医療産業とは「商売」である

こんな商売があるのか?とロマンをかきたてたのが、池波正太郎の『剣客商売』だった。

 

この「作りばなし」は、池波正太郎が惚れこんだ、歌舞伎役者の、中村又五郎がタイムスリップして江戸の町に現れて、「剣客」として、数々の事件を解決するという、まさに作家のロマンに読者が引きずり込まれる、という、これぞ「売文(商売)」の商品そのものであるのだ。

おなじ「売文」でも、「新聞」やら「記者」やらと名がつくと、略して「聞屋」と呼ぶ職業差別があった。
知ったかぶりとか、聴いてきたようなウソを書きたてて、「講談師」よりもインテリを装うので始末が悪いと嫌われたのである。

「お前、大学なんぞを出ても、聞屋にだけはなっておくれでないよ」とかと息子にいう、まともな母が激減して、いまどきは、新聞記者に就職が決まると、大喜びする母親ばかりになったのである。

「聞屋」の実態があからさまに動画になって、デジタル・タトゥーとして話題になったのが、安芸高田市の若き市長と、地元紙中国新聞編集次長と記者との、マンガでもあり得ないほどのトンチンカンなやり取りだった。
安芸高田市公式ユーチューブチャンネルでの再生回数は「前編」だけで、194万回(18日現在)になっている。

1日現在、2万7千人弱の市が、全国的に有名になった「作品」になっているのだった。
市はいかほどの収入になっているのだろうか?

その聞屋のなかでも、日本を代表する、「経済紙」は、むかしから「財界広報紙」と揶揄されてきた。

「経済紙」に加えて、いわゆる「一般紙」と、「スポーツ紙」という3つのジャンルがあるわが国の「聞屋」の世界で、「経済紙」だけが、ライバルの存在しない一社独り勝ち状態をキープしている。

ここでも、GHQの支配がみてとれるのである。

日本経済新聞社のHPには、「理念・ブランド」というタグがあって、さらに、「Our History」を選択すると、余計な宣伝文句がダラダラと書いてあるので、読まずに下までスクロールすると、また「History」が出てきて、「日本経済新聞の誕生」がおもむろに混じっている。

なお、最下段に「時系列で日経の歴史を見る」というリンクボタンも出てくる。

なんだかわざと隠しているのではないか?と勘ぐりたくなるが、その「日本経済新聞の誕生」をクリックすれば、冒頭、「昭和21年3月1日、戦時中の『日本産業経済』の題号が改め」、と出てくるのである。

この記載だけで、あとは読む価値がないほどに、GHQ支配の状況がマイルド化されて、あたかも自社の自由判断だという「作りばなし」になっているのである。

当然だが、GHQ民政局が支配した日本人の生活だったから、ライバル紙を作らせないと決めたのも、これでわかるのである。
GHQ様のお陰が、いまでも続いているけど、これを書かないのが「聞屋」だと、むかしの母はしっていた。

ちなみに、地方は、「地銀」とともに、「地方紙」がかならず、道府県に一社(都は特別)の独占となっているのは、国家総動員体制のなかで、GHQにも都合がいいから残ったのである。
それで、アメリカ軍政になった、沖縄には、二紙体制(琉球新報:明治26年創刊、沖縄タイムズ:昭和23年創刊)として、本土にない「民主主義」を沖縄にもたらしたことになっている。

なお、地銀としての都の金庫は、「富士銀行(公務部)」一行だったので、いまは「みずほ銀行」となっている。

さてそれで、あたかも未来ある「医療産業」と書いたのが、この「経済紙」だった。
これに追随したのが、「一般紙」で、一般紙しか契約していない家庭では、あたかも「常識」のように受けとめることにさせられるのが、これまたGHQが構築したプロパガンダの実態なのである。

なによりも、国民が間違えてはいけないのは、病院も診療所も、あるいは介護施設も、ぜんぶが、「商売」でやっている事実である。

変な刷りこみとなったのは、山本周五郎の『赤ひげ診療譚』(1958年3月~12月、「オール讀物」連載)だった。
これに、オバケ番組『水戸黄門』の枠にあった、『大岡越前』で、小石川療養所の医師を好演した、竹脇無我の爽やかさのおかげで、医療が商売ではなくてボランティアになったのである。

それで、一般紙の筆頭、朝日新聞が、「医は仁術」という、恐ろしくも間違った刷りこみを日本人にしたのである。
時は、老人医療費が無料(「税金化」されていただけだが)だった、よき時代のことである。

  

これで、時代劇と現実を混同するように差し向けたのである。

それからの例でいえば、『おしん』の義母、お清役を見事に演じた、高森和子に脅迫状が届くとか、佐賀県が、佐賀県民の性格はこんなひととはちがう、と公式コメントしたのも、ドラマと現実が区別できない、驚くほど情報操作が容易な日本国民の国民性に問題があるといえる。

そんなわけで、医者にいくと病気にさせられる。
医者は、保険点数表の中にある病気なら、なんでもいい権限を、医師国家免許で「皆伝」されているのである。

この点だけ、「赤ひげ」は、お節介な医師であった。
ちゃんと、仮病を暴いて、仮病をいった患者の心のなかまで診療したのである。
いまなら、仮病を見抜いても本人がいうからと、薬を出して売り上げとするのがふつうだし、眠れないからと、精神科とかなら本物の病気になるような投薬処方をされるかもしれない。

そして、そんな医者が、繁盛店の人気になるのである。

「敬老の日」ではあるけど、ちゃんと「敬ってもらえる」正々堂々とした人生だったかを、自己診断したいものである。

数学を文系に再教育するには

「数学」と聞いて、怯むか?すぐさまその場から逃げ出すか?

文系の悲しさは、「苦手」の刷り込みが激しいために、とにかく拒絶反応を示すしか対応方法を見つけられないことにある。

中学校の数学教師に、どうして数学を習わないといけないのか?と聞けば、いまどきなら、正直に、「受験に役立つ」と答えるかもしれない。
気の利いた教師なら、「論理が身につく」とでもいうのだろうか?

すると、気の利いた生徒なら、国語における読解力と数学の論理は、どう違うのか?と質問するかもしれない。

むかし、まだ「進学塾」やら「予備校」に行くのがふつうではなかった時代、義務教育の数学教師(中学校のこと)は、ちゃんと人生に役に立つものだといっていた。
だから、義務教育期間で勉強しておかないと、人生の損になる、と。

本当は、人生の役に立つから数学を教えていたのに、受験に役立つのが優先されるようになったら、人生に役立つ教え方が優先されなくなったのである。

それで、ますます「抽象化」して、だからなんなんだ?をかんがえる子供には、この上なく退屈な時間になった。

だからこんな役に立っている、といちいち具体例を挙げて説明していると、授業時間数が足りなくなって、管理職の校長に叱られることになった。

もしも校長が数学教師だったひとで、自身の教育方針だからとこんどは頑張ったりしたら、確実に教育委員会から叱られるように、管理教育体制(官僚制)だけは完成した。
もちろん、そんな面倒な校長には、教職員組合も反旗を翻す。

それゆえに、学習指導要領というマニュアル通りが、なにがなんでも「無難」なのである。

ありがたいことに、そのマニュアル通りを貫けば、成績が悪いのは生徒の責任になるようにできている。
なので、成績を上げるために、塾通いをするのは、親と本人の専らの努めになって、それが虐待だというものはいなくなった。

むしろ、生徒の日常は、課外活動たる部活と塾の両立で、親より厳しいスケジュール管理の生活に順応しないといけなくなっている。

教師の方も、過剰な課外活動たる部活が、その勤務体系をいたずらに過酷にしているけれど、授業の充実が間に合わない、恰好の理由づけにもなっている。

だから、おそらく進学校の授業の充実は、「わかる」を優先させているに違いない。

それには、先に、これがわかるとなにに便利な応用ができるのか?を教えているはずなのだ。
それから、おもむろに、教科書にある抽象的だが基礎理論の解説を始めて、その内容と応用とを常に確認して生徒には飽きさせない工夫をしていることだろう。

進学校に行かなかったわたしでも、自分ならこうして教えるとおもうからである。

子供には、人生で初めての情報接触体験が、科目別に整理されている学校の授業となるので、だいたい小学生でも高学年になると理解に差が生じてくる。
これを、よってたかって本人にインプットを試みるから、折れた子供はアウトロー方面へ向かうしかなくなる。

しかしながら、よくよくおとなが見れば、中学校卒業までの教科書の分量は、たいしたことはないのだ。

生徒たちがこのアウトロー方面に、高校になって一斉に向かうのは、高校の学習内容が急速に高度になるからよりも、むしろ、反復の機会がずっと減るからである。
すなわち、進行度合いが早く、しかも教師はより機械的で授業構成に工夫がなくなる。

工夫をした授業をしたら、時間数が足りないからだけど、専門学部卒の高校教師は、その専門科目の教授法を大学で勉強したこともない。
教授法の素人がいきなり教壇に立って、上から目線の態度で給料がもらえるのである。

私立で、中高一貫という進学校のエンジンは、上で書いた、中学3年間で全開しているので、この分のアドバンテージがあるのだといえる。

公立で中高一貫校が鳴かず飛ばずなのは、これとは違う、慣らされた中学3年間が、ムダになっている、ともいえるだろう。
だが、公立校に、学習指導要領から外れた授業を要求するのは、その上の教育委員会が許さないという構造になっていることを思い出さないといけない。

つまり、公立の中高一貫校とは、最初からそんなもん、なのである。

すでに21世紀の後半を現役世代の社会人として生きていかないといけない、いまの子供達になにをどう教えるのか?という問題は、完全にサバイバルにおけるアドバンテージづくりを意味する。

そのために数学を基礎とした、化学や物理は、20世紀の日本が得意とした分野とはちがった分野なのか?どうなのか?をおとなが吟味しないといけない。
もはや、道具はコンピューターからA.I.に移っている。

役に立つ数学を早いうちに教えて、本人たちを納得させるのがおとなの役目になっているのだ。

逆に、間に合わなかったおとなに対しての再教育という重要な側面もある。
すると、これらは、ベストセラーの種なのである。
学校の教科書は、確実にカバーしないし、教師も教えない。
ましてや、進学校の教師も、「秘密」ゆえに公開しない。

ついでに、自習ができるように、学習用電卓の使い方とあわせて解説してあればなおよい。
それなら、まだ、社会人になっても「生涯学習」の対象になるからである。

どんな会社にも、数字はあふれているけれど、これを扱うのは経理部だけだ、というのは、とっくにナンセンスだ。
文系だからでは済まされない、数字の妙は、その応用にこそあるけれど、基礎とのセットで学ぶ機会がないのである。

自己責任とは自己防衛の時代

子供のころ、綿棒を耳に入れてはいけません、とアメリカのパッケージに書いてあることを、皆で嗤っていたことがある。
綿棒は耳掃除以外に、何に使うのか?がわからなかったからである。

おとなが、ポツリと、耳に入れたひとが何らかの原因で事故ったんだよ、きっと、といって、へぇ、そんなものかとその場はそれで終わった。

アメリカには、懲罰的な意味で、超高額賠償命令がでるから、企業は自己防衛で、注意書きをすることにした。
「ここに書いてある」ということでの、責任回避を計画したのである。

いまは、もっと進んで、900ドル以下の万引きは、「軽犯罪」とする法律が通ったので、カリフォルニア州とか、あるいは同じ法律が通った英国で、兆円単位の被害となって、とうとう町から小売店が消滅しはじめた。

なんでもかんでも、通販で購入するしかなくなってきたので、こんどは配送が間に合わなくなっている。
ただし、消費者は、配送料も負担しないといけないので、生活費が高くつくことになった。

それで、小売店がある町(治安がいい町)に引っ越すとか、まるでマンガのような笑い話が、嗤えない現実となっている。

食料品小売店の娘だった、マーガレット・サッチャーが健在だったら、どんなに嘆いたか?ではなくて、絶対反対の強烈な行動をしたはずなのだ。

軽犯罪?とんでもない、社会の根幹である、所有権を冒涜する、許しがたい犯罪援助法です!

あゝそれなのに、保守党が議決するほどのこの体たらく。

EU離脱以来、DS:ディープステートからお仕置きを喰らっている英国では、もはやかつての覇権国の栄光は完全に過去のものとなって、一応先進国最悪の経済状況は、来年以降も当面改善する気配はないばかりか、どこまで落ちるのかがわからない。

今年5月に、イングランドで行われた統一地方選挙で、政権与党の保守党が大敗して、2025年1月までに実施される次期総選挙では、労働党に政権交代する確率がかなり高いと予想されている。

しかし、英国も日本の与野党と似ていて、保守党がとっくに共産化したので、労働党は極左的な主張でないと「ちがい」がわからないから、より全体主義的な政権になること請け合いなので、ほんとうに英国人がそんな選択をするのか?はわからない。

ようは、地獄へのコースなのだ。

すると、いまさらの「日英同盟」とは、子泣き爺に取り憑かれるようなもので、日本側が歓んでいる場合ではない。

本人には、まさかの更迭だったにちがいない、この度の岸田内閣改造(13日)で、唯一の話題が、外務大臣の交代だった。
改造4日前の9日、ウクライナを電撃訪問した林外相は、ゼレンスキー以下の要人と面談して、「復興支援」の大盤振る舞いを約束してきたばかりだったからである。

これが首相からお仕置きを喰らったはずもないのは、5月の広島サミットで岸田氏が押しつけられた「復興支援」の現地への伝達に過ぎなかったからだが、ゼレンスキー氏は広島にいたので、もしやムダな交通費をかけたことがお仕置きとなったのか?

ちなみに、バイデンもそうだが、ポーランドからウクライナに行くのに、わざわざ数時間もかかる鉄道を利用している。
あたかも、北の兄さんがロシアに行くのに鉄道を利用するのと似ているが、事情はことなる。

おそらく、ロシア側に列車ダイヤを通告しながらも、制空権がないために、念のため鉄道を利用するしかない(飛行機では危ない)と推察する。

すなわち、すでにどうにもならない戦況ゆえの、「復興支援」なのだと、5月にも書いた。
けれども、日本人がかんがえる「復興」と、アメリカやEUの戦争屋がかんがえる「復興」の意味がちがうと、馬淵睦夫元ウクライナ大使が指摘している。

戦争屋がかんがえる「復興」とは、これまでの支援の「見返り・回収」のことだ、との指摘は、そのとおりだ。
ウクライナの復興とは、あくまでも戦争屋による国家資産の分割がはじまる、ということだ。

日本政府がやるという復興支援とは意味がちがうが、ならば日本以外に「復興支援」するのは、どこか?と問えば、どこもない。
あろうことか、後始末をわれわれの資産をもってぜんぶ負担させられることが、5月に決まっていたのである。

とっくに世界の小数派になった、「G7」が、ニコニコと広島にやってきた理由は、日本の気前のよさゆえのことだけだった。

それでもって、9日、10日に開かれた、ニューデリーでの「G20」サミットは、プーチン氏と習氏が欠席するなか、史上最低水準の共同声明となって、とうとうウクライナ問題が除外された。

「G20」そのものが、世界の小数派になりつつあることを世界に示した、という皮肉な開催意義となったのである。

そんなわけで、日本国内でもふつうになった、自己責任とは、結局は、個人の自己防衛が必要だという時代の到来を告げているのである。

つまり、他人依存は悪である、という価値観のことだが、政府はダブルスタンダードの全体主義なので、自己防衛のために政府依存をせよ、といっている。

これが、自公政権の本質で、残念ながら英国人同様に、われわれも総選挙での投票先に困るのである。
まともな野党が欲しい。

この需要が、さいきんの保守系新党発足ラッシュになっているが、大同団結できないのは、「保守の定義」が定まらないからである。
全体主義に対抗するのは、唯一、自由主義なのに。

ハイエクが提唱した「新自由主義」が、全体主義者の攻撃で、まったくちがう概念の「悪」にさせられたのが、修正できない・しない、からこうなる。

どちらにしても、時系列的に間に合うのかどうだかわからないけれども、日本三分割の憂き目と、アメリカの復権たるトランプ再選・アメリカ(軍)再建、のタイミングが、日本人の運命を決定するのはまちがいない。

成り行きだけでいえば、とっくに「亡国」ルートに乗っている。

自公政権は、トランプ再選で命運が尽きるけど、日本人の命運はトランプ再選だけという他人依存が唯一の希望となってしまったのである。

ゲリラ戦にならないで

アメリカどころか世界秩序を破壊したい、共産化したアメリカ民主党の政策が、日本のフラフラした内閣とはちがって、確実さをもってその破壊を続けている。

そうやってみたら、岸田内閣の第二次改造とは、アメリカ民主党の要請に対する「抵抗」なのか?
われわれは、言われた通りにできない、「ほらね、こんなメンバーが大臣ですよ」という意味で。
とはいえ、「ほらね、こんなメンバーが大臣ですよ」と、シッポを振っていいなりになる、という意味かもしれない。

残念ながら、後者の匂いがするのはわたしだけか?

ソ連が勝手にコケて、90年代に気がつけば一人勝ちになったアメリカの驕り高ぶった興奮状態で書いたのが、いまに続く「グランドストラテジー」だと書いてきた。
いったんこれを止めたのが、トランプ政権の4年間だったけど、執念で元に戻したのが第三次オバマ政権たる現政権である。

パパ・ブッシュ ⇒ クリントン ⇒ 息子ブッシュ ⇒ オバマ と続く政権は、あたかも共和党と民主党が政権交代をしてきたようにみえるけど、じつは、戦争屋(ネオコン、ネオリベラル)という一点で、同じ穴のムジナなのであった。

戦争屋たちに真っ向歯向かうトランプ氏の「異常」は、アメリカ支配層(戦争屋=エスタブリッシュメント)を震撼させて、その手段を選ばぬ執拗な排除(あからさまな司法の武器化による「政治的魔女狩り」)に余念がないのは、当然といえば当然なのである。

さてそれで、ウクライナの情勢は、いよいよ、という段階になってきているようである。
ロシアがオデッサを占領したら、「停戦」となるかが注目されている。
黒海の港湾都市、オデッサを失ったらウクライナは内陸国になってしまう。

なお、ウクライナが勝利する、というシナリオはもはや存在しないし、それをいうのは、「うそ」である。

アメリカやEUやわが国が支援してきた、莫大な金額の援助が、どこにいったのか?についての調査レポートがアメリカから発表された。
驚愕の内容は、多くの支援金・物資がどこにいったのか?わからない、であった。

この手の話には必ず、「横流し」、という問題が出てくるもので、そのトップ10も発表され、筆頭にゼレンスキー氏の名前が挙がっている。
わが国の終戦直後の経済混乱でも、米軍(援助)物資の横流し問題は、常識、だった。
「MP」が目を光らせていたのは、このことである。

もちろん、ウクライナという国が、汚職の汚染度でヨーロッパ最高度であったことも常識だ。
ソ連時代、高度テクノロジー国家として特別扱いをされていたので、ソ連「解体」にあたって、もっとも旨味があったのがウクライナだったという皮肉がある。

これに、ナチスが欧米資本と張り付いたのである。

ゼレンスキー氏は、オルガルヒ(新興財閥)の傀儡だといわれてきたが、彼を大統領の座に据えた、そのオルガルヒの代表格、コロモイスキー氏(ウクライナ第二の富豪で、私兵「アゾフ大隊」のオーナー)が、なんと逮捕・拘留されていた。

その前に、このひとのウクライナ国籍は剥奪されていて、二重国籍だったイスラエルだけが残っている。

アメリカ連邦下院のマッカーシー議長が12日、とうとう「バイデン弾劾調査の開始」を発表したから、これまで以上に強力な議会調査が行われることが決まった。
本調査の担当は、司法委員長、政府監督委員長、歳入委員長の3人を議長権限で指名した。

すでに、バイデン氏がオバマ政権の副大統領時代に、コロモイスキー氏が関係するガスプロム社の汚職問題で、捜査の指揮をとっていたウクライナ検察長官を更迭するようにしたのがバイデン氏だったことが判明していて、その直前に子息のハンター氏がこの企業の取締役に就任していた。

バイデン氏は子息と共に、報酬(=賄賂)を受けていたこともすでに銀行口座の下院議会調査で明らかになっている。

そんなわけで、コロモイスキー氏は、今頃になって、とかげの尻尾切りをされている可能性もある。

民主党が仕組んだ、トランプ氏への「疑惑」の根源が、じつはぜんぶバイデン一家の疑惑であったのを、トランプ氏へおっかぶせていた悪辣が明らかになっている。

こんな事件は、ウクライナ国民に伝わっていようもないだろうけど、ウクライナ軍の消耗が激しく、強制的な動員(徴兵)が、とうとうEU圏に逃げたウクライナ人の強制帰国(送還)になって、適齢期のウクライナ人がろくな訓練もなく兵に仕立てられて、前線に送られている実態がある。

ここで、不思議なのは、ウクライナ側がゲリラ戦をやらないことである。

正規軍は、ゲリラ戦に弱い。
アメリカ軍がアフガンから撤退したのも、ソ連軍がアフガンから撤退したのも、あるいは、旧日本軍が大陸で苦戦したのも、ゲリラ戦に正規軍は対応できないからである。

ゲリラといえば、ベトコンが思い出されるように、民衆の中に消えてしまうものだ。
つまり、民衆と一体ゆえに、正規軍では相手にならないのだ。

ウクライナにこれがない。
ないのは、「地の利」だからではないのか?

民衆は、この戦争の意義が腑に落ちていないのではないか?
なので、ウクライナ・ゲリラは身を隠すところがない。

どちらにせよ、「次」は、イランの核開発の進捗にからめた、イスラエルの行動、という場面に移る。
これが、アメリカ大統領選挙を中止に追い込むのか?

ペルシャ湾への大部隊派遣で手薄になった、台湾有事と日本分割の大混乱が、アメリカ大統領選挙を中止に追い込むのか?

日本でも、ゲリラ戦は起きないだろうから、日本人の命運は風前の灯火となっている。

注目のスロバキア総選挙

テレビを一切視聴しなくなって、新聞の購読もやめたら、自分がどんな「情弱」になるのかと思いきや、あんがいと平静を保っていられるのは、SNSが存在するおかげである。

逆に、昭和レトロな食堂やらで、テレビのニュースをたまに観ると、愕然とするほどのプロパガンダがずっと垂れ流されているか、GHQによる「3S政策の永久的継続」で、ニュース以外なら、スポーツ番組か、スクリーン(娯楽)か、セックス(食欲などの生理的欲求を極大化する:例:グルメ番組)しかないことに気づく。

わたしのこれまでの人生で、趣味に「スポーツ観戦」というジャンルはなかったけれど、当時の『横浜ベイスターズ』の優勝年には、おおいに盛り上がったものだった。
川崎球場に本拠を置いていた、『大洋ホエールズ』のあまり熱心ではないファンで、あの勝ち負けがハッキリした、「大味」なチーム・カラーが妙に好きだった。

それに、川崎球場へ連れて行ってもらえば、ほとんど必ず1塁側内野と外野の境界あたりで、酔って喧嘩をするおとなを観ることもできた。
「やっぱりいた!」と内心よろこんでいたのである。

そんなファン層なのに、横浜に移転したら、まるで雰囲気が変わって、なんだか洗煉されたおすましさんになったのに驚いた記憶がある。

いまは「ハマスタ」と呼ばれて、妙に増築されたけど、その前は、「平和球場」で、横浜公園全体の成り立ちの最初は、「横浜遊郭」だったと前に書いた。
開港以来、この場所は、変わることなく「3S」のうちのなにか?を開催するところなのである。

この意味で、絶妙な場所を選定したものだ。

なお、念のため、遊郭の発起人はオランダ公使だったということになっている。
不平等条約を締結した各国は、オランダを筆頭にいわせただけだろう。
ヨーロッパから、インド洋を越えてやって来る船員たちの「保養」は、どん詰まりの日本だからこそ、より重視されたという。

「荒くれ者」の船員たちが、暴れて日本人子女に迷惑をかけてはいけないから、秩序ある息抜き施設が必要、というのが、大義名分どころか真剣な実需としての要請だったのである。

海賊からはじまる、船員の歴史をみれば、「陸に上がる」ことの歓びは、すこしでも長いクルーズを客として経験してもわかるものだ。

しかして、日本人は敗戦以来、一度も戦争を経験していないので、とっくに戦争のリアルさを忘れてしまった。
これがまた、いつも戦争をやっているアメリカ人でもだまされるやり方で伝えるから、コロッとだまされるのは仕方がないといえば仕方がない。

ただし、ぼんやりテレビのニュースなんぞを観ていれば、それはあんがいと「能動的」だともいえる。
自分からかんがえることをやめたら、なんでもいい、という無責任になるからである。

このメリハリがなくて、スポーツ観戦にだけ興じるのは、わたしから観たらただの阿呆の集団なのである。

さてそれで、欧米人の戦闘に、「偽旗作戦」という常套手段がある。

道徳的な観念が強い日本人には、「汚い」「ずるい」という理由で、忌諱されるものだけど、それは、世界人類における日本人の傑出した特徴であり、世界人類共通の道徳認識ではない。

明治新政府が汚い欧米人に真似て、「勝てば官軍」と錦の御旗を振り飾ったのは、平安末期の情勢も意識してのことだから、あんがいと1000年前当時の日本人は世界標準だったのである。

近年の汚い戦争の最新版が、ウクライナ戦争だ。

アメリカは、ずっと汚い戦争をやってきたけど、この戦争のインチキさは格別だ。
なにしろ、アメリカが仕込んだゼレンスキー政権とは、ナチス政権だからである。

なお、「ネオナチ」だというひとがたまにいるけど、まちがいである。
正真正銘の、「ナチス」だ。

こうしたことの経緯は、日本人はしらないが、近隣諸国ならしっている。
そのひとつが、ハンガリーだ。

そして、かつては「チェコ・スロバキア」だった、いまの「スロバキア」人たちも、ウクライナのナチス事情をしっている。
これが、この秋の総選挙でどうなるかが注目されているのである。

現政権は、EU寄りで、その補助金をほしがる乞食政権である。
ゆえに、しっていても口にはできない。
EU官僚の心証を悪くすれば、補助金が消えてなくなるのを畏れるからである。

分離したチェコには、工業が残っている。
ソ連の衛星国支配は、域内「分業体制の強制」だったので、山岳地帯のスロバキア側には農業しかない。

これがいまだにこの地域の、EU内所得格差をつくっているのである。
ただし、農業国というものは保守的なのだ。

それで、スロバキアの左派(旧共産党系)野党は、かつての「敵」である、ナチス批判に余念がなく、それがウクライナ支援の中止という政策提言の明言になって、国民からの人気を得ているのである。

もちろん、選挙だからどうなるのかはわからないが、日本での報道が皆無な中、スロバキアの情勢があんがいと注目されるのは、EU各国のうち、東側が中心に、反ウクライナ=反ナチスの重大な秘密が漏れ出していることにある。

そんななかの6日、ウクライナ東部ドネツク州コンスタンチノフカで、町の市場(いちば)にロシアのミサイル攻撃があって、買い物中の市民が犠牲になったと西側メディが報じたが、「偽旗作戦」である。

轟いた発射音から3秒で着弾した当時の映像が、定点カメラ複数台が記録していて、北側のウクライナ側陣地からのものだとハッキリ確認されている。

なお、もっとも近いロシア側陣地は南で、20㎞以上離れている。

ウクライナ軍がウクライナ人を無差別攻撃している、という当初からの作戦は、いまも健在なのだ。
ゼレンスキー政権がいつまでもつのか?も、スケジュールにあがってきている。

必見!一般社団法人ワクチン問題研究会

7日、厚労省でおこなわれた、一般社団法人 ワクチン問題研究会 記者会見 は、全国民必見の内容だが、例によって例のごとく、たいへん残念な、報道しない自由が発動されている。

また、例によって例のごとくユーチューブではバンされる内容にあたる可能性があるため、「ニコニコ動画」で視聴するしかない。
本ブログ読者には、この研究会名で検索され、70分ほどあるが、なるべく全編を視聴されることを強く推奨したい。

蒼々たるメンバーが理事を引き受けておられるが、代表理事の福島雅典京都大学名誉教授は、下記出版物(‎創英社・三省堂書店、2019年)のプロフィールで、以下の紹介をしている。

「京都大学名誉教授。1948年生まれ。1973年名古屋大学医学部卒業。1978年愛知県がんセンター病院内科。2000年京都大学大学院医学研究科薬剤疫学分野教授。2002年京都大学医学部附属病院探索医療センター教授。2003年先端医療振興財団臨床研究情報センター長(兼任)、京都大学医学部附属病院外来化学療法部長(兼任)。2009年より現職:(公財)先端医療振興財団臨床研究情報センター長(現:(公財)神戸医療産業都市推進機構医療イノベーション推進センター長)。MSDマニュアル(旧メルクマニュアル)日本語版の監訳・監修責任、米国国立がん研究所が全世界に配信する、がん治療に関する世界最高最新のデータベースPDQの日本語版総責任者でもある」。

 

「現役」は、研究費の配分で国に楯突くと「干される」という、ヤクザまがい(「マフィア化」)のことをされるものだから、国家機構に逆らう「バカ」はいなくなった。

それゆえに、「名誉教授たち」が、声をあげるしかなくなったのである。

もちろん、研究費に関しては、「役に立つもの」という一言がその選定基準に入り込んだために、理系音痴甚だしい「高等文官」が仕切る役所では、文系が理解して「役に立つ」研究プランにしか予算がつかなくなった。

この一見もっともらしい「役に立つもの」とは、結局のところ、「目先の研究成果がでるもの」という解釈になったので、「海のものとも山のものともつかぬ」ような研究に予算が回らなくなった。

しかし、世界の「アッと驚く」研究成果こそ、この海のものとも山のものともつかぬ研究からうまれる常識がある。

つまり、わが国の研究体制をわざわざ壊すことを、国家総合職たちがこぞってやっているのである。

当然だが、国家総合職に、自分でかんがえる能力はない。
だれかにいわれたことを、忠実に実行するしか能がないひとたちなのだ。

すると、だれがこんな命をくだしたのか?

それがまた、90年代のアメリカのグランドストラテジー(DPG:国防プラン・ガイダンス)なのである。

つまり、われわれ日本人の生活のあらゆる分野に、アメリカの国家戦略が影響している。
しかも、その根本が、アメリカ一極覇権主義の永遠なる維持、という、おぞましさなのだ。

これは、アメリカが世界を支配する、究極のグローバル全体主義のことで、その支援者達が、ソロス財団であり、世界経済フォーラムであり、ビルダーバーグ倶楽部なのである。
つまり、このときのアメリカとは、アメリカ合衆国を乗っ取ったひとたち、という意味なのである。

むろん、こんな希望がいつまでもかなうはずもなく、そのせめぎ合いがアメリカでも、ヨーロッパでも、あるいはアフリカや南米でも起きてきた。

グローバル全体主義者たちは、これを、「反乱」と規定するが、人類一般にとっては、「生存権をかけた闘い」となっている。

たとえば、アメリカ・ヴァージニア州で、共和党が州知事以下4タテ(副知事、州務長官、州司法長官、議会)勝利した成果として、娘が学校のトイレで自称女子にレイプされたことに抗議した父親が、逆に警察と教育委員会によって、「国内テロリスト」として逮捕・監禁された2021年の事件で、このたび州知事が恩赦したことがニュースになっている。

ちなみに、州法に抵触した犯罪は州知事が恩赦の権限をもっていて、大統領は連邦法に抵触したものだけしか恩赦できないのが、アメリカの仕組みである。

今回の会見では、福島雅典代表理事による舌鋒鋭い言い方に、「殺人」という単語まで飛び出している。
けだし、エビデンスに基づくので、失言ではない。

彼の怒りは、終盤においてあらゆる社会問題にも及ぶが、それがアメリカのグランドストラテジーなのだと思えば、一直線につながるとも言い添えておく。

破れたグランドストラテジー

もっとも基本的な国家戦略のことを、グランドストラテジーという。

世界各国は、当然にこのグランドストラテジーを描いていて、その達成に向けての努力が政治の仕事として実行されていることになっている。

よって、国民は、このグランドストラテジー策定に参画しようがしまいが、この影響から逃れることはできない。
たとえ個人が政治に関係しなくとも、その生活が政治の影響から逃れることができない、という現実のことである。

それで、民主主義の発明によって、国民参画を合法化して、グランドストラテジー形成のコンセンサスをとろうということになった。

こうして民主主義国家のグランドストラテジーが、国民の意思と合致する根拠となったから、近代民主主義国家のグランドストラテジーは、逆にかつてなく強固なものになったのである。
そうして、この「強固さ」が転じて、「国民への強制」へと変異しだしたのが、いまという時代なのである。

グランドストラテジーと言いにくければ、「国是」と言い換えてもいい。

この国是が、地方に浸透して、ある地域なりのコンセンサスともなれば、それを「郡是」(ぐんぜ)と呼んで、そのまま会社名にしたのが、「グンゼ:GUNZE」である。
具体的には、京都府何鹿郡の「郡是」を具現化するために設立された会社であった。
時は、1896年(明治29年)で、日清戦争の直後である。

ならば、三国干渉で、「臥薪嘗胆」が国是(グランドストラテジー)となった時期である。

わが国の産業は、重化学工業にほど遠く、繊維産業が全盛期となる時期だった。
その中心が、養蚕を介した「シルク」であったのだ。

わが国の養蚕の歴史は、当然に古く、弥生時代までさかのぼるという。
例によって、オリジナルは中国だとされている。

いわゆる奈良時代の、「租庸調」では、「庸」と「調」が税として絹を対象としていたから、基本物資であったのだ。

その伝統的な基本物資が、わが国の近代化の過程では重要産業となった。

これには女工の手が必須だったので、当初器用な女工には家が建つほどの高給が支給されていたし、健康管理も万全で、寄宿舎内には学校も設立された。

「哀史」になるのは、ずっと後のことである。

企業たる、グンゼのグランドストラテジーが、「郡是」からであって、その上位に「国是」があった。
これがわが国の資本主義泰明期と言われる時代における、発想と行動の順番だったのである。

それから、財閥が形成されて、国内の政商から、国際的なシンジケートへと発展すれば、「国策会社」という存在があからさまになるのである。
これを支えたのが、大銀行であった。

政府が税収によって運営されてはいないように、銀行も預金を貸し出すという仕組みになってはいない。

銀行の資金の調達は、銀行間で行われているし、これを中央銀行が円滑にしている。
銀行が破綻するのは、自身の信用創造力を上回る貸出に失敗したときで、それは貸金業として読みを外したときのペナルティにすぎない。

ただし、預金者が預けた預金が還らないと、預金者の生活が破綻するので、どうするのか?という問題がつきまとうのである。

このとき、預金とは二通りあって、ひとつは預金者が預金しか預けていない場合で、もうひとつが、預金者がその銀行から借入をして、預金(=借入金)が増えたひとをいう。
もちろん、借り入れたカネは取引先に振り込まれて、その取引先の預金が増える。
借り入れたひとの預金から、一瞬で消えても、借入残高があるというパターンである。

こうした取引が、同じ銀行内で実施されたなら、銀行自体のおカネの量はなんら変わらない。

Aさんの借り入れ1000万円が、何かの購入先B社の口座に1000万円として記入されるだけなのだ。
すると、銀行にとっては、Aさんから1000万円の返済を受けることが、商売そのものとなっている。

あたかも、銀行にAさん向けの1000万円が最初からあるかのように見えるけど、銀行はAさん、Bさんのそれぞれの通帳に「1000万円」と印字すればいいのである。

そんなわけで、個人も企業も、銀行に依存して生活していた。
「株式」や「債券」をわざわざ買う必要もなかったのである。

一方で、企業側には株式を発行する動機と、債券を発行する動機があった。
資金調達の上で、大きな金額を集めるときに、銀行からの借り入れでは煩雑だからである。
それで、持ち合いという方法なら、行って来いの関係ができて、それぞれの経営者には安定的な資金になったのである。

しかし、「株式」や「債券」に、相場というものができて、売買されるようになったら、持ち合い分の評価を帳簿に記載しないといけなくなった。
ために、株価や債券価格が気になることになったのである。

それが嵩じて、株価で換算した「企業価値」が、一人歩きするようになった。

ために、グランドストラテジーを丁寧に策定して、企業価値を高める努力ではなくて、目先の評価が重要になったのは、国家のグランドストラテジーが行き詰まったからである。

特にわが国の場合、90年代にアメリカのグランドストラテジーが、よりわが国への統制を強めると決めた(DPG:国防プラン・ガイダンス)ので、わが国は国家として身動きが取れなくなった。

それがまた、民間経営の自由度を削ぐための、「自由化」やら「改革」になって縛りつけたのである。

ならば、わが国のサバイバルとしてどうするのか?といった、別のグランドストラテジーがないと、もう存在できないほどになっているのである。

アメリカの「侮日派」

1954年(昭和29年)12月10日から、翌年3月19日までのわが国は、第一次鳩山一郎内閣(日本民主党)だった。
副総理、外務大臣は、1945年9月2日に東久邇宮内閣の外務大臣として降伏文書に署名した重光葵であった。
なお、この人は元来の職業外交官で、「人種差別撤廃論者」であった。

それで、戦時中は、東條内閣、小磯内閣の外務大臣を引き受けて、「大東亜会議」の成功に奔走している。

ちなみに、わが国の降伏文書に署名した「全権」は、政府を代表した重光外相とは別にもうひとり、軍(大本営)を代表して、梅津美治郎参謀総長がいた。
政府と軍は、別だったのである。
戦後教育は、このような手続き上の重大なことも隠蔽している。

さてそれで、あたかも重光氏がピエロであるかのような評価をする日本人がいるが、民主党トルーマン政権から代わった、共和党アイゼンハワー政権のダレス国務長官に、「日本は自主防衛するから、米軍は6年後に日本から撤退して欲しい」と面と向かって述べた大臣であった。
ダレスは、「お前たち日本人に、そんなことはさせない」と一蹴したという。

以来、日本の外交官・外務大臣で、重光のような度胸と見識のある人物は絶えてしまったのである。
降伏文書に調印した後、「願はくは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多さを」と詠んだ心境は、お見事である、と伊藤貫氏はその著作に書いている。

じつはアメリカの衰退は、ベビーブーム世代が引退をはじめる、2011年から30年にかけてがピークになる。
アメリカは、日本も酷いが老いていくのだ。
このタイミングと、政府債務の拡大膨張が、反比例する。

つまり、アメリカの覇権はとっくに財政的に耐えられなくなっている。

これに、BRICsと加盟を決めたサウジによる、ペトラダラーの終わりで、アメリカドルは、その通貨価値の根拠を急速に失うこととなる。

しかして、アメリカのグランドストラテジーは、これらの事情を無視して、アメリカ一極支配の世界を半永久的に継続させることに集中している。
それが、ロシアと中国の封じ込めと、日本とドイツに自主防衛させないで属国におきつづけることなのだ。

もちろん、アメリカ一極主義は、他国の反米連合を形成させる動機となるし、それがBRICsとして現れてきたのである。

したがって、アメリカの知日派の中には、親日的知日派と、侮日派とに分けることができる。

この場合、親日的知日派とは、なにも日本だけを特別視してくれている、日本贔屓ではない。
だいたいにおいて、異国文化を尊重しようというかんがえの持ち主で、そのほとんどが、リアリストなのである。
だから、世界のいろいろな地域特性(歴史や文化)に対しての理解も深い。

その一部が、親日的知日派として、日本で受け止められているに過ぎない。

すると、「侮日派」とは、やはり日本だけを侮蔑している、ということではなくて、異文化を尊重する気がはじめからない、浅はかなひとをさすことになって、こういった人物たちの特徴として、アメリカン・エクセプショナリズム(アメリカは例外的に優れている国)という思想背景がある。

この思想のはじまりは、17世紀に、英国(王)政府が押し付けた、英国国教会に反発したひとたちが新大陸に渡ってきたことと直接関係している。
つまり、彼らは、アメリカに神の国を建設しようと本気だったのである。
これが、道徳的優越感に変容する。

トランプ氏を支持するために立ち上がった、アーミッシュしかり。
そのトランプ氏も、この伝統を引き継ぐ、プロテスタント長老派の重鎮なのである。

しかし、トランプ氏はややマイルドで、「アメリカ・ファースト」はいうが、「エクセプショナリズム」はいわない。
むしろ、各国ファーストを他国に促しているのである。

それがまた、ハンガリーのオルバン首相が望んでいる、「カムバック・トランプ」の意味である。

ただし、かつて、まだ副大統領になる前のバイデン上院議員(上院外交委員長)も、「1994年から99年のための国防プラン・ガイダンス:DPG」(国防総省の機密文書がリークされた)において、日本とドイツを属国に置くその戦略に、「日本とドイツの横っ面を張り倒すようなものだ。(中略)日本とドイツをこのように侮蔑し、敵対視することが、本当にアメリカ外交の利益となるのだろうか」と、今となっては信じ難いほど「まとも」な見解を発表している。

日本人にとって、バブルとバブルの崩壊が、アメリカの対日戦略発動と合致していることを、ドイツ人にとっては、東ドイツとの統一も忘れてはならない。

侮日派が、実際のところのアメリカ外交を牛耳っていて、これには「超党派」の議員団も賛同している。

その対日(および対独)重要戦略は、「エントラップメント」(永遠の罠にかける)というもので、なんとしてもこの2国は、これら国民の自由にさせない、という第二次大戦後のアメリカの「誓い」ともなっている。

トランプ政権は、この誓いを破棄して、安倍氏に「日本独立を促す」戦後秩序の破壊を試みた。

これが、アメリカの主流をなす侮日派からの大反発を呼んだのである。
しかし、残念ながら、日本側に、「独立の気概も準備もなかった」のである。

24年の大統領選は、2度目の日本独立のチャンスだが、やっぱり気概も準備もしないのが、わが国の実態で、よくよくそれは、国内の侮日派が根を張っているということなのである。

911から22年が経った日に。

アナログ・トランスフォーメーション

DX(デジタル・トランスフォーメーション)を政府がいいだしたから、これからはDXの時代なのだ、という阿呆な民間企業経営者が存在するのに唖然とする。

政府は必ず失敗する、という法則をしらないで、民間企業の経営ができるのは、その企業の株主達もきっと阿呆にちがいない。

もっとも、わが国の上場企業株式は、すでにもう半分が日銀(ETFという投資信託)で、残りの半分も外資(外国人投資家)が所有するに至っているから、日本企業の所有者の国籍はとっくにあやしい状態にある。

日銀は「沈黙の株主」だから、「ものをいう株主」とは、外国人投資家のことになっている。

そんなわけだから、いまの日本企業の経営者たちは、外国人株主の顔色を見て経営しているし、もしも外国人投資家に何かを主張しようとしたら、日本政府の意向をいえばなんとかなると思い込んでいる。
その日本政府も、外国巨大企業に買収されてマフィア化しているのに。

だから、いまや日本政府も「逆神」になった。

もう決して、『大魔神』のように庶民(だいたい女と子供であった)を助けるようなことはない。
むしろ、子供から先に犠牲となるようにしている悪辣があるけれど、これに気づくおとなが阿呆化して皆無になったので、政府は好き放題を満喫している。

むかし、わたしが若い頃、会社の仕組みを「システム化」するように命じられたことがあった。
この「システム化」とは、コンピューターを使った自動化のことだった。
当時は格好をつけて、オフィス・オートメーション(OA)と呼んでいた。

さすがにとっくに、ガリ版印刷の時代ではなかったけれど、ガリ版印刷が廃れたといってもまだ10年経っていなかった。
専用紙に鉛筆やらシャープペンシルで書いた原稿を、特殊なドラムに巻き付けると、隣のドラムに焼き付け転写されて、印刷原板ができたものを「FAX」と呼んでいた。

この原版を謄写印刷機にかければ、ガリ版よりも楽に印刷できたのだった。

それが、一枚あたりにしたらやたら高価な、いまのコピー機全盛になった。
「ゼロックス」が名詞ではなくて、動詞の「ゼロックスする」になった。

コピー機の代金よりも、消耗品たる紙とトナーインクの方に売上の重心を置いたのは、あらゆるビジネスの基本モデルになった。
「ピカ一回いくら」という計算には、紙代とトナー代を足さないといけない。

ゼロックス社はコピー機を製造販売しているようで、じつは、紙とインクの販売商社だった。

そのゼロックスのコピー機設計部隊が、チームごと売り買いされて、ライバル会社を渡り歩いていてた。
明日はキャノンか?それともリコーか?そうやって、またゼロックスに帰ってもいた。

その都度、技術者たちの所得が上がったもので、カラー・コピー機の開発ではもっとあからさまだった。

ところが、ユーザー側の会社では、「アナログ・トランスフォーメーション」に熱心だったのである。

これはいまではあんがいと、灯台下暗し、である。
紙に書いて、うまくいかない社内情報の共有が、どうしてコンピューター化でうまくいくものか?という思想は、いまさらに正しいのである。

それだから、どういった情報の社内流通の実態があるのか?をずいぶんと調査させられた。
すると、二通りの流通経路があるのはすぐにわかる。
・組織図通りのフォーマルな流通
・組織図にない、社員やらの個人のつながりによるインフォーマルな流通

フォーマルな流通は、組織図通りなので、上意下達か下位からの報告という二通りの流れになる。
インフォーマルな流通は、組織図とは関係のない斜め横やらさまざまなな人間模様を通してできている情報網で、その都度、という形式もとる柔軟性がある。

結局、会社が予算をかけて構築するOAとは、やっとフォーマルな情報網の、上位下達でしかないことがわかった。
下位からの報告は、管理職の訓練度合いや社内派閥によって、場合によっては握り潰されることもある。

いったん握り潰された経験を下位が経験すると、もう二度と報告の対象にされないこともある。
それで、上層部に下位の底辺情報(だいたい接客情報)が、あがらない事態ができる。

よって、「飲みニケーション」という方法が、原始的でインフォーマルではあるけれど、もっとも早く正確な情報網を構築する。

ならば、外資ではどうなのか?といえば、インフォーマルな情報網の「全盛」なのである。
彼らの飲みニュケーションは、ボスの自宅で開催される週末のパーティなのである。
この結束は固く、いわば「一蓮托生」となっている。

しかし、日本的でないのは、柔軟性に欠けることであって、仲間内と外との排他的な関係にある。

これが、巨大派閥を形成して、企業そのものの経営を牛耳るのである。
よくある、外国企業の不祥事がこのパターンで現れる。

昨今、わが国の企業で、創業一族による不祥事が目立ってきたのは、一種の欧米化の悪い意味での顕在化であろう。
ただし、淘汰の対象になるのは、まだ経済原理が健全に作用しているともいえる。

デジタル・トランスフォーメーションの成功には、真っ先にアナログ・トランスフォーメーションの成功が欠かせないが、それがいまだに飲みニケーション依存だけならば、どうしてくれよう?というレベルなのである。

破局噴火の破局のはずが

最近、国内日本史ブームを超えて、縄文時代が世界的に注目されている。

それは、遺跡からの発掘遺物の発見があるからで、これまでいわれてきた世界4大古代文明よりもずっと古いことで、注目されているのだ。
もちろん、世界4大古代文明といえば、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河の各文明を指す。

エジプトはナイル川、メソポタミアはチグリスとユーフラテスの川の間、インダスと黄河はそのまま川の名前になっている。

つまり、人類の古代文明は、川と共にあった。

しかし、これらよりも古いことがわかっている縄文時代は、広く日本列島に起きたものだから、特定の川とは関係がない。
むしろ、文字がなかった、ということ一点で、文明とはいえないという説が主流だった。

ところが、近年の研究で、縄文人は文字を持っていた可能性(「神代文字」や「カタカムナ」)が指摘されだして、都合が悪くなった学会は否定に躍起となっている。

どうして学会に都合が悪いのか?と問えば、わが国の歴史が、「近隣諸国条項:教科用図書検定規則(平成元年文部省令第20号)」という外交成果で、そのまま国際政治になってしまったからだ。
具体的には、これで、義務教育諸学校教科用図書検定基準(平成元年文部省告示第15号)と高等学校教科用図書検定基準(平成11年文部省告示第96号)となっている。

小中学校では、もう35年間、後期中等教育の高校で、24年間、変な歴史が子供たちに刷り込まれていて、とっくに「中年」のおとなになってしまった。

日中韓の三国で取り決めたものだから、古いもの自慢の中に学問成果も巻き込まれて、中韓の方が常に「古いはず」という定義を守ることが、わが国の学者の仕事になった。

また、そうやって何がなんでも日本の方が新しい(劣っている)ことにすれば、文科省からの研究費がもらえる。
つまり、日本人は学問を乞食の趣味にしてしまったのであるけれど、本物の乞食がいなくなって久しいから、この手の学問をやっている学者だけが、本物の乞食になったのである。

その本部が、東大だから、およそまともな親のもとに育った子供なら、決して東大に行って歴史を学ぼうとするものはいない。

「生涯学習」が重要になってきたのは、文科省から独立しているカルチャーセンターの授業が「まとも」なのに、生徒たる高齢者(近隣諸国条項前に子供だった)が気づいたからだし、教える教授陣はいまどき大学でも言えない本音をカルチャーセンターでなら言える学問の楽しみを見出したのだ。

逆にどうしても乞食の親分になりたいという野望があるなら、絶対に東大に入学しないといけないのである。

それでもって、歴史という学問を修めるよりも、最下位でいいから文部科学省の役人にキャリア入省しさえすれば、本物の乞食の親分になれるのである。
この意味で、前川喜平氏は、もっとも本物の乞食志向を貫いた人物として名前を残すことになったので、文部科学省として誇らしいことにちがいない。

それが証拠に、文部科学省は、近隣諸国条項をなんとか破棄すべし、という提言を一度もしていない。
もちろん、乞食の親玉を束ねる自民党も同様である。

さてそれで、地球規模の大噴火というのは、歴史的事実としていくつもあったことである。

30万年に一回という、イエローストーンの破局噴火は、「前回」のものとして、北海道でもそのときの火山灰が地層から発見されている。
「破局噴火」とは、マグマが一気に噴出する壊滅的な噴火形態をいう。

アメリカ国立地質学研究所は、前回から30万年が経過している現在、火星移住のためのNASA予算よりも優先させてイエローストーンの状況を測定している。
予想される噴煙被害は、噴火後24時間で地球を一周(自転速度とおなじ)するし、マッハの速度で太平洋を高さ300mの津波が襲うことになっている。

まさに、破局である。

1%の誤差でも3000年になるから、人間の人生なんて、惑星たる地球レベルの活動では無視できる時間数なのだ。
もちろん、イエローストーンが爆発したら、人類の排出する二酸化炭素の数万年分どころではない量が、一気に放出されるけれど、地球を覆う火山灰で数万年から10万年ほどは太陽光が地上に当たらない状況が予想されている。

つまり、地球は温暖化ではなくて、氷の星になってしまうのである。

これよりずっと小さいけれど、わが国では、約7300年前に「鬼界カルデラ(アカホヤ)の破局噴火」があったのである。
いまもある、種子島と屋久島は、このカルデラの外輪山だといわれている。

それで、九州は全滅したのは確実で、四国も半分ほどは全滅を逃れられなかったという。
この爆発から、1000年間、九州には人間が住んでいない。
なお、青森など東北の地層から、アカホヤの火山灰が見つかっている。

実際に、福井県の水月湖湖底堆積物の研究から、1995年より7325年前にアカホヤ火山灰が降り積もったことが確認されて、「世界標準時」となったので、近隣諸国条項も通じない。

「世界標準」こそが、近隣諸国条項潰しのもっとも効果的な根拠なのである。

一方で、朝鮮半島には、12000年前から5000年間人間が住んでいた形跡がなく、突如、半島南部に人が暮らし始めたことがわかっている。
それが、九州や中国地方から逃げた縄文人だったのではないか?と。
なぜなら、このひとたちは、米を栽培していて、そのコメのDNAが、日本のものとおなじだからである。

さらに、揚子江の河口ではじまったという、水稲栽培も、時期的に鬼界カルデラの破局噴火と一致している。
これも、まさか、縄文人たちが南に逃げてのことなのか?

地球には、自転に伴う偏西風が必ず吹いているので、火山噴火の猛毒ガスから逃れるには、風上に向かわないといけない。
すると、朝鮮半島の南岸や揚子江の河口付近というのは、理にかなっているのである。

しかしながら、このような「トンデモ説」は、当分、学会の公式見解になろうはずもない。

いまや、「日本史」も外国の、たとえばオーストラリアとか、縄文土器が発見されている南米とかの学会が頼りになっている。