らは、「出資規制の撤廃」における、投資をしたいだけではないのか?

本来ならば、中央銀行たる日銀がもっと前に出てこないといけないのに、なんだか穴倉に隠ったまま出てくる気配もみせない。
国内各銀行(メガバンク、地銀、信用金庫、信用組合)にとって、実は最大のネックが、日銀の決済システムなのである。

たとえば、わたしたちは、他行へ振り込みをするときに、この日銀システムを「無意識」に使っているのだ。
A行からB行に振り込む(資金移動させる)とは、ATMを使っていても、A行のシステムから日銀システムに接続して、これを介して、B行のシステムに振り込んでいる。

自分のおカネがB行に移動するのではなくて、A行の日銀勘定(当座預金)から振込額分が引かれて、B行の日銀勘定がその分増えるのである。
それでもって、B行の内部システムが、A行からの「口座指定情報」を受信して、振込相手先の預金が増えるように書き込まれるのである。

すると、今回の金融庁の「共同管理」とは、(最新の)民間銀行から日銀システムを垣間見る「チャンス」ということになる。
それでなにがしたいのか?

勝手に想像すれば、「デジタル円」の導入におけるシミュレーションではないのか?と考えるのである。

このぜんぜんちがう「目的」に、システム障害を利用したのは、「デジタル通貨」の普及における、「早い者勝ち」的な国際競争があるからで、「極秘裏」にやっておきたい、と思うのだ。
しかも、政府は濡れ手に粟となる「通貨発行権限」を将来も独占したい。

あるいは、もっと妄想を膨らませれば、もしや「MINORI]には、デジタル通貨発行機能も用意されていたのかもしれない。
ハイエクが言う「通貨発行自由化論」をみれば、「誰が」発行しようが、「便利」で「匿名性」があるものが勝利する。

「ビットコイン」が先駆的なのにいまいち普及しないのは、「発行主体がない」ことと、「匿名性」はあるけれど、「便利さ」に欠けたからである。
すると、みずほ銀行のもしやの野望は、金融庁という国家機関に、体よく踏みにじまれたことになる。

株主は黙って見ているのか?
というのも、妄想か?

そんななか、24日、中国人民銀行(中央銀行)は、仮想通貨の全面禁止を発表した。
恒大集団のデフォルトとの関係もあるけれど、果たしてこれは、デジタル・人民元はじまりの「スイッチ・オン」ではないのか?

医者じゃない政治家が診断する

病気の「診断」は、医師の特権事項であるから、医師以外の人間が「公に決めつける」ことは、「医師法」に違反する。

西洋医学という「最先端」が、わが国に輸入されたのは、「長崎の出島」時代の「蘭学」をはじまりとするけれど、これが一般に広がったのは、「開国」あっての出来事である。
つまり、「文明開化」のなかに、「西洋医学」のいう文明も入っている。

それだから、「西洋医学」の特殊性は、「非文明」とされた「漢方」を排除して、その特権を文字どおり「特別」にするために「国家資格の医師免許制度」ができたのである。

わが国の歴史で、はじめて「医者」が「医師」になったのだ。

ようは、それまでの「医者」には、免許制度がなかった。
だから、「ニセ医者」もいない。
ただし、医者を名乗って病気を治せないなら、原始時代だっていつでも効力を発揮する、「経済原則」が機能して、「淘汰」されるだけなのだ。

逆に、どんなに難しい病気でも、たちまちにして「治す」となれば、「奇跡」のひと、となって、宗教家にまで昇華する。
その典型が、イエス・キリストなのだ。
『聖書』にある、さまざまな「エピソード」がそれを「証明」している。

よって、医師免許制度とは、一度「資格」を得れば、よほどの事情がないかぎり「免許剥奪」されることはないので、経済原則とは別の制度になっている。
この意味で、自動車運転免許とか、教員免許と同じだ。

結局のところ、すべての「国家資格」が、経済原則とは別にある。
ただし、その資格を取得するまでは、学校選びを含めて経済原則が機能しているのである。
免許取得に有利な学校選択には、競争の原理が機能するからである。

たとえば、ワクチン大臣が若いひとから質問を受けて、これに答えている動画が繰り返し出てくる。
この質問とは、「どうしてワクチンは二回打たないといけないのか?」である。

これに、「二回接種することで免疫力が上がるから」とさも当然のように答えている。
このやり取りは、医師免許制度とは直接関係ないけど、「ワクチンの素人」のはずの行政府の担当大臣が答えることの意味は、「宣伝:プロパガンダ」に過ぎないと言うことだ。

だから、このようなやり取りを見聞きして、真に受けるのは「バカ」であると分かれば、なんの事はない。
今の時期なら質問すべきことは、「どうしてワクチンは効かないとわかっているのに打たなければいけないのですか?」なのだ。

そして、「変異株が~」と答えたら、「病原体としての新型コロナウィルスを特定したひとがいない(論文もない)のに、変異株ってなんのことですか?」と畳みかければよい。
これに回答できるはずがないのだ。

よくある、コロナウィルスの電子顕微鏡写真とは、今回の病原体としての「実物」でもなんでもなく、その辺にふつうにいるコロナウィルスの顕微鏡写真だし、ひどくなると「精密な絵」だったりもする。

ところで、データ解析の基本は、材料となる「データの信憑性」だ。
どんなに素晴らしい、「解析手法」を知っていても、元データに「ゴミ」が混入していたら、そのデータ全体が「ゴミ」になる。
そして、ゴミデータをどんなにいじくっても出てくるものは「ゴミ」なのである。

ちなみに、ここでいう「ゴミ」という言い方も、「統計解析の用語」であるから、知らない統計学者はいない。
さらにいえば、こうした「ゴミ」を、さも「ゴミでない」ようにして発表したら、その統計学者が「ゴミ」と評価されても文句はいえない。

そこで、横浜市で10代初の死者が出た、というニュースには、「そもそも呼吸器を患っていた」という一言が付言されていた。
だから、「もしやガセでは?」と疑うのが、最初の信憑性に関する「警戒感」だ。

昨年12月2日の参議院での厚労省統括審議官の答弁から、PCR検査陽性だからといって「感染者」とはいえない、の意味が「法的」にある。
アメリカのCDCも、PCR検査ではインフルエンザを区別できないと明言した。

しかも、その厚労省は、「事務連絡」として、厳密性は問わないから遺体へのPCR検査でも陽性者を「コロナが原因の死者として報告するよう」にしている。
このことの「欺瞞性」を、「データのゴミ化」として批判もせずに、「そのまま」分析につかう「ゴミ学者」が蔓延しているのである。

そのなかで、政治家に転身したのが「新・横浜市長」になった御仁だ。

少女の死は残念だけれど、市民としとは市長が「ゴミ」だと知れた残念をあぶり出した価値がある。
その意味で、亡くなった少女の死を、市民全員が悼むべきことになったのである。

このひとに投票した市民は、そうしなかった市民に詫びるべき事態だけれど、きっと「欺された」と弁解するにちがいない。
何度でも欺されてきて、いつまで欺されつづけるのか?
恥を知れ、といいたい。

そんな人物を「推薦」した、政党は、少なくとも横浜市の党組織を解散すべきだ。
それが、命を張った少女への、せめてもの罪滅ぼしであって、欺されて投票した市民への、責任なのである。

なお、こんな責任もとらないことを確認したうえで、投票をしなかった市民は、次期国政選挙で、これらの政党とその候補に投票しないことを「誓う」のであった。

「減税」はお好き?

少年には理解が難しい、大人の「女心」、しかもフランス人という得体の知れないひとの話だから、どうもしっくりこない物語だった。
これを、出版社が自社文庫本の『100冊』に挙げていたので、順番に読破しようと試みて、全体が崩壊したことにつながった。

読者層として、10代前半には、やっぱり難しいけど、しっくりこない理由の大きな前提が、まず「離婚している」ということと、互いに干渉しないという約束の意味が、ほぼ半世紀前の少年には無理だった。
今ならどうか?と問えば、「追いついた」一種の不幸がある。

フランソワーズ・サガンの小説『ブラームスはお好き』のことである。
発表は1959年、日本で文庫になったのは、わたしが生まれた年の1961年である。
なお、同じ61年に映画化されたタイトルは、『さよならをもう一度』。

 

イングリッド・バーグマン、イヴ・モンタン、アンソニー・パーキンスという顔ぶれもいいけれど、ブラームスの交響曲第3番第3楽章の「甘美な曲想」が、なんとも言えず印象に残る。
ブラームスの四つの交響曲は、奇数が「明」で偶数が「暗」であるけど。

そんなわけで、わたしは、ブラームスはお好きである。
いわゆる、「ドイツの3B(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)」は、確かに「安定」の凄みがある。

とはいえ、西洋音楽とはドイツ音楽のことではない、というもっともな主張があるのは、「バランス」という点でもありがたい。

ついでにもう一つ、フランスとドイツの「犬猿の仲」を考えると、妙にストイックなフランス人が、そのストイックさをとんがらせたのは、映画『無伴奏シャコンヌ』(1994年、フランス、ベルギー、ドイツ合作)であった。

なんだか、山本周五郎の『虚空遍歴』のストイックさと似ているから、フランス人はあんがいと日本人に発想が似ているやもしれぬ。
潜水艦が売れないからと大使を召還するのも、気分は戦前の日本人と同じだ。

「英米」との異質感がここにある。

 

ソ連が崩壊するまでは、「近代経済学(近経)」と「マルクス経済学(マル経)」が、バランスよく「対峙」していた。
わが国の「大学受験」で、経済学部入試に数学がないのも、経済学という業界でマルクス経済学者たちが君臨していた「おかげ」であった。

そんななかで、颯爽と登場した数学の天才、ポール・サミュエルソンは、経済学に「数理モデル」を持ち込んで、数々の理論を打ち立てた。
これで、経済学は一種の「応用数学」ということに陥ったのである。
それで彼の業績は、「新古典派総合」に集約されて、社会主義と資本主義のいいところどり、に行きついてしまった。

「ノーベル経済学賞」という賞はないけれど、サミュエルソンを顕彰したいというひとたちがいて、「スウェーデン国立銀行経済学賞」をつくってこれを「ノーベル経済学賞」と言っている。

そんなわけで、サミュエルソン以降の経済学は、「アメリカ経済分析学」ということのみならず、「数理モデル創作学」になって、アメリカ以外の国の一般人の役に立たないものに変容した。
これを、ストイックにフランスの経済学者トマ・ピケティは皮肉っている。

しかしながら、そのフランスは、若き社会主義者マクロン氏を大統領に選んで、フランス革命の恐怖を再現しているし、庶民はますますフランス革命の間違いに気づき始めた。

翻ってわが国では、「お上」とか「お国」という、江戸時代から敗戦までの感覚がみごとに残存している。
「産業報国」の概念が経済界の正義だから、「滅私奉公」こそ言わないけれど、これを「よし」として企業経営をやっている。

一般人は、「お国」こそ忘却したが、却って「お上」の言うことに従順なのは、経営者の安易を見抜いてその救済を期待するからである。
しかし、「お国」という実態ができることは、「予算配分」でしかない。
つまるところ、おカネの使い方、だけなのだ。

本来ならば、政治家が政治として差配するものではあるけど、日本では優秀な頭脳の役人が緻密な配分を計画するので、政治家の出る幕がなくなった。
ならば、そんな使い方でいいのか?となると、誰にも、どうにも止まらない、山本リンダの歌のようになっている。

そうなると、庶民がこれを制御する方法はただ一点。
「減税要求」に絞られる。
役人が使える予算を、最低でも「税収を減らす」ことで、削減する試みだ。

それでもって、こないだの横浜市長選挙では、8人の候補のうち1人だけが「減税」を公約していた。
しかし、横浜市民は、「減税はお好き」ではなくて、むしろ「増税」を予感させる野党候補を選んだ。

実際に、「減税」を主張した候補の得票は、7位であった。

横浜市で減税とは?というひともいるかもしれないが、当然に地方税のことである。
かつて、社会党飛鳥田市長時代に、「増税」をして、港があったことからの貿易会社などが、本社を東京に一斉移転させて、横浜市の「空洞化」が実行された。

こんなことを知っている横浜市民が小数派になって、東京のベッドタウンとしての、稼ぎは東京人が横浜にたまたま居を構えている状態になった。

では、国税も、「減税はお好き?」と聞いたら、もしや年金のための増税がいい、と言い出しかねない。
その分を、自分で積み立てることを億劫がるのだ。

役人天国になるわけである。