「国富」が炭素に溶け出していく

高等学校がとっくに「全入」となったから、全ての学科で共通の「読本」として、アダム・スミス『国富論』を否が応でも読ませるべきではなかろうか?

わが国が、「自由経済社会」を今後もずっと堅持する、なら、自由経済社会の基本原則を若き国民の脳にたたき込むのは当然にあたるからである。
それこそが、アダム・スミスの価値である。

逆に、どうして今までも、アダム・スミスを「必修」としてこなかったのか?といえば、本音では、資本主義が嫌いで、社会主義が大好きだからだ。
それで、世界で通用している「新自由主義」を、グローバリズムにすり替えて、ぜんぜん別の概念を「新自由主義」として国内ローカル定義をした。

バリバリの財務官僚だった、今の官房長官のいう「自由経済社会」とは、西側の常識である「自由経済社会」のことではなくて、「政府が主導する自由経済社会」のことである。
つまり、「自由経済社会」ではなくて、「社会主義経済社会」の「隠語」なのだ。

だから、きっとアダム・スミスの『道徳感情論』も知らないはずだ。
「自由」と「自由放任」の違いについてわざと混同させる、社会主義者は、「新自由主義」を「自由放任」と理解するのも、自分のわざとした混同が、とうとう本当の混同になるからである。

 

しかしながら、本人たちが悪いばかりではなくて、官吏養成校たる東京大学の「学風」が、社会主義者たちの牙城になってしまったからで、この学校でまじめに勉強すると、ちゃんとした社会主義者に育成されるのである。
だから、北京大学と提携していることをまったく恥じないばかりか、自慢できるのだ。

こうした現象は、なんとアメリカの有名大学でも常識化されたので、人類の未来が暗くなってしまった。

ソ連に憧れて、モスクワ大学に留学した若き石井紘基氏は、卒業論文で「社会主義の優位性」を書かないと落第することを知って、「絶望」したのだった。
それで、卒業のために「嘘」を書くしかなかったから、自分の学業は曲がったと信じた。

しかしながら、帰国してみれば「モスクワ大学卒」のエリートとして一目置かれたことに、さらなる絶望を抱いたのだと告白している。
そして彼は、日本がソ連のように見えた唯一の日本人になっていた。

この背骨が捻れた日本を少しでも治療したい、という政治的整体師を志望して、国会議員になったけれども、自宅駐車場で暴漢に刺されて亡くなってしまった。
彼の無念は、一人娘に引き継がれたけど、その後、が見えてこない。

「ダイオキシン」からはじまって、コロナに至るも、なお、「脱炭素」というエセ科学をもって、社会制度をねじ曲げようとする勢力が存在し、それが、国際的に「主流派」を形成するという悪夢の時代がやってきている。

ポスト資本主義の時代は、「新しい中世」がやって来るという「予想」は、もっと個人が豊かになるという論点があったけど、「脱炭素」という知の分裂主義で、ヨーロッパ中世におけるローマ教会支配と同等の、強制が現実になってきた。

すなわち、「奴隷化」である。

わが国政府も、『ムーンショット目標』なる、SF小説的な「アバダー」のいる社会を目標とすると明言して、本人は家から出る生活を想定していない。
つまり、「檻の中」での生活が、「安全」と「快適」なのだという。

これを、「まじめ」に目指しているのだ。

これ以外の計画は全部が「擬装」なのである。
「脱炭素」とは、その「擬装」の最たるもので、ポスト・コロナとは、コロナが収束するのではなく、人口を削減した後の社会を指す。
その意味で、「ワクチン」という名の「注射」は、即効・遅効を織り交ぜた「毒薬」なのである。

目標削減率は70%。
生き残って奴隷にする率は30%。

こんな目標からしたら、国富を「脱炭素」で無駄にすることは、どうでもいい。
いやむしろ、そうやって別のことをやっているのが「擬装」だから、派手に「脱炭素」をやらないといけない。

ばれてしまうからである。

なんだか、「人類の最終戦争」という、わかりやすいアクション映画のようなことになってきた。
現実のシナリオも、映画のシナリオ・ライターたちが協力させられて書いている可能性がある。

さてそれで、政府が明記している目標は、2050年までに、とある。

わたしなら、90歳にあたるから、たぶん生きていない。
あなたなら、何歳だろうか?

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